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2007年12月31日 (月) 久喜市の合併と市長の任期 最近の久喜市をとりまく合併の動きを見ていて、気になることがある。 それは、田中市長の政治姿勢についての懸念である。 田中市長はいつまで久喜市長を続けるつもりなのだろうか、ひたすら長く、長期政権を続けていくつもりだろうかということだ。 最近では、市民の立場から、「改革」を掲げて、先進的な行政を追及する首長ほど、「2期8年」とか「3期12年」などと期限を切ってみずからの政治を推進する首長が目立ってい る。 それは彼らが、市長自身がどんなに能力があり、清廉を期しても、「権力は長くやっていると必ず腐敗する」ことを自覚しているからでもある。 「腐敗」までいかなくとも、行政の権力構造が固定化し、議会との関係も固定化し、業者などとの関係も固定化し、政治と行政がよどんでいくのは避けられない。 それを避けるためにも、みずから終わりを定めてやめていく、身の処し方を知っているということであろう。 以前は、政治家は、「みずからはいつやめるかを言わないものだ」「それを言ったら後継争いや権力争いが起こる」とされていたが、最近はむしろ逆に、期限を切ってみずからの政策 や公約の実現を期す政治家も増えてきた。 鳥取の片山知事、三重県の北川知事、高知の橋本知事の引き際は見事だったし、志木市の保坂市長の潔さも周囲を驚かせた。 横浜市長は3期までの任期制限条例を可決させた。 所沢市長も任期制限条例を提案し、議会で否決されたが、みずから2期8年と宣言している。 田中市長は現在3期目だが、2009年(平成21年)夏に任期を迎えて、4期目に立候補するのは確実と見られている。 その選挙の翌年2010年に「合併」という目標だから、合併と同時の新市の市長選挙にも出るのだろうと思われている。 その後は? 新市の市長になったとして1期で身をひけるか。 “もう1期、その後は、さらにあと4年。…できる内はずっと”と思いたくなるのが首長の魔力だ。 田中市長の政治家としての姿勢を問うてみたいと思う。 2007年11月30日 (金) 政務調査費の公正さ 久喜市議会では会派に対して、議員1人につき1か月2万円、年間では24万円の「政務調査費」が交付される。 目的はあくまでも「調査研究費の一部」にあてるためであって、当然のことながら、会派はその使途を明らかにしなければならない。 4月、7月、10月、1月と四半期ごとに交付され、会派は四半期ごとに使途報告書を提出しなければならない。 これもあたりまえのこととして、すべての支出の領収書の写しを添付することになっている。(実際には領収書そのものを事務局に提出している)。 公正さを確保するために、いくつかの細かい申し合わせがある。 たとえば、次のような取り決めがある。 ・領収書の宛名は、個人名でなく会派名でなければならない。 ・書籍などを購入したら、領収書に書籍名(題名)を記載していなければならない。 ・代金を振り込みで支払った場合でも、口座振込証でなく、領収書を発行してもらう。 ・交通費は、公共交通機関を利用し最短の交通経路とする。 ・ガソリン代も認めるが、その場合は、交通経路及び距離を計算して、ガソリン代の領収書を添付する。ガソリン代は1リットル当り10キロメートル走行で換算する。 ・消耗品費及び備品購入は認めない。 ・ハガキ、切手代、郵送料は年度内に使った分とし、買いおきは認めない。 ・団体の会費は認めない。 それでも時々、領収書の宛て名が個人名になっていたり、領収書に「何を買ったのか」が記入されていないなんていう、おかしな領収書が出てきたりする。 これは、きちんと説明責任を果たしてもらわなければならない。 以前には、年度末の3月28日に4万円分のハガキを購入したという領収書や、視察旅行の「キャンセル料」を政務調査費から支出した会派もあったりした。 私たちは、こんなものは認められないと思っている。 今年度も、ある議員の6月までの使途報告書に、その議員が加盟する団体の会費が支出されていたことが明らかになった。 代表者会議の話し合いで、「団体の会費は認めない」という申し合わせがあるにもかかわらず、しらんぷりして支出する、その感覚が信じられない。 これは11月に、代表者会議で問題にして、結局、その議員には報告書を訂正して出し直してもらった。 2007年11月28日 (水) 市長の「所信」は肩すかし 今日、28日は11月定例市議会の初日でした。 議案の提案に先立って、いつものように田中市長が若干の所信を述べましたが、その中身は「まもなく今年も終わる」だの、「中越沖地震やいろいろなことがあった」だの、「最高気 温を記録して、地球温暖化」だの、当たり障りのないあいさつでした。 私ならずとも、他の議員さんや傍聴の市民のみなさんも、昨日の宮代町の「合併に関わる住民アンケート調査の集計結果」発表を受けて、何かしら田中市長の所信が聞けるものと“期 待”していたはずですが、それらの話にはまったく触れませんでした。 宮代で「久喜との合併派がきわめて少数にとどまって残念だ」とか、今後の久喜の合併の方向性くらいはおっしゃるかと思ったんですが…。 今朝、議会前の早い時間に、宮代町長が「報告」に来ていたらしい(他の議員さんが見かけたそうです)のですが、田中市長は本会議でその話にはいっさい触れたくない、話もしたく なかったということ? あるいは“いい話”で、先日の「久喜新病院が無事着工してめでたい」とか、これも久喜市にとっては大きな“事件”があったわけで、これにも触れなかったというのは、そんな心境 ではなかったということでしょうか。 宮代町のアンケート集計結果はこちら 2007年11月23日 (金) 新病院地鎮祭(2) 新病院地鎮祭の続きである。 地鎮祭の式が進行する間、じっくりと見させていただいたわけだが、降神、昇神の儀式などは実に興味深かった。 神官が「オオーーッ」と声をだんだん大きくしていく、あるいは小さくしていくことによって、神がその場に降りてくる、昇っていくさまを表しているのだろうか。 玉串奉奠の際には、各界代表者が立つのに合わせて、司会者が「関係者の方はご起立ください」「御同拝ください」と指示し、自分たちの代表者が榊を奉ずるのに合わせて二礼二拍一 礼をいっしょに行う。 久喜市長が立ったときには、参列している久喜市の職員がみんないっしょに立って拝まなければならないわけだ。 市議会議長が立ったときには、議員20人が立って、いっしょに頭を下げ、二礼二拍一礼をいっしょに行う。 さて、無宗教の私としては神道形式に無批判に従うわけにはいかぬ。 私は神前で拝む謂われはないから、ただ立って、礼も拍手もしないでその間ずっとまわりの人たちを観察させていただいたのだが、私以外の全員が素直に従っていたのは、まあ、仕方 ないか。 ただ、某宗教政党の議員さんまでが、議長が玉串を奉ずるのに合わせて頭を垂れたり二拍手していたりしたのには少々ビックリした。 この人たちって、それでいいのかなあ? 議員だからお付き合いもあって、自分の信仰とは違うけれど、他の神さまを拝むのも仕方がないということなのかな。 他人事ながらちょっと心配になってしまった。 もっとも私は、神を信じていようがいまいが、形だけなんだからどうってことはないとも思う。 私自身は神社やお寺に行っても参拝したことはないが…。 神酒拝戴は、神前のお酒を小さな盃に分けて、参列者みんなで戴くのだが、議員は「酒を飲んで運転したらみずから辞職する」という申し合わせがある。 少し悩んだが、やっぱり自分で飲むわけにはいかないので、盃を傾けて足元の地球に飲んでもらった。 ほとんどの議員がそうしたはずだ、と思う。 「新病院」の起工式(1) 11月20日、JA埼玉厚生連・久喜新病院の起工式が行われた。 招待客はJAや久喜市、埼玉県の関係者、地権者ら約100人、市議会議員も21人が出席した。 設計監理は日建設計・全国農協設計共同企業体、工事は株式会社間組が請け負うことに決まった。 工事は2010年までで、約3年の工事期間というのは少し長いようだが、これには農地転用の規制が厳しくなる前に着工しておかなければならないという手続き上の都合や政治的な 判断もあるのだろうか。 実際、昨年1月にJA厚生連から提出された「財政支援要請」の資料では、工事期間は「平成21年度〜22年度」(2009〜10)となっていたのが、今年4月の「新病院建設基 本構想」で工事期間が「19年度〜22年度」と大幅に長く設定されていて、「なぜ?」と思ったものだ。 ********** 起工式とはわかりやすく言えば「地鎮祭」のことで、神道形式で行われる。 昔は公共工事の地鎮祭も、「施主」である行政が主催してすべて神道形式で行われるのがあたりまえだった。 しかし行政の行事を特定の宗教である神道形式で行うことは、政教分離の原則に反するという問題が指摘され、「憲法違反」の抗議や指摘もあって、いつか地鎮祭は「起工式」と名を 変え、行政主催でなく、請負業者主催で実施するようになった。 行政でなく民間業者主催で公費は使っていないのだから「形式は自由」ということで、神道形式はそのまま引き継がれている。 「起工式」だったら別に神道でなくても仏式でも、あるいは結婚式のようにキリスト教式でも無宗教でもかまわないようなものだが、どうしても神道形式になるのは建設業界の伝統だ ろうか、職人さんたちのこだわりだろうか、単なる伝統や前例踏襲主義だろうか。 この日の「新病院起工式」は、JA厚生連という民間主催だから、堂々と、正式な神道形式の地鎮祭(じちんさい・とこしずめのまつり)として行われた。 正面は青竹を立て注連縄で囲い、斎主は御嶽教神官、八脚台の中央に神籬の祭壇、米、塩、水、山の物、里のもの、海の物の供物など、豪勢な祭場、 儀式は、修祓、降神、献饌、祝詞奏上、四方祓 鍬入れは、刈初の鎌が設計会社の代表2人、鍬入の鍬がJA厚生連代表と市長ら3人、穿初の鋤が工事請負会社の代表2人 玉串奉奠は、JA厚生連、市長、市議会議長、県議、衆議院議員(代理)、市医師会会長、厚生連顧問、幸手病院院長、地権者代表、建設会社と設計会社代表ら全部で14人、 撤饌、昇神、神酒拝戴、と続いた。 正式な地鎮祭を見る機会はあまりないので、勉強にはなった。 式後には「直会」で豪華な飲み物、食べ物が並んだ。 主催者のあいさつ、来賓の祝辞や関係者のあいさつ、乾杯、歓談と続き、私はその辺で引き上げたのだが、いろいろな意味で、大組織JAならでは、「さすが」の地鎮祭であった。 2007年11月 7日 (水) 空きビル再生、福山市 5日から市議会建設文教委員会の視察研修で島根県出雲市、松江市と回った。 今日7日は広島県福山市。視察目的は市街地活性化の一環で、ある商店街を対象にした「賑わいの道づくり」事業である。 詳しい内容は、近い内にホームページで報告したい。 福山駅周辺の市街地を見て歩いた中に、そごうが撤退したビルを再生させたというのが私たちの関心を引いた。 久喜などと同様に、郊外型の大規模小売り店舗の進出に押されて5年前にそごうが撤退した。 その空きビルを市が26億円で買い取った。 市長の決断であり英断だったという。 土地は市に寄付された。 その後、市では7億円で改修し、テナントを集めて床を貸し、そのビルを再生させた。 テナント料は全部で1年間で3億円。それでも格安だという。 26億プラス7億円、合計で約33億の支出を、起債28億と国からの補助金でまかない、特別会計を作って10年で償還することになっている。 テナント収入は年3億円。 約10年で元を取れる計算になる。 結局、市は税金からの持ちだしなし、負担なしでビルの再生に成功したわけだ。 一部は公共施設も設置した。 トップに立つ人の政策判断のいかに大きいことか。 《9日、記事中の数字の一部を訂正しました。》 