2004年「waiwai隊」と友人の山歩きの記録  
   2004年9月23日〜26日  
     
   ・9月 23日(木) 徳島〜見の越   見の越〜一の森ヒュッテ   
     
    昨年の一の森を起点にした山行から一年が経てしまったが、小屋が開いている間に内田さんに会いに行く計画を立てた。松山の友人に連絡すると「行きましょう!」と、即決だった。
 結局、松山からの二人と出会って見の越を目指すので貞光の「道の駅」で10時の待ち合わせである。見の越で腹ごしらえなのだが、手打ち蕎麦の店は「今日はやっていない」というので、向かいの店へ入った。ここの女将さんと雑談していると、剣神社の奥さんだと云うではないですか。
 ついつい、「 天涯の華」の話しに及び話が弾んだのは云うまでもありません。ただ、「養子に来たのは主人の方で、私は嫁に来た」「小説は事実の部分を織り交ぜて書いているけど、そのとうりではないですね」との事で、もっともの話しだった。自伝では無いのだから当然だ。
 
     
     
     
    今回は山慣れない人も混じっているので、リフトを使う事とした。西島駅に12時20分ころに到着した。とりあえず剣を踏んでから一の森へ向かう事とした。直登コースを目指すのだが、千代さんのカメラザックは重そうである。山慣れない彼は、スタスタと先行して行ってしまう。頂上ヒュッテに13時10分ころに着き、小休止である。
 剣山の頂上はガスで覆われていて、真新しい木道が付けられているが様子が違って見える。頂上では記念撮影のみである。

 さて、一の森まで一時間弱のアップダウンである。ガスって周りの展望が無い中、二人にとっては一年半ぶりの再会が待っているので、休憩も採らないで一の森に向かった。小屋は、昨年と変わらない佇まいだった。中から顔を見せた内田さんも、また一年前と同じ笑顔で迎えてくれた。
 
     
   
     
     「今日は予約が入って無いので、あんたたちだけじゃ」と、それぞれの部屋に荷物を運んで、談話室で寛ぎ始めたのだが、それが宴会の始まりだった。夕食を挟んでの宴会は、夕食後も続いた。「今年は雨が多くて、客はさっぱりだ」「こないだの18号で道路も落ちてるし、来年はアメゴの大きいのが釣れるかも判らんぞ!」とか、いろいろな情報を仕入れるが、大阪から竿を担いでか・・と、内心悔しい思いだった。 結局、9時過ぎにはベットで就寝だった。  
     
     
     
   ・9月 24日(金)     一の森ヒュッテ〜槍戸山のピストン   
     
    5時過ぎに眼を覚まして、トイレに行った。辺りはガスに覆われて風がビュービュー音を立てていた。「今日は御来光は無理だな」と、再びベットに潜り込んだ。
 「ガスが晴れてきたゾ!」の声で眼を覚ましたのは、6時過ぎだった。千代さんの行動は機敏だった。合羽を羽織ってデジカメを下げて、いざ出陣である。何枚かシャッターを押すと、内田さんが「展望台の方に行こう」と云ったので三人で向かった。
 
     
 

 7時半頃、朝陽が射して来た。ホラ貝谷を挟んで、剣山にブロッケンの出現だった。夢中でシャッターを押すのだが、朝陽が雲に隠れたり現れたりの繰り返しだった。「Sさんに声を掛けたん!」と、同行の人をも忘れていた。頂上の方にいた“Sさん”に、「ブロッケンが出てるよ!」と叫んで、一緒に撮影会となった。そのうち“Mさん”が起き出して来た。「あっ!虹が出てる!」と、初めて見るブロッケン現象の事を知らなかった。
 結局、30分程のブロッケン撮影会を終え、朝食に小屋へ戻った。


写真 T
   
     
    松山からの二人は、今日山を降りるので適当な散歩コースとして「槍戸山へ行こう!」という事になった。槍戸山での撮影会は千代さんと内田さんに任せて、私達三人はゆっくりと過ごした。帰りに「この尾根で一番の五葉松を見せよう」と、内田さんに案内されたのは幹周りが3mもある古木だった。
 松山からの二人を送り出したあとは、ヒュッテでゆっくりと過ごした。しかし、それは私達だけで、管理人の仕事は次々とある。セットしているアラームが突然鳴るのである。「私には無理だわ!」と、もちろん千代さんである。



写真 U   
 
     
     
     
    今日も宿泊者は私達だけである。このヒュッテは町村合併により、近々村営から市営になるみたいだ。今日は荷揚げがあるというので、カメラを提げて見に行った。下の国道(438号)脇から3kmの索道で荷揚げが始まった。「こないだの台風で、ワイヤーに木が倒れて、その場所を見るのに苦労した」そうで、木の重みでワイヤーが10mも下がった箇所もあったそうである。点検道が無いので、事前に頂上小屋の新居さんに「何時までに連絡がなかったら探しに来て!」と、連絡してから点検に入るということだった。

