EVERYBODY NEEDS LOVE GENERATION

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−17−

手の上に置かれたハンカチを手に取る。
涙を拭いて坂崎さんの姿がしっかり見えた途端、ハッと我に返った。
やだ、私…坂崎さんの前で泣いてた…っ
うわ…恥ずかしいっ
きっと下手な化粧がより変になってみっともない顔をしてるんだわ…っ
ああっ坂崎さんのハンカチに化粧付いちゃったし!
「ご…ごめんなさい…っ突然泣いてしまって…その…」
「いいよ、何となく理由は分かるから。泣きたい時は泣いた方がいいしね。ハンカチ、本当に遠慮せず使ってくれていいよ。」
相変わらず穏やかに彼は言う。
どうやったらこんな穏やかになれるんだろう。
私も彼みたいになりたいな。

「…ありがとう…ございます。」
「いえいえ、どういたしまして。」
「私…」
「ん?」
「私、坂崎さんみたいになりたいです。」
「僕みたいに?」
「はい。坂崎さんみたいに思ったことや感じたことを…口に出して言えるようになりたいです。…素直になりたいです。」
「え?素直に?僕だって別に素直じゃないよ?」
「そう…なんですか?」
「うん、ちっとも素直じゃないよ。あいつらが聞いたら”何言ってんの佐藤先生!”って言われるよ。」
そうかなぁ…。
私が知ってる坂崎さんは、とっても素直だと思うけどな。
まだ知らないことがたくさんありすぎるのかしら。
「でもさ、僕みたいになりたい、なんて思わない方がいいと思うなぁ。だって佐藤さんが僕みたいになっちゃったら、”坂崎幸之助”が二人になっちゃう。」
「はは…私も坂崎さんになっちゃうんですか。そ、それは困りますね…」
「でしょ?だから佐藤さんは−」
「私は私であればいい…。」
「うん。」
満足そうな笑みで頷く。

うん、そうだよね。
私は私でいいんだ。
佐藤美弥はこの世でたった一人。
私らしく生きていけばいいんだよね。

「…何だか、ずっと胸につかえていたものが取れた気がします。」
「そう。…すっきりした?」
「はい。まだまだ自分に自信を持つことはできないですけど…でも、私が私であることを認めてあげなきゃいけないなと思いました。私、自分のこと…好きになれなかったんです。どうして私ってこんな風なんだろう、どうして私にはできないんだろう…そんなことばかり考えていました。…それじゃあ、何をしたって人生楽しくなんてないですよね。」
「うん、そうだね。」
「坂崎さん。」
「うん?」
「私…まずは自分のこと、もっと好きになろうと思います。私という人間から作られた言葉や物語も、自分の未熟なところも全部ひっくるめて認めてあげられるような…そんな人間になれるよう、頑張ってみます。」
「そうだね、まずは自分を好きにならなきゃね。」
「はい。こんな人間ですけど、きっと色々探せば良い所も−」
「良い所ばっかりだから探さなくてもすぐ見つかるって。佐藤さんは気づいてないだけ。」
また上手いこと言うなぁ。
…でも…すごく嬉しい。

「佐藤さんはね、自分のこと全然見てないんだよ。周りばっかり気にしてるでしょ?」
「…う……は、はい…」
「今日帰ったらさ、鏡で自分のことじっくり見てみてよ。」
「え、鏡でじっくり…ですか?」
卒倒したらどうしよう。
「うん。きっと“あれっ!私ってこんな顔してたっけ!?可愛いじゃない!”って思うから。」
「そっそれはないですよ…っいくらなんでも可愛い顔とそうでない顔ぐらいは判別できますからっ」
「判別できてないから言ってるんです。」
少々ムッとしたような顔で坂崎さんが私を見た。
えっなに?
怒らせた…っ?
「え…と、あの…」
「それとも彼氏が“おまえは可愛くない”って言うとか?」
「へっ?か、彼氏ですか?言うとか言わないとかの前に、そんな人いませんから…っ」
「…いないの?…ほんとに?」
「は、はい…いたら嬉しいんですけど残念ながら…」
「…そう。彼氏いないんだ。…そっかぁ。」
あれ、何か口元笑ってない?
あ、分かった。
彼氏がいないことを笑ってるのね。
そりゃ坂崎さんみたく素敵な人なら恋人の一人や二人や三人…それはさすがに多いか、一人や二人イイ人がいるだろうけどさ。
私みたいなのに彼氏ができるなんてのは、出会い頭の衝突事故みたいな衝撃的なものがない限りは無理だと思うのよね。
私を気に入る人なんて、そうそういないだろうし。
ファンでさえ私の姿を見て“ガッカリです”って言うぐらいなんだもの。
そんな奇特な人なんて−

