EVERYBODY NEEDS LOVE GENERATION

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−30−

「今日はありがとうございました。お気をつけてお帰り下さい。」
パーティーもあっという間に終わりとなった。
夢のような時間は何より短く感じる。
私が主役なのも今日で終わりだ。
明日からはまた、忙しい毎日が始まる。
取材という、今までにあまりなかった仕事が入っている以外は、賞を取る前と大して変わらない。
変わったのは、前より少しだけ各出版社の対応が良くなったぐらいだ。
現実というものは結局そんなものなのだ。

パーティーの出席者たちを一人一人見送る。
改めてみんなが私にお祝いの言葉と笑顔をくれることが、嬉しいやら恥ずかしいやらでくすぐったい。
こういうことは、一生に一度でいい。
…いや、もう一回くらいあってもいいかな。

最後の客を見送っていると、ほろ酔いの編集長がやってきた。
心なしかご機嫌な感じに見える。
「私も帰るよ。」
「はい、お気をつけて。あ、段差がありますので足元気をつけて下さいね。」
「君に言われたくはないな。」
「え?」
「そういう事は、常日頃からきちんとしている人間が言う言葉だ。ドレスの裾を踏んで転びそうになっている君に言われたくはない。」
「……」
タクシーから降りた時のアレ、店から見てたのか…
「君は危なっかしくていかん。もう少し女性としての内面も磨きなさい。いい歳なんだから。」
「…は、はい、すみません…」
編集長?
その台詞、ごもっともですよ。
でも、何もパーティーの後にそんなこと言わなくたっていいじゃないですか。
今日ぐらい気分よく終わらせてよね。
パーティーが始まる前の態度とは大違いだわ。
あの笑顔はどこに行ったのかしら。

「くくく…」
かみ殺したような笑い声がした。
向かいに立つ担当だ。
ムッとして睨むと、誤魔化すように視線を逸らせた。
が。
「笑っている場合か。おまえもだ。」
編集長がジロリと担当を睨む。
「えっ!?」
「佐藤くんのスピーチで泣くやつがあるか。みっともない。おまえはそういうところが弱くていかん。内面も外見もまだまだ足らん。もっと頑張らんと佐藤くんの担当から外すぞ。」
「……えっ!いやっそれは!」
「嫌だったら死ぬ気で頑張れ。佐藤くんの担当を希望しているやつは、何人といるんだからな。ぼんやりしていたら、担当の座を奪われるぞ。」
「しっ死ぬ気で頑張りますーーーっ!!」
担当が直角に頭を下げると、編集長は私を見てニヤリと笑った。
…意地悪だなぁ、この人も。
素直に“期待している”って言えばいいものを。
「じゃあ、悪いが先に帰るよ。佐藤くんも一緒に乗るかね?」
「いえ、私はもう少しいます。彼が自宅まで送ってくれることになっていまして。」
「そうか、じゃあゆっくりしていきなさい。」
「はい。今日は素晴らしいパーティーをありがとうございました。」
「残念だな、まだうちと手が切れなくて。」
またニヤリと笑う。
「いえ、これからも編集長と一緒に仕事ができるなんて、嬉しいです。まだまだ未熟ですが、これからもご指導よろしくお願いします!」
「……」
予想外だったのか、編集長がポカンとした顔で私を見た。
担当なんて、顎が外れたみたいに大きな口を開けて固まっている。
二人の反応に、何だか笑ってしまう。
まぁ、今までの編集長への態度から考えれば、驚くのも無理はないけど。
編集長が、今日一番のニヤリ顔になった。
「…私の指導は厳しいぞ?」
「重々承知しております。」
負けじと私もニンマリ顔で返す。
「……明日から楽しみだ。」
そう言うと、編集長はほろ酔いとは思えない軽快な足取りでタクシーの列に並んだ。
その後ろ姿がやけに嬉しそうに見えるのは気のせいか。

