縄文文化を巡る!(番外編)  
 「waiwai隊」 縄文遺跡を巡る旅(四国・愛媛編)・・大洲市の弥生遺跡
≪都谷遺跡≫
 2019年8月10日(土)
 大洲の弥生遺跡と云えば、≪村島宮の首遺跡≫の現地説明会に参加したのが、2017年8月の末でした。今回の現地説明会は、10時からとの新聞記事です。事前に市へ問い合わせると、「新谷公民館へ9時半に集合して貰えば、バスで向かいます」との事でした。
 当日朝、カーナビに地道でのルートで新谷公民館を入力すると10時前の到着予定でした。当然、松山自動車道の利用へと変更して、向かいました。夏の帰省ラッシュでお盆の土日にも拘わらず、スムーズに走れます。また、松山道の途中で工事中の『中山スマートIC』は、伊予市の旧石器集落跡の『高見T遺跡』でした。

 そして、ルート変更後のカーナビの当初予定到着時間より、10分ほど早く到着しました。出発を待っていたマイクロバスには10名程の人が乗り込んでいましたが、私達が乗り込んだ後にも参加者が次々に到着して、満杯の参加者を乗せて、予定時間を少し遅れて出発しました。バスは、大洲から長浜への道を走り、松が花橋を渡って、直ぐの道路脇に停まりました。そこから都集会所までは、数分の歩きでした。この都集会所が現地の集合場所のようで、地元のボーイズの野球少年らしき集団も集まっていました。そして、10時頃には、地元のオジサンやオバサンも沢山集まってきました。



 



 都集会所の受け付けで貰った≪現地説明会資料≫から、最初の部分を以下に転用しておきます。


                               現地説明会資料
                               令和元年8月10日
        都谷遺跡

T、調査の概要
 1.調査名   都谷遺跡第4次試掘調査
 2.所在地   大洲市新谷
 3.調査期間 令和元年6月〜8月(予定)
 4.調査面積 約24.5u(第4次分)
 5.調査体制 調査主体:大洲市教育委員会/調査指導:下條信行 愛媛大学名誉教授(考古学)
 6.調査の目的
  大洲市新谷の都谷遺跡では、昭和初期から現在に至るまで、多数の弥生土器や石器が採集されてきました。しかし、これまで長年の間、遺構は未発見のままでした。このため、平成28(2016)年度より、遺構範囲の確認や、遺構の検出を主な目的として、試掘調査を断続的に実施しています。
(以下略)



 
 都集会所へは、新谷公民館からバスで20数名が乗り合わせてきました。そして、少年野球の子達や地元の人との30数名を合せると、50数名の参加で現地説明会が行われます。大洲市育委員会による都集会所での開会の挨拶は、先年の村島宮の首遺跡の現地説明会と同様に大洲市の課長の挨拶で始まりました。

 一応の挨拶と担当者による説明が終わると、都集会所から10分ほど集落の裏山の急斜面を登って行きます。現地の地図が現地説明会資料に載っていましたので下記に転用します。今日の説明会は、B区での説明会とのことで、他にA区やC区も調査済みとのことですが、まだまだ発掘されつくされてはいないようです。




 今回の現地説明会のB区での遺構は、建物の跡と思われる形跡と、上の方から流れ込んだと思われる遺物(土器や石器類)などが掘り出されています。「規模的には、村島宮の首遺跡より小規模ですが、同様の遺物が見つけられています」との説明です。この場所が段状遺構であったという説明は、先の村島宮の首遺跡と同様の説明です。

 

 
 この遺構のある山間の地には、クリが植えられています。丁度、この時期、地面に落ちているクリなどもあり、小生の「当時、クリの栽培もしていたんでしょうかねぇ〜」には学芸員さんも「何とも言えません」としか応えてくれません。また「この地層は、カルデラ噴火の火山灰が積もったものです」と、7,300年前の鬼界カルデラ噴火の灰が積もった層の説明がありました。それは、建物の柱の穴などを掘りだす際などに開けられたトレンチによって現れたようです。


 説明会資料には、当遺跡について

V.都谷遺跡の発見とこれまでの経緯
 この都谷遺跡は、昭和の始め、地元の熱心な郷土史家らが発見したと思われます。昭和3(1928)年には、著名な人類学者である鳥居龍蔵氏が、5日間にわたって大洲盆地を視察した際、この都地区と周辺を調査したことが記録に残されています。次いで昭和5(1930)年には、國學院大學教授などを歴任した樋口清之氏が、弥生土器や石斧の発見を報告しています。これが、都谷遺跡における最初の遺物発見の報告となりました。
(以下略)


 とあり、今回の調査成果とし、@段状遺構の発見と、A特徴的な遺物の出土として、土器と石器・石製品(別項の写真を参照)の説明が紹介されています。そして、以下に現地説明会資料を載せます。








 
 

 


 

 

 
 


