EVERYBODY NEEDS LOVE GENERATION

・・・32へ・・・   

−33−

人影がゆっくりとこちらへ近づいてきた。
庭のライトに照らされて、その姿が浮かび上がる。
「ひどいよね。マネージャーだけ抜け駆けして来るなんてさ。」
「抜け駆けとはひどい言い方ですね。私が先に来てこうしてお引き止めしていなかったら、佐藤さんにお会いすることはできなかったと思いますよ。感謝して下さいね、坂さん。」
「…はいはい、感謝するよ。すればいいんでしょ。」
「もう少し心から感謝していただきたいんですけどねぇ。」
「日頃の行いと相殺したら、こんなもんでいいんだって。」
「何と。佐藤さん、今のはひどいと思い−」
突然、棚瀬さんに振り向かれて慌てて背を向ける。
「…佐藤さん?」

ダメ、涙が止まらない。
止まらないよ。

さっきまで悔しくなったり悲しくなったりしてたのに。
まるでそんな気持ちがなかったみたいに、喜んでる私がいる。
今はもう嬉しいって気持ち以外、何もなくなってる。
ああ、何て現金なの。
何てみっともないの。
忘れようと苦しんだこの数ヶ月が、一瞬で泡のように消えてしまった。
悔しいくらい、呆れるくらい嬉しくて嬉しくてたまらない。

だって…
本当は会いたかったの。
会いたかったんだもの。
会いたいなんて思ってはいけないって分かっていても、その気持ちはどうしても消えなかった。
消したくても消せなかった。
強がったって忘れたふりをしたって、やっぱり自分の気持ちに嘘はつけないよ。

「…佐藤さん?どうしました?」
心配そうな棚瀬さんの声にハッとして首を振る。
「…あ、い、いえ…何でもないです…す、すみません…っ だ、大丈夫です!」
慌ててジャケットのポケットからハンカチを取り出した。
今朝から入れっぱなしにしていたから、シワシワだ。
「でも…」
「ほ、本当に大丈夫ですから…っ」
「……」
「棚瀬、おまえ佐藤さんのこといじめてたんじゃないの?」

…ああ。
現実って残酷ね。
少しぐらい、再会の余韻に浸らせてくれたっていいのに。
私にそんな余韻に浸らせる暇はないってこと?
“佐藤さん”
彼の中では、私は応援している作家という存在であって、それ以上でも以下でもない。
その現実を、まさか再会の途端に突きつけられるなんてね。
彼の中で私は“佐藤さん”なんだ。
もう“美弥ちゃん”って呼んではもらえないんだ。
…本当、残酷よ。
悲しすぎて笑っちゃうわ。

でも、諦めるためにはその方が都合がいい。
きっとその方が普通に話せるもの。
だって自分の立場はあくまで作家。
私は作家になりきればいいのよ。
今日は作家の私にとって最高の日でしょ?
泣いてたって何もおかしくないじゃない。
その理由が何にしても、どの涙も今日を喜ぶ嬉し涙に変えてしまえばいい。
私にだって、そのくらいできるでしょ?
だから笑って。
…ほら、笑わなきゃ。

「え?いや、私は何も−」
「何話してたんだよ。佐藤さんを泣かせるようなひどいこと言ったんだろ。」
「そんなこと言ってませんよ!佐藤さんっ?私じゃないですよねっ?あ、きっと坂さんですよねっ?」
「何で俺なの!」
「…そ、そうですっ!坂崎さんのせいですよっ」
「えっ?」
振り向くと、開き直って言ったその一言に坂崎さんがギョッとした顔で驚いていた。
顔を見た途端、また目頭が熱くなる。
ダメダメ、泣くな!
泣くな、私!
私は作家なんだから!
ギュッと唇を噛みしめて、必死で堪える。
「…佐藤…さん?」
不安そうな坂崎さんの声に、半ば無理やり作った笑顔を向ける。
「と、突然いらっしゃるから、びっくりして涙が出てしまいましたよっ いらっしゃるなんて聞いていなかったんですもの!」
「…あ、そ、そっか。黙って来ちゃったもんね。そんなにびっくりさせちゃった?」
「心臓が止まるかと思うぐらいびっくりしましたよっ」
それは嘘じゃない。
本当に心臓が止まるかと思ったんだから。
「ごめんね、驚かせちゃって。」
申し訳なさそうに謝られて、ブルブルと勢いよく首振る。
「い、いえ!こちらこそ突然泣いて驚かせてしまってすみませんでした。今日は何かと感動的なことが多くて、涙腺がいつも以上に緩くなってまして…」
「そっか、そうだよね。今日は佐藤さんにとって何より嬉しい日だもんね。授賞式でも涙ぐんでたし、もらい泣きしそうだったよ。」
「そ、そんなところが映ってましたっ?みっともないところをお見せしてしまって…」
「そんなことないよ。すごく感動的な授賞式だったよ。きっとパーティーもたくさんの人が出席して盛り上がったんだろうね。」
「はい、関係者の方々が集まって下さって賑やかなパーティーになりました。みなさんからの温かい拍手がとても嬉しかったです。」
途中、担当のみっともない場面もあったけど。
「そう、それはよかった。」
「はい。あ、お花もありがとうございました!とっても豪華でステキなお花でした。」
「やっぱり豪華だった?花は高見沢があれこれ注文つけてたんだよ。一番目立つ豪華な花にしなきゃ!とか。豪華すぎて逆に浮いちゃわないかな?って桜井と心配してたんだけどね。」
クスッと坂崎さんが笑う。
「あはは、浮いてる、ということはなかったですよ。ただ、他のお花よりは数倍目立ってましたね。」
「そう。高見沢が聞いたら喜ぶよ。」
「高見沢さんと桜井さん、今日はまだお仕事ですか?」
「うん、まだ仕事中。今日中には終わらなさそうだったな。」
「そうなんですか…大変ですね。お二人にお花ありがとうございましたと伝えて下さい。」
「うん、伝えとくよ。」
「坂崎さんは…今日はもう?」
「うん、俺は終わり。二人と違って仕事が早いの。」
「さすがですね。」
「まぁね〜」
へへん、と胸を張る坂崎さんは、無邪気な少年みたいで可愛い。

