縄文文化を巡る!   
 2020年「waiwai隊」 縄文遺跡を巡る旅(九州)
指宿市考古博物館 時遊館Coccoはしむれ(2020年2月14日)


 前稿で鹿児島市内の二か所の博物館を見終わって、やっと、今日の宿泊地の指宿まで移動してきました。既報のとおり、今日は大幅な予定変更でしたが、午後の早い時期に指宿市まで来ることが出来たので、ゆっくりと博物館を訪れることができます。
 指宿市へ入ると、道の駅彩花菜館で昼食を終えたのが、13時過ぎでした。館外へ出て鹿児島湾を一望した後、本日の三か所目の博物館である指宿市考古博物館 時遊館 Coccoはしむれ前の駐車場に着いたのは、14時前でした。


 博物館の1階には、季節がらお雛様が飾られていて、小さな子供さんを抱えた若いお母さんと、女性の母親らしき方と見学に来ていました。そんな光景を傍目にして、横の階段を上がって、2階で受付を済ませます。

  


 いつものように、下記にこのサイトで使用している縄文時代の時代区分を載せておきます。


【AMS法による区分】

草創期   15,000~12,000年前
早期     12,000~7,000年前
前期     7,000~5,500年前
中期     5,500~4,500年前
後期     4,500~3,300年前
晩期     3,300~2,800年前




【関連リンク先】指宿市考古博物館 時遊館Coccoはしむれ 

 
 ・2月11日(火)  松山  ~岡山 ~博多 ~大野城(コミュニティバスで大野城心のふるさと館を往復) 博多  ~姪浜(経由) ~東唐津(泊)
 ・2月12日(水)  東唐津  ~(末蘆館)唐津  ~吉野ヶ里公園(タクシーで往復)  ~鳥栖(泊)
 ・2月13日(木)  鳥栖 ~新鳥栖 ~熊本 ~山鹿市(山鹿市立博物館まで往復) ~ 熊本城観光 ~ 熊本 ~鹿児島中央(泊)
 ・2月14日(金)  鹿児島中央 ~鹿児島県歴史資料センター ~鹿児島市ふるさと考古歴史館 ~指宿市考古博物館 時游館 Cocco はしむれ~指宿(泊)
 ・2月15日(土)  指宿  ~姶良(姶良市歴史民俗資料館) ~上野原縄文の森 ~霧島温泉(泊)
 ・2月16日(日)  霧島温泉  ~西都市(西都原考古博物館)  ~宮崎埋蔵文化財センター ~宮崎市(泊)
 ・2月17日(月)   宮崎市  ~鹿児島中央  ~岡山  ~松山
 
【当初の計画】
 
 
 ・2月14日(金)  鹿児島中央  ~指宿(泊)
 ・2月15日(土)  指宿  ~指宿市考古博物館 時游館 Cocco はしむれ ~鹿児島県歴史資料センター 鹿児島市ふるさと考古歴史館 ~姶良(姶良市歴史民俗資料館) ~霧島温泉(泊)
 ・2月16日(日)   霧島温泉  ~西都市(西都原考古博物館)~宮崎埋蔵文化財センター ~宮崎市(泊)
 ・2月17日(月)  宮崎市  ~上野原縄文の森 ~鹿児島中央  ~岡山  ~松山
 
 

 今朝は、急遽、鹿児島市内から指宿へと博物館巡りを済ませることにして、明日の天候の状況によって以降の行程の組み直しも考えざるを得ないと思っています。ここまで、心配していた雨にも降られませんでしたが、晴れては来ません。

 さて、事前に『指宿市考古博物館 時遊館Coccoはしむれ』のサイトには、企画展≪海をみつめた古代人≫の案内があるのを知っていましたが、この企画展の詳細は不明でした。詳細については常設展示の後に述べることとなります。

 受付横には1階の雛飾りと同様にお雛様が飾られていました。鹿児島県らしく、篤姫の着物とともに飾られていて試着可能でした。




 常設館は、まず『開聞岳の噴火と火山灰』のパネルが架けられています。いつものように、以下に引用します。

≪指宿の自然  開聞岳の噴火と火山灰≫

 薩摩富士とよばれる美しい開聞岳は、溶岩と火山弾や火山灰などが互いに積み重なった成層火山と海上付近の溶岩ドームとからできた二重式火山です。
 今は、静かなこの山も、かつてはもくもくと噴煙をあげ、ときには噴火して、古代の人々に大きな災害を与えてきました。
 