帰宅後、web検索で、NHKのローカルニュース(8月7日)での放映が見つかりましたので、下に載せます。

愛媛 NEWS WEB
弥生時代の都谷遺跡説明会

弥生時代の土器が見つかってきた大洲市にある「都谷遺跡」で建物の跡が初めて見つかり、発掘にあたった市は、当時の暮らしぶりを知る重要な手がかりだとして、さらに調査を進めることにしています。
大洲市新谷の山あいにある「都谷遺跡」は、昭和の初めごろから畑などに埋まった土器が発見されてきた2000年以上前の弥生時代中期の遺跡で、おととし本格的な発掘調査が始まりました。
7日初めての現地説明会が報道関係者向けに開かれ、幅8.2メートル、奥行き3.2メートルの範囲に、柱の跡や排水に使われたとみられる溝が見つかったことが説明されました。これは都谷遺跡に建物があったことを示す初めての調査結果で、市は当時の人たちの暮らしぶりを知る重要な手がかりだとして、建物の用途などを詳しく調べることにしています。また、瀬戸内地方の沿岸部で発掘される「凹線文土器」も確認され、幅広い交流もうかがえるということです。大洲市教育委員会の藏本諭学芸員は「これまでにない発見で興奮しています。大洲市にもこのような遺跡があることを多くの人に知ってほしい」と話していました。
一般向けの現地説明会は8月10日に開かれます。 



 上記、段状遺構は、一昨年の村島宮の首遺跡と同様の遺跡という事ですが、まだまだその全容が解明されていないようです。

 現地での説明が一応終わりましたが、次々に質問が続いていました。現地の説明の後は、集会所に展示している遺物の説明を受けて解散となりますが、何せ、大勢の参加者です。降りて行った順に説明を聞くこととなります。次々の参加者が降りて行く中、小生も学芸員の方に尋ねました。「沢山の土器が出て来たようですが、2100年前の土器という事は、その時期には稲作が導入されている筈ですが、食料の調達はどうしていたのですかねぇ〜」には、そのあたりは判らないそうです。


 都集会所に戻り、学芸員さんから今回掘り出された土器などの説明を聞きました。そんな中、綺麗な壺が掘り出されていました。「それは、こちらのお父さんが見つけられました」と、「一昨年、偶然にも自身の畑から掘り出した」とのお話でした。また、珍しい石器として石の剣が掘り出されていました。ここで製作されていた石斧については、木を切るためのものであるのは確実でしょうけど、剣については、闘うための道具=武器として造られたのでしょうか?


 小生が、主に興味が湧く事柄は「その当時、どういう生活をしていたのか?」という事で、「ここで最古のなになにが掘り出された」や「新発見のなになにが出た」とかの「新発見もの」ではありません。以下に、小生が参考にしている文献で、「愛媛の記憶データーベース」からの引用を下記に引用します。


愛媛県史 原始・古代T(昭和57年3月31日発行)

3 前期の南予地方

 南予の地域区分

南予地方のうち伊予灘に流入する肱川水系には、中流で大洲盆地、上流で宇和盆地の二つの比較的広い沖積平野を形成している。この二つの盆地は同じ肱川水系に属しているものの、大洲盆地は標高一〇メートル前後であって伊予灘から肱川を伝っての交通が中心である。宇和盆地は肱川の最上流にあって標高二二〇メートル前後で、大洲盆地とは鳥坂峠を越えなくてはならず、直接の交通路は宇和海に面する三瓶や八幡浜であろう。

 

 大洲地域

 大洲盆地は肱川の氾濫原から形成されているため、最近まで洪水の際に冠水を余儀なくされていたところであり、盆地底には集落は形成されず、すべて盆地周辺の山麓の微高地上に成立していた。弥生遺跡の発見もほぼ現在の集落分布と一致していたため、遺跡は盆地底にはほとんどないものと理解されていた。しかし、最近の発見によって少なくとも弥生前期から中期中葉までは、主として盆地底の低湿地中か低湿地に接する微高地上に立地することが明らかとなった。

 大洲地方の弥生前期初頭の遺跡としては慶雲寺遺跡をあげることができる。慶雲寺は肱川が五郎で大きく蛇行する付近の左岸の小さな低位の河岸段丘面上にあって、現在の肱川の水面との比高差はわずか三メートルである。慶雲寺からは縄文晩期末の影響を色濃く残す深鉢とともに板付T式併行の壷と甕が出土している。深鉢が縄文式土器で、壷・甕が弥生式土器であることは、愛媛県において縄文晩期末に弥生式土器が出現する過程をよくあらわしている。慶雲寺西方約七〇〇メートルの大又から重弧文を有する壷が発見されているが、その施文手法が櫛描きである点、中期初頭に位置づけるのが無難である。

 慶雲寺の対岸の矢落川の川底にある都遺跡出土の中期の都式土器のなかには、箆描きによる文様を持った土器が含まれており、前期にさかのぼる可能性がある。



 現在も過去にも、大洲盆地は河川の氾濫に遭遇しています。そんな中での遺跡の発掘は困難な事である事は、十分に推し量れます。そんな中、自然の脅威の下、共存してきた我々の祖先は平野部に集落を造り、住居を移して成活を営むこととなるのは、近世になって以降だろうと推測するものです。

 縄文時代には、森の恵みを手に入れて生活していた先祖は、稲作の導入によって以降、盆地部へ進出してきたはずです。つまり、その生活は一変する筈なのです。小生の興味はその一点にあります。つまり、動物を追って日本列島に辿り着いた先祖が、定住することとなった(縄文時代の幕開け)契機と、それが終焉することとなった契機が知りたいだけです。