中国語学習のポイント 

改訂版


金哲顕

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「中高年のための英語リスニング・スピーキングのポイント」はここをご覧ください。

近頃の中国ブームには目を見張らざるを得ない。中国語の人気も急上昇だ。そこで私もその熱気に触れて中国語の勉強を始めたが、まだまだ道半ばの状態である。しかし学習しながらあれこれのポイントは掴めた。ここでは中国語の学習のための重要ポイントを(英語と絡めて)いくつか述べたい。

一般の中国語の文法書は内容の全てを軽重なく述べているだけで、どのように攻略していけば良いかまでは教えてくれない。ここではその最良と思われる攻略法(
英語風の語順の中国語を日本語の語順で操る方法)を述べたい。

ちなみに以下の文章では(見た目が複雑になるので)中国語の読みをアルファベットで付記するということはほとんどしなかった。各語の読みは辞典でご確認いただきたい。

四声



中国語は漢字で構成されている。漢字はいわば中国語の原子のようなものだ。その漢字にはそれぞれの意味・読み・四声(四種類の読みの調子)がある。だから中国語の学習はなによりもまず出来るだけ多く(とりあえず3000、いずれ5000、さらには8000の)重要漢字の「意味・読み・四声」を覚えることから出発することになる。

中国語の学習のポイントは、

(Ⅰ)まずは日本人にはなじみのない四声の記憶である。漢字の「意味・読み」は漢字ごとに異なっているので覚えやすいが、四声はなじみがないうえに四種類しかないので混同してしまい、結局、覚えにくい。

四声とは第一声の「高止まり」、第二声の「上り」、第三声の「中上り」、第四声の「下り」のことで、漢字ごとに四声のどれかが決まっている。それを数千数万の漢字について一つ一つ覚えなくてはならない。「高止まり」は「 ̄」、「上り」は「/」、「中上り」は「√」、「下り」は「\」で示す。

四声はいわば二拍の発音を、高い同じ周波数のまま続けるか、急激に周波数を高めるか、中途からある程度高めるか、急激に低めるかということである。第一声は「パンパカパーン」という場合の「パーン」の調子、第二声は「ナーンダ」という場合の「ナーン」の調子、第三声はがっかりした時の「アーア」の調子、第四声は「ハイハイ」という場合の「ハイ」の調子である。

したがって中国語の発音には本来一拍で終わるものがなく、みんな間延びしていて、「ずっしり」「きっと」などのような促音(詰まる発音)が存在しない。「発展」(はってん)も「ファー・ツァーン」(「発」は第一声、「展」は第三声)と発音する。中国人は促音が苦手で、「やって来る」も「やて来る」となり、また中国音楽の旋律がくねりながら切れ目なく流れていくのも、このせいだろう。

ただし母音で始まる漢字の場合(とくに「 a / e / o 」の場合)、日本語とは逆に母音音の直前に弱い「っ」がくっつく。たとえば「 a 」は「っあ」となる。そのため一般に中国語ではリエゾンがない。「晩安」( wan an )も「ワナン」とはならず「ワンアン」となる。つまり後続する語頭の母音音は先行する子音音と結合しない。この弱い「っ」は日本語の促音便のようには目立たず、ピンインでも表記されない。

ところで、中国語を早く話す場合はずっと二拍ではやっていけないようで、途中ところどころで本来の二拍を再現しながら、一拍でどんどん進めている。たとえば二字で四声のどれかにするなどである。



さて、四声は一種の抑揚的アクセントであるが、中には四声を持たない漢字も(「的」「地」などなど)ごくごく例外的にあり、また漢字が二つ並ぶことで、後ろの漢字が本来持っていた四声のアクセントを失うということも結構あって、それらを「軽声」と呼ぶ。「軽声」の方がいわば私たちのふつうの調子に近いと言えよう。

文法書によっては「軽声」の記号として当該漢字の上に「小丸」を書く場合がある。残念なことにほとんどの辞典は四声記号を記さないことで軽声であることを示していて、そこに本来の四声記号がない。他のケースでは本来の四声が現れるので、これは初期の学習者には非常に不便である。軽声を示すこの小丸の上下左右の適当な場所に四声記号も同時に記しておくか、本来の四声を丸括弧で囲んで軽声であることを示すかするのが良いだろう。学習の際、私自身はそうしている。


さて、ほとんどの漢字は四声のうちのどれか一つを持つが、例外的に中には二つあるいは三つ持ち、その場合、それぞれ意味が微妙に異なるのが普通である。「例外的に」とはいっても結構な数になる。しかもよく使われる漢字が目立つ。だから四声を正確に覚えることが必要になってくる。たとえば「少」( shao )は第三声のときは「少ない」だが、第四声のときは「若い」である。

ところが四声はその名の通りその種類が四つしかないので、どの漢字がどの四声だったか、いずれ混同してくる。「この漢字は上がるものだったか?下がるものだったか? それとも・・・・?」と迷うことになる。それを克服する方法を探すのがまず第一だと言えよう。

私は漢字一つ一つに四声を表す短文を結びつけて覚えた。たとえば「跳」(tiao)は四声記号としては「\」だ。これを「跳び下りる」と覚える。「川」(chuan)は第一声の「 ̄」で、「川は水平に流れる」と覚える。「商」( shang )は第一声(「 ̄」)で、これを「商いは一円から」と覚える。このとき映像的なイメージで覚えると非常に効果的だ。

こういうふうに「 ̄」「/」「√」「\」の全てについて、それぞれ多種多様な意味を当てて当該漢字の四声の記憶に繋げるわけである。数千の漢字にこうした関連付けをする。手間はかかるが、こうすればしっかりと覚えられて混同することも少なく、結果として効率的である。むろんいちいちこうしなくても覚えてしまえる場合も多いので、3000ほどこうして覚えている間に5000はマスターできる。


また詳しくは文法書で見ていただきたいが、四声では、第三声が二つ続くと最初の漢字が第二声となるなど、第三声が二つ三つ四つと続く場合、それぞれに変則発音があるということも注意すべきである。また第三声の第一拍目(低い部分)だけを発音して(これを「半上声」という)次の漢字の発音に向かうという場合もある。文末、句末でなく、文中ではおおむね第三声は「半上声」になる。

四声では「一」「七」「八」「不」に変則発音がある。それについても文法書を見ていただきたい。



ところで、漢字一つ一つの「意味・読み・四声」を覚えてみても、いざ中国語を聞いてみると聴き取れない。たとえば「文化」という単語の「文」(wen )と「化」( hua )の「意味・読み・四声」はしっかり覚えたのに、それが続けて「文化」(/\)と発音されてしまうと、(たぶん私たちになじみのない四声があるため)、さっぱり聴き取れない。いわば中国語の単語にはそれ固有の短いメロディーが付いている格好だ。おそらく四声なるものがなければ、二字が続けて発音されても、およその見当はつくだろう。

だから漢字は一字一字の「意味・読み・四声」を覚えた上で、さらにメロディー付きの二字熟語としてその「意味・読み・四声」を記憶し、聴き慣れ・使い慣れることが大事である。この問題を解決する近道は、文面を参照したり伏せたりしながらのシャドーイング(一秒以内に追随して復唱する)や短文暗記やスピーキングを弛まず訓練することであろう。また例えば四字漢字の日本人名らしきものを各漢字順に第一・第二・第三・第四声と並べて丸覚えしていくとか、日本の有名人の名前を中国語で丸覚えしていくとかも使える。

中国語は単語を目で見ると「なーんだ」となるが、耳で聞くとさっぱり分からない。中国語のリスニングのポイントは、漢文を見たときの単語つまり「目単語」でなく、中国語を聞いたときの単語つまり「耳単語」を、できるだけ多く覚えるところにある。つまり「目単語」でなく「耳単語」としてできるだけ多くの単語を覚え、慣れることが肝要だ。


さて、漢字の読みは原則的には各漢字につき一つだけである。しかしこれにも少なからず例外があり、読みが二つあるいは三つあるいは(ごくごく稀だが)四つの漢字さえある。むろん読みごとにそれぞれ意味が異なる。たとえば「重」の読みは「 chong 」「 zhong 」の二つで、「 chong 」(第二声)は「重なる・再び」、「 zhong 」(第四声)は「重い・重要な」を意味する。

また「落」は「 la/lao/luo 」の三つがあり、「 la 」(第四声)は「脱落する」、「 lao 」(第四声)は「落ちる・手に落ちる」、「 luo 」(第四声)は「落ちる・没落する・落伍する・手に落ちる」である。「 lao 」と「 luo 」はほぼ同義だが、「 lao 」には「没落する・落伍する」などの意味が含まれない。

さらに、このような複数の読みを持つ漢字の中で、同じ読みでしかも四声が異なる場合もあり、それぞれ意味が異なるので、同一の漢字が多くの異なる意味を持つことになる。



ところで漢字の読みについては一部に一種の法則のようなものがあり、それを利用する。たとえば日本語の音読みで「ん」で終わる漢字は中国語でも(必ずと言っていいほど) n で終わる。例を挙げると、「観」(かん)は中国語で「 guan 」、「看」も中国語で「 kan 」。

また日本語で(~ゅう・~ょう、~う、など)最終字が「う」で終わる漢字は、中国語で ng で終わる場合が結構多い。しかもほぼ全て n では終わらない。たとえば「光」(こう)は中国語で「 guang 」、龍」(りゅう)は( long )、「城」(じょう)は( cheng )という具合である。

これはとくに(~ょう)[呉音]の他に(~い)[漢音]とも読める漢字の場合に目立つ。たとえば「京」は「きょう」とも「けい」とも読むが、中国語では( jing )。「正」は「しょう」とも「せい」とも読むが、中国語では( zheng )。「丁」は「ちょう」とも「てい」とも読むが、中国語では( ding )。「兵」は「ひょう」とも「へい」とも読むが、中国語では( bing )。「名」は「みょう」とも「めい」とも読むが、中国語では「 ming 」。「霊」は「りょう」とも「れい」とも読むが、中国語では( ling )である。

しかし 最終字が「う」の漢字が中国語で ng で終わるのは一つの傾向であって、そうでないケースも多い。たとえば「朝」(ちょう)は( chao / zhao )、「入」(にゅう)は( ru )などなど。


ところで日本語で「子音+ou 」のとき、中国語では「子音+ ao 」となることが多い。これはまた「子音+ょう( iou )」→「子音+ iao 」にも拡張される。たとえば「毛」(もう)は「 mao 」、「要」(よう)は「 yao 」になるし、「叫」(きょう)は「 jiao 」になり、「小」(しょう)は「 xiao 」になる。

また日本語の「子音+a 」が中国語で「子音+ o 」や「子音+ uo 」になるのも少なくない。たとえば「波」(は)は中国語では「 bo 」、「破」(は)は「 po 」、過(か)は「 guo 」、「多」(た)は「 duo 」、「鎖」(さ)は「 suo 」といった具合である。さらに「~ゅう」の場合は中国語でも「子音+iu 」になることが多い。例を挙げると、「旧」(きゅう)は「 jiu 」、「袖」(しゅう)は「 xiu 」などなど。



さて、中国語では母音だけあるいは子音と母音だけで語の発話が構成され子音音で終わることはない。上記の -n や -ng も子音ではなく母音の末尾だ。ところが「発展」(ファー・ツァン)のところで見たように、日本語で「発」(はつ)と発音されるところでも、(中国語では「発」に対応する「ファー」のみがあり)、日本語読みの「つ」に対応する末尾の子音音がない。

また「客」(中国語で「 ke 」、日本語で「きゃく」)の場合、中国語には日本語の「きゃ」に対応する「 ke 」しかなく「く」に対応するものがない。「食」(中国語で「 shi 」、日本語で「しょく」)も同じである。

これは中国語読み(唐音由来)と日本語読みとの間に見られる一般的な現象で、日本語での漢字の音読みが古代に伝来した呉音や漢音からのものであるため。呉音や漢音では子音で語の発音が終わるものは多いが、唐音由来の現代中国語では子音で終わる語がない。

そういうわけで、唐音由来の現代の漢字の中国語読みは(母音だけの場合や一見子音のような -n と -ng の付く場合を除けば)全て「 fa 」「 ke 」「 jiu 」「 yao 」「 xiao 」などなどの姿の「子音+母音」で終わる。

