黒部 (2)。               09,06,19
     
   小説 「高熱墜道」・・著者・吉村昭。昭和42年出版。

   黒部第三発電所、通称「黒三」。昭和11年8月着工、昭和15年11月完工。この工事は、
  人間の侵入を拒み続けた険阻な峡谷の、岩盤最高温度165度という高熱地帯に墜道を
  掘削する難工事であった。犠牲者は300名を数えた。トンネル貫通への情熱にとり憑か
  れた男達の執念と、予測もつかぬ大自然の猛威とが対決する異様な時空を描き、極限
  状況における人間の姿を描破した記録文学である。

   富山市から宇奈月町に行き、黒部鉄道に乗って黒部川沿いにさかのぼり、宇奈月か
  ら20キロ上流に終点欅平がある。この欅平から上流の仙人谷までの直線距離6キロメ
  ートルの黒部渓谷が黒部第三発電所の電源開発工事現場である。仙人谷にダムを構
  築し、ここでせき止められた貯水湖の水を水路トンネルで下流に送り、一挙に落水させ
  て欅平の発電所で88,000キロワットの電力を生み出そうという壮大な構想である。

   そのため、欅平から仙人谷にいたる峨々と聳え立つ山塊に、工事資材を輸送する
  軌道トンネルを掘削することになる。この間にある阿曽原谷・仙人谷間の水路・軌道ト
  ンネル工事が世界墜道工事史上奇異な性格を持つといわれた工事であった。

   墜道は温泉の湧出する地帯を強引に貫くもので、坑内には熱い湯気が充満し、高熱
  と高温の湯量に切羽工事は難航し、およそ人間が作業する環境とは程遠い特殊な世
  界が形作られた。掘り進むにつれて上昇する岩盤温度は最高165度にまで達した。
  高温と熱湯のために人夫が火ぶくれの火傷を負うのは当たり前の世界で、ダイナマイ
  トが自然発火して多数の死者が続出した。

   加えて厳冬の黒部での越冬は様々な雪の被害をもたらした。
  機材運搬中の転落死。トロッコの暴走、骨材の下敷きによる多くの人夫の無残な事故
  死。最大の悲劇は泡(ホー)雪崩れによる被害である。シベリア高気圧の発達によって
  猛吹雪が続き、不安定の極に達した雪庇が、1,000メートルにも及ぶ急傾斜を大崩落し
  て泡(ホー)雪崩れと化し、5階建てコンクリートの頑丈な宿舎を引き裂いて、そのまま
  の形で比高80メートルの山を越え、宿舎地点から600メートルの距離にある大岸壁に
  叩きつけるという、およそ考えられない死者84名を出す大被害をもたらした。

   工事は中断され、幾度となくダム建設工事の中止が議論された。しかし、当時の軍
  事情勢がそれを許さなかった。工事の再開と一刻も早い黒三の完成が電力増強とい
  う日本の重要な国策になっていたからである。

   時は昭和11年、日中戦争勃発の直前で、戦争の機運が次第に高まり、黒三の完
  成により阪神地区一帯の軍需産業の原動力に貢献するという、国策的な色彩を強め
  ていた時代である。国の要請を受け、日本電力(関西電力の前身)から黒三の難工
  事を受け持ったのが、上流から数えて第一工区加瀬組、第二工区佐川組、第三工区
  大林組。

   最大の難工事の第一工区を受け持った加瀬組は、異常な高温を発する岩盤に早々
  に尻を割り(工事放棄)、代わって佐川組が請け負うことになる。直接の責任者は、佐
  川組の根津工事事務所長と藤平工事課長。以来、この二人は墜道完成まで言語を
  絶する労苦を共にする。

   熱湯対策には排水ポンプの設置や湯気を抜く縦抗の貫通。高温の切削現場の人夫
  には冷水の放水や冷水カーテン。ダイナマイトの自然発火には発火点を遅らせる竹筒
  の被いの工夫や、熱伝導の低いエボナイト管の使用と高熱岩盤への冷却水の放水、
  悲惨な事故死を遂げた人夫達の遺体処理、動揺する人夫達の慰撫と作業の督促など、
  あらゆる知恵と労力が傾注された。


   岩盤温度が摂氏95度に達しいよいよ高熱断層の中心部に突入する。まもなく沸騰
  点を大きく越える110度に達した。想像を絶する高温と熱湯による火傷、不測の事故。
  ダイナマイトの自然発火により散乱する人夫達の無残な肉塊。人夫の相次ぐ無残な
  死と技師達の無謀な指導。人夫達の同僚の死に対する憤りが次第に技師達に向け
  られてくる。

   不穏な気配。おびえる技師。技師と人夫。そこには監督するものと従属するものと
  いう関係以外に、根本的に異なった世界に住むものの違和感が潜んでいる。一言で
  言えば、技師は生命の危険に曝されることは少ないが、人夫は、より多く傷つき死ぬ
  ということである。黙々と危険な現場で働く人夫達。信頼関係の崩壊の危機が迫る。

