「Cafe I Love You」
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ボクたちはようやく広場の入り口にたどり着いた。
家から広場までの道のりがこんなにも長く感じたのは初めてだ。
入り口からその先を見つめるトモエさんに恐る恐る尋ねる。
「トモエさん…スノーは…?」
「大丈夫よ、アルくん。いつものところにいるわ。ただ、さっきのことで少し気が乱れてるけどね」
「さっきのこと?」
「サカザキくんからもらったクッキーでちょっとね」
そう言って、トモエさんが父ちゃんを見る。
「あ、俺がオリオンヒルズで買ってきたクッキーですか」
そういえば、オリオンヒルズのケーキ屋さんで何か買ってたっけ。あれはトモエさんへのお土産だったんだ。
「そう。あれを置いてみたら反応があったの。サクライくんのレシピで作られたものだって聞いたから、何か良い変化が起きないかなと思って」
「…あのクッキー、まだ店で売ってるのか…」
呟いたサクライを見ると、すごく嫌そうな顔をしていた。
その様子に父ちゃんが苦笑いを浮かべる。
「店長さんにお願いされて、渋々レシピを渡したんだってね」
「ああ。ペット用クッキーを作りたいからレシピを考えてくれって言われてな。レインを思い出すし、嫌だと断ったんだが、店長がどうしてもと引かなくて。仕方がないから家で作っていたレイン用のクッキーのレシピを店長に渡したんだ。それを参考にして、あとは勝手にアレンジしてくれってな」
「え、参考?あれ、商品のレシピとして渡したんじゃなかったんだ?」
「違うよ、あくまで参考としてだ。なのに店長、そのままのレシピで商品にしちまったんだよ。適当に作った中途半端なやつをそのまま売り物にして、しかも未だに売ってるとか、信じられん」
「あはは…」
「でも、だからこそスノーが反応したわけだし、今となってはそのまま商品化してくれて良かったじゃない」
「まぁ、そうなんですけど…。あの、クッキーに反応したといっても、俺という明確な飼い主の記憶が蘇ったわけではないんですよね?」
「ええ。元々スノーに飼い主の記憶がどのくらいあったのか分からないけれど、今は飼い主らしき人間の存在をうっすら感じている程度ね。クッキーの形と匂いに強く反応していたわ。よほど好きだったのかしらね?」
「…もっとくれと催促するほど、気に入ってましたね」
「そう。だからあんなに反応したのね」
「え、じゃあ、もっと色んな情報を与えたら、ちゃんとした記憶が蘇るんじゃないですか?自分がレインだっていう記憶とか、サクライのこととか」
タカミザワがそう提案すると、トモエさんは難しい顔をした。
「確かに他にも何か情報を与えれば、もっと反応してくれるかもしれないんだけど、一度にたくさんの情報を与えると逆に混乱させてしまうかもしれないのよ」
「え、そうなんですか…」
「それにスノーは魂の欠片だから、おそらく持てる情報も限られているわ。抱えられる量をオーバーして壊れたり暴走する可能性もあるし、状況をさらに悪化させることだけは避けたいのよね」
「そうか…そういうところも考えないとダメなのか…難しいですね…」
「あたしも初めてのケースだからね。慎重にならざるを得ないわ」
「じゃあ、どうやってスノーに接触しますか?気が乱れているなら、近づくのはアルだけの方がいいですか?」と父ちゃんが問いかけた。
「ううん、サカザキくんは最初から接触してもらっていいわ。スノーの中でも、もはやアルくんとセットで考えられていると思うし。まずはサカザキくんとアルくんでスノーに接触してみて。その様子を見て、大丈夫そうならあたしも傍に行くわ」
「分かりました」
「サクライくんとタカミザワくんは、あたしが合図するまではここにいてくれる?合図したら入ってきてちょうだい」
「え、広場に入っても大丈夫なんですか?入ったら気配や匂いがしますよね。俺には警戒するだろうし、サクライだともしかしたら過剰に反応するかもしれませんよね」
「広場に入ること自体は大丈夫よ。ただ、何も起きないとは言い切れないから、スノーからは十分距離をとっておいて」
サクライとタカミザワが頷く。
「あと、タカミザワくんはなるべくサクライくんの傍にいてね」
「え…な、何でですか…?」
「万が一攻撃された時、さすがにあたし一人で全員は守れないから、タカミザワくんはレインの魂に守られているサクライくんの傍にいてもらった方が助かるの。何か起きてもレインが守ってくれるわ」
「分かりました!俺、サクライから離れません!」
タカミザワがギュッとサクライの腕を掴んだ。
「おい、掴むなよ」
「だって…!」
「近くにいれば大丈夫よ」
「ほら、近くにいれば大丈夫だって。離せよ」
「え~…何かそれじゃ不安だから、くっついていたい…」
「おまえ、いくつだよ…」
「まぁ、くっついていたいなら好きなだけくっついていたら?」
「そうします!」
そう言って、タカミザワがさらにサクライの腕にしがみつく。
「…ちょ…っ しがみつくなよ!」
「いいじゃん!俺とサクライの仲じゃん!」
「どんな仲だよ!離せって!重い!暑苦しい!」
「やだ!!」
サクライはタカミザワの引き剥がしを試みるけど、怪力のタカミザワは頑として離れない。まるで、猫が爪を立ててくっついているみたいだ。…いや、猫じゃないな。大きさ的にはライオンって言った方がよさそう。
さすがのサクライもライオンにしがみつかれたら、太刀打ちできないだろう。
案の定、はぁ…とサクライがため息をついた。
あ、諦めたっぽい。
「……もういい…勝手にしろ……」
「勝手にする!」
うれしそうにサクライの腕にくっつくタカミザワと、うなだれるサクライ。
こんな時だけど、二人の様子は微笑ましくてついつい笑ってしまう。
時々、険悪すぎてドキドキするけれど。
「ふふふ、離れないようにって言わなくても大丈夫そうね」
「あれは逆に離れていいよって言わないかぎり離れなくなりましたよ」
「あはは、確かに」
うん、本当にそんな感じ。
タカミザワはあれで安心だろうけど、サクライにはすごく邪魔だろうし、重くて大変だろうな。
うんざり顔のサクライに、頑張れ…と心の中でエールを送った。

