四国のみちと遍路
                                                              
≪四国のみち≫ 
2015年12月5日【高縄山探鳥のみち(10.2km)】
【菅沢(五明小学校)〜幸次ヶ峠休憩所〜石ヶ峠〜高縄寺】


 今回の環Mから環Oまでの三つのルートは、山間のルートで公共交通機関を利用するには該当の停留所まで大回りする必要があった。そんな事もあり、計画は難航を極めたのだった。当初は、道後・緑町経由で五明までバスで行き、高縄山から北三方ヶ森まで縦走して、水ヶ峠から国道317号線へ出て米野々口バス停から戻る計画をしていたが、元の駐車場所まで戻る行程がイマイチはっきりしないままだった。それは、終了時間が判らない事がネックだったからだ。

 そこで思い付いたのが、奥道後を起点としてのアクセスだった。
          
 計画が実現出来るメドが立ったのは、奥道後の駐車場へ愛車をデポして、五明までタクシー利用なら帰路の行程が可能だと気付いて、今回の計画を決行したのだった。その奥道後の駐車場所へは8時前に着いた。ホテル前で宿泊客のお見送りをしているホテルマンに『タクシーを呼べるか』と尋ねると、親切にもフロントから呼んで貰えたのだった。

  
 タクシーは、10分ほどでやって来て、五明までの所要時間は15分ほどで、1770円だった。8時20分、小学校横の小道を辿る道を出発だ。コンクリの道は、今は新しい道が出来てこちらの道は地元の人しか使われないような道だった。

   
 薄暗い植林の中、暫く歩くと軽自動車が追い越して行った。8時40分、集落にでた。右手には白線が引かれた道路脇にバス停がある。バス停には“城山(じょうざん)”と書かれていた。また、時刻表には2時間に一本の時刻と行先は『松山市駅行』としか書かれていなかった。その脇には神社が建つ。五明集会所からは1.4q、幸次ヶ峠まで2.9kmとある。

  
 道端の小屋には、六地蔵が祭られている。また、そこらあたりには集落が見えないのに棚田が整備されていた。例の“電気柵”や動物除けの柵があるので、現役なのだろう。そして、道端のお地蔵さんも今は忘れ去られてしまっている事は、山間の集落の高齢化を物語っているのだろうか。

  
 9時、集落が現れた。柳谷町と呼ばれる集落だった。エリエールゴルフクラブやエリエール美術館への案内がある。ここら辺りだけが綺麗に道路が整備されていた。

  
 傍らに片田舎の集落に相応しくない案内板が建っていた。そこには戸別の氏名まで書き出されていたが、個人情報を掲示する真新しい案内板の意味はなになんだろう。まさか、郵便局や宅配業者への気配りでもあるまいし・・。すぐ先で、幸次ヶ峠まで0.9kmの案内である。さて9時20分、四国の道は左手へと案内され、山道へと続いていた。

  
 私製の案内で『幸次ヶ峠と養鶏場』へと案内板が建てられていた。その先に養鶏場があり『登山のかたも駐車可(ただし場内の事故は自己責任)』の案内が建てられていた。相棒が「どこやらの施設と大違いやねぇ〜」と話し掛けて来た。

  
 峠には以下の案内板が建ち、傍らには“峠の地蔵さん”が祀られていた。小休止しようとザックを降ろしていると、何か音がし、三台のサイクリストが降りて来た。ここで石ヶ峠へは4.6kmの新しい案内が出て来た。再出発は9時40分だった。すぐ先には綺麗に石が敷かれた道が続いていた。

≪幸次ヶ峠≫
 標高525mあるこの峠は、現在、松山市と北条市の境界となっていますが、昭和30年以前、現在の北条市域を中心とする風早(かざはや)郡の河野(こうの)村という一つの村でした。風早地方は、平安末期の頃から豊臣秀吉の四国征伐までの間、河野氏一族によって治められており、この地区の人々は、現在の北条市との関係の方が深かったようです。また、実際、この場所からそれぞれの市の中心地までの距離(直線)も、松山まで約11km、北条まで約6.5kmとなっており、車のなかった昔は、北条方面へ出て行く方が早かったようです。


との案内板が建てられていたが、この文中にある北条市は平成の大合併により松山市と合併しているのである。

   
 道は直ぐに擬木の階段となり、狭い尾根上の場所に造られた道には≪歩行注意 (道の真ん中を縦一列で歩いてください。)≫との張り紙がある。また、倒木が道をふさいだ場所もあり、自転車に乗ったままでの通行は困難な場所もあった。

