EVERYBODY NEEDS LOVE GENERATION

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−23−

「…おや、こっちに来るみたいですよ。」
「…っ!」
桜井さんの言葉に驚いて顔を上げると、傘を差し小走りに横断歩道へと向かう彼の姿が見えた。
車の群れに見え隠れする彼の視線は、明らかにこちらを向いている。
慌てて立ち上がった。
「…佐藤先生?どうかしました?」
「…あの、わ、私…急用を思い出したので、これで失礼します…っ」
「…え?いや、でも…あいつもこっちに来ますし、せっかくですから…」
「ちょ、ちょっと急ぎの仕事を…その、思い出しましたので…!つ、次のバスまで…その、まだ時間がありますし、急ぐので地下鉄の駅まで歩きます…っ」
「…や、あの、でも、まだ雨も降ってますし、止むまで…」
私を引き止めようとする桜井さんの向こうで、信号が青になった。
彼が横断歩道を渡り始める。
来ないで。
会いたくない…!

「いえ、このくらいの雨なら濡れても平気です…!あの、タオル、ありがとうございました!こ、これは−」
「あ、ああ、それは別に返さなくても全然…」
「そ、そうですか、では、お言葉に甘えて…使わせていただきます。ありがとうございました!」
「いえ…あの佐−」
「そ、それでは私はこれで!」
桜井さんに一礼して、小雨の中に飛び出した。
「あ−」

私は逃げてばっかりだ。
逃げて逃げて…逃げ続けて。
現実から逃げて、未来からも逃げて。
そして現在(いま)からもこうして逃げようとしている。

でも、逃げることしか私にはできないよ。
現在(いま)と向かい合うことなんてできない。

自分のことすら向かい合えない私に、誰かを笑顔にする力なんてあるわけがないんだ。
そんな人間が作家であることが間違っている。
好きになった人の言葉すら疑うような私に、好きでいる資格なんてないんだ。
そんな人間が”恋愛小説”なんて書けるわけがない。
書くべきじゃないんだ。

辞めるから。
もう、作家なんて辞めるから。
だからもうここには来ない。
来る理由もなくなる。
…あなたとも二度と会うことはない。
あなたの姿を見ることも、あなたに笑いかけられることも。
すべてなくなる。
まるで、今までが夢だったように。

そうだ。
全部夢だったんだ。
作家だった自分も、あなたを好きな自分も。
すべてが夢だったんだ。
ずっとずっと長い夢を見ていたんだ。

そう…夢。
これは夢なんだ。
私は夢を見ていただけ。
夢ならきっと忘れられる。
明日目が覚めたらきっと…
全部忘れられる−


「美弥ちゃん!」

忘れられる。
きっと。
忘れ…られる…

なのに…
どうして?
どうして…足が止まるの?
会いたくないのに…
会う資格なんてないのに…
忘れたいのに…

これは夢なのに。
全部夢のはずなのに。
夢だって思いたいのに…

”美弥ちゃん”

あなたの声も夢なの?
私を呼ぶあなたの声も。
全部夢だったの?

「美弥ちゃん、待って。今日は話があって…」
あなたの声が近づいてくる。
背中の向こうにあなたを感じる。

これも…夢だというの?

突然、スッと私の元に影が差すと、私を濡らす雨粒たちの姿が消えた。
「ごめんね、急ぐ?でも話せるのは今日しかなくて…」
あなたの声。
私に優しく差しかけられたあなたの傘。

これも…夢にしたいの?
私は本当に夢にしたいの?

「それに雨もまだ降ってるし、よかったら一緒に車で−」

違う…
これは…夢じゃない。
夢に…
したくないよ−

「…み、美弥…ちゃん?」

だってこの気持ちは夢なんかじゃないもの。
あの日、勇気をもらったことも、元気をもらったことも本当のことだもの。
新しいことに挑戦したいと思ったことも、全部全部本当だもの。

夢だなんて、簡単に思えるわけないじゃない。
作家になりたかった自分の気持ちも、決して夢でも嘘でもない。

無理よ。
忘れるなんて。
どんなに泣いたって、忘れることなんてできない。
世間に認められない作家でも、あなたを想う資格がなくても。
作家として過ごしてきたことは夢じゃない。
あなたに出会ったことも、あなたを好きな私の気持ちも…。
全部全部、本当のこと−

「…ど、どうしたの…っ?何かあった…っ?…もしかして桜井!?」
「え、俺っ?」
「桜井…おまえ美弥ちゃんに何したんだよ?」
「いや、俺は何も−」
「じゃあ何で泣い」
「…さ、坂崎さん、違います。桜井さんは何もしてないです…っ」
「…でも」
「桜井さんはただ、雨に濡れた私にタオルを貸してくださっただけです。な、泣いているのは…その…私が勝手に泣いているだけで…」
「……」
「すみません、びっくりさせてしまって…。もう大丈夫です、何でもないです。」
涙を拭いて顔を上げると、坂崎さんが心配そうな顔で私を見下ろしていた。
じっと何も言わず、ただ私を見ている。
心を読まれているようなその目に、私は堪らず目を逸らした。

何も言わないで。
言わなくていいから。
もう…私なんかに構わなくていい。
あなたに心配される資格なんてないの。
今は無理だけど、いつかあなたのことは忘れるから。
だからもういいの。
何も言わないで。

「…桜井。」
「だ、だから俺は何も−」
「…待っててもらっといて悪いんだけどさ、先…行ってくれる?」
「…へ?何−」
「後で行くよ。」
「……後でって…」

坂崎さん…?

