縄文文化を巡る!   
 2020年「waiwai隊」 縄文遺跡を巡る旅(九州)
姶良市歴史民俗資料館(2020年2月15日)


 昨日旅館に着いた頃は、傘はささなくてもよいくらいの雨でした。しかし、TVでは15日は雨模様の予報でした。そんな情報が頭の片隅にあったのでしょうか。床に就いて、頭の中で『明日はどうしよう?』と、あらぬ考えが巡り巡っています。
 そんな考えの一つに、当初の予定の『月曜日に宿泊先の宮崎市のホテルから≪上野原縄文の森≫へ寄ってから鹿児島中央駅へと向かい帰路に着く』との計画を反復していて、重大な間違いがある事に気付いたのでした。そうです。通常、博物館などでは月曜日は休館日の筈。鹿児島県で、否、九州で一番寄ってみたかった場所が『上野原縄文の森』なのです。『ここに寄らなくて、どこへ行くの?』との天の声。

 朝、目覚めると直ぐに計画の変更です。と言っても、誰かにその事の承認が必要な訳でもありません。相棒に計画の変更を言うだけで済みます。至って簡単。結局、

 
指宿→姶良→上野原縄文の森(霧島市)→霧島温泉(泊)

 とカーナビに、行き先の変更でOK.朝食を終え、8時過ぎには館内を見て廻りました。廊下を歩いていてビックリ、≪山下清≫さんの桜島が飾られていました。勿論、本物かどうかは聴けませんでした。


 



 いつものように下記には、小生がこのサイトで使用している縄文時代の時代区分を載せておきます。

【AMS法による区分】

草創期    15,000~12,000年間
早期      12,000~7,000年前
前期      7,000~5,500年前
中期      5,500~4,500年前
後期      4,500~3,300年前
晩期      3,300~2,800年前






【関連リンク先】姶良市歴史民俗資料館 


資料館パンフ(PDF)は、コチラから

   

 
 ・2月11日(火)  松山  ~岡山 ~博多 ~大野城(コミュニティバスで大野城心のふるさと館を往復) 博多  ~姪浜(経由) ~東唐津(泊)
 ・2月12日(水)  東唐津  ~(末蘆館)唐津  ~吉野ヶ里公園(タクシーで往復)  ~鳥栖(泊)
 ・2月13日(木)  鳥栖 ~新鳥栖 ~熊本 ~山鹿市(山鹿市立博物館まで往復) ~ 熊本城観光 ~ 熊本 ~鹿児島中央(泊)
 ・2月14日(金)  鹿児島中央 ~鹿児島県歴史資料センター ~鹿児島市ふるさと考古歴史館 ~指宿市考古博物館 時游館 Cocco はしむれ~指宿(泊)
 ・2月15日(土)  指宿  ~姶良(姶良市歴史民俗資料館) ~上野原縄文の森 ~霧島温泉(泊)
 ・2月16日(日)  霧島温泉  ~西都市(西都原考古博物館)  ~宮崎埋蔵文化財センター ~宮崎市(泊)
 ・2月17日(月)   宮崎市  ~鹿児島中央  ~岡山  ~松山
 
【当初の計画】
 
 
 ・2月14日(金)  鹿児島中央  ~指宿(泊)
 ・2月15日(土)  指宿  ~指宿市考古博物館 時游館 Cocco はしむれ ~鹿児島県歴史資料センター 鹿児島市ふるさと考古歴史館 ~姶良(姶良市歴史民俗資料館) ~霧島温泉(泊)
 ・2月16日(日)   霧島温泉  ~西都市(西都原考古博物館)~宮崎埋蔵文化財センター ~宮崎市(泊)
 ・2月17日(月)  宮崎市  ~上野原縄文の森 ~鹿児島中央  ~岡山  ~松山
 
 


 冒頭にも述べたように、急遽、スケジュールの変更となりました。カーナビに「姶良歴史民俗資料館」を入力すると、鹿児島市の中心地を通らないルートで、有料道路経由のルートを選びました。

 
指宿 (県道238号線)~ 谷山IC (指宿有料道路)~鹿児島IC (九州自動車道)~ 姶良IC

 のルートをナビは示しました。どんよりと曇った空模様で、ポチポチと落ちていた雨も急に強くなったのは鹿児島ICの手前でした。やがて、土砂降りの様子となって九州自動車道を走りますが、前方が雨で煙り十分に視界を確保出来ないまま走る事となります。

 鹿児島市内を抜けた辺りで小雨となって、間も無くナビは姶良ICで降りるように示します。九州自動車道から降りると、間もなく国道10号線を走り、少しで目的の姶良市歴史民俗資料館の駐車場へ着きました。駐車場には、隅っこに通勤者が停めていると思われる車が並んでいました。


