親鸞さんのあしあと
|
一念一植
親鸞にとって、朝姫は、第二の玉日であった。
嫁ずいてからすぐ翌年に、その裏方は、後に、小黒の女房とよばれた昌姫を産み、やがてまた、二年おいて、男子の明信を生んだ。
親鸞の望みどおりな、一庶民の生活図がそこに広がっていった。
嬰女のおむつの乾してある稲田の軒先からはいつもうす紫にかすんでいる筑波山がみえ・ ・ ・ ・ ・(吉川英治 親鸞 :原文のまま)
稲田御坊にはこのほか、親鸞が種をまいたという銀杏の木や、立てた杖が杉になったという「御杖杉」がある。
|
聖人が稲田を離れる時 ここから草庵を振り返られたという。 奥の林の中が稲田御坊
|
稲田の草庵跡(西念寺)から東に約800m離れた地に、恵信尼公(玉日姫)の廟所がある。恵信尼公は越後で聖人と結婚された後、共に関東に移られ、その後聖人が京都に戻られるまで、行動を共にされたという。聖人の没後、恵信尼公は越後に戻られたが、京都から仕えていた池田権之守是定という人物がこの地に恵信尼公を葬られたといわれている。
なお、恵信尼公の廟所は、新潟県中頸城郡板倉町にもある。
●所在地/茨城県笠間市稲田
|
参道入口から廟内全体が奇麗に掃き清められており、気持よく訪問させていただいた。 建物もさることながら、植木の選定が柔らかく、良い仕事がされている。 無骨な職人ではないようである。
|
この地は笠間郡稲田郷大古山木崎台である。玉日君が高貴のお生まれ故 后台と云われた故事もある。玉日君は玉日姫、玉日宮などの敬称もあり九条関白兼実公の末姫であり、親鸞聖人のご内室である。九条家の家臣池田権頭是貞は京都より終生お仕えしたが、ご往生のおり稲田御坊第二世教念御坊と共に、ご遺骸をこの地で荼毘に付された。御遺徳顕影の玉日講は全国に結成されている。聖人御帰洛の折剃髪して恵信尼公となられた。ご往生は八十七才文永九年九月十八日である。恵信尼公としての墓所が公然とされていなかってにも拘らず、玉日君としての墓所が稲田の地に残されていた事は極めて有意義である。稲田御坊には親鸞聖人の御頭骨堂があり、その向かいの此の地には玉日君の御廟がある。 共に本願念仏の道を歩まれ自力聖道門から他力念仏へと民衆の教済に、新生面をもたらした大きな証しとなっている。
池田権頭是貞は、親鸞聖人の弟子となり是貞房浄因の法名を賜り、子孫相続して廟堂を守り、その後稲田山内(浄円寺)となったが、1864年(元治元年)大田原飛騨守の要請により開教の為 栃木県那須郡南那須町鴻野山へ移転し法康寺(大谷派)を建立した。この地は池田権頭是貞の屋敷跡であったが現在は稲田御坊飛地境内となっている。
廟内掲示板 写
|
青く見えるのが本堂です。 背後にそびえるのが板敷山 山頂に護摩壇跡があるそうです。
4方に竹を立て、注連縄を結い、白木の壇を供えた祈祷場が見えた。
先ごろから親鸞調伏の護摩を焚いて、十七日のあいだ、必死の行をしていた那珂の優婆塞院の総司 播磨公弁円は、銀つくりの戒刀を横たえて、そこの筵に座っていた。京都の聖護院から国守の佐竹家に招請されて下ってきたという豊前の僧都というのは、この弁円であった。 「吉川英治 親鸞 孔雀明王」本文より
|