「先生、どういう風の吹き回しですか?」
「何が?」
「編集長にあんな…」
「編集長のこと、私いっぱい誤解してた。それが今日分かったの。今までのこと、全部私のためだったんだ。あの人の厳しさがあったから、私はここまで来られたんだと思うの。私も…君もね。」
「……」
「散々編集長から逃げてきておいて言う台詞じゃないんだけどね、これからは編集長とちゃんと向き合おうって思ったの。あの人の期待にもっと応えてあげられるようになりたいなぁって。」
「先生…」
「そうそう、私を雑誌の連載枠に推薦してくれたの、編集長だったんですって。」
「え!?そうだったんですか!」
「うん、びっくりよ。」
「はぁ〜…じゃあ僕の予想は当たってたんですね。」
「あ、そうね。前そんなこと言ってたもんね。私はダメねぇ、全然気づけなくて。」
「僕は編集長が先生に期待していることは薄々気づいてましたよ。」
「あら、そうなの?」
「編集長と仕事するの、編集部の中で僕が一番長いんですよ?それくらい分かりますよ。」
「じゃあ君のことを期待してるのもちゃんと分かってるんだ?」
「え!?ぼ、僕ですか!?そ、そんなまさか!」
「何だ、気づいてないの。自分のことにはみんな疎いのねぇ。」
「いや、だって…」
「あの人は期待している人間に対して特に厳しくしてるのよ。心を鬼にして、ね。あの人なりの愛情表現なのよ。」
「…ほ、本当ですか?僕を期待してくれてるなんて、とても思えませんよ。」
「そう?」
「ええ。さっきだって死ぬ気で頑張れって言われたところですもん。ちっとも僕を認めてない感じの言い方でしたよ。」
「期待してるから言うのよ。編集長にとって必要のない人間だったら、もっと前に手放してるわよ。さっき編集長の下で一番長いって言ってたじゃない?それって十分認めてるし、頼りにしてるってことじゃない。」
「…そう…ですかねぇ…」
「そうよ。本当は誰よりも君を見守ってくれている、とても優しい人なのよ。ただ、ちょっぴり不器用で素直じゃないだけ。」
そう、不器用で素直じゃないだけ。
私と一緒。
きっと家に帰ったら、仏頂面の仮面が取れて上機嫌よ。

編集長がようやくタクシーに乗り込む。
二人で頭を下げると、それに気づいた編集長が仏頂面で軽く手を上げた。
帰宅した後の自宅での上機嫌な顔を想像していた私は、吹き出してしまいそうだった。
走り出したタクシーに再度頭を下げる。
編集長は振り返らなかったけど、その背中には何か温かいものを感じた。
きっと笑ってるんだよね。
彼はタクシーの中で、満足そうな笑顔になってるんだ。
そんな気がする。

ふと見上げると、神妙な面持ちで担当がタクシーを見送っていた。
彼の中でも、いずれ編集長の存在が変わるんだろう。
そして、きっと彼も何かをきっかけに大きく成長していく。
それは編集長の期待が形になる瞬間。
ポンと担当の背中を叩く。
「頑張りなさいよ。」
「…はい。」
それはそう遠くない未来の話。

「さてと、これから後片付けするんでしょ?私も手伝うわよ。何すればいい?」
「え、先生はいいですよ!主役が後片付けなんてしなくていいんです!」
「え〜でもさぁ…」
「いいんですって!それに、そろそろ着替えた方がいいんじゃないですか?だいぶ冷えてきましたし、その格好だと風邪ひきますよ。」
「あ、まぁ、確かにちょっと寒いけど…」
「ここは僕に任せて下さい。…あ、ほら、届いた電報は全部ご覧になったんですか?」
「あ、まだ。」
「片付けが終わるまで、ゆっくりしていて下さい。帰る時に声かけますから。」
「そう?…じゃあお言葉に甘えてゆっくりさせてもらおうかな。」
「そうして下さい。でも、いいんですか?僕が帰るまで、まだまだ時間かかりますよ?やっぱり先に帰られた方が…」
「ううん、大丈夫。何かね、もうちょっとここにいたい気分なの。」
「そう…ですか?先生がよろしければ僕はいいんですけど…」
「うん、大丈夫よ。人手が足らない時は言って。手伝うから。」
「だから主役なんですから手伝わなくっていいですって。」
「もう主役の時間もあと少しで終わりじゃない。明日からはまたいつもの日常が始まるんだから。」
「それはそうなんですけど…」
「あ〜明日からまた仕事かぁ。一週間くらい休みをくれてもいいのに。」
「僕も長い休みがほしいですよ。」
「あら、あなたは式挙げた後に新婚旅行に行くんでしょ?その時に長い休みがもらえるじゃない。私なんて、これから先いつ休みが取れるか分からないのにさ。」
「そりゃあ、先生は今が旬なんですから仕方ないですよ。」
「旬かぁ…」
何だか照れくさい言葉だわ。