そんな坂崎さんを横目で見ながら棚瀬さんが、違いますよ、と否定した。
「え?」
「佐藤さんに会いに行きたいからって、仕事のスケジュールを急遽二人と入れ替えたんですよ。」
「えっ」
「たーなーせっ」
「本当のことじゃないですか。今日は撮影の仕事だったんですけどね、本当は桜井さんから始める予定だったのに、坂さんが駄々こねて−」
「駄々はこねてないよっ!」
「あれは駄々こねたのと一緒ですよ。“今日は佐藤さんのパーティーなのにお祝いしにも行けないのか”とか“もうパーティー終わっちゃうよ”とかブツブツ言うから桜井さんが“じゃあ先にやれよ”って言ってくれたんじゃないですか。」
「…そうなんですか?」
坂崎さんは肯定も否定もしなかったが、やけに照れくさそうだ。
しかも目が泳いでいる。
代わりに棚瀬さんが頷いた。
「そうなんですよ。本来なら、今はまだ撮影の真っ最中なんですから。桜井さん、本当なら今頃撮影が終わって美味しい焼酎を飲んでる時間なのに、坂さんが−」
「うるさいなっ ちゃんと今度美味い焼酎あげるなって桜井には言ってきたよ!」
「あ、なるほど、そういうことですか。お酒で桜井さんを買収したわけですね。」
「人聞き悪いこと言うなよ。俺は一言も“酒やるから代わって”なんて言ってないよ。桜井が“先にやればいいじゃん”って言ってくれたの。」
「坂さんの目が笑ってなかったんじゃないんですか?言わざるを得なかったんですよ、きっと。だってあの時の桜井さん、眉毛がハの字になってましたもん。明らかに怯えてましたよ。」
「……ぷっ」
怯えた桜井さんを想像して、思わず吹き出してしまった。
子犬で想像してしまったから余計だ。
子犬にヒゲとサングラスをつけて想像しようとするあたりすでに間違ってるし。
「棚瀬が変なこと言うから佐藤さんに笑われちゃったじゃん。」
「変なことじゃないですよ。本当のことです。」
「も〜…佐藤さん、信じないでね、棚瀬の話。桜井が代わってくれただけなんだから。」
「あ、はい、桜井さんのお陰ということですね。」
「そうそう。俺がどうこうっていうのは棚瀬の脚色だから。」
「嘘では−」
「あーもういいって。今日は佐藤さんをお祝いしに来たんだよっ 棚瀬もだろっ」
「あ、はい。」
「ここに来るまでの話なんて、しなくていいんだよっ」
「…そうですね、坂さんのおかげで私もここに来られたわけですし。」
「そうだろ?」
「では、この話はまた明日にでも。」
「……」
呆れたように坂崎さんがため息をついた。
妙に棚瀬さんが強気なのが何だか怖い。
先ほどの発言といい、今日の棚瀬さんは何か違う気がする。

「でも、本当ごめんね。こんなパーティーが終わってから来ちゃって。授賞式やら取材やらで疲れてるでしょ?今日は遠慮した方がいいかなと思ったんだけど−」
「そんな、お気になさらないで下さい!今日は一日色々な方からお祝いしていただけることが、何より幸せなんです。いらっしゃって下さってとても嬉しいです。本当にありがとうございます。」
「…ううん、お礼なんていいよぉ。こっちが勝手に来たんだし。」
そう言って坂崎さんは照れくさそうに笑った。

また、坂崎さんの笑顔をこんなに近くで見られるなんて思わなかった。
もうこんな風に話すこともないと思ってたのに。
…ああ、ダメだわ。
気を抜くとすぐに“佐藤美弥”になってしまう。
私は作家、そう強く思い込まないとコロッと忘れてしまうわ。