 とにかく昨日とは違って、落ち着いた夕食を終え、今日も早めの就寝である。明日の陽の出を期待して・・・
 
     
     
     
   ・9月 25日(土)     一の森ヒュッテ〜ニク淵峠のピストン   
     
 

 アラームの音で目覚めたのだが、辺り一面ガスってしまっていた。全く朝陽は期待できなかった。昨晩、内田さんの提案は「ニク淵峠まで行ってみたら〜、雨の後にだけ現れる池がある」そうで、千代さんの重いカメラ持参での行程となった。
 とにかく8時半ころ小屋を出る。このルートは最近、地元の人たちによって“富士の池から峠越えで剣山スーパー林道まで”の道を整備したそうである。この尾根は地図によれば、日奈田峠を越え、天神丸を越え、高城山から雲草山に至る長大な尾根である。


写真 V   
 
     
    先年、四国山脈を縦走した“重松さん”は、この尾根を小松島から辿ったんだろう。それはともかくとして、私達の今日の行程は、ニク淵峠まで500mを降りて、また500m登り返すことになる。それに尾根道なので、少々のアップダウンは必然なのだ。
 追分までの間に、その尾根道が付いていた。笹が濡れているので、スパッツを付けているのだが、腿のあたりまで濡れて来る。
 
     
 

 台風の爪痕は、このルートも御多分にもれず木々を倒していて、歩き難い。笹原が広がる辺りで、鹿の角が落ちていた。半分折れていたが、ザックに仕舞った。「嬉しそうやねぇ〜」と千代さんが話しかけた。道はアップダウンを繰り返しながら尾根に忠実に付いていた。
 暫らく平坦な場所があり、小さなピークを越えると沢の音が大きくなり急坂が現れた。そこを降り切ると池が現れた。そこには“池の窪”の標識が付けられていた。内田さんの言によると、「地元の人は池のトウと呼んでいるらしい」との事だった。9時半だった。ここまで、一時間かかっていた。
 
     
 

 ここでは、重いザック(千代さんの)をデポして、小休止の後ニク淵峠を目指した。降り始めて二つ目のピークを越えたあたりで、赤テープを見失った。「今まで、ず〜っと付いていたから、この尾根は違っている、引き返そう」と後ろを振り返ると、右手(北側)にテープがあった。もちろん、踏み跡は明瞭である。高度はどんどん下がって行く。

 ず〜っと、ガスに覆われた大木の中に道は続いている。地図では1389mの手前がニク淵峠となっている。しかし、ここから「余裕があったら、林道に降りてみて」の内田さんの要望は「ここから250m降りるんや」で、峠で一休みだった。10時20分だった。林道への降り口に、木にネジ止めの案内標識が止めてあった。

 さて小休止の後、内田さんの願いに反して、私達は“池の窪”を目指した。再びの“池の窪”へは10時50分に着く。「登りなのに降りと変わらんの?」と相棒が不思議がっている。
 私も理由が判らないが、兎に角撮影会の始まりである。30分ほどの撮影会だが、昼食を持参していないので、急いで引き返す事とした。ガスは相変わらずで、強くなったり弱まったりだった。富士の池からの道に12時40分に出会った。腹ペコ状態である。小屋では、内田さんが私達の帰りを待っていてくれていて、一緒に食事を摂った。
 
     
    今日は、予約の6名(広島からの人たち)と、さきほど3名が電話で追加があったそうである。私達は、しばらく昼寝をする事として、部屋に戻った。
 夕方(3時過ぎ)3名が到着したようで、物音で目覚めた。食堂に降りると、3名が祝杯の準備をしていたのだが、挨拶をすると外へ道具を運び出した。仲間だけでダベリたかったみたいだった。

 今日は、私達を含めると12名の夕食を準備するので、私達もお手伝いをする事とした。もっとも私が出来るのは、配膳ぐらいなものである。焼却炉でゴミを焼き終え食堂で寛いでいると、6名のグループが到着した。するとなにやら賑やかになった。ガスが飛んで山並みと雲海が現れたのだった。相棒がカメラを抱えて外へ出て行った。当然私も、スリッパを引っ掛けて外へ出た。

 ガスというか雲の流れが速く、カメラを構えている間に刻々と景色が変わっていく。陽が射して夕陽のブロッケンがあらわれたものの、一瞬だった。シャッターを押す暇もなかった。そして、あたりは再び濃いガスに覆われてしまった。さて、夕食準備だ。


                                    写真 W   
 
     
 