6日の夜の宿泊はJR福山駅南口のすぐ前のビジネスホテルで、駅北口の目の前に、福山城趾があった。 夕食後、城跡にのぼってみると、戦後に復元された天守閣がライトアップされていた。 2007年12月28日 (金) 合併と議員任期 先に、合併と同時に議員は辞職するのがあたりまえ、新市発足後に改めて市議会議員選挙をやるべきだと書いたら、合併までの各市町の実態や合併の経過をわかっている議員がしばら くの間は残っていた方がいいのではないかという、“居座りの論理”が聞こえてきた。 この論理はすでに破綻しているのだが、一応、反論しておこう。 第1に、合併前の各市町の首長はすべて合併と同時に失職して、新市の市長選挙が行われる。 だいたいの場合は合併前の市町の首長の誰かが立候補して当選するのが普通ではあるが、まったく別の新しい人が市長になることだってある。 つまり市長の場合、合併前の経過を知っているか否かは関係ない制度になっているのに、議員の方だけは合併前の経過を知っていた方がいいなんていうのは、居座りたい議員の勝手な 理屈でしかない。 “新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ”という教えがあるように、新しいまちには、新しい市長、新しい議員の方がいいかもしれないではないか。 第2に、合併後すぐに議員選挙をやっても、実際には全員が新しい議員には絶対にならないということだ。 新市の市議会議員選挙に立候補してくる人のほとんどは現職の議員だろう。 新人も立候補するとしても、圧倒的に現職議員が多いのであって、当選してくるのも現職議員がほとんどという構図は変わりようがない。 したがって新しい議会構成になっても、そのほとんどの人は合併前の経過を知っているはずである。 いや、新人議員にしたって、合併前のことを知らずにでていくる人ってそうはいないだろう。 むしろ合併前の市長や、合併の経過について関心を持っていて、問題意識を持っているからこそ立候補するのであって、新人議員たちの問題意識こそ大切かもしれないではないか。 合併したら、現職議員の居座りなんていう特例は使わずに、適正な定数で、速やかに新議会の選挙をやるのがよい。 新議会の定数をいくつにすべきかについての議論は大いにしてよい。 -------------------------------------- ちなみに、現在の1市3町の人口と議員数を記しておこう。 久喜市 73000人 22人 鷲宮町 34000人 14人 栗橋町 27000人 16人 菖蒲町 21000人 12人 1市3町の人口 15万5000人 現在の議員数合計 64人 幸手市 54000人 15人 2市3町の場合、人口 20万9000人 現在の議員数合計 79人 -------------------------------------- 仮に、1市3町合併の場合、人口15万5000人、議員定数を32とすると、単純に人口比例では、旧久喜市から選出されるのは15.1人、以下、鷲宮町7.0人、栗橋町5.6 人、菖蒲町4.3人となる。 2市3町の場合、人口20万9000人、議員定数36として、旧久喜市分12.6人、鷲宮町5.9人、栗橋町4.7人、菖蒲町3.6人、幸手市9.3人となる。 2007年12月26日 (水) 携帯電話乗り換え 12月24日の毎日新聞に、『携帯電話の「番号継続制」 乗り換えわずか4.2%』という記事が掲載された。 それによると、今年6月から11月までに携帯電話会社を乗り換えた人は利用者の4.2%に過ぎず、「検討したが乗り換えなかった」人は12.0%に上ることがわかったという。 携帯電話会社を変えても番号がそのまま継続できるという“携帯電話番号ポータビリティ”は、2006年10月24日から実施されたが、鳴り物入りで実施されたこの制度が、実際 にはほとんど使われていないということになる。 久喜市議会でも2003年9月の定例議会に、公明党が「携帯電話の利便性の向上と料金引き下げを求める意見書」を提出したことがあった。 この意見書は、「“番号ポータビリティ(持ち運び)制度”の導入と、そのために携帯電話会社に国が財政援助(税制上の支援措置)を行うように」政府に求めるもので、これによっ て「サービス向上とよりいっそうの競争促進」を図ることができると書かれていた。 しかし、私たちの考えはかなり違った。 携帯電話をどんどん買い換えるようにあおり、わざわざ使い捨てを助長するために、番号ポータビリティという“利便性”をエサとして使ったり、ましてや携帯電話会社を 税金で支援 する必要があるのか。 私たちはそんな必要はない、まったく社会的に意味のない事業だと考えて、この意見書に反対した。 久喜市議会では大地と共産党が反対したのだが、この意見書は「賛成多数」で可決され、政府に送付された。 当時、公明党は全国的にこの運動を繰り広げて、携帯買い換えが便利になる、多くの若者がこの制度の実現を待っている、公明党が若者の声を実現すると、宣伝に最大限利用したらし い。 ところが客観的な調査によって、この制度が効果を上げなかった、ほとんどムダな制度だったことがわかったわけだ。 国民が“便利になる”という宣伝に乗っかって、必要もないのに携帯電話をどんどん買い換えるというような行動には出なかった、ただむやみに市場の論理に踊らされることはなかっ たということになる。 そして、買い換え率が半年でわずか4.2%だったということは、ほとんど意味をなさない意見書だったということになる。 2007年12月21日 (金) 万歳三唱で合併推進だー! 12月20日に久喜市役所4階大会議室で、久喜市・菖蒲町・鷲宮町・栗橋町の1市3町の「合併熱烈推進派」の議員さんたち58人が集まって「意見交換会」が行われた。 久喜市議会では「合併推進協議会」に加わっている18名の議員が参加した。 久喜市議会では猪股、川辺議員は推進協議会のメンバーではないので不参加、また各市町の共産党の議員も不参加だったようだ。 新聞各紙の報道や参加した議員のレポートによると、各市長の首長の「来賓」あいさつ、議長のあいさつ、参加した全員の自己紹介、あいさつでは、「新市の面積82平方キロ、人口 15万人」という規模の拡大が最大限強調されたという。 その後、「1市3町議会の合併推進協議会などの議員全員が、合併実現に向けて全力をあげて推進していく」という決議を採択して閉会した。 なお最後は、何とダサイ恥ずかしいことに、全員による「万歳三唱」だったという。 これはもしかして「ガンバロー三唱」の代わりか、「エイエイオー」の鬨の声(ときのこえ)の代わりだったのだろうか。 これから4市町の60名の議員たちが雪崩を打って合併へ突き進むつもりか。 3年前のように世論を見極めることもせず、ひたすら前だけを見て進むとしたらちょっと怖い。 合併協議にあたっては、行政と議員の思いこみだけでなく、常に横を見たり後ろを振り返ったり、市民の声に気を配りながら、慎重かつ冷静な議論と政策合意を願いたいものだ。 2007年12月20日 (木) 合併失敗の分析 2004年9月19日、久喜市・幸手市・鷲宮町の2市1町合併に関する住民投票は、幸手市と鷲宮町で「合併賛成」が多数を占めたものの、久喜市で「反対」が多数となり、久喜市 の合併は否決されました。 久喜市の当日有権者数 57,907人、投票数 30,999(投票率 53.53%)、その内、賛成 13,747(44.85%)、反対 16,904(55.15%)その差は 約3200でした。 『桜宮市』の名前が悪かったってホント? なぜ「反対」が多数となったか。 当時も今も、合併賛成派の人たちは「名前が悪かったんだ」と言います。 実際、合併協議会の場で、委員さんたちが投票で新市の名称を決定したわけですが、幸手市と鷲宮町から選任された委員の多くは『桜宮市』に投票し、久喜市選出の委員さんたちの多 くは『みどり市』に投票したとされています。 幸手の桜、鷲宮町の『宮』と桜田の『桜』、幸手と鷲宮が強引に名前を引っ張っていって久喜のイメージをはずしたと言われました。 また、久喜市選出の委員の1人が『桜宮市』に投票したと言われており、その人は推進派の人たちから後々まで“合併をぶち壊しにした張本人”と非難されていました。 当時の合併推進派の人たちが、合併失敗の原因なり“戦犯”なりを見つけ出し、そこにすべての責任をかぶせたいと思う気持ちはわかります。 そして、多くの久喜市民が反対票を投じたのは、何よりも『桜宮市』という名前に反発したんだ、と言い張り、信じこみたい気持ちも理解できるような気はします。 しかし、彼らの「敗因分析」は間違っています。 第1に、当然のことながら彼らは「合併は正しい」という大前提に立っています。 第2に、合併協議において、市民の反発を招きそうな政策は、ことごとく明記することを避けました。 たとえばサービス低下や負担増につながりそうな政策、事業については、2市1町で異なった制度になっている場合、合併後も統一せず、当面はそのままの制度や料金、サービスを維 持するとしたわけです。 だから、“市民は合併の中身について文句はないはずだ。やっぱり反対の最大原因は『桜宮市』の名前以外にない”と言いたいようです。 しかし、市民は本当に『桜宮市』の名称だけにに反発して反対票を投じたのでしょうか。 本当は、名称問題は実は根本的な問題ではなく、たくさんある問題の一つであり、最後のダメオシ的な意味をもっただけでした。 ごまかしの新市建設計画への不信 それでは、もっと根本的な問題は何だったのでしょうか。 それはまず、「合併への不安」、合併によって、本当にまちの政治や私たちの生活がよくなるのか、市民サービスが低下しないのか、サービスはよくなるのかわからないという将来へ の不安だったのです。 市長をはじめ推進派の人たちはいっしょうけんめい、合併によって町も人もバラ色の未来を描いてみせましたが、その「新市建設計画」は、まったく説得力がありませんでした。 それどころか、都合のいい話ばかりが語られ、議員さんたちや地域の有力者たちから押し付けられれば押し付けられるほど、ますます“うさんくささ”が広がっていったのです。 それはなぜでしょうか。 たとえば、2市1町のサービスや制度、料金の違いなどを合併時に統一しないで、バラバラのままにしておく、ということは、将来どうなるかわからないということになります。 合併さえしてしまえば数年先にはサービスは低い方に合わせ、料金は高い方に合わせるのではないか、そう考える方が自然です。 市長や行政が、制度の一本化を急がずに、当面はウヤムヤ・あいまいにしておこう、どうするかは後で考えればいいという、市民に対するごまかし戦術は底を見透かされ、失敗したわ けです。 ここから、今度の合併を進める際の教訓を引き出すとすれば、それは、市民をごまかさないことです。 4市町の事業をきちんと検証し、制度やサービス、料金の違いについては、合併までに極力統一させて、市民に説明責任を果たすこと以外にありません。 議員の任期延長、居座りは許されない 3年前の合併協議でもう一つ、市民にうさんくささを印象づけてことがあります。 それは、議員の任期延長問題です。 市長も議員も、本来、合併と同時にその職を失います。 新市発足と同時に、選挙を行って、新しい市長、新しい議員を選ぶのが、本来あるべき姿です。 ところがすぐにはやめたくない議員たち、まだ選挙をやって間もない議員たち、任期がまだ1年以上残っている議員たちは、何とかして居座りをはかります。 3年前にも、本来ならば32名の定数ですぐに選挙をやるべき議員たちが、3市町の70名の現職議員全員が、合併後1年間、居座り続けることを決めてしまいました。 これは税金のムダな支出が1年間で2億円にものぼるというだけでなく、議員が自分たちの保身をはかるような人たちが進める合併は信用できない、という不信を生んだのです。 