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越後、他 遠国 めぐり
2005年5月連休に砺波の実家に帰郷し帰り、新潟を回ってきました。

2006年5月 出張の途中ですが、信州の親鸞聖人ゆかりの地を回ってきました。
 
2006年5月31日 仙台へ出張 稱念寺訪問
 
2006年8月4日 暑い暑い日に板倉草庵跡
訪ねました。
 
2010年11月2日  火曜日休館と知りつつも ゑしんの里記念館を訪問
 
2011年8月27日 ゑしんの里記念館再訪
 
2011年8月29日 新潟の水原町 無為信寺訪問
 
2011年9月 鹿島神宮 参拝
  3.11大地震で 鳥居が倒壊し撤去されていた。
 
2011年9月 彼岸の中日に 福島県棚倉町の蓮生寺を訪問
 
2011年10月 千葉県いすみ市大原の照願寺を訪問
 
2011年10月 新潟県長岡市の西照寺訪問
 

稱念寺 赤門
稱念寺 赤門
カーナビの地図表示に『稱念赤門寺』となっていた。これがその赤門と呼ばれる朱塗りの山門 門は立て替えられておりまで新しい。鐘楼も新しかったので同じ時期に立て替えたのであろう。
稱念寺 本堂
稱念寺 本堂
当寺の開基・無為信房は、越後編F越後の無為信房と伝承が異なり、俗名を橘栄住という。栄住は源平の争乱に世の無常を感じ、稲田の親鸞聖人を訪ねて帰依した。その後、奥州に真宗の教えを弘めるため、東北各地を回り、やがて会津に住するようになったという。後、一時的に会津を領していた伊達政宗が仙台に移った際に現在の地へ拠を定めた。
●所在地/宮城県仙台市青葉区新坂町10-3
 以上 しんらんさま巡りより。
   越後水原の無為信寺もまだ未訪問である
稱念寺 庭池
稱念寺 庭池
池が有ったのでもしや錦鯉が見られるかと期待したが、残念ながら水深も浅く、まして東北の地。 錦鯉を飼えるような池ではなかった。 でも水のある風景は大好きである。
 
青葉城
青葉城
せっかく仙台に来たのだからと、青葉城跡にも行ってきた。
 『伊達政宗殿 あなたの先祖の地、下野の国中村からはるばるだずねてきましたよ。  仕事のついでだけどもネ』
前橋妙安寺
前橋妙安寺
二十四輩 第6番 成然房
2006年6月6日 前橋の妙安寺を訪問。 前橋の繁華街の一角にあった。 戦時中の空襲で本堂の他ほとんど焼失したが、寺宝などは前もって疎開保管されて消失を免れている。
 
 
関白九条兼実の10男、幸実は、無実の罪で下総・一ノ谷に配流された。その後、常陸・稲田の地で真宗の教えを弘められている親鸞聖人に帰依し、成然という法名を賜ったという。後に成然は、一ノ谷にほど近い三村の地に聖徳太子建立との伝承をもつ廃寺を復興し、居を移した。1590(天正18)年、酒井雅楽頭重忠の請によって武蔵・川越に移り、酒井氏の転封に伴い、現在の地に落ち着いた。本願寺が東西に分派した際、幕命によって当寺にあった親鸞聖人の御像を東本願寺(真宗本廟)に移したことから、「お里御坊」の名で呼ばれる。宗祖筆『唯信鈔』をはじめ、寺宝も数多い。
●所在地/群馬県前橋市千代田町3-3-30
 
「しんらんさまめぐり」より
妙安寺 梵鐘
妙安寺 梵鐘
高さ86cm、口径54cmの小ぶりの梵鐘です。南北朝時代の作として、碓氷峠の熊野神社の古名鐘とともに貴重な工芸品 県重要文化財
板倉草庵跡
板倉草庵跡
今年、最高気温を記録した、暑い暑い日に、親鸞聖人関東最初の逗留地、佐貫の庄板倉の里と言われる群馬県板倉町の真言宗宝福寺をたずねた。東北自動車道館林インターから国道354号線を東に向かって約3q、県立板倉高校の東隣になる。
 
ここは親鸞聖人の「三部経千部読誦」の故事もここでの出来事である。また二十四輩の一人で、横曽根門徒の開基として知られる高弟性信房が聖人から関東の教化を託され浄土真宗の 布教に努めた地でもある。
板倉草庵跡
板倉草庵跡
ここには、関東二十四輩の一人、性信房の座像(群馬県県指定文化財)があります。
 
地域の方が、この裏にある墓地の清掃のため集まっておられ、休憩中。いろんな話を聞かせていただきました。
板倉草庵跡
板倉草庵跡
1214(建保二)年、家族とともに越後から関東に向かわれる途中、上野 佐貫(さぬき)の地で、親鸞聖人は浄土三部経を千部読誦することを思いたたれたといわれます。
 そのころ、関東一円には飢謹がひろまり、人々は地をはうようにして、その日その日の命をつないでいました。そして力つきた人々がつぎつぎと倒れていく。その姿から目をそむけることのできなかった聖人は、ただひたすら経典を読誦して、世の平安を祈らずにはおられなかったのでしょう。
 しかし、どれほどいとおしみ、不憫に思っても、その思いのままにすべての人々をたすけることはできません。その事実があらためて、聖人の心を重くとらえ、聖人は、浄土三部経の千部読誦の行をすてられました。 この体験は、聖人に、いよいよ本願念仏の一道を生きとおすことを決定させたのです。その後、聖人はただひたすらに、本願の名号に徹していかれ、人々が正定聚に住するものとなることを願いつづけていかれました。
 
東本願寺出版部発行『真宗の教えと宗門の歩み』正定聚(しょうじょうじゅ)に住(じゅう)す  より
 
 
 
板倉草庵跡
板倉草庵跡
聖徳太子童子像
 戸の隙間から覗いていたら地元の人が
     『泥棒に持っていかれて、何も無いよ』  とのことです。  確かに何も無かった。
  

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