親鸞さんのあしあと 

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常陸の国
2005年 NHKの大河ドラマ『義経』 義経と同時代に生きた親鸞を思い、親鸞さんのあしあと『常陸の国』のページをつくりました。


お手植えの菩提樹 冬
お手植えの菩提樹 冬
高田山専修寺にも有ったけど 菩提樹は釈迦がその下で「悟りを開いた」ということで知られ、 寺院の庭によく植えられる。
 
この樹は建保年間 (1213〜18)親鸞聖人が小島草庵に3年間滞在し、伝道に努めていたが、稲田に去る際記念に植樹したものと伝えられ、聖人御遺跡巡拝者の間では有名な老樹である。
 歌碑
歌碑
 長塚 節  茨城県石下町 明治12年生まれの農民歌人(アララギ流)長塚 節がしばしばと当地を訪れており この菩提樹を詠んだ句碑がかたわらに立っていました。
『うつそみの人のためにと菩提樹をこ々に植ゑけむ人の尊とさ』
光明寺の柊
光明寺の柊
光明寺開基 明空房は寺伝によれば俗名三浦荒次郎義忠といい、親鸞の弟子となり、仏道に励んだ。明空はヒイラギを好み、境内に多く植えたので、光明寺は『柊道場』とも呼ばれた。 この老樹は当時のものといわれている。 傍らに明空の歌碑がある。
 『われもまた心に造る罪科を 名にあらわして 植うる一本』
 
樹齢およそ800年。
『イワシの頭も信心から』とイワシの頭とヒイラギの枝といっしょに、節分の夜、門口に差しておくと悪魔が退散する、というのがあるが、なぜ明空がヒイラギを好んだのだろうか。
 ヒイラギの葉はトゲだらけで、自分自身の心にも似ていると思いながら写真を写してきました。 キンモクセイと同じ仲間の モクセイ科
光明寺 お手植えの菩提樹 秋
光明寺 お手植えの菩提樹 秋
05年11月 初冬の柔らかな小春日和の中もう一度訪ねました。
 光明寺
光明寺
稲田草庵跡 西念寺
稲田草庵跡 西念寺
茅葺きの山門の横の石碑には「浄土真宗別格本山」と刻まれていた。この稲田御坊(西念寺)こそ、親鸞が主著「教行信証」の草稿を作成した場所で、浄土真宗の聖地です。
 親鸞は、妻の恵信尼や子供と共に、1214(建保2)年、越後から稲田に移り住んだ。
 45歳〜65歳までの20年間で 浄土真宗の信仰を決定的なものにしたのがここ稲田草庵とのことである。
  笠間市稲田
稲田草庵跡 西念寺
稲田草庵跡 西念寺
境内には、様々な親鸞の足跡が残っている。
 山門を入って左側にある「弁円懺悔の桜」がある。
山伏だった弁円が親鸞を襲おうと、稲田の草庵を訪れたとき、親鸞は何の警戒もなく面会に応じた。
さらに顔を見るうちに、弁円の殺意は消え、親鸞を襲おうとしたことを後悔した。
弁円はその場で、山伏を捨て念仏に帰依し、弟子となったという。
 桜は、改心の記念として植えられたもので、弁円が「山も山道も昔にかはらねど かはり果てたる我がこころかな」と詠んだ
 
御伝抄 稲田興法の段
聖人越後国より常陸国に超えて笠間郡稲田郷というところに隠居したもう。
幽棲を占むといえども、道俗あとをたずね、蓬戸を閉ざすといえども、貴賎ちまたにあうる。仏法弘通の本懐ここに成就し、衆生利益の宿念たちまち満足す。
このとき、聖人仰せられて云わく、救世菩薩の告命をうけし往の夢、すでにいま符合せりと。
 本堂横掲示板写
 
西念寺六角堂
西念寺六角堂
六角堂を御頂骨堂ともいい、親鸞聖人が1262年、京都で亡くなると、西念寺二世の教念が、遺骨を親鸞の妻、恵信尼がいる稲田に持ち帰りここに安置された。
 
六角堂ご夢想の山
前方の山は御伝抄(上三段)の『東方を見れば峨々たる岳山ありその高山に数千万億の有情群集せり』の峨々たる岳山である。
『この地こそ六角堂ご夢想の地に符号せり』と下二段の中に覚如上人が明記されている。
かくして前方の山(吾国山)は比叡山をほうふつせしめていると親鸞聖人は稲田ご草庵の地形を御気に召され20年の長きにわたりご逗留されたのである  六角堂横の掲示板写
 
 
 
 
西念寺
西念寺
御頂骨堂をはじめ、本堂など稲田御坊の主要な建物は焼失してしまったが、御頂骨堂は一九二五年に再建された。
この年は開宗七百年にあたり、本願寺派や大谷派など、浄土真宗各派トップの門主計十人が全員集まり
、親鸞の遺徳をしのぶ大法要が稲田御坊で営まれた。
 
 親鸞自作といわれる親鸞像や恵信尼像が安置された本堂は一九九五年に老朽化により再建、
浄土真宗各派が使用している調度品などが用いられているのが特徴だ。 
 
草庵の軒先からはいつも うす紫にかすんで筑波山がみえた。−−−− 吉川英治
西念寺
西念寺

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解説文は一部、東本願寺「しんらんさんめぐり」から引用しています。