「Cafe I Love You」
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しばらく鼻をすすっていたトモエさんだったけど、突然ゴシゴシとハンカチで涙を拭くと、勢いよく顔を上げた。
「ごめん、浸ってる場合じゃなかったわ。歩きながら話を続けるわね」
歩き出したトモエさんの後を追う。
「先輩、大丈夫ですか?少し休んでからの方が…」
心配そうにタカミザワが声をかけると、トモエさんはううんと首を振った。
「大丈夫。それにあんまり時間がないから、早く広場に行かなくちゃ」
「時間がない?」
振り向いたトモエさんは真剣な顔で頷く。
「そう。スノーの正体を説明するためにレインのことを先に話したけど、急を要しているのはスノーの方なの」
そうだ、レインのことはこれで分かったけど、まだスノーのことは何も解決していない。
それにスノーも言ってた。自分には時間がないって。
「どういうことですか?」
眉間にしわを寄せて、サクライが尋ねる。
「最初に話した通り、スノーはレインの魂の欠片よ。魂から分かれて、まるで別の猫として存在しているような状態になっているけれど、特殊な力があったからそう見えるだけなの」
「…それはつまり…」
「所詮は欠片であり、ゴーストであることに変わりはないってこと。…あの子はもう限界よ」
″限界″
その言葉は、今も鮮明に記憶に残っている母ちゃんや兄弟たちの姿を思い出させる。
痩せた身体、ボロボロな毛並み、かすれた鳴き声…。
どんなに呼びかけても、どんなに身体を舐めても、閉じていく目を止めることはできなくて。
どんなに寄り添って温めようとしても、身体は石のように冷たくなっていった。
その時の光景とスノーの痩せ細った脚が重なり、背筋がゾクリと冷えた。
「限界?それはー」
「限界が来たらスノーはどうなるの!?」
サクライを遮って問いかけると、トモエさんがボクを見て悲しそうに俯いた。
「…限界が来たら……消えるわ」
「……え?…消え…る…?」
「…そう。姿も記憶も何もかも。スノーという存在は跡形もなく消えてしまうわ」
「えっ!!」

消える…?
スノーが…?

身体が震えてくる。
姿も記憶も消えるってなに?
存在が消えるって…なに…?

「…スノーは魂から切り離された時点で、いつか消滅する運命だったの。魂と離れてすでに五年経っているのに未だ存在し続けているのは、レインの力があったから。でも、その力もすでに尽きかけている。今は残っている力で猫の姿や僅かな記憶を何とか保っている状態なのよ」
「……」
「…消えるまで、あとどのくらいなんですか?」
「断定はできないけれど、さっき会った感じからして…もって数日」
『えっ!?』
「…最悪、今夜かもしれない」
『!!』

…こ、今夜…?
今夜、スノーは消えるかもしれないの…?
姿も記憶もみんな…?
みんな、消えるの…?
「……で、でも!消えないように…消えないようにできるんでしょう!?」
そうトモエさんに尋ねたけど、俯いたまま返事をしてくれない。
「…ト、トモエさん…っ!」
「…残念だけど……」
「そんな…!!やっとここまで来たのに!スノーがレインだって分かったのに!」
ボクを抱っこする父ちゃんの腕がキュッと締まる。
「と、父ちゃん…っ」
見上げると、悲しい顔をした父ちゃんと目が合った。
「…ごめんね、アル。せめて、スノーを消えないようにできたらよかったんだけど、スノーに残された力がとても少ないから、俺たちがしてあげられることはもう…何もないって…」
「そ、そんな…!」
「…ごめんね、アルくん。…色々方法は考えたんだけど……。スノーを助けるために頑張っていたのに、力になれなくてごめんなさい」
本当に、本当なんだ。
スノーはもうすぐ消えてしまうんだ。
本当に…限界なんだ。
「そ…んな……っ」

スノーのことは嫌いだった。
怖い存在だった。
でも、ずっと辛いことばかりで可哀想な子だと知った。
何かしてあげたいと思った。
良い人間がいるってことを知ってほしかった。
少しでも、人間を憎む気持ちを和らげたかった。
それなのに。
スノーが探しているものを見つけたのに。
レインだって分かったのに。
大切にしてくれた飼い主がサクライだって分かったのに。
幸せになったのに。

それなのに。
消える…
消えてしまう…!

