親鸞さんのあしあと
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墓が見つからず、畑作業の人に墓所の場所を聞いたら、すぐそばにあった。民家の門口にブロックで囲った小さな墓所があり、イチョウの古木の横に「成然一人墓」と刻した石塔が立って、新しい花が供えてあった。この新築された家の方が供えられたものだろうか。
妙安寺縁起
24輩第6番親鸞の従弟成然房開基
☆成然最初の寺
当山は関東24輩第6番成然房の最初寺であり、妙安寺の境内から約500メール南の旧当寺境内の銀杏の老木の下には開基成然房の墓がある。健治3年(1277)の本廟建立文書に「さしまのじょうねんぼう」とあり親鸞聖人門侶交名帳には「常然」と記される。その示寂は永代法号録に文永2年10月10日72歳と載せられている。
☆ 形見の自刻像
成然寺伝によると俗姓は藤原氏中村頼国関白九条兼光の家門建保2年(1214)勅勘を蒙り東国に配流となり下総国境の豪族長五郎館に身を寄せた。そのころ越後に流されていた親鸞聖人は許されて常陸国に入り稲田に草庵を結んでいた。縁威に当たる頼国は稲田を訪れ、無実の罪により配流の身であることを告げその教えを乞い法名を「成然」を授けられた。承久3年(1231)のことである。修行を終えた成然は境に立ち戻り再び長五郎館に逗留すること3年貞永元年(1233)一ノ谷大門に庵室を結んだ。境を去るとき成然は長五郎に一振りの刀と共に「中村」の姓を授けたという。この長五郎館は、おそらく宮本町の「堀の内」と呼ばれるところにあったのではないかと思われる。長五郎は境の町の草創期にこの地を支配した豪族であろう。
親鸞は嘉禎元年(1235)63才の頃京都に帰ることになる。別れを惜しむ成然に「我を懐かしく思う時は、この像を見よ」と自刻像を形見に与えた。成然は妙安寺に御名号と聖人の御影を安置し、念仏弘通に専念し民衆教化に励んだ、この聖人の自刻像は現在東本願寺御影堂に安置する。妙安寺境内の掲示板 写
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二十四輩 第六番 成然房
元来は推古天皇の時代、聖徳太子が創立したといわれ、三論宗最頂院葛城寺と称していた。1210(承元4)年、常陸・稲田の地において親鸞聖人に帰依した一ノ谷の成然房は、聖徳太子の夢告によって当寺を再興したという。毎年4月12日には太子講がつとまり、 「聖徳太子絵伝」(国重文)が奉掲される。他に、宗祖御木像、開基成然房木像などが寺宝として伝えられている。
●所在地/茨城県岩井市三1793
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毎年4月12日に太子講のころ、ぜひ このしだれ桜を見に行きたい。
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4月12日の太子講には行けなかったが、翌日13日 客先訪問途中の昼休み、コンビニ弁当を、当寺の駐車場で食べた後に、写真撮影、残念ながら小雨が降り、桜も少々葉桜気味、花びらのジュウタンの上を歩くのがはばかられるほど奇麗だった。 「来年もう一度来なさい」と云うことであろう。
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写真を写し終えて帰ろうとした時、住職さんに呼び止められ、本堂に上げていただき、いろいろ楽しいお話をうかがった。 席を立たれたときに、天井から吊られた、2尺5寸ほどの太鼓が目に入ったので、手のひらで軽くたたいている所に戻ってこられて、『これでたたいてみなさい』と野球のバットぐらいのバチ(木の枝で作った棒)を渡されて、たたかせていただいた。 この太鼓が 三代将軍徳川家光から拝領したと云う太鼓である。
現代の祭り太鼓とも、太々神楽の太鼓とも違う、もっと素朴な音がした。 太鼓をたたかせていただいた上、縁起、パンフレット、そして聖典までいただきました。本当にありがとうございました。
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妙安寺さまより、メールで送っていただいた桜の写真2枚です。ありがとうございました。
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6月8日 三度目の訪問。枝垂桜。 木に風格がある。 サクランボ三粒いただきました。種無しで、甘くて渋い懐かしい味がしました。
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長い参道ですが良く手入れされています。
奥様と思われる方が庭の掃除をされていたので桜の写真のお礼を伝えた。
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