「じゃあ、お言葉に甘えて着替えてくるわ。風邪引いて仕事を休みたくないしね。」
「そうして下さい。僕はその間に片付けますので。」
「うん、よろしくね。」
店の中に戻って階段へ向かう。
「あ、そうだ。」
「ん?」
「先生、聞きましたよ。」
「え?何を?」
「B出版社の仕事。また引き受けたんですって?」
「あ、ああ、それかぁ。君、情報早いわね。どこで聞いたのよ?」
「秘密です。」
「秘密?何言ってるのよ、どうせ同業者の知り合いから教えてもらったんでしょ?B出版社に友達でもいるわけ?」
「友達なんていませんよ、あんな出版社。つい先日、偶然あそこの人間に会ったんですよ。名前は忘れましたけど。そうしたら先生の作品を載せるって自慢げに言うじゃないですか。僕はびっくりして…。」
「口の軽い奴ねぇ…誰かしら。」
「まぁ、この際誰でもいいですよ。去年、あんなひどい仕打ちを受けたのに、どうしてまた引き受けるんですか。突然の打ち切りに腹が立たなかったわけじゃないですよね?」
「腹は立ったわよ。あの打ち切りのおかげで、私は作家を辞めようかと思ったぐらいですもの。」
「それならどうしてまた引き受けるんですか?また同じことの繰り返しになりますよ?」
「私ってさ、去年と今年で明らかに違うところがあるでしょ?」
「違う…ところ?」
「そう。ほら、去年は落選者で今年は受賞者。天と地の差がある。」
「…その違いで待遇が変わると?」
「変わるとは思ってないわよ。でもさ、私と仕事をすることで、B出版社はいい加減な態度じゃいられなくなるじゃない?特に今は受賞直後。私の名前が一番世間に出てる時期よ。そんな時に前みたいな突然の打ち切りなんてしたら、きっと私より出版社の方が痛い目に遭うと思うのよね。」
「…なるほど、それは確かにそうですね。マスコミとかも騒ぎそうですし。」
「でしょ?だからあそこの編集長に、そういう面も含めてもし契約違反をした場合は、有無を言わせず訴えることになると思うけどそれでもいい?って聞いたのよ。」
「先生にしては珍しく強気な発言ですね…」
「人間、どん底を経験すると強くなれるものなのよ。自分でもびっくりよ。まぁ、これからも社風は変わらないとは思うけどね、でもやられっぱなしじゃ悔しいでしょ。別にあそこの仕事がなくなったって痛くも痒くもないんだもの、また何かやられたら今度は倍にして返してやるわよ。」
「いや〜本当に強くなりましたねぇ…」
「強くならなきゃこの世界では生きていけないでしょ?」
「確かに。」
「他の作家たちもたくさん悔しい思いをしてきたしね。ここで私がやらなくてどうする!みたいな気持ちがあってね。たぶん今しか、こういうことはできないだろうからさ。」
ドレスの裾を踏まないように軽くたくしあげて、ゆっくりと階段を上る。
「他の先生たちが知ったら喜びますよ。」
「言わなくていいからね?」
くるりと振り返り担当を睨むと、怯えたような目をしてプルプルと首を振った。
「い、言いませんよ!やだな、僕そんなに口が軽く見えますかっ?」
「…何かあなた、うっかり口滑らしそうだもの。」
「…信用ないですね、僕。ひどいな。」
「あら、信用してるわよ。」
「…本当ですか?」
「ええ。…多少は。」
「た、多少って何ですかっ!」
「だって“泣かない”って言ったくせに泣いたじゃない。」
「…………」
今にも泣きそうな、まるで小学生みたいな顔をした。
この顔を見ると何故だか嬉しくなる。
編集長のこと、意地悪だなんて言えないか。
このネタで当分の間は楽しめそうだ、なんて思う私も相当意地悪なのだから。