   現場責任者の藤平は思う。黒部渓谷は人間が挑むのは到底不可能な世界かもし
  れない。欅平付近ですら秘境なのだ。ましてその上流の黒部渓谷は、人間の足を踏
  み入れることのできない恐るべき魔の谷だ。自然には、何万年、何億年の歳月の間
  に形づくられた秩序がある。様々に作用する力が互いに引き合い、押し合いして生ま
  れた均衡が、自然の姿を平静に見せているのだ。

   土木工事は、どんな形であろうともその均衡を乱すことに変わりはない。長い歳月
  保たれてきた自然の秩序に人間が強引に挑むことを意味する。なぜ人間は、多くの
  犠牲を払いながらも自然への戦いを続けるのだろう。自分達たち墜道工事技術者
  にしてみれば、水力用墜道を貫通させることは、人間社会の進歩のためだという答
  えが出てくる。

   が、そうした理屈は空々しい。自分達には抑えがたい墜道貫通の単純な欲望があ
  るだけだ。発破をかけて掘り進み、そして貫通させる。そこに喜びがあるだけなのだ。
  自然の力は容赦なく多くの犠牲を強いる。が、その力が大きければ大きいほど欲望
  も膨れ上がり貫通の喜びも深い。と。

   あまりにも多い死傷者、驚くべき高熱の岩盤、恐れをなして作業場に近づかない
  人夫達。死傷者続出に対する県警、宇奈月町民の非難。これらによる工事中止の
  危機は、犠牲者遺族全員への天皇陛下の御下賜金の下附が決定して事情はたち
  まち一変する。再び工事は再開され、ついには165度という驚くべき高温を記録した
  岩盤をも突破して、阿曽原谷と仙人谷間の高熱墜道トンネルは遂に貫通する。
  歓喜。しかし喜びの陰に・・・・。

   墜道貫通の直前から人夫達の異常な敵意を藤平らは感じ始める。恐怖感が高ま
  ってくる。多くの仲間が肉塊と化した遺体となっても黙々と掘り続けた人夫達の物言
  わぬ悲しみと憎しみ。いつの間にかダイナマイトが紛失する。

   いたたまれない恐怖から、人夫頭のたっての勧めによって、根津、藤平らの幹部
  は追われる様に薄暗い坑道を去る。背後から人の足音が負ってくるような予感に
  おびえながら。・・・

   黒部第三発電所建設工事は、仙人谷ダム完成を最後に、昭和15年11月21日に
  完工。全工区の犠牲者300名強、そのなかで、第一、第二工区を請け負った佐川
  組の人命損失は233名を占めた。

   作者が、この作品で追求しようとしたテーマは何か。この劇的な材料に挑んだ時
  の基本のモチーフはどこにあったのか。現場に臨んだ監督者が労働者達が次々
  に新しい工法を発見し工夫していく過程にあったのだろうか。作業の苦しさに人間
  がどれだけ耐えうるかという極限状況への関心にあったのだろうか。

   世界的にかってない難工事を完成させた土木事業に対する驚きと感嘆にあった
  のだろうか。あるいは戦争ー平和ー公害と幾変転する墜道の皮肉な運命に関する
  関心にあったのだろうか。もちろん作者の関心はそれぞれの比重において相応に
  あったことだろう。しかし、それらのすべてをディテールとしてその全体の背後に大
  きく浮かび上がるのは、自然と人間との戦いというテーマに他あるまい。

   歴史的、社会的に言えば、巨大なエネルギーを費やして高熱墜道を完成させた
  原動力は、国家の軍事目的であった。しかし、すべての戦争はいずれ終わる。
  しかし、ひとたび完成された墜道は、あたかもそれが自然の一部分に組み込まれ
  たかのように、戦争を超えて遥かに永く生き延びる。

   黒部渓谷を貫くあの高熱トンネルは、それ自身が戦争に利用されるのを黙って
  見続けてきたが、それに引き続く時代には、やがて戦後のいわゆる<平和産業>
  と旺盛な電力需要の期待に応えて、喜んで迎えられる時代を迎えた。

   さらにそれに引き続き、公害産業の原動力を提供するという自分自身の皮肉な
  運命の変転をも、あいかわらず黙って眺め続けてきた。三百余名の人命を内に
  飲み込んで、崇高とも見え、醜悪とも言いうる凝縮した風貌を曝しながら・・・。
 
   人類の幸せを目的とした諸々の開発工事がもたらす自然破壊と、大自然の環
  境保護を重視する人々の見解とは、時に、あるいは常に、鋭く対立し紛争が絶え
  ない。

   人類の英知とは、誤りを繰り返さない学習能力と知恵にあるはずだ。「自然と
  文明の共存」という概念が、美しい響きを持つ単なる虚構の概念に終わらず、徐
  々にではあっても、確実に実践され前進することを黒部川流域のダムはきっと願
  っていることだろう。