「…っ」
目が潤む。
悲しい、悲しいよ。
…悔しいよ…!
父ちゃんにしがみつく。
「…ううぅ……っ」
「アル…」
何もしてあげられなかった。
助けてあげられなかった。
「…うっ……ボ、ボク…何にも役に立てなかった……スノーに何もしてあげられなかった…」
「そんなことはないよ。アルはスノーのために頑張ってきたじゃないか」
「でも!…でも!……スノーがレインって分かっただけだよ!スノーには何にもしてあげられてない!」
「それは…」
「ボクはスノーを助けてあげたかった…!助けてあげたかったのに…!」
「ア、アル……」
「…うっ……うう…っ…」
せっかく父ちゃんたちと話せるようになったのに、何の意味もなかった。
ボクがここにいる意味も何にもなかった。
何の役にも立てなかった。

スノーは消えてしまう。
人間が嫌いなまま。
本当の名前を知らないまま。
大好きだったサクライを、大好きだと知らないまま消えてしまうんだ。

「う…うううあぁぁぁぁ…っ」

幸せになったことを思い出してほしかった。
生まれてきてよかったって、思ってほしかった。
サクライからもらった大切な名前で。
本当の名前で君を呼んで。

心から笑ってほしかった。

「うああぁぁ…っ あぁぁぁ…っ」
「アル……」
「…アルくん……」
「あぁぁぁ…っ」
「…ア、アル…落ち着いて…」
「…うあぁ…っ」
「…アル……え、サク―」
「…ああぁぁぁっ……っ!」
突然、ガシッと頭を掴まれてビクッとする。
父ちゃんの手じゃない。
これは―
「まったく…本当、おまえは泣き虫だな」
サクライの声が降ってくる。
…そうだ、これはサクライの手だ。
その手がボクの頭をわしゃわしゃと乱暴に撫でる。
「…ひっ…うぅ…っ…ザ、ザグッ…ラ゛イ……」
「あ~あ、また汚い顔して」
「…ひっ…うぅ…ひっ…」
「夜にそんなワンワン泣くな。何事かと人が出てきちまうぞ」
「ひっ…う…っ…だ…だって…ひっ…っ…」
ああ、上手く息ができない。涙も止まらない。
「とにかく落ち着け」
「…ひっ…っ…ひっ…」
トン…トン…と、サクライの手がボクの身体を叩く。
「ちゃんと呼吸しろ。ゆっくり、ゆっくり。慌てなくていい」
「…ひっ…っ……うっ……ひっ」
「そう。ゆっくり…大丈夫」
サクライの声がまるで魔法のようにボクの心を落ち着かせていく。
トン……トン……トン……トン……
荒かった呼吸がサクライの手のテンポに自然と合ってくる。
「…ふっ……うっ……ふ…っ…」
「そう、ゆっくりだ」
…ゆっくり……
ゆっくり……
「いいぞ。それでいい。ゆっくり…ゆっくりだ」
言われるまま続けていると、呼吸が少しずつ楽になってきた。
「そう、それでいい」
リズムを刻んでいた手が止まり、身体を優しく撫でられる。
ぐちゃぐちゃになったボクの感情をほぐすように、心に寄り添うように優しくゆっくりと。
心地良くて、ボクはその手に身体を委ねて目を閉じた。

