【日本人を科学する】 
 

≪私たちはどこから来たのか≫(隈元浩彦 著)からの考察
 
 表題の著者の隈元浩彦氏は、毎日新聞の記者であり、“あとがき”には『本書は私が『サンデー毎日』編集部に在籍中、同誌(九七年三月三十日号〜十月十二日号)に連載した記事をもとに再構成したものである』と、『人類学だけでなく、考古学、歴史学、日本語、食などからのアプローチも試みた』と、あらゆる分野の学者からの見識を横断的な考察を加えています。

 しかし小生の考察は今回も例にもれず、“シロート考え”の問題提起を以下に起こすこととなりました。まず筆者は、遺伝子から“我らのルーツ”を推し量り進めて行きます。小生の【休憩室≪別館≫】の前回にも触れたDNAでの考察は、今回扱った本稿でも“縄文人と渡来人との間で無視し得ない混血ががあった”とする二重構造モデルであるとしています。今回、興味深い分野からの考察があり以下に紹介し、小生の考察も新たに書き出します。
 

≪日本先住民はATLウイルスのキャリアだった≫

 成人T細胞白血病(ATL)は、その原因がウイルスであることをつきとめられた数少ないガンの一つである。言い方を変えれば、このATLウイルス(HTLVとも呼称されるが、ここではATLウイルスと統一したい)ほど、ガンとウイルスとの関係が劇的に明らかにされたケースはほかにない。
 このウイルスを発見したのが京大名誉教授(ウイルス学)の日沼頼夫氏である。
 中略
 「ATLウイルスに感染している人、我々はキャリアと呼びますが、こうした人たちを調べていったら、地域的な偏りがあるんです。九州、沖縄の人たちに非常に多い。このウイルスは垂直感染、母親から母乳などを通じてうつるわけです。唾などで感染しない。それで、さて、この地域差は何だろうな、ということになったんです」
 後略

≪キャリアは日本にしかいない≫

 「初めはキャリアの人の祖先が外から来たと思ったのです。単純に言えば、一番近い中国あたりからではないかとね。ところが、中国ではキャリアの人が見つからない。厳密に言いますと四人見つかったのですが、いずれも日本人の関係者でした。韓国でも状況は同じ。その一方で、国内を詳しく調べていくと、何も九州、沖縄とかだけではなく、北の方でも海岸沿いとか離島に多いことが明らかになってきた。考えましたね」


【原始、日本列島は豊かな社会だった】
 原モンゴロイド直系の縄文人がATLウイルスのキャリアであった、とする仮説を紹介した。
 それはとりもなおさず、縄文の人たちが本来の形質を守り続けてきた、ということだが、古人骨などの研究からもこの点は支持されたようだ。
 縄文に近い時代の古人骨としては、中国でも1万〜2万年ほど前のものが見つかっている。ところが、縄文人と似た古人骨はないという。
 馬場氏は話す。
 「縄文人というのは孤立してこの地に展開していたと思うのです。それに地域差もほとんどない。つまり、いわゆる他の集団との混血がなかったと考えられるわけです。数年前に中国の学者がたくさんの縄文人骨を見て回ったのですが、『驚くほど均一だ』と感嘆していました」
 有史以前、人の移動は食料が不足したり、気候などの環境の変化に伴い起されたとされる。
 となると、日沼氏が指摘するように、縄文時代の日本列島は、動かずとも食料に困らない恵まれた環境だった、という証なのだろうか―――。

  
 この項で取り上げた“ATLウイルス”については、小生が罹患した“悪性リンパ腫”の病原とも浅からぬ因縁があり、興味を覚えたのでした。その事はさておき、このATLウイルスのキャリアが薄まれば薄まるほど渡来人との混血率が高い事が言えるという事です.

≪考察1 大和民族って何?≫

 一部の偏見の塊の集団が『大和民族とアイヌや琉球の人たちとは違う』と、神話に基づく本州在来の者の血筋を尊ぶ論調の人達がいます。しかし、上記ATLウイルスが明らかにしたのは、本土に住む人たちこそが、より多く混血を繰り返していて、アイヌや沖縄などに住む人こそが、縄文人の血(日本先住民)を色濃く引き継いでいることを証左しているのでは無いのだろうか?
 誤解されては困るのだが、小生は≪日本先住民≫である縄文人の子孫である事を誇らしく思うのです。そして、現代日本(日本国憲法下で生活している私たちという意味で)でその遺伝子を受け継いでいる我々は、限りなく混血を繰り返して来たし、これからも混血を繰り返すのだろう、と言える。『大和民族』と呼んで、中国や朝鮮半島の人たちとは違って“尊い”血筋だと声高に言う人たちは“日本書記”や“古事記”の神話の記述のみを信じて“天照大御神”を奉っているのでしょう。≪大和≫とは、そもそも中国の『三国志』(三国時代≪180年頃〜280年頃≫の興亡史)に記されている「魏志倭人伝」中の「邪馬台国」から由来するものと思われます。
 その三国時代の後、中国から漢字が伝わったと推測されていますが、日本の歴史区分上では紀元前300年頃から始まったとされる弥生時代は、紀元300年頃に大和政権が畿内を中心に治めたことにより、古墳時代と呼ばれることとなるのですが、このあたりの事については本稿の趣旨と離れるのでここでは詳しくは触れません。