「あ、サカザキくん。スノーに会う前にもう一つ」
「はい?」
「スノーは自分がゴーストだって理解しているかどうかは分からないけれど、自分の存在は何かおかしいって薄々気づいていると思うわ。すごく頭がいい子だから、説明すれば理解してくれるはず。スノーに、あなたはゴーストでレインという猫の魂の一部だということをまず伝えてみて。それを受け入れてくれたら、サクライくんのことも」
「分かりました」
「…スノー、信じてくれるかな…」
ボクは不安になった。
スノーはとにかく人間が嫌いだ。大好きな飼い主がいて幸せだったなんて、記憶がないのに信じてもらえるんだろうか。
「そうね…信じてはくれないかもしれないわね。でも、真実だもの。伝えないとね」
「うん…」
伝えなきゃって気持ちはボクも同じだ。
でも、スノーがそれを信じてくれなきゃ意味がないって思う。
そんなの嘘だって言われたら、ボクたちはどうしたらいいんだろう。

そっとボクの頭に誰かが触れた。この手は…トモエさんだ。
顔を上げて、トモエさんを見つめる。
「…あたしね、スノーは最初違うものを探していたと思ってるの」
「違うもの?」
「今のスノーは自分の力を取り戻すための素(もと)、つまり魂そのものを探しているけど、最初は違っていたんじゃないかなって」
「え…」
「力と記憶、あったものが徐々になくなっていくなんて、自分が自分でなくなるようでとても怖いわ。もし力さえ戻れば記憶も戻る…そういう考えに行き着いたなら、何よりも力の素を取り戻すことに必死になっていくんじゃないかと思うの。たとえ、他にもっと望んでいたものがあったとしても」
「うん…」
「オリオンヒルズにいた頃は、まだ力も記憶も今よりあったはずよ。だから、その時の行動にはスノーの本来の目的が見えると思うの。ほら、オリオンヒルズでスノーがよく目撃された場所があったでしょう?その場所で目撃されていることに答えがあるんじゃないかって、あたしは考えてる」
「…え、でも、一番目撃された場所ですら特に何もなかったよ?ねぇ、父ちゃん?」
「そうだね。他の目撃情報があった丸印の場所もいくつか見てきましたけど、やっぱりこれといったものは何もなかったですよ」
「サカザキくん、あの紙って今持ってる?」
「えっと…確かここに…」
父ちゃんがジーパンのポケットを探ると、紙を取り出した。
白い猫の目撃情報があった場所が書かれているというあれだ。
サクライとタカミザワも傍に来て、広げた紙を覗き込む。
「オリオンヒルズの地図よ。この星印、これが一番スノーらしき白い猫の目撃情報が多いところ。サクライくん、この先に働いていたケーキ屋があるのよね?」
「…ああ、そうですね。この角を曲がって、その先を左にワンブロック進んだところに店があります」
地図を指でなぞりながら、サクライが説明する。
「じゃあ、他の印は?印もしくは近くに何かあったりしない?」
トモエさんが指差すのは、他にも目撃情報があった丸と三角の印。
星印のところよりは少ないけど、そこでもスノーと思われる白い猫が目撃されている。
サクライはいくつかある丸と三角の印に指を置き、その周りを確かめるように地図を見渡していく。
「……」
一つ、二つと印を確認していくたび、サクライの表情が硬くなる。
何か分かったのかな…。
「…先輩、まさかですけど、スノーは……」
サクライが言い終わる前にトモエさんがこくりと頷いた。
「目撃されている場所が”そう”であるならね」
「…っ」
言葉を詰まらせ、サクライはうなだれた。
そう…ってどういう意味なんだろう。
「トモエさん、何が”そう”なの?目撃されてる場所にはどんな意味があるの?」
「それはサクライくんから説明してもらった方がいいかな。サクライくんが一番その意味を分かっているだろうから」
うなだれていたサクライは、深く長く息を吐き、ようやく口を開いた。
「……この地図上にある印は、どこも俺がよく行っていた場所の近くだ」
『えっ』
驚いて父ちゃんとタカミザワ、ボクはサクライを凝視する。
サクライが印を指差す。
「この丸印の近くにはケーキの材料を買いに行っていた店がある。週に何度も行っていた。こっちの丸印はフルーツショップが近い。他の三角の印のところにも、丸印の場所ほどじゃないがケーキの材料を買っていた行きつけの店が近くにある」
「え、全部?どの印も?」
「ああ。オリオンヒルズにいた時の俺の行動範囲はかなり限られているが、どの印もその範囲内にある。あと、この三角の印には住んでいたアパートがある。目撃情報は一件だけみたいだが」
「サクライくん、念のための確認だけど、レインの首輪はいつもどこに?」
「…首輪はずっと部屋の中です」
「部屋から持ち出したことは?」
「引っ越しの日だけです。出掛ける時に首輪を持ち歩いたことは一度もありません」
…もし、スノーが首輪の中にあるレインの魂を探していたのなら、首輪があるところに行くはずだ。
つまり、行くのなら首輪があるアパートのサクライの部屋、そこしかない。
それなのに、スノーはそれ以外の場所で目撃されている。
それもサクライがよく行っていたところの近くで。
「…アルくん。あたしが言いたいこと、もう分かったでしょう?」