これはまた子音のような終わり方をするのは「ん」( n / ng )系だけということでもある。中国語の漢字発音では通常の母音音で終わる場合の他は「ん」系の終音しかない。そのため中国語を聞いていると(チャン・ソン・カン・チン・ファン・ラン・ノン・ヤンなどのように)「ん」音が目立つ。これらのことは漢字を中国語でどう発音するかを推測する上で大いに参考すべきところだろう。



漢字の音読みには古くから呉音・漢音・唐音・宋音などが日本で使われていて一意ではないが、そういうわけでだいたいの類推はできる。ちなみに「漢音」は漢代でなく隋・唐時代の、「唐音」(宋音・唐宋音)は唐代でなく明・清時代の発音。

こういうわけで漢字の音読みについては西洋人が中国語を学ぶ場合よりも断然有利だといえる。しかし文法については次章で述べるような中国語の英語的な性格によってその逆になる。欧米人が比較的楽に中国語をマスターできるのもそのせいだ。

漢字文化圏の日本では漢字の中国語読みの訓練材料が周りにあふれている。歩きながら看板の漢字を中国語で読んでみたり、テレビを見ながらそこに出てくる漢字を読んでみたりして、日常的に身に付けていくのが有効だ。こうすればそれぞれの読みだけでなく、まぎらわしい四声もしっかり覚えられる。

また「日中辞典」を重要表現ごとに参照し、そこに出ている短文の例文を発音(読みと四声)を含めて覚えていくのも効果的だろう。むろん例文の読みと四声が全て記されている日中辞典が良い。私は講談社の「日中辞典」を使っているが、ほぼ全ての例文に読みと四声が記されている。例文などもいくつか参照させていただいた。ただし残念なことに(他の辞典と同様)軽声を無記号で示していて、軽声化した漢字の元の四声は記されていない。




ところで、実際に北京からの放送などをインターネットで聞いてみると、発音が変則的になる場合が多く、子音も母音も四声も、ところどころで相当本来の音からズレている。むろんズレの法則のようなものはそれぞれにあるのだろうが、標準語でも、リスニングはそういう変則発音にある程度慣れないと、どうもいけないようだ。しかし日本国内や旅先の中国で普通に中国人とちょっと話すには別にそこまでやる必要はないかもしれない。

ちなみに、早口の場合の変則発音は、いわば使いならされて変形したわけだから、中国語に限らず、よく使われている一部の単語や用法にのみ起こりうる。しかしよく使われるだけに頻出するので、変則発音についてはなんとかしなくてはならない。

変則発音は、まず①子音、②母音、③四声の三つに分類して整理する。

①子音は、

( a )唇音    ( b / p / m / f )
( b )舌先音  ( d / t / n / l )
( c )喉元音  ( g / k / h )
( d )舌腹音  ( j / q / x )
( e )巻き舌音( zh / ch / sh )及び( r )
( f ) 舌歯音  ( z / c / s )

などに分類されるが、一般に速く発音されて変則化するとき、概ねその当該分類内で変音する傾向がある。

この中で、(d )舌腹音と (e)巻き舌音と (f)舌歯音は、それぞれの内部で平行して、概ね日本音の(ジ/チ/シ)に対応するから、不規則発音化する場合、ジ→チ、ジ→シ、チ→ジ、チ→シ、シ→ジ、シ→チの変化がありうる。

むろん上記の分類枠を超えて変則化する場合も多い。たとえば t (ティ)は容易に「チ」になるし、b⇔d なども起きうる。また語頭の r と l は容易に消えうる。だから「日本」( riben )は「イーベン」になりうる。また語尾の n と語頭の w が続くと(英語の時のように) w が m に転化する。例えば「因為」( yin wei )が「インウェイ)のほかに「インメイ」にもなりうる。

また( p / t / k )など気息音を含む場合、子音が脱落し h 音だけが残って、それだけが発音されるということも多い。

ところで「 c 」の発音について、たとえば「才」・「菜」( cai )が「ツァイ」とだけ聴こえる時もあり、「サイ」とのみ聞き取れる場合もあるが、不思議なことに「ツァイ」と聴こえたはずが、もう一度聴きなおすと「サイ」にも聴こえ、さらに聴きなおすと再び 「ツァイ」と聞き取れたりするということがある。これはこの中国語の子音が隠れた二重子音であることに起因するのだろう。

日本語で表記すると「っさい」とでも表現できようが、最初の「っ」に注意がいくと「ツァイ」に聴こえ、それが抜けると「サイ」に聴こえる。おそらくまずほんの一瞬「ツ」と発音した後すぐに「スァイ」と発音しているのではないか。こうした隠れた二重子音は「 z 」や「 q 」などにもある。



②母音については、(e)巻き舌音( zh / ch / sh )( r )と (f)舌歯音( z / c / s )の場合、( zhi / chi / shi )( ri )と ( zi / ci / si)としてそれぞれに i が付いてピンイン上はじめて一つの子音なので、したがって例えば shi は子音として「スー」だが、i の付いた語としては「シ」、変則化して「シュー」や「チー」、語尾に n や ng のある前後の単語の影響で「シン」ともなりうる。

また(d )舌腹音と (e)巻き舌音と(f)舌歯音の場合、その母音の本来の発音以外に、ほとんどの場合「オン」という変則母音音もありうることを付け加えておきたい。たとえば「中」(zhong)は「チュン」ではあるが「チョン」もある。「装」( zhuang )はそれ本来の発音はピンイン通り「ツアン」だが、「ツォン」もある、などなどである。

また一例として「ツアン」を「ツアー」として、伸ばした部分に n や ng を潜ませることもある。こうしたことは他の子音の場合にも普通に起きる。とくに第四声では伸ばしが下がりでもあるので、そこに容易にn や ng が潜ませられる。

さらにこのように、あるべき筈の n や ng が消えるかと思えば、ないはずの n や ng が前後の影響で付加するという場合もある。これに対処するには直接、数をこなして慣れるほかないようだ。

「的」( de )の場合、「ダ」の他、前後の影響を受けて「ナ」「ラ」「ノ」「マ」「ア」「ダォ」「ザ」「ウェ」などなどになる。たとえば直前語末が n なら「ナ」になる。例を挙げれば「一点東西」(イーディエントンシー)、さらに「ン」が抜けて「イーディエトンシー」ともなりうる。しかし直前語末が n でなく ng でも「ナ」になりうる。また例えば「其他東西」は(チタトンシー)、「太烈酒」(タイリェチョウ)となりうる。

ちなみに「貴一点位子」は(クィイーデウェイツ)だが、これを(クィイーデウェイツ)にもできると思われる。そのほか参考のために「排位子」は(パイウェイツ)、「机場巴士」は(チーチャンバース)、「寛一点」は(クァイーデ)のようになりうる。ちなみにこの「寛」は( kuan )だから n が抜けている。

ところで( d )舌腹音( j / q / x )は、母音音としては「イ」系しか存在しない。 j だけを例にとると、ji / jia /jie /jiao の他、ju/jue/juan/jun/jiongがあるが、後者のこの u はちょっとした「ウ」の口の形で「イ」と発音する。だから「挙」( ju )は「ヂゥィ」といった感じになる。また例えば「需要」( xu yao )は「シーヤオ」と聴こえる。


③四声の場合の早口による変則化は、たとえば一音節目が第一声か第二声で二音節目が第二声の場合、二音節目が第一声に近くなる。(  ̄  →  ̄  )(/ → / )。またこの二音節目が軽声の場合、通常の軽声ほどには弱くはならない。

第四声が三つ四つ続くといった場合、一語ずついちいち下げるのでなく、高い第一声を短く一拍で続けて最後の語で第四声を再現するということがある。これは第二声が三つ四つ続く場合にも言え、同じ高さを続けて、最後の語で第二声を再現する。

第四声が二つ続く語、たとえば「必要」(\\)は前後の事情によって「第一声・第四声」( ̄\)ともなりうる。また前後の単語の調子に影響されて、第二声が第四声に第四声が第二声になるという逆転現象も起きる。

ところで、相手が速くしゃべる場合、一度調子が落ち込む第三声は聞き逃しやすいので、注意が必要だ。

それに、「緩和措施」「国防問題」などなど四字語の場合、リズムの調子としては「緩和・措施」「国防・問題」と普通に発音される以外に、「緩・和措施」「国・防問題」という切れ目の調子でしゃべる場合も多い。「・」の前後は同じ時間幅で、慣れないと本来の単語を同定できなくなる。



中国語では上で言及したように、子音のような終わり方をするのは「ん」( n / ng )系だけなので、様々な子音系の終わり方で単語を区別している英語や仏語や韓国語などとは違い、子音の終わり方で単語を同定したり区別したりができない。

その上に(リエゾンがあれば語末の「ん」( n / ng )を同定できるのだが)リエゾンもなく、さらに子音・母音・四声の変則発音が頻繁に生じている。だからただ漫然とリスニングしているだけでは、同じような音が延々と続いているようで、何を言っているのかさっぱり聞き取れない。私もこれで長いあいだ苦しんだ。

しかし意味が分かれば全てが一意に発音されていたことが判明する。つまり意味がつかめないから、同じような音の連続のように聞こえるのだ。リスニングのためにはなによりも単語の同定が必要だが、それには「耳単語」をできるだけ多く覚えることである。また中国語の語順や中国語の文章表現に慣れることも必須だ。その上で変則化に対処する必要がある。

一般に変則化は日常的によく使われる単語や用法に起きているので、種類の絶対量は少なく、ある程度整理したうえで、網羅的に覚えていく他ないようだ。むろん変則発音を読み取るには、文章の意味から推測・推定することも必要だ。子音・母音・四声の本来の音をあまり固定的に考えてリスニングするのは良くない。固定化すると判断の柔軟性が失われ、リスニングがうまくいかなくなる。

子音・母音・四声の三つが同時に変則化することはまずないから、本来の音をしっかり記憶した上で、文章の意味から変則化を察知する必要がある。「これは四声はおかしいが、子音と母音の発音と意味から言って、この単語だろう」「これは母音はおかしいが、子音と四声と意味から推測すれば、この単語だろう」「これは子音はおかしいが、母音と四声と意味からすれば、この単語だろう」という具合である。




語順



(Ⅱ)さて中国語学習の次のポイントは文法構造であるが、実は中国語の語順は英語の語順に酷似している。英語には(SV・SVC・SVO・SVO・SVOC)五つの文型があるが、中国語もそうした文型の語順に準じる。だから中国語の学習の基本として英語的な語順構造はしっかり抑えておかなくてはならない。ちなみに高校で漢文を読むとき返り点などが必要だったが、これは中国語の語順が英語の語順に似ているからである。


以下に英語の五文型に準応する中国語の例を示した。中国の簡体字や台湾の繁体字のフォントがないので、日本語の常用漢字で代用する。フォントがないので中国語文の好例を提示できなかった。

また英文例は中国語順と対応させるため英文としては未備なものとなっており、その点、ご注意いただきたい。なお述語は赤字で示した。ちなみに、Sは主語、Vは述語、Cは補語、Oは目的語、Oは間接目的語、Oは直接目的語である。


第1文型(S)     我 ( I go ) / 我 ( I big )

第2文型(SC)    我学生( I am student )  / 我老師( I become teacher )

第3文型(SO)    我父親 ( I love father )  / 我希望他来( I hope he comes )

第4文型(SD)  我他中國話 ( I teach him Chinese) / 我他A(I call him A )/我了他一本書(I gave him a book)

第5文型(SOC)   他我吃飯 ( He ask me have a meal ) 


中国語の学習において中国語と英語のどこどこが似ているかを知ることは、英語がある程度分かる者にとって、決定的に重要である。英語的な素養が学習の助けになるからだ。

それはまた中国語と英語のどこどこが似ていないかを知ることも意味する。そして英語に似ていない中国語の部分が、日本語と似ているかどうかを知ることはもっと重要だ。



ところで、第五文型は主動詞の目的語が後続の補語動詞の意味上の主語にもなり、「目的語が主語を兼ねる」という意味で「兼語文」と呼ばれている。(「兼語文」については本稿末尾の「連動文」をご参照)。

主動詞としては「使役動詞」/「強制動詞」(請・要求・命令・・・)/「為」「做」「作」を「~と呼ぶ・看做す」の「~と・~として」の意味で従える「呼称・認定動詞」/「有」(「有」の目的語が意味上の主語として補語動詞を伴う、たとえば「附近趙」─付近に趙と呼ぶいる)などがある。(「有」については後述)