「佐藤さん。」
「…はい?」
「佐藤さんのこと、“美弥ちゃん”って呼んでもいい?」
「えっ?!」
なにっ突然!
「何か“佐藤さん”って呼ぶの余所余所しいし。せっかく知り合ったのに”さん”付けって何かやだなぁと思って。…いや?」
う…わ…っ
…おっお願いだから悲しそうな顔して上目遣いで見ないで…っ
ド、ドキドキするじゃないのっ
「いっいやじゃないですよっ!むっむしろ光栄ですっ!好きなように呼んで下さい!“佐藤”とか呼び捨てでもいいですし!」
「呼び捨てって…しかも名字?」
クスッと小さく笑われた。
「も、もちろん名前でもいいですよ!あ、“おい”とかでも何でも!」
「名前がいいなぁ。やっぱり“美弥ちゃん”がいいな。うん、“美弥ちゃん”で。」
“美弥ちゃん”
天下の坂崎さんにそんな風に呼んでもらって罰が当たらないだろうか…。
いや、嬉しいよ、嬉しいんだけど。
でも何か落ち着かないっていうか…ドキドキするっていうか…

「ね、美弥ちゃん。」
―ドクンッ―
「はははいっ?」
うわーっ早速呼ばれちゃったよ!
どうしようっ!
すっごく照れくさい!
ドキドキするよーっ!
うわーっ!

「…今度さ」
「は、はいっ?」
え?今度?
なに?
「…今度よかったら−」
―コンコン―
「坂さん、そろそろです。」
扉の向こうからノックとともに棚瀬さんの声が聞こえた。
「……」
口をつぐんだ坂崎さんは、ムッとして扉を見た。
話の途中だったところを邪魔されて腹が立ったみたいだ。
「…何だよ、まだ時間は…えっ!もうこんな時間?!」
そう言って見上げた先の時計は、坂崎さんにとってはびっくりな時間だったようだ。
棚瀬さんの言う“そろそろ”は、つまり“そろそろ準備を…”ということなんだろう。
ということは、私は相当な時間お邪魔していたことになる。
「ええ、そろそろ。佐藤さんもお席にお連れしなくてはいけませんし…」
少し遠慮がちな棚瀬さんの声がした。
坂崎さんが不機嫌なのが分かったのかもしれない。
さすがマネージャー。
「ごめんね、もう時間になっちゃった。」
「いえっ!こちらこそ長い時間お邪魔しましてすみませんでした。」
「ううん、引き止めたのは僕だし…」
「いえ、とても楽しかったです。…それでは私はこれで。」
立ち上がろうとして、ハンカチを手にしていることを思い出した。
「あ…」
「ん?ああ、ハンカチ?」
「洗ってお返ししますね。」
「え、いいのに。」
「いえ、お借りしたものですからきれいに洗ってお返ししないと。」
「そう?」
「はい。」
「じゃあ…また出版社で会った時にでも返してもらおうかな。」
「はい、常に持ち歩くことにします。」
「はは、会うまでにシワシワになったりしてね。」
「あはは、可能性はありますね。」

こんな風に坂崎さんと笑いながら話ができるなんてね。
あの日からここに来た時までの、不安でいっぱいだった自分を思い出すとバカみたいで笑っちゃうわ。
…いや、実際バカなんだけど。
全部坂崎さんのおかげね。
あなたの優しさが私を救ってくれた。
感謝の気持ちは“ありがとう”だけではとても伝えられない。
でも、何て言えばいいのか…。
言葉はたくさんあるのに、その中からこれだという言葉が見つからない。
何十年と日本に住んでいてずっと日本語を使っているのに、ちっとも使いこなせない。
母国語だというのに…。
これだから日本語って難しいわ。

でも飾り立てた言葉じゃなくて、素直に自分が思っていることを言えばいいんだよね。
きっとそうすることで、一番相手に気持ちが伝わる。
彼がくれた言葉に、私なりの言葉で”ありがとう”を伝えたい。