でもよかった、今のところ普通に話せている。
涙も何とか引っ込んでくれた。
人知れずホッと胸を撫で下ろす。


「…では坂さんも来ましたし、私は先に失礼させていただきますね。」
前触れもなく、棚瀬さんが突然切り出した。
「えっ!さ、先に帰られるんですかっ?」
平静を装えるはずもなく、私は思い切りギョッとして棚瀬さんを見やった。
そんな私に棚瀬さんはにっこりと笑い返す。
「ええ。坂さんと違って私はまだ仕事なんです。」
「そうそう、棚瀬はさっさと帰って仕事片づけてきなさい。」
「はいはい、そうします。それでは佐藤さん、私はこれで−」
ま、待って。
先に帰ってしまったら私は−
「ちょ、ちょっと待って下さいっ!」
「え?」
棚瀬さんの腕を掴んで小声で訴える。
「さ、先に帰るって…そうしたら坂崎さんと、ふ、二人に−」
「…嫌なんですか?」
棚瀬さんも小声で聞き返してきた。
「い、嫌とかそういうんじゃなくて…その…」
「私がいない方が話しやすいと思うんですが?」
「い、いてくれた方が私は話しやすいんです…っ」
「おや。」
「そ、それに話すといっても、お礼だけー」
「言いたいことは素直に言った方がいいですよ、佐藤さん。」
「…は、はいっ?」
狼狽えつつ棚瀬さんを見ると、彼はまたにっこりと笑った。
まるですべてを知っているかのような口ぶり、そしてこの笑顔。
さっきの発言からして、彼は絶対に私の気持ちに気づいている。
なのに、それをはっきり口にしないから、何だかすごく憎たらしい。
いつからだろうと気になるところだが、たぶんこの人は初めから知っていたんだと思う。
思い返すとそうかもしれないと思う部分がたくさんあるのだ。
今更思い返したところで、すべて後の祭りだけど。

「…何をこそこそ話してるのかな?」
坂崎さんの訝しげな声にビクッとする。
「えっ!いえ、あのっ」
「二人だけの内緒の話です。」
棚瀬さんが何だか意地悪そうな笑顔を坂崎さんに向ける。
「…何それ。気になるじゃん。何?」
「だから内緒ですよ。ね、佐藤さん。」
「え?あ、え、ええ…」
確かに坂崎さんには言えない話だ…。
「何だよ…俺だけ仲間外れ?…何、いつの間にそんなに佐藤さんと仲良くなったんだよ?」
「おや、ヤキモチですか?」
えっ
ヤ、ヤキモチッ!?
な、何言ってるのよ!棚瀬さん!
不機嫌そうな顔で坂崎さんが棚瀬さんを睨んだ。
ほ、ほら、変なこと言うから坂崎さんが怒ってるじゃない!
「…棚瀬、早くー」
「だから帰りますよ。仕事でストライキを起こされても困りますから。」
「…分かってんなら早く帰れって。」
坂崎さんの冷たい言葉に棚瀬さんが苦笑する。
「佐藤さん、坂さんに冷たく帰れと言われたので、本当にそろそろ帰ります。」
先ほど私が落とした棚瀬さんからの花束を再度受け取る。
落としたこともすっかり忘れていた。
「あ、す、すみません…」
できれば受け取りたくないところだけど、受け取らないわけにはいかない。
何とか棚瀬さんを引き止める術はないか…。
引き止めないと坂崎さんと二人きりになってしまう…
二人きりでちゃんと普通に話せる自信がないよ。
棚瀬さんがいてくれたら何とか普通に…

……。
…いや、待て?
よくよく考えてみれば、棚瀬さんは私の気持ちを知っている…らしい。
余計なことを言い出す可能性だってある。
さっきから妙に気になることばかり口にするし、あの笑顔…余計なことを言いそうな顔に見えてきた。
そう思えば今のうちに帰ってくれた方が、私にとっては都合がいいのではないだろうか。
……。
途端に引き止める気が薄れてきた。
何て単純な私。

「それでは、私はこれで。」
「あ、は、はい。今日は本当にありがとうございました。」
「いえ、これからも佐藤さんの作品を楽しみにしていますね。」
「はい、頑張ります。」
彼の笑顔には何か深い意味が隠されているような気さえしてきた。
疑心暗鬼とはまさにこのことだ。
もう、すべてが怪しくて仕方が無い。
棚瀬さんは頭を下げるとスタスタと店の出口へ歩き出した。
彼の姿を目で追う。
私の不安がすべて気のせいであってほしい、そう思いながら。

すると、店の出口まであと数歩というところで、ふと棚瀬さんが何かを思い出したように立ち止まった。
密かにビクリとする。
やっぱり何か言うつもり…?
眉をひそめて様子を伺う。
「…何?」
坂崎さんが怪訝な顔で声をかけると、棚瀬さんがくるりと振り返った。
彼が見たのは坂崎さん。
どうやら標的は私ではないらしい。
ホッと胸を撫で下ろす。
「坂さん。」
「何だよ?」
「…今お借りしている佐藤さんの最新刊、もう少し貸して下さいね。本当は今日お返ししようと思ったのですが、もう一度読み返したくなりました。」
「た、棚瀬っ」
「…え?」

…私の最新刊?
坂崎さんが棚瀬さんに貸してる…?
意外な言葉を耳にして、坂崎さんを見上げる。
「貸してるって…」
「あ…えっと…」
確か坂崎さんはいつも棚瀬さんに借りて…って前言ってたよね。
それなのに最新刊はわざわざ買ってくれたんだ。
嬉しいけど、何だか申し訳ないなぁ…。
「最新刊、わざわざ購入して下さったんですね。ありがとうございます。すみません、気を遣って下さって…」
「う、ううん…ほ、ほら、棚瀬から借りてばっかりっていうのも悪いし−」
「違いますよ。」
棚瀬さんが遮った。
「え?」
「た−」
「私は佐藤さんの本、残念ながら1冊も持っていないんですよ。」
「え?…ええっ?そ、そうなんですかっ!?」
何それっ!
ど、どういうこと!?
「ええ。実はいつも坂さんから借りていたんです。」
「ええっ!?」
びっくりして坂崎さんを見上げたが、彼は何も言わずにそっぽを向いた。
違うのならはっきりと”違う”と言うだろう。
否定しないということは…それはつまり肯定ということになる。
え?
そうなの?
あれ?
…なに?
どういうこと?
「あの、それはどう−」
坂崎さんが無言で私を見た。
何かを訴えかけるようなその瞳に心臓がドクンと跳ねる。
「…え、えっと…あの……」
…ものすごく聞きづらいんですけど…
聞くなって…こと?