第4文型については少し注意が要る。中国語では「~を・・・に」以外にも、「~を・・・から」や「~を・・・と」も第4文型になる。だから「我了他五百元」(私は彼から五百元を徴収した)も第4文型で、「我他A」(I call him A )(彼をAと呼ぶ)は英語では第5文型だが、中国語では第4文型である。直接目的語(~を)がものや情報であるケースでは、多くの場合、上記の「我送了他一本書」の「一本」のように数量詞が付く。

また第4文型にはできない動詞もある。

第4文型にできる動詞は、

(1)「与える」系・・・給(くれる)・送(あげる)・教(教える)・問(尋ねる)・奨(褒美を与える)・還(返す)・交(渡す)
             など・・・直接目的語・間接目的語のどちらかを省略できることがある。
(2)「伝える」系・・・求(頼む)・告訴(伝える)・通知(知らせる)・・・直接目的語は省略できるが間接目的語は
              省略できない。
(3)「取得する」系(~を・・・から)・・・要(もらう)・借(かりる)・搶(奪う)・収(徴収する)
(4)「呼ぶ」系(~を・・・と)・・・称・叫

で、これら(与奪呼称伝達系)の一部の動詞以外は第4文型にはできず、介詞(後述)を以って文章を作らねばならない。

ただしこれらの動詞は第4文型以外の文型でも使うことができる。たとえば「他那個消息告訴了我的父親」(彼はその知らせ私の父に知らせた)においては「把構文」(後述)で「告訴」を使っている。むろんこれは第4文型では「他告訴了我的父親那個消息」となる。



中国語の語順が英語のそれに酷似しているのは、英語と同様に「は・が・を・に」などの助詞が(日本語のようには)しっかりとは存在しないからである。そのために、(助詞によって目的語を導くことが出来ず)、目的語であることを示すために動詞のあとに目的語が来る。動詞と目的語とのこの前後の関係こそが、全体として英語と中国語の語順を同じくさせている。

もし日本語のように助詞によって目的語を導くことが出来れば、目的語は文章上のどこに置かれても目的語だと判別でき、文章上の自由度が増す。英語や中国語のように、必ず動詞のあとに目的語が来なくてはいけない、ということにならなくて済む。だから英語や中国語の語順を決めているのは、「は・が・を・に」とくに「を・に」などの助詞の有無なのだ。

「は・が・を・に」に当たる語字が中国語に全く存在しないわけではない。それらは一般的に「介詞」と呼ばれていて、たとえば「把」/「給」「和」「跟」などなど例外的には存在している。そこから中国語の語順の中に部分的に日本語に似た語順が生じる。

そういうわけで、文章全体の語順は英語的だが、部分的には日本語と似ているというケースがごくごく普通に見られる。日本人が中国語を学習する場合、こういう側面をおおいに利用する必要がある。それが非常に効率的だ。

中国語における部分的な日本語順化については、またたとえば「の」を意味する「的」の用法がある。これは(英語の「of」の語順でなく)日本語の語順をもたらす。「A of B」 は「BのA]と後ろから訳すわけだが、中国語の「A的B」は(英語のようにはならず)日本語と同じ語順で「AのB」と前から訳す。「的」のこの性質はあとで分かるように決定的に重要である。

こういうわけで、まず「把」/「給」「和」「跟」について、そのあと「的」についてご説明したい。




さて、中国語における「は・が・を・に」系は、しっかりした助詞の体系をなすものではない。それについては、

(1)最初にまず「は・が」系であるが、これは古語や文語に「者」がある。「者」は「~というものは」「~とは」「~は」の意味で、主語を導く助詞というより、テーマを提起する語字であるが、あまり目にすることはない。

(2)次に「を」であるが、中国語には、手で掴めるもの、あるいはそうした連想が働きうるもの、さらには処置可能なものを主に目的語化する「把」がある。「把」によって導かれる目的語は「特定のもの」として強調されている。「把」を使うと語順は、「把+目的語+動詞」となり、動詞の前に目的語が出て、いささか日本語に近くなる。むろん「把」特有の特定性や把捉的性質や処置性のため一般的な目的語化はできない。

注意すべきことに「把+目的語+動詞」構文を使えない動詞もある。また「把+目的語+動詞」構文の動詞は単独では使えない。(本稿末尾の「把」構文・「被」構文・「使」構文で詳述)

こうして、中国語には目的語一般を導く助詞の語字が存在しないので、日本語の「を」に当たるものは、中国語には存在しないことになる。だからこそ中国語全体の語順が英語に似てくるわけである。

(3)最後に、動作の対象に対する「に」については、「給」「和」「跟」などがある。「把」のときのように、これらが存在することで英語の第3文型や第4文型とは異なる日本語的な語順が一部、部分的に生じるので、これも学習のポイントとするべきだろう。

むろん中国語でいう本来の英語的な第3文型文や第4文型文では、「給」「和」「跟」を特に必要としない。(上記の五文型表で見たように)英文同様、それらなしで、語順だけで中国語的な第3文型文や第4文型文になる。



さて、「~に」に対応する「給」「和」「跟」については、

「給」は「~に」(給~)という姿でかなり自由に動詞の前にあったり、後にあったりできる。たとえば、「学校給我寄来封信」(学校が私に手紙を送ってきた)が動詞の前方に「給」がある場合、「学校発給我幾本教科書」(学校が私に何冊かの教科書を配布した)が動詞の後方に「給」がある場合である。動詞の前方に「給~」がある場合、(「把」の時と同様)、ある程度日本語順になっている。「和」も「跟」もこれとほぼ同様である。

たとえば「跟」だが、「把他的想法跟大家談談」(彼の考えをみんなにちょっと話してごらん」の場合、「跟大家」(みんなに)は「談談」の前にあってほぼ日本語順である。上記したように「把他的想法」の「把」についても同様だ。だから全体としては日本語順に訳せる。

「和」については、「我有話要和他説」(私は彼に語る必要のある話がある)の場合、「要和他説」の「和他」が「彼に」で、「和他説」が「彼に話す」である。これもほぼ日本語順だ。「要和他説」は「要(和他)説」であり、「要説」で「語る必要がある」で、「要説」の間に「和他」が入ることで、「彼に語る必要がある」となる。

そしてそれが全体として英語のto不定詞の形容詞的用法のように(この用法も英語に酷似しているが)「話」に掛かり、「我有話」で「私は話がある」となる。全文としては「私は彼に語る必要のある話がある」(私は彼に語るべき話がある)となる。



以上のように「把」「給」「和」「跟」があることで目的語を動詞の前方にも位置付けできて、それで部分的には日本語順的になるケースがずいぶん増えてくる。これは「把」「給」「和」「跟」が直後に目的語を導き、その語が目的語であることを明瞭に示すことができて、文章の中でどの位置に来ても意味が分かるからである。

もうお分かりのように「把」「給」「和」「跟」はいわば目的語の前にある英語の前置詞のようなものとして機能している。このような語字は中国語には多数ある。たとえば「従A」(Aから)は英語で言えば「 from A 」である。「向A」(Aへ)は( to A )だ。「于A」(於A)は英語で言えば( at A / in A )である。「据A」(Aに基づいて)は英語で言えば( on A ) ( based on A )である。そのほか多数ある。

介詞に類したものは(そもそも動詞を起源とするものなので)同じ漢字が動詞でも使える場合が多い。「従A」(Aから)は「Aに従う」「Aに従えば」などになるし、「向A」(Aへ)は「Aに向かう」「Aに向かって」などになる。さらに、「用A」は「Aで」( by A )( with A )でもあるが、また「Aを用いる」「Aを用いて」でもある。

「到A」は「Aに」( to A )でもあり、「Aに到る」「Aに到って」でもある。ただし介詞の場合の「到」は「到A」のあとに「来」「去」を伴う。(「他到東京来了」)。ちなみに間に動詞句(たとえば「做工作」)が入って「他到東京做工作来了」となると、「来/去」の前の動詞句は「来/去」の目的を意味するので、「彼は仕事をするために東京に来た」となる。

さて、「和」には(たとえば「A和B」で「AとB」と訳す場合の「と」( and )の意味もあるが、また「~と共に)の意味もあって、後者の場合は英語の前置詞( with )と似た役割となる。たとえば「和A」は( with A )の意味である。また「在A」(Aにおいて)は( in A )あるいは( at A )の意味だ。

こうした場合でも、むろん文章中の自由度は「把」「給」「和」「跟」と同様に存在し、動詞の前に位置づけできて日本語順のように細工できる。したがって「介詞」は、(それ自身は動詞由来なので「介詞+目的語」は英語順の V+O 構造となってはいるが、いわば英語の前置詞的なものとして目的語を同定できるため)、文章上の位置の自由をもたらし、その結果、日本語に近い語順で訳せたり・話せたりさせてくれるわけである。



さて大事なことは、たいていの場合、介詞句(介詞+目的語)は動詞の前に来れるということである。「介詞+目的語+動詞」構造は中国語文法上あたかも一つの動詞のようにふるまう。これを「介詞句動詞」と名づけても良い状況だ。つまり中国語において日本語のように動詞の前に目的語を持って来たい場合、こうした介詞類を使うわけである。ということは、こうした介詞類を使いこなせれば、概ね日本語順に中国語が話せることになる。

むろんこの「介詞目的語動詞」の目的語(名詞)の前に形容詞・形容詞句、動詞の前に副詞・副詞句が付いていても良い。日本語でも形容詞・形容詞句は名詞の前に、副詞・副詞句は形容詞と動詞の前に来るので、やはり全体として日本語順に似ることになる。

たとえば、

「我 希望 美麗的女人 一起 生活」(私はすっごく綺麗な女性一緒に暮らしたい)

では、副詞の「太」が前方から形容詞の「美麗」に掛かり「太美麗」全体が「的」を伴い形容詞句として「女人」を修飾しており、また動詞の「生活」に副詞の「一起」が前の方から掛かっている。「美麗的女人 一起 生活」すっごく綺麗な女性一緒に暮らす)はほぼ日本語順のまま、いわば一つの動詞のように「希望」( hope to )のあとに続いて「・・・・・したい」という意味になる。

「希望」はここでは「想」という助動詞に置き換えてもいい。介詞はそもそも動詞に由来するので、こうした介詞の直前に助動詞や動詞や副詞(否定詞も含む)も来ることができる。たとえば「 在家里 乱跑」(家の中で走り回るな)では一つの動詞としての「在家里 乱跑」をその直前の否定禁止副詞「」で否定している。 



ところで「従A」「向A」「用A」などなどは、介詞が前置詞のように目的語名詞の前にあるので、それ自体は英語順であり、強いて一語一語順訳すれば「からA][へA]「でA]となるが、意識の中で「従A」を「Aから」、「向A」を「Aへ」、「用A」を「Aで」などなどと変換できれば、まさに介詞を含んだ文章はほぼ日本語順になる。

あるいは、介詞はもともと動詞だったので、動詞的に「従A」を「Aに従って」、「向A」を「Aに向かって」、「用A」を「Aを用いて」などなどと訳し、「介詞+目的語+動詞」を「動詞(2)+目的語+動詞(1)」として「・・・・して~する」というように細工しても、同様に日本語順になる。たとえば一例として「用鋼筆写了」を「ペンを用いて、書いた」、あるいは「和太美麗的女人 一起 生活」を「すっごく綺麗な女性と和して、一緒に暮らす」と解釈する。

中国語は日本語では「電車で行く」を「電車に乗って行く」(電車去」と表現する動詞的な言語だから、こう細工しても許されよう。したがって、上下どちらでも良いが、こうした観念操作の訓練をすれば概ね日本語順となり、中国語学習の、あるいは中国語会話の大きな効果が得られるだろう。



これらは前置詞的な漢字についてであるが、中国語のこのような用法のなかでも後置詞的なものが多少ある。たとえば「家里」は「家の中」であるが、普通の介詞的な用法であったなら、「里」は前置詞として、「家の中」は「里家」となるべきものであろう。

「家里」という語順は日本語的で使いやすいが、どのような漢字が後置詞的なものとして使えるかはしっかり知っておかなくてはならない。この「里」は「場所・時・範囲・機構・人体+」の形で使われる。(房間里・夜里・話里・城里・手里)

「里」はまた(一音節名詞の前でだが)「内側の」「奥の」という形容詞でも使われ、たとえば「里屋」は「奥の部屋」という意味になる。

「内」もまた「場所・時・範囲+」の形で後置詞的に使われる。たとえば「国内・今月内・校内」などなど。これも(「里」と同じく)名詞の前で形容詞となって「内の」「身内の」「内心の」の意味で使われる(内地・内人・内省)。ちなみに「家中」のように「中」(zhong)も後置詞的に使えるが、「中」は書き言葉で、「里」は話し言葉。

