縄文文化を巡る!   
 2020年「waiwai隊」 縄文遺跡を巡る旅(九州)
山鹿市立博物館(2020年2月13日)

 今日は鹿児島までの移動の途中で立ち寄る際に便利な場所。という理由で探し出しました。新幹線で新鳥栖から鹿児島中央駅までは案外近かったのですが、途中の県庁所在地である熊本市には、手頃な博物館が見当たりませんでした。熊本と云えば熊本城ですが、先般の地震からの復興からは、道半ばです。
 小生、いつも『縄文文化を巡る旅』の際にweb検索しているサイトで見つけたのが『山鹿市立博物館』でした。しかし、熊本駅からはレンタカーの利用しか方法はありません。

  新鳥栖(8:13)→ さくら451号 熊本(8:36)
                    (15:57)→ さくら411号 鹿児島中央(16:54)

 上記の新幹線利用で、熊本でレンタカーを利用して博物館へ行き、その後は、鹿児島品へ戻った後の計画とすることとしました。しかし、朝の早い便での移動については前稿で述べたとうり、昨日、時刻表を確認済みです


いつものように、下記にこのサイトで使用している縄文時代の時代区分を載せておきます。


【AMS法による区分】

草創期   15,000~12,000年前
早期     12,000~7,000年前
前期     7,000~5,500年前
中期     5,500~4,500年前
後期     4,500~3,300年前
晩期     3,300~2,800年前



【関連リンク先】山鹿市立博物館のサイト 

 
 ・2月11日(火)  松山  ~岡山 ~博多 ~大野城(コミュニティバスで大野城心のふるさと館を往復) 博多  ~姪浜(経由) ~東唐津(泊)
 ・2月12日(水)  東唐津  ~(末蘆館)唐津  ~吉野ヶ里公園(タクシーで往復)  ~鳥栖(泊)
 ・2月13日(木)  鳥栖 ~新鳥栖 ~熊本 ~山鹿市(山鹿市立博物館まで往復) ~ 熊本城観光 ~ 熊本 ~鹿児島中央(泊)
 ・2月14日(金)  鹿児島中央 ~鹿児島県歴史資料センター ~鹿児島市ふるさと考古歴史館 ~指宿市考古博物館 時游館 Cocco はしむれ~指宿(泊)
 ・2月15日(土)  指宿  ~姶良(姶良市歴史民俗資料館) ~上野原縄文の森 ~霧島温泉(泊)
 ・2月16日(日)  霧島温泉  ~西都市(西都原考古博物館)  ~宮崎埋蔵文化財センター ~宮崎市(泊)
 ・2月17日(月)   宮崎市  ~鹿児島中央  ~岡山  ~松山
 
 
 


 熊本駅の新幹線口にあるレンタカーを借り、早速、カーナビに山鹿市立博物館の電話番号を入力し検索します。あとは、カーナビの指示どうりに車を走らすだけでした。事前に入手した情報どおりの道順を指しているようなので安心してハンドルを握っていました。所要時間は一時間ほどで山鹿の市街地へ着きました。目的の『肥後古代の森』は、菊池川の河岸段丘に立地していて、駐車場には一台だけ駐車していました。

 車を降り、案内図の示す方向へ歩くと、道路脇に『西南の役 戦没者慰霊碑』の大きな石碑と、大勢の名が刻まれた銘盤とともに、『西南の役 山鹿口の戦い』の解説文などが建てられていました。


 

 以下に山鹿市立博物館のサイトから引用します。



 山鹿市立博物館は、昭和53年4月1日、県内で2番目に開館した博物館です。
 建物は鉄筋コンクリート2階建て、延べ面積681平方メートルの小さな博物館です。山鹿市を中心とした菊池川流域の考古資料のほか、歴史資料や民俗資料を展示しています。

 全国に唯一の石包丁形鉄器や、30数例しかない巴形銅器など大変貴重な資料がみどころです。

 博物館周辺は歴史公園「肥後古代の森」として整備されていて、装飾古墳として有名な史跡チブサン・オブサン古墳まで徒歩15分の「古代への道」が続いています。

 そのほか江戸時代の民家や全国第二位の用水橋(石橋)である大坪橋が移設復原されて、歴史あふれる空間となっています。

 主な展示資料

〔旧石器〕尖頭器(市指定)、ナイフ形石器
〔縄 文〕縄文土器、土偶、骨角器
〔弥 生〕方保田東原遺跡出土品(家形土器・巴形銅器・石包丁形鉄器ほか(国重要文化財)

