EVERYBODY NEEDS LOVE GENERATION

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−3−

「……」
かすかに人の声がする。
重い瞼を、ゆっくりと開けた。
目覚めたばかりの狭い視界に見えたのは、ただ真っ白な空間だった。
もしかしてまだ…夢の中?
それとも…天国?
いや…そんな果てしない空間ではなさそうだ。
何度かまばたきをしてみた。
徐々に視界がはっきりしてくる。

目の前の白さは、よく見れば真っ白ではなく現実的で物質的な白さ。
…そう、まるで白い壁のようなもの。
…そうか、天井だ。
これは白い天井。
目の前には真っ白な天井がある。
ああ、そうか。
私は倒れたのだ。
ようやく理解できた。
あの時、近くの人たちが誰かに知らせてくれたんだろう。
どこかに運ばれてベッドに寝かされているのだ。
「…ここは……」
どこなのだろう。
もしかして病院?
救急車で運ばれてしまったのだろうか。

「あ、気が付いた?よかった。ここは出版社の医務室だよ。」
そう言って顔を覗かせたのは、坂崎さんだった。
―ドクンッ―
「…さっ坂崎さん!ど、どうしてここに−」
「ああ、まだ寝てなきゃダメだって。ちゃんと説明するから寝てなさい。ね?」
「は…はい…あの…どういう…」
周りを見渡したが医者らしき人の姿はなかった。
彼のマネージャーの姿もない。
「ブースを出てきてすぐ、めまい起こしたでしょ?」
「はい…」
「ちょうどその時マネージャーと階段を下りようとしてたんだ。で、何気なくブースの方を見たら佐藤さんが出てきて。どうも様子がおかしいなと思っていたらふらっと倒れてね。慌ててここに運んだ、というわけ。」
「…そう…だったんですか。すみません、ご迷惑をおかけして…」
「ううん。医者の話では、きっと仕事のしすぎで疲れがたまってるんじゃないかって。しばらく休ませて気分がよくなったら帰ってもいいけど、もししばらく経ってもおかしいようなら、病院へ行くようにって言ってたよ。」
「そう…ですか。それで…お医者さんはどちらに…」
「さっきまでいたんだけど…今用事で出て行っちゃって。お礼は僕から言っておいたから。」
「すみません…。…あの、お仕事は大丈夫ですか?マネージャーさんが待ってるんじゃ…」
「ああ、僕?大丈夫だよ、次の仕事までまだ時間あるし。棚瀬ね、佐藤さんが倒れた時一番わたわたしてたよ。そりゃ僕も慌てたけど、あいつの慌てようは面白いぐらいだったよ。」
そう言って楽しそうに笑った。
「そうですか…」
何だか私もその姿が想像できてしまったが、笑うわけにはいかない。
「でも寸でのところで支えられてよかった。あと少し遅かったら倒れ込んで床で頭とか強打してたかもしれなかったから。」
「え?」
「倒れてきた佐藤さんをこう…受け止めてさ。支えきれなくて一緒に倒れたら情けないなぁって思ったんだけどね。何とか支えられてホッとしたよ。」
坂崎さんは手を広げて胸の前で抱き締めるようなジェスチャーをしつつ、苦笑いを浮かべた。
つまり私はそうやって坂崎さんに抱き止められたということね。
へぇ…
ぼんやりと想像してみた。
………
や、やだ…。
カーッと顔が赤くなっていくのが分かった。
「ん?どうかした?」
「…い、いえっ何でも…っっっ」
真っ赤になった顔を隠すため布団を顔まで引っ張った。
覚えてないけどそんなことがあったんだ。
…うわっなんて恥ずかしいのっ
顔がまともに見られないじゃないっ
うわーどうしよう…っ
まさか坂崎さんに助けられるなんて。

…あ……
“どんなに褒めていただいても、落選は落選ですから”
自分の作品を褒めてくれた彼に言った言葉が、まるで私を責め立てるように蘇ってきた。
抱き止められたことにドキドキしている場合でも、こんな風に会話をしている場合でもない。
途端に心がざわつき、後ろめたい気持ちになった。
きっと真っ赤になった顔は真っ青になっている。
あんな台詞を言ったあと、こんなことになるなんて。
しかも助けてくれたのは坂崎さんだなんて。
どうしてこんなことになるんだろう。

布団の隙間からちらりと坂崎さんを覗き見た。
彼はそんなことがあったなんてまるで嘘のように、穏やかな顔をしている。
あの時、私の言葉は彼に届かなかったのだろうか。
だからそんな風に普通にしていられるのだろうか。
私には彼の真意をとても見つけられそうもない。