 実は、上記の開聞岳へは、天気が良ければトレッキングを予定していました。その予定日が今日でしたが、明日以降へと予定を変更して、今日の行程となっています。


 

 展示パネルは、≪地震の原因と液状化現象≫→≪遺跡でわかる地震とその災害≫→≪地震でわかる古代の人々の暮らし≫→≪貝塚でわかる古代の海岸線≫→≪海の生物≫ と続いていて、下記の説明パネルで解説しています。


遺跡が語る隼人の祖先 橋牟礼川遺跡が果たした大きな役割
≪縄文と弥生≫

 橋牟礼川遺跡では、大正7、8年に浜田耕作博士らによって、初めて本格的な発掘調査が行われました。
 縄文土器は当時、アイヌ土器とよばれ、弥生土器と同じ時代に違う民族が使っていた土器と考えられていました。
 しかし、橋牟礼川遺跡の発掘調査で、火山灰の下から縄文土器が、火山灰の上から弥生土器が発見され、縄文土器が弥生土器よりも古い時代の土器であることが確認されました。




≪縄文土器と弥生土器≫
 
 縄文土器は、東京都品川区の大森貝塚で初めて見つかりました。貝塚から発見されたので、貝塚式土器ともよばれました。
 一方、弥生土器は、東京都文京区の弥生町で発見されたことからこの名前がつけられました。
 縄文土器には、縄目をはじめさまざまな模様がつけられています。弥生土器は、薄手で模様の少ないのが特徴です。そうした特徴から縄文土器と弥生土器を区別することができます。



≪土器の誕生≫

 わたしたちに豊かな食生活をもたらしてくれた土器はいったいどのようにして誕生したのでしょう。
 その答えははっきりしていませんが、火を使っていた場所の槌が固くじょうぶになったのを体験したのがはじまりかもしれません。
 土器の発明で、縄文時代の人々は、いろいろなものを煮て食べることができるようになりました。
 また、ドングリのあく抜きにも、土器は欠かせない道具です。木の実の料理法と土器の誕生の間には、深い関係があったとも考えられています。





≪土器に描かれた建物≫

 指宿市大園原遺跡で発見された縄文時代の土器には、建物の絵が刻まれていました。
 縦の線は柱を表し、点で描かれているところは屋根と考えることができます。
 縄文時代の絵は全国でも少ないのですが、これは、日本で最も古い建物の絵としてたいへん貴重な資料です。






 小生、上掲の解説には非常に驚きました。縄文時代の絵といえばあまり記憶に残っていませんが、小樽の手宮洞窟保存館の絵画を思い出しますが、このように住居の絵が残されていることには、興味深々です。


  
 
 

 常設展示室は、お決まりの住居などの展示もあり、さら~っと、見て廻ったのでした。それでも、ここまでで小一時間はかかっています。続いては、企画展示室へと向かいます。


  
 

 続いて紹介する企画展は、令和元年12月7日から令和2年3月15日までの期間で行われています。そもそも私たちがこの時期に九州への遺跡巡りを決めたのは、博多で開催されていた≪発掘された日本列島 2019≫に合わせて組んだ『フルムーン・ツアー』でした。このような偶然は、この事に限りません。しかし、この時点では、明日起こる『一大事』に気づく筈はありません。