「坂崎さん。」
「ん?」
「今日は本当にありがとうございました。」
「ううん、こちらこそお菓子もらっちゃって−」
「いいえ、私がいただいたものに比べたら、そんなお菓子なんて無いに等しいです。」
「え?僕は何も−」
「坂崎さんからたくさんの元気と勇気をもらいました。私にとって、何より嬉しい言葉も坂崎さんからいただきました。本当に嬉しかったです。作家になって色々辛いこともありますけど、その言葉があればこれからも頑張れます。」
坂崎さんはちょっぴり驚いたように目を見開いたが、すぐに柔らかな笑顔になった。
「自分に大きな自信が持てたわけではないですし、また落ち込むこともこれから先あると思います。でもそんな弱い自分に負けたくないなって…強い心を持てるように頑張りたいなって思います。」
「うん、頑張って。美弥ちゃんのこと、僕も応援してるよ。」
「…はい。」
「でも身体には気をつけてね。無理して倒れたりしないように。」
「ああ…はい!そうですね…っ肝に銘じておきます!」
「うん。」
「今日のコンサート、すごく楽しみです。頑張って下さいね!」
「ありがとう。楽しんでいってね。」
「はい!思い切り楽しんでいきます!」
私の言葉を聞いて満足そうに笑ってくれた。

ここに来て本当によかった。
高見沢さんにも桜井さんにも元気をもらったよね。
三人の笑顔には何か不思議な力があるのかも。
人を笑顔にしてしまうような、そんな力。
私もそんな力が持てるようになるといいな。
私の書いた本で、温かい気持ちになったり笑顔になれたら…。
そんな物語が書けるようになりたい。
そんなの、まだまだずいぶん先のことだと思うけど。
いつか書けたらいいな。

楽屋のドアを開けると、棚瀬さんが立っていた。
「あ、棚瀬さん。すみません、お待たせしました。」
「いえいえ。…佐藤さん?」
「はい?」
「…心配するようなことは何もなかったでしょう?」
ちょっぴり悔しい気持ちになった。
まるで“だから言ったでしょ”と言われているみたいだ。
「…そうですね、私が間違ってたようですっ」
満足そうに棚瀬さんが笑う。
非常に悔しい。

「本当に色々ありがとうございました。」
ドアの所まで見送りに来てくれた坂崎さんに頭を下げる。
「こちらこそ、わざわざ来てくれてありがとう。また出版社で会えるといいね。」
「そうですね。」
きっと会えるわ。
だってあんなに偶然に会えたんだもの。
きっとこれからも−
「…でも、これからはなかなか会えないかもしれないなぁ。」
―ドクンッ―
「…え?」
「行く時間がいつも一緒じゃないからね。この前まではツアーがなかったから、似たような時間に打ち合わせを入れてたけど、6月までツアーがあるし、それまでは毎回時間がバラバラになっちゃうかも。」
「…バ、バラバラ…ですか…。」
「そうですね。来週からは…恐ろしいぐらいバラバラです。」
棚瀬さんが手帳を開いて苦笑する。
「恐ろしいぐらい?やだなぁ、それ。もうちょっと何とかなんないの?」
「そんな無茶な。これでもライブや番組収録に支障のないように必死でスケジュール組んでいるんですよ?」
「そんなの分かってっけどさぁ…」

そう…だよね。
今までが運が良すぎたんだよね。
私が行く時間に坂崎さんが来てたり…そんな都合のいいことがこれからも起きるなんて、どうしてそんな風に思い込んでいたんだろう。
私と違って坂崎さんは忙しい人なんだもの。
当たり前じゃない。
忙しいスケジュールの中、雑誌の取材や打ち合わせに来るんだもの。
坂崎さんとこんな風に会えただけで十分でしょ?
あの日のこともちゃんと謝ったし、あんなに嬉しい言葉も、もらえたし。
またいつか会った時にハンカチを返せばいいことでしょ?
それ以上、何を望むの?
望むことなんて何もないでしょう?
なのに…
何もないはずなのに…
どうして…

どうしてこんなにも悲しいの…?

私…
私は−


「…佐藤さん?」
「…あ…は、はい?」
「そろそろ行きましょうか。お席までご案内しますので。」
「あ、は、はい。分かりました…」
「じゃあ、よろしくな、棚瀬。」
「お任せ下さい。では行きましょうか。」
棚瀬さんがゆっくりと歩き出す。
「じゃ、美弥ちゃん、またね。」
…またって……いつ?
いつのこと?
また会えるのは…いつなの?
「…は、はい。…また…。」
坂崎さんの顔が見れない。
見れないよ。
見たら…
「…美弥ちゃん?」
「し、失礼します…っ」
頭を下げて逃げるように棚瀬さんを追った。
「え…あ、美−」
坂崎さんの声は聞こえないフリをした。
もう一度名前を呼ばれたら、きっともう堪えられなかったから。
これ以上あなたを見ていたら…声を聞いていたら、気持ちが溢れてしまう。
あなたに気づかれてしまう。
だから逃げたの。

