親鸞さんのあしあと
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二十四輩 第17番 念信房
当寺の開基・念信房は、俗名を高沢氏信といい、高沢城主であった。観音の夢告と父の遺言とにより、常陸・稲田に親鸞聖人を訪ね、教化を仰いだ。念信という法名を賜った氏信は、那珂小舟の地に草庵を建て、聖人も6度その地を訪れたという。その内の安貞2年(1228)親鸞56歳のとき、一夜の内に満開になり、親鸞が草庵を立つ時振り返り、振り返り念仏しながら去られたので、『見返りの桜』というようになった。その後、100年以上もたってから、寺基は現在の鷲子の地に移した。 桜の木は元禄年間に小船の地から、この境内に移植されたと伝えている。
境内の太子堂に安置された聖徳太子木像は、県の文化財に指定されている。
●所在地/茨城県那珂郡美和村鷲子2236
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善徳寺から4kmも離れていない、国道293号線沿いの栃木県との県境にこのお寺がある。 国道から急勾配の坂が参道で、本堂の前庭もほとんど無く、本堂も太子堂も鐘楼も山麓に張り付いている。
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親鸞聖人が照願寺を訪れて、桜を振り返り、振り返り、念仏をしながら去られたのが56歳の時であり、私も56歳 桜の季節に訪れたが、親鸞が訪れた時、桜は一夜の内に満開になったいいう。 今年は、栃木、茨城の桜は開花宣言から3日間で満開になったと報道されている。 なのに この見返り桜には蕾も付いていない、木の下の看板に、『枯れ枝が落ちるので注意』の標識があった。残念である。
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ほとんどの親鸞像は、右手に数珠を持ち、左手に杖を持っているが、この像は左手に数珠と杖をもち、右手で笠を上げて桜を見るお姿の像である。 この像も富山県の高岡市で作られたもので、寺の関係者ではない人の寄進によるものとの事である。
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如信上人終焉の地。
本願寺第二代の如信上人は、浄土真宗の開祖、親鸞聖人を祖父に、善鸞を父に、鎌倉時代の嘉禎元年(1235)に京都で誕生されました。
親鸞聖人が東国での20年間の生活を追え、京都に帰られてまもなくのことでした。
如信上人は、青年までの間を親鸞聖人の近くで生活され、親鸞聖人の念仏の信念に生きる姿に接して育たれました。成人の後は、陸奥国の東山あるいは大網(いずれも現福島県南部)を中心に念仏の教えを説いて回られました。 おだやかな性格の如信上人は、多くの人々に感銘を与え、そこには、おきな門徒集団が形成されました。上人は毎冬、京都に上がって親鸞聖人の命日法要を7日間勤められ、報恩講教団とゆわれる本願寺の原型を作られました。 正安元年(1299)12月、上人は太子堂のある陸奥国上金沢(現、茨城県太子町)の門弟乗善房の草庵に招かれましたが、しばらくして、病床に臥され。翼正安2年(1300)1月4日、この知でお亡くなりになられました。66歳でした。
如信上人終焉の地は、上人の墓所と御廟所法龍寺境内から、本堂には、本尊の阿弥陀如来立像、宗祖親鸞聖人絵像、如信上人の坐像及び聖徳太子立像が安置されています。 境内掲示板より
所在地/茨城県久慈郡大子町上金沢1684
法龍寺のカヤ
幹周囲(目通り)6.8m、樹高24m、樹齢およそ690余年、正和元年(1312) 本願寺第三代の覚如上人が如信上人の13回忌の法要を修した折に植えられたと伝えられています。
隣の銀杏があまりにも大きいので、並べるとたいした大きくは感じられないが、立派な大木である。
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幹周囲(目通り)11.1m、樹高32.5m、樹齢およそ710余年、正応2年(1289) 門弟乗善房が草庵を結んだときに如信上人が手ずから植えられたと伝えられています。
これだけの銀杏はめったに、お目にかかれない。葉が繁った姿を想像するだけでも楽しいひとときでした。
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如信上人終焉霊地の碑
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11月 近所の銀杏が色づいたので、大銀杏の黄葉を見に行きました。 残念 黄色くならずに落葉している。 落葉が10cm以上積もっていました。 暖かな日が続き黄色くなれないで落ちてしまったようである。 トム 小さい小さい
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二十四輩 第13番 信願房
慈願寺は栃木県に2カ寺あり、いずれも信願房を開基とするが、両寺に伝わる信願房の経歴は異なる。馬頭町の慈願寺を開いた信願房は、佐竹昌義の孫・稲木義清といい、常陸・稲木城主であった。出家して親鸞聖人に帰依して名を信願房定信と改めた。1233(天福1)年、下野の粟野鹿崎に道場を開き、のち覚如上人が立ち寄られ、慈願寺と号した。その後、寺基を転々としたが、1580(天正8)年、現在地に再興された。
●所在地/栃木県那須郡馬頭町健武1220
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