こうした素朴な、しかし根源的な行政不信、政治家不信、政治不信という“不信”の土壌の上に、『桜宮市』という、久喜市の歴史にも文化にもまったく無縁な、ただきれいなイメー ジだけの名称が押し付けられようとしました。 久喜市の歴史や文化、市民に根ざした政治のありよう、さまざまな先進的な政策に、それなりの誇りと自負を持ってきた市民が反発したのも当然だったと言えましょう。 新市の名称問題は、合併そのものに対する不信、疑問を抱いた市民が、決定的に「反対」票を投じる行動に出た、そのきっかけとなるものであり、あるいは決定的な反対行動に市民を 突き動かすダメオシだった、それ以上でもそれ以下でもありません。 新市の名称は、『久喜市』ならいいのか 今、合併推進派は名称問題を過大評価しているようです。 中には、「久喜市の名前で行くしかない」と言う人もいます。 しかし、そんな表面的な作為で、合併の中身はどうでもいいと考える、あるいは軽視すると考えるとしたら、またまた市民から合併の底を見透かされ、同じ失敗を繰り返すことになる でしょう。 3年前に、仮に『みどり市』だったら、市民は反対しなかっただろう、なんて考えているとしたら甘すぎます。 市民はもっと根本的なところで不信を抱いていたことを理解するべきです。 3年前の「失敗」から何を教訓として獲得し、今後に生かしていくのか、それは“何が何でも合併熱烈推進派”だけでなく、私たち、市民みんなにも問われている課題でもあります。 2007年12月18日 (火) 住民投票から逃げないで 12月4日の市議会一般質問で、「合併については最終的に住民投票で決定すべきであり、市長が住民投票を行うよう約束すべきだ」と、決断を求めた。 田中市長は答弁で、「やる」とも「やらない」とも言わず、「久喜市だけで決められない」と逃げた。 私は、田中市長であれば当然、以下のような答弁をするんじゃないかなあと期待したのだが…。 -------------------------------------------------- (田中市長は)、市長に最初に当選したときから、「市民の目線に立った市政」「市民の目の高さ」を掲げ、市民の意思を最も尊重してきた。 市長として自治基本条例の制定を率先して掲げ、実現した。その中に、市政の重要課題は住民投票を行うことを明記させた。 だから3年前に、住民投票をやると不利だという観測もあったが、正々堂々と住民投票を行うべきであると判断した。 結果的に市民の理解が得られず苦悩したが、それもまた民主主義の一つの結果であって、それをふまえて次へ進んできた。 今もこれからも、市政の最重要課題、なかんずく合併について、最終段階で住民投票を行い、市民のみなさんの判断を尊重するという政治姿勢に揺らぎはない。 ただし今度こそ市民のみなさんの理解を得られるために全力をつくしたい。 3年前の合併失敗の率直な反省に立って、今度の合併協議においては、市民の理解が得られるような政策合意を積み重ねて、多くの市民に賛成してもらえるような新市建設計画を作っ ていく覚悟である。 事前から十分に市民の意向調査も行い、一つ一つの政策協議においても市民の意思を確かめ、それを反映させながらていねいに進めていくことによって、大多数の市民に本当に期待し てもらえるような合併をめざしたい。 それをふまえて、今度こそ住民投票で、圧倒的な多数の市民の賛成で合併を決定してもらえるよう全力をつくす。 -------------------------------------------------- とまあ、田中市長が真っ正面から受けとめて、こんな答弁をしてくれないかなあと思ったのだが、今のところ、そこまでは思い切れてはいなかったようだ。 残念である。 2007年12月16日 (日) 合併でごみ行政は 12月12日に久喜市議会全員協議会が開かれました。 「全員協議会」とは、市議会で、市政の重要な課題や政策などについて、市長が議員に説明し、理解を求めたい時などに開かれます。 議会そのものではありませんから、議論をして何らかの結論を出す場ではありません。 説明そのものの意味や説明事項が不明である場合などには若干の質疑も出ますが、質問、答弁 という形で審査・審議することはありません。 久喜市議会ではこれまで、説明だけ受けて終了し、質疑などは、次の議会の場をとらえて行うのが通例となっています。 この日の全員協議会は、久喜市、菖蒲町、鷲宮町、栗橋町の1市3町合併の枠組みの決定について、経過を説明するために開かれました。 これから行政当局は2012(平成22)年3月の合併をめざして動き出すことになるわけです。 私たちは、議会の立場から、何のために合併するか、新市のまちづくりの理念、合併によってどのようなまちづくりを進めるのかなどについて、きちんと検証しながら、この合併が市 民にとって本当に必要なのかどうか、合併後のあるべき政策を見いだしていかなければなりません。 私が今、最も関心を持っているのは、久喜市がこれまで進めてきた先進的な政策の数々はどうなるのかということです。 その最も重要な政策課題として、環境行政としてのごみ処理行政があります。 久喜宮代衛生組合で進めてきたごみ処理行政は、環境に対する負荷をできるだけ少なくすることを基本に据えてきました。 それは、「できるだけ燃やさないごみ処理行政」であり、焼却においても「ダイオキシンなどの有害物質を限りなくゼロに近づける、可能な限り発生させない」ことであり、「台所資 源=生ごみ全量堆肥化」を進め、「できる限り地域内でごみ・資源の循環を進める、資源循環型社会を目指す」ごみ処理行政でした。 しかし、今回の合併によって、宮代町が春日部市との合併をめざし、久喜市が菖蒲町、鷲宮町、栗橋町を合併するとすれば、衛生組合は合併後しばらくは存続させることができたとし ても、近い将来において解散となることは必至です。 現在、1市3町内では、菖蒲町が単独の処理場で、鷲宮町と栗橋町で共同で処理しています。 菖蒲町、鷲宮・栗橋の焼却場があるのに、合併後まもなくの内に新市の新たなごみ処理場を建設するというのは非現実的です。 したがって合併後は、これらを鷲宮・栗橋のごみ焼却場に一本化するか、あるいは、鷲宮・栗橋の焼却場はそのまま残した上で、菖蒲町の処理場を拡張して久喜市と菖蒲町のごみを処 理するか、どちらかの方法をとることになるでしょう。 その時、これまで久喜宮代衛生組合で取り組んできた「できるだけ燃やさないごみ処理行政」「できる限り地域内での循環型ごみ処理行政」の基本政策は、大きな転換を迎えることに なります。 これまで久喜市民が取り組んできた「できるだけ燃やさないごみ処理行政」「資源循環型のごみ処理行政」を、新市のごみ処理行政の基本的立場として維持し存続させていかなければ なりません。 久喜市民の支持を得ている現在の「2分類・15種分別」を維持するのか、崩してしまうのか、これがカギになります。 このごみ分別は、環境にできる限り負荷を与えないために、私たちが最大限の努力で続けてきたものであり、合併してこれを崩してしまうとすれば、久喜市民のごみ処理の取り組みを 後退させることになるからです。 ごみ処理行政は地球環境を守る取り組みの一環なのですから、合併によって、久喜市の環境行政を後退させるのではなく、新市全体に広げていかなけりゃあならないと思います。 合併が、久喜市の先進的な政策を薄め、後退させてしまうのか、新市全体に広げることで拡大発展させていくのか、環境行政・ごみ処理行政が一つの試金石になると考えています。 2007年12月 1日 (土) 「消防車は来ない」? 11月26日に、久喜市ボランティア団体連絡協議会の研修会で、東京の「立川防災館」へ行ってきた。 ここは東京消防庁の施設で、“楽しみながら防災体験”がキャッチフレーズ。 実際に私たちも、消火器を使っての消火体験、起震機を使って震度7の体験などをやってみた。 本当の火災や地震の際にどれだけ実際に行動できるか、生かせるかはわからないが、やってみること、体験してみることが大事、ムダにはならないと思う。 インストラクターの説明を受けていて、『アッ』と思った。 「大地震で街のあちこちから火災が起こったとき、みなさんのお宅に消防車は来ませんよ」と言われて、『そうなんだ』と納得してしまったのだった。 考えてみればあたりまえのことである。 たとえば久喜市内のあちこちで同時に10件の火災が発生したとして、消防本部が全部の火災に対応して消火活動に出動することは不可能だ。 久喜消防署(本部)には、ポンプ車が2台、はしご車が1台、化学車が1台しかない。 東分署にはポンプ車が2台しかない。 鷲宮、菖蒲、栗橋、宮代など、久喜地区消防組合管内の消防署(分署)全部でも、ポンプ車が13台、はしご車と化学車は本部に1台しかないのである。 ちなみに、救急車も各消防署・分署合わせて全部で7台だけだ。 これで1市4町すべてに対応するのだ。 ましてや大地震による火災であれば、倒壊家屋などで、道路も通行できなくなるだろうから、消防車はまず来てくれないと覚悟するしかない。 いかにして火事を出さないか、火事が出たら住民の力で初期消火するかが大切であることは言うまでもない。 その前提として、私たちは、“大地震の火災の時に、消防車は来ない”ことを知っておかなければならない。 下の写真は消防救助機動部隊・ハイパーレスキューの見学、かっこいい隊員の方に説明してもらった。 チェックされないときちんとできないというのも困ったものではあるが。 2007年10月31日 (水) 手話通訳はじゃまか!? 10月に、久喜市のある公共施設の20周年記念の式典が開かれた。 私はその施設に関わるボランティア団体の一員として参加したのだったが、市長のあいさつ、議長や県議会議員と、型通りのあいさつが続く中、ふとおかしなことに気付いた。 手話通訳者は演壇の真ん中で話をしている人のすぐ脇に立って通訳するのが普通だ。 本来、聴覚障害者はたんに手話通訳者の手話だけを見ているわけではない。 しゃべっている人の姿、顔の表情、手振りなどと、手話通訳者の通訳とが、聴覚障害者の目にいっしょに入ってきてこそ、その場の雰囲気、どんなようすで話しているかが一体のものと して認識できるのだ。 ところがこの日、手話通訳者は、会場のいちばんすみの窓際、演壇から4mほども離れた場所、壇の下で手話をしていた。 何で!? あれでは、会場の聴覚障害者は、手話を見ていたらしゃべっている人が見えないし、しゃべっている人を見ていたら手話が見えないから何を言ってるのかわからない…。 第1部の式典が終わって、次の第2部の記念講演に入る前の休憩時間に、私は主催者の事務局職員に、手話通訳者の立つ場所が違うんじゃないかと文句を言いに行った。 その理由を聞いてみて、驚きあきれたものだ。 職員は、講師から、手話通訳をそばでやられると気が散るから離れた見えないところでやるように言われたので、と言う。 それで、手話通訳者には壇から降りてもらって、講師から見えないようにいちばんはじのいちばん奥の窓際でやってもらうことにしたのだと説明した。 ちょっと待て!? それは聴覚障害者のことも手話通訳のことも全く理解しない人のやることではないか。 私は職員に、「そんなばかな話があるものか! 本当にそう言ったんなら講師の方が間違ってる。手話通訳者は壇の上でやってもらうものだ」と言って自席に戻ってきた。 講師の先生の認識が恐ろしく間違っているのか、あるいは事務局職員との打合せの中で何か行き違いがあったのか。 そのわずかの休憩時間にこれ以上やりとりをしている時間はないから、後であらためて事実を確認し、問題にするしかないと思った。 ところがである。 その直後、急に事務局の職員や役職者の何人かが会場に入ってきて、その場で手話通訳者の位置を相談し始めた。 