葉山の散歩道(3) 清浄寺・三ヶ浦周辺。      11,06,28

   今、鐙摺から海岸通りを繁華街の元町方向に歩いている。話は逸れるが逗子駅から葉山の御用
  邸までの行幸道路、即ち134号線は昭和5年(1932)に出来て便利になったが、それまでの葉山へ
  の道は田越橋から右折する海岸道路しかなかった。葉山は屈折した海岸道とせり出した山道の難
  所を通るしかない辺鄙な漁村だったが、明治27年、温暖で風光明媚な土地柄に注目したベルツ医
  学博士の進言で、病弱であられた皇太子(後の大正天皇)の転地療法を目的に御用邸が完成して
  以来、葉山は別荘地として次第に脚光を浴びた。海岸道路を元町から真名瀬、御用邸と進む絶景
  の道路沿いには皇族、政治家、財界人、官僚、文人などの別荘が随所に現れる。別荘地となった
  大正初めの葉山の別荘数は90戸程度あったと見られている。順を追って紹介することになろう。

  1、清浄寺
   道路沿いの左手に清浄寺がある。浄土宗鎮西派。本尊;阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩。阿
  弥陀如来は左の片足を少し前に出したユニークな仏像で、お祈りする人達万人を暖かく迎える包
  容力が感じられる。まさに浄土宗的である。浄土宗鎮西派は徳川幕府に厚く庇護され、屋根瓦と
  本堂の棟には三つ葉葵の紋所を掲げることを許されている。寺の前は、海の彼方に富士山が見
  渡せる眺望のよいところで、大正天皇が皇太子時代に馬でよくお見えになり、裏山の松樹など風
  光を賞でられたという。

  2、七桶の碑
   寺の前から海に出てみる。防波堤に保護されている小さな島がある。七桶島という。その上に
  建っている小さな碑が七桶の碑である。その昔、ある欲張りな老婆が大蛸に命を取られたという
  民話が伝えられている。
   昔、欲の深い老婆が海に出ると、島に大きな蛸が寝そべっていて、急いでその足を1本切り取り
  家に持ち帰り桶一杯に入れた。翌日も次の日も足を1本ずつ切り取り7杯の桶に7本の足を入れた。
  最後の1本を切り取りに行くと、突然蛸が暴れだし、8本目の足に巻かれて海に引き込まれ殺され
  てしまったという。その老婆は1本も売ることも食べることも出来なかったから、この島を七桶島と
  名付けたという。

  3、七桶地蔵堂
   昔、漁師の網に掛かった石の地蔵尊を七桶寺で祀っていたが、明治の頃、一時期お祭りをしな
  い時期があった。ところがこの地に悪疫が流行り、水揚げした魚が売れず漁師は困り果てた。
  「七桶地蔵を拝めば悪疫は退散する。」といわれ、お堂を新しく造りお祭りをしたところ、悪霊は退
  散し難を逃れたという。大正6年の未曾有の台風によりお堂は勿論、防波堤の役目をしていたこ
  の島もほとんど崩壊した。大正13年(1924)、現在の脇町に七桶地蔵堂を再建した。地蔵堂は古
  い民家の家の中に安置されていて、ご近所の人達は今でも毎月23日にはお地蔵様の日として
  詣でている。普段は非公開になっている。

  4、別荘跡
   清浄寺を過ぎると、左手に大きなコンクリートの建物、アサヒビールの研修センターが見える。
  ここは三菱の大番頭、桐島像一の別荘跡地である。孫の作家桐島洋子はここで育ち、その子
  供のカレンは近くの洋館で幼少を過ごしている。七桶地蔵堂の前の家は、大正の大恐慌で破産
  消滅した川崎銀行の創始者、川崎正蔵の子孫の別荘で、今でも地元民は「海の川崎さん」「山
  の川崎さん」とふたつの別荘を親しげに呼んでいる。

  5、三ヶ浦 
   海辺を通るこの道路一帯は地元民が「さんがうら」とも「さんがら」と呼ぶ漁師町である。
  三ヶ浦は鎌倉時代から、北条氏にとって三浦一族を監視する重要な軍事的要衝であり、三浦
  半島西岸の喉元を抑える重要な戦略拠点であった。その昔は、渡し場・船着場があり、伊豆か
  ら江戸への魚の輸送基地として賑わった。昭和10〜17年までは魚市場があり、廻船問屋もあっ
  た。海流の関係で今でも鰹は東京湾では捕れない。江戸っ子が珍重した初鰹はここ相模湾で
  捕れ、金沢八景(六浦)から江戸に送られたという。
  

   ここは古くから堀内村内三ヶ浦といい堀内村の支配下にあった。幕末の頃、「岡方」の多い親
  村の堀内村から、「浜方」の三ヶ浦は独立すべく岡浜騒動が頻発している。
   そもそも海付き農村は、村内に岡方の農業部落とそれとは異質の浜方の漁業部落のふたつ
  で構成されている。浜方は岡方の従属化におかれ、浜百姓たる漁師は種々の経済的不利益や
  僭称を蒙り蔑視を受けていた。このような事情から浜方による岡方からの分村運動が全国的に
  展開された。三ヶ浦も例外ではなく明治の頃まで堀内村からの独立に固執して種々の画策をし
  たようだが結局分村の夢は果たせなかったという。
   農民による漁民の蔑視などは現在ではないものとは思うが、激しい分村運動の中心地だった
  三ヶ浦の今の漁民達はこの歴史をどう見ているのだろうか。いつか聞き出して見たいと思う。

  6、脇町の庚申塔
   三ヶ浦は歴史的に見て三浦半島西岸の「へそ」にあたる交通の要衝であった。この地に散在
  する庚申塔やお地蔵を1ヶ所に集めて「脇町の庚申塔」とよんでいるが、道路網の整備もあって
  庚申塔がどこにあったかは今では判然としない。脇町の庚申塔には「右うらが 左みさき」と書
  かれていて道標も兼ねていた。日本橋の道路原標と同様、この道標はて三浦半島西岸の道路
  原標というべきもので、当時、三崎奉行所と浦賀奉行所に通じる分岐点がここ堀内村三ヶ浦の
  浜辺にあったらしい。ここに庚申塔が立ち、街道の道しるべの役割をしていたようだ。ちなみに
  庚申塔には、造立が明和年(1772)と彫られている。三崎と浦賀に行く道路の分岐点がどこに
  あったかで地元研究者の意見が分かれているが、200年そこそこでそれだけ葉山の道路網が
  整備・変化している事を示している訳で、今の葉山の100年後の姿も誰が想像出来ようか。

                          ・・・続く・・・・