同じことは「里」や「内」の反対語の「外」についても言える。たとえば「城外」は「市外」、「村外」は「村の外」である。例文を挙げると、「村外是一片竹林」(村の外は一面の竹林だ)。これはほとんど日本語順だ。「時」にもこういう用法がある。「我喝下去」は「私が飲み下した時」となる。これは「我喝下去的時候」という表現と同じである。

また「上」と「下」も、「名詞+上」「名詞+下」で、それぞれ「~の上に」「~の下に」となる。

「前」は前置もあり、後置もある。たとえば「前幾天」(何日か前に)、「幾年前租的東西」(数年前に賃借りした物)。「后」(後)にも前置・後置がある。「村后」(村のうしろ)、「后門」(うしろの門)。

また「~ぐらい」「~ほど」という意味の「左右」「上下」も(英語の about fifty years old とは違い)数量詞のあとで後置詞的に使う。「五十歳左右」(五十歳ほど)/「百分之八十左右」(80パーセント程度)///「五十公斤上下」(50グラムほど)「一百七十公分上下」(高さ170センチぐらい)。この「上下」は水平方向の距離には使えない。

さらに、「以」のある「以内」「以外」/「以上」「以下」/「以前」「以后」なども後ろに付く。「以内」「以外」は名詞のあとに(国境以内)、「以上」「以下」は名詞と数量詞のあとに(腰以下的部位・三十歳以上)、「以前」「以后」は名詞や動詞(句)や主述句のあとに(十点以前・看了以后・他去北京以前)。

「旁」(そば、かたわら・横)もまた後置詞的に使える。「身旁」(体の近く)・「椅子旁」(椅子のそば)。これもまた「旁径」(脇の小道)のように前方から名詞に形容詞的に掛かる場合がある。また「旁観」「旁聴」のように一字動詞の前にあって一つの熟語動詞(傍観する・傍聴する)を作る場合もある。また「対面」も「餐庁対面」(食堂の向かい)として後置詞的に使える。

以上から、方向詞(「里・外・上・下・前・后・左・右・旁」および「これら+辺・頭・面」とが作る二字方向詞)は上記の例のように「名詞+方向詞」の姿で名詞の後ろに来て日本語順となる。二字方向詞の例は「里辺」「里頭」「里面」/「外辺」「外頭」「外面」/「上辺」「上頭」「上面」などなど。

ついでに言えば、「名詞」が場所を示さない場合は「名詞方向詞」で場所名詞化したうえで、「在+名詞方向詞」の姿で「~において・~で」を構成する。たとえば「他 在火車 工作」(彼は汽車で働いている)。名詞がたとえば「東京」「公園」などなどの場所名詞である場合、方向詞は特に要らず、「在東京」「在公園」で良い。「他 在東京 工作」「他 在公園 工作」。




次は「的」についてだが、これは大いに注目に値する。たとえば「A的B」を「AのB」と訳すわけだが、AとBはともに名詞である場合もあり、そうでない場合もある。Aが代名詞や形容詞や副詞や動詞でBが名詞の場合もあり、訳す順序はいずれも日本語順と同じ前からである。

たとえば「父親的家」(父親の家)/「我的房子」(私の部屋)/「方便的東西」(便利なもの)/「那里的商品」(あちらの商品)/「做的菜」(作った料理・作る料理)などなどである。「的」を使えばこのように広範囲に自由自在に日本語順に使える。

ここで特に注目すべきは、「做菜」は(料理を作る)で英語順(VO)だが、「做的菜」となれば(作った料理・作る料理)というように、前から日本語順に訳せることである。むろん日本語順に話せるわけである。

さらにAが節(主述句)となる場合もある。たとえば「做」の前に主語の「我」があると、Aは「我做」(私は作る)となり、「做的菜」は全体として「」(私の作った料理)となる。すると、(動詞の後ろに、前から訳せるようにする「的」があるおかげで)、「・做」(SVO)という英語の前後順のまま、日本語順でそのまま訳せる、あるいは話せることになる。



「的」についてさらに話を進めよう。少し文章は複雑になるが、「現在展示的是誰的作品?」は「是」を用いた第2文型である。「現在展示的」は「現在展示しているものは」と訳す。「是」は英語のbe動詞で、「誰作品」は「誰作品」と訳す。

「現在」のように時間や場所など副詞一般は普通、日本語同様いつも動詞や形容詞の前にあるので、「是」を「は・・・です」と訳せば、この例文はほとんど日本語の語順で訳せる。「・・・です」を省略して「は」とだけ訳せばもっと日本語順だ。だから「是」はこの場合「は」と訳すのが良い。なお「展示的」の「展示」は「做的」のときの「做」と同じく動詞であり、この場合、「的」の次にくるなんらかの名詞が省略されている。それで「展示しているもの」と訳す。

「的」を使った中国語はこのようにAの部分が単語ばかりでなく句や節としても存在しているので、文章全体の構造は英文的だが、文章内部の非常に多くの部分が日本語と同じ語順になる場合がぴっくりするほど多い。これを利用しない手はない。これを駆使するとスピーキングもずいぶん捗る。

ちなみに中国語の「の」には「的」の他に(「先見之明」など)成句や古語、「~之前」(~の前に)「~之上」(~の上に)などに出てくる「之」もあるが、これも語順は「的」と同じである。



さらなる例として、「学校在離家歩行五分鐘的地方」(学校は家から歩いて5分のところにある)では、「離家歩行五分鐘的地方」の部分が、「離家」(家から)/「歩行」(歩いて)/「五分鐘」(5分)/「的地方」(の所)、となって、そのままで日本語順である。「歩行」は動詞で、あとの「的」とで「歩行的」(歩いた)となる。「鐘」は時間を表す。

次に、さらに複雑な長文の例として、「北京有很多日本人喜歓去的地方」の場合、全文の基本構造は「北京有地方」である。形容詞の「很多」は例外的に「的」なしで名詞(ここでは「日本人」)に掛かる。

「北京有~」は(北京には~がある)、「很」は「とても」、「多」は「多い」、「日本人喜歓去的地方」は「とても多くの日本人が喜んで行く場所」なので、したがって「北京有(很多日本人喜歓去的)地方」は、「北京には(とても多くの日本人の喜んで行く)場所がある」となる。これもかなり日本語順である。これは「的」の前の動詞が自動詞(ここでは「去」)の場合である。

他動詞の場合、たとえば「吃」(食べる)を使ったケースでは、「日本人喜歓吃的四川菜」(日本人が喜んで食べる四川料理)となる。

こうして自動詞でも他動詞でも「的」と結びつくと日本語順になるケースが多い。



ところで(日本語や韓国語の「の」とは違い)中国語は、(英語でも A of B of C とはしないように)、「的」がすぐ近くに(同じ句の中に)続いて現れるのをあまり好まないようで、ちゃんとした表現では「日本人喜歓吃菜単」(日本人の喜んで食べる料理のメニュー)とはしない。最近見た中国映画「書剣恩仇録」の字幕には「你們表妹児子媽媽三姐夫」というのがあったが、これはふざけた表現として使われている。

しかしたとえば「十月一個星期天早晨」(十月のある日曜日の早朝)のような場合には、「的」と「的」との間に少し距離があるからなのか、普通に使われる。だから「日本人喜歓吃四川菜単」(日本人の喜んで食べる四川料理のメニュー)という表現なら自然な表現になる。

ところで、AとBが名詞で「A的B」の場合、前後関係からその意味(AとBの相互関係)が分かるので、この中間の「的」が省略されて「AB」となる場合が結構ある。熟語化した場合では例えば「製薬工場」「絶対真理」などや、常用語の場合は、例えば「幸福生活」「駕駛技術」などがある。(「駕駛」は運転)

一般に「A的B」と「AB」との違いについては、たとえば「中国的朋友」と「中国朋友」で言えば、「中国的朋友」は中国が主体で朋友はそれの立場から見た朋友ということ、「中国朋友」は朋友が主体でそれが中国人だということを示す。

ちなみに、「社会歓迎思想」(社会の歓迎を受ける思想)は「受歓迎」が(歓迎を受ける)なので、(歓迎を受ける思想)は「歓迎思想」となる。この「」は動詞句(受的)の「」なので文法上不可欠であり、これがないと意味が通じなくなる。

ここで「歓迎」の前に「社会」を置いて(社会の歓迎)という句にしようとすると「社会的歓迎」となり、全体では「受社会歓迎思想」となり「的」が二つ続いて現れてしまうので、「社会的歓迎」の「的」を省略し「受社会歓迎的思想」にする。





ちなみに、(~が・・・にある)文で「在」の場合は「主語+在+場所」となり、「有」の場合は「場所+有+(意味上の)主語」となる。「在」の場合は直接知っているような特定情報の、「有」の場合は少し曖昧な不特定情報のニュアンスを持つ。

    「特定主語++場所」(小李樹下)
    「場所++不特定の意味上の主語」(樹下一個女孩児)

中国語ではどの動詞に限らず一般的に、話し手と聞き手にとって特定の既知の事柄は動詞の前方に、曖昧な不特定の新しい情報は動詞の後方に置く傾向が強くあり、それが「在」と「有」のこの構文にも反映されている。「有」のこの種の文は「存現文」の一つで、存現文はこうした語順になる。

「存現文」は何かが存在・出現・消失する場合の文章表現で、文頭に場所や時があって、不特定の意味上の主語(文法上の目的語)が動詞の後に来る。動詞で示される何かが生じて、それでその存在・出現・消失した何かのことが分かるという場合に使われる。「天空出現了一条彩虹」(空に虹が一つ出た)/「早上又雨了」(朝また雨が降った)

ところで、上例の「北京有~」は「(意味上の)場所副詞+有+(意味上の)主語」の語順である。だが「北京」を意味上の場所副詞でなく主語だとすると、「有」は存在でなく所有の意味になり、「北京有~」は「北京は~を持つ」、語順は「主語+有+目的語」となる。むろん「他有銭」は「彼はカネを持っている」である。

ついでに、中国語では文法形式上、述語動詞を軸にして、その前方に主語があり、その後方に目的語がある。そのため意味上の主語ではあっても、述語動詞の後方にある場合、主語にはなれず目的語などになる。ちょっとピンとこないかもしれないが、上述の「(意味上の)場所副詞+有+(意味上の)主語」の場合、意味上の場所副詞の方が主語で、意味上の主語の方は目的語になる。




以上から「的」があれば、目的語のない自動詞の場合はふんだんに、他動詞の場合でも相当、日本語順になることが分かる。

こうして全体として「的」のある文章を駆使すれば、比較的容易に中国語が日本語のように操れる。

ちなみに副詞は動詞と形容詞の前にあり、形容詞は名詞の前にあるので、(副詞+形容詞+名詞)や(副詞+動詞)といった語順は日本語に準じる。これも大いに利用する。

注意が要るのは、日本語では「すぐに来る」「また友達言う」「まだ店員なじる」など、副詞名詞や代名詞の直前に来て実はその後ろの動詞に掛かるということも可能だが、中国語では副詞は決して名詞・代名詞の直前には来ないということ。

したがって意味は同じでも順序は「すぐに来る」「友達また言う」「店員まだなじる」という前後関係にする。これは中国語が、「膠着語」である日本語や朝鮮語と違い、単語の位置によって文法的機能が決まる「孤立語」であるため。

ところで動詞に掛かる場合は、(副詞と同様)、場所や時間や理由や方法などなどの副詞句でも、日本語と同じく大抵は動詞の前に来る。英語では概ね動詞の後に来る副詞や副詞句が、中国語では日本語と同じく動詞の前に来る。これを利用すれば、部分的に中国語が日本語順で楽に話せるわけである。

だから中国語で特別に意識しなくてはならないのは、これらの語順でなく、動詞と目的語が英語順になる点である。

つまり動詞の後ろに目的語が来る関係で、「まず先頭に主語を置くと、その後に動詞が来て、さらにその後に目的語が来る」という英語的な語順が結果する。全ての問題の根源はここに起源する。英語のように助動詞が本動詞の前に来るのもそのせいだ。そしてそうなるのも、すでに述べたように、目的語を導く一般的な助詞(を)が中国語にないからである。



中国語の語順は全体としては英語と酷似しつつも、「の」「を・に」などに部分的に対応する「的」や「把」/「給」「和」「跟」などなどの前置詞的な語字が存在するおかげで、部分的には日本語に似た語順が生まれる。