〔古 墳〕鏡、勾玉、馬形埴輪、人物形埴輪、鳥形埴輪
〔古 代〕中村廃寺瓦、墨書土器、凡導寺経筒(県指定)
〔中 世〕輸入陶磁器、瓦質土器
〔江 戸〕湯町絵図(市指定)、古事記伝写本(県指定)
〔明 治〕西南の役山鹿口の戦い錦絵






 展示のパネルには、『先縄文時代』と次項に掲げる『縄文時代』とのパネルが掲げられていました。後日、改めて双方を見比べて驚きました。同じ文章が書かれていました。

 次の『先縄文時代』とは、今で言う旧石器時代という時代区分になると思います。間違った解説パネルを掲げているのはいかがなものでしょうか?
 市営の博物館なので、それなりの学芸員も居られるでしょうから、また、新たな知見が発表される度に更新されて当然と小生は考えます。


 
【先縄文時代 (紀元前1万年~紀元前3世紀)】

 表面には網目のような文様を施してある土器を縄文式土器と言いますが、このような土器が使われた時代を縄文時代と呼んでいます。
 人々は海辺や湧水地に近い岡の上などに、親族の者が集まって竪穴住居などを作って住み、魚や貝をとったり、山で狩りをしたり、もっぱら自然物の採集によって暮し、まだ、身分や貧富の差もありませんでした。
 人々は、はじめて土器を作る事を覚え、網目のような文様をはじめ、各種の文様で土器を飾りました。この土器を使って、煮たり、焼いたりするなど料理の方法も多くなり、食物も多様になって食生活が豊かになりました。
 縄文時代の終わり頃になると稲を作ることを一部の地域で行っていたことを裏付ける資料も発見されました。
 また、この時代はたくさんの道具が発明され、人々の生活に役立ちました。その中でも弓矢の発明は特に重要なものでした。
 弓矢によって、獲物を採る範囲が広がり、人々が安全に狩りができるようになりました。また、単に道具としてでなく、武器としても長く使われました。どのように人々が自然の中で生き抜いていくために多くの努力が払われました。



 

 



 先に表示の『先縄文時代』に続いて、縄文時代の展示となります。

 

  

  

 縄文時代の展示には、以下のパネルが架かっていました。以下に引用します。


 旧石器時代から縄文時代へ

 約1万年前、氷河期が終わり気候が温暖化するにしたがって、海水面が上昇し、日本列島は大陸から大きく離れ、現在のかたちにちかくなりました。
 また、草原が減少しトチやクヌギ・シイなどの森や林が広がり、動物も象やオオツノシカなどの大型獣が姿を消し、猪や鹿・ウサギなどの中・小型獣が多くなりました。
 このような自然環境の変化に適応するために、人々は土器を作り始め、弓矢が使われるようになりました。
 また、移動をしていく生活から定住する生活に変化し、貝塚や大きなムラが作られ、生活も大きく変化しました。



 上の文章に記されるように、旧石器時代から縄文時代へと移り行く経緯は5~6行の文章で表されるほど簡単な出来事ではありません。まずは、気候の温暖化から始まります。氷河に覆われた大地は、地面が表れて、植物が覆うこととなって、そこへ動物たちが次々とやってきます。
 そのあたりの関連する文章を、小生の別稿【休憩室≪別館≫】の中で述べています。以下にリンクしていますので、ご訪問下さい。
 ≪愛媛の古代≫は、コチラ 
 ≪日本人を科学する(私たちはどこから来たのか)≫は、コチラ 


 
≪左、旧石器時代(尖頭器) 右、縄文時代(土偶)≫
 

≪縄文時代(注口土器)≫
 

≪縄文時代(分銅形土偶)≫
 
  

 

 
 ≪弥生時代≫以降
 

 

 

 


 小生、webで各種の博物館を検索すると、山鹿市立博物館がヒットし、縄文時代の遺物の展示・公開している博物館では、熊本県で唯一といってよい博物館でした。瀟洒な博物館で、小さな市の博物館では仕方がない規模でした。展示品を見終わって、受付で尋ねると図録があるとの返答でした。