 

 まず、≪旧石器・縄文時代≫のパネルが架けられています。そしてパネルは『南九州と火山災害』→『鹿児島市城山からみた桜島』→『硫黄島【鬼界カルデラ】』→『建昌城跡の火山灰』→『建昌城跡の立地』などのパネルが所狭しと架かっています。下記に、≪旧石器・縄文時代≫と≪南九州と火山災害≫のパネルから引用します。


≪旧石器・縄文時代≫

 今から1万年以上の昔を旧石器時代といい、人びとは石で作った道具(石器)を使って暮らしていました。その後の縄文時代では、土器を使い、今からおよそ2300年前まで続きました。
 当時の人びとは、野山で狩りをしたり、海や川で漁ををして暮らしていました。市内には旧石器の遺跡は発見されていませんが、縄文遺跡は10ヶ所あります。


≪南九州と火山災害≫

 日本の代表的な火山地帯である南九州には、数多くの火山やカルデラ(=火口状の凹地)があり、度重なる巨大噴火が繰り返されてきた。
 旧石器時代には阿多カルデラと姶良カルデラ、縄文時代には桜島と鬼界カルダラ、開聞岳が噴火しており、当時の人間生活に大きな影響を与えたと考えられる。
 特に、鹿児島湾奥に位置する姶良カルデラの爆発は大規模で、噴出した火砕流は半径100kmの広大な範囲を覆い、シラス台地を形成した。そして火山灰は遠く北海道まで飛んでおり、日本全国で旧石器時代の前期と後期を分ける基準層として用いられている。
 姶良カルデラには爆発後、海水が入り込み、現在の鹿児島湾となっているが、その火口壁は、姶良市から鹿児島市に至る国道10号線に沿ってみることができる。

 

 小生がここ姶良市へ寄る理由は、只、≪姶良カルデラ噴火≫に理由があります。上記のように、姶良カルデラの噴火(7,300年前)によって上野原にて栄えていた縄文時代の集落は壊滅したと考えられています。また、その規模の大きさから、西日本の縄文人の存続さえも不明だという事です。

 そして、鬼界カルデラ噴火につぃては、その前後で旧石器時代の前・後期と分けて論じられています。そんな日本の先史時代の中での大きな分かれ目の噴火だったのです。



≪旧石器・縄文時代≫

  

  



 続いて、パネルは『姶良市内最古の遺跡』→『縄文時代草創期の遺構』→『縄文時代早期の定住集落』→『縄文時代早期の遺構』と、パネルによって解説されています。既に述べているとうり、この地方の人の痕跡はそれぞれ火山噴火によって根絶している様が垣間見えます。以下に、それぞれの時代の様子を引用します。

 ≪姶良市内最古の遺跡≫

 建昌城跡で検出された縄文時代草創期(約13000年前)の遺跡は、現在姶良市内で最古の遺跡である。
 縄文時代草創期とは、氷河期の寒冷な気候のもと、マンモスなどの大形哺乳動物を追いかけていた旧石器時代の「遊動生活」から、一定場所の利用のくり返しや恒常的利用を行う「定住生活」に転換していく過渡期にあたる。生活スタイルの面でも、豊富なドングリ類を土器を使ってアク抜きし本格的に利用したり、中・小型動物を捕獲するために弓矢を用いるといった大きな変化がみられる。
 全国で400遺跡以上確認されている草創期遺跡の中で、竪穴住居の可能性をもつ遺構が検出されている遺跡はわずかに12遺跡であり、鹿児島県内では建昌城跡を含めて4遺跡(鹿児島市掃除山遺跡・西之表市鬼ヶ野遺跡・中種子町三角山遺跡)しか例がなく、きわめて貴重な遺構である。また、竪穴状遺構以外にも集意思や連穴土坑など、人々が生活していた痕跡が明確に残されており、早期に受け継がれる遺構のセット関係を考える上でも重要な意味を持っている。
 出土遺物の検討によると、土器は鹿児島県内に類例はなく北部九州の土器との類似性がみられ、石器でも黒曜石やホルンフェルスといった石材が遺跡近辺ではなく遠方から搬入されており、人々が広域の生活基盤の上に建昌城跡を継続的に反復利用していたことが想定できる。また、遺跡内には黒曜石の剥片が集中する範囲があり((下図)、石器の政策を行った可能性が高い。
 しかしながら、この草創期の集落は、薩摩火山灰の降灰によって途絶することとなったと考えられる。