中国語の学習のためには、とりわけ「的」を使った文章に注目して多く利用し、さらに「把」や「給」「和」「跟」などなどの「介詞」を駆使し、また上記の(副詞+形容詞+名詞)や(副詞+動詞)といった日本語的な語順を利用すると、非常にスピーキングの習得効率が良くなる。

こうしていずれはここを出発点として中国語全体の構造にも目が行き届くようになる。まず日本語的な語順のものから習得して、英語的な五文型の語順の中国語をマスターするという方向だ。

全体としては、中国語を①「介詞構造」の文と②五文型の文に二分して、まず日本語順的な①を習得しながら、いずれは同時に英語順的な②も視野に入れて、両方に「的」を用いつつ、①と②の二刀流でリスニングとスピーキングをマスターする。



「的」と関係詞

さて中国語は介詞や「的」が絡むとこのように日本語的な語順になるが、全体としては英語順である。したがって「中国語には英語につきものの関係代名詞や関係副詞のようなものがあるのではないか?」と誰しも思われよう。

英語ではその五文型のため、関係代名詞や関係副詞がないと内容のある文章が成り立たない。ところが中国語にはそれらに準じるちゃんとした語字がない。なぜか? それはおそらく中国語に「的」があるからだろう。「A的B」のAが節(主述句)である場合、(すでに見たように)「A的」が関係節となれるからである。

たとえばすでに見た「日本人喜歓吃的菜」(日本人が喜んで食べる料理)や「日本人喜歓去的地方」(日本人の喜んで行く場所)は、それぞれ英語では一例として( the food which the Japanese like eating ) と ( the place where the Japanese like visiting )となる。

しかし、こういう場合、中国語ではいつも「的」が使われるわけではない。使われないときは関係代名詞や関係副詞に相当する語字なしで、英語の語順のように、そのまま関係節部を名詞のあとに置く。たとえば「地方日本人喜歓去」「菜日本人喜歓吃」という具合である。むろん私たちが中国語を話す場合、「的」を使った方で話すのが楽だろう。


ただし英語の翻訳で「~するところ・・・・」という場合に似た用法の「所」という語が関係代名詞の機能を一部持つ。つまり「所+他動詞+的+名詞」のかたちである。たとえば「我所認識的人」は「私の知っている人物」となる。また「的」の次に「物」や「人」が省略されている例があったように、「我所認識的」というかたちで「私の知っているもの」という意味にもなる。さらに「的」が完全に省略されて、一例として「我所認識不多」(私の知っているところは多くない)のように「所認識」もある。

むろんこれらは本来すべて「的」と関係している。「所」と英語の関係代名詞との違いについて言えば、英語の関係代名詞には主格も所有格も目的格もあるが、中国語の「所」は目的語を従える他動詞とセットになるにすぎず、一般的な関係節語とは言えない。それにこの用法の「所」はいくぶん文語的であり、虚辞的な場合も少なくなく、口語的には抜けて存在しなくても良いケースも多い。すると「的」だけの場合に帰着する。


ところで「地方日本人喜歓去」「菜日本人喜歓吃」のなかの「日本人喜歓去」「日本人喜歓吃」から「日本人」つまり主語を除くと「喜歓去」「喜歓吃」となり、節部でなく句部となるが、全体としては「地方喜歓去」(喜んで行きたい場所)「菜喜歓吃」(喜んで食べたい料理)の姿になって、これはいわば英語の to不定詞の形容詞的用法のようなものとなる。

中国語におけるこのような用法についてはすでに「我有話要和他説」(私は彼に話す必要のある話がある)のところで言及した。「話要和他説」の「要和他説」が「話」に掛かる形容詞句であり、いわばto不定詞の形容詞的用法である。もう一つ例を挙げると、「我没有工夫写信」( I have not time to write letter )。「工夫」は「時間・暇」で、「没有」は「持たない」「ない」。


一般に「~する・・・・がある(ない)」という場合、中国語ではこのようなto不定詞の形容詞的用法を多く用いる。「私は衣服を買う金がある」は「我有銭買衣服」となる。「買衣服」が「銭」に掛かるto不定詞的な形容詞句である。

この「~する・・・・がある(ない)」という「有」や「没有」を述語とする文章の場合、ふつう不自然と感じられて単独動詞と「的」を使った「我有買衣服的銭」の形で文を終わらせることはできないが、多少不自然だとはいえ、会話では意味は通じる。「我没有工夫写信」を「我没有写信的工夫」としてもむろん普通に通じる。

「的」を使った自然な表現としては(本稿末尾で詳述する「把構文」の場合のように)単独動詞の直前に副詞や副詞句を置いたり、直後に結果補語などあれこれの補語(後述)を付けたりして動詞が単独でないようにしても良いし、動詞を重ねても良い。

また全体を主語や述語として使っても良い。たとえば主語としては、「他有買衣服的銭好不好?」にすれば(彼が服を買うお金を持っているのは良いことなのか?」となる。

ところで、上記の「的」を使った「北京有很多日本人喜歓去的地方」(事実、これはある会話本からの参照文)は単独動詞でなく「去」の前に「喜歓」があって動詞が重なった自然な表現であり、これを必ず「北京有地方很多日本人喜歓去」とする必要があるわけではない。会話の中ではどちらも問題なく自然に通じる。

いうまでもなく、「有」や「没有」を述語としない一般の文章の場合、このような制約はなく、もっと自由に「的」を使った文章を構成できる。





ここでいくつかの練習をしてみよう。


   あれ は 友達が  中国から  私に  買って来た  物だ

   那   是 朋友    従中国    給我  買来的    東西


「従」と「給」の二つの介詞を使い「的」を一つ使ったこの例文は日本語とほとんど同じ語順である。


次に、「是」文ではない一般の文章では、

まず形容詞を述部とする場合、


   彼が 中国で  買った  服は  私の子供には  大きすぎる。

   他   在中国  買的     衣服  対我孩子     過大


「在」と「対」の二つの介詞と「的」を使ったこの例文も、日本語とほとんど同じ語順になる。「過」は副詞で、「~すぎる」という意味では一字形容詞の前に付く。「我孩子」は「我的孩子」としても良い。


自動詞の場合、


   もし  明日   雨が降っ   ても、  彼は  やはり 行きます か?

   要是   明天     下雨      的話    他   還   去    麼


「要是・・・・的話」は「もし・・・・という話なら」→「もし・・・・ということなら」→「もし・・・・なら」である。自然現象などのような出来事については()などなど、自動詞のあとに主語が来るが、これはむしろ私たちには悩ましい。まず何かが起きて、それでそのあとそれが何であったかが分かるという場合、こういう語順になる。なお「麼」はフォントがないので使ったが、これは「麼」から「麻」の部分を除いたものでも良いし、「口+馬」でも良い。


助動詞の場合、


   私は     彼らと    一緒に  生活し  たい

   我     和他們    一起   生活


「和他們」の介詞「和」は動詞「生活」の前に来ている。助動詞「想」とは直接関係していない。介詞の「和」がある分だけ日本語順化している。助動詞「想」の位置のため構文全体としては英文的だ。 ところで「他很大学」(彼はとても大学に行きたがっている)のように、英語同様、多くの場合助動詞本動詞の直前に来る。しかし「介詞構造+動詞」はあたかも一つの動詞のようにふるまうので、上例では「和他們 一起 生活」を一つの動詞のように看做して、その直前に置かれている。

ところで、中国語の助動詞の用法は英語のように厳密ではなく一般の動詞のように使えるところがある。たとえば、「我希望会説英語」(私は英語が話せるのを願っている)を、英語で表現すると、I hope that I can speak English で、 can という助動詞の性質によってどうしても「that I 」(あるいは「 I 」)が必要だが、中国語では「会」( can )の主語が「希望」の主語と同じならそのまま続けて「希望会」とできる。むろん主語が異なると、例えば「我希望他会説英語」(私は彼が英語を話せるのを望む)となり、英語の接続詞の that が省略された姿と同じになる。


ところで、他動詞の場合でも、


   私は    彼らと  一緒に  食べる

   我     和他們  一起   


このように目的語を省略できるときは日本語順になる場合がある。目的語が存在する場合、「吃飯」や「吃晩飯」のように、英語風に他動詞のあとに目的語を置けば良い。「吃飯」は「食事をする」、「吃晩飯」は「晩御飯を食べる」で、たとえば

   我 和他們 一起 吃 晩飯




まとめ



以上のように、スピーキングでは介詞など(前置詞的語字)と「的」を利用して自由自在に日本語順に中国語を操ることができる。相手の話の内容(聞く内容)は自分の自由にならないが、自分の話の内容(何をどう話すか)は自分の自由である。「介詞」と「的」を使った日本語順的な中国語をどんどん話してみよう。

リスニングの場合は、中国語が日本語順も含み、英語ほどには英語順でないため、「中高年のための英語リスニング・スピーキングのポイント」のページで述べた①「観念音シャドーイング」と②「同時文章構築式意味取り法」の二つだけでもやれる。

この場合、心の中での文章再構築は、はじめはむろん漢文イメージによる文章再構築であるが、ところどころで漢単語に置き換えれば良く、全文にわたってきっちり還元する必要はない。慣れてくればおのずとそうなる。これは英語のリスニングの時に「一区切り・行変え・数語句しっかり和訳法」(改行法)で数語句をしっかり和訳するのに対応するやり方でもある。また全文を洩らさずしっかり聴き取るために、観念音で同時的に音をたどりながら、半秒遅れで含み声のように口内でシャドーイングすると、文章がいっそうはっきり読み取れる。

むろんこれは経過措置であり、ゆくゆくは漢文イメージを経由せず、音から直接、意味がつかめるようになるのが目的である。そもそも音としての言葉は文字が発明されるずっと前からあるもので、げんに幼い子供は文字を知らなくても言葉を話す。それと同じように、英語を話す英米人は単語とその文法的語順を意識しても、アルファベット文字までは意識しない。聞く方も同様だ。音としての単語が文法上の語順処理を受けているだけで、①「観念音シャドーイング」と②「同時文章構築式意味取り法」もそういうリスニング方法である。

中国語の場合もこれと同じで、話す方も聞く方も漢字文字までは意識せず、音としての単語とその語順処理だけでやっている。だから「目単語」でなく「耳単語」で単語を覚えなくてはならない。いずれは私たちも同じように、単語音とその語順的処理で相手が話す中国語の文章を再構成する必要がある。極論すれば最終的には漢字なしのピンイン表記だけで中国語の文章が分からねばならない。




その他の参考事項


動名詞

ところで中国語の漢字には to に当たる語字がないので to 不定詞がなく、したがって to 不定詞の名詞的用法もない。また動詞になにかの漢字が付いて動名詞にするというシステムもないので、動名詞もない。だから中国語ではほとんどの場合、動詞がそのまま名詞にもなる。

たとえば「做」は「作る」でもあり「作ること」でもある。したがってすでに出た「做菜」は「料理を作る」でもあり「料理を作ること」でもある。これは英語で cook と cooking 、 make と making がそれぞれ同じということである。

日本人は「成功」という語字をみれば抽象名詞の「成功」と理解する。しかし中国語には日本語で「成功する」という場合の「する」の一般的な語字がないので、中国語では「成功」という語字は「成功」でも「成功する」でもあらざるを得なくなる。むろんそれはまた「成功すること」でもありうる。

こうして「成功」は中国語では、「成功」「成功する」「成功すること」を意味するようになる。これは動作動詞結果補語(動作の結果を補充的に示す語)が付加した「結果動詞」(たとえば「」「」などなど)以外のほとんどの動詞に通用する。(結果補語については後述)

動詞がそのまま動詞としても動名詞としても抽象名詞としても使えるというのは、我々学習者にとって非常に便利で、使い勝手がいい。だから「動詞は、動詞でも動名詞でも抽象名詞でもある」というぐらいの感覚で使ってみることである。するとどんどん中国語の文章が作れる。つまり中国語がどんどん話せるようになる。

たとえば、自動詞や他動詞が様々な修飾語や目的語を伴ってそのまま「動詞句」としていわば英語の動名詞句のようなものになり、さらにその動詞句の動詞に主語が付けば「主述句」としていわば(英語には存在しない)主語付きの動名詞句になって様々に自由に使える。

