四国のみちと遍路
                                                                     

2014年12月26日【環12(旧道三坂峠を下るみち その2)】
 先週の寒波襲来の後、相棒も小生も体調を崩してしまっていた。そして小生の昨日の病院での検査を終えて、懸案だった“旧道三坂峠を下るみち”の続編の踏破が、やっと実現することが出来たのだった。

 
 今日の出発点である、“桜集落”下へ愛車をデポしたのは9時46分だった。暫らくは、四国のみちは県道を利用していたが、歩く事15分ほどでまもなく谷を下に見る山沿いへとみちは続いていた。

 
 山道の対岸はダンプカーの出入り口がある場所で、頻繁に行き来しているようだった。山道を抜けると松山平野が広がっていた。先日写真を撮りにきた『網掛け石』も、眼前に垣間見えていた。その網掛け石には、10時9分に着いた。 記念撮影と番外霊場の大師堂へのお参りを終え、『浄瑠璃寺へ3km』の標識に従って再出発である。

 
 桜集落を抜けて山道に入ってからは“御坂川”の左岸を下って来たが、丹波バス停へ向かって橋を渡ることとなる。先日は広くなった道路脇に愛車をデポしていたのだが、今日は工事関係者の車が数台停まっていて、工事車両が動いていたのだった。歩き始めて半時間が経った頃、すぐ先に『工事中につき 通り抜けできません』の看板があり、小さく『お遍路さんも通り抜け出来ません』と、迂回路の表示があった。この丹波地区は、田圃の天地返しの“圃場整備工事”真っ盛りだった。この辺りは工事車両がバンバンと走っているが、県道が拡張されているので、そんなには危険を感じずに歩けたのだった。そして、道は旧坂本村の中心地へと向かったのだった。

 
 県道三坂松山線(207号)から県道久谷森松停車場線(194号)へと乗り換え、支所や郵便局がある通りを行くと、間もなく第46番浄瑠璃寺へは11時8分に着いた。まだまだ要領を得ないお参りを終えれば八坂寺へと遍路道を辿ったのは、11時35分だった。
 
 第47番八坂寺へは、田圃の中を辿る四国のみちで、ここかしこに貼られているシールは、道が交差している場所では心強いものだ。八坂寺の山門には11時50分に着いた。

 
 八坂寺でのお参りの最中に昼のチャイムが鳴った。相棒が浄瑠璃寺で頂いたみかんを食べて、文殊院を目指したのは、pm1時10分過ぎだった。第48番西林寺までの文殊院がある“恵原”と、同じ『えばら』と呼ぶ町の側にある小学校の名称が“荏原小学校(えばらしょうがっこう)”と表記されているのだった。

 
 そろそろ昼食にありつきたいのだが、ここまでは、喫茶店や昼食の食べれるような食堂が無かったのだった。そんな遍路道脇に目指す“文殊院”があった。『四国遍路開祖発祥地』の看板が掛かっている寺は、衛門三郎を祀る寺である。

          

文殊院について(webサイトより引用)
 当院は、弘法大師が衛門三郎の子供の供養と共に、悪因縁切の御修法をなさった四国唯一の、有り難いお寺であります。

 本堂には大師が刻まれたご自身のお姿と延命子育地蔵尊をお祀り、四国遍路元祖、河野衛門三郎の物語が記された、寛正時代の巻物も保存しております。

 その昔は徳盛寺と呼ばれていましたが、弘法大師が文殊菩薩様に導かれて逗留された後、文殊院と改められました。

 


お大師様と衛門三郎
 伊予の国荘原の強欲な庄屋であった衛門三郎は、托鉢に現れた旅の僧を弘法大師とは知らず、追い返そうと、大師の手にした鉄鉢を竹箒で叩き落としました。鉄鉢は八つに割れ、翌日から八日の間に三郎の八人の子供が次々に亡くなってしまいます。改心した衛門三郎は、四国遍路に旅立ち、21回目の巡拝で、死のまぎわ大師に罪を許され、大師が文殊院で因縁切の修法を行ったあと、伊予城主の嫡男として生まれ変わったと伝えられています。(詳しい物語は納経所に本があります)。


          

 
 文殊院を出て、少し歩いていると、以前利用した喫茶店が近くにある事を思い出した。その近くのバス停でバスの時間を確認して昼食へと向かった。バスの時間までは、15分ほどだったので、次のバスを利用することとした。(この路線は、約一時間毎である)

 昼食時間はたっぷりとあるので、食後のコーヒーを注文してゆっくりとした。バスは、5分ほど遅れてやってきた。乗客は3名で我々が乗り込んで5名で、八坂寺前で1名、坂本で1名のご婦人が降り、最終の丹波バス停で我々と若者の3名が降りたのは、14時20分だった。朝方辿った道を桜集落まで引き返す道は上り坂で、疲れた足には堪えたのだった。所要、40分で愛車に辿り着いたのだった。

【費用】伊予鉄バス(横道〜丹波)・・・・・一人 ¥260


ちょっと 一息

     
丹波バス停の側に上掲≪一遍上人修行の地≫の看板が掲げられていました



2014年12月5日【網掛け石】

 四国のみちを歩こう・・と決めて、新たにウォーキングシューズを購入した。今日は11月22日に歩いた【root12(旧道三坂峠を下るみち】の撮影ポイントの“網掛け石”の確認に出掛けることとした。網掛け石の場所は、新しく整備された道路じゃなくて、旧道にある。取り敢えず、その分岐がある“丹波バス停”を探す。その場所は『北谷の彼岸花』へと別れる場所だった。その広くなった個所に車をデポしたのは、13時半だった。

 
 ここの四国のみちは、例に漏れず遍路路を利用している。案内標識は逆方向からだと判り難い。ここの変則の四差路もそうだった。暫らくウロチョロしたのだが、結局、御坂川を渡った向こう側へと遍路路は続いていたのだった。その川向の集落が榎の集落だった。

 
 道沿いには遍路道の案内と四国のみちの標識が設置されている。また、家の中にお地蔵さんが置かれている風景にも出会う。10分余で網掛け石の場所に着いた。傍らには真新しい“大師像”が新たに建立されていた。網掛け石の案内板には


 昔、弘法大師が大きな石を網に入れて、オウク(担い棒)で担って
いたところ、オウクが折れて山へ飛んでいきました。
落ちたところをオオクボ(松山市久谷町大久保)というように、
なりました。また石の一つは下の川に落ち、
もう一つはこの石であるといわれています。
この石は、表面に無数の網目がついている
ところから、「網掛け石」といわれて
います。


 と、書かれている。そして、道の向かい側に太子堂も建てられていた。ここには、網掛け石の由来が書かれたプリントが置かれていた。

 
 帰路には、英字で書かれたへんろの案内があり、古びた木の案内板もある。車を第46番浄瑠璃寺の駐車場へ停めたのは、“網掛け石の片割れが置かれている”というプリントを読んだからだった。もっとも相棒は、寺の裏にある池を覗いてみたかったからでもある。

   

 駐車場には一台も車は停まっていなかった。取り敢えず網掛け石の確認だ。案内標は見たのだが、目的の石がどこにあるのかが判らず、お寺の人に尋ねると先ほどの標柱の脇の石を指していた。思っていたより小さくて、な〜んて事は無い。その後は、暫らくの撮影タイムで時間潰しである。

 2014年11月22日【環12(旧道三坂峠を下るみち その1)】

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