ドレスから着慣れたスーツに着替え、帰り支度を済ませて1階に戻ると、店員の姿はまばらで会場内もほぼ片付いていた。
出版社が持ち込んだと思われる物だけが、入口にまとめて置いてある。
あとは車に積み込むだけのようだ。
「ねぇ、入口に置いてあるのは持って帰る物なのよね?」
「ああ、先生。ええ、そうですよ。」
会場で何やらコード類をグルグルと巻き取っている担当が振り向いて頷く。
「私の荷物も一緒に置いてもいいかしら。」
「あ、はい、いいですよ。一緒に車に積みますから。」
「了解。置いとくわ。だいぶ片付いたわね。お疲れ様。」
「ええ、あとはこの辺を片付ければ終わりです。先生、待ちくたびれたでしょう?すみません、長々とお待たせしちゃって…」
「ううん、全然。それより今日は本当にありがとう。準備から片付けまで全部してもらっちゃって。」
「何言ってるんですか。先生のためだと思ったら僕はちっとも苦じゃないですから。むしろ役に立てて嬉しいですよ。」
「…何か気持ち悪いなぁ。何よ、欲しいものでもあるの?」
「…やだな、本心ですって。」
「本当に〜?」
「本当ですって。…そりゃ、新居に立派なソファーは欲しいですけどね。」
「やっぱり欲しいんじゃない!」
「冗談ですって。」
「冗談に聞こえなかった!」
「あはは、相変わらず冗談が通じないですねぇ。」
「仕方ないでしょ、そういう性分なんだから!」
「でも、先生って冗談も通じないですけど、本気で言ってることは冗談だと思い込みますよね。」
「……」
「冗談で言われたことでも、褒められた時は素直に受け取った方が得ですよ。」
「…それは分かってるけどねぇ…どうも疑り深いのよね、私って。褒められ慣れてないのよね、きっと。」
「まぁ、褒めたら全部鵜呑みにする人もどうかと思いますけどね。」
「そうね、君みたいにね。」
「…ぼ、僕はー」
「あーごめんごめん。片付けの邪魔しちゃって。庭に出てるわ〜。」
「先生!僕の言い分もちょっとぐらい聞いてくれたっていいじゃないですか!」
「あとで聞いてあげるわよ、まずは片付けなさいな。」
担当に背を向けて庭へと出た。
「…先生、そんな意地悪ばっかりおっしゃってると、編集長みたいになっちゃいますよっ」
背中に投げつけられた言葉は、あえて無視する。

お店は閉店したものの、庭と店のライトアップはまだそのままだった。
パーティーの間はゆっくり店内や庭を眺めることができなかったから、雰囲気だけでも楽しめて嬉しい。
芝生を敷き詰めた庭に足を踏み出す。
手入れされているとは言え、ヒールではかなり歩きにくいし、私は着慣れないものを着るだけで躓くような人間だ。
芝生の上なんて歩かない方が身のためだとは思うのだが、私だって一応女なのだ。
素敵な雰囲気の中、ただ歩いてみたいという乙女な部分を欠片くらい持っている。
「先生!転ばないで下さいね!」
担当の声がしたような気がしたが…たぶん気のせいだ。


“おめでとう”
その言葉を今日は何度聞いただろうか。
普段言われ慣れていないその言葉を言われるたびに、とても不思議な気持ちになる。
現実なようでそれでいて夢のような。
自分がパーティーに出席しているのに、まるでもう一人の私が上から眺めているような…。
自分のことをぼんやり眺めている自分がいる。
まだ、受賞が現実であると受け止めきれていないのだろうか。
それともこれは夢で、本当は賞なんてもらっていないとか。
もちろん夢であってもおかしくはない。
賞がとれたことが、まず奇跡なのだから。
今でも夢ではないかと疑う部分はあるが、さすがにそれを担当に言うと怒られる…もしくは泣かれるので、口には出せない。
それに、これは夢なんかじゃなく本当に現実なのだ。