「…気分はどう?もしかして、まだあんまりよくない?気持ち悪いとか?」
布団から顔を出さない私を心配してか、そんな言葉を投げかけられた。
…答えないわけにもいかない。
あんなことがあったとはいえ、彼は私を助けてくれた人なのだ。
「い、いえ…大丈夫です。」
おずおずと布団から顔を出すと、
「そう?本当に?無理してない?」
と疑うような台詞と眼差しが返ってきた。
首を傾げ、真意を確かめるかのように私を見つめる。
何だか最初に会った時やさっき会った時と違ってやけにドキドキする。
たぶん…抱き止められたという事実を聞いたからだと思う。
他意はない。
…たぶん。
今の心理状態ではどんなことも断言することはできないけど。
「は、はい…ほ、本当に大丈夫です。」
「…そっか、よかった。でも、まだ顔色あんまり良くないし、もう少し横になってた方がいいよ。」
確かにまだ歩くには辛い気がする。
途中でまた倒れて人に迷惑をかけるわけにもいかない。
彼の意見はもっともだ。
「…はい。そうします…」
「うん。医者も気分がよくなるまで休んでていいって言ってたし、ゆっくりしていくといいよ。」
そう言って坂崎さんは笑った。
彼の笑顔に少しホッとしたが、だからといって彼に言った私の言葉が消えるわけでもない。
彼が笑顔な分、後ろめたさは増す一方だった。

…そうだ。
ここまで運んでくれたのは誰なんだろう。もしかして担架?
私、坂崎さんだけでなく色んな人に迷惑をかけたのかもしれない。
編集室にも、私が倒れたことが伝わってしまったということも考えられる。
ちょっと面倒だなぁ…。
「あの…ここまではどなたが運んでくださったんですか?お医者さん、ですか?」
「え?ここまで?人を呼ぶよりここに運んだ方が早かったから、僕が…」
彼がしているジャスチャーはどう見ても“お姫様抱っこ”だ。
「ええっ!」
あまりの衝撃的事実に布団から飛び起きた。
気分が悪かったことすら頭の中から抜け落ちている。
「そんなに驚かなくても。僕だってね、それくらいの力はあるよぉ。佐藤さん僕より背も低いし軽いもん。大丈夫、落としたりしてないから。」
「そっそういう…ことでは…な、なくて…っ」
抱き止められた上にお姫様抱っこって…!
「あ、耳まで真っ赤。」
坂崎さんに指摘されて余計に体温が上昇した。
「みっ見ないでくださいっ」
慌てて頭の先まで思い切り布団にもぐりこんだ。
うわーうわーうわーっ
抱き止められただけでもどうしようもなく恥ずかしいのに、その上お姫様抱っこですって?!
つまりは気を失ってるまぬけな顔はばっちり見られたってことでしょ?
軽かったとか言ってるけど軽いはずないんだから体重もバレバレじゃないっ
何でこんなところで倒れるのよっ
もっと違う場所で倒れればいいものをーっ
打ち合わせ中に倒れていればこんな姿さらさなくても済んだのに…っ

…そ、そうだわ、ここは出版社じゃないの!
出版社で倒れるなんて危険がいっぱいじゃない!
相手は有名人よっ?
誰かに写真撮られてたらどうするのよ…っ
週刊誌に変な記事が載ったらどうするのよー!
……た、例えば…
『作家の佐藤 坂崎幸之助にお姫様抱っこ』
はっ恥ずかしすぎるーーーーーーーーーーーーーっっ
そんな内容で記事に載りたくない…っ
いや…っそういう問題じゃなくて…っ
坂崎さんのファンに怒られるっ
あ、明日からファンレターじゃなくて脅迫めいた手紙が山ほど…
サーッと血の気が引いた。
いやーーーーーーーーーーーーーっっ

布団の向こうでくすくす笑う坂崎さんの声がした。
絶対人事だと思ってる。
これは私だけの問題じゃないのよっ
「…わ、笑ってる場合じゃないですよっ」
布団の中から訴える。
「え?どうして?」
「誰かが写真撮っていたらどうするんですかっ!変な記事が載る可能性だってあるんですよっ!?」
「そんなの載らないよぉ。記者たちは売れる記事を書きたいんだから。僕のそんな記事載せても売れないって。あ、でも佐藤さんとの記事だったら…売れるかなぁ。」
「う、売れるとかそういうことじゃないですっ」
「あはは、大丈夫だよ。売れないだろうし、たとえ載っても話題にもならないって。」
「世間では話題にならなくても、アルフィーのファンや坂崎さんのファンの間では話題になりますよっ!別にやましいことをしているわけじゃないですけど!こっちはそう思っていても読んだ方は解釈が違ったりするんですっ!きっと明日から私のところには坂崎さんのファンから苦情や嫌がらせが…報道陣からも追い掛け回されて…」
ああ、考えただけで寒気がする!
相手が有名人でなければこんなことにはならなかったのに。
何でこんなにもついてないんだろう…!

