親鸞さんのあしあと 

戻る

常陸の国
2005年 NHKの大河ドラマ『義経』 義経と同時代に生きた親鸞を思い、親鸞さんのあしあと『常陸の国』のページをつくりました。


常弘寺
常弘寺
大山の草庵
大山の草庵
国道123号線ぞいの桂中学校のとなりに神社があり、鳥居のすぐそばにありました。訪問した時、通りすぎてしまい、通行人、お店の人と二人に写真を見せて訪ねたが解らず道を引き返して、走行中に発見しました。
掲示板によると、親鸞聖人の小島草庵と重なるのでここと、小島とを行き来されていたものと思われる。両草庵 直線距離で50Kmは離れている。よほどの覚悟が無ければ出来ることではない。
 
 
大山草庵の由来(開宗宣言の地)
浄土真宗の開祖、親鸞聖人は、建保2年(1214)越後の国から常陸にはいり、建保4年(1216)には、ここ大山の地に足を運ばれ、ここ常陸奥郡の布教伝道の中心地とされました。
当時、大山には、聖人の師法然の孫弟子であった行観上人が、建暦2年(1212)に開山したといわれる浄土宗の阿弥陀寺がありました。親鸞は、師法然のゆかりの寺を頼って。この地にこられ、その境内に草庵を結び、諸公達の懇願により建保4年11月8日には、法然の三回忌法要を三尊六高祖を安置され、厳かにとり行われました。従って、これを真宗興行の法要といい、大山草庵は開宗の地と言われています。
聖人の教えを受けた人たちは数多く、なかでも入信房、明法房は有名であります。その後、二代定信、三代如証、四代信善、五代信真、六代真順と続き、七代信如の明徳3年(1392)に額田城主小野崎下野守昭進の懇願によって、額田堀の内に移り、額田城の守護寺となりました。以来、血脈相承により、現在に至っています。
一方浄土宗阿弥陀寺は、水戸藩主徳川斉昭公の寺院整理によって天保13年(1842)に廃寺となり、今は往時を偲ぶものとして古い墓石が散見されるだけであります。(桂村史談会) 石碑横掲示板写し
●所在地/茨城県東茨城郡桂村阿波山
 
壽命寺
壽命寺
二十四輩 第16番 入信房
かつて常陸・久慈郡の領主だった佐竹義繁は、世の無常を感じて出家した後に、稲田の親鸞聖人を訪ね、その教えに帰依し、入信という法名を授かった。常陸・穴沢に庵を結んだ入信房を訪れた聖人は、西の山腹が光るのを見つけて掘り起こすと、阿弥陀如来像であった。喜んだ入信房らはこの像を本尊として御堂を建立した。これが壽命寺の起こりであるという。境内には聖徳太子像を安置した太子堂などがある。
●所在地/茨城県東茨城郡御前山村野口3042-1
壽命寺
壽命寺
壽命寺
壽命寺
壽命寺
壽命寺
法専寺
法専寺
二十四輩 第19番 明法房
稲田の草庵に親鸞聖人を襲ったものの改心し、弟子となった山伏・弁円(明法房)を開基とする。真宗に帰依した明法房は、かつて住んでいた塔之尾に帰って一宇を建立、これが当寺の始まりである。明法房はこの地で真宗の教えを弘め、亡くなったとされ、境内地近くに墓所がある。
●所在地/茨城県那珂郡大宮町東野921
法専寺
法専寺
本堂は前々住職の時に台風で倒壊し、その時使える木材を集めて立て直されたため、以前よりだいぶ小さくなってしまったという。  このお寺に、弁円が聖人殺害のため稲田の草庵を襲撃した時に携えていたと伝えられる「弁円悔やみの剣」があるそうです。 その他にも聖人御真筆の『六字名号』、『ご和賛』などを伝えている。
法専寺
法専寺
山門をくぐるとすぐに、上品で優しそうな、いかにもお寺の奥様らしいお人が出てこられて、お茶を頂いた上、親鸞聖人めぐりの話をしたら、東本願寺発行の『しんらんさま めぐり』のパンフレットを頂戴した。 帰りに、お茶請けに出された、お菓子を和紙で包みくだされた。 ありがとうございました。帰宅して仏壇に供えてから頂きました。
法専寺
法専寺
スイレンの鉢が沈めてあった。夏にはきっと奇麗な花が咲くのだろう。 錦鯉よりスイレンの似合うお寺でした。

| Prev | Index | Next |

戻る
解説文は一部、東本願寺「しんらんさんめぐり」から引用しています。