オドオドしていると、棚瀬さんの深いため息が聞こえてきた。
「坂さん、いつまで続けるつもりですか?いくら佐藤さんが超鈍感だからって−」
「…は?」
ど、鈍感?
しかも超って言った?
その言葉に対し、坂崎さんがムッとして棚瀬さんを睨んだ。
「うるさいな。それに佐藤さんのこと、“超鈍感”って言い方はないだろ。」
「だって本当のことじゃないですか。」
棚瀬さんひどい…っ
本当に私のファン?
「う、うん、まぁ…確かにそうだけどっ」
坂崎さんもひどいっ!
二人とも私のファンだなんて嘘なんじゃないのっ?
「佐藤さんが超鈍感だから、坂さんも続けているんでしょう?」
「……」
はい?
…何を?
「今日こそはちゃんと佐藤さんに話して下さいね。私は帰りますから。」
「…えっ?」
この状態で帰るの!?
「それでは佐藤さん、私はこれで。あとは坂さんから聞いて下さい。」
「え、ちょっ−」
「では。」
「棚瀬さ−」
勢いよく頭を下げると、まるで逃げるように棚瀬さんは店の庭を出て行ってしまった。
あまりの素早さに引き止める間さえなかった。
まるで忍者のようだ。
「……」
坂崎さんはもう引き止めるつもりもないらしく、何も言わなかった。
ただ、小さくなっていく棚瀬さんの背中をジッと見つめている。
笑顔はどこにもなく、どう見ても不機嫌にしか見えない。
不機嫌のもとは鈍感な私でも分かる。

「…い、行っちゃいました…ね…」
「……そうだね。」
抑揚のない返事が返ってきた。
明らかに不機嫌だ。
こんな状態で何を聞けというのか。
せっかくさっきまで普通に話せていたのに。
涙が出そうだ。
今日はめでたい日じゃなかったっけ?
何で主役の私がこんな気持ちにならなきゃいけないだろう。
今日は私が一番幸せな日のはずなのに。
こんな状態で二人きりにさせるなんて、棚瀬さんは何て意地悪なんだろう。
腕の中にある棚瀬さんからもらった花束が憎たらしく見える。
庭に設置されているテーブルの上に少々乱暴に花束を置いた。
決して花束に罪はない。
けれど、くれた人の笑顔を思い出すと花束まで憎たらしく感じてしまう。
どれもこれも、みんな棚瀬さんのせいだ。
明日から、坂崎さんにとことん冷たくされればいいんだわ!

…だからといって黙っているわけにもいかないところが辛い。
黙っていたって解決するわけないし。
それにどういうことなのか気にならないわけじゃない。
ものすごく気になってる。
超鈍感と言われたのはさておき、あんな風に言われて気にならない人なんていない。
すっごく聞きたい。
ただ…聞ければの話だけど。

恐る恐る坂崎さんを見ると、彼は夜空を見上げていた。
彼の柔らかそうな髪が風にふわふわと揺れている。
星を見ているのか風を感じているのか、その横顔からそれを読み取ることは出来ない。
表情はといえば、固く口を結び相変わらず不機嫌そうだ。
眼鏡の奥の瞳は、真っ直ぐに何かを見つめている。

さっきの…
さっきの話はどういうことですか?
…と聞けばいいだけなのだが、どうも切り出せない。
坂崎さんはものすごく言いたくなさそうだった。
そんなことを私が聞いてしまっていいのだろうか。
聞いたら嫌な顔をされるんじゃないだろうか。
もしかしたら聞かない方がいいことかもしれない。
私がショックを受けるから、あえて言わないようにしてるということも考えられる。
そう思うと、とても聞けやしない。

…そうだった。
私は根っからのマイナス思考。
物事はとにかく悪い方へ悪い方へと考えてしまう。
恋愛小説を書いていた頃は、マイナス思考になる余裕もなかったのだが、ここへ来てすっかり昔の自分に戻ってしまったようだ。
自分が思っている以上に、坂崎さんが現れたことに激しく動揺しているということだろうか。

モヤモヤした気持ちを少しでも抑えようと、私も空を見上げてみた。
点々と光る星たちに迎えられて、少しだけホッとする。
見慣れた都会の星空は、どうやら私を落ち着かせてくれるようだ。
時折吹き抜ける夜風も心地よくて、この状況を少し忘れさせてくれる。
正直、このまま風に乗って飛んでいけたらいいのに、と思う。

「…佐藤さんのさ…」
坂崎さんがポツリと呟いた。
「…は、はいっ?」
突然の呟きに慌てて彼を見る。
坂崎さんはまだ夜空を見上げていた。
彼の目には、まばらな星以外に何が見えるのだろうか。
何を見ているのだろうか。
彼の横顔を見つめながら、次の言葉を待った。
「……」
「…坂崎…さん…?」
なかなか口を開かない彼の様子に、不安な気持ちばかりが広がっていく。
彼が言おうとしていることは、知らなくてもいいことなのかもしれない。
私は知らない方がいいのかもしれない。
まだ何も言われていないのに、目が潤んできた。