気が付くとやけに静かになっていた。
あれ?
坂崎さんは部屋を出ていったのだろうか。
人が真剣に話している時に何て失礼な。
そっと布団の隙間から外を覗くと、坂崎さんは同じ場所に座っていた。
何だ、真剣に聞いていてくれたのか、と思ったのだがよく見ると声を殺して笑っている。
必死になってゲラゲラ笑うところをこらえているようにも見える。
ムッとしてベッドから飛び起きた。
「坂崎さんっ笑い事じゃありませんっ私は真剣なんですっ」
「ご、ごめんごめん。佐藤さんが真剣なのは分かってるんだけど、だから余計に面白くて…」
「面白いって…!私は真剣に…!」
「わ、分かってるよ。分かってるんだけどね。そんなことまで心配しなくてもいいのになぁって。」
「そういう性分なんですっ生まれ持った性格ですっ」
「可愛いねぇ、佐藤さんって。」
ドキ…ッ
「かっかわ…っ」
か、可愛くなんてないわよ!
可愛いっていうのは受付にいるような人のことでしょ!
下手なお世辞言わないでっ!
と言い返したいのだが、言葉が出てこない。
口だけパクパクさせて…まるで池の鯉みたいだわ。
坂崎さんはそんな私の心情を知ってか知らずか、ニコニコしている。
その顔はまるで私が言い返せないことを楽しんでいるかのようだ。

彼に会うといつもそう。
初めて会った時からそうだった。
この人にはいつもからかわれている気がしてならない。
まるでおもちゃにされている気分。
この人のマフラーを見つけたばっかりに。
そのままブースに置いておけばよかった。
今更後悔しても、どうにもならないけど。

それに…
どうしてこの人の笑顔を見ると、私は心に余裕がなくなるんだろう。
イライラして…悲しくなって…目を逸らしたくなる。
彼の前から逃げ出したくなる。
自分が…嫌いになる。
私はどうしてこんなにイライラしてるの?
何にイライラしているの?
何が悲しいの?
何から逃げ出したいの?

「佐藤さん?大丈夫…?」
坂崎さんが心配そうに私を見ている。
まるで…
そう、私を哀れんでいるように。

…ああ、まただ。
あの時と同じ。
ざわざわと私の心が騒ぎ出した。
悲しくて…
悔しくて…
ここから逃げ出したい…
どうして…?
どうしてこんな風になるの?

苦しいよ…。

坂崎さんから顔を逸らした。
「…佐藤さん?」
彼は私を…私の心を不安定にさせる。

そんな顔で…
私を見ないで−

「…今日は」
「え?」
「今日はご迷惑をおかけしてすみませんでした。もう大丈夫ですからマネージャーさんの所に戻ってあげて下さい。いずれこちらからお礼に伺います。」
「……」
顔も見ずに言った私の抑揚のない言葉は、一瞬にして医務室中を冷たい空間へと変えた。
そうなることは自分でも痛いほど分かっている。
それがどれだけ失礼なことなのかも。
でも、今の私には彼を…他人を思いやる余裕なんてどこにもない。

私は今、あなたの顔を見たくない。
あなたの顔を見ると自分がもっと嫌いになるの。
嫌いで嫌いで仕方がなくなるのよ。
これ以上…自分のことを嫌いになりたくない。
あなたのことも…
だから…

「じゃあ、最後に謝らせてくれるかな。」
…え?
「さっき、佐藤さんの気持ちも考えないで賞のこととかペラペラ喋ってごめん。一番触れられたくないことだったんだよね。」
「……」
「でも、僕は嘘は言ってないから。佐藤さんの本、本当にいいと思ってる。賞の受賞候補に入ることがどれほど大変で賞に受賞することがどれほど大変なことか、僕は詳しくは分からないけど、佐藤さんの書く物語が好きなやつはいっぱいいるってことは確かだよ。うちの棚瀬もその一人だし、もう一人佐藤さんの大ファンを知ってる。佐藤さんの本に感動している人たちがいることは、忘れないでほしいな。」
「……」
…私は何をしているのよ。
私は…
「今はゆっくり休んで。お大事にね。…じゃあ。」
扉が開く音がして、すぐにパタンと閉まった。
「…あ……」
顔を上げた時、扉の向こうをコツコツと靴音が遠ざかっていった。

ああ…
何てことなの…
今頃…気付くなんて…。
馬鹿馬鹿しいほど自信をなくした自分にただイライラして…。
そのせいで自分の作品を褒めてくれた人にお礼も言えず、私は彼に自分の苛立ちをぶつけていた。
ただ…それだけだった。
彼の優しさも全部否定して。
まるで全部彼のせいにして。
「…バカじゃないの、私……」
視界がぼやける。

それなのに…
幻滅してくれたっていいのに、彼はそれでも私の本を褒めてくれた。
私の身体の心配まで。
なのに私は…

ぽつりと手の甲に冷たいものが落ちた。
「…本当、バカよ……」
涙が止まらなかった。


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