 
 10時過ぎ、左手、樹間越に垣間見えるのは北条方面で、僅かに見える顕著な山容はエヒメアヤメの自生地で有名な腰折山だろうか。少し見える角度が変われば、鹿島が望める。

   
 やがて私製案内板(苞木 作道と書かれていた)に“長尾の坂”と書かれていた。続いて“乗り石”と書かれた場所を通過。幸次ヶ峠からは道は東へと向いていた。10時34分、進行方向は右手の尾根沿いだが、谷を挟んで高縄山のアンテナが垣間見える。

  
 やがて“一の平”と書かれた場所を過ぎ、“シノベの大谷”“二の平”“三の平”と続き、“お茶の鼻”と書かれている場所で小休止である。石ヶ峠までは2.7kmとなった。私製案内板には≪大崎谷≫の矢印があるが、相棒が覗きに行くと「藪になっとる」と引き返して来る。11時、再出発だがすぐ先は石が敷き詰められた道が続いていた。

  
 5分ほど行くと“大月山”と標識が建っていたが、地図に拠れば、右の方向へと笹の道を分け入るようである。すぐ先、左手に≪展望台登り口≫と案内があり、林間に鉄塔と建物が見える。道はこの辺りから降っていた。暫くで親子の地蔵さんらしき二体が祭られていた。

  
 11時26分、お地蔵さんと古い標石が建つ場所が≪石ヶ峠≫だろうが、この先に石ヶ峠があるとの案内標識が建っている。また、幸次ヶ峠にも張り出されていたのと同様の木に括られた印刷された紙には

≪ここをおりたら車道だよ気をつけよう≫
(先生からの指令)
かけ声をかけて 気合を入れなおし 出発しよう


 と書かれていた。ここは車道が出来る前の峠で、すぐ先に石ヶ峠の派手な交通標識が建っていた。この山間の交差点は車道のY字凹んだ場所に真っ直ぐ歩道が貫いている交差点だった。ここからの四国のみちは車道を通る事となる。

 
 道路歩き少しで左手と前方の展望が開けた。瀬戸内海の島々も薄っすらと望める、前方には高縄山のアンテナが随分と近くに見える。

   
 工事のトラックが降りて来たと思ったら、やがて、東屋を建設中の広場に出合う。傍らのトイレはもう出来上がっていて、傍らには≪愛媛森林浴88ヶ所・高縄山天神ヶ森≫の案内があった。そこからは、すぐ先で高縄寺の山門に出合った。11時55分だった。

  
 トイレの横にある手水鉢には
孫八が奉納した手水鉢
孫八は、鉄砲撃ちの名人で九川に住んでいた。「えひめ昔ばなし」に孫八の名人ぶりが記録されている。
手水鉢には、「文化九(1812)甲三月、施主九之川村「孫八」と刻まれている。
とある。

 我々が着いた時、三名の登山者が食事を終わった後だったようだ。高縄寺の境内にある食堂は休みの張り紙だったが、我々は境内のベンチで簡単な昼食とした。三名は「どちらから来ました?我々は猿川から登って来た」小生は「五明から・・」と応えたのだが、登山道で五明は入っていないんだろう。『私たちは四国のみちを歩いている』との前置きが無いと通じないと・・。そして、『北三方へは行きます?』と聞かれたので、「えぇ〜、北三方から水ヶ峠へ降りて、国道317号線へ出ます。そこからバスで帰る予定で・・。」が旨く伝わっているかどうかは判りません。そして、三名組は「お先に」と降りて行った。

 入れ替わるように、自転車のオジサンがやって来た。少し遅れて到着した人との二人組だった。我々は、昼食後参拝を済ませて、下山・・・否、次ルートへ踏み出した。


ちょっと 一息
≪高縄寺≫
この高縄寺は、高縄山頂(標高986m)から東へ300m、標高約900mに位置し、その昔、この地方を治めていた河野氏の戦勝祈願所となったところで、木造の「十一面千手観音菩薩立像」が安置され、八百年の歴史とともに残されている真言宗の名刹で、河野氏の菩提寺となっています。現在の建物は、1767(明和4)年に再建されたものです。
寺の周辺には、ほんどう上手の「千手杉」のほか、「七本杉」、「大師名残の杉」などの老杉、巨樹があり、この寺の歴史を物語っています。



【指導標や標識など】

   

  

   

   

   

  石ヶ峠の地蔵さんは三面地蔵さんだった。