 以下、収蔵品図録から、あいさつを引用します。


 -館長あいさつー

 山鹿市は、熊本県の北部に位置し、菊池川を中心に田園地帯が広がり、その中心部に市街地を形成しています。古くから交通の要衝であり現在も、幹線道路が放射線状に発達しており、国道3号や325号、443号などの結節点となっています。
 気候は温暖であり、肥沃な土地に恵まれた豊かな自然があることから、先史時代から人々の生活が営まれ、国指定史跡方保田東原遺跡や、チプサン古墳をはじめとした装飾古墳文化が花開いたところです。また、飛鳥時代には、古代山城である鞠智城が造営され、江戸時代には豊前街道の宿場町として繁栄してきました。
 山鹿市立博物館は、昭和53年に開館して以来、菊池川流域から出土した考古資料を中心に展示、公開することで多くの人々に親しまれてきました。
 特に、方保田東原遺跡から出土した家形土器、石包丁形鉄器、中村双子塚古墳から出土した馬形埴輪、歴史資料である古事記伝写本など専門家からも高い評価を受けている資料も多く、折にふれ常設展として公開しています。
 今回、当館の展示資料や主な収蔵品を概観できるように図録を刊行することになりました。
 多くの皆様にご活用いただければ幸いです。
平成27年3月
山鹿市立博物館長 大森 勲
 

  


 博物館の見学を終え、『肥後古代の森』を巡ってみようと歩き始めました。右に載せた案内板は、駐車場の脇に建てられていました。
 古代の森の『山鹿地区案内図』には

 「肥後古代の森」は、菊池川流域のなかで古代の遺跡が数多く残る鹿央町、菊水町とこの山鹿市との3地区からなっています。
 地域の北側には、装飾古墳として有名な国指定のチプサン古墳、県指定のオプサン古墳、及び西側には方形周溝墓などが分布する西福寺古墳群があります。地区の東南、岩野川右岸の岩壁には国指定の鍋田横穴群があり16基に装飾文様が確認されています。また、中央部の「古代の森」、「古代の道」では、古墳時代関係資料を野外展示するとともに、山鹿市立博物館などが整備されています。


 と、案内されています。

 
  


【オプサン古墳】

 

  


【チプサン古墳】

 

 

 古墳巡りを終えたのは、12時前でした。昼食は「熊本市内へ戻る途中に適当な所があるだろう」と、車を走らせます。しかし、適当な店を探せないまま市街地へと入ってしまいました。ナビで熊本城の駐車場へと向かいましたが、最初に選んだ駐車場へは入れないままに「工事中」の立て看板に行く手を遮られてしまいました。

 結局ナビを入れ直して、別の駐車場へと向かいました。

 
 
≪熊本市内観光・熊本城≫
 熊本城の修復作業は大掛かりなもので、何年先に終えるのだろう。駐車場の先の石段を登っていくと、石垣は無残にも崩れていて、殆ど原型を残していません。石段を登っていくと広場があり、石垣の石が置かれていました。一つ一つに何やら書かれていました。天守閣が見える方向に少し歩いていくと、地震の際の放送でよく見ていた櫓が見えてきました。櫓の下の殆どの石垣は残っていますが、四方の一方だけが崩れている様です。その向こう側の石垣が大規模に崩落している様も垣間見えました。

 

  
 熊本城内での歩行ルートはどこへでもという訳ではありません。天守閣は、巨大なクレーンが作業中のようで、アチラコチラの色々な方角から作業中なのが望めます。さて、熊本城へ行けば何らかやの昼食を食べれるだろうとの目論見だったのですが、それらしい店はありません。

 見学の人の中にマスク姿の人も見られます。先月から流行が始まった『新型コレラウイルス感染症』から自身を守るためでしょうか?
(この時点(2/13)では、日本中には広がっていませんでした)
 直ぐ先に(二の丸駐車場脇)にインフォメーションがあり、相棒が軽食が取れる店を尋ねると、直ぐ先にあるとのことで、やっと昼食にありつけたのは13時半になっていました。


 食事を終えたら、城巡りも終えるのです。そして、15時前には熊本駅前のレンタカー営業所へ返却を終えました。今日は、鹿児島市内のホテルへ宿泊の予定で、やがて新幹線の車中の人となりました。

 熊本(15:57)→ さくら411号 鹿児島中央(16:54)

 新幹線の最終駅の鹿児島中央駅から市電に乗って、3駅目で降りるとホテルは目の前との事前情報でした。しかし、電停を探すのが面倒だったので、スーツケースを引きずって「このまま歩いていこう」という事になって、ホテルまでは歩いて行ったのでした。