「佐藤さんの大ファンがね…」
「…え?」
「佐藤さんの大ファンがいるんだ。」
「え…?私の大ファン…ですか?」
予想もしていなかった言葉に首を傾げた。
何の話?
その話で棚瀬さんが言っていたことの真相が分かるの?
坂崎さんが何を話そうとしているのか、私には検討もつかない。
「そう。そいつは初刊本から全部揃えててさ、佐藤さんに会いたいなぁ、話してみたいなぁって思ってたんだ。」
うちの担当みたいな人が他にもいるの?
そんな人、絶対いないと思うんだけど。
「そんな奇特な方がいらっしゃるんですか…?」
クスッと笑う。
「奇特じゃないよぉ。むしろ趣味がいいんだよ。」
「い、いや、そんなことはないと−」
「ある時、そいつは佐藤さんのことを出版社で見かけてね。でも、なかなか話しかけられなくて。何度目かでようやく話す機会ができたんだけど、佐藤さんは元気なくてさ。理由も分かってたし、どうにかして元気になってほしくて余計なことばっかり喋って、逆に余計落ち込ませちゃってね。」
「…え?」
今の話…
それって…
「ダメなファンだよねぇ…。落ち込んでる佐藤さんに自分がファンだって言えなくなったからって、マネージャーがファンだって嘘ついてさ。」
その話…もしかして…
まさか−

「…あの…それは…」
坂崎さんは小さくため息をついて、ようやく私を見た。
その顔はひどく照れくさそうだ。
「……ごめんね、嘘ついてて。」
…つ、つまり、それは−
「…じゃ、じゃあ私のファンだというのは棚瀬さんじゃなくて−」
「うん…俺。」
何だか居心地の悪そうな顔で鼻をかき、小首を傾げて少年みたいに笑った。
「え…えっと……え、ええっ!?」
「もちろん、棚瀬も佐藤さんのファンだよ?それは嘘じゃないよ。本は持ってないけど、佐藤さんの本が好きで全部読んだっていうのは本当。」
「……」
驚きすぎて声も出ない。
坂崎さんが私のファンだったの?
何それ!
嘘でしょ!?
「最初はちゃんと自分がファンだって言おうと思ったんだよ?でも何か…言えなくなってきちゃって。」
「……そ、それ、冗談じゃ…ないですよねっ?」
「やだな、本当だよぉ。」
「本当に本当…なんですよね!?嘘じゃないですよねっ!?い、嫌ですよっ そんな嘘!」
「嘘じゃないって。本当なの!」
「……」
こんなことが…こんなことがこの世の中にあるなんて!
天下の坂崎さんが…私の本を全部持ってるなんて…っ
私はてっきり坂崎さんは、棚瀬さんに半ば強制的に本を渡されて、仕方なく読んでくれているんだとばかり…。

…ということは。
私は、ずーっと坂崎さんの嘘を信じて、この一年間ずーっと過ごしてきたわけ?
棚瀬さんがファンだって?
ずーっと?
…な、何てことなの!

「棚瀬は、俺が佐藤さんの本を貸したら、すっかり佐藤さんのファンになっちゃってね。本が出るたびに借りに来るんだよ。自分で買えばいいのにさ。」
「……ど、どうして…どうして今までおっしゃってくださらなかったんですか!?」
その言葉に、坂崎さんは無言のまま苦笑いを浮かべた。
そうよ、どうして言ってくれなかったのっ?
何もずっと内緒にしなくたって…!
「確かに最初にお会いした時、私はひどく落ち込んでましたし、そんな中ファンだと言いにくいとは思いますよ?でも、その後何度かお会いしましたし、何も今日まで内緒にしなくてもいいじゃないですかっ」
「…そうだねぇ…」
そう呟いて私から視線をそらす。
…その様子からして、きっと私が知った時の反応を楽しもうとしていたに違いない。
私が気づかないからってずっと黙ってたんだ。
「私が超鈍感だからって面白がってたんですねっ?」
「え、違うよ。そんなつもりは−」
「……」
「あ、疑ってる。」
「だって坂崎さん、私のことよくからかうじゃないですかっ」
「…うん、まぁ…それは否定できないけど…でも−」
「いくら私が鈍感だからって、何もずっと内緒にしなくても!」
「いや、そんなつもりは−」
「じゃあ、どうして−」
突然、坂崎さんが私の手を取った。
「えっ」
ギョッとして見上げると、坂崎さんがじっと私を見つめていた。
全身からドッと汗が出る。

手から伝わってくる彼の温かさとその眼差しに、平静なんて装えるはずがない。
自分の激しい鼓動でどうにかなりそうだ。
「な、ななななななな何ですか…っ?」
思い切り動揺したまま尋ねる。
すると、坂崎さんは不機嫌そうな顔で、そりゃね、と呟いた。
「佐藤さんの反応が面白いから、からかったりとかもしたよ?でも、ファンだって言わなかったのは、言った時の佐藤さんの反応を楽しむとか、からかうとか、そういうつもりじゃないからね。」
「え…」
坂崎さんはひどく照れくさそうで、それでいて何だかムッとしたような顔をした。
「嘘なんてついてないよ。本当だからね。」
プクッと頬を膨らませて、ジッと私を見る。
その顔は、まるで少年みたい。
「…それから。」
「は、はい?」
「佐藤さんは誤解してる。」
「…え?誤解?」
「前、佐藤さん俺に言ったよね。“坂崎さんは優しい”って。…俺、優しくないよ。」
「え?…いや、だって実際に優し−」
「誰にでも優しいわけじゃないよ。」
「そ、そりゃ坂崎さんも人間ですから、嫌いな人もいるとは思いますけど…」
「そういう意味じゃないよっ」
噛み付きそうな勢いで言い返されてビクリとする。
「す、すみません…っ」
な、何か怒ってるよ…っ?
私、何か失礼なこと言った?
「…はぁ…」
坂崎さんが呆れたようなため息を漏らす。
私はまた、何か呆れるようなことを言ってしまったんだろうか。
違う意味でドキドキしてきた。

