葉山の散歩道(2) 鐙摺・旗立山周辺・・・A 11,06,27 ・・・続き・・・ 6、日影茶屋。 バス停を降りて道路の向かい側に老舗の高級日本料理店「日影茶屋」がある。 江戸時代より300年以上続いている茶屋で、今年の1月に本店および石蔵が国登録有形文化財 (建造物)に登録された。幾度も建て替えられているが現在の建物は大正時代の建造物という。 明治の小説家の川上眉山や、久米正雄、松岡譲などの小説の舞台にもなったが、とりわけ大正 5年11月に起った無政府主義者大杉栄が神近市子に刺された「日陰茶屋事件」で有名。 アナーキスト大杉栄は、堺利彦の先夫人の妹堀保子を妻に、ほかに東京日日新聞記者の神 近市子、「青踏社」の編集者の伊藤野枝と愛人関係を持つ。野枝は平塚らいてうの「青踏社」の 編集・発行を受け継いだ先進的な女性解放主義者であった。「日陰茶屋事件」は大杉栄と新た な恋人伊藤野枝の仲を嫉妬した神近市子による情痴傷害事件である。 市子は大杉を刺してすぐ逗子海岸で入水したが果たせず、田越川手前の交番に出頭。大杉は リヤカーで逗子の千葉病院に運び込まれたが命に別状なく、市子はその後2年の服役を経て、 昭和28年、旧東京5区で左派社会党から出馬して衆議院に初当選。6期務め、昭和32年の売春 禁止法の成立に尽力した。大杉と野枝は長女魔子ほか5人の子供を持った。日陰茶屋事件は 瀬戸内晴美の「美は乱調にあり」、および続編の「諧調は偽りなり」に詳しい。 二人のその後は痛ましい。大正12年9月1日に起った関東大震災のどさくさにまぎれて、大杉と 野枝、大杉の妹アヤメの子供の甥・橘宗一(当時6歳)の3人が、憲兵大尉甘粕正彦と部下5人 に拘束され、即日、拷問の上縊り殺されて、麹町の憲兵隊本部裏の古井戸に投げ込まれた。 大杉栄虐殺事件である。事件では憲兵隊や陸軍上層部の介在が疑われたが、すべて甘粕の 単独犯行として処理され、禁固10年の刑を受ける。甘粕は3年で出獄し、フランスへ官費留学を して帰国後満州へ渡り、関東軍の特務工作を行い満州建国に一役買う。満州国を陰で支配し、 満映理事長などを務め、敗戦直後、監視人の目を盗み、青酸カリ服毒自殺を遂げる。 すべてが闇に葬られた謎の多すぎる事件であった。 7、葉山マリーナ。 支那ソバ屋「小浜」の隣りの海側に瀟洒な建物の葉山マリーナがある。昭和39年のオープン当 時は、プールもあるリゾートホテルだった。昭和58年の改築後も、マリン・レジャーの基地として 賑わっている。相模湾を疾走するヨット群の一大係留基地になっていて、その姿は壮観である。 この地は「味の素」の創始者鈴木三郎助の屋敷跡で「味の素」はここから生まれた。味の素は 海から取れるアラメ(昆布)を原料にしてヨードを作り、これを原料にして味の素にするという大 発明で、世界中の愛好家が利用している。マリーナの道路向かい側に後年の鈴木三郎助の屋 敷があったが、今は高級マンションになっていて面影は無い。 8、高崎正風別荘跡。 鐙摺から元町、御用邸に至る道路沿いには有名人の別荘跡地が多い。旧恩波亭で現在はマン ションの「丘亭」は、かって高崎正風の別荘であった。高崎正風は明治天皇・昭憲皇太后の歌の 先生で、宮中のお歌所の初代長官。「わが宿は 相模の海を池として 富士大島を庭の築山」 と壮大に謳っている。 ・・・次は清浄寺、七桶の碑、三ヶ浦・・・ |