「Cafe I Love You」
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”……”


……誰?

誰かに呼ばれた気がして、ほとんど見えない飾りのような目を開けた。
辺りには何の気配もない。風もなく、音すら聞こえてこない。
この街に来てからよくこんなことがある。姿の見えない誰かの声。
何となく、聞いたことのある声だった気がしたのだが、一体誰なのだろうか。
何人もいた飼い主の誰かの声か。それとも別の誰かか。
思い出そうとするけれど、まるで頭の中に靄がかかっているように、はっきりしない。何かが見えるけれど、それが何かは分からない。

私の頭の中はいつもそうだ。何かが浮かんでは消えていく。そして、つい最近のことも、まるでなかったかのように忘れてしまうようになった。きっと、うっすらと耳に残るその声も、数日後にはなかったことになってどうせ消えるのだろう。

それでも、忘れられないこともある。嘘つきで自分勝手で私を苦しめてきた人間たちのことはどんなに月日が経っても忘れないし、許すこともできない。
何人もの人間に飼われ何度も捨てられてきて、見た目だけ素晴らしい広い家で、愛情のない飼い主と過ごした日々は忘れたくても忘れられず、頭の中から消えてはくれない。
キレイだ、可愛いと囃し立てられても、私を撫でるその手や呼ぶ声に愛は感じられない。何かに期待して、私を表面的に可愛がる。そんなちっとも幸せではなかった日々は、まるで昨日のことのように覚えている。
それだけ、人間嫌いな私にとって忘れてはいけない記憶なのかもしれない。

行く先々で猫をからかい、人間をあしらってきたのは自分の心に溜まったヘドロのような重い気持ちを少しでも発散するため。
探し物はもうずいぶん前に諦めたし、今更見つかるなんてこれっぽっちも思っていなかった。
この街でもこれまでと同じように、幸せそうな普通の飼い猫を自分と同じ“異常“な猫に仕立て、飼い主から気味が悪いと言われて絶望させてやろう。

心の底から愛してくれる人間?揺るがない信頼?そんなものあるわけがない。きっと、上辺だけ。そう上辺だけなのだ。小さな変化できっと簡単に傷ができてポロポロと崩れていくのだ。愛情も信頼も、今だけ。壊れないものなんてない。そんな関係、絶対にない!

街を一回りして、あの子をターゲットに選んだ。私と同じように人間の言葉も分かるようだったし、人間に飼われてぬくぬくと暮らしている様子で、からかうにはうってつけな猫。
あの子を私の支配下におき、操っておかしな行動をさせることぐらい、今の弱りきった私でもできる。
飼い主と猫の絆なんて脆いということを身をもって知ればいい。
人間とはどんな生き物なのか、みんな知ればいいのだ。

さぁ、人間の本性を暴く、楽しい時間の始まりだ!


そして、力を使おうとして驚いた。
…感じる、感じるのだ。身体が、心が反応している。ここに私の力の源があると。私が探している物がこの街にあると!
私は久しく感じることのなかった自分の力に歓喜した。
力を放出する私を見て、あの子が恐れ戦いている。

そう、私はあなたとは違うのよ。人間がいないと生きていけない能のない普通の猫とは違う。
そう、そうよ、私は特別。
異常なんかじゃない。
特別な…特別な存在…!!
この力は私だけに与えられたもの。
私にしかない力!!

みなぎる力に、私は欲が出た。
力が使えるなら、取り戻せるかもしれない。
失ったものが私の元に返ってくれば、力を取り戻し、もしかしたら消えそうなこの身体も元に戻るかもしれない。
忘れてしまったことも、思い出せるかもしれない。

取り戻したい。もう一度、最後にもう一度。
本気でそう思った。

どうせ私には何もないのだ。心の底から愛してくれる人間なんて、揺るがない信頼なんてどこにもない。
信じられる者は自分だけ。
私は自分が望むことをする。
探し物がこの手に戻れば、それでいい。
たとえ、この身体が戻らなくても。
その瞬間に自分が消えたとしても。

