葉山の散歩道(4) 元町・森戸神社周辺。 11.06,28 1、元町 三ヶ浦を過ぎると元町である。昔も今もここは葉山の繁華街で、明治末年までは逗子よりも葉山 の方が人口が多かった。近隣の逗子が繁華街になったのは、明治22年に横須賀線逗子駅が出 来て以降の事で、それ以前は逗子は”いなか” 葉山は”まちば”であり、郵便物などは葉山に全 部を運び、逗子の分は逆送したという。また洒落た物を買うために逗子から葉山に買い物に来た のだという。因みに横須賀線とは、明治22年(1889)に海軍などの要請により、戸塚から横須賀 まで開設した線をいい、その後、東海道線の信号所だった大船が駅になり、始発駅になっている。 横須賀線にはじめて乗られたのは海軍を視察に横須賀を訪れた明治天皇だという。 2、堀内会館 元町の手前、三ヶ浦を左のわき道に入る。一転して静かな一等地になり古色蒼然、いわくありげ な高級住宅が軒を並べる。この一角に堀内会館がある。ここは堀内学校のあったところ。隣の公 園からは約1000年前の丸木舟が出土している。また周辺民家の庭からは弥生式土器が出土し ていて、ここから海岸にかけて弥生人が住み着いていたと想像される。 3、福沢諭吉別荘跡 すぐ近くに、慶応義塾の創始者福沢諭吉の別荘(現宇部興産葉山寮)と、日産コンツエルン総帥 の鮎川義介の別荘(現帝石海の家)が隣接している。桐島カレンの住んだ洋館もこの近くにある。 4、相福寺 福沢諭吉別荘地の隣が相福寺。浄土宗。本尊;阿弥陀如来像。現本堂は、明治6年から30年 まで堀内学校校舎として児童教育の場だった。上山口の新善光寺とともに葉山における学校教 育発祥の地である。 5、西東三鬼終焉の地 昭和初期の俳句の鬼才、西東三鬼の終焉の地の石碑がある。「春を病み 松の根っこも 見飽 きたり」 森戸海岸の河口にも歌碑がある。「秋の暮れ 大魚の骨を 海が引く」 因みに大魚とは アンコウの事で、アンコウはクラゲを食べては命を落とし、骨が海岸に打ち寄せられるとの事だが、 真偽の程は判らない。また「潮が引く」ではスケールが小さいので「海が引く」にしたのだそうだが、 これも真偽は不明。 6、長徳寺 5分ほど歩くと長徳寺に着く。臨済宗。本尊;毘沙門天木像。本尊は玉眼寄木造。開祖;北条高 時。ここに昔森戸城があったのではないかといわれている。境内に庚申塔、道祖神、地蔵菩薩が ある。 7、堀口大學邸 よく利用するスーパーの近くに堀口大學邸がある。フランス文学者、詩人で文化勲章受章者の 堀口大學は昭和28年からこの地に住んだ。今は娘のすみれ子さん家族が住んでいる。名誉町民。 森戸神社に歌碑がある。「花は色、人は心」。 團伊玖磨とのコンビが多く、葉山町の町歌、葉山 小学校の校歌は、堀口大學作詞・團伊玖磨作曲という豪華コンビである。 8、山本権兵衛・後藤新平別荘跡 再び海岸道路に出る。森戸橋近くに明治の宰相山本権兵衛、東京市長の後藤新平の別荘跡地 がある。今は高層マンションになっていて面影は全くない。山本権兵衛は日露戦争時の海軍トップ。 山本五十六を連合艦隊司令官に抜擢した慧眼で知られる。後の首相。後藤新平は水沢市出身の 医者で政治家。後に内務大臣になり、大ほら吹きといわれたが、関東大震災後の世界に冠たる 大胆な東京復興計画の立案で知られた。東日本大震災の復興にあたり、平成の後藤新平ありや。 9、森戸神社 森戸橋を過ぎてすぐ右手に森戸神社がある。創建は治承4年(1180)、源頼朝が三島神社に 勧請して創建したと伝えられ、この地で最も格式の高い神社である。社殿は権現造り、屋根は流 れ造り、社殿裏には5株の柏槙(びゃくしん)があり、そのなかの飛柏槙と呼ばれるものは、三島 神社より種子が飛来して大木になったと伝えられている。社殿裏の小高い岩には1本の祀樹が あり千貫松と呼ばれる。境内には多数の顕彰碑・歌碑がある。高橋是清、川村景明、金子堅太 郎、入澤達吉、等の揮毫による貴重な石碑で、見飽きることがない。あまり知られていない石碑 は高橋是清の書で、「堪忍の 股からのぞけ 富士の山」がある。波乱万丈の生涯を送った是清 の心境をあれこれ詮索するのもひとつの愉しみ方である。 10、高橋是清、桂太郎等の明治の政治家達と皇族の別荘群 御用邸に向かって海岸道路をしばらく歩くと、真名瀬海岸が見える。ここの漁港は釣り宿が数件 あって我々釣り客は大いに利用している。筋向いに高橋是清の別荘跡がある。若くしてアメリカ で奴隷となり、後に日銀総裁を務め、日露戦争で多額の戦争公債を英米で発行することに成功し、 数度の首相・大蔵大臣を歴任し、2,26事件で射殺されるという数奇な生涯を送った。 しばらくして三ヶ下海岸に出る。この海岸は夕陽の落ちる相模湾と富士山を見る絶景ポイント である。左手に桂太郎と小村寿太郎の別荘跡がある。日露戦争終結のポーツマス条約締結時 のニコポン首相と外相が、共に葉山に隣り合って別荘を持っていたのは多分偶然ではなかろう。 またしばらく歩くと左手に北白川宮別邸があり、、右手に旧有栖川宮、のち高松宮の別邸(現葉 山近代美術館)、その向かい側が、旧秩父宮邸(現富士フィルムの寮)である。 11、石芋井 富士フィルムの寮(旧秩父宮邸)の裏手に石芋井と呼ばれる井戸がある。昔、身なりのみすぼ らしい旅僧(弘法大師か日蓮上人)が通りかかり、この井戸で芋を洗っていた女に芋を請うたが 女はすげなく断った。女は家に帰りその芋を煮たが、いくら煮ても堅くて食べられない。女はこの 芋を井戸の付近に捨てた。やがて芽が出て芋が出来たが、みな煮ても石のように硬くて食べら れなかった。以来この井戸は石芋井と呼ばれるようになったという。 ・・・続く・・・ |