「壇の上へ」「いやそこでは講師の目に入ってしまう」「いいからもっと前へ出てもらって」… 私や、近くに座っていた他のボランティアの方もその話に割って入って、「もっと前、前」「「もっと真ん中へ寄っていいだろ」と侃々諤々の一騒動。 結局、壇の上にのぼってもらうことになったが、講師先生のしゃべる場所からは2mほど離れ、こころもち後ろに立つということで、その場は一応落ち着いた。 さらに、1人の聴覚障害者が、私達の後ろに座っていてちょっと手話が見えにくかったようなので、いちばん前列の人と席を交代してもらったところで、すぐに第2部が始まった。 --------------------------------------------- もし本当に講師の先生が、「手話通訳者がいると気が散るから見えないところでやるように」言ったのだとしたら、たとえ認識不足からだとしても、許されることではない。 それは障害者に対する明らかな差別である。 もし本心からそういう考え方で、改めていただけないとしたら、そういう認識の持ち主は、少なくとも我が久喜市の講師としてふさわしくない。事前にお断りするか、今からでもお帰り 願うべきではなかったか。 しかし今どき、名の知られた講師先生でそういう考え方の人がいるとは信じられないので、何か行き違いがあったかということも考えられないではない。 いずれの場合においても、障害者差別行為を行った責任を負うべきは主催者側にあることはいうまでもない。 手話通訳者はなるべく目立たない方がいいという判断を容認し、受け入れ、手話通訳者をじゃま扱いするがごとくにすみに立たせた責任は、主催者である久喜市事務局にあるからである 。 なお、市長は式典が終わるとさっさと帰ってしまったので、そのいきさつは知らない。 いのまた和雄のホームページへのリンク 2007年10月24日 (水) 米軍との一体が自衛隊の最高価値 テロ特措法による自衛隊の給油活動は、アメリカの戦争への自衛隊の協力、と言うより、アメリカ軍の元に組み込まれた日本自衛隊が、その言うがままに燃料を提供した、ということ は、米軍の下働き、傭兵と成り下がった(上がった?)自衛隊の姿を浮き彫りにした。 しかも燃料補給量を少なく報告し、それがすぐに「間違い」だとわかっていながらそのまま隠蔽し続けてきた。 市民団体のアメリカ公文書公開によってその「ウソ」が判明した後でもなお、「事務的ミス」として「ウソ」に「ウソ」を重ねてごまかそうとしている。 しかしそれは「事務的ミス」などでありえない。 隠蔽は、担当の一課長の判断でできることでなく、防衛庁内部の共通認識であったが、国会に事実を明らかにする必要はないという、暗黙か公然かの合意に立って、秘匿し続けてきた 。 それは自衛隊と防衛庁による組織的隠蔽工作がうまくいっていたということを意味する。 「軍隊内部のこと」「軍事行動の実態」は政府にも国会にも明らかにする必要はない、政府や国会のコントロールを受ける必要もないという、軍隊としての本性を、自衛隊も防衛庁も 持ち続けてきたことに他ならない。 それは戦前の軍部が、「天皇の統帥権の絶対」を振りかざし、結果、政治を無視して暴走したこととまったく同質の行動ではないか。 現代において天皇の統帥権に変わるものは、自衛隊が米軍と一体であるということだ。 自衛隊にとって、米軍への奉仕協力こそが日本の政治よりも優先されなければならない、政治などには縛られない、何よりも優先されるべき価値である。 かつての皇軍は、今や米軍の別働部隊として、日本国民の税金を使って米軍の作戦行動に下働きとして参加しているのだ。 いのまた和雄のホームページへのリンク 2007年10月20日 (土) 学校のホームページ 19日の決算委員会で、春山議員が市内小中学校のホームページのあり方について質問していた。 昨年の10月に学校ホームページの作成についての研修会があって、その後、全部の学校でホームページが開設された。しかし、学校によって、そのレベルに大きな違い・差がある。 そこで、各学校のHPをのぞいてみた。 学校の取り組み体制なのか、担当の先生の力量の差?なのか、いちばんの問題は、各学校において、なぜホームページなのかという問題意識、学校のホームページ開設に対する認識という か理解の問題のような気がするのだが、どうだろう。 ホームページの作成は担当の先生が1人で作っているのか、分担していないのだろうか。一部でも子どもたちに作ってもらうというのはできないだろうか。 各学校のホームページ、実際に見てもらうといいだろう。 久喜小学校 10月の学校だよりや行事予定も11月までしっかり掲載されていて、きちんと学校として取り組んでいると感じた。 太田小学校 19年度の学校方針やスクールプラン、大まかな年間行事予定までは載っている。ということは、年度初めに更新されたのだと思われるが、その後、19年度に入ってから の記事が載っていないのは…。校長のあいさつは、昨年のままか? 各ページから「TOP」へのリンクが全部切れているのはどうしてだろう。 江面第一小学校 頻繁に更新されているようで、最終更新が10月1日としっかり明記されている。月ごとの行事予定や、学校だよりも最新のものが掲載されていて、担当の先生の「知 らせたい」「見てほしい」という思いが伝わってくる。ただ、行事の写真がほとんど加工されていないようで、重いこと、重いこと。 江面第二小学校 10月に更新されたようで、学校だより(10月1日発行)、行事の写真なども新しいものが掲載されている。行事予定表が9月までしかないことや、ところどころリ ンク切れがあるのは、まあ仕方がないか…。 清久小学校 各学年のページやお知らせのページでは、4月から9月までの教育活動や子どもたちのようすが写真で掲載されている。ひんぱんに更新されているようだし、担当の先生も 楽しみながら(?)作っている、他の先生方の協力ぶりも伺われる。 本町小学校 1学期の行事のようすが写真で掲載されている。2学期の行事予定一覧表までは更新したようだが…。「あなたは 番目の訪問者です」の数字が空白になっているのは? 青葉小学校 このホームページはどうやって作ったんだろう。もしかして、全部別のパンフレットか何かのPDFか? 行事予定も平成18年度のままだから、最初に作ったきり更新し ていないのかな。 青毛小学校 10月2日に更新したと記されていて、トップページの行事予定は10月まで掲載されている。あと、校長あいさつ(今年4月に新任)と「学校だより」は10月号まで更 新しているけれど、他は2月が最後かな? 東小学校 学校だよりは10月号まで、トップページの「ニュース」は9月まで更新されている。別ページの「活動のようす」は3月の6年生を送る会で最後のようだ。 北小学校 1学期、2学期の活動計画一覧表(19年度)は掲載されているが、更新は今年5月が最終となっている。 久喜中学校 学校だよりは9月まで掲載されている。「久喜中の四季」の写真集がPDFファイルって、やたら重いし、どういうこと? 「活動風景」の写真はいったいいつのものだか( 今年のか去年のか)さっぱりわからないし、部活動のページはカラッポだし…。 南中学校 行事や部活動、カレンダーなど、工事中だったりカラッポだったり。新校舎建築のページで建設工事の経過を写真で追うつもりだったらしいが、基礎工事のところで止まって しまった。新校舎はもう完成して引っ越しもとっくに終わり、生徒たちが使っているわけで、当初の企画はよかったが残念…。 東中学校 最終更新日は19年8月22日とある。ページごとの構成が整理されていないけれど、新しい記事も一生懸命にアップしているようすが見て取れる。「現在、19年度のホー ムページを再構成中」と書いてある。 太東中学校 最終更新日は10月15日とある。せっかくの行事や部活動の写真に日付が入ってないので、いつものだかわからないのが残念。あちこちに「後日更新します」「もうすぐ 更新します」と書いてあるのだが…。学校だよりは最初から全部アップに失敗しているらしい。 各ホームページに関する記事で間違いがあったら指摘してくだされば幸いです。 2007年10月19日 (金) 議会の日程調整 18日、朝8時20分から久喜宮代衛生組合議会の議会運営委員会が開かれた。 衛生組合議会議員は久喜市と宮代町から7人ずつ、議会運営委員会はその中から3人ずつが選任されている。 したがって会議日程を調整するのもけっこう大変で、8時20分という中途半端な早い時間に開いたのも、他にみんなが都合のよい日がとれなかったせいだ。 たとえば久喜市議会では、今週15、16日と12名が全国市議会議長会のフォーラムに議運メンバーの内の2人が参加していたし、17日と19日は決算特別委員会、18日も行政関 係の会議があったりして、実際、その合間を縫っての議会運営委員会だった。 一部から、8時20分じゃ早すぎる、という苦情も出たが、8時20分開会なら会議を効率的に早く終わらせて、久喜市役所や宮代町役場に9時までには到着できるというわけだ。 また議運では、毎年1月に1泊2日で実施している衛生組合議会の視察研修の日程も問題になった。 事務局からは、行く先は栃木県大田原市にある広域のクリーンセンターと福島県田村市にある環境センターの焼却施設の2か所で、日程は1月中旬から下旬にかけて2案が出された。 しかし、宮代町が2月に町議会議員選挙があるので、あまり迫ってくると参加者が少なくなるのではないか、泊まりじゃ行けないから日帰りで1か所だけにしてはどうかとか、他のいろ んな予定なども重なって、どうしてもまとまらない。 もちろん日帰りで行って効率的に視察できればその方がいいのだが、選挙前だから参加者が減るかもしれないというのはちょっと疑問だ。選挙準備で忙しくても、議員として任期中の「 公務」はきちんと果たす責任があるのではないか。 結局、23日に議会本会議で全員が集まるので、改めて協議することになっている。 2007年10月17日 (水) 2つの全国研究集会 10月15、16日と、熊本市内で開かれた、「全国市議会議長会研究フォーラム」に参加してきた。 毎年、全国市長会の主催で「全国都市問題会議」というのが開かれていて、以前は久喜市議会でもこちらに半分以上の議員が参加していた。 今年は先週(11、12日)、静岡市で開かれた。 今年の都市問題会議のテーマは「分権時代の都市とひとーー地域力・市民力」で、主にまちづくりの基本理念や都市政策を政策を継続的なテーマにしていて、久喜市議会からは、公明 党、改進など6名が参加したと聞いている。 これに対して、議長会主催のフォーラムは昨年から開かれるようになった。 テーマは、行政と議会とのかかわり方や、議会改革、議会運営のあり方についてなど、議会の実践的な取り組み報告や討議が中心におかれている。 議会のあり方を考えるとき、どうしてもこちらの方が切実かつ実戦的で、各地の議会運営にすぐに活かせる課題ということで、全国的にもこちらに参加する市議会が増えてきているよ うだ。 今年、久喜市議会からはこちらの方に大地と新政議員団の12名の議員が参加した。 第1日目は「分権時代の地方行財政改革」、最初は竹中平蔵元総務大臣の講演だったが、当然のことながら、小泉改革をさらに進め、地方の自己責任を強調し、改革の影である格差問 題についても、改革によるものではないと一生懸命に力説するなど、いまだに旧小泉内閣の閣僚で「改革」の先兵を担った立場からか、として、改革のセールスマンを買って出ているよ うであった。 第2部はパネルディスカッション「地方行財政改革のゆくえ」、コーディネーター・神野直彦(東大大学院教授)、林宜嗣(関西学院大学教授)、青山彰久(読売新聞編集委員)、笠 京子(明治大学大学院教授)、さらに地方議会を代表して熊本市議会議長が議会改革の経験を報告した。 2日目は議会改革の実践報告がテーマとなった。 