キュッと胸が苦しくなった。
ああ、そうなんだ。そうだったんだ。
最初にスノーが探していたのは、魂じゃない。
魂の欠片という不完全な形のスノー。
それでも探していたのは…求めていたのは魂じゃなかった。
「スノーが探していたのは……サクライだったんだね…」
「……」
サクライが小さく息を吐く。
その表情は今までで一番辛そうだ。
「サクライ…」
「そう。オリオンヒルズでスノーはサクライくんの匂いを追っていた。おそらくイヴェールからオリオンヒルズへも、サクライくんの匂いをたどってきたんでしょうね」
「…え、でも、それならどうして目撃場所がサクライが行っていた店、その場所ではないんですか?」とタカミザワが尋ねると、確かにと父ちゃんが頷いた。
「サクライの匂いをたどってきたのなら、サクライが行ったその場所までスノーは行っているはずですよね。なのに目撃情報は手前だったり、その周辺。なぜなんでしょうか」
「その理由はアルくんなら分かると思うわ」
「へ?ボク?」
「きっとアルくんがスノーと同じように匂いをたどってみても、結果は似たような感じになるんじゃないかな」
それって、つまりスノーとボクが猫だからってことだよね。
さっきのサクライの説明を思い出す。
サクライが行っていた場所は、どこもケーキの材料になる物を売っているお店だ。
例えば…粉、実、チョコレート、お酒、フルーツ。
想像するだけで色んな匂いがしそうだ……あっ!
「そうか!スノーはその場所に行こうとしていたけど、行けなかったんだね!」
「アル、どういうこと?」
「サクライがよく行っていた場所は、どこも食べ物を売ってるお店でしょ?だから、色んな匂いがするんだ。きっとたくさんの匂いがして、サクライの匂いが分からなくなったんだと思う」
「あ、なるほど。匂いを嗅ぎ分けられなくて、その場所までたどり着けられなかったってことだね」
「うん。目撃されているところは、たぶんサクライの匂いを嗅ぎ分けることができたギリギリの場所なんだと思う。だよね、トモエさん」
「そう、きっとね」
あの街角に行った時、スノーはここで何を見ていたんだろうって考えたけど、見ていたんじゃなくて探していたんだ。
きっと目撃されている回数より、もっともっとたくさんあの場所へ行ったんだ。
匂いをたどって何度も何度も。
飼い主を…サクライを探しに。

「…五年前、魂から分かれて欠片になった時点で、すでに自分がレインという猫だったことも、サクライくんという飼い主がいたこともあやふやだったはずよ。それでも、自分の中にある匂いの主を探し始めたのは、紛れもなくレインの強い想いがあったから。レインにとって、サクライくんの存在はそれほどまでに大きなものだったのよ」
レインには、いったいどれほどの強い想いがあったんだろう。
サクライと暮らした一年が、どれほど幸せだったんだろう。
スノーの行動から、レインにとってサクライがとても大きな、そしてとても大切な存在だったことが嫌というほど伝わってくる。
「そこまでの強い想いを知ってしまったら、何がなんでもサクライくんを思い出させてあげたくなるわ。スノーにも幸せになる権利はあるもの」
トモエさんは強くはっきりとそう言ったけど、すぐに表情を曇らせ、悲しげに微笑む。
「でも、それは難しそうだから…せめて伝えたいの。スノーには愛してくれた人がいたことを。それがレインにひどいことをしてきた人間たちの代わりに、あたしたちができることだと思うから」



広場に入ると、今までと少し様子が違うと思った。
心が落ち着かないような…そわそわするような…何とも言えない感覚だ。
ヒゲも何だかピリピリする。
相変わらずスノーの匂いはしないし、確かな気配もない。
でも、ここにいる、そう思う。
父ちゃんも、いつにも増して落ち着かない様子で周囲を見回している。
スノーは噴水のところにいる、トモエさんに言われた通り父ちゃんと一緒に噴水を目指す。
チラリと後ろを見れば、少し離れたところをトモエさんが付いてきていた。
何かあったらすぐに駆けつけてくれそうな距離にいてくれている。
ものすごく心強い。