 さて、渡来人が日本列島へと渡って来て以降、混血を繰り返して来たと述べましたが、それ以前の数万年の間(縄文文化の1万年余を含んで)は、他の集団との混血が殆ど無かったと云えます。これは、他のヨーロッパやアジアの国々と決定的に違う文明となったのです。勿論、ずっと昔、私たちの先祖と別れてアメリカ大陸を北から南下していった≪原モンゴロイド≫とも全く違う進歩の道を辿ったのでした。


≪考察2 恵まれた環境と食生活≫

 『日本列島は、動かずとも食料に困らない恵まれた環境』だった事は、≪三内丸山遺跡≫などの集落跡からも、その痕跡を見出すことが出来ます。前項でも既に触れたとおり、日本列島の自然条件は大陸と比べて過酷な環境にあります。だからこそ、豊かな自然が豊かな森を育みその森で活かされた動植物は豊富に生育しています。以前にも触れたとおり、最終氷期が終わり温暖になった列島に緯度を変え、高度を変え未だに生息しつづけている動植物があります。その変化に富んだ自然環境が、縄文文化を生まれさせたものと小生は考えます。

 既述のとおり、先人が狩猟採集の放浪の旅から定住の生活に移った契機は、手軽に採取出来る豊富な恵み(森からは堅果・海からは魚介類を)等を得、また、穀物の栽培や家畜の飼育にあったものと思われます。そこでは、地球規模での四大文明と呼ばれる文明が発祥したのです。その文明の発達は、その土地土地で必要とした言語を有し、後には、意思の伝播手段として文字の発明にもつながります。それらの文化の交流は、縄文文化の終焉から、弥生文化の波及へと繋がるのですが、ここでは、縄文時代にも伝播してきたであろう≪稲=熱帯ジャポニカ≫に触れます。

 既に弥生文化の≪稲作=水田の普及≫が渡来人によりもたらされたことは学会などでも既知の事ですが、前記、熱帯ジャポニカの普及範囲やその年代、どのように大陸からわたって来たのかの詳細については諸説あるようです。そんな中、小生は≪中国・長江≫からの稲作の伝播と同様、≪稲=熱帯ジャポニカ≫も、長江あたりから縄文の中期には伝わっていたのではないかと考えます。それらを伝えてきたのは、≪難民≫であろうと推測します。狩猟・採集の旧石器時代の移動と違って、文明が起こった後の人々の移動は“争いが起こり、住処を追われた住人が新天地を目指す=今でいう難民”と云えます。つまり、集落毎の大規模な移動だと考えます。その際、食料持参で逃げ出すのは当然ですし、勿論、行く先々で食料を入手して移動するのは当然のことでしょう。

 中国大陸からだと、東シナ海を渡らないと日本列島には到達出来ませんが、海を渡って朝鮮半島を経由したのか、陸路で朝鮮半島を渡って来たのかは判りませんが、陸路を使う場合、何故、朝鮮半島で定住しなかったのかの説明がつかないのです。先にも述べましたが、定住生活で穀物の栽培をすることとなった事による争いは、その後王朝を生み、滅び・滅ぼされの歴史を繰り返すこととなります。

 縄文中期に伝播したであろう≪熱帯ジャポニカ≫は、小規模の伝播であり、伝播後も日本列島を緩やかに伝わり、後の≪稲=温帯ジャポニカ≫と弥生文化へと進む変革の波とは、規模が違っているものと思われます。そして、時代が下った後の大陸での争いは大規模な戦争だったに違いありません。そして、大量の難民が日本列島に押し寄せたのでしょう。
 
 
≪ウイルスが語る三つの渡来波≫

ウイルスは生命の誕生と同時に発生したと考えられている。
「生物と無生物の間にあるもの」と表現されるように、
ウイルスはヒトなどの生きた細胞の中でのみ増殖し続ける。


 三万〜五万年前に、当時、東南アジアに存在した大陸(スンダランド)から、原モンゴロイドの人たちが気候などの変化に促されるようにして拡散していったとする、“エクソダス(脱出)の物語”が推定できるのも、こうした遺伝子からの研究に負うところが大きい。もちろん、すべての人類集団について論考されているが、ここではモンゴロイドに限定する。