たとえば「做四川菜很高興」(四川料理を作るのは面白い)や「他做四川菜特別好看」(彼が四川料理を作るのはとりわけ面白い)では動詞句や主述句が主語部として使われている。「很」は「とても」だが、例文のように単独で述語となる性質形容詞に付くとき、「とても」の意味はなく、「他と比較して」というニュアンスを除く機能として虚辞的に付く。たとえば上の例文から「很」が抜けて「做四川菜高興」になると比較の意味が生じて(四川料理を作る方が面白い)の意味になる。ちなみに一部の助動詞及び動詞の前に付く「很」は「とても」(他很大学 / 「很感謝」)。

また「我們的目標是獲得冠軍」(我々の目標は優勝することだ)では「獲得冠軍」が「優勝する」の意の動詞句で、そのまま述部をなしている。「獲得」は「獲得する」、「冠軍」は「優勝」。

さらに「我去比他去合適」(彼が行くことより私が行くことの方が適切だ→彼より私が行く方が適切だ)では、「我去」と「他去」が主述句として比較文を構成している。

このように「する」と「すること」が中国語では同じであるため、いろいろ自由自在に使えることになる。


ちなみに形容詞についても、中国語では日本語の「~さ」という場合の「~さ」に当たる一般的な語字がないので、「暑い」も「暑さ」も同じである。むろん「暑」は「暑い」でも「暑さ」でもある。つまり形容詞は「性質や程度を示す名詞」でもある。それで形容詞句も名詞句になり得て、主語や目的語として使える。たとえば「太胖了不好」(太りすぎたは良くない→太りすぎは良くない)の「太胖了」は形容詞句で、名詞句のように主語部をなしている。「胖」は形容詞で「太っている」。

こうして動詞も形容詞もそのまま名詞として、単独あるいは句あるいは節(主述句)のかたちで、主語や目的語として使えるので、慣れてコツさえつかめれば自由自在に中国語が操れる。ただし、なににしろいつも例外や制約はあるので、多少注意が要る。しかしそうした例外や制約を無視しても、多分とんでもないものにはならないので、相手に通じることは通じるだろう。どんどん使うべしである。




「~は・・・が」


ところで、便利なことに、日本語で、「MはNが・・・・」という場合、中国語では、「MN・・・・」となるのも、語順が日本語と同じで、いろいろに使える。たとえば「東京は渋谷が面白い」(東京渋谷有趣)などである。(「有趣」は「面白い」)。

これはさらに「冬は北海道が楽しい」(冬天北海道很高興)というように、Mが場所でも時間でもなんでも使える。どんどん使うべしである。

また「~は」の部分は「~なら」の意味の「~は」であっても良い。この場合「~は・・・が」は「~なら・・・が」という意味になる。たとえば一例として上記の「東京は渋谷が面白い」は「東京なら渋谷が面白い」となる。

また「我肚子疼」(私は腹が痛い)・「他身体很健康」(彼は体が調子良い)なども「~は・・・が」の例である。

「~は・・・が」はまた「~の・・・は(が)」とも意訳できる。「東京渋谷有趣」は(東京の渋谷は面白い)、「冬天北海道很高興」は(冬の北海道は楽しい)、「我肚子疼」は(私の腹が痛い)、「他身体很健康」は(彼の体は調子良い)。

「~は・・・が」という場合、「~は」の部分は主語というよりはテーマの提示部であって「~については」というほどの意味であり、真の主語は「・・・が」である。


ところで、「~はーが・・・する」という場合も「~についてはーが・・・する」となって、やはり上記のケースと同じ語順になる。このとき動詞は他動詞で、「~は」(~については)の部分は意味内容的にはこの動詞の目的語なので、目的語が日本語のように動詞の前に来ることになる。

たとえば、「那事児我不知道」(そのことについては、私は知りません)あるいは、「那個計画我実行」(その計画については、私が実行する)となる。このように「~は」→「~については」の場合、「那個計画」のように、中国語ではそのためのなんの介詞もないままで、文頭に来る。

さらに「得」を使う様態補語文(後述)も、たとえば「那件事進展得很順利」(あの件進展するの順調だ→あの件は順調に進展している)も、「~は・・・が」の一例として使える。

こうして「~は・・・が」と日本語でなんとか訳せる場合、述部が形容詞でも自動詞でも他動詞でも、多くがそのままの日本語順で、即、中国語順になる。これは非常に広範囲に応用が利く。




複文における接続語句の省略

ところで、日本語では当然あらねばならない筈の「~だから」「~なら」「~たら」などの、複文における接続語句が、中国語ではいつも必要というわけではない。前後の文章から接続関係が明瞭な場合、複文におけるこうした接続語句が不必要になることがある。

たとえば「~だから」の一例として「父親不同意我去、我不去了」。これを直訳すれば「父は私が行くのに同意しない、私は行かない」だが、正訳は「父が私の行くのに同意しないから、私は行かない」である。むろんこれを「因為父親不同意我去、我不去了」のように接続語句のある中国語で表現することもできる。

「~なら」「~たら」の場合も事情は同様だ。たとえば「不好吃、不要銭」(「美味しくない、お代は要りません」→「もし美味しくなければ、お代は要りません」)を接続語句で表現すれば「要是不好吃、不要銭」である。

中国語には日本語や韓国語のような文尾に続く接続助詞(~だから・~なら・~たら・~のに・~だけれども・~ながら・~ても/でも・~だが・・・)がない。したがって中国語では前後の文章の接続関係は接続詞で示すか、そうでなければ上記のように自明な場合は接続語句なしにしてしまう。

接続詞で示す場合、中国語ではの節に語を配してより詳しく表現することが多い。たとえば「因為 所以」・「既然 」・「雖然 但是」・「如果 」・「只要 」・「只有 」・「除非 」・「就是 」・「不管 都(也)」・「不但 而且」・「与其 不如」・・・などなど。

中国語ではこのように接続関係が明瞭な二つの文章を接続語句なしに単に別々に前後に置くだけで良いので、これは大いに利用すべきだろう。



数量のある場合の語順

中国語では、時間量・回数・比較差量などの数量は、(英語順に似て)動詞や形容詞の後に来る。たとえば、

①時間量 

  ( a )持続可能な動詞の場合、

  「我等了半天」(私は半日待った)

  ただし動詞が一般の目的語を取るとき目的語は数量のあとに来る・・・「我等了半天朋友」(私は半日友を待った)
  なお「我等朋友 等了半天」や「我等了半天的朋友」や「朋友、我等了半天」も可能。いずれも数量は動詞の後方。

  目的語が代名詞の時は動詞と数量の間に来る・・・・・・・・・・・・・「我等了他半天」(私は半日彼を待った)

  否定形は「没(有)」で動詞を否定するが、主にそれで前述された文章の時間量を訂正する。


  ( b )持続不可能な瞬間動詞の場合

  あることが起きてどれぐらい経ったかの数量は最後に来る・・・「我結婚三年了」(私は結婚して三年になる)
        なお目的語があっても数量は最後に来る・・・「我考上大学一年了」(大学に合格して一年になる)
                 
  否定形は瞬間動詞でなく、時間量の方を否定する。(我結婚還不到三年・・結婚してまだ三年にならない)


②回数・・・・目的語を取る場合や目的語が代名詞の場合、①の時間量の場合に準じる。
        ただし目的語が人名・地名の場合は、数量の前でも後でもかまわない。
        「我去過一次南京」「我去過南京一次」(私は一度南京に行ったことがある)


③比較差量・・・・「大兄比我高一個頭」(一番上の兄は私より頭一つ背が高い) 
           「他比我高十公分」(彼は私より十センチ背が高い)
           

ただし時間量・回数・比較差量でなく時刻を示す場合は動詞の前方にくる。「我 九点鐘 在公園 他」(私は九時に公園で彼を待つ



比較形


同級

肯定形は「A+跟+B+一様」で、たとえば(「我的衣服跟他的一様大」 私の服は彼のと同じ大きさだ)
否定形は「A+跟+B+不一様」で、たとえば(「我的衣服跟他的不一様」 私の服は彼のと同じではない)

「他有我(那麼)高」(彼は私とほぼ同じほどの高さを持つ)という場合も同級。
否定文にすると「他没有我(那麼)高」
疑問文にすると「他有没有我(那麼)高?」


比較級

代表的には「他比我高」(彼は私より背が高い)が挙げられる。それに数量が比較差量として付いた形は、上記した「他比我高十公分」などがある。数量で示さずかなりの差がある場合は、程度補語(後述)「得多」を文尾に付加して「他比我高得多」(ずっと背が高い)とする。


否定形は「没有」を使って「他没有我高」(彼は私ほど高くない)とする。肯定形の「他比我高」における「高」は形容詞だが、否定形の「他没有我高」における「高」は名詞。

否定形は一見「比」を否定して「他不比我高」となりそうだが、これをそのまま訳すと(彼は私より背が高くない)だ。すると、もしかすると同じ高さかもしれない。したがって「不比」を使うと、彼が私より低いことが一意には示せず、否定形にはならない。一意に示せるのは「他没有我高」(彼は私ほど高くない)の方だ。


疑問形文尾に「麼?」を付ける「麼疑問文」を使う。「他比我高麼?

「有」系の比較文では、たとえば「他没有我高」を疑問文にすると、「有」の反復形の「有没有」を使って「他有没有我高?」になる。


程度補語文での比較級は上記の「得多」を付加するが、様態補語(後述)文での比較級は「他来得比我晩一歩」or「他比我来得晩一歩」(彼は来るのが私より一足遅れた)のようにする。動詞に目的語がある場合は、動詞の前に置く。「他唱得比我好」

比較対照は「我去比他去合適」のように、すでに「動名詞」のところで言及した名詞化した動詞句や主述句の場合も可能である。


比較を強める副詞には先の「得多」の方式を除けば、相対的な程度副詞の「更」や「還」を形容詞の前に付ける。絶対的な程度副詞の「很」「非常」「太」「真」・・・は使わない。たとえば、「小李的個子比我(更/還)高」(李ちゃんの背丈は俺より ずっと/もっと 高い)。

ただし「更」は単なる事実表現の場合、「還」は意外性や誇張を表現する場合に使う。上の例文だと、「更高」で単に「俺よりもっと背丈が高い」事実を表現するが、「還高」だと「意外にも俺よりずっと背が高い」という意味合いになる。


比較文は内容が比較であれば様々な方式が可能だ。これまでの「比」は「~と比べて」という介詞だったが、「比」を動詞として使えばまた別構造の比較文が可能になる。

たとえば、「和紅茶比、我更喜歓可可」(紅茶と比べて、私はココアがもっと好きだ。これはまた「比起紅茶来、我更喜歓可可」とも言える)
「和紅茶比、~」「比起A来、~」の形で「比」を動詞として使えば、今度は主語でなく目的語を比較しているのだが、「比起A来、~」はさらに次のような表現も可能だ。

「比起A来、主語+「比較」/「更」+「覚得」/「想」+B」(Aと比べて主語はBがもっと良いと思う)の形で、
「比起去中国来、我更想去美国」(中国に行くより、私はアメリカに行きたい) 

あるいは「比起A来、主語+「覚得」/「想」+B+「比較」/「更」+形容詞+動詞」の形で、
「比起法語来、我覚得英語比較容易学」(フランス語と比べて英語の方がもっと学びやすいと思う)

さらに「不如」(しかず)を使った「A不如B」で、たとえば「那個不如這個」(あれはこれにしかず) 「那個不如這様做好」(あれはこのようにするのがもっと良い)


最上級

「比」を使って比較を極限まで極めた最上級の表現としては、「A+比+疑問代名詞+都+・・・」がある。
たとえば、「他比誰都大」(かれは誰よりも大きい)。この疑問代名詞の位置に「大家」「任何人」が代置されても、同じ意味になる。

最上級はその他、「最」を形容詞や動詞に修飾する方法がある。
「這只猫最老実」(この猫が一番利口だ) 
「我最喜歓听古典音楽」(クラシック音楽を聴くのが何より好きだ)


否定形と疑問形


否定形

否定は「不」と「没(有)」で行う。両者は否定副詞なので動詞や形容詞の前に置かれて機能する。両者の用法の違いは、動作動詞や可変化動詞の前では「没(有)」が過去と(英語の)現在完了と現在の否定、「不」が未来あるいは意志の否定である。非動作動詞や性質形容詞などなどの否定は、中国語には時制がないので、過去であれ現在であれ未来であれ、「不」を用いる。

