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「waiwai隊」 縄文遺跡を巡る旅(四国・愛媛編)・・大洲の弥生遺跡
≪村島・宮の首遺蹟≫
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2017年8月27日(日) |
まず≪大洲「村島宮の首遺跡」 段状遺構に多数の柱穴≫の見出しの新聞記事(2017年8月25日付)を目にしました。その記事には『市教委は27日午後1時半から現地説明会を開く。集合場所は菅田町菅田公民館駐車場。』との案内でした。発掘場所は、集合場所から肱川を渡った山中とのことでした。この辺りについては地理勘もなくて、適当な昼食場所を思いつきません。結局、よく知っている海岸沿いの長浜経由で、しばしば利用する昼食の場所へ立ち寄った後、集合場所へ向かいました。
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≪データベース『えひめの記憶』≫より、以下の記事がヒットしましたので引用します。
愛媛県史 資料編 考古 弥生時代遺跡
七六 村島遺跡(D〇三五)
大洲市菅田町字村島宮ノ首
肱川が大洲市に流れ込んだのちも根太山の山麓を大きく嵌入蛇行している。この肱川左岸の標高一四〇mの山腹斜面に本遺跡は所在している。
遺跡については、昭和四年(一九二九)に樋口清之が発表をし、中期後半の石器製造跡としての可能性を強く指摘している。遺跡の正式な調査は行われていないが、現在までに大量の遺物が出土している。土器のうち甕は上胴部に二〜三本の三角凸帯を持ち、口縁端に刻み目をもつものが卓越する。なかには凸帯下に笹状の貼り付け文を持つものも認められる。壺は漏斗状に開く口縁部が肥厚ないしは上部にわずかに拡張され、そこに箆描きによる山形、格子目文を、頸部に指圧痕のある凸帯を持つ。これらの土器群は第W様式第1型式の範疇に入るが、明らかに東・中予地方とは異なり、この頃から南予地方に特有の土器が出現しはじめる。石器は石包丁・石製紡錘車などの出土もあるが、その特色は多量に出土する打製石斧であろう。現在までに一〇〇個以上の石斧やその未成品、破損品が出土している。これらと全く同じ石斧が大洲盆地の中期遺跡から発見されていることは、本遺跡が石器製造跡である可能性がきわめて高く、注目される。(長井数秋)
上記データベース『えひめの記憶』については、コチラから |
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集合場所には集合時間の少し前に着きましたが、担当者の方が駐車場で案内していました。プリント(以下参照、8頁)を手渡され待つ事暫く、次々に参加者と思われる人がやってきました。やがてマイクロバスが到着し、私たちも乗り込み総勢10名程でしょうか、予定時間通りに出発です。
現地説明会の場所は、肱川の左岸を山の中へと林道を上がります。遺構は三島神社の下側から山側へと広がっているとのことです。
≪村島宮の首遺跡≫ 現地説明会資料 平成28年11月19日
T 調査の概要
1.調査名 村島宮の首遺跡 4次調査
2.所在地 大洲市菅田町下村島
3.調査期間 平成29年5月17日〜(継続中)
4.調査面積 約73u
5.調査体制
調査主体:大洲市教育委員会
調査指導:下條信行 愛媛大学名誉教授(考古学)
6.調査の目的
本遺跡出土と伝わる多数の資料が、市内の個人・団体から寄贈されたことから、遺跡の範
囲の確認、遺跡の具体的様相の解明、などを目的として調査を実施しています。今年度はB区
を中心に遺構の詳細調査などを実施しています。
U 村島宮の首遺跡とは
以下略
W まとめ
今回の調査において、段状遺構の一単位分が検出でき、その形状や規模について把握で
きたことは大きな成果といえ、さらにB14トレンチのような住居跡の可能性のあるものについて、
本集落での居住形態を考える上で重要な発見といえます。また、A区に続きB区でも段状遺構
が数多く検出され、本遺跡が段状遺構の多様された集落だった可能性が高まったといえます。
段状遺構が多様された集落の姿は、一般的な平野部の弥生集落とは大きく異なり、山に営ま
れた集落の在り方を示している可能性があります。それが山住み集落の特徴であるからなのか、
石斧制作を行った集落であるからなのかは、今後、実態を解明していく必要があります。
また、石斧生産については、石斧未製品やその剥片や政策道具などの出土数も増えており、
本遺跡内で石斧の製作が行われた可能性が高まっていますが、実際に石斧を製作した工房跡