逃げるしか…なかったの。


「坂崎とは、すっかり打ち解けられたようですね。」
「…えっ?あ、ああ…ええ、まぁ…そ、そうですね。お陰…さまで…」
「それはよかった。それと…”ミヤチャン“」
―ドクンッ―
「というのは、佐藤さんの本名ですか?」
「え、ええ。その…下の名前は“美弥”が本名です…」
「そうなんですか。可愛いお名前なんですね。」
「…ありがとうございます……」
「坂崎は早速“ちゃん”付けですか。でもよかったんですか?そのように呼ばせていただいても…。本名は公表されてないですよね?」
「…公表は…してませんが、そんな、大したことではないですので、呼ばれるのは全然大丈夫…です。」
「そうですか?それなら…いいのですが。…佐藤さん、どうかされました?坂崎の部屋を出てから…何だか元気が−」
「そ、そんなことはないですよ!その…楽しくてはしゃいでしまって…っ 楽しい時間は早いものだな…と、その…少し寂しく……あっ そんな、変な意味ではなくて純粋に−」
「…そうですか。楽しんでいただけましたか。それはよかったです。…あ、席はこちらです。どうぞ。」
「……」
…私、何言ってるんだろう。
棚瀬さんにも気づかれないようにしたいわけ?

2階へと続く階段を上り、重い扉を開けてホールの中へと入った。
やや暗めの照明が、動揺している私の気持ちを少し落ち着かせてくれる。

さほど明るくはないホール内は、不思議な雰囲気に包まれていた。
静かではないけど、わいわいと騒がしいわけでもない。
ざわざわと、あちこちから今日という日を心待ちにしていた人たちが思い思いに開演の時を待っている、そんな感じだ。
「こちらです。」
棚瀬さんの案内で向かった先は、通路から数段下りたところだった。
レッドカーペットが敷き詰められているような階段を下りると、棚瀬さんが席を示す。
「こちらが佐藤さんのお席です。」
私の席はすごく見やすそうな場所だった。
2階の1列目。
高さはあるが、遮るものが何もない分、ステージ全体を見渡せる。
それにちょうどステージ中央から一直線上にある席だから、バランスよく見えるかもしれない。
「こちらの席はコンサート中、立ち上がって観ることはできないことになっていますので、座ってご覧下さいね。」
「…え、そうなんですか?」
「ええ。1列目は立ち上がると危険、ということで。あ、2列目以降の方がよかったですか?」
「あ、いえ。初めてなので座って観る方が嬉しいです。周りの方にもご迷惑をかけずにすみますし。」
「そうですか。それは安心しました。ではこちら、今日のチケットですのでお渡ししておきますね。」
「あ、はい。ありがとうございます。」
きれいなイラストが印刷された少し厚みのある紙だった。
裏には今日の日付とホールの名前が書いてある。
ということは毎回準備されているということだ。
こんなチケットなら、行った記念に取っておきたくなる。
「佐藤さん、お帰りは電車…ですか?よろしければタクシーでも…」
「あ、いえ、大丈夫です。電車で帰りますので。」
「そうですか。では帰りは混雑してしまうかと思いますが、どうかご自宅までお気をつけてお帰り下さいね。」
「はい。今日は本当に色々ありがとうございました。」
頭を下げると、棚瀬さんはプルプルと頭と手を振った。
「いえいえ、そんな。今日は来てくださって本当にありがとうございました。坂崎もとても嬉しかったと思います。またぜひ、遊びに来て下さい。」
「…はい。」
必死に笑顔を作る。
あの時、我慢したんだもの。
ここで泣くわけにはいかない。
「それでは。」
棚瀬さんが一礼して階段を上り、こちらを振り返って再度頭を下げた。
慌てて私も一礼する。
棚瀬さんの背中を見送り、姿が見えなくなると途端に視界が潤んだ。
どうしようもないくらい泣きたい気分。
でもこんなところで泣いていたら、変な人だと思われてしまう。
唇を噛み締めて、席に腰を下ろした。

深くため息をつく。
やっぱり私はバカだ。
ようやく自分の気持ちに気づくなんて。
しかもあんな別れ際に。

”今までのように会えなくなるかもしれない”
その言葉は、私にはまるで永遠に会えなくなる別れの言葉に聞こえた。
”じゃ、美弥ちゃん、またね”
まるで”さよなら”を言われているみたいだった。