「佐藤さん。」
「…は、ははははい…っ」
ビクビクしながら坂崎さんを見上げると、彼は相変わらず不機嫌そうな顔で私を見ていた。
まるでヘビに睨まれたカエルになった気分だ。
「…何もそんなに怯えなくても。」
「…だ、だって坂崎さん…怒ってらっしゃるから……」
「怒ってないよ。…まぁ…佐藤さんの鈍感さを改めて痛感して、ちょっとイラッときてるけど。」
イラッとさせちゃってるよ…っ
ど、どうしよう…っ

「でも、俺がはっきり言わないから、こんなことになるんだよね。佐藤さんが鈍感なのはよく分かってるのに、嫌われたくないからってからかってばっかりでさ。」
「…は、はははい?」
「そりゃ、いつもからかうやつなんて信用できなくなるよね。」
坂崎さんが苦笑する。
「…?」
…何の話?
彼は何が言いたいんだろう。
はっきり言わないって…何のこと?
嫌われたくないって……まさか…私?
私に嫌われたくないって…こと?
いや、そんな…

ふぅ…と小さくため息をつくと、坂崎さんが口を開いた。
「俺ね、佐藤さんの純粋なファンじゃないんだ。」
「え?」
「だから…ファンだって言うの、やめたんだ。」
「……?」
純粋なファンじゃないって…どういう意味?
「あの…それは…どういう…」
そう聞き返した私に、坂崎さんが苦笑する。
「だって、ファンだって言ったら佐藤さんは俺のこと、ただのファンとしか見てくれないでしょ?」
「……」
今…何て?
…ただのファン…って言った?
…え?
…なに?
どういう意味?
その言い方、まるで−
「佐藤さんには、単なるファンじゃなくて一人の男として見てもらいたかったから。」
「…え−?」

…聞き間違い?
本気でそう思った。
耳を疑うような彼の言葉が頭の中にこだまする。
…聞き間違えじゃ…ない…よね?
今…聞こえたのは…空耳じゃ…ないよね…?
信じられない気持ちで坂崎さんを見ると、少し照れくさそうな顔をした。
「もう嘘はつかないよ。」
「…っ」
「こんなこと、本気じゃなきゃ言えないよ。」

…う…嘘…
…信じ…られない……

「でもね…佐藤さんが作家としてもう一度頑張るって言った時に、諦めてちゃんとファンとして応援しようと思ったんだ。佐藤さんの作品は大好きだし、佐藤さん自身が求めている道をちゃんと見つけてほしかったから。佐藤さんが選んだ道を、ファンとして応援しようって。」
「…坂崎さ−」
「だけど…」
私の手を握る彼の手に力がこもる。
見上げた先の彼の眼差しに、息が止まるほどドキリとした。
私を見つめて彼が言う。
「だけど…結局ダメだった。諦めたつもりでいたけど、テレビで授賞式を見てやっぱりファンでいるのは無理だって分かった。」
「…さ…坂−」
「会ったらもっと無理だって思い知らされたよ。」
私を見つめる瞳。
今までにない真剣な瞳で、私を見つめている。
信じられない気持ちで、彼の瞳をただただ見つめ返した。

私を見つめるその眼差しに、嘘や冗談なんてひとかけらも感じられない。
彼はからかってもいないし、私の反応を面白がったりもしていない。
いつもの…意地悪な顔なんてどこにもない。
彼の瞳から伝わってくるのは、真っ直ぐな想い。
温かくて優しくて…そして、ただひたすらに真っ直ぐで。
決して嘘のない…本当の気持ちを彼が私に伝えようとしている。
彼の気持ち…
それは…

彼の指先が、私の頬に優しく触れた。

「…美弥ちゃん。」
切なくなるくらい優しい声で、彼が私の名前を呼んだ。
…ああ…もう、何も言葉が出てこない。
何も考えられないよ。
坂崎さんの顔が涙で滲んでいく。
流れる涙と一緒に、彼の姿も流れていってしまいそう。
この彼の手の温もりも、目を閉じれば消えてしまいそう。
まるで、今までのことがすべて夢だったかのように。

でも、どんなに涙で滲んでも何度まばたきをしても、坂崎さんはそこにいる。
彼の優しい瞳が、私を見つめている。
頬を包む彼の手の温もりも、決して消えたりしない。
ずっとずっと…私を包んでくれている。
これは夢じゃない。
夢なんかじゃない。
私を見つめる彼の瞳に、私が映っていて。
今、彼が見ているのは…
私だけ−

頬を流れる涙を、彼が優しく拭う。
「ずっと…佐藤さんの中の美弥ちゃんを見てた。」
「坂…崎さん……」
「佐藤先生という存在はファンみんなのものだけど、その中にいる美弥ちゃんは誰にも渡したくないんだ。」
「…っ」
ああ…涙が止まらない……
心の奥底から溢れてくる想いが、大粒の雫となって流れていく。
泣いても泣いても、この涙は止まりそうにない。


