黒部 (1)。            09,06,12

   アルピニストの友人がいる。学生時代から山岳部に所属し、世界の著名な山々を
  踏破したS氏は、70歳を越えたいまでも日本の南・北アルプスを登って楽しんでいる。

   先日久し振りに一献傾けた時、たまたま飲んだ酒が「立山」だったので、立山連峰
  から黒部渓谷、黒四ダムの話などを熱っぽく語ってくれた。あいにく山には縁のなか
  った私は、ただ相槌を打つだけでほとんど彼の一方的なおしゃべりに終始した。私が
  わずかに話を合わせ得たのは、黒四ダムと黒三ダムにまつわる小説の話題になっ
  たときである。

   昭和31年の黒四ダム建設を描いた石原裕次郎の主演映画「黒部の太陽」は有名
  だが、この原作は木本正次著の「黒部の太陽」。昭和10年代、犠牲者300名を超える
  難工事の黒三ダム建設を息詰まる筆致で書いた小説が吉村昭の「高熱墜道」である。

   まだ見ぬ黒部であり立山だが、人跡未踏の秘境・黒部に挑んだ男達の果敢な挑戦
  ぶりは、この二つの小説を読むと、あたかも目前に黒部があるかのように息もつかせ
  ぬ迫力で読者に迫り魅了する。二つの小説に共通していえるのは、北アルプスの大
  自然に対する賛美や崇拝などは皆無で、人間の、自然に対する対峙を執拗に描き
  つくそうとする執念である。
   S氏と再会を約して別れた後、押されるように書架からこの二つの小説を引っ張り
  出して読み返したが、感慨を新たにしたので紹介しよう。

    「黒部の太陽」・・著者・木本正次。昭和39年出版。    
   昭和31年、関西電力の太田垣士郎社長は、日本の発展には発電能力の飛躍的
  増強が必要でそれには黒部の開発が不可欠、との信念から黒四ダムの建設を決
  意する。物語はここから始まり、昭和33年5月の関電トンネル貫通までの2年間に亘
  る男達の苦闘を描いた物語である。

   工事業者は関電のほか間組、鹿島建設、熊谷組、佐藤工業、大成建設の5社。
  建設工事の中で最も困難な工区が第三工区の信濃大町から北アルプスのど真ん
  中をぶち抜いて黒四ダムサイドに結ぶ「大町トンネル」の建設である。小説はここ
  に焦点を当てている。

   黒部川の電力史を紐解くと、
   第一期;大正時代から昭和のはじめにかけて柳河原発電所(黒一)の建設を中心
  とする黒部川電力の草創期。 第二期;黒二、黒三の建設で、これは満州事変〜日
  中戦争から太平洋戦争の前夜にかけての、強行建設時代。第三期;世紀の偉業と
  いわれる黒四建設から、引き続いて新黒三、新黒二の竣工にいたる黒部川電力の
  完成時代。となる。

   黒四建設、なかでも北アルプスを貫く「大町トンネル」工事は、大破砕帯との人知
  を尽くした戦いであった。大町トンネルの掘削工事は順調に進むが、やがて予期せ
  ぬ大破砕帯に遭遇する。破砕帯は切羽全体が軟弱花崗岩で、ぼろぼろに崩れた
  り湧水が噴流状に噴出してついには大規模な切羽の崩壊を招く。ダム完成までに
  171名の殉職者、1000万人の労働力、7年の歳月。このあまりにも壮大な人間の自
  然への挑戦を、臨月の新妻を抱えて帰宅できぬ若手社員の苦悩や、工事現場の
  責任者・芳賀と白血病の娘との父性愛、などをちりばめながら物語は感動的な終章
  に進んでいく。

