親鸞さんのあしあと
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『芭蕉野分して盥に雨を聞く夜かな』と書いてあるらしいが 一時 用水堀の橋に使われていたとの事である。
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二十四輩 第21番 唯仏房 丘の上に 真宗寺院が集まった『館山7ケ寺』の中心
ひたちなか市館山
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ひたちなか市館山にある当寺は、小高い丘の上に真宗寺院が密集した「館山七カ寺」の一つとして親しまれ、一種独特の景観を形作っている。開基・唯仏房は1214(建保2)年、常陸・稲田におられた親鸞聖人に帰依した藤原隼人佑頼貞という人で、那珂郡枝川村の自邸を道場としたのが当寺の始まりである。戦国末期に水戸城内に移転し、ついで1649(慶安2)年、現在地に移った。壮大な伽藍を誇ったが、1864(元治1)年、天狗党の乱で焼失した。
●所在地/茨城県ひたちなか市館山9015
浄光寺縁起
当山
衆宝山無量光院浄光寺は親鸞聖人御直弟 唯仏房の開基にして24輩第21番の御旧跡なり。
常陸の国吉田郡枝川村の住人藤原隼人佑頼貞聖人に帰依し他力本願の不思議の味に深く聖人の教化を蒙る 貞応元年(1222)剃髪して法名を唯仏坊浄光と賜り枝川村に一字を建立吉田御坊と称す、其の後国主江戸但馬守の帰依により、水戸城内に移る後、文禄3年(1594)茨城郡常啓村に移り更に慶安元年(1648)徳川家光公より湊村に十石の朱印地を賜り同2年湊村に移る。
元禄9年(1696)徳川光圀公古館の地(現在地)に一万一千六百坪並びに馬場道金二百五十両人夫二万人を寄付せられ以て同十一年堂寺をこの地に移す。
殿堂は荘厳にして華美其の粋を極め当国第一の名刹にして常陸御坊称し繁栄を極むるも元治甲(1864)の兵火に遭遇し又途中の盛衰ありて昔日の影々に留めずと難も昭和の今日に至るまで連綿として継承歴代29世を数え現在に及ぶものなり。
住昔枝川在地の際三世にして嗣子なきに依り本山覚如上人の孫光泰丸を請ひ下して之を四世住職と為す覚如上人寂後嗣子なき故居ること三年にして更に亦本山に入る本山四世善如上人これなり 衆宝山無量光院 浄光寺 石碑写
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この正徳寺の門は安政6年に水戸藩典医の久保田宗仙が屋敷の門として建立されたものを昭和46年に久保田家より寄進、移築されたものと云う。
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二十四輩 第14番 定信房
親鸞聖人は越後から関東の地に移られ、1215(建保3)年、常陸・那珂西、大山に庵を結ばれたという。これが当寺の始まりである。翌年、京都三井寺から来た定信房が聖人に帰依し、後に聖人が京都へ戻られる際、この定信房に大山の草庵を譲られたという。1391(明徳2)年、領主の請によって現在地へと移転し、大伽藍を誇ったが、幕末の天狗党の乱によって焼失した。聖人の高弟・直弟等453人の名前を記した「太祖聖人面授口決交名記」が寺宝として伝わる。
●所在地/茨城県那珂郡那珂町額田南郷375
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樹齢200年と云われる枝垂桜 この角度でもう一度写真に収めたい。
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本堂の二層の屋根は寺の形としては珍しい。
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