親鸞さんのあしあと
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二十四輩 第14番 定信房
当寺の開基は額田の阿彌陀寺と同じ定信房である。定信房の没後、親鸞聖人は、一説には善鸞の子ともいわれる善明に阿弥陀寺を、弟の覚明に、元来は佐竹氏の祈願所で天台宗寺院だった当寺を守ることを命じたと伝えられる。境内に清浄な泉があったことから当初は「願泉寺」であったが、水戸藩主・徳川光圀が親鸞聖人の業績に感じ入り「難度の苦海には四十八の願船あり」と述べて一字を改めさせた。境内には聖人ゆかりの大銀杏があり、開基定信房木像などの寺宝を蔵している。
●所在地/茨城県那珂郡東海村石神外宿1047
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二十四輩 第23番 唯信房
寺伝によれば、当寺の開基である唯信房は、宇多天皇の後胤・佐々木高重という人で、1218(建保6)年、稲田の聖人を訪ねて帰依し、那珂郡畠谷の地に当寺を建立し、地域の教化にあたった。その後、数度の移転を経て現在地に移った。移転後は水戸藩の保護を受け、藩主の休憩所ともなっていたが、何度かの火災により寺宝、資料等を焼失した。現在、境内には焼失を免れた聖徳太子像を安置した太子堂がある。
●所在地/茨城県日立市金沢町4-14-24
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二十四輩 第19番 明法房
常陸・板敷山に居し、一帯にその徳を慕われていた山伏・弁円は、念仏の教えをすすめる親鸞聖人の声望が高まることを憎み、聖人を害そうと稲田の草庵を襲う。しかし、聖人の尊顔に会った瞬間、心を改めて弟子となり、明法と名のることとなった。その後、明法房は聖人のそばにあって給仕を怠ることがなかったという。当寺は1221(承久3)年、明法房によって創建され、一旦常陸・額田に移転した後、1584(天正12)年に現在地へ移った。山伏・弁円の遺品をはじめ、石山合戦の戦功により本山から授与されたという「聖徳太子絵伝」などを蔵している。
●所在地/茨城県那珂郡那珂町本米崎2270
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二十四輩 第15番 入西房 枕石寺(ちんせきじ)
故あって近江・日野から常陸・大門の地に流されていた日野左衛門尉頼秋という武士の家に、1212(建暦2)年の雪の夜、親鸞聖人が訪ねてこられた。一夜の宿を請う聖人を頼秋は、「仏道を修する者が雪や寒さを苦にして安楽に宿をとるとは何事か」と追い出してしまう。その夜、守り本尊の夢告により外に出た頼秋は、石を枕に念仏を称える聖人の姿に改心し、聖人の教えを受けて帰依した。頼秋は入西と名のり、邸宅を寺として「枕石寺」ができた。倉田百三の戯曲「出家とその弟子」のモチーフともなった枕石の伝承を伝える寺院である。
●所在地/茨城県常陸太田市上河合町1102-1
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