 「モンゴロイドの人たちは一万三千年前、南アメリカに最南端にまで到達しています。で、南アメリカのペルーなどにはA亜型のキャリアの人たちがいる。僕は、この、数万年前にアメリカ大陸に渡った人たちがA亜型のキャリアだった、と思うね。で、この人たちと同じA亜型のキャリアがアイヌ、沖縄の人たちに多く見出される。そして、B亜型の人たちは、アメリカ大陸の先住民の人たちから見つからない。ということは、ベーリング海の陸橋が海中に没して海峡が出来たために渡れなかったと考えればどうですか?」
 なるほど、ベーリング海の地形の変化が、B亜型の方がA亜型よりも新しいウイルスであることを示唆しているというわけだ。
中略

 弥生時代以降の渡来の人たちは、寒冷適応を受けた新モンゴロイドの人たちで、日沼氏は、彼らはATLウイルスのキャリアではなかったと考えている。

 
≪考察3 B亜型は日本で固有?≫
 前項でA亜型の伝播ルートとベーリング陸橋の関係は納得出来る仮説だろう。しかし、B亜型が日本列島に特有のウイルスであることから、ベーリング陸橋に海峡が出来た後に伝播してきたという推論には、疑問を呈するものです。小生は、≪B亜型は、A亜型が変異したのでは無いか?≫と考える方が理に適っていると考えます。それも、縄文文化が熟成する上での日本列島での変異だった・・・と、推測するものですが、根拠がある訳ではありません。



(上掲の文中にあるアメリカ大陸に渡った最古のホモ・サピエンスの年代の最新研究の発表がありました。これらの研究成果は次々に明かされる度に発表されるものと思われます。
 また、小生の引用している書籍などにつても、新しい学説などで淘汰されている説もあることはお許し下さい。)

 
≪縄文後期における人口激減の謎≫

 それにしても、縄文後期から晩期に至る人口の激減ぶりはどう説明すればいいのか。
 「縄文時代の後期以降、気候の寒冷化の影響が進み、狩猟採集経済が成り立たなくなったと思いますね。六千年前までの気候温暖の時代は、特に東日本ではクルミなどの食料を産する落葉樹林が豊かでした。それをバックボーンに人口が拡大したと考えられるわけですが、気候が寒くなると、その生産量はぐんと落ちます。こうした環境の悪化も減少の一因になったのではないでしょうか」中略

 その一方で、小山氏はこうも付け加える。
 「単なる自然環境の変化だけだったとは思えないところもあるのです。何かが人口の現象傾向に拍車をかけたのではないか、と。アボリジニの人たちなど、各地の先住民の歴史が示唆していることなのですが・・・・」

 これまでは、多くの人類学者が、縄文人以降の人たちとは形質的に大きく異なっている、と考えていることを紹介した。それは、大陸からの影響を多大に受け、人類集団の置き換わりに近いほどの激変であった。では、なぜそうした事態が起きたのか―――。
 小山氏の抱く仮設は、この「なぜ」に答えるものとなりそうだ。

≪考察4 上記、人口減少の謎について≫

 筆者は≪はしかが縄文人の人口激減の原因だった!?≫と、当書で感染症による先住民への影響を説いた。しかし、文字の無い時代、どの感染症が原因で人口激減に至ったのかは不明のままで、推測の域を出ない。ここで小生の出番です。小生は、人口の激減の原因として上掲の≪気候の寒冷化説≫は採りません。その理由は「日本列島に住む先住民はこの気候風土に適応してきた歴史がある」し、独自の文明を創って来た歴史があるので、この説に同調することは出来ません。

 感染症の特定は小生にとっては、全く意味を持ちません。しかし、小生の興味は『果たして、だれが感染症を持ち込んだのか?』にあります。そうです、“熱帯ジャポニカ”を持ち込んだ人たち(小生の考察の殆どは推論で、根拠はありません)ではないでしょうか?先日、TV番組(NHKスペシャル“アマゾンの奥地に住む原住民「イゾドラ」”)で「文明人と接触すると、免疫がないため絶滅の恐れがある・・」とのナレーションがありましたが、このことは、日本先住民の≪縄文人≫にも当てはまる事でしょう。
 と考えたのでした。いずれにしても、免疫の無い先住民に広がった感染症の伝染こそが人口の激減の要因だったことは容易に推測されます。そして、大陸からの難民が携えた“熱帯ジャポニカ”と一緒に持ち込んだ・・・とする方が自然ではないだろうか?