「…そんなに泣くほど、俺がそんな風に思ってるなんて嫌?」
涙の向こうで彼が苦笑している。
泣きながらプルプルと首を振った。
そんなわけないじゃない。
好きだったんだから。
ずっとずっと好きだったんだから。

彼の前だけは、作家じゃないただの”佐藤美弥”になっていいんだよね?
…ありのままの私で、いいんだよね?
ずっと言えなかった私の気持ち。
今もまだ、心の中にしっかりとある。
嫌われるのが怖くて言えなかった。
傷つくことを恐れて心の奥にしまい込んでいた。
でも…本当は伝えたかったの。
作家を続けていく勇気をくれたあなたに。
目一杯の優しさをくれたあなたに。
忘れようとしても忘れられないこの気持ちを伝えたかった。
ありのままの私の気持ちを、“佐藤美弥”を見つけてくれたあなたに届けたい。

「私…」
「ん?」
「…私…ずっと…」
大切な言葉なのに、ちゃんと伝えたいのに、涙が邪魔をする。
止めたいのに止められない涙に、ギュッと目をつむった。
こんな時ぐらい、ちゃんと言いたいよ。
後悔なんてしたくない。
彼に伝えなきゃいけない言葉があるんだから。
今言わなくて、いつ言うの?
泣いてる場合じゃないでしょう?
そう言い聞かせても、涙はちっとも止まってくれない。
泣き虫な自分にひどく悲しくなる。

その時、坂崎さんがそっと私の髪を優しくなでた。
その手は彼の笑顔と同じくらい優しくて、そして温かくて。
ゆっくりと髪をなでる彼の手は、まるで魔法のように不思議と気持ちが落ち着いていく。
ドキドキするけれど、とても心地よくて。
その心地よさは、彼が奏でるギターの音色のよう。

ゆっくりと顔を上げると、優しい笑顔が私を待っていてくれた。
胸がいっぱいになる。
抱えきれないほどの想いが、私の心から溢れ出す。
「私…」
「うん?」
「…私、坂崎さんのことが好きです…」
坂崎さんが目を丸くする。
「私にとって坂崎さんは、特別な存在で…誰よりも大切な人で…」
「美弥ちゃん…」
「ずっと……ずっとずっと…好きでした。」
目一杯泣いた私の顔は、きっとボロボロだ。
今日のために頑張った化粧なんて、跡形もなくなってる。
もっと、キレイな格好で、キレイな時に…そう、パーティーの前に言いたかった。
あの時はまだ、多少はよかったのに。

「…ありがとう。」
坂崎さんは私の濡れた頬を指で拭いながら、照れくさそうに笑った。
その笑顔にホッとする。
「でも……過去形?」
「え…」
「だって“好きでした”って。」
「えっ あっ 違いますっ 過去形じゃなくて−」
慌てて言い直そうとすると、坂崎さんが私を抱き締めた。
「…っ」
あまりのことに、さっきまでどう頑張っても止まらなかった涙がピタリと止まった。
自分でもびっくりだ。
「…過去形じゃなくて?」
耳元で囁くように私に問いかける。
坂崎さんの息遣い…そして鼓動も温かさも、すべてが私に伝わってくる。
私の心臓は破裂寸前…いや、もうとっくの昔に破裂しているかもしれない。
「か、過去形じゃ…なくて…」
「…現在進行形?」
「はい…」
「…よかった。」
彼の長い腕が、私をギュッと抱き締める。
「…不安だったんだよね。」
「え?」
「からかってばっかりだったからさ。嫌われちゃったかなって。」
「そんな−」
「だって美弥ちゃんの反応が面白いんだもん。」
「面白…」
何かそれは嬉しくない。
「それに照れ屋だしね。ついからかいたくなっちゃうんだよね。」
「……ど、どうせ私は百面相ですよ…っ」
クスッと彼が笑う。
「褒めてるんだよ。」
「ど、どこが−」
「嘘じゃないよ。照れ屋なところも泣き虫なところも、それから鈍感なところも、全部ひっくるめて好きなんだから。」
「…っ」
ほ、本当に?
「真面目で真っ直ぐで、不器用なところも、みんな好きだよ。」
う…わ……っ
顔が真っ赤になっていくのが自分でも分かった。

私、こんなに幸せでいいのだろうか。
作家の私だけじゃなく、”佐藤美弥”まで幸せになってもいいのだろうか。
幸せになりたいと思っていても、実際に叶ってしまうと不安になってしまう。
これは夢なんじゃないか、と思う。
だって、全部ひっくるめて好きだなんて言われたことないもの。
そんな風に言ってくれる人に出会ったことないもの。
そんな奇特な人なんて、滅多にいないわ。
しかもそれが天下の坂崎さんだなんて、現実にあり得ない。

そうよ、こんなこと現実にあり得ないわ。
やっぱりこれは夢−
「…美弥ちゃん?」
坂崎さんが耳元でポツリと呟いた。
「は、はい…っ?」
超がつくほどの至近距離から顔をのぞき込まれる。
「な、何ですかっ?」
「これは夢じゃないからね?」
「…っ」
彼の言葉にギョッとする。
…な、何で考えてることが分かったのっ?
「クククククッ…」
彼がさも可笑しそうに笑う。
ツボにハマったのか、肩まで震わせている。
「何でそんなに笑うんですかっ」
「だって…思った通りのこと、考えてるんだもん。美弥ちゃんのことだから、そういうこと考えてるんじゃないかなぁと思って。しっかり当たってたね。あははっ」
…まだ笑ってる。
何か悔しい。
「…わ、笑いすぎですっ」
「ご、ごめんごめん。…ククッ」
「もうっ」
予想通りのことを考えていた私もどうかと思うけど、笑いすぎな坂崎さんもどうかと思うわ。
何だか腹立たしくなる。
でも、腹立たしいはずなのに坂崎さんの腕から離れる気がない自分には笑ってしまう。
結局、からかわれても笑われても、それが坂崎さんなら私はとにかく幸せなのだ。
というより、かまってもらえることが嬉しくて、本当は腹なんて立っていないのが本心だったりする。

