親鸞さんのあしあと 

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常陸の国
2005年 NHKの大河ドラマ『義経』 義経と同時代に生きた親鸞を思い、親鸞さんのあしあと『常陸の国』のページをつくりました。


小島の草庵 
小島の草庵 
1214(建保2)年、親鸞聖人が流罪にあった越後から信濃、上野、下野の国、武蔵、下総を巡って常陸の国に入られ、初めて草庵を結ばれたのが、小島の草庵であるとされている。それから関東における20年の活動が始まった。 今回、私の『親鸞聖人の足跡、常陸の国めぐり』のささやかな旅もここから初める事にした。 最初にここを訪れたのは30年ほど前である。 私が大阪から栃木に転勤して、車の免許を取得してすぐの頃、運転の練習がてら訪れたのが最初である。その時は道も狭く1台がようやく通る事のできる程度で、対向車が来ればどちらかがバックせねばならないほどでハラハラどきどきしながら訪れた記憶がある。 今は大きな駐車場も完備され大型バスも横付けできる。2005年1月訪問 
 所在地/茨城県下妻市小島
 
 親親鸞聖人お手植えの『稲田恋し銀杏』
ここは、客先訪問の途中にあるので、冬、春、夏そして秋の銀杏を訪ねたい。 
小島草庵 碑
小島草庵 碑
筑波山が後ろに見えています。我が家からは筑波山が真南に見える。ここからはほぼ真東に有りちょうど90度見る角度が違う。
 
権力闘争に明け暮れる支配者の下、人間はいかに生きるべきか、真実を求めてやまない親鸞は、愚劣な政治権力に追われて京から越後へ、茨の道を踏みわけて幾山河、やがて妻恵信尼と息信蓮を伴い、初めて常総の地を踏み、小島の荘に入られたのは建保2年親鸞42歳のときである。
小島草庵は、恵信尼が『御影』を夢見られたところ、聖人この地に留まること3年、草庵を門弟の蓮位房に譲って稲田に移られ常総在住20年、衆生と共に苦しみ悲しみ優しく生きぬく他力本願の開宗の偉業を完成されたのである。
苛烈な圧政と、極度の貧困に喘ぐ人びとの心に、浄土悦求の灯を点じ 荒廃しゆく常総の地に弥陀の光明を輝かせた不滅の聖業は、日本人の胸底に深く刻み込まれ、永遠に生き続けている。  石碑本文 写
 
我が家から見た筑波山
我が家から見た筑波山
小島草庵 
小島草庵 
銀杏の木のうらに古い四の五輪の塔があり、案内板によると 欽明天皇、用明天皇、聖徳太子、親鸞聖人の「四体仏」と呼ばれているそうです
 
親鸞は、その生い立ちから、配流、妻帯、東国移住の動機、小島居住説をはじめ、その生涯について、いろいろな論がなされており、親鸞伝の決定版はまだ見られないが、当地には次のような伝承が残されている。
越後流罪と滞留7年の後、親鸞は建保2年(1214)妻子を伴って上野国佐貫を経て、常陸国ら入り、最初に居住したのが、ここ小島草庵である。 小島郡司の武弘が親鸞の特を慕い、この地に草庵を設けて迎えた。ここに3年間滞留し、越後で果たせなかった真宗念仏の伝道に積極的に乗り出した。いわばこの草庵(三月寺)こそ真宗開祖の親鸞が関東において真価を発揮した最初の土地である。親鸞の高弟蓮位房は当地出身といわれ、子孫は下間氏と称して、鎌倉時代から現代に至るまで、東、西本願寺の坊官を勤めている。
草庵には『親鸞聖人御旧跡』、『三歳御住居』とした古碑、欽明天皇、用明天皇、聖徳太子の墓に、後ろに親鸞の墓を加えて、『四体仏』と呼ぶ五輪塔と、親鸞を慕ったという『稲田恋しの銀杏』の大樹がある。 近くに設置してある市教育委員会の掲示板 写
 
草庵 五輪の塔
草庵 五輪の塔
下から 地輪 水輪(塔身 球) 火輪(笠) 風輪(受花) 空輪(宝珠)。 五輪塔は、中国、朝鮮から持ち込まれた、層塔・宝塔などは異なり、日本独特なものだそうです。各輪に彫られているのは梵字で 空、風、火、水、地
6月8日訪問
6月8日訪問
緑溢れる中の 草庵の五輪塔
緑溢れる中の 草庵の五輪塔
小島草庵 12月
小島草庵 12月
11月に黄葉を見に行ったが早すぎたので、12月になって再訪、パラパラと風に枯葉が舞っていました。 
光明寺 
光明寺 
柊の道場といわれる光明寺です。この寺は親鸞聖人の常陸での最初の逗留地「小島の草庵」と深いかかわりを持ち、開基明空房は、六老僧の一人で、寺宝「門侶交名牒」のはじめに、”明光・明空・了海・源海・了源・源誓”とあり「已上門弟六老僧」と記されています。
山号は「西木山」  山号由来の栗の木の化石があるそうです。    茨城県下妻市
光明寺 掲示板
光明寺 掲示板
ぼん しょう せん ぎょう き らく ほう
『信じていた道教の経典を焼き捨てて、浄土の教えに帰依した』
細木数子?? 六星占??
 

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解説文は一部、東本願寺「しんらんさんめぐり」から引用しています。