予算や決算審議のあり方についての富山市議会、多摩市議会からの実戦的改革の報告、委員会運営の改革については函館市議会と久留米市議会からの報告、いずれも全国の議会が迫られ ている議会活性化、議会改革を取り組んでいく上で、たいへん教訓となる経験報告であったと思う。 もっと詳しくは、猪股のホームページ・視察報告へ 2007年10月 7日 (日) 財政分析の力 大地の5人で東京、国分寺市内で開かれている研修に来ている。 財政分析講座、6日と7日、泊まりこみの勉強会。 参加者は50名、福島や長野、新潟からも来ていて、びっくり。 地方議員が多いようだが、「自分のまちの財政白書」を作ってみよう、という市民の方々もいっしょに勉強している。 こんなにびっしりと勉強したのは久しぶり、参加者の熱気にも、講師の先生の熱意にも驚かされる。 昨日は午前1時に始まって夕食を挟んで夜9時近くまでみっちり講義を受けながら勉強し、今日は朝9時半から3時までの予定なので、まもなくホテルを出て会場へ向かう。 この財政分析講座は、それぞれの自治体の財政の資料・統計をもとにして自治体の財政の流れを見ていくというもの。 したがって事前準備もけっこう大変で、私たちもこれに参加するにあたって、久喜市の過去20年間の決算統計調査資料を揃えてきた。 分析表に数字を記入して、経年的に比較分析していくことによって、久喜市の財政運営の特徴や問題点、将来への課題が見えてくる。 今まで、財政分析とか、予算書、決算書についての議会質問は、単純な科目間の数字の比較や、せいぜい2〜3年間の決算の推移でやってきていたので、当局の財政課長とか、財政の専 門家たちのやりとりするときに、いつも自分たちの勉強不足を感じていたのは事実。 他の議員さんたちも、せいぜい、地方交付税の算定の基礎となる「基準財政需要額」の補正係数の仕組みの説明を求めるとか、執行部の財政担当者に教えてもらうという質問にならざる を得なくて、この面では議員と執行部の基本的な力の差が明らかになってしまっていた。 これからでも遅くない、継続して基本的な財政分析の力を身につけていきたいと思っている。 さあ、これからまた勉強だ。 2007年10月 5日 (金) 「問答無用の多数決」とは何か 久喜市議会活性化対策特別委員会の設置が決まった。 本会議の採決で、公明党と改進、無会派の議員さんたちが「反対」したのだが、なぜ反対なのか、いまだにわからない。 この春の市議会議員選挙、その前からの、会派間の対抗関係や人事での思惑のもろもろが尾を引いているものと思われる。 「議会活性化」の問題を、自分たちの会派の有利・不利という基準によって判断するのだろうか。 そうだとしたら久喜市議会にとっては不幸なことだ。 岸議員のホームページの「感想」もいただけない。 この人は、久喜市議会では、これまで活性化の取り組みが行われてきて、もう十分に検討され実行してきたので、久喜市議会ではもう活性化する項目はないといいたいらしい。 これはしかし、自分では、活性化の課題は思いつかないと言っているに過ぎない。 他の議員や会派が活性化についてどう考えているか、どのような課題を提案してくるか、謙虚に受けとめる姿勢を持ってほしい。 驚くべき誹謗中傷もある。 岸議員は、『「特別委員会」である以上、…「会議規則・委員会条例」が適用され、問答無用の多数決となる』と言う。 久喜市議会会議規則ならびに久喜市議会委員会条例は、久喜市議会におけるすべての会議に適用される、基本的なルールを定めたものである。 久喜市議会のすべての会議はこれにしたがって運営されている。 ところが活性化特別委員会が、この条例・規則に従って運用されると、「問答無用の多数決となる」という。 ということは、岸議員は、会議規則と委員会条例そのものを認めないという立場ということになる。 議会の運営を『問答無用の多数決』にしてしまうかどうかは、会議規則や委員会条例によるのではない。 全国どこの自治体議会でもほとんど同じ会議規則や委員会条例を使っている。 もちろん少しずつ違う点もあって、久喜市議会のそれは、より民主的な手続きを定めたものになっている。 「違い」は、これまでの議会運営ルールについての「先例」や話し合いの上に、活性化の中で改善してきたものもあって、そうした久喜市議会のルール自体が、全国的に先進的な位置 にある。 したがって久喜市議会の会議規則や委員会条例そのものが「問答無用の多数決」というのは誤りである。 しかし一方で、ルールとは別に、民主主義を標榜する限り、すべての会議運営は「多数決原理」と「少数意見の尊重」のバランスの上に成り立っている。 そのバランスを成り立たせるのは、多数派も少数派も、徹底した話し合いで相互理解を深め、合意形成をしようとするお互いの努力と自制心である。 その努力と自制心を忘れ、少数派が自らの努力を放棄し、多数派が数に頼って「少数意見の尊重」を忘れたときに、「問答無用の多数決」=数の横暴になる。 私達は(私は)これまで30年間の久喜市議会でほとんど、少数派に身を置いてきたが故に、多数派の数の横暴に抵抗してきた。 少数派としての意見を議会と市政に反映するための努力を続けてきた。 その結果が、今の久喜市議会だ。 それは、少数会派の権利と発言権を保障する、無会派であっても委員会に参加させる、代表者会議や議会運営委員会で極力多数決を排し、徹底した話し合いを追及するという、久喜市 議会の作風を作ってきた。 岸議員の言う「合意形成のためあらゆる努力をかけむけてきた久喜市議会の良き伝統」は、まさに、私達が努力し、作ってきたものであって、私はそのことを誇りに思っている。 過去、久喜市議会で、「数がすべてだ」という時代がずっと続いていた。 久喜市議会の活性化、議会改革の取り組みは少数意見の尊重のルールを確認し合うことから始まった。 多数派に安住していた人々によってではなく、多数派支配を脱し、過去の前例にとらわれない新しい議会のあり方を追及してきた、私たちの行動によってこそ生み出してきたのだ。 2007年9月29日 (土) 議員先生への「お礼」? 以前、市民の方(今度はCさんとしておく)から、市の行政に関する相談を受けて、とても驚いたことがある。 行政の対応の問題であったので、「とりあえず市の担当課に話を聞いてみます。後で、いっしょに説明してもらいに行きましょう」と返事をした。 「また後で電話します」と言ってその電話を切ろうとしたら、Bさんが、「先生へのお礼は、おいくらくらいお支払いすればいいでしょうか」と聞いてきた。 こっちはビックリ仰天。 今までに、市民から相談を受けて、お礼などもらったことはない。 それで、 「お礼なんていりません。そんなこと考えないでください」と強く言って電話を切った。 さて後日、市の担当者から説明してもらって、Bさんも納得いく解決を見ることができたのだが、その後また、Bさんは車から紙袋を持ちだしてきて、私に持たせようとしたのである。 さすがに私も少しカチンと来て、 「受け取らないと言ったでしょう。もしも送ってきても、また返しに来ますよ」と言って、そのまま帰ってきた。 市民は、「議員先生」に頼みごとをしたら、「お礼」をするのがあたりまえと思っているのだろうか。 他の「議員先生たち」は、こんな時、「お礼」を受け取ってしまう人がいるのだろうか。 もしかしたら、「献金」と名目を変えて受け取っったりする人がいるんだろうか。 Bさんのような方は一部の市民だろうと思う。 しかし、「議員に頼み事をして、解決したらお礼を支払うもの」というような考え方を持っている人が一部にでもいるとしたら、政治の腐敗の土壌を市民の側が支えていることにはなら ないか。 もちろん、そんなお礼を受け取る議員がもしも一部にでもいるとしたら、「議員はみんなお礼を受け取るもんだという常識」を市民の中に植え付けていることになるわけで、受け取る側 の方がもっと悪い。 2007年9月27日 (木) 死刑執行命令 9月25日、鳩山邦夫法務大臣が内閣総辞職後の記者会見で死刑執行について、次のように語ったという。 「判決確定後六カ月以内に法相が執行を命令しなくてはならないという法律は守られるべきだ。しかし、誰も死刑執行の署名をしたいとは思わず、法相に責任をおっかぶせる形ではない 方法がないかと思う」 「そのつど、法務大臣が署名をしなくても死刑執行できる方法を考えるべきだ」 「法相に責任をおっかぶせる形ではなく、ベルトコンベヤーと言ってはいけないが乱数表のような自動的に客観的に進む方法を考えてはどうか」 法相が死刑執行命令書にサインすることは刑事訴訟法で規定されている。 法務省が1人1人の死刑囚について、裁判記録を精査し、精神状態などを検討した上で、だれの死刑を執行するかを選択し、法相はそれをさらに確認した上で死刑執行命令を発する。 日本は死刑制度が存続している少数派の国家であるが、死刑そのものが国家による殺人である以上、それくらいの責任を最高責任者である法相が負うのは当然ではないか。 ベルトコンベア的に自動的に死刑台に送り込むシステムか、乱数表で順番を決めるということは、法相が責任を負うシステムをやめて、判決を下した裁判官が最終責任を負うべきだとい うことか。 いずれにしろ、自分で責任を負いたくないということだ。 しかし実は、法相が死刑執行にサインする制度をやめたとしても、法務省の中で、だれかが「○月×日に、○○××の死刑を執行せよ」という命令書を決済する仕組みをなくすわけには いかない。 法務省の中の責任ある地位の事務職員のだれかが、(たとえば乱数表で当たった死刑囚の)死刑執行命令書にサインすることになるのだ。 ましてや、死刑執行の現場に立ち会う刑務官、絞首刑台で首に縄をかける人がいて、その床の扉を開くボタンを押す人がいる。 執行後に死亡を確認する人がいて、首から縄をはずし、死刑囚の死体を死刑台から下ろす人がいる。 それら死刑を直接に執行する人々は、まさに、1人の死刑囚の死刑執行に責任を負わざるをえない。 少なくとも、死刑執行を自分の頭で、目で、手で、指で、実行しなければならない。 現在の制度さえ変えてしまえば、法相は死刑執行命令という責任を、自分の前から遠ざけることができるかもしれないが、国家の名による殺人である死刑を直接に実行する人はいるのだ 。 そうした直接に手を下す人の、その責任の重さに、鳩山邦夫は思いを及ぼすことはない。 何という、人間的想像力の欠如だろう。 死刑積極論者である鳩山邦夫は、在任中にどんどん執行命令書にサインするのだろう。 ベルトコンベア式に、判決確定後6か月を過ぎた死刑囚は、どんどん死刑台に送り込むだろう。 インターネットによると、1993年3月26日以降の死刑執行者数は57名、病死4名、自殺1名で、2007年8月23日現在の死刑確定囚は104名だという。 鳩山邦夫は、在任中にこれらの確定囚で未執行者104名をすべて、死刑台に送り込むのだろうか。 「ベルトコンベア」という、まるで死刑囚のことを物を処理するようにしゃべる鳩山は、死刑囚をやっぱり物を扱うような感覚で、「滞貨一掃」をはかるのだろうか。 今、私が高校生の時に見た、大島渚監督の「絞死刑」という映画を思い出している。 本棚の奥にその40年前のパンフレットが残っていて、写真はその一場面である。 2007年9月25日 (火) 市役所の郵便は黄色い紙 9月11日以降、市役所の保険年金課から新しい国民健康保険証が、市内1万2000世帯の加入者に対して送付された。 「配達記録郵便物」で発送されている。 私の家には9月19日に配達に来たらしいが、留守だったため、ポストに「郵便物お預かりのお知らせ」が入っていた。 「本日、久喜市役所様差出しの郵便物を配達にお伺いしましたが、ご不在のためお預かりしています。再度、ご希望により明日以降配達いたしますので、ご都合のよい日と時間帯をご連 絡ください。」とある。 郵便局に電話して再配達を依頼するか、この用紙に希望の日にちと時間を書いてポストに入れるか、または郵便局の窓口で受け取ることもできると書かれている。 