しばらくすると、荒かった呼吸が収まり、滝のように流れていた涙も落ち着いてきた。
サクライがボクの顔を覗き込む。
「…だいぶ落ち着いたな。…サカザキ、顔拭いてやれ」
「ありがとう、サクライ。…アル、拭くね?」
涙と鼻水まみれのボクの顔がティッシュに覆われる。
ものすごい汚い顔をしてるんだろうな…
ごめん、父ちゃん…
「…アル、大丈夫?」
「……うん……大…丈夫…」
「アル」
呼ばれて、ぼんやりとサクライを見上げる。
「おまえは何もしてあげられなかったって言っているが、それは違うぞ」
「…え…?」
「おまえがいなかったら、スノーの存在も、レインの魂の存在もきっと気づかず通り過ぎてる。スノーは誰にも知られずに消えて、俺はレインの魂に気づくこともなく過去に捕らわれたままこの先を生きていたはずだ」
「……」
「その未来が…俺とレイン、そしてスノーの未来が変わったのは、おまえがこの街に来たからだ」
「ボクが…この街に来たから…?」
「そうだ。全部、おまえがいなかったら起きてないんだよ。俺たちが”スノーがレインである”という事実に行き着くことも、俺がレインの気持ちを知ることもきっとなかった」
「そうだよ、アル。アルがこの街に来てくれたことがすべての始まりだ。アルがいなかったら、サクライはずっとひねくれたままになってたところだったよ」
「悪かったな、ひねくれてて」
「ふふふ」
「…本当に…?ボクがこの街に来たから未来が変わったの…?」
「そうだよ。アルと僕が出会えたのも、アルがこの街に来てくれたからだ。アルが独りになっても頑張って生きてきてくれたから、今があるんだ。だから、何もできなかったなんて言わないで」
「……スノーを助けてあげられなかったんだよ?」
「アルはできる限りのことはしたよ。それは僕が一番知ってる。アルはスノーのためにいっぱい頑張ったよ」
「…でも……スノーは自分がレインだって知らないままなんだよ?サクライが飼い主だって…知らないまま消えちゃうんだよ…?こんなに近くにいるのに、知らないんだよ…?」
そう言ってサクライを見ると、はぁと大きなため息が返ってきた。
「スノーが消えることはおまえが気にすることじゃない。これはレインがこの世に魂を残した時から決まっていて、それが今起きようとしている、ただそれだけだ。ですよね、先輩」
「そうね。消えることはどうしたって防ぎようがないこと。アルくんのせいでも、誰のせいでもないわ」
「…で、でも…」
「でももヘチマもない。おまえは自分にできることは全部やったんだ。猫にしちゃ役に立ちすぎてる。タカミザワの今月の給料を半分やってもいいぐらいだ」
「ちょ!待て!確かにアルは人間並みに頑張ったけどさ!何で俺の給料から出すんだよ!?やらないぞ!」
「冗談だ」
「マジなトーンで言うな!冗談に聞こえなかった!」
「ははは」
「…サクライ、ボク…役に立ったの?本当に…?」
「俺が嘘を言うと思うか?」
「…言わない。言わないけど…」
「じゃあ、素直に信じろ。十分頑張った。おまえはすごいよ」
また、わしゃわしゃと撫でられる。ちょっと乱暴だけど、その手からサクライの優しさは十分伝わってきた。そして、今の言葉にも嘘はないってことも。
「アルくん。あなたの頑張りはそれだけじゃないわよ」
「トモエさん…」
「アルくんがいたから、野良猫たちの気持ちや想いがあたしたちに届いた。あたしとサカザキくんの夢まで叶えてくれたわ」
「ボクが…」
「そうだよ。僕たちの周りで起きたことは、全部アルがいたから起きたんだ。アルはたくさんの奇跡を起こしたんだよ」
「ボクが…いたから…」
「うん」
父ちゃんが優しく抱き締めてくれる。
トモエさんもサクライも、タカミザワも笑って頷いてくれた。
「…ボク、頑張った?」
「うん、頑張ったよ」
「ボク、役に立てた?」
「街のみんなに”アルはこんなにすごいんだよ!”って自慢しながら歩きたくなるぐらいね!」
そう言って、父ちゃんがボクを高く掲げる。
本当に街のみんなに言ってまわりそうな顔をしていて、思わず笑ってしまう。
「……ふ、ふふっ」
「え、何で笑うの?」
「父ちゃん、本当にしそうな顔してるから」
「だって本当にしたいんだもん。こんなに良い子で可愛くて、こんなに頑張る子、たくさんの人に自慢したいよ」
「ふふ…ボクも父ちゃんのこと自慢したいよ」
「本当に?うれしいなぁ」
ニコッと笑って、父ちゃんがまたギュッと抱き締めてくれる。
その温かさは何よりもうれしくて、涙が出るほど幸せだ。

「…アル」
「サクライ…」
「スノーのために、レインのために泣いてくれてありがとうな。おまえの気持ちは十分伝わってきた。ここからは俺にも頑張らせてくれないか」
「…え?」
「スノーはまだ消えてない。まだ広場にいるんだ。何もできなかったと決めるのはまだ早いと思わないか」
「え…」
「俺と、飼い主だった俺とまだ会ってない」
「…!」
サクライの言葉に目を見開いた。
「先輩、俺と会って何か思い出す可能性はありますか?」
みんなで一斉にトモエさんを見る。
トモエさんは頷いて小さく微笑んだ。
「…匂いや声で記憶が繋がる可能性はあるわ」
「じゃあ―」
「ただ、かなり偏った記憶しかなさそうだから、可能性は低いわ。サクライくんのことを何か思い出したとしても、飼い主とはっきり認識するのは難しいと思う」
「それでも、試してみる価値はありますよね」
「ええ。あたしとしても、せめてスノーにサクライくんを会わせたいと思っていたから、ぜひ試してほしい」
トモエさんを見つめ、サクライが頷いた。
「試しましょう。スノーがレインの魂の欠片だと知った以上、やれることはしてやりたい。レインの時のように、もう後悔はしたくありませんから」
サクライの言葉にポロポロと涙がこぼれる。
まだ終わってない。
まだできることはある…!
「…あ、ありがと…っ ありがとう!サクライ…!」
「アル、泣いてる場合じゃないぞ」
「うん…!」
「もうちょっと頑張れ」
「うん!頑張る…!」
サクライがボクを見てニッと笑う。
「よし。じゃあ、最後にもう一つだけ頑張ってもらおうか」
「…うん?」
「おまえにしかできないことだ」
「ボクにしかできないこと…?」
「どんな形で終わろうとも、最後までスノーに寄り添ってやってくれないか」
「…っ」
「唯一、おまえには少しは心を許しているだろうからな」
サクライは寂しそうに微笑むと、言葉を続けた。
「せめて…」
「……」
「せめて、消える時にスノーが寂しくないように」
「…約束する!約束するよっ!絶対、絶対傍にいるっ!」
悲しいけど、辛いけど、傍にいる。
寂しくないように、傍にいる。
「ありがとう、アル。おまえがいてくれて良かった」

何があっても、どんなに悲しくても。
ボクは―

もう、スノーを独りにはしない。



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