一匹の猫と一人の人間がどうなろうと。


聞こえてきたザワザワと風に揺れる木々の音にハッとした。
まるで、ざわつく私の心のようだ。
落ち着かせるために、ゆっくりと息を吐く。
まさか、私がこんな風に動揺するなんて、夢にも思わなかった。
誰に何を言われても、我が道を来た私が。
たった一匹の猫と一人の人間のせいで。

脅して探し物を見つけさせようとした黒猫と人間は、予想外の反応をした。彼らは何故か率先して見つけようと動くのだ。
赤の他人だというのに。
私が恐ろしくないの?
化け物って罵らないの?
普通の猫じゃないのに。

そして、黒猫の飼い主である人間に至っては、飼い猫が人間の言葉を話せるようになったことに感謝してきた。ありがとうと。
困らせるために力を使ったのに、ありがとう?
どうしてそんな言葉が出てくるのか。
私は戸惑い混乱した。
飼い猫が普通じゃなくなったのよ?なのにどうして今までと同じように接していられるの?
何故、気味が悪いと思わないの?
何故そんな猫を受け入れられるの?

伝わってくる感情はあの子が大切で何があっても守るという、強い意思だけ。恐怖や恐れなど、どこにも存在していない。
あの子へ向ける気持ちが一切変わらない飼い主。
そして、そんな飼い主をただただ愛しているあの子も。

ああ…なんて…なんてことだろう。
こんなにも、互いに強く結ばれている猫と人間がいるなんて。
崩れることは決してないと、言い切れるほどの固い絆。
普通と何かが違っていても、あの人間はきっと受け入れる。どんな姿になっても、きっと変わらず愛してくれる。
こんなにも互いを思い合い、赤の他人である私のために行動する者たちに初めて出会った。

そんな関係を目の当たりにして、私の中に新しい感情が芽生えた。
今更、そんな感情が芽生えるなんて、自分でもおかしいと思う。
ここまで人間を毛嫌いしておきながら、それでも、思わずにはいられなかった。

うらやましい、と。

私にもこんな関係の飼い主がいれば、ここまでひねくれずに済んだかもしれない。
もっと当たり前の、ただの猫として生きられたのかもしれない。
私もそんな人間に出会いたかった。

そして、私の中にもう一つの感情が芽生えていた。
あの子とあの人間なら、信じてみてもいいのではないだろうか、と。
あの子たちなら、本当に探し物を見つけてくれるかもしれない。
昔の自分に戻れるかもしれない。
忘れてしまったことを思い出すかもしれない。

だから、少しだけ信じてみようと思った。
ただ純粋に、私を助けようとしている呆れるほどのお人好しの猫と人間を。
初めて出会った、固い絆で結ばれているあの子たちを。


”……”

また誰かの声がする。
まるで……そう、私を呼んでいるかのように。
その声が、私の心を乱す。
思い出さなくてはいけないと、心が訴えてくる。

あなたは誰なの?
思い出したい。
この声を。
心に引っ掛かっている“何か“を。

彼らの言う通り、私が過去を思い出さないと探し物は見つからないだろう。
昨日のことすら忘れてしまうのに、過去を思い出すなんて、難しいだろうけれど。
それでも、本気で見つけたいのなら、私もそれなりのことをしなければならない。
靄の向こうにあるはずの私の記憶たちを取り戻すために、私も自分ができることをしよう。
嘘がつけない真っ直ぐな瞳とそれを守ろうとする手のひらを信じてみよう。

目を閉じて呼び掛ける。
この街のどこかにある私の探し物に。
私の力の源よ。
お願い、思い出したいの。
忘れてしまった大切なことを。

私の記憶を…私の記憶をどうかこの手に― !


全身に力がみなぎり、青白い光が現われた。
脚元から徐々に身体全体が光に覆われていく。

お願い……私の記憶よ…
甦って……!!


まばゆい閃光とともに、目の前が真っ白になった。




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