≪縄文時代草創期(約13000年前の遺物≫


≪縄文時代早期の定住集落≫

 建昌城跡の縄文時代早期の遺跡は、出土土器(加栗山式)の形・文様の類似性から、その大半が上野原遺跡(国指定史跡)とほぼ同じ時期であることが分かる。【上野原遺跡の竪穴住居跡(52基)には、埋土に桜島の火山灰(P13・約10600年前)を含むものがあり、少なくともこの火山灰の降灰以前に住居が造られている。】
 以降の位置関係には(下図)、竪穴状遺構・炉状遺構が環状にめぐり、中央の空間に集石遺構が集中するという傾向がみられる。しかし、これら多数の遺構は一時期に同時存在したのではなく、あくまでも遺跡地がくり返し利用された証拠であり、各遺構が同じ場所に上下に重複して造られていることもこの事実を証明する。同時に存在していた竪穴状遺構の数は、上野原遺跡や鹿児島市加栗山遺跡の調査で想定されたように、最大でも5~6基程度であったと考えられる。
 いずれにしろ、縄文時代早期に
建昌城跡は上野原遺跡と同様に拠点的な場所として利用されており、この2遺跡に共通する鹿児島湾に面した眺望のよい台地上には、今後も早期の集落跡がみつぃかる可能性が高い。
 土器(展示品)の出土量から遺跡利用の変遷を推測すると、早期初頭(水迫式~前原式期)には単発的な利用が始まり、志風頭・加栗山式期には多数の施設をもつ集落が営まれ、人々が継続的にくり返し居住し、多数の遺物を残している。しかし、次の吉田式期には急激に利用が縮小し、その後米丸マールの噴火まで小規模の利用が続いている。
 以上のように縄文時代早期に約2千年間も続いた利用は、最終的には米丸マールの噴火により途絶えている。



 上に引用中にも出てきた上野原遺跡には、この資料館の次に訪れる遺跡ですので詳細は次稿に譲ります。しかし驚いたのは、縄文草創期の遺跡です。なんと、13000年前の竪穴住居だそうです。  さて、冒頭のパネルの『今から1万年以上の昔を旧石器時代といい、人びとは石で作った道具(石器)を使って暮らしていました。その後の縄文時代では、土器を使い、今からおよそ2300年前まで続きました。』と、小生の使用する歴史区分とは違う表現を使っていますが、小さな市の資料館ではよくある事なので、最近は気にしなくなりました。

 新たな知見が出てきた際には、該当の資料を作った当時の考え方をゼロクリアーすることも必要と考えます。




 
 

  

≪弥生時代以降≫
 
 

 

 

 

 2階のフロアをぐる~っと見廻って、10時半頃には一通り見終えました。私たちの場合は、旧石器時代から縄文時代については熱心に観察しますが、それ以外についてはす~っと通り過ぎたりします。



 さて、鹿児島県については前項のイブスキ市と同様の新型コロナウイルス感染症に関する情報は、姶良市のホームページに下記のお知らせが載っていました。

新型コロナウイルス感染症に関する市長メッセージ

市民のみなさまへ

 

3月26日、本市において新型コロナウイルス感染者が確認されましたのでお知らせします。

県の公表の通り、感染された方はイギリス在住の40代の女性です。現在県内の感染症指定医療機関で適切な衛生管理の下、入院しておられます。感染経路や接触者等の情報については、「姶良市内の発生状況について」でお知らせしておりますのでご確認ください。

私からはまず、感染者ご本人に対しまして心からお見舞い申し上げます。県内最初の感染者ということでご心労もあるかと思います。報道関係者、市民のみなさまには、そのあたりのご配慮をお願いしたいと思います。

本市では、これまでも対策会議を開催し、必要な対策を講じてまいりましたが、感染者が確認されたことで、対策本部を立ち上げ関係部局に対策の指示を行ったところです。

市民のみなさまには、これまで通り国や県、市が発信する情報を踏まえて、冷静に対応していただきますようお願いいたします。今後の感染拡大を最小限に防ぐためにも、個人でできる対策を実施していただきますようお願いいたします。

予防対策としましては、頻繁に手洗いをしていただくこと。また風邪のような症状が見られる場合には外出を控えられることをお願いします。室内の換気を頻繁に行い、特に至近距離で会話する環境の場合は、風通しをよくするなど工夫してください。

今後は県と連携しながら、市民の安全・安心のために必要な措置を講じてまいります。過剰に心配することなく咳エチケットや手洗いの徹底など、通常の感染症対策に努めていただくようお願いします。新たな情報が判明し次第、迅速な情報提供に努めてまいります。

 

姶良市長 湯元敏浩



 上記、姶良市のメッセージは、前稿の指宿市で「鹿児島県で一人の感染が判明しました」と載せましたが、今回、姶良市のホームページを見て、上記の情報を知りビックリです。尚、この記事を書いている(4月2日現在)時点でも、鹿児島県では『陽性は一人』のみでした。