    著書の一節を抜き取ってみよう。
   この信濃大町から北アルプスを貫いてダムサイドに至るトンネルだけが、人跡未
  踏といわれた秘境黒部の上流地帯に、直接に現代の「文明」を運び込むルートなの
  である。日本最大を誇る大アーチダムの、莫大な量のセメントや鉄材や骨材にして
  も、このトンネルが貫通してこそ始めて運び入れることが可能になる。逆に言うと、
  このトンネルが貫通しないでは、ダムも発電所も、どれひとつ建設できないし、「永久
  の廃坑」となるばかりである。それは単に、アルプスの山腹に、有史以来初めての
  トンネルをうがつという、歴史的な意義だけでなく、黒部の奥地と「文明」とを結ぶ黒
  四建設の一切の死活の鍵なのだ。

    黒部渓谷・黒部川を著者は次のように描写している。
   流路86キロ、その大半が西からは立山連峰に、東からは後立山連峰に迫られて、
  二つの屏風に挟まれた狭い空間のような、鋭い深いV字渓谷をなしている。上流で
  はその勾配は極めて激しく、四十分の一、つまり平均して四十メートルに一メートル
  を下る急傾斜である。ところによってはまるで滝のように、凶器のようにそれは泡立
  ち、歯をむいて、鋭い渓谷の岩角を蹴って、海へと走り下っている、まさに人跡未踏
  の秘境なのである。

   関電・黒四建設事務所次長の辞令を貰った芳賀公介には、黒部は恐ろしい山で
  はあるが、胸のうちには次第に「克服されなければならない山」に急速に視点が置
  き換えられてきた。黒部がどんな邪悪な谷であっても開けない箱であろうとは思わ
  れなかった。仮にそれがパンドラの箱であって数え切れない苦難と悲しみに満たさ
  れているとしても、最後にあるものは「希望」のはずであった。

   不気味な山鳴りと共に轟音が坑内に轟いて切羽の鏡面が一気に崩れ落ちた。
  同時に何万年もたまっていたアルプスの腹の水が、一気に吐き出されるかの激し
  さでトンネルは激流の水路と化した。大破砕帯との遭遇である。数日間切羽では
  崩壊が進み、湧水はいっそうひどくなって工事は完全に中断される。破砕帯の無
  為は数ヶ月も続き、学者・経営トップ・工事関係者の対策協議は連日に及ぶが、
  なかなか決定打は出ない。ようやく、@シールド工法による破砕帯の突破。A切
  羽周辺をコンクリートで塗り固めて掘進する。Bパイロット・トンネル掘削ととボー
  リング工法による大量の水抜き加速。などの方針が決められ対策は進められる。
  破砕帯との激闘5ヵ月後、ようやく湧水は激減する。北アルプスの山々が冬の渇
  水期に入ったという、季節的な理由もあったが、延長500mに及ぶ10本のパイロ
  ット・トンネルや、124本、2900mもの大口径ボーリングや、226トンのセメントや、
  13万リッターの薬液を注入した地盤固めの成果であることも、疑問の余地がなか
  った。

   こうした幾多の障壁を克服して大町トンネルは貫通した。その結果、最大出力
  258,000キロワットの世界に誇る巨大な黒部第四ダムは完成した。芳賀達、
  技術者の英知と努力と執念は報われた。関電は経営危機を脱し、電力は民と企
  業に潤いを与え、日本経済は発展の一途をたどった。

   しかし、人間は自然を征服したのだろうか。何億年と続いた人跡未踏の黒部の
  自然の営み、大自然の秩序は破られた。大自然は繁栄と発展を求め続ける人
  類の欲望に素直に頭をたれたのだろうか。これからの数百年後、否、数千年後
  も存在し続けるであろう黒部ダムのコンクリートの威容が、人類に希望と活力と
  恩恵を与え続け得るのだろうか。「自然と文明との共生」などという心地よい賛
  美の言葉に素直に頷いてよいのだろうか。

   雲のように沸き起こるこうした疑問について、次の小説「高熱墜道」でもふれて
  みたいと思う。  
         ・・・・・続編は吉村昭の「黒部2高熱墜道」に続く。