視線の先に噴水が見えた時、そこに白い何かがいることに気がついた。
きっとスノーだ。
ボクはいてもたってもいられず、父ちゃんの腕の中から飛び出した。
「ア、アル!き、気をつけて…!」
「スノー!!」
走りながら呼びかけたけど、反応はない。
「スノー!!」
もう一度呼んでから、ハッと気がついた。
いたのはスノー、それは間違いない。
でも、いつものスノーとはまるで違っていた。
いつもは背をピンと伸ばしてツンとしているのに、目を閉じて身体を丸めて小さくなっている。
よく見れば、毛並みもよくない。
真っ白にキラキラと輝いていた今までのスノーの姿はどこにもなかった。
きっとあれが、スノーの本当の姿。
あの日の母ちゃんの姿が重なり、限界が迫っているのだと嫌でも分かった。
「スノー!!」
スノーのところに辿り着き、鼻で触れようとした。
けれど、叶わなかった。
ボクの鼻はスノーの身体に触れることなく、空を切る。
まるで、そこに誰もいないかのように。
見えるのに。
ちゃんとそこにスノーがいるのに。
「…あ…あぁ…」
「アル!」
遅れて父ちゃんもスノーに駆け寄る。
「…っ!スノー!」
ボクと同じように父ちゃんも身体を丸めたスノーに触れようと手を伸ばしたけど、やっぱりその手がスノーに触れることはなかった。
「…っ」
すり抜けてしまった手を呆然と見つめて、父ちゃんはその場に座り込む。
ああ、スノーは本当にゴーストなんだ……
初めてそのことを実感し、思い知らされた瞬間だった。

でも、今にも消えてしまいそうなスノーを見たら、ゴーストだろうと何だろうと、もう何だってよくなった。
だって、ボクには見えるんだもん。
触れなくても、ここにいる。
スノーはボクの目の前にいるんだ。

「…スノー……アルだよ。お願い、目を開けて…」
触れないけど、スノーの鼻に自分の鼻を合わせた。
ゴーストが怖いはずの父ちゃんも、怖がる素振りも見せず、スノーの身体を撫でるように手を動かしながら声をかける。
「スノー、君が誰なのか分かったよ。何を探していたのかも分かったんだ。信じてもらえないかもしれないけど、ちゃんとスノーに話したいんだ」
「そうだよ。だから…だから目を開けてよ…お願いだよ…」
「……」
「…目を開けてよ…スノー……っ」
「……ちょっと」
「…!」
聞こえたかすれた声にハッとして、スノーを凝視する。
「…勝手に…私を消さないでくれる?」
スノーがゆっくりと身体を起こす。
「スノー!」
「少し疲れたから、休んでいただけよ」
そう言いながら目を開けたけど、スノーの目は真っ白だった。
ボクの方を見てはいるけど、ボクの姿どころか、周りの景色すら見えていない気がする。
「だ、大丈夫?」
「…力を使って見た目を繕うのをやめただけであって、これが本来の姿よ。今までと何も変わってないわ」
…きっと嘘だ。
使える力がもうそんなに残っていなくて、見た目を取り繕えなくなっているんだ。
そうじゃなきゃ、これまで自分の弱いところを見せなかったスノーが弱っている本来の姿を見せたりしない。