 次に、企画展『海をみつめた古代人』の図録から、引用します。


 ごあいさつ

 指宿市考古博物館 時遊館Coccoはしむれでは、市内の文化財、郷土芸能、伝統行事、農産物や畜産物、温泉文化などを博物館の展示品の一つと位置づけ、市内全体をひとつの博物館とする「指宿まるごと博物館構想」を推進する拠点として活動を行っています。
 当館の活動の一つである企画展事業は、指宿まるごと博物館の内容をしょうかいするために、平成二十一年度から「海」に関連する企画展を継続して実施しており、今回で十回目の開催になります。この背景には、指宿の歴史・文化・伝統の源泉には、南の海へ開けたまち、火山の恩恵に預かってきたまちという地理的特徴がありました。
 今回の企画展は、指宿に住む我々のご先祖様をターゲットにしています。我々のご先祖様はいつ、どうやって指宿にやってきたのか、どのような生活を営んでいたのか、顔や格好はどうだったのか、そのような疑問を明らかにし、市民の皆様に遥かな歴史の道程を知っていただけたらと思い、「海をみつめた古代人ーイブスキ人の起源ー」を開催する運びとなりました。開催にあたっては県内外の自治体、博物館、研究機関に多大なご協力・ご支援を賜りました。深く御礼を申し上げ、市民の方々の知的好奇心を育む場となることをご祈念申し上げ、開催のご挨拶とさせていただきます。

  指宿市考古博物館 時遊館Coccoはしくれ
    館長 西森 廣幸




 さて、以降の引用文は主に図録からのものとなります。順に載せる写真と、図録からの引用とは一致しない場合もあると思いますが、そのことについては、あらかじめ了解願いします。


≪第1章 母なる海、その生と死≫


生命の誕生


生命とは?→海中で始まった生命の歴史→海は万物のゆりかご→乳海攪拌



海の彼方は常世の世界
 

補陀落渡海→日秀上人の補陀落渡海


山川に伝わる来訪神伝説

来訪神 仮面・仮装の神々→利永のメンドン→利永神社の来訪神伝説
 

  


 


 ≪第2章 イブスキにヒトがやってきた!≫


人類の誕生と拡散


人類の誕生→出アフリカ!拡散する人類→人類、日本列島へ到達



海を渡った人類


縄文人の船


最古の人類痕跡

県内最古!横峯C遺跡→イブスキ人の最古の痕跡→日本最古の住居!水迫遺跡→指宿の縄文文化


イブスキ人を襲った巨大噴火

鬼界カルデラの噴火→池田カルデラの噴火




 この章にある『水迫遺跡』の記述には、驚きました。それは、

 1996年12月、日本考古学界に衝撃的なニュースが飛び込みました。指宿市の「水迫遺跡」において、約1万5000年前に遡る竪穴住居跡が複数発見されたのです。(後略)

 との記述です。1万5000年前と言うと、この地域での縄文土器の一番古い記録よりも遡る事になります。この項には、続いて『上野原遺跡』の記述がありますが、この遺跡へのスケジュールについては、後に触れることとなります。


  




≪指宿の縄文文化≫

 1919年に橋牟礼川遺跡において、京都帝国大学の濵田耕作によって弥生土器と縄文土器の新旧関係が日本で初めて確認されて以降、指宿の縄文文化は日本本土最南端の縄文文化として多くの情報をもたらしてくれました。
 現在の縄文時代は草創期・早期・前期・中期・後期・晩期の6つの時期に大別されており、大まかには土器の出現をもって縄文時代の開始とし、水稲稲作の導入によって次の弥生時代へと変化していきます。
 指宿で最初に使われた土器は先に紹介した水迫遺跡・西多羅ヶ迫遺跡で出土しており、今から約1万3000年前の縄文時代草創期の土器であることが分かっています。日本で一番古い土器は青森県外ヶ浜町の大平山元Ⅰ遺跡で出土しており、約1万5000年前と考えられています。指宿の土器開始時期は現時点では大平山元Ⅰ遺跡より約2000年遅れていますが、今後の研究によってさらに遡るかもしれません。この時期の鹿児島本土の主流な土器は隆帯文土器と呼ばれ、器面に粘土の帯を飾りつけるのが特徴です。口径が約40cm以上と大型なものも確認されています。
 草創期の次の時代にあたる早期の南九州では円筒貝殻文系土器と呼ばれるバケツ状の形をした土器が使われます。その先駆けとなった土器は先に紹介した水迫式土器になります。この時期の土器には指宿市岩本で発見された「岩本式土器」もあります。このように指宿地域においては縄文時代の早い段階から自然豊かな環境を利用しながら竪穴住居をつくり、土器を使用していたことが分かっています。