私は再配達を依頼しようと、郵便局に電話して「明日の夜間(夜7時〜9時)」と頼んだのだが、驚いたことに、電話に出た職員の方は、「市役所からの郵便物は数が多いので、夜間の 配達はしないことになっている」と言う。 そんなばかな! この用紙にも「希望時間帯」として「午前9時頃〜12時頃」……「夜間(19時頃〜21時頃)」の欄が明記されているのに、なぜ夜間はダメだというのか。 市役所の郵便で大切なもので、この場合は国民健康保険証で、だからこそ「配達記録」扱いになっているのに、夜間の再配達はしないというのはどういうことか。 夕方19時までしか配達はしない、その時間帯に不在であるなら郵便局まで受け取りに来い、というわけだ。 そんな不親切な扱いがあるものか!? それで「おかしいじゃないですか」と少し強く「明日の夜間」配達を改めて要求したところ、係の職員は「ちょっとお待ちください」と、後ろの誰かと相談した後、「わかりました。明 日の夜間で配達します」と返事してきた。 さてさて、これもおかしな話で、私が強く要求したから「夜間配達」を特別に認めたのだろうか。 郵便局の話をまともに受けた人には夜間配達はしないで、後日の昼間か、郵便局まで取りに来させるというのだろうか。 郵政民営化の弊害で、サービス低下がこんな所にも現れているのだろうか。 また、電話口の職員は「それ、黄色い紙ですか」とも確認してきた。 市役所からの郵便物は「黄色い紙」で一目で区別できるようにしていて、他の郵便物と扱いも区別しているらしい。 翌日、市役所の庶務課に行って、「郵便局が本当にそのような扱いをしているのか確認してほしい」と話をした。 市役所の郵便物、この場合は国民健康保険証を夜間の再配達はしないとなると、多くの市民が迷惑を受けることになるからである。 国保年金課から郵便局の郵便課長に確認したところ、「そういう扱いもあったようだが、今後は夜間の再配達もする」という回答だったという。 何だかあいまいでおかしい、と思った。 改めて、私は25日の夕方、郵便局に電話してみた。 久喜郵便局郵便課長○○氏の説明はこうだ。 「郵便局の窓口職員に、最初、『当日の夜間の再配達はできない』と言たのを、職員が勘違いして、翌日以降もずっと夜間配達はしないとお客さまに言ってしまいました。これは間違い です。その後は夜間の再配達もすると返事するように徹底しました」と言う。 結局、郵便局の窓口職員の勘違いということで片付けられてしまったが、その「勘違い」によって迷惑を受けた市民がたくさんいるはずだ。 11日に配り始めてから私が問題にした20日までの間に、「夜間は再配達しません」と断られてしまった市民の受けた迷惑はどうなるのだろう。 母の外出 23日は秋分の日、お彼岸だった。 久しぶりに、長野に住んでいる弟が来て、 市内の高齢者介護施設(特別養護老人ホーム)入所している母といっしょに、父の墓参りに行った。 父は昨年亡くなって、墓は市内の上清久の寺にある。 施設から寺までは車で10分くらいで近いのだが、ほとんど寝たきりの母といっしょに行くとなると、そう簡単な話ではない。 この前行ったのは、お盆の時で、その前は春のお彼岸だった。今年、母が外出したのがその2回だけだ。 この前は社会福祉協議会で、車イスで乗れるワゴン車を借りて、私が運転して行ったが、やっぱり不安はある。 それで今度は市内の介護タクシーの事業者に依頼して送迎してもらった。 施設には前もって話しておいて、 午後2時前に母の外出の支度をととのえておいてもらって、迎えに行く。 介護タクシーの事業者の方は、手際よく母の車イスをワゴン車に載せて車に固定してくれた。 私と弟がワゴン車に同乗して、あまり揺れたりしないようにゆ〜っくり走って(それでもかなり揺れる)、約15分で寺に着いた。 墓の清掃、水を汲んで、花を生けて、線香をあげて、20分くらいか…。 雨が降ってきて、慌てて母の車イスに傘を差し掛けながら小走りで車に戻って、帰路も約15分。都合、1時間弱の外出だった。 出かけるまで、雨が降らないか、母の体調はどうか、心配したし、帰り着くまで、具合が悪くならないか、気も遣う。 しかし母は、1週間前から、墓参りに行くことを楽しみにしていて、 母なりにいっしょうけんめい、断固たる口調で「いっしょに行く」と自己主張をしていたから、出かけられて本当によかったと思う。 母にとっては1時間くらいも車イスに乗って、車に揺られてだいぶ疲れたようだが、ベッドに移してもらってから、不自由な口調で「よかった」と言っていた。 墓のまわりには、彼岸花が咲いていた。 2007年9月21日 (金) 防災無線と「騒音」 先日、ある市民(Aさんとしておく)が私の家を訪れて、お話しがあるという。 毎日夕方の5時ごろ、防災無線で音楽を流しているが、うるさいのでもっと音量を低くできないか、 そもそもあんな音楽を流すのは迷惑だ、 迷子などの捜索などもやっているが、役に立っているのか、 しかも同じ内容を繰り返し流しているのはうるさくてたまらない、 なぜ何度も繰り返し流す必要があるのか、 防災無線そのものがいらないのではないか、 という趣旨だった。 私は、 あの防災無線の放送が聞こえないという苦情もあること、 市では音量到達調査を行っていて、聞こえにくい地域には増設してきていること、 災害時、本当に必要なときに聞こえないと困ることもあるので、 防災無線そのものが必要ないとはいえないと思うこと、 夕方の音楽は、毎日、無線のテストとして流していること、 最初の頃は全部のスピーカーで同時に放送していたが、音が反響したり、ハウリングを起こしてしまうので、すこしずつ地域をずらしながら流すようにした。それで、どうしても同じ 内容を何度か聞くことになってしまうこと、 などを説明した。 私の家の玄関前で話している最中に、ちょうど5時の音楽が鳴り始めた。 Aさんは「ね、本当にうるさいでしょう!」と言う。 正直なところ、私には「うるさい」というほどでもないと思うのだが、 Aさんにとってはがまんできない苦痛な音量に感じているようだ。 音の感じ方は人によって違うし、何を、あるいはどの程度の音を「騒音」と感じるかも違う。 人それぞれの感覚を否定するわけにもいかないので、むずかしい。 ただ、Aさんと以下については認識が一致したと思う。 防災無線はできれば使われないことの方が望ましい。 使われなければならないような災害などの事態が起こらない方がいいわけだが、 「生命、安全」に関わること、たとえば、行方不明者の捜索の呼びかけなどで使う場合もある。 必要な場合に最低限の使用にとどめることが望ましい、 ということだ。 幸手市や鷲宮町では毎日夕方になると、 「子どもたちは気をつけて早くおうちに帰りましょう」みたいな放送を流している。 聞くたびに私は、「今どきの子どもたちは、今から塾や習い事に行くのに、早くおうちに帰りましょうもないもんだ」「夜10時ごろにコンビニの前で熟帰りの小学生たちがたむろし ているのを知らないのかな」と感じてしまう。 子どもたちの実態を無視して「道徳」や生活指導の押しつけをしても意味がないと思う。 あの放送こそ防災無線としては目的外の使い方だ。 久喜では防災無線を始めるときに、防災無線が「騒音」にならないよう議論をし、 防災無線の使用基準を定め、「目的外」の使い方をしないように規定している。 もう一つ、Aさんに申し上げたことは、 音の感じ方は人によって違うので、「騒音だ」と感じているAさん自身が直接、市の生活安全課に電話して、実情を見に来てもらった方がいい。 その上で、音量を調整してもらったらどうかということだ。 サッシの窓を閉めた家の中ではっきり聞こえるほどに大音量の必要はないわけで、 窓を開けたときに、内容が聞き取れればいいわけだ。 ただ、心配が一つある。 Aさんが生活安全課に電話して、職員が、「たった1人の市民の苦情だから関係ない」と放っておいたりしないかということだ。 1人の苦情でも、パブリックサーバントとして市役所がきちんと対応するよう期待したい。 2007年9月16日 (日) 「特定高齢者」ってだれのこと? 15日、私の参加しているボランティアグループで市の介護福祉課長に来てもらって、「介護保険」の出前講座を実施した。 介護保険もそうだが、障害者自立支援法など、国の制度改正がひんぱんで、しかも十分に検討したとは思えない内容で次々と「改正」され、その矛盾が噴出するたびにさらに「修正」 が重ねられてきているが、きわめてわかりにくい。 当事者にとっても市民にとっても、制度の全体像を理解するのが困難になっている。 介護保険で言えば、昨年の制度改正の大きな目的として、介護予防に重点を置くというのがあった。 要介護認定で、従来の「要介護1」「要支援」者を細分化して「要支援1」「要支援2」「要介護1」に振り分けたのもその一つだ。 認定で、「要介護2」と判定された方も増えてはいるが、逆に「要介護1」だった人が「要支援1、2」となって、より介護度が低く判定される人も多い。 行政は“実態にそって判定されている”と言うかもしれぬが、当事者や家族にとっては、必要な介護支援が受けられなくなって困ったという声を多く聞く。 また、「予防介護」の施策の「目玉」として、要支援や要介護となる以前の高齢者に対する介護予防事業がある。 基本健康診査や生活機能評価にもとづいて、高齢者の中の“ハイリスク者”に対して運動機能の向上や栄養改善指導などを行う事業である。 「要介護状態になる恐れの高い虚弱な状態にあると認められる65歳以上の高齢者」をハイリスク者とか特定高齢者というのだが、そのネーミングもいかにも露骨でなじみにくい。 18年度の約1年間で、100人余りを「特定高齢者」と認定し、介護予防事業への参加を呼びかけたが、実際に参加したのはわずか15人。現在でもやっと25人程度だという。 高齢者自身の側から考えるみたらどうだろう。 行政から、「あなたは特定高齢者(ハイリスク者)です」という通知をもらったら、本人はどう受けとめるだろう。 その通知をもらって、行政が指定する、《週1回・2時間・3か月間限定の運動機能向上プログラム》に参加しようという気持ちになるだろうか。 2007年9月12日 (水) 「理不尽な…」? 昨日、9月11日の記事といっしょに読んでください。 親の学校への「理不尽な要求や行動」についての、友人教師の話。 ------------------------------------------------------------------------- 親の身勝手な要求とか、わがままな要求とか、自分の子どものことだけを主張するとか、そんなの、昔からあった話で、何を今さらという感じ…。 だけど、担任の子どもの親から、そういう「わがまま」な要求がされたときにどう対応して、親にどう話して、どう理解してもらうかが、教師の能力なんだと思う。 それを「理不尽な要求」だって言ってはねつけるとか、教育委員会に連絡して弁護士を付けてもらうなんていうのは、結局、その教師の能力のなさを自分で証明するようなもんじゃない かな。 確かに話してもわかってくれない親っていうのはいるけど、だからって、弁護士に出てもらうっていうのは…。 そんなことをしたら、2度とその親とは話ができないし、他の親からも信用されなくなるよね。 ただ、自分1人で対応してこじれるよりは、校長先生や他の先生に立ち会ってもらっていっしょに話を聞いてもらうってこともある。校長とか教頭先生は責任逃れでいやがることもある けど。 でもね、学校現場にあるのは、親の理不尽な要求だけじゃないんだ。 校長先生の理不尽なごり押しや押しつけってのもあるし、先生の中にも子どもにあたるのもいるし、わがまま通して他の教師にしわ寄せする人もいる。 だいたい子どもにしてからが、理不尽さやわがままのかたまりみたいなもんで、その子どもたちを引きつけるのは、やっぱり教師の力量なんだ。 