ちなみに「可変化動詞」とは「時間 到了」(時間が来た)の「到」のような動詞で、何かの生物あるいは非生物運動体の動作動詞とは違う。

つまり中国語には、動作や変化を表すいわば「運動タイプ」の文章と、そうでない「非運動タイプ」(認定・特徴・性質・属性・好み・能力・習慣などなど)の文章があるが、後者のタイプでは、時制に関わらず、否定はいつも「不」を使い、前者のタイプでは過去・(英語の)現在完了・現在の否定には「没(有)」、未来・意志の否定には「不」を用いる。具体的には次のように違う。

「不」の場合

(1)動作動詞や可変化動詞の前で未来の否定
(2)動作動詞の前で意志の否定
(3)非動作動詞(是・在・認識・像などなど)の否定(「没有」を除く)
(4)恒常的事実や習慣の否定
(5)性質形容詞の否定
(6)可能補語文(後述)の「得」の否定(「不/得」の「不」)
(7)様態補語(後述)の否定
(8)大多数の助動詞の否定 (能・要・肯・敢などの前で「没(有)」を用いることはあるが、
                   「没(有)」は会・該・可以・応該・愿意の前では用いない)

「没(有)」の場合

(1)実現済みあるいは実現中の行為・状態・事態の否定(ただし仮定形では未来のことにも用いる)
(2)「没(有)」+形容詞」で、状態・事態が起こっていないことを表す。「他的病還没(有)好」(まだ良くなっていない)
(3)動詞・形容詞にアスペクトマーカーの「了」「過」が付いた文章の否定
(4)結果動詞の否定(条件文や仮定文では「不」も可)
(5)方向動詞の否定(条件文や仮定文では「不」も可)


介詞句を含んだ否定文の場合、否定詞(「不」と「没(有)」)の置き所が、述語が動的か静的かで、次のように異なる。

 ( a ) 不あるいは没(有)+介詞句+動態的述語(動作動詞)
 ( b ) 介詞句+不あるいは没(有)+静態的述語(形容詞・状態性動詞・・・・遠・相識)

このため動作動詞が( b )の述語として入る場合、あたかも後者のようなニュアンスになる。つまり動作動詞の状態化である。

「他不跟小李打架」(彼は李ちゃんと喧嘩しない)→「他跟小李不打架」(彼は李ちゃんと喧嘩する間柄ではない) 

ただし「把」構文・「被」構文・使役構文における否定文はそれぞれの介詞(把・被・使などなど)の前に否定詞を置く。(末尾で詳述)

「是・・・的」文は「・・・」の部分を強調する構文だが、その否定形は、「是」の前に「不」を付けて「不是」とする。「他不是昨天来的、是前天来的」(彼は昨日来たのでなく、おととい来たのだ)。「他不是昨天来」の部分が否定形で、「前天来」の部分がもとの「是・・・的」文。



疑問形

疑問文には以下の種類がある。

(1)麼疑問文・・・・・・文尾に「麼?」を付ける。「他去麼?」
(2)没有疑問文・・・・肯定文の文末に「没有?」(・・・、じゃない?)を付け足す。「他去、没有?」
              ただし「听見没有?」(聞こえたか?)は「「听見没有听見?」の省略形で(3)の「反復疑問文」
(3)反復疑問文・・・・「他去不去?」「好吃不好吃?」といったように、同じ語の肯定形と否定形を反復する疑問文。
(4)選択疑問文・・・・「他去(還)是我去?」(~か、それとも・・・か?)という並列型の疑問文。「還」は省略できる。
(5)疑問詞疑問文・・疑問詞の位置は(英語とは違い)平叙文での当該語の場所。たとえば「他是父親」の場合、
              「父親」について誰か?と質問したいなら、「父親」と「誰」を入れ替えて「他是誰?」とする。これは
              「なに」「どの」「どこ」「いつ」「どんな」「どのように」「なぜ」「どれほど」などでも同じく平叙文で
              の当該位置になる。
(6)疑問詞疑問文・・疑問詞部分が不定的な用法になる。例えば「那児有甚麼東西?」(あそこに何がありますか?)は
               「疑問詞疑問文」だが、「那児有甚麼東西麼?」(あそこに何かありますか?)は 「疑問詞麼
               疑問文」で、「何」( what )は「何か」( something / anything )になる。他の疑問詞も同様。
(7)「是不是」疑問文・・「是不是」を述語の直前か、文頭あるいは文尾に置く。(~でしたよね?)の確認疑問文。
               「他是不是明天不来了?」(彼は明日来ないことにしたんですよね?)
(8)「文尾音調引き上げ文」・・普通の肯定文の最後でイントネーションだけ上げる。
(9)確認疑問文・・・・・「名詞+(口へん+尼)?」の形で、「じゃ、~はどうなの?」の疑問文になる。


なお、(6)の「疑問詞麼疑問文」で見た疑問詞の不定的用法は「何」「誰」のような代名詞に限らず「どこ」「いつ」「なぜ」「どのように」・・・といった疑問詞にも対応する。またそれを平叙文で使えば、「何か」「誰か」「どこか」「いつか」・・・・というように不定的用法でも使うこともできる。たとえば「他好像是誰的朋友」(彼は誰かの友達のようだ)。また、「都」や「也」を使って、「誰でも」「どこでも」「なんでも」などなど、「~でも」と訳せる時にも使える。たとえば「誰都知道」(誰でも知っている)。


介詞句を含んだ文を疑問文にする場合、「麼疑問文」「選択疑問文」「疑問詞疑問文」のほか「反復疑問文」がある。「反復疑問文」には「不」を介詞で挟んで介詞を反復形にするものと、述語を反復形にするものとがある。たとえば、「他們不在家吃飯?」と「他家離那児不遠?」


「是・・・的」文の疑問形は、「麼疑問文」と「反復疑問文」(「是」を「是不是」とする)があり、それぞれ例えば「那個菜他做的麼?」と「那個菜是不是他做的?」となる。


なお、形容詞には性質形容詞(大・高・好・白・清楚・・・・)と状態形容詞(雪白・大大・高高・好好児・清清楚楚・・・・)があり、状態形容詞は話者の生々しい気持ちを含んだ肯定判断なので、状態形容詞を述語とする文には基本的に否定文も疑問文も存在しない。

否定文・疑問文は性質形容詞を述語とする文章の方にあり、否定は「不」を用いる。疑問は「麼疑問文」(今天北京涼快麼?)か「反復疑問文」(今天北京涼快不涼快?)を用いる。この場合、性質形容詞に範囲や程度の副詞(也・都・很・・)が掛かっているときは「麼疑問文」の方を用い、「反復疑問文」は使わない。

これは「反復疑問文」がなんらかの予断や推量を確かめるためでなく、「~かどうか」を客観的に訊くものであるため。「麼疑問文」は質問者の予断や推量があってそれを確かめる場合に用いるので、主観的判断である範囲や程度の副詞を伴っても差し支えない。



疑問文に対する応答文の形式については、日本語で「はい」「いいえ」で答える応答文は、「是」疑問文(A是B麼?)に対しては「是」「不是」、「是」のない疑問文でも限定された事実(「他鋼琴学了一年了麼?」 彼はピアノを勉強して一年になりましたか?などなど)の疑問文に対しても「是」「不是」で答える。

また「是」のない一般の疑問文(たとえば「他為甚麼要離開? 彼はなぜそこから離れたのですか?など)に対してでも、肯定して返答するときは「確かにそうですよね・・・」という(質問者に同意する)意味合いで「是」を「是、・・・・」(・・・・部で本来の返答をする)という姿で使える。しかし否定の返事をするとき疑問文に「是」がないケースでは「不是」は使えない。

上記以外では、「はい」の場合は疑問文で使われている動詞や助動詞や形容詞をそのまま使い、「いいえ」の場合はそれらの前に適当な否定詞を置いてその否定形にする。 (他明天来麼?」─「来」/「不来」) (「他能不能看那本書?」─「能」/「不能」) (「外辺冷不冷?」─「冷」/「不冷」)

「はい」「いいえ」で答えられない疑問詞疑問文には、疑問詞によって訊かれている内容を盛り込んで適宜に答えるが、「是」を使う疑問詞疑問文には、「他是誰?」「(他)是我的父親」のように、やはり「是」を使って答える。 



補語

中国語は漢字一字を基本とする言語なので、動作も大抵漢字一字で表現する他ないが、漢字一字で表現できるものはおおむね一つの単純動作に限られる。動作の結果や方向、程度や状態、その可能・不可能、動作の相などを示す語を、主として一字動詞に付け加えて動作の補充情報とする。それが「補語」であるが、そうすると複雑で豊かな動作表現が可能になる。

これは動詞だけでなく性質や様態を表す形容詞についても言える。動詞に補語として後置されるものには動詞と形容詞があるが、形容詞に補語として接続されるものにも、同様に動詞と形容詞がある。

こうして補語として、アスペクト補語(相補語)結果補語方向補語程度補語様態補語可能補語が用いられるようになる。補語はそもそも追加情報なので、ほとんどの場合、動詞や形容詞や「得」の直に付加される。これは名詞の前に形容詞や形容詞句が、また動詞や形容詞の前に副詞や副詞句が置かれてそれぞれを修飾するのとは、前後関係が違う。しかし大抵はどちらにしても日本語順として取り扱える

補語が分かれば中国語は分かったと言えるほど、補語は非常に中国語的で、奥が深い。以下にこれらの補語について述べる。各補語文における肯定文と否定文の構造や疑問文の構造も整理しておく。ちなみにこの「補語」は英語の五文型のところで見た SVC や SVOC の補語 C とは異なる。



アスペクト補語

アスペクト補語には、進行相持続相完了相経験相近然相などがある。このなかで動詞に後置されるアスペクト相のマーカーは持続相の「着」、完了相の「了」、経験相の「過」で、進行相と近然相は前後から動詞を挟む。

これらは時制に関するマーカーのように見えるが、実は過去・現在・未来の時制に制約されない。進行相は英語で言えば進行形であるが、英語の進行形には過去進行形、現在進行形、未来進行形などがあるので、進行形・進行相が時制に制約されないものであることが分かる。

進行相と同じようなことは他の相についても言えるので、(ちょっと意外に思われるかもしれないが)アスペクト相は時制から自由なものである。中国語では時制は主に時の副詞で表現し、それをアスペクト補語で色づけする。


ところで、アスペクト補語文の否定は「没(有)」を動詞の直前に置いて行うが、否定によって上記のマーカーが消える場合と消えない場合がある。これには微妙な点があって、各相の場合を一つひとつ確認しておかなくてはならない。



(1)進行相・・・・「(正・正在・在)+V+(口+尼)」(~しているところである)(口+尼)は「口へんに尼)で省略可能。
           身体そのものの動作状態(立っているなど)には下記の身態相の補語「着」を使い、進行相を使わない。 


 (否定文)では通常アスペクトのマーカーは消える。ただし「在」だけは残ることがある。また、進行中のある動作を
        否定し、別の動作が進行しているのを示す時は、アスペクトマーカーの直前に「不是」を置く。つまりアスペ
        クトマーカーは消えない。

 (疑問文)には(文尾に「麼?」を置く)麼疑問文を用いる。


進行相は方向動詞文、全く持続性のない瞬間動詞の文、判断・存在・所属関係を表す動詞の文、心理活動や精神状態を表す動詞の文などなど、一般に「把+目的語+動詞」構文を構成しえない動詞の文では使用できない。




(2)持続相・残存相・身態相・・・・「V+着」  (~している。~している状態である) 

   持続相と残存相の違いは、固着性の有無にある。持続相は動作の持続、残存相は状態の固着。
   持続相は状態の意味で捉えるべきで、決して進行相と混同しないこと。

   「着」の機能を利用して

   「V+着+V」(~しながら・・・する)」(笑着 説)
   「V+着+V+着+V」(~しているうちに・・・する)(女孩子 哭着 哭着 睡覚了)
   「V+着+形容詞」(~してみると・・・だ)(那個菜 吃着 很好)

   という表現ができる。「~しながら」「~してうるうちに」を進行相の意味で捉えず、状態の意味で捉えること。


 (否定文)持続相のほかに残存相、さらに両者を併せた身態相もあって、既述のとおり、否定形で持続相の「着」は
         消えるが、残存相と身態相の「着」は消えない。身態相とは(横になっているなどなど)体の動作状態のこと。

 (疑問文)麼疑問文と没有疑問文を用いる。


この「着」は、結果補語文や方向補語文、前方に助動詞がある文、もともと持続の意味のある動詞の文、全く持続性のない瞬間動詞の文、判断・存在・所属関係を表す動詞の文、心理活動や精神状態を表す動詞の文などなど、一般に「把+目的語+動詞」構文を構成しえない動詞の文では使用できない。



