葉山の散歩道(1) 鐙摺・旗立山周辺・・・@。 11,06,27 逗子駅から田越川沿いに10分ほど歩くと、左側に六代御前の墓があり、右手に相模湾が見えてくる。 さらに20分も歩くと切通しを抜けて葉山の鐙摺港に出る。旗立山や葉山マリーナ、日影茶屋が見える この場所が葉山町の堀内地区を案内するスタート時点である。ガイドの訓練もやっているのでそれに 従って案内しよう。 1、旗立山 @バス停を降りると右手の海側に高さ25mほどの旗立山が見える。今から830年前の治承4年(1180)、 源頼朝が伊豆の石橋山で旗揚げした時、三浦党300余騎が此処の小浜より援軍として出陣し、酒匂川 に達したが、頼朝の敗戦を知り引き返す途中、逗子の小坪あたりで畠山重忠軍と遭遇し、些細な誤解 から小競り合いになった。その際、三浦党の総帥三浦義澄がこの山上に旗を立てて気勢を上げたこと から「旗立山」といわれた。鐙摺山、軍見山ともいう。 A治承元年(1177)、頼朝が伊豆の流罪先から三浦に微行したおり、三浦義澄から「父三浦大介義 明よりこの山頂に城を築けといわれております」と聞き、頼朝がその見聞に馬で通った際、馬の鐙(あ ぶみ)が地に摺れたことから「鐙摺(あぶずる)山」ともいわれた。 Bまた永正9年(1512)、三浦道寸義同(よしあつ)が北条早雲に攻められ、小坪の住吉城退却の際、 弟の次郎高處(たかおき)の居城であったこの鐙摺城に登り、敵情を視察したことから軍見山(いくさみ) ともいわれている。義同は三崎の新井城で最後を迎える。なお落城の際、討ち死にした三浦家主従の 遺体によって港一面が血に染まり、油を流したような様になったことから、同地が油壺と名付けられた。 C山頂には、此処で自害したとも、あるいは首を刎ねられたともいわれる伊東祐親(すけちか)の供 養塔がある。旗立山の登り口には「祐親は自刃した」とあり、山上には「斬首された」とある。祐親には 4人の娘がいた。その三女が頼朝との間に千鶴御前を産むが、平家を恐れた祐親は怒って、子供を 簀巻きにして伊東の松川の上流に沈めて殺してしまう。また伊豆配流中の頼朝の暗殺を謀ったともい われている。こうした頼朝との因縁から自刃とも斬首ともいわれる諸説が生まれたのであろう。 D女性にまつわる逸話もある。吾妻鏡によると、頼朝の愛妾「亀の前」が逗子小坪の飯島にある伏 見広綱(ひろつな)の館に囲われ、頼朝はここに通って寵愛していたが、北条時政の後妻、牧の方に見 つかり、頼朝の妻、政子に知られる。激怒した政子は、牧野三郎宗親に命じて小坪の隠れ家、伏見広 綱の家を打ち壊させた。広綱はいち早く亀の前を義澄の弟・太田和義久の居城鐙摺城に逃亡させた。 そのあと、頼朝は鐙摺山城を訪れ、牧野三郎宗親を呼びつけ、「お前の主人はこの頼朝か妻の政子 か」と怒り宗親の元結を切った。このため、義父の北条時政は怒って伊豆へ引き揚げるという一幕も あった。 2、小浜 バス停を降りた場所に小さな浜がある。このあたりの海は岩礁地帯で波も荒く、大磯とも言われていた。 「大海の 磯もとどろに寄する波 われてくだけてさけて散るかも」 鐙摺城に観月にきた源実朝が歌っ たのはこの場所である。治承4年(1180)頼朝挙兵の折、300余騎が加勢に船出したのはこの場所とい われている。(天候が悪く、陸路を辿ったとの説もある。) 3、戒宝寺(海宝寺) 道路沿いに「小浜」というさっぱり味の美味しい支那そば屋さんがある。その裏側に戒宝寺がある。 浄土宗。本尊:聖観世音菩薩。三浦33ヶ観音の24番札所。葉山には他に、25番札所の玉蔵院、26番 札所の観正院と合わせて3札所がある。境内にある奪衣婆(だつえば)の石像が珍しい。・・・子供の頃 怖かった葬頭河(そうずか)婆さんの話を懐かしく思い出す。 4、須賀神社 戒宝寺の隣が須賀神社である。熊野那智神社系に属する神社で、祭礼は新暦7月8日前後の日曜日 に行われる。古風な仮面をかぶった土地の古老が古くからの白い衣装をまとい、神輿が町内を巡行す る。肥え柄杓の先端に榊を立てて内陣に収められている。 古老によると、この社はその昔逗子の沼間で祀られていたが、ご祭神が暴神だったのである老人が ご神体を田越川に流してしまった。大神は川を下り鐙摺の向島に流れ着いた。丁度その時、肥え桶を 洗っていた某氏が肥え柄杓で掬い上げて現在の地に安置したのだという。 5、鐙摺港 海辺に「日本ヨット発祥の地」のセール型の石碑が建っている。 明治になると、横浜や長崎、琵琶湖などで外国人が本国からヨットを持ち込み、日本にセーリングヨット を紹介し始めた。横浜外人クラブと交流のあった慶応義塾の水泳部、海軍関係、財界の子息達が少し ずつヨットを始めた。明治35年ごろから慶応義塾の水泳部が葉山森戸の海を水泳部の訓練の場として いたが、明治45年に水泳部の備品として作らせた勝郎型ヨット(いわゆる下駄ヨット)を森戸沖で走らせ たのが湘南の海での最初といわれている。これが日本の近代ヨットの草分けとなったといわれる。厳密 に言えば湘南ヨット発祥の地である森戸に石碑が建てられるのがふさわしいが、その後の鐙摺のヨット 港としての発展によりここに据えられたのであろう。 この港は釣り客の船宿が軒を並べていて、私も常連の一人でよく利用している。またヨットを見ていると、 2000年の9月、シドニーオリンピックに選抜された会社の男女のオリンピック選手を引率して、日本ヨット 連盟の秋田会長らとシドニーに2週間滞在したことを懐かしく思い出す。 ・・・続く・・・ |