 夕食は12名分で、6時頃にはみんな席についた。山小屋での食事は質素でヘルシーなのだ、手の込んだおかずが出せるわけが無い。もっとも一部の“北アルプス”の有名な小屋みたいに専用の調理師や、空輸で冷凍品を下ろす小屋は別だが・・。しかし、ここの小屋の白いご飯は旨い。これだけは自慢できる。
 
     
   

 食事を摂りながら「前鬼から上がったところに大木が群生している所があるんですね」と、相棒が大阪からの人に話しかけると「前鬼から上がる道なんか無い」「弥山でお参りしてから行くもんだ」とけんもほろろである。気まずい雰囲気になった。
 いろんな登山者がいるもんだ。かれら三人組みは、小屋に着くなり飲み続けて同僚の悪口を声高にしゃべっていた。記念の写真だけは撮っていたが、周りの景色など気に留めないみたいだった。ガスで周りの山々が見えなかったから仕方なかったのかもしれないが。

 
     
    とにかく、「朝5時にでるから、弁当にしてくれますか」に、「はい、いいですよ。どちらへ行かれますか?」にも「・・・」。何を考えているか判らないリーダだった。
 
     
     
     
   ・9月 26日(日)    一の森ヒュッテ〜見の越  貞光・・大阪  
     
     
     
    そんな大阪組が出発した後、ユックリと目覚めた。広島からの6名のグループは、リーダーのご夫婦と女性4名だった。歳には関係なく、女性が三人寄れば賑やかなのだが、昨晩にはなかった賑やかかな朝食は、その女性たちのせいではなかった。
 今朝も濃いガスに覆われていたので、寄り道は止めて「温泉で汗を流して帰る」そうで、8時ころ出発だった。内田さんが「三角点を案内します」と、見送りを兼ねて案内していった。
 
     
   

 昨晩からの喧騒が終わり、元の静かな小屋に戻った。コーヒを入れ、私達も下山準備である。3泊4日の静養の垢を温泉で流そう。コースは「トラバース道から“追分”へ少し行くと倒木が二本ほどある先に左右に大木があるから、それを撮ってかえればいい」の、内田さんのお薦めのコースを採る。


 その場所は、云われたとうりの巨樹の茂る林だった。相棒はいつものように「ああでもない。こうでもない」と独り言を云いながら、シャッターを押している。私のほうは“おいわさん”のいう、“手持ち無沙汰”状態である。半時間ほどの撮影会が終わって、元の分岐まで引き返した。トラバースの道は咲き終わった“キレンゲショーマ”に続いていて、やがて上り坂を少しで“刀掛けの松”に着く。その標識の裏には、枯れ木と未だ若い松が生えていた。
 
     
   
     
    小休止後、出発しようとすると、若い女性と老夫婦が上がってきた。「どちらが楽ですか?」と、ご婦人が聞いてきた。私は「楽かどうかは判らないが、真っ直ぐ登るほうが早いかもしれません」と、素っ気無く答えた。相棒に「そういう言い方は、失礼じゃない?」とたしなめられたが、カッパも持たないで、ペットボトル一本を提げて山へ登る?こんな人たちとは、あんまり話しをしたくなかっただけだった。

 しかし、そんな人たちとよく出会い始めた頃、リフトの西島駅に出た。ここまで、思った以上に時間が掛かり、そろそろお腹が減ってきたのだ。とにかく、リフトを横目に見ながら剣神社へと歩を進める。淡々とした下山である。神社の手前で、可愛い女の子を連れた綺麗な女性と外人の男性に逢った。この山では、異国の人に沢山出会う。
 
   
   
     
    見の越に着くと大型バスが停まっていて、岡山の某団体が出発準備をしていた。相棒が内田さんに“無事帰着の報告と、団体さんが今から向かう”と連絡した。そして、手打ち蕎麦の店は今日は開いていた。
 今日の温泉は、貞光川の脇にある“剣山木綿麻(ゆうま)温泉”である。
 
 今回の一の森泊も有意義な、充実した山行だった。しかし、今年の台風被害が四国の自然に与えている影響が、後世にどういう影響を与えているのか・・と考えさせる旅ともなった。
 
     
     
    8月20日〜9月13日までの『K2バルトロ氷河トレッキング』の後は、家で充分静養しとったんやけど、姉達と比叡山と大原三千院を歩いただけで疲れたので、静養を兼ねての一の森だったんじょ。

それにしても、内田さんは相変わらず忙しそう。次から次に仕事があるし、一人じゃたいへんよねぇ〜。ブロッケンが運良く見えたんでうれしかった♪ 写真は今ひとつ朝陽が悪かったので、又ゆっくり行きたいわ〜。

右の画像は、拾った鹿のつのと内田さんの息子さん(ガラス職人)が作って展示販売している手作り“キレンゲショウマの携帯ストラップ”(1500円) 人気商品で次に出来るまで売り切れ寸前じょ!
 
     
     
     
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