親鸞さんのあしあと 

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常陸の国
2005年 NHKの大河ドラマ『義経』 義経と同時代に生きた親鸞を思い、親鸞さんのあしあと『常陸の国』のページをつくりました。


烏山の慈願寺
烏山の慈願寺
二十四輩 第13番 信願房
寺伝によれば、開基・信願房は1190(建久1)年、那須与市5代の後胤として生まれ、那須太郎資村という。常陸・稲田で親鸞聖人に会って教えをいただき、信願という法名を賜った。1223(貞応2)年に下野の粟野鹿崎に慈願寺を建立した後、78歳で往生したと伝える。その後江戸時代に入り、1680(延宝8)年に現在地に移転している。
●所在地/栃木県那須郡烏山町中央2-3-15
 
烏山の慈願寺
烏山の慈願寺
観専寺 宇都宮
観専寺 宇都宮
11月になって宇都宮の観専寺をおとずれた。東武宇都宮駅から約1kmの町中にたたずんでいる 馬頭の慈願寺、烏山の慈願寺とおなじ 第十三番の信願房の寺である。
 
 ●所在地/ 栃木県宇都宮市材木町6-11
観専寺  宇都宮
観専寺  宇都宮
観専寺の由来
 信願房開基と伝える寺は、観専寺もそのひとつである。同寺の縁起によると 観専寺開基信願房は、清和天皇の後胤、佐竹常陸介義隆の次男、稲木次郎義清といい、常陸稲木の領主であった、ときに最愛の一子を失い、世の無常を感じて出家し、天台宗の僧となった。のち天満宮の霊告によって、寺を宇津の西原に建て「稲木山観専寺」と号した。 かくして順徳の帝の建保二年(1214年 聖人42歳)浄土真宗の念仏を民人に伝道のため、親鸞聖人が常陸、下野芳賀の郡高田に法座を開かれ、あるとき。船生の佐貫へ飛賜のおり、当寺にお休みになった。里の民人は自力観法の法に専らな者ばかりであったから、選択本願、他力の妙旨を知るものは一人もなかった。 ここにおいて親鸞聖人は、生死出べき道は本願大悲の念仏にあるむねを、しずかに説かれねや、老若男女の念仏に帰すること、草木の風になびく如く、たちまちに親鸞聖人の名は四方にひびきわたった。そのとき稲木三州守義清入道義空も、宿善めでたく親鸞聖人にめぐりあい、その教えを深く領解して、一心専念弥陀名号の行者となり法名を信願房と称した。親鸞聖人は庭の梅の木に托して一句
  「咲きぬべき時こそきたれ梅の花 雪も氷もとけでそのまま」
     と、能発一念喜愛心 不断煩悩得涅槃のこころを詠まれるや、聞くものすべて、和合海に同入し感動の涙をながした。
ところが不思議なるかな、梅樹の梢よりしきりに雨を降らしたという。親鸞聖人帰京ののち、信願房は師の聖人を慕って宝治元年(1247年 聖人75歳)上洛し、五条西の洞院を訪ね、悦こび胸にあふれ、帰国を忘れた如くであった。聖人もその厚信に対して、自らの画像を書いて信願房に賜うて仰せになった。『佛恩師の恩を報ずるというは、自信教人信にしくものはなし、有為の別れを悲しむなかれ、親鸞が心行この画像中にあり』とて信願房に付属せられた。かくて信願房はやむなく関東に帰り聖人相伝の念仏を人びとに説いて、常陸・河内・三河の数ヶ所に念仏の草庵を建てた。
 信願寺・勝福寺・弘誓寺・慈願寺などがその流れのてらである。かくして正嘉二年(1258年 聖人86歳)10月19日化縁つき、頭北面西゜にいて念仏の息たえた。その後、蓮如上人この霊雨梅樹をご覧になり、「聖人は善光寺が本拠であられるから生身の弥陀如来の説法である故、草木もとうしても悦ばずにいられようぞ、かかる佛智の不思議を信ずれば生死を出づること疑いなし」と六字名号を賜った。・・・・・・
以上が観専寺「草創由来」のあらましである。
  昔から宇都宮の地に浄土真宗の法灯を受け継いできたことはまぎれもない事実であります。  掲示板写し
観専寺 親鸞像
観専寺 親鸞像
親鸞像の立つ岩の下に『ツワブキ』が優しく咲いていました。
11月  観専寺
11月  観専寺
坂東報恩寺
坂東報恩寺
2005年12月仕事で東京に出向いた折に、上野の報恩寺にうかがった。
 親鸞二十四輩 第一番 性信を開基としている。 性信は常陸の鹿島神宮の宮司の長男として生まれ、幼いころ悪五郎と呼ばれた相撲好きの少年で、宮中で行われる相撲の大会のため上洛し、勝って恩賞を得ている。その後紀州の熊の権現で修行していたが、思うところがあったのか、法然上人を訪ね、親鸞聖人に性信の法名をたまわった。
坂東報恩寺
坂東報恩寺
1214(建保2)年、下総横曽根の地に、聖人の直弟・性信房が道場を建立したことに始まる。1602(慶長7)年、江戸に移り、1810(文化7)年、現在地に落ち着く。宗祖聖人御木像(関東御形見の御影)と阿弥陀如来を並置する珍しい形態の本堂は、天保年間に許可されたもので、現在の本堂は関東大震災の後、1935(昭和10)年に再建されたもの。水海道市の報恩寺とともに、二十四輩巡拝の第一番として有名である。また、現在東本願寺(真宗本廟)所蔵の『教行信証』は、元来この報恩寺に伝来したものであることから、「坂東本」と呼ばれている。
●所在地/東京都台東区東上野6-13-13
報恩寺 銅鐘
報恩寺 銅鐘
坂東報恩寺の通称で知られる当寺は、建保二年(1214)親鸞の高弟性信によってひらかれた浄土真宗大谷派の寺院で、下総国横曽根(現茨城県水海道市)にあったが、慶長七年(1602)江戸に移転、その後市中を三転し、文化七年(1810)現在地に至る。
本鐘が鋳造されたのは、慶安元年(1648)で、当時報恩寺は八丁堀にあった。 銘文によると、報恩寺十四世住持宣了及び檀信徒の講中の発願で作られた。銘文の末尾に記されている鋳造者の「堀山城守る藤原清光」は、江戸幕府の命で京都から江戸に下った御用釜師浄栄の息子浄甫を指す。父子とも当代一流の鋳造師で、浄甫の作品にはこの銅鐘のほか、渋谷区祥雲寺の銅鐘、日光東照宮り銅灯籠・上野東照宮の銅灯籠などが現存している。  
      鐘楼前の掲示板写し
 
報恩寺の庭
報恩寺の庭
この庭の中に小さな池があり錦鯉が飼われていた。 坂東報恩寺は 『まないた開き』の神事が毎年、正月12日に行われている。

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解説文は一部、東本願寺「しんらんさんめぐり」から引用しています。