親の「理不尽な要求」がたくさんあふれかえっていて、学校がたいへんだみたいに言う議員さん、ちょっと新聞で聞きかじったくらいで親たちのことを「モンスターペアレンツ」なんて 決めつけてほしくない。 そうだ。理不尽な要求をする議員とか、理不尽な役人とかってのもいるでしょ。 2007年9月11日 (火) 「最近の若い親たち」はダメなのか 久喜市議会、6日の一般質問で、岸議員が「学校に対する親の理不尽な要求」の問題を取り上げた。 先頃、読売新聞に全国調査が掲載されて話題になったが、子どもの通う学校に親が「理不尽な要求・行動・抗議」をすることについてというものだ。 学校に限らず、行政に対しても市民がさまざまな要求や行動がある。 多くは正当な市民としての権利を主張し、あるいは提案するものであって、私たちはそれらを真摯に受け止めなければならない。 中には、行政の側からすれば「不当な要求」と思われるものがあるのも事実ではあろう。 しかし、何が「不当な要求」であるか、何が「理不尽な要求」であるか、その判断は現実にはかなりむずかしい。 なぜわざわざこんなことを書くか。 それは、日本では過去、「官」である行政の方が圧倒的に強い権力を持ってきたのであって、主権者である市民の要求を抑えつけてきた歴史があった。 私自身、かつて市民とともにいろいろな問題に取り組んできた中で、行政側から「とんでもない要求」「常識はずれ」「親のわがまま」などなどさまざまな非難の言葉を投げつけられ 、退けられたりもしてきた。 たとえば、障害児の地域の小学校への就学要求やデイケア施設入所の要求、東北自動車道の核燃料輸送の問題、小学校(学童保育所)の電磁波対策、……。 あるいはまた、不登校の子どもの問題や、学校側に対して「担任を変えてほしい」と要求し、行動していかざるをえなかった、親たちの切実な思いも知っている。 学校への不信感から地元の小学校への通学を「拒否」した親もいる。 直接行動やねばり強い話し合いで要求を実現したこともあるが、行政や学校の厚い壁に阻まれたこともあった。 それらの多くは、子どもの立場、親の立場からすれば「当然の要求」と思っても、行政や、これまでの社会の慣例や「常識」にとらわれている人々からすれば「親のわがまま」と決め つけられたりした。 そうした先入観や「常識」による決めつけで、行政や学校の絶対性を主張し、市民の「正当な要求」を退けることになってはなるまい。 もう一つ気になることは、「理不尽な要求だ」として親を非難する人々が、親への教育を主張し、「親学」の推進を教育委員会に求めたりすることだ。 岸議員も、教育委員会に対して、「親学」を推進するよう求めた。 「親学」は最近、政府、文科省レベルの審議会などでも、また国会議員たちの間からも強調されている。 しかし実は、昔から大人たちは自分よりも若い世代に対し、「今の子どもたちは…」「最近の若いヤツらは…」という決まり文句を使って非難してきたし、子どもや若者を非難すると きに「親の顔が見たい」という言い方も昔から繰り返されてきたのではなかったか。 つまりいつの世でも、年配者から見れば若者は批判の対象となってきたのであって、急に21世紀の若い親たちが「常識はずれ」になったわけではない。 いやそれ以上に、今の政治家や官僚たちから「親学」とかを言ってほしくない。 政治資金報告書の問題や消えた年金問題を引き起こし、あるいは陰で不正をはたらいている政治家や官僚たちに、「親学」を言う資格はない。 そういう人たちの考える「親学」を受けたくはない。 だから私は「親学」を断固拒否する。 2007年9月 8日 (土) 田中玲子さんのトーク・コンサート 今日、9月8日、総合文化会館で「平和と人権のつどい」が開かれた。 久喜市人間尊重・平和都市宣言を記念して、毎年8〜9月ごろに開かれていて、今年で19回目になる。 毎年、小中学生による人権作文の発表と講演、ライブコンサートなどの組み合わせで開催され、、昨年は確か、あの丸山弁護士の講演で、出演料がすごかった(?)らしいが、それでも 参加者が大変少なくて実行委員会のみなさんが苦労されていた。 今年、実行委員のみなさんは必死に知り合いに声をかけた。 私も、けっこう声をかけた。 で、お客さんは300人くらい、これまでで最高だったと思う。 今年のメインはトークコンサート、講師はソプラノ歌手の田中玲子さん。 秩父市出身。現在は志木市に住んでいて、心身障害者デイケア施設シンフォニーを拠点に活動している。 中学生の頃に網膜色素変性症で視野狭窄・視力が低下し、現在は明暗がわかる程度だという。 武蔵野音大を卒業後に結婚、現在は3人の子のお母さん。 高校から筑波大付属盲学校に入学して寮に入ったこと、医者からはっきりと失明を宣告され、それでも視力障害者として生きていくことを拒否し、点字を拒否していたこと、音大での授 業、富士山登山で現在の夫との出会い、夫の実家への初訪問、長男の出産、しかし「脳の障害は避けられない」と言われて3歳までの病院通い、…… 田中さんのこれまでの半生と、人との出会い、…… そして、歌は技術じゃなくて、心を伝えるんだ、と。 田中さんの3つのお願い 一つは放置自転車。 放置自転車にぶつかってケガすること、放置自転車の海の中で迷子になること、たびたび放置自転車を倒してしまうこと、その倒れかけた自転車に赤ちゃんが乗っていて、必死で子ども を抱き留めたこと。 二つめは、白杖をついて歩いていて、近くの子どもがお母さんに「あの人、なあに?」と聞いた時、たいていのお母さんは「シッ! そんなこと聞かないの!」と言ってさっさと向こうへ 行ってしまうこと。 「せっかく子どもが聞いてくれたんだから、ちゃんと教えてあげてほしい」と…。 三つめは、知的障害の男性のお母さんが、まちでその子のトイレ介助をしなければならない、女性用トイレに入ると「何?あの人!」と言われ、車イス用(多目的)トイレに入ると「何 でもない(ように見える)男の人がなぜ車イス用トイレに入るの?」「なぜ親子がいっしょにトイレに入るの?」と言われ、…。 見た目で判断しないでほしい、いろんな人がいるんだと言うことを認めてあげてほしい、いろんな個性を持った人がいることを知ってほしい、と……。 点字メニューの話もされていた。 デイケア施設シンフォニーで、作成しているという。 持ってきた実物は、ジョナサンのメニューにタックペーパー(点字シール)を貼り付けて作った点字メニュー。 視覚障害者だけで行ったときも、晴眼者といっしょに、あるいは親子で行ったときも、いっしょにメニューを見て、いっしょに楽しむことができる、と。 (久喜のぎんなんでも、市内のいくつかのお店のメニューを点訳したことがあります)。 田中さんは、いつか自分の病気が治ることを信じている。 病気が治って、自分の網膜が生き返って、また目が見えるようになったときに、見たいもの。 長男の書いた文字。 長女の描いた絵。 まだ見たことがない次男の顔。 *** 田中玲子さんが歌ってくれた歌は7曲 「千の風になって」 「ビリーブ」 「パパとあなたの影ぼうし」 これはNHK「みんなの歌」で流れた太田裕美の歌だそうだ。 失敗したことがない強いパパ、パパから期待され続ける男の子、しかしうまくいかなくて、逆上がりができないでいる男の子、ある日、人生で初めて失敗したパパに男の子は…。 「ありがとう ごめんなさい」 筋ジストロフィーの男性が作詞した、作曲はこんのひとみさん。 神様、生命を与えてくださり、ありがとう 神様、生命を大切にできなくて、ごめんなさい お母さん、生んでくれて、ありがとう お母さん、生まれてきて、ごめんなさい …… この歌の間中、会場からはすすり泣きの声が漏れていた。 「ひとりじゃないよ」 これは田中玲子さんが作った曲。 「旅立ちの日に」 秩父のある中学校の校長先生の作詞、音楽教師の作曲、だれでも聞いたことがあるはず。 アンコールは、 「今、今、今」 2007年9月 7日 (金) 台風の被害状況 たった今、市役所の市民経済部長から、台風9号の久喜市内の被害状況について連絡が入った。 それによると、降雨量が予想よりも少なかったため、住宅への浸水、道路冠水などの被害はなかった、倒木が5本、けやき通りなどでは道路をふさいだため、除去作業を行ったとのこと 。 農作物の被害状況は、現在調査中なので、まだ報告できないという。 まだ最終的な被害状況は把握できないが、思いの外、軽微な被害ですんだらしい。 2007年9月 6日 (木) 台風に備えて、明日の議会を中止 久喜市議会は6日、7日、10日に一般質問を行う予定だったが、7日の日程を取りやめ、来週の11日(火)に変更することになった。 理由は台風9号への備えである。 台風9号は今晩から明朝にかけて関東地方を直撃するおそれが強まっている。 過去、久喜市では台風や大雨でしばしば被害が出ている。 梨や米などの農作物の被害、道路冠水、住宅への浸水被害、倒木などで、そう大きな広範囲な被害はなかったが、今回も被害が出ないよう祈りたい。 市役所は午後から警戒態勢に入り、職員の1/2が市役所に詰め、市内の警戒巡回、被害発生への対応や不測の事態に備えることになっている。 もし万が一、何らかの被害が発生した場合、職員は明日の7日はその対応に追われていることになる可能性もある。 それで、職員が議会本会議に対応できないことも想定されるので、7日の本会議は全面中止とすることになった。 私の記憶する限り、災害対策で議会日程を前もって全面的に変更したのは初めてだと思う。 久喜市議会の「危機管理」の姿勢が問われることでもあり、当然の対応といえるだろう。 2007年9月 1日 (土) 1945年9月2日 【8月31日の記事の加筆】 私たち日本人にとって、常識的に、「戦争が終わった日」は8月15日である。 ただし、「終戦の日」という言い方はまるで他人事のような客観的な表現であって、「あの戦争」の性格をあいまいにさせる。 私は「敗戦の日」と呼ぶ方が、あの戦争とその日を性格づけるのにふさわしいと思っている。 それは、帝国主義日本が起こした無謀な戦争が、特に日本人とアジアの人々に対して巨大な被害をもたらした末に敗北した、日本人にとってある意味で記念すべき日だからである。 いずれにしろ8月15日が「戦争が終わった日」というのが日本人の常識だが、実は正確には国際法上はこれは間違いらしい。 日本は、8月14日にポツダム宣言を受諾する意志があることを連合国に通告し、8月15日にそのことを国内外に公表した。 つまり8月15日は、日本が「降伏します」と発表した日に過ぎない。 実際、8月15日、天皇の玉音放送の前後においても特攻機が出撃したり、アジア各地の戦場の一部では戦闘状態が続いていたのであって、「戦争の終わった日」ではなかったとも聞く 。 本当の「戦争が終わった日」は9月2日、東京湾上の戦艦ミズーリ号甲板において、米英中ソなど9か国との降伏文書に調印し、直ちに発効した日とするのが正しいという。 米大統領トルーマンは、この日、「9月2日を対日戦争勝利の日(VJ DAY)とする」と宣言している。 しかし日本にとっては、9月2日は、「戦争の終わった日」であると同時に、「帝国日本が降伏した日」であり、文字通りの「敗戦の日」であったことになる。 帝国日本の権力者たちが、この日を記憶から消し去りたいと考えたことは理解できるではないか。 それに対して、8月15日であれば、「天皇が戦争を終わらせた日」として、国民をごまかすことができたわけだ。 1945年9月2日、62年前の明日である。 この歴史の事実について、「日本人はなぜ終戦の日付をまちがえたのか」(著者・元駐チリ大使・色魔力夫氏)で明らかにされている。 2007年8月16日 (木) 2日続けて最高気温を体験 久喜市議会の大地の5人で岐阜県の多治見市へ視察に来ている。 先ほど、こちらの議会事務局長さんが、「本日、多治見市が日本最高気温を記録しました」と教えてくれた。 