の発見や、石斧の材料となる石材の採集場所を特定するには至っておらず、今後解明すべき
課題といえます。
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本来、縄文遺跡に興味を持ち始めて遺跡の現地説明会に参加してきたのですが、ふと目にした新聞記事中の≪弥生遺跡≫の現地説明会の参加を思いついたのです。それは、山中の『石器製作遺跡』ではないかという記事に興味を覚えた事です。
マイクロバスを降り、山へと入り込むと『宮の首遺跡・現地説明会 会場』の案内が建てられていました。受付の机には、“今までの出土品”が陳列されていて、傍には何ヶ所かのトレンチがあり、間もなく担当者による説明が始まりました。
昨年度は神社の下側のAトレンチの発掘調査でしたが、今年はここ山側を調査しているとの事ですそして、ここがB8トレンチという説明でした。以下に説明資料から抜粋します。
B8トレンチでは、段状遺構の北東端を検出することができました。北西向きに開かれ、平面図は端が屈折していることから、B8トレンチに近い『L』字か「コ」字状の形状になるものと考えられます。長さは検出部で約3.2m奥行約2.4mを測ります。壁沿いには溝があり、内部の平坦部は奥行1.3m〜1.6m程度の狭いものだったと思われます。平坦部内ではビットが4基検出され、炉跡のような痕跡は確認されませんでした。遺物は、土器類のほか板状石斧の完成品、伐採・板状石斧の未成品とその剥片、赤色珪質岩製の石鏃・小型刃器、その石核と剥片、砥石などが出土しています。
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ここでの説明を終えると、次の遺構へと滑りやすい植林の中を下ります。まだ調査中の遺構などもある中、B19やB17トレンチは伐採された林の中にありました。B16トレンチにはB6トレンチと同様、段状遺構と見られ、鴇類のほか板状石斧の完成品、伐採・板状石斧の未成品とその剥片、赤色珪質岩製の石鏃・小型刃器、その石核と剥片、砥石などが出土しているとの説明です。 |
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そこから少し下った場所は、林道の真上にあたる場所でした。その遺構が、新聞の写真に載っていたB14トレンチでした。少し長くなりますが、当日戴いたレジメから、以下を引用します。
B14トレンチでは、段状遺構の北東端を検出することができました。北西向きに開かれ、平面形は緩やかに弧を描いた半円形を呈しています。本来は円形だったものが前面を走る道路により一部が破壊されたとの見方もできますが、地形の傾斜角度からみると円形とするほどの平坦部は確保できなかったと推定され、当初から半円形だったものと考えられます。南東側の壁面には三日月状を呈したテラスが付属しており、このような遺構は本遺跡では初めての検出になります。長径で約8.6m、奥行は約4.0m以上を測り、壁沿いには溝があり、平坦部の範囲としては奥行3.0m以上の広い空間だったと思われます。平坦部内では32基ものビットが検出され、建替えが行われた可能性が推定できます。このうち5基には柱の痕跡(柱痕)が残っており、これらが最終段階に建っていた柱の可能性があります。北側では炭化物が分布する部分も検出されました。建物は、土器類のほか板状石斧の完成品、伐採・板状石斧の未成品とその剥片、赤色珪質岩製の石鏃・小型刃器・石錘、その石核と剥片、砥石などが出土しています。
(中略)
B14トレンチのように奥行きが広いビットの多いものについては、居住空間としては適しておりその可能性は十分に考えられます。ただ、居住跡と断定するにはその上屋構造の検討など、慎重に判断する必要があります。いずれにしろ、出土遺物が示すようにこれらの段状遺構内では何らかの生産活動が行われた可能性が高いと考えられます。また、B14トレンチのような大型の段状遺構については、本集落内において中心的な施設だった可能性も考えられます。 |
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≪過去に発見された遺物≫
(左、伐採石斧) (右、板状石斧)
(石器製作の道具)
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≪今回出土された遺物≫
(左、伐採石斧) (右、石器製作の道具、赤色珪質岩製石器)
(弥生土器)