「…美弥ちゃん?怒ってる?」
黙り込んだ私に彼が不安そうな声で問う。
「怒ってないですよ。」
「本当に?」
その声が何だか可愛く聞こえて、口元が緩む。
「…本当ですよ。怒ってなんてないです。」
勇気を出して彼の胸に顔をうずめてみた。
彼の心音がとても心地よい。

夢じゃないんだよね?
現実なんだよね?

坂崎さんが私をギュッと強く抱き締めた。
私の心の問いに応えてくれるかのように。


私が書いた恋愛小説はハッピーエンドになった。
でも、そんな物語を書いた私は、ようやく自分の物語を始めたところ。
きっと今日がその始まり。
佐藤美弥の物語がこれから始まる。

小説のような夢物語じゃなくていい。
特別なものは何もいらない。
ただ、大好きな人と居られたらそれでいい。
佐藤美弥を見つめてくれるあなたが居てくれたらいいの。
それだけで、私は幸せだから。

あなたは私を優しく抱き締めてくれる。
そして、その微笑みと温かさで私を幸せな気持ちでいっぱいにしてくれる。
そんなあなたに、私は何をしてあげられるかな。
何ができるかな。
あなたがいつも笑顔でいられるように。
あなたが輝いていられるように。
あなたを包んであげられるような、そんな存在になりたい。

なれるかな。

なれるといいな。


「…美弥ちゃん、あれ…」
ポツリと坂崎さんが呟いた。
「え?」
見上げると、坂崎さんは先ほどテーブルに置いた棚瀬さんからの花束を見ていた。
「あの花束、棚瀬から?」
「あ、はい。」
乱暴に置いたことを、今更ながら後悔する。
今度会った時に謝ろう。
きっと本人は、何のことだか分からないだろうけど。
「……」
坂崎さんがムスッとする。
「坂崎さん?」
顔を覗き込むと今度は悲しそうな顔になった。
「…ごめんね、何も持ってきてなくて。」
「え?」
「美弥ちゃんのお祝いに来といて、手ぶらなんてひどいよね。…あいつ、花束なんていつの間に準備したんだろ。帰る時、何も言ってなかったのに。」
「…え、そんなのいいですよっ だって坂崎さんからは、花束よりももっと豪華なお花いただいたじゃないですか。」
「あれは桜井と高見沢も入ってるもん。俺からってわけじゃないし。」
「坂崎さんも入ってるじゃないですか。いいんですよ、こうして来てくださったんですから。」
「…でもなぁ…何か棚瀬に負けた気分で悔しいんだよね。俺より先に来るし。」
またムスッとする。

ああ、そうか。
さっきから不機嫌そうなのは、棚瀬さんが花束を持って自分より先にここに来たからなんだ。
棚瀬さんに冷たかったのも、それが原因。
何だ、そうだったんだ。
坂崎さんは拗ねてただけなんだ。
「ふふっ」
何だか可笑しくなってきた。
「…何笑ってるのかな?」
「いえ…ちょっと…」
ダメだわ、笑いが止まらない。
「え〜何がそんなに可笑しい?…もしかして俺?俺、何かした?」
「…何かしたってわけじゃないですけど…」
「けど?」
「坂崎さんって可愛いなぁと思って。」
小さな目が真ん丸くなった。
とっても坂崎さんが可愛く見える。
「か、可愛いって−」
目一杯の笑顔を返して彼に抱きついた。
「…っ」
「私は、坂崎さんが来てくれたことが一番嬉しいですよ。」
「…美−」
「本当に…本当に嬉しいです。」
「美弥ちゃん…」
「だから、棚瀬さんにあんまり冷たくしちゃダメですよ?」
彼の腕が私を包み込む。
「…それは無理。明日からとことん冷たくしてやる。」
「可哀想ですよ。」
「いいんだよ。余計なことを言った罰。」
「もう…」
可哀想な棚瀬さん。
明日から、どうなるのかしら。


「美弥ちゃん。」
「はい?」
顔を上げると、坂崎さんがそっと顔を寄せて私の額にキスをした。
ボッと顔が赤くなる私に、坂崎さんが微笑む。
優しくて温かいその微笑みが、私の胸をいっぱいにする。
心から幸せな気持ちになっていく。

彼の手がそっと私の頬を包み込んだ。
見つめ返したその瞳に、私が映っている。
彼を見つめる私が映っている。
それは…
他の誰でもなくて。
今、彼の瞳に映っているのは…
目の前の…
私だけ−

「美弥…」
優しい声が私を呼ぶ。

彼の腕の中。
愛しい人の鼓動と吐息を感じながら、私はそっと目を閉じた。



佐藤美弥の物語。
それは今、始まったばかり。

さぁ、その表紙を開いて。
あなたと二人、ページをめくっていこう。

たくさんの白いページが、二人の物語でいっぱいになるように…



おわり

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・・・あとがき・・・