そんな状態なのに、それでも強がる姿が痛々しくて胸が苦しくなった。
「それで?」
「え?」
「話しに来たんでしょう?私が誰なのかを」
「…うん。…その、あそこにいるトモエさんって人に色々調べてもらって、スノーが誰なのかも、それと…飼い主も分かったよ」
トモエさんがいる方に顔を向け、鼻をクンクンして匂いを確かめている。
父ちゃんが口を開く。
「スノーに危害を加える人間ではないから、安心してほしい。あの人はー」
「あなた以上に変わった人間よね」
「え?」
「安心して、何もしないわ。あの人のせいでさっき体力を消耗したけど、得るものはあったから」
そう言って、自分の足元に視線を落とす。
そこには、魚の形をしたクッキーが置いてあった。
これがさっき言っていたサクライのレシピで作ったクッキーなのだろう。
「…このクッキーで何か思い出したの?」
「……飼い主と思しき人間のことをね。このクッキーの匂いが引き金になったみたい。その人間が作っていたクッキーと同じもののようだから」
そう言ったスノーは、穏やかな表情でクッキーを見つめる。
その顔にボクは驚いた。
自分以外のもの、特に人間を敵とみなして憎み恨んでいたスノーとは思えない表情だったから。
明らかにスノーの中で何かが変わっている。
もしかして、と期待が膨らんだ。
「…そ、その人間がどんな人かはー」
「さすがにそこまでは分からなかったわ。思い出したくても、それ以上何も出てこないし」
「…そっか……」
ボクたちが説明するんじゃなくて、スノーが思い出してくれるのが一番だけど、元々ある記憶は何もかも途切れ途切れだから、サクライのことをしっかりと思い出すのはやっぱり難しいのだろうか。
「でも…」
「うん?」
「このクッキーを作った人間との記憶には、温かさしかなかったわ。温かくて、優しくて。とても穏やかだった」
「うん…」
「……ねぇ、一つ確認したいんだけど」
「…うん?」
聞きづらそうにスノーが口を開く。
「……私はその人間に捨てられたの?」
「違う!違うよ!とても大事にしてくれてたよ!捨てられてなんかいない!それだけは違うって断言できるよ!」
強い口調でボクは否定した。
いくらスノーに記憶がなくても、それだけは誤解してほしくない。
すると、
「……そう」と呟くと、スノーが安堵するようにホッと息を吐いた。
やっぱり今までのスノーとは反応が違う。
表情だけじゃなく、口調も少し穏やかになっているような気がする。
今なら、真実を伝えても信じてもらえるかもしれない、そう思った。
でも、信じてもらえないかもしれないという不安はどうしても消えない。
だって、自分がゴーストだとか、飼い主と幸せに暮らしていたとか、記憶がないのに信じられるわけがない。
ボクだったら信じない。信じられない。
見上げると、父ちゃんも硬い表情でスノーを見つめていた。
どう話せば信じてもらえるだろうか…と、ボクと同じように悩んでいる。
信じてほしいからこそ、慎重になってしまう。
…ああ、何からどうやって話そう……