 「それは何時頃で何者なのか?」の疑問については・・・。中国大陸で長江文明が興った≪夏王朝≫が確立されたBC、2000年以前と推測する。その根拠は、旧石器時代の狩猟採集生活から集落を形成して集団で穀物の栽培を始め、いわゆる新石器時代に突入する訳なのです。そして、安定した生活が保障されてきたことによる集落間に争いが起きて、それらの争いを収めるために統率する者が現れたことは、小生の自論でもあります。そして、中国大陸に興った文明は争いの後に誕生するのでした。その争いの間に一般民衆は難民として日本列島に辿り着いたのでした・・・という、小生の推論です。

 小生の推論は、前出の“ATLウイルスB亜型”の出現と拡散もこの時期だったものとするものですが、これについても根拠はありません。


【補足】

 上図の歴史区分については、別のページに違った引用の図があり、人口の推移には時代のズレがあります。資料によると縄文中期にピークがあり後期から晩期に向けて急激に人口の減少が見られます。この人口の減少は遺跡の数と集落の規模から推測して割り出されたものです。しかし、縄文時代早期から前期に住まいとしていた場所が海に沈んでしまっている場所からは遺跡の発見は僅かと思われます。瀬戸内海でナウマン象を追っていた祖先は、縄文海進の頃には高地へと移動したナウマン象を追って、移動していたに違いありませんから・・。次項に小生の推論の根拠となる図を示し、小生の推論を書き記すものです。。


≪愛媛の考古学(長井数明著)≫より

<謎の多い中期>
 四五〇〇年前を中心とする時期を縄文中期とよんでいる。愛媛ではいかなる理由か、中期の遺跡は他の時期に比較して非常に少ない。中期の遺跡といえるものは、高縄半島北端に分布する水崎、江口の両遺跡と、伯方島熊口、大三島満越の両遺跡ぐらいである。これらの遺跡はすべて海岸ないし海底に分布している。(後略)

<降り積もるアカホヤ火山灰>
 中期に動物が多く生息していたとすると、平野や山岳地帯にも遺跡が分布していたはずである。にもかかわらず、それが認められない理由として考えられるのは、大きな自然環境の変化以外にはない。ちょうど、縄文前期初頭には、鬼界カルデラ火山の爆発によるアカホヤ火山灰の降下が、愛媛にも及び、その厚さは一bを超えていたと推定される。

(中略) このような多量の火山灰の降下は、多くの草や木を枯らし、平野や山地を不毛の地にしたに違いない。中期の遺跡の少ないのは、愛媛に限ったことではなく、西日本に共通する現象である。このようなこのようなことから、火山灰降下も、遺跡の少ない一つの原因と考えたい。



 上記≪愛媛の考古学≫からの引用は、前出の“縄文中期における急激な人口減少”を裏付ける遺跡分布でもあります。そして、一部には、九州や四国の縄文人は『多量の火山灰の降下により、食料不足に陥って縄文人は消滅した・・』などのとんでもない学説まであります。しかし、他の動物が生き延びているのに『西日本では、私たちの祖先だけが絶滅した』などの推論は全く的外れな指摘だと考えます。その頃から私たちの祖先は、動物達より上手に環境に適応する能力を持っている筈です。
 
≪最終氷期から縄文晩期までの植生≫

 右図は日本列島の2万年前から3,000年前頃までの植生を掲げた地図です。最終氷期の最終冷期から縄文時代の草創期までは、あまり変動が無かったものと思われますが、気候は温暖になっているものと思います。

 狩猟採集の我々の先祖が辿り着いた日本列島は、西日本は≪冷温帯落葉広葉樹林≫が広がっていたようです。一方、高地帯と中部・北日本は≪亜寒帯針葉樹林≫で、北海道は森林ツンドラあるいはツンドラ地帯と分類されています。瀬戸内地域などで捕獲されていたナウマンゾウやオオツノシカなどの大型動物はやがて死滅し、温暖になり、植生が変わる事で、森に棲む動物たちも変わって来たものと推測されます。

 私たちの祖先が縄文文化を獲得し始めて以降、気候の温暖化が進んで、6,000年前の≪縄文海進≫と呼ばれる縄文中期となります。我々の祖先は縄文草創期と同様の生活を続けて来なかったのは容易に想像出来ます。同じ地域でも、あまりにも環境が変わってしまっています。

 さて、図の6,000年前〜3,000年前になると、最終氷期の頃の西日本と同様の気候が中部・北日本へと移動しています。という事は、植生もそのまま移動したという事となります。そして、温暖な気候は海流の流れを生み、最終氷期の頃には日本近海まで上がってくることが無かった潮流も、この頃には黒潮に乗って様々な魚が、沿岸に回遊することとなったものと思われます。

≪次項に続く≫