視線を戻した私に、彼が小さく微笑む。
「…外せない大事な用事ができたんだ。」
その顔はとても穏やかで、全てを見透かされているような…そんな気がした。
ううん、違う。
気がするんじゃなくて…見透かされているんだ。
私に何が起こったのか、きっとそれは分からない。
でも私が考えていることは、坂崎さんには分かっているんだ。
だって彼は“しょうがないなぁ”って顔してる。
眼鏡の奥の瞳は、私を…私の心を見ている。

せっかく拭いたのに、また涙が零れた。
私の強がりなんて、あなたには通じないのね。
ずるい。
いつもそう。
全部見透かされて、何も隠せない。
本当は助けてほしいって思ってることも、全部全部あなたには分かってるのよね。

どうして分かっちゃうの?
どうしてそんなに優しいの?
まるで知らない人みたいに、私に気づかないフリをしてくれればいいのに。
そうすれば私はこんなに苦しくならなくて済むのに。

そんな風に優しくされて、好きになるなって言う方が無理よ。
本当…ずるいよ。
止まらない涙に、桜井さんからもらったタオル押し付けた。

「…大事な用って…そりゃ、何となく…分かるけどさ。三人での仕事なんだぞ?おまえがいなかったら意味ないだろ。どうすんだよ?」
「誰も行かないなんて言ってないよ。後で行くよ、ちゃんと間に合うように。」
「……」
桜井さんがじっと坂崎さんを見つめ、坂崎さんが見つめ返す。
まるでお互いの心内を探りあっているのかのように見える。

「桜井さ〜ん!坂さ〜ん!」
横断歩道を渡り、棚瀬さんが小走りにやってきた。
結局私はみっともない泣き顔を、二人だけでなく彼にまでさらしてしまうことになってしまった。
泣き顔だけじゃない。
化粧だってほとんど落ちているはずだ。
そんな状態で何もこの人たちに偶然会わなくてもいいのに。
本当に運が悪い。
運が悪いとしか言いようがない。
私は一生、運のない人生なのだろうか。

棚瀬さんは息を切らして私たちのところまでくると、相変わらずの笑顔を私に向けた。
「佐藤さん、こんにちは。」
「こ、こんにちは…」
「あ、雨に降られてしまいましたか!突然降ってきましたからねぇ。大変でしたね。大丈夫ですか?」
「あ…は、はい。何とか…」
泣き顔だということは気づいていないようだ。
雨に濡れたおかげかもしれない。
少しだけ雨に感謝する。
「そうですか、濡れたままでいると風邪ひきますからね。ひょっとしてバス待ちですか?」
「え、ええ…」
「そうですか。バスに乗っている間に服は乾きそうですね。よかったよかった。風邪をひかないよう暖かくして下さいね。」
「あ、はい…ありがとうございます…」
「いえいえ。…さて。桜井さんと坂さんはそろそろ移動しないと時間がありませんよ。」
そう言って棚瀬さんが二人を交互に見やる。
けれど坂崎さんはそんな棚瀬さんに視線も送らず、じっと桜井さんを見たまま、
「…桜井なら分かってくれるよね?」と尋ねた。
「坂さん?」
相手にしてもらえない棚瀬さんは、妙に不安そうな顔になっている。
桜井さんも棚瀬さんのことなど、見向きもしない。
二人の様子に、棚瀬さんが一層不安そうな顔になっていく。
「あの…坂さん?…桜井…さん?」

しばらくすると、桜井さんは不機嫌そうに眉間にシワを寄せてため息をついた。
「…バーカ。」
「何だよ。」
「バカだからバカって言ったんだよ。…棚瀬、行くぞ。」
そう言うと、桜井さんは棚瀬さんのジャケットを引っ張った。
「おっと。そんなに引っ張らなくても行きますって。坂さん!行きますよ!」
「後で行くってよ。」
「…は?」
「だから後で行くんだってさ。…分かりたくねぇけど分かっちまう俺も所詮バカだからな。まったく…やれやれだよ。」
「は!?何の話ですか?…って、な、何で後で行くって話になってるんですか!後じゃダメに決まってるでしょう!坂さん!?」
「棚瀬、ごめん。先行ってて。必ず行くから。」
「ちょ…どういうこと…うわっ!桜井さん!ちょっと待って下さいよ!坂さんと話を−」
「話は俺としたからいいんだって。ほら、行くぞ。時間ないんだろ?」
「そ、そういう問題じゃ−」
「はいはい、遅れるよ〜行きますよ〜。」
まるで駄々をこねている子供を連れていくように、桜井さんは棚瀬さんの首に腕を回し、半ば強引に横断歩道へと向かっていった。
「ちょっ…さっ桜井さんっ!坂さんはっ!?坂…坂さぁ〜んっっ!!」
棚瀬さんの悲痛な叫び声に、坂崎さんは苦笑しているようだった。
ちょうど青になった信号を渡り、桜井さんと棚瀬さんが車へと向かう。
棚瀬さんがまだ、こちらを気にして何度も振り返っているが、桜井さんによって容赦なく車に放り込まれてしまった。
まるで誘拐現場を目撃しているような気分になる。
桜井さんがこちらに軽く手を上げて乗り込むと、彼らを乗せた車はゆっくりと動き出した。

沈黙の中。
そっと坂崎さんを見上げると、彼はどんどん遠のいていく車を見送っていた。
その横顔は、少し悲しそうに見える。

…本当にここに残って大丈夫なの?
仕事なんでしょう?
私に構ってる暇なんて、本当はないんでしょう?
無理して残ってくれたんでしょう…?
どうして私なんかのためにそこまでしてくれるの?
どうして…そんなに優しいの?
聞きたいことはたくさんあるのに、一つも聞けない。
それに一言でも声を発したら、それがどんな言葉であっても涙へと変わってしまう気がして…。
私はただ、車を見送る彼の横顔を見上げることしかできなかった。


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