40.8℃だという。 昨日は館林が日本最高の40.2℃で、熊谷も39.何度だったか。 よりによって、その埼玉から、今日はまた最高の多治見に来るとは! その後、滋賀県に移動し、近江八幡のホテルに入って、ニュースで、最終的に多治見市と熊谷市の気温が「40.9℃まで上がって日本記録を更新した」と聞いた。 視察を教えて多治見駅に戻ってきたらテレビ局の中継車が何台も止まっていて、カメラが回っていた。 「最高気温を記録した多治見から実況します。暑いです」とでも言っていたのだろ う。 確かに暑い。本当に暑い。 もう「暑い」とも言いたくないし言ってもしょうがないのだが暑い。言わないでおれない暑さ。 日なたに出ると一瞬フラッとする。 また倒れる人が出なければいいが…。 2007年8月13日 (月) 「厳しい選挙です」だって… さっき県知事選挙の記事を送ったら、すぐ後に電話が来た。 「猪股先生ですか。こちらは上田清司選挙事務所ですが、今回の選挙はたいへん厳しいのでぜひご支援をお願いします」と言う。 「先生呼ばわり」されてカチンと来たこともあった。 相手が原稿通りにしゃべっているだけであるとは百も承知だが、私はつい、「厳しいなんてウソでしょう。共産党相手に負けるはずがないと思っているんでしょ」と返した。 相手は、「いえ、本当に厳しいんです」と言う。 上田が、本当に共産党単独の候補者に負けるほど厳しい選挙だとしたら、それこそ上田清司という政治家の本質を、県民が見抜いているということになるわけで、おもしろくなるのだが …。 やっぱり私は、吉川春子に入れることにしよう。 埼玉県知事選挙 埼玉県知事選挙が行われているが、街は静かで、宣伝カーも見かけない。 いっしょうけんめいに闘っている人たちには悪いが、結果はおそらく見えていて、共産党としては党勢拡大と反上田という姿勢を示すための闘いという、選挙の性格によるだろう。 上田知事は4年間の信任選挙と位置づけているらしいが、それもピント外れの悪い冗談だ。 実質的な与野党相乗り対共産党では選択肢がないし、それで当選して県民の信任を得たなどと 言ったりしたら、有権者から笑われるだけだ。 上田知事は「埼玉から日本を変える」と言う。 石原ヒトラーの「東京から日本を変える」と同じだし、「従軍慰安婦はいない」と言い放った上田に投票したくはないし、どうしよう。 共産党に入れたくはないが、上田への批判票で吉川さんに入れるかなあ。 2007年8月11日 (土) 米軍兵士に銃を向けられた 9日、那覇への帰路に嘉手納基地を見た。 沖縄はそこら中が基地、基地、基地だから、改めて「基地を見た」もないものだが、道沿いに続くフェンスの向こう側、東洋一と言われる嘉手納基地を、じっくりと見て実感してみたか った。 嘉手納飛行場の北側、県道に車を停めて、延々と続くフェンスに寄って眺めていたのだが、向こう側に延びる滑走路は静かで、飛行機の離着陸もなかった。 基地の中をフェンスに沿っている道路を乗用車が走ってきて、急に目の前で停まった。 迷彩服の米軍兵士が降りてきてこちらへ駆け寄ってくる。 何かを大声で叫びながら、自動小銃をこちらへ向けて片手を大きく振り回している。どうやら「向こうへ行け」と言っているらしい。 私は『単なる脅しで、まさか本当に引き金を引くことはあるまい』と思ったが、いっしょに見ていた息子は本気で怯えて、車の方へ駆け戻っていって隠れた。 ここは日本で、フェンスの外側から基地風景の写真を撮っていただけで、銃で追い払われるのか。 銃口は私の方を向いていた。これが沖縄か。 2007年8月 6日 (月) 沖縄南部戦跡を歩く 昨日から夏休みで、沖縄に来ている。 1日目、南部戦跡のいくつかを訪ねた。 もともとのひめゆりの塔はそれ自体は驚くほどに小さい。 深い洞窟が暗い口をあけた上に立てられていて、ここは陸軍野戦病院第3外科壕であったところだ。 しかし、ひめゆりの少女たちの多くは、この壕を追い出されて戦場を逃げまどいさまよった果てに殺されていったのだ。 ひめゆりの塔の南、国道から少し入ったところ、米須海岸の上に、魂魄の塔がある。 多くの慰霊碑、慰霊塔と違って、大きな土まんじゅう方の塚の上に、「魂魄」と刻まれた小さな石が 乗っているだけの素朴なものである。 この塔はもともと、兵士も住民も、米軍兵士も区別なく、戦場にさらされ散乱していた骨を集めて埋めた、いわば納骨堂であり墓でもあったという。 実は、この近くには「埼玉の塔」を始め、日本全国各都道府県の「塔」が立てられているのだが、それらは本土からの出征兵士たちの戦死者を悼む、いわば「記念碑」「祈念碑」であっ て、「墓」ではない。むしろ、「忠魂碑」のようにさえ見えてきてしまう。 住民も日本軍兵士も、米軍兵士の別さえなく死者の骨を集め積みあげた「魂魄の塔」にこそ、沖縄の戦後の原点があると思う。 そしてそれはさらに、摩文仁の丘の「平和の礎」…沖縄住民の犠牲者と、韓国・朝鮮人らすべての外国人犠牲者、日本軍、米軍の戦死者、沖縄におけるすべての戦争犠牲者の氏名を刻ん でその死を同等に意味づけるという思想につながっているのではないか。 2007年8月 4日 (土) 参院選当選者たちの憲法「九条」意識 8月2日の埼玉新聞に、参院選当選者の「憲法改正」に対するアンケート調査結果が掲載された。これは共同通信社が公示前に全候補者にアンケートを行った、その結果から、今回の選 挙で当選した参議院議員の憲法に対する意識・態度を集計したものである。 それによると、@「何らかの改憲」に賛成は64.6%にのぼったが、Aその内、「九条以外の改正」に賛成が34.5%を占めた。Bつまり、「九条改正」だけに限ると「賛成」は3 0.1%だけしかいないことになる。 C「九条改正」については「反対」が55.7%、Dその内、「九条以外の改正」であれば34.5%が賛成しているという。 ここからどういう推論が成り立つか。 「九条改正に賛成」が30%しかいないということは、民主党の全部かほとんどの議員、公明党の全部かほとんどの議員が「九条改正に反対」の回答をしたということになる。 それだけでない。自民党の議員も全員が「九条改正に賛成」と答えたわけでないわけだ。 そして、今回当選した議員たちの任期はこれから6年間であるから、少なくとも、この議員たちの任期中は、「九条改正」の発議はできないことになる。 なぜなら、今回の当選者たちの中で、「九条改正に賛成」は34人、「九条改正に反対」は63人である。非改選の議員と合わせて、「九条改正に反対」の議員が参議院242人の3分 の1、つまり80名を超えることは明らかだ。逆に、「九条改正賛成」派が3分の2の160名を超えることはないという計算になる。 問題は、今回の当選者たちが、今後6年間、この回答に示した姿勢を保ち続けるかどうかではあるが。 2007年7月23日 (月) 政見放送の手話通訳 参議院選挙の候補者の政見放送が放映されている。 私は埼玉選挙区では民主党の行田さん、共産党の綾部さん、自民党の古川さんを見た。民主党の山根さんと、社民党、公明党のはまだ見ていない。 また東京選挙区は候補者数が多すぎるし、なかなか見たい候補者の時間にあたらなくて、今までに主要な候補者の中では、川田龍平さんと民主党の大河原さん、自民党の保坂さん、黒 川さんしか見ていない。 比例区の政党の政見放送は、民主党、新党日本、国民新党、自民党、9条ネットなどを見た。 さて、ふと気付いたのだが、政党の政見放送はだいたい手話通訳者が付いているのがあたりまえになっている。 しかし選挙区候補者の政見放送に手話通訳者が付いていないのは、いったいどうしてか。 私が応援している東京選挙区の川田龍平さんは、話の最後に自分で「私は川田龍平です。よろしくお願いします。がんばります。ともにがんばりましょう」という手話をやっていたの を見て、『さすが川田さん』と思いながら、しかしその一方で、どうして全部を手話通訳者を頼まなかったんだろう、と素朴な疑問を持ったものだ。 そういえば他の候補者の政見放送にも手話通訳者は付いていなかったような気がする。 ところが調べてみたら、選挙区候補者の政見放送に、手話通訳者を付けることはできないのだという。なぜか。 手話通訳者を付ける候補者と付けない候補者がいては不公平だからということらしい。 付けるか付けないかは、候補者のバリアフリーに対する考え方そのものを表すわけで、各候補者の姿勢の問題だろう。 不公平になるから全部、手話通訳者を付けさせない、というのはおかしい。いかにもお役所的、官僚的、お役人的な逆立ちした発想、というしかない。 2007年7月22日 (日) 議員の行動のわかりにくさって 4月の改選前まで「市民力21」という会派があったが、選挙で1人が引退し、代表の須藤議員が落選して4人になって、市民力21は解散した。 その後、どういう議論があったのかはわからないが、4人の内、岸、井上の2人だけで「改進」を結成、松村、鈴木(精)議員とは袂を分かった…ように見えたのだったが、実はそう ではなかった。 6月議会前にも、改進の2人と無会派の3人(松村、鈴木(精)、それに新政議員団から抜けてきた鈴木(松)議員)がいっしょに議会対策の勉強会をやっていて、他の会派の人は「 アレッ」という感じで見ていたのだが、今度は7月9〜11日の3日間、その5人がそろって岐阜県へ視察に行ったという。 鈴木(松)議員は後から無会派になったのだが、元・市民力の4人がいっしょの行動を取っているなら、なぜ市民力を解散し、わざわざその中の2人だけで新会派を作って、残りの2 人が無会派のままでいるのだろうか、よくわからない。 ましてや、改選直後には、松村、岸の2議員が新政議員団に入りたいといって断られたり、鈴木(精)議員が大地に入会を申し入れてきたりもした。 その際には「松村さんから大地に入るよう勧められた」と言っていたし、松村議員からも「鈴木(精)さんを大地に入れてやってほしい」と電話がかかってきてもいた。 当時、関係者の間では、不可解な言動の真意は何か、何をねらっているのかと噂にもなっていたのであるが、その後もずっと、改進と無会派の4人プラス鈴木(松)議員が、実質的に 統一会派として行動していながら、形式上は会派を分けたままにしているのはなぜなのか。どんな思惑があるのか。 さまざまな力関係の計算に立って行動したり、離合集散の裏側にひそむ、権謀術数、思惑と策謀…。市民感覚からかけ離れた、何だか怖い世界ではある。 ここら辺が、市民から、「わかりにくい」「市民に関係ないところで動いている」と、敬遠されるゆえんか。 2007年7月18日 (水) 地震から、耐震偽装問題の連想 16日、新潟中越沖地震。 3年前に続いて新潟を襲った大地震。 未だ復興途中で傷も癒えていないのに、ようやく普通の生活を取り戻したばかりの人々を襲った災害。 お年寄り、障害者らの「要援護者」「災害弱者」といわれる人々が、どのような状況におかれているか。 被災地で、雨がこれ以上降らないように、行方不明になっている人が早く見つかるように、被害がこれ以上広がらないことを祈りたい。 しかし私が、被害報道を見ていて、真っ先に連想してしまったのは、耐震偽装問題だった。 当時、関係者の間で、耐震偽装問題を公表する動きに対し、内部のどなたかが、「地震が来て壊れたことにすればいい」と発言したことが報道されていたことを思い出してしまったの だ。 まさか、耐震偽装による建物の強度不足が、今回の被害の拡大に関係してはいないのか。 さらに連想…。 姉歯、水落らの建築士らによる偽装、アパグループ…。 関係者からの「全棟検査をすべきだ」という要求に対し、サンプル調査だけで打ち切った。 当時の国交省事務次官は、今、自民党の比例代表候補になっているのだが、この人は全棟検査をしないでいいと決定を下した責任者ではなかったのか。 連想は、アパグループの代表が安倍首相の「安晋会」の副会長だったことにまで行き着く。 |