「そう、現実…なんだよねぇ…」
そう呟いて空を見上げると、都会の寂しげな星もまばらな夜空が私を見下ろしていた。
いつもの夜空。
でも何かが違う。
いや、何か、なんてあいまいなものじゃなくて、違うものは私の中にあるのだ。
夜空もこの店も、そして今日来た人たちだって今までと何ら変わりはない。
ただ、私の居場所が少し変わっただけ。
私という小さな人間の人生が、昨日と少し違うだけ。
たったそれだけの違いなのだ。
少しだけ変わっただけなのに、こんなにも自分だけでなく、自分の周りも変わって見える。
この位置に立って、それを初めて知った。
ここに来なければ実感できない気持ちなんだろう。
でもそれに対して、単純に嬉しいと思うことはできない。
寂しい気持ち、不安な気持ち、他にも色々…自分でも理解できない、複雑な気持ちが心の中で交錯している。
そんな気持ちになることも、ここに来て分かったことの一つ。

様々な気持ちがあるにせよ、作家として、夢だった賞をもらい嬉しい気持ちがあるのは確かだ。
こんなに嬉しいことはない。
何度も何度も挑戦して、何度も何度も落選してきた。
それがようやく、こうして叶ったのだ。
私は初めて、自分を褒めてあげようと思えた。
自分の気持ちに正直になって、ありのままに作品を書き上げたこと。
何より誇りに思う。
この世界の大きな何かに立ち向かい、それに打ち勝てた証。
それが今の自分だと、そう思えるようになった。
作品を書いていた頃は、もちろん不安もあった。
途中で何度もくじけそうになったこともある。
思い通り書けなかったことも、数え切れないぐらいあった。
けれど、それを乗り越えて書き上げたことは、私の大きな自信になった。
去年の私とは違う。
あの時の私はもういない。
私は変われたのだ。

夢にまで見た、私らしい私にしか書けない私だけの作品。
それを作り上げた私。
そんな自分を少しずつ好きになれるようになってきた。
自分が大嫌いだった私にとって、それは大きな進歩だ。
自分を大好きと言えるにはまだまだ時間がかかるけど、少しずつでもいい。
私が私であること、それを心から誇りに思えるようになりたいと思っている。
それがいつになるかは分からないけど、きっといつかそう思える日が来ると信じたい。

今日は私が生まれ変わった日。
もう過去の自分に戻りたくはない。
悲しいことがあっても辛いことがあっても、逃げたくない。
現実(いま)としっかりと向き合っていきたい。
たくさんの人たちからもらった勇気が、いつしか私の勇気になり、またそれが誰かの勇気になる。
誰かの笑顔が誰かを笑顔にするように。


でも…

こんな幸せなときに、”でも”なんて言いたくない。
言いたくない…けど…

私は幸せだと思う。
やっと苦労が報われたんだと、そう思ってる。
これ以上の幸せを望むなんて、欲張りだと…自分でも分かってる。

でも…
何かが…
何かが足らないの。
心が…満たされない。
幸せだと心から言えない。
賞を得たこと、それは作家の私には満たされるべき出来事だ。
賞を取る前は、受賞すれば私は心から幸せになれると思っていた。
すべて満たされると思っていた。

それなのに、何故私は寂しいのだろう。
何故こんなにも心にぽっかりと穴が開いたように、虚しさを感じるのだろう。
こんなに幸せなのに。
欲しかった賞を手に入れたのに。


どうして?
どうして……

涙が溢れてくるの……?

いつもそう。
一人になると、思い出したように涙が溢れてくる。
私は…
私は何を求めて泣いてるの…?

これ以上何を求めるの?

一つ手に入れたら、それでいいじゃない。
全部手に入れたいだなんて、どうしてそんな都合のいいことを願うの?
いい大人がバカみたい。

あの日、私はこの道を選んだ。
それは他の誰でもない、自分で選んだこと。
誰かに言われたわけじゃない。
誰かが決めたんじゃない。
私が決めたこと。
決して後悔なんてしていない。
作家として生きることを選んだのだから。
作家の私に、これ以上の望みはない。
あとは自分の力で、どこまで行けるか。
ただそれだけだ。

だけど、私の中には二人の私がいる。
作家の私と、何の肩書きもないただの“佐藤美弥”という女。
作家の私が幸せになっても心から素直に喜べないのは、“佐藤美弥”という私がいるから。
“じゃあ私は?”と“佐藤美弥”が訴える。
その想いが、涙となって私を悩ませる。