 九州の最南端の指宿は、玄界灘に面した北九州とは違って、奄美諸島から沖縄へと続く南西諸島の海の道が見えてきます。つまり、遥か昔、私たちの祖先たちは、東南アジアから台湾を経て日本列島へと辿り着いたと考えられています。

 それにもまして、指宿の遺跡発掘が縄文土器の端緒だったことは、新たな知見を得る事となりました。それらの発見は、旧石器時代後期の姶良カルデラ噴火や縄文時代の鬼界カルデラ噴火や、その後に起こった大噴火に埋まっていた遺物からの賜物だったのです。

 小生、姶良カルデラ噴火については興味を持っていました。それは、愛媛県・伊予市の山中に自動車道の『中山スマートIC』の新設工事中に、旧石器時代後期から縄文時代の遺跡が発見されました。その遺跡は『姶良カルデラ噴火の火山灰が積もっていることが、時代の特定に至った』との報告書(高見Ⅰ遺跡)を見ていたからです。 
その際の小生の稿は、コチラ 


 
 

 前項でも触れたとうり、図録中には『池田カルデラの噴火』が記されていました。小生、このようなカルデラ噴火がこの時期に起きていた事については承知していませんでした。あらためて、下に引用しておきます。(右写真は、図録)


≪池田カルダラの噴火≫

 鬼界カルデラの噴火から約1800年後、池田カルデラが大噴火を起こします。池田カルデラの噴出物は指宿市内を埋め尽くし、現在の指宿市の景観を形作りました。山川の伏目海岸では30m以上堆積した池田カルデラの噴出物の露頭を見ることができ、噴火の規模を実感することができます。このときの噴火によって、九州最大の湖「池田湖」が誕生しました。また、池田カルデラの噴火とほぼ同時期に山川の成川盆地や鰻池、山川湾も噴火を起こし、凹んだ地形が形成されました。以上のように鬼界カルデラの噴火から2000年間、イブスキでは噴火が頻繁に起きていました。縄文人も集落を作らなかったはずです。
 しかし、それから約1500年後、縄文時代後期(約4000年前)にはイブスキで人々の生活の跡が確認できるようになり、縄文時代草創期や早期とはまた違った様相をみせるようになります。その大きな特徴として、琉球列島との交流を示す資料が南九州本土で確認されるようになることがあげられます。
 指宿市の大渡遺跡は山川湾を眼下に臨む標高50mの台地上に位置する縄文時代後期の遺跡です。遺跡からは沖縄・奄美でよく見られる注口土器と尖底土器が出土しています。注口土器の文様は鹿児島本土の土器である市来式土器の文様ですが、底が尖った形状は沖縄・奄美でしか確認されていません。そのため、土地の形は南西諸島の特徴を、文様は南九州本土の特徴を備えている土器であることがわかりました。さらに南摺ヶ浜遺跡においても沖縄・奄美の縄文時代衡後晩期の「宇宿上層式土器」と呼ばれる土器が見つかっています。土器が勝手に海を渡ることはないので、南西諸島の人々との交流の中で、様々な土器がもたらされ、海を介した交流を行っていたと考えられています。
 鬼界カルデラの噴火から3600年ほどを経て、ようやくイブスキ人の痕跡がたどれるようになりました。彼らは南西諸島からやってきた人々なのか、噴火を免れて避難してイブスキへ帰ってきた人々なのか、これからの研究の課題です。



姶良カルデラ噴火  鬼界カルデラ噴火  池田カルデラ噴火
                                   成川盆地、鰻池、山川湾で噴火
                                               大渡遺跡  南摺ヶ浜遺跡

 29000年前        7300年前         5500年前         4000年前  3700年前



 上記、図録からの引用の文を、あらためて上に書き記してみました。続いて
赤字で抜き出したのは、鹿児島県でのカルデラ噴火の記録です。


 
  
  ≪左写真、石垣島人骨(旧石器時代)≫ ≪中写真、イブスキ人人骨(縄文時代後期)≫

 
   ≪左写真、水迫式土器(縄文時代草創期)≫ ≪右写真、西多羅ヶ迫式土器(縄文時代草創期)≫



 
 ≪第3章 海浜に葬られたイブスキ人≫


南九州の古墳時代


南九州の古墳→南薩の墓制


山川・生川遺跡の調査

遺跡の発見→成川遺跡の発掘→続く成川遺跡の調査


 
 



