2004年
           




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 11日【石鎚山】

 このところの日本列島の異常気象はどうしたものだろう?
 台風の襲来は過去には、たしかに蒙古軍を打ち負かしたのだろうが、21世紀の現在ではその軍勢は“朝青龍”以下の関取に代表されるのだろうか?と、書き出しが訳も分らないものとなってしまった。とにかく、大きなザックに詰め込んだ荷物の中から“ツェルト”が出てこなかった。おまけにザックカバーも出て来なかった。「なんじゃ、こりゃ!」予定もなにもあったもんじゃない〜〜。。。

 ふと足元を見ると、へんな虫が這っているではないですか!2cmほどの虫なんだが、“無視”出来ずに・・・家の外へ放してやった。
 とにかく何処か適当に登れる山はないか?それも骨のある奴で、メジャーな所で→→→→想い浮かべる事が出来たのは“石鎚山系”しかなかった。
 結局、10日はブラブラと過ごして、12日には大阪へ戻るので土曜日だけの日帰りの山行となってしまった。何故、雨の多い週末に当たるんだろうか?

   

 土小屋を8時半ころには出発だ。歩き始めて直ぐに登山道に木が倒れていた。それも次から次へと道を塞いでいたのだ。「鶴ノ子の頭」のトラバース辺りにかかると、前方に白装束の一団に追い付いた。「倉敷から来た。裏は初めてなので・・」と、女性の話だった。家族連れらしくて、子供から年配の人までの7人グループだった。倒木が道を塞いだ場所では避けて進むのだが、今回は単独行なのでピッチが早い。東稜の取付きに9時10分頃に着いたが、ちょうど10数名のグループが出発準備をしているところだった。ここで小休止だが、休憩もタバコを一服で腰を上げる。二の鎖元の表道との合流点の手前のルンゼに咲く花を撮りながら、前方の大グループの少し後を続いた。


   

 二の鎖元には白装束のグループが休もうとしているところだった。こちらのグループは青年が混じっている集団で、ほら貝を抱えているグループだった。それとは別に20名ほどの中高年隊が石段を上がっていた。「ここでは休めないな〜」と、三グループほどの集団の脇を「面河分岐」へと進んだ。トラバースの道には新しい階段の工事が進んでいた。もう下山者と行き違うようになるが、三の鎖あたりになると誰もいなくなった。予定どうり面河乗越しの手前で小休止である。

   

 10時10分過ぎに面河乗越しに着く。ここから西稜へと取付くのだが、稜線の踏み跡には草が覆い被さっていて歩き難いことこの上無い。灌木を分け、木や草に縋りながらの登行である。直ぐに岩峰が現れた。その南壁に落ちる岩峰には下からガスが越えていた。なんとか一つ目の岩を越えたのだが、最後(?)の3mほどの岩を登る自信が無かった。濡れた岩に取付くことが出来なかったのだった。とりあえず、今日は撤退の判断である。一人だけの空間に、ちょっとだけの充実感を握り締めて・・・

  

 さて、三ノ鎖まで引き返して、弥山を目指して新設の階段を登る。もちろん、西稜を覗いてから頂上小屋へと入った。頂上付近には、行きに会った大勢のグループの姿は無い。11時だった。ビールとカップラーメンでゆっくりと休憩である。帰路はゆっくりと降りるのだが、気持ちとは裏腹に足が勝手に進んでしまう。若いカップルや幼い子連れの人たちが登ってくる。13時ころには駐車場に着いた。
 帰路のスカイラインから“五代が森”や“冠岳”を写真に収めて帰宅である。

結局、今回の千代さんの留守中(26日間)の山は、この石鎚山だけだった。



 23日〜26日【一の森】滞在記

「山に恋する」’04一の森へ