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山中にある弥生遺跡については、既に久万高原町の『猿楽遺跡』の現地説明会にも参加の経験があります。その猿楽遺跡は、1000mを越える四国山地の只中にあります。その遺跡については、どういう用途で利用していたのかは、現時点では判明出来ていません。一方、宮の首遺跡については、発見当初から石斧生産集落ではないかという認識でした。その事は、下記の『参考資料』に記述がありますし、ここ三年来の集中発掘作業でも証左されています。只、四国の山中の遺跡については、山一面が植林されており道路でも通らない限り、発掘は困難を極めます。洞窟などの限られたスペースでは無いので、何処に痕跡があるかは皆目見当がつかないからです。
そして、最近になって高速道路建設などによって、遺跡が見つかっている例を聞きます。これらの瀬戸内海に面した「高地性集落」は、実態解明が今後の課題とされています。それと同時に、四国山地へと広がる山中の弥生集落についても、河川の近くに広がる河岸段丘などの集落とは違う目的があるものと考えられますが、同様に疑問点は尽きません。 |
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web検索していると、昨年の“現地説明会”資料がヒットしましたので、以下に引用します。
≪村島宮の首遺跡≫ 現地説明会資料 平成28年11月19日
T 調査の概要
1.調査名 村島宮の首遺跡 3次調査
2.所在地 大洲市菅田町下村島
3.調査期間 平成28年6月3日〜7月22日。11月4日〜(継続中)
4.調査面積 約80u(A区)
5.調査体制
調査主体:大洲市教育委員会
調査指導:下條信行 愛媛大学名誉教授(考古学)
6.調査の目的
本遺跡出土と伝わる多数の資料が、市内の個人・団体から寄贈されたことから、寄贈資料
の出自特定、遺跡の所在・範囲の確認、遺跡の具体的様相の解明、などを目的として調査
を実施しています。
7.遺跡の概要 〜村島宮の首遺跡とは〜
村島宮の首遺跡は、昭和の初めに地元郷土史家らによって発見され、石斧や石斧未製品
(製作途中の失敗品)などが多数採集されました。これらは國學院大學の樋口清之氏(考古学・
民俗学・文化人類学)によって学会に発表され、石斧や石鏃などの「石器製作遺跡」と指摘
されています。
昭和40年には発掘調査され、多数の遺物のほか、住居跡内に焼土や石組みの炉跡。
柱穴などが発見されています。その後の『愛媛県史』では、本遺跡は弥生時代中期
後葉(約2,000年前)の遺跡で、打製石斧の製作跡である可能性が高いとされています。
U 調査の成果
以下略
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≪村島宮の首遺跡に関する証左・研究史≫ 現地説明会 参考資料
@昭和初期
・地元の有友不覊太郎氏や城戸通徳氏・尾崎繁年氏(地元郷土史家)ら
によって遺跡が発見される。
・昭和8・12年に樋口清之氏(國學院大學)によって学会に発表され、石
斧や石鏃などを製造した石器製造した石器製造遺跡と指摘される。
「伊豫國喜多郡地方遺跡概説」『史前學雑誌』第5巻第2号
「大洲地方先史時代人の生活」『温古』送還号
A昭和30〜40年
・尾崎繁年氏や谷本保山氏(八幡浜市ぼ郷土史家)らによって再び遺
物が採集されるようになる。
・昭和38・41年に長井數秋氏によって弥生時代中期後半の土器群として
「村島式土器」と命名される。
「宇和町岩木洞穴遺蹟出土の弥生式土器について」『伊豫史談』第168・169合併号
「南伊予地方における弥生式土器」『西条農高研究紀要』送還号
B昭和40年
・大洲考古学会、長井數秋氏によって発掘調査が実施され、住居跡と
炉跡が発見される。
C昭和57・61年
・『愛媛県史』の中で長井數秋氏によって打製石斧の製作遺跡として紹
介される。
「農耕文化の形成と発展」『愛媛県史 原始・古代T』
「村島遺跡」『愛媛県史 資料編考古』
D平成15年〜
・市内の個人・団体から、本遺跡出土と伝わる石斧や石斧未製品など200
点を越える資料が寄贈される。
E平成26年〜
・大洲市教育委員会が発掘調査を開始する。
1次調査(平成26年度)
調査期間:2日 調査区:A1〜4・B1〜4トレンチ
2次調査(平成27年度)
調査期間:47日 調査区:A5〜16・B5〜13・C1〜8トレンチ
3次調査(平成28年度)
調査期間:継続中 調査区:A5〜7・17〜21トレンチ
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