親鸞さんのあしあと
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二十四輩 第1番 性信房
1214 (建保2)年、真言宗の廃寺を再興したのが始まりと伝えられる、「横曽根門徒」の中心的存在の寺院。境内に入ると大きな菩提樹と銀杏の木がある。菩提樹は聖人、銀杏は蓮如上人が植えられたと伝わる。少し離れたところに性信房のお墓がある。また、水海道西中学校の前には親鸞聖人が船を繋いだと伝わる「舟つなぎの松」がある。1577(天正5)年、戦禍を受けて焼失したが、その後1602(慶長7)年に徳川家の援助を受けて江戸に寺基を移したのが東京のO報恩寺の始まりといわれる。後年、ここ横曽根の旧地に本堂が再建されて、現在に至る。
●所在地/茨城県水海道市豊岡町丙1586-1
http://www.fureai.or.jp/~bandou/
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境内に大きな菩提樹と銀杏の木があり、菩提樹は親鸞が、銀杏は蓮如上人が植えたと伝えられている。
菩提樹は釈迦がその木の下で悟りを開いた。イチョウは観音様と一緒に中国から渡来したと言われており寺の境内に多く植えられている。
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大銀杏が少しだけ色づいてきていました。
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『お鯉さま』の伝説が書いてありました。
毎年1月12日 東上野の講恩寺で行われるまな板開きの儀式に使われる 鯉は ここ下総報恩寺から送られるそうです。
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二十四輩 第9番 善性房
当寺の開基・善性房は、後鳥羽天皇の第3子・正懐親王。出家して比叡山にのぼったが、名利の争いを嫌って叡山を降り、下総国守・豊田治親のもとにとどまることとなった。親王は親鸞聖人が下総に来られたことを知り、小島に聖人を迎えて帰依し、善性と称した。治親もまた、聖人の弟子となり、倉持(現・石下町倉持)に「東弘庵処」という草庵を建てて、良信と号した。善性房は、聖人が京都に帰られるにあたり、稲田の浄興寺を預かることとなり、倉持の庵の住持に良信を据えた。これが当寺の始まりである。天正年間に現在地に移転した。
●所在地/茨城県結城郡石下町大房93
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寺宝に聖人自刻像、七難分毛、豊田家守本尊薬師如来像など
本堂は町で最古の建築物。
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晩秋の光りの中ゆっくりと2度目のお参りをしてきました。
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二十四輩 第五番 信楽房
開基・信楽房は、下総の太守・相馬義清と伝えられている。当時、義清は弘徳寺のある新地(かつては新堤と呼ばれていた)に住していたが、1212(建暦 2)年、聖人の教化によって自分の館を道場となし、信楽という法名を賜った。信楽房は一時、聖人の息男・善鸞を支持して聖人のもとを離れるが、後に覚如上人が当地に来たとき、再び弟子に加えられたという。「宗祖聖人六十歳関東御旅立の御影」をはじめ多数の寺宝を有する。
●所在地/茨城県結城郡八千代町新地547
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弘徳寺は、浄土真宗の親鸞聖人ゆかりの地として知られています。 像は本堂内に本尊とは別に安置されている。
来迎印を結び蓮華座上に立つ像高97.8cmの像で、檜材を用いた寄せ木造り、玉眼嵌入、漆箔で仕上げられている。
頭部の肉けい部がほとんど表されないところに特色があり、面相の肉取りや衣紋の写実的な彫り口などから、製作年代は室町時代の後半頃と考えられる。
長い年月の間に、失われた部分や後から補修された部分があるが、中世まで遡る文化財として貴重である。 弘徳寺 掲示板より
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