2007年猛暑だった8月も末になると涼しい日が数日続き秋を感じる中、盛岡の本誓寺を訪ねた。 盛岡は南部20万石の城下町、JR盛岡駅からタクシーに乗りすぐに渡るのが北上川。この他に市内を雫石川、中津川が流れ城の守りとしている。 自然の守りの手薄な北側を守る形に十数ケ寺を配したのだろうと思われる中に本誓寺がある。
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是信房は俗名を吉田大納言信明といい、讒言に遭って越前に流されていた。 そこで聖人が越後におられることを聞き、訪ねるが、聖人は既に関東に赴いた後だった。 信明は後を追って常陸に入り、稲田の草庵に聖人を訪ね、弟子となったという。
信明は是信と名のり、奥州に真宗を弘めようと、和賀郡一柏から紫波郡石ケ森へと移って、本誓寺を建立した。1584(天正12)年、南部公から盛岡の寺地を拝領して移転、現在に至る。 境内には大正年間に再建された壮大な本堂が建ち、本堂の右奥には是信房の墓所もある。
●所在地/岩手県盛岡市名須川町3-16
東本願寺 しんらんさまめぐりより
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本誓寺 真宗大谷派
浄土真宗の教えをひろめる親鸞聖人の弟子は百人も数えるが、その中の主な弟子たちのことを書いたものに『親鸞門侶交名牒』とよばれるものがある。その十番目に奥州和賀郡一柏の是信房の名がある。
親鸞聖人が常陸稲田におられた時、奥州の人たちが弥陀の本願の教えに救われるようにとの念を深くして、当 開基の是信房に命じ、その任にあたらせた。その時、お別れを惜しむと親鸞聖人は「後の世の記念に残す面影は弥陀たのむ身のたよりともなれ』とうたわれ、御自身肖像を彫りまた、阿弥陀如来の尊像の両側に南無阿弥陀仏と書かれた=名体不離の本尊=を是信房に与えられた、時は建保三(1215)であった。その後是信房は一寺を紫波郡彦部村松田に創建、石森山重願院本誓寺と称しておよそ五十二年、大いにこの道をひろめられ、そのため、聖人より光明本一幅を与えられるが、文永三年(1266)十月十四日八十六歳で亡くなる。
寛永十二年(1635)十六世の賢勝が南岩手郡米内村に本誓寺を移し、かわりに正養寺を彦部に建て、弟の慶正に寺祖のN墳墓を護らせる。嘉永三年(1850)、二十五世の是伝が寺祖の墳墓を村内三ッ割に移して現在に至る。親鸞聖人の教えをはじめて奥州へ伝えてから七百年余りになるが、近世末期までは五十六の末寺を数え当本誓寺には、初期教団としての宝物も数多く蔵されている。
なお本誓寺宝物には『御真影』『光明本尊』『名体不離本尊』それに『光明攝取本尊』が伝わっている。
本堂前の掲示板より
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盛岡市指定天然記念物
『ソメイヨシノ』と『シダレヒガン』の交雑種 生育地を記念しての命名との事である。小さめの清楚な白い花を咲かせるらしい。花の季節にもう一度訪ねてみたい。
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2008年9月 訪問
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新潟県内では最大級の木造建築で18間4面 明治13年の三条大火で焼失し20年後の明治33年再建に着手8年間の工期を経て明治41年に落慶 柏崎から村上に及ぶ500ケ寺の寺院と門徒の念仏道場
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平成21年3月念願の 神奈川県厚木市の弘徳寺を訪ねた。
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第5番 弘徳寺 信楽房
八千代にある弘徳寺と開基を同じくするが、当寺の寺伝では、信楽房は京都に向かい、88歳の聖人に面謁して許され、御寿像をいただいたとしている。また、善鸞については当寺を聖人の旧跡と慕って滞在し、当地で往生したといい、墓所がある。当寺の住職は、天正年間までは八千代の弘徳寺と兼任であったが、12代目・永西の時、専任となった。
神奈川県厚木市飯山455
東本願寺 しんらんさんめぐり より
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聖人が関東を後に京都に帰られる途中立ち寄られたと云う箱根神社を平成21年4月訪問。
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境内のおく静寂の中、平和を願う聖人の像がありました。
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