きっと、忘れられたら十分幸せな気持ちになれるんだと思う。
新しい恋を見つけて、仕事も恋も充実させればいいのだから。

でも、まだダメ…
ダメなの。

忘れられないよ。
忘れることなんてできない。

まだ好きなの。

彼の笑顔が忘れられないの。
また笑いかけてほしいの。
“美弥ちゃん”って呼んでほしいの。

まだ…好きなの……
思い出になんて…できないよ……


みっともないと分かっていても、簡単に気持ちは変えられない。
頑張って忘れようとしたけど、やっぱり無理だった。
忘れようとすればするほど、余計に想いが募ってしまう。
物語を書けば書くほど、彼のことを思い出してしまう。
恋愛小説を書くと決めた時点で、こんな風になることは分かってはいたけど。
それでもやっぱり辛いよ。

こんな気持ちのまま、あとどのくらいの月日を過ごさなきゃいけないんだろう。
二人の私が幸せになれる日は、いつなんだろう。
…幸せになれる日が、来るのかな。
"佐藤美弥"にも。
その日まで頑張れるかな、私。
頑張れるかな…じゃなくて、頑張らなきゃいけないんだけど。

人はやっぱり弱い生き物ね。
ちょっとやそっとじゃ強くなんてなれない。
私が手に入れた小さな勇気や強さも、ほんの一握り。
まだまだ足りないね。

いつか、手に入れられるかな。
私らしい物語を書き続けて、小さな自信を少しずつ手に入れたら。
もっと勇気と強さが手に入るかな。
何度も何度も繰り返したら、一握りだった勇気がいっぱいになって。
一握りだった強さが、誰にも負けない強さになるのかな。
こんな風に泣かなくてもいいように。

きっとなったとしても、それは私がおばあちゃんになった頃よね。
だからもっともっと先の話。
それに、私のことだから、おばあちゃんになってもちっとも強くなれていないかもしれないな。
いやだなぁ、歳をとってもこのままだったら。
泣き虫おばあちゃんって言われちゃうよ。


「先生!」
担当が大声で私を呼んだ。
慌てて涙を拭く。
「う、うん、な、何?」
「先生のファンだとおっしゃる方が、ぜひお会いしたいと来てるんですけど…どうしますか?」
「え?ファンの方?」
「ええ。パーティーに間に合わなくて、終わってからで申し訳ないんですが…っておっしゃってまして。直接お祝いを言いたいと。」
「まぁ…わざわざ来てくれたの?せっかく来てくれたんだから、ぜひお連れして…ああ、ううん、私が行くわ。どこにいらっしゃるの?」
「あ、その、店の入り口に…でも…」
「でも、何?何か問題でも……あら、なに、その顔。」
担当は、眉間にしわを寄せて不安げな顔をしている。
わざわざ来たという、そのファンのことをあまり良く思っていないようだった。
「いや…その…本当にファンの方なのかなぁ…と。」
「疑ってるの?疑っちゃうような人なの?」
「いえ、まぁ…怪しいような怪しくないような…」
「どっちよ。」
「う〜ん…断定はもちろんできませんけど、ほ、ほら!いるじゃないですか!お祝いの場に現れて暴れたり、ファンという気持ちから恋心に変わってストーカーになってしまい、自分だけのものにしようと殺しに来るとか!僕はそういう人じゃないかと心配して−」
「いやぁね!そんなのいないわよ!アイドルや歌手じゃあるまいし!」
「で、でもっもし本当にそういう人だったらどうするんですかっ」
「だからそんな事あるわけないって。もしそうだったとしても、そんなの決まってるでしょ。」
「え?」
「君が守ればいいんじゃない。」
担当に向かってニヤリと笑う。
「ぼ、ぼぼぼ僕ですかっ!?」
「他に誰がいるのよ?君しかいないでしょ?」
「そ、そんな−」
「ちょっと…この世の終わりみたいな青い顔しないでよ。もしもの話でしょ!そんな人じゃないから大丈夫だって。ほら、その人、ここへ連れてきて。」
「いや、で、でも−」
「いいから!そんなドラマみたいな展開、あるわけないんだから!」
「そ、そうですけど、でも…」
「でももヘチマもない!お待たせしちゃダメでしょ!早く!」
「ヘチマ…って先生いつの時代の人ですかぁ…わ、分かりましたよ、お連れします!でも大変なことになっても僕は知りませんからね!」
と泣きそうな顔をしながら、先ほど私の挨拶で泣いたとは思えない発言をして、店の入り口へと戻っていった。