≪第4章 イブスキ人の起源≫


弥生人の地域差


九州の弥生人は多様→南九州の古墳人も多様


成川プロジェクト始動

イブスキ人を探す旅


  

 

 
≪イブスキ人を探す旅≫

 約3万年前に大陸から南西諸島を経由して薩摩半島の南端にたどり着いたイブスキ人。彼らは、種子島の人々と類似した石器の作り方、選び方をしていたため、大隅諸島から九州本土に渡ったパイオニアと考えられます。その後、列島でも古い段階の土器を作り出し、いち早く縄文文化を花開かせました。
 しかし、この豊かな縄文文化を一変させる出来事が起こります。鬼界カルデラや池田カレデラ等の火山噴火です。縄文時代早期~中期にかけての度重なる火山噴火でイブスキ人は絶滅、生き延びたとしても生活を再開させることなく、一度はイブスキの地を離れてしまったようです。
 イブスキ人が帰ってくるのは火山の噴火が落ち着いた縄文時代後期。池田カルデラの噴火から2000年ほど経った頃でした。この時期のイブスキ人は南西諸島の人々と活発に交流を行います。その証拠に、指宿の大渡遺跡や南摺ヶ浜遺跡では、南西諸島で作られたと思われる土器が出土しています。土器が一人で動くことがないため、南西諸島の人々と海を介した交流をおこないながら、もたらされたものと考えられます。(以下略)



 上記、イブスキへと南西諸島から渡って来た祖先は、どういう経路で陸路で北九州へと北上して行ったのか、また、南西諸島から海を伝ったと同様に、海を伝って四国へと渡って来たのだろうか?

 昨年、小生の住む愛南町の平城貝塚から出土した埋葬人骨のDNA鑑定の結果、調査報告した覚張教授は『現代日本人に7%しかない「M7a」というグループに分類された』として、『沖縄県石垣島の2万4千年前の洞穴人と同じ』であると、南方がルーツの可能性が高いとの考察をしています。

 大抵の博物館と同じように、私たち二人だけの来訪者かと自由に見て廻っていたのですが、いつの間にか、若いお嬢さん二人組が見て廻っていました。一方が、展示物を見ながら何か言っているので、これらの発掘に携わっていた人なのかも知れません。


 結局、『指宿市考古博物館 時遊館Coccoはしむれ』で一時間半余りを費やしてしまいました、指宿での宿泊は旅館を予約していました。ナビを入れ直して、午後4時過ぎに入館しましたが、少し小生らには荷が重い旅館の格だったのかも知れません。

 ロビーには「秀」と名付けられたギャラリーがあり、飾られている書や掛け軸は、当然、鹿児島県の著名人(維新の愛雄)の物で、この旅館の由緒を物語っているのでしょう。


 この時は気が付かなかったのですが、この中に置かれていた壺にはこの旅館の改築の際に出土した弥生土器も飾られていました。


 


後日、指宿市のホームページに下記のお知らせが載っていました。

指宿市 時遊館

 

新型コロナウイルスの対策について

更新日 2020年03月13日

指宿市新型コロナウイルス対策本部を設置しました

市では、令和2年2月27日(木)に指宿市新型コロナウイルス対策本部を設置いたしました。 これまでも、各部署で新型コロナウイルス感染症対策を講じておりましたが、情報共有を行い、必要な対策を講じていきます。

対策本部では、人が多く集まるイベント等の対応として「指宿市のイベント開催に関する基本方針」を定めました。

市民のみなさまには、季節性インフルエンザ対策と同様に手洗いや咳エチケットなど感染症対策に努めていただきますようお願いいたします。



のお知らせが発表されています。幸運にも、今回、小生らの『フルムーン夫婦の旅』が無事に実行されました。尚、上記「周知」などは随時更新されていますので、今時点でも同様とは限りませんことについては、ご了承願います。(尚、この稿を書いている際(3月27日)、鹿児島県で初めてのウイルス感染者がでたとの報がありました。)