何も言わないボクたちから何かを察したのか、スノーが口を開いた。
「分かったことをそのまま話してくれればいいのよ」
「……うん…そう…なんだけど…。その…信じてもらえるのか分からなくて…」
「…ああ、そうね。私に記憶がないものね」
「うん…」
「アルは正直ね」
「だって、嘘は言いたくないから…」
「じゃあ、ためらわずに話すといいわ。嘘は言わないんでしょう?」
「…っ」
真っ白な目がボクを見つめる。
表情はいつもと変わらないけれど、声は少し優しかった。
「それに、あの人間の協力で得た情報なら、デタラメではないでしょうしね」
「…あの人間って…トモエさんのこと?」
「ええ。私の中にあった記憶を引っ張り出すなんて、普通の人間ができることじゃないわ。そんな人間がデタラメを言うとも思えないもの」
「…じゃあ、これから話すこと、全部信じてくれる?」
不安げに尋ねると、スノーはゆっくりと瞬きをした。
「…私の中には人間に対する憎しみや恨みしかないと思っていたわ。でも、それだけじゃなかった。私に人間との温かな記憶があったわ。正直信じられないけれど、確かにあるの。あったのよ、私の中に」
「うん…」
「信じられるかどうかは分からない。でも、そんな記憶があるのなら思い出したい。それが誰で、私はどんな暮らしをしていたのか」
「…あ…ス、スノー!?か、身体が…」
突然、父ちゃんが叫んだ。
どうしたのだろうとスノーをよく見ると、スノーの身体が窓ガラスのように透き通り、向こう側の景色が透けて見えていた。
「え…か、身体が透けて…る…!?」

身体が透けてしまったのは、限界が近づいているってこと…!?
慌てるボクと父ちゃんを尻目に、スノーはいたって冷静だった。
透けた自分の身体が見えているのかは分からないけれど、ボクたちの慌てた様子に動揺もしていない。
「…ああ、終わりが近いようね」
そう言って自虐的に笑う。
まるで、自分の行く末を知っているかのような反応だった。
元々スノーは自分に残された時間は少ないと言っていた。
死期が近いと悟っているのだと思っていたけれど、そうではないのかもしれない。
スノーは自分が何であるか、分かっているんじゃないだろうか。
「スノー、君は…」
「…私のことが見えない人間や動物の方が多いもの。自分があなたたちのように普通に生きているものではないことぐらい、嫌でも分かるわ」
「…スノー……」
「時間がないわ、アル。分かったことをすべて教えてちょうだい。…この世から、私が消えてしまう前に」



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