あんな風に立ち去って、彼はどう思っただろう。
きっと私の異変に気づいている。
だって絶対私の態度はおかしかったもの。

今日は笑顔で挨拶できると…
そう思っていたのに。

ただの一人の人間として、彼と接していたかった。
尊敬と憧れの気持ちで彼を見ていたかった。
でも、もうそんな風にはできない。
自分の気持ちに気づいてしまったから。

私は−


開演のブザーが鳴った。
拍手と歓声がホール内に響く。
慌てて席に向かう人、双眼鏡を出す人、席から立ち上がる人、色んな人がいる。
いつしか拍手は手拍子へと変わっていた。

ホール内の照明が徐々に消えていくと、周りが一斉に立ち上がった。
拍手と歓声も、さらに増えている。
音楽とともにステージ全体を覆った白い幕に映像が映し出された。
始まるんだ。

あんなにも楽しみにしていたのに。
あんなにも三人のトークを楽しみにしていたのに、私は切なさで胸がいっぱいになっていた。
こんな気持ちで彼らのステージを観ることになるなんて、思ってもいなかった。

白い幕に三人の影が映し出されると、ホールを揺らすほどの歓声が沸き起こった。
客席にとっては待ちに待った瞬間だ。
みんなの嬉しそうな声は、私にも聞こえる。
勢いよく幕が取りはらわれて三人が姿を現した。

大きな歓声とともに、ホールは熱気に包まれていった。



楽しみにしていた三人の歌。
聴いていたはずなのに何も覚えていない。
歌以上に楽しみにしていた三人のトーク。
みんな笑っていたはずなのに何も覚えてはいない。

私が覚えているのは、ただ…あなたの姿だけ。
ステージのどこにいようとも、あなただけを見ていた。
あんなに美しいと感じたあなたのギターの音色さえも、耳に残ってはいない。
私はただ、あなたの姿を追っていた。
まるで今日であなたに会えなくなるように。

ずっとずっと、あなただけを−


大きな歓声とともに、割れんばかりの拍手が鳴り響く。
コンサートが終わったのだ。
何も覚えていないだけに、どのくらいの時間が経ったのか全く分からない。
あなたは鳴り止まない拍手、声援、それに応えるために客席に手を振る。
この目に焼き付けるように、その姿を目で追った。

次に会えるのはいつ?
“またね”っていつなの?
心の中で問いかけても答えが返ってくるはずがないのに。

去り際、ふとあなたはもう一度客席を見た。
一階、二階、三階へと大きく弧を描いて手を振る。
そして再び二階へと…

―トクン―

あなたの視線が…
私の視線と重なった。
棚瀬さんから私の席を聞いていたんだろうか。
いや、わざわざそんなことまで…。
ただ見上げた先に私がいただけ。
きっとそうだ。
私を見ているわけじゃない。
客席を見ているだけ。

二階を見上げたまま、あなたは微笑んだ。
そして両手で大きく手を振ってくれた。

私に、じゃない。
みんなにだ。
私だけに、じゃない。
ここにいる全員に手を振っているんだ。

なのに…。
バカみたいに感激している私って何なんだろう。
まさか私だけに微笑んで、手を振ってくれたと思っているのか。
私はみっともないほどバカになってる。

でもいい。
それでもいい。
どんなにバカだって思われてもいいよ。
それが違う人のためにしたことでも。
だって私に向かって笑ってくれたもの。
手も振ってくれたもの。

あなたがステージの裾へと消えていく。
堪えていたものは、とっくの昔に溢れて頬を濡らしていた。
この涙は何の涙なのだろう。
私は悲しいの?
それとも嬉しいの?

あなたのハンカチをそっと手に取った。
あなたに繋がるものは、このハンカチだけになってしまった。
そう思うと悲しいくらい切ない気持ちになる。
苦しいくらい切なくなる。
私はあなたのハンカチをぎゅっと胸に抱き締めた。

きっとあなたには迷惑な話だよね。
こんな私に想われても、困っちゃうもの。
優しくしなきゃよかったって…
ファンだって言わなきゃよかったって思うよね。
ごめんね、単純で。
ごめんなさい、バカな女で。
でも無理なの。
自分でもどうしようもないくらい。
この気持ちは止められないの。

私…
あなたが好きです。

坂崎さんが好きです。


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