明らかに不安げな担当の背中を眺めながら、ふぅ、とため息をついた。
「…まったくもう。あるわけないでしょ、そんなこと。ドラマや推理小説の読みすぎじゃないの?ああ、そういえば最近ミステリー小説にハマッているとか言ってたっけ。」
ハマるととにかく洗脳されるタイプなのだ。
どうせ、その小説に有名人を狙うストーカーか何かが出てきたんだろう。
分かりやす過ぎて笑ってしまう。
「…そういえば、初めて会った時は、私の小説に洗脳されてたっけ。」
私の担当になりたくてA出版社に入り、当時の編集長に志願してまで私の担当になった奇特な彼は、初顔合わせの時に、ものすごく熱く私の作品の感想を長々と語ってくれた。
私が書いた小説の舞台になった町にわざわざ足を運んだとか、あえて物語には書かなかった部分を“僕なりにこう解釈してみました!”と熱く説明してくれたり。
かなりの熱狂的ファンだったと言っていい。
今は担当ということもあってある程度落ち着いたが、未だに私がどんな物語を書いても、彼からは呆れるくらい素晴らしい感想がもらえる。
本当に?と聞き返したくなるようなことを平気で言うのだ。
おかげで彼の口から出てくる私に対する言葉や作品の感想は、あまり信じられなくなった。
疑り深いのは元々の性格だけど、ひどくなったのは担当のせいだと思う。
…なんて言ったら大泣きだろうから、言わないけど。
ただ、彼がいたから今日まで作家を続けることができたのも事実だ。
彼がいつでも私の作品を良いと言い、私を尊敬してくれていたからこそ、辛い作家生活も乗り越えることができたんだと思っている。
これでも感謝しているのだ。
とてもそうは見えないと思うけど。

ずっと一緒に頑張ってきた人ほど、“ありがとう”という言葉は照れくさくて言いにくい。
ましてや面と向かって、だなんて恥ずかしくて言えない。
だから、私は担当にはいつも意地悪を言ったりからかったり。
いつもいつも誤魔化してしまう。
思いは口にしないと伝わらないことは、よく分かっているのに。

今日は言わなきゃダメだよね。
意地悪してる場合でも、からかってる場合でもない。
今日言わないで、いつ言うのよ。
不器用だからって言い訳は、今日は通用しないんだから。
照れくさいとか、恥ずかしいだなんて逃げていられない。
だから言わなきゃ。
家族よりもファンよりも編集長よりも、誰よりも近くで私を応援してくれた彼に。
ずっとずっと私を守ってくれた彼に。
一番の“ありがとう”を。
そして“これからもよろしく”って。

どんな顔をするんだろう。
ちょっと楽しみ。
でも、だいたい想像はついちゃうんだけどね。
きっと……泣くよね。
あんなに分かりやすい人はそうそういないかもしれない。


「せ、先生…お、お連れしました…」
担当の不安げな声が私を呼んだ。
まだ怪しい人かもしれないという不安が払拭されていないようだ。
来てくれたファンの方が聞いたら何て思うだろう。
そんなに怪しい風貌なんだろうか。
明らかに付け髭とか、カツラを被ってるとか?
はたまたアキバ系な感じ?
男性なのにセーラー服着てるとか…うわ、それは嫌だな。
ああ、パンツ一枚とかそういうのも嫌だわ。
…あれ?でも来たのは男性とか女性とか一言も言ってなかったよね。
どっちなのかしら。
いや、でもストーカー云々言ってたし、男性なのよねぇ?
そう思わせておいて女性とか?
あ、まさか女装した男性?
男性と気づかないほどの美人だったり?
想像すればするほど有り得ない方向へ妄想が進んでしまう。
「せ、先生?」
再び担当が私を呼ぶ。
いけない、いけない。
妄想に夢中になってた。
「は、はーい。」
私は想像を膨らませながら笑顔で振り返った。


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