(3)完了相・実現相・・・・「V+了」  (~した)・・・・変化して実現完了したというニュアンス

「了」を置く位置は、

◇単文の場合は動作動詞の直後。(我看了那本書)。
◇複文の場合で、(~してから)/(もし~したら)の意味の従属節(前方にある節)では、
  前方の動作動詞の直後。(明天我看了書、給他打電話)/(要是有了銭、我就還他)
◇連動文(~して・・・する)の場合は、後ろの述語の直後。(他来了一個問題)
◇重ね型動詞の場合やVO構造の動詞の場合は、中間に。(我看了看他)/(我畢了業、就去東京)

「了」を用いる完了実現相はあくまでも過去時制と異なる点に注意。

( a )「了」は「常常」「毎天」「常経」などの副詞を持つ過去の習慣文には付かない。
( b )繋合動詞( 是 / 在・姓・像・・)や心理動詞(希望・想・覚得・認為・・・)などの非動作動詞にも付かない。
( c )変化して実現完了したという意味合いを持たない単純過去にも付かない。
   「以前我這児的時候、還没有那座大楼」(以前わたしがここに来た時、まだあのビルはなかった)
( d )同じく過去進行形(継続中の過去動作)にも付かない。
   「以前我一直在北京漢語」(以前わたしはずっと北京で中国語を学んでいた)
( e )さらに、「以前我這本課本学習科学」(以前、私はこのテキストを使って科学を学んだ)のような、
   前の動詞後の動詞の手段や方法である前方の動作動詞)にも付かない。


 (否定文)否定でマーカーの「了」は消える。

 (疑問文)麼疑問文・没有疑問文・反復疑問文・疑問詞疑問文を用いる。


  否定で「了」が消えない例外は以下のとおり。

 ( a )「~してしまう」の意味で(忘・喝・呑・放・撞・傷・切・衝・還・毀などなど)のマーカーになる場合、
 ( b )「没有」が(なくなる)という意味で使われる場合・・・「没有手紙了」(ちり紙がなくなった)
 ( c )「没」の前に期間を現す語がある場合・・・「三天没下雨了」(三日間、雨が降らなかった)

完了相・実現相の文で動詞が目的語を持つ場合、その目的語は具体的なものでなくてはならず、名詞であれば形容詞的な修飾語句がなくては終われない。でなければ、言い切りの語気助詞である「了」が文尾に必要だ。

たとえば「我買了面包」は終止形としてはダメで、「我買面包」か「我買面包」、あるいは「我買了三個面包」「我買了給他的面包」「我買了法式面包」などなどとしなくてはならない。(「給他的」は「彼に与えるための」、「法式面包」は「フランスパン」)


一般に文末の助詞の「了」は、結果動詞動量詞、「動詞+了+単純目的語」の後にあって、動作の完了状況を表す。(「我們学到第六課了」─私たちは第六課まで学んだ / 「我看了那本書五遍了」─私はその本を五度読んだ / 「我買了面包了」─私はパンを買った)。

また「来/去+動詞+(目的語)」の過去形は「了」が文尾に来る。 「他去看電影了」(彼は映画を見に行った)

さらに文末の「了」は「時間量+了」の形で状況の継続を意味する。「我住了三年」は、「三年住んだ」という過去の事実を、「我住了三年了」は、「住んで三年になる」という状況の継続を意味する。

また文末の「了」は名詞動詞形容詞の後で、新状況の出現を意味する。(他是老師了・・・彼は教師になった。 他了・・・彼は泣き出した。天気了・・・寒くなった)



(4)経験相・・・・「V+過」  (~したことがある)

「過」を置く位置は、連動文では後ろの動詞の直後。重ね型動詞の場合は「過」は使われない。経験の「過」は「昨天」や「去年」などはっきりとした時間副詞とともに使われる。「有一天」(ある日)などなどの不特定な時間副詞とは両立しない。


 (否定文)否定でマーカーの「過」は消えない。しかし「過」が結果補語とも言える「終結」
        の「過」(~し終わる)に「了」が付いた「過了」の場合は消える。
        
 (疑問文)麼疑問文・没有疑問文・反復疑問文を用いる。


一般に副詞として肯定文では「曽経」(かつて)、否定文では「従来」(これまで)が使い分けられる。
「常常」があると「過」は使わない。また「把」構文ではふつう経験相の「過」は使わない。


完了相の「了」と経験相「過」の他に結果相とも言うべき「的」もまた過去に係わる。それぞれの違いは、たとえば「彼来過」(彼は来たことがある)は過去にのみ係わる。今もいるかどうかの判断は含まない。

「彼来了」(彼は来た)は動的変化を示し、「彼来的」(彼は来て、しばらくはいた)は「来た」という動的変化の結果起きた静的状態を表すが、ともに今もいるかどうかの判断を含んでいる。



(5)近然相・・・・「(要・快・快要・就要・将要)+V+了」 (まもなく~する)  

「将要」は書き言葉で、ニュースなどでも使われる。

「快」の入る「(快・快要)+V+了」の場合、経験相の「過」とは逆に、具体的な時間副詞を伴えない。

具体的な時間副詞を伴うには「就要+V+了」を使う。これはまた前方に「馬上」(すぐに)「眼看」(見る間に)などを伴って切迫感を表す。

「快+V+了」の場合、V のところに形容詞や名詞が入ることもある。(「天快亮了」「快春節了」)


 (否定文)なし。近然相はもともと肯定予想判断。否定する時は、「近日不会開」(近々開かれることはない)など、
        別構造の文章で行う。
        
 (疑問文)麼疑問文を用いる。




結果補語

中国語の一字的機能のため一字動詞によってはその動作の結果までは示されず、結果を示す補語の動詞や形容詞を後置して補充する。むろん二字動詞にも結果補語は付くが多くはない。結果補語を伴う動詞を「結果動詞」と呼ぶ。本動詞と結果補語との結びつきは強く、他の要素が間に入ることはない。

結果動詞は本動詞のあとに結果補語を伴うので、(意味上から見ても)その直後に完了相の「了」や経験相の「過」と結びつきやすい。もし結果動詞に目的語があるなら、「」「」や目的語は(動詞と結果補語の間ではなく)この結果動詞の後方に置く。(「我以前那衣服」「他已経那本書」)。

ところで、結果動詞はもともと時制に関係なく動作の結果を表すのであって、過去だけでなく未来にも使える。ちなみに持続相の「着」は(意味上からも)結果動詞と結びつかない。

形容詞は日常的に使われるものは、そのほとんどが結果補語になりうる。反対に、結果補語になれる動詞は数少なく、「成」「到」「倒」「給」「会」「見」「開」「完」「在」「走」などなどだが、なかでも注目のものは「着」と「住」で、「着」は「偶然にも~する」「うまく~した」と訳せる動詞を合成し、「住」は動作の確実性・耐久性・持続性を示す。


「-着」・・・「猜着」(うまく考え当てる)。「看着」(気づく)。「听着」(聞きつける)。「打听着」(聞き出す)。「想着」(思いつく)。「遇着」「見着」(探し当てる)。「打着」(的に命中する)。「捉着」(うまく捉える)。「点着」(火を炊きつける)。「記着」(覚えこむ)。「信着」(信じ込む)。「咬着」(咬みつく)・・・・

「-住」・・・「抓住」(取り押さえる)。「釘住」(釘付けする)。「閉住」(耳目を閉じる)。「遮住」(固くさえぎる)。「囲住」(取り巻き固める)。「站住」(立ち止まる)。「蔵住」(深く隠す)。「記住」(覚えこむ)。「選住」(選定する)。「忍住」(耐え忍ぶ)。「逼住」(追い詰める)。「等住」(待ち伏せる)。「凍住」(凍りつく)・・・・


ご参考のため他にも、「好」が動詞として「ちゃんと」の意味で補語になるケースがよく見られる。「做好」(ちゃんとする)、「吃好」(ちゃんと食べる)。ちなみに「好」が(補語でなく)動詞の前に来る時は「~しやすい」「~の感じが良い」の意味になり、「好唱」(歌いやすい)、「好吃」(おいしい)、「好看」(面白い)などなどになる。

形容詞の補語の例としては、「買多」(多く買う)、「買少」(少なく買う)/「写大」(大きく書く)「做大」(大きく作る)/「説対」(正しく言う)「説錯」(間違って言う)/「忘光」(すっかり忘れる)「用光」(使い果たす)「売光」(売り切れる)「吃光」(残さず食べる)などなど。補語の「光」は形容詞で「きれいさっぱりなにもない」の意味。二字の形容詞補語としては「清楚」「干浄」などがあり、たとえば「講清楚」(はっきり話す)「洗干浄」(きれいに洗う)。

ちなみに「動名詞」のところで言及したように、結果動詞の名詞的用法はない。


 (否定文)結果補語文と後述の方向補語文の否定はアスペクト補語と同じく「没(有)」で行うが、条件や仮定の
        意味が含まれる場合、「不」が用いられる。否定詞の位置は結果動詞全体の直前。
        
 (疑問文)麼疑問文と没有疑問文を用いる。




方向補語

方向補語を伴う動詞を「方向動詞」と呼ぶ。

方向補語には、

(1)単純1類・・・(来・去)が動詞の直後に付加した形( V+来 / V+去 )、
(2)単純2類・・・(上・下・進・出・回・過・起・開)の八つが動詞の直後に付加した形、
(3)複合類・・・・上の八つの方向補語にさらに(1)の(来・去)が付加した形

の三つがある。下の表を参照。

上来 下来 進来 出来 回来 過来 起来 開来
上去 下去 進去 出去 回去 過去


英語で言えば、(1)の「来」は come 、「去」は go である。「来」は話し手方向、「去」は話し手から離れる方向を示す。たとえば「他 進来 了」は(彼は入ってきた)となる。

(2)の八つは英語では、それぞれ up / down / in / out / back / past / up / off などに当たる。たとえば、「他們 都 唱 歌 走 公園了」は「」がアスペクト持続相マーカー、「」( in )が方向補語で、「彼らはみんな歌いながら公園の中に歩いて入った」となる。

さらに(3)のケースのように「走進」に(1)の「」を付け加えて「他們 都 唱着 歌  公園 去了」とすれば(彼らはみんな歌いながら公園の中に歩いて入っていった)となる。(2)の「入った」より「入って行った」の方がより動態的に表現されている。

ちなみに、「起来」は「立ち上がる」や「拾い上げる」など同じ場所での下から上へを表現し、「上来」は「地面をけって中空に跳び上がる」など下から上への場所の移動を表現する。


単純1類と複合類、つまり方向補語の「来・去」の存在する文で目的語があるとき、ほとんどの場合、目的語は「来・去」の直前に置く。「起来」が持ち運べる非場所目的語を持つ場合も同じ。目的語が場所目的語である場合、目的語は必ず動詞の後、「来・去」の前に置く。

(単純1類)「他們 都 唱着 歌 走 公園 去了」
(複合類) 「他們 都 唱着 歌  公園 去了」

ただし目的語が持ち運べるもの(非場所)である場合、(存現文では述語動詞の後に意味上の主語である非場所の不特定目的語が来るので)、単純1類のとき、「動詞+来・去」(述語動詞)の後ろに非場所の不特定目的語が来る。複合類のときは「動詞+来・去」の後ろでも、「来・去」の前でもよい。

(単純1類)「屋里走来一個人」(部屋から人がひとり歩いてきた)
(複合類) 「屋里走出来一個人」 / 「屋里走出一個人来」 (部屋から人がひとり歩いて出てきた)

また目的語が持ち運べるもの(非場所)で動作がすでに完了しているとき、目的語は「来・去」の前後どちらでも良い。

(単純1類)「他帯那本書来了 / 他帯来那本書了」(彼はあの本を持って来た)  
(複合類) 「他帯出那本書来了 / 他帯出来那本書了」(彼はあの本を持って出て来た)

「把」構文のときは、「把+非場所目的語+動詞」の姿になり、全体で一つの動詞のようなものになるので、動詞が単純1類や複合類の方向補語を伴っても、目的語は動詞の前、「把」の後にくる。

(単純1類)「明天他把那個東西帯来」(明日彼はあれを持って来る)
(複合類) 「明天他把那個東西帯回来」(明日彼はあれを持って戻って来る)

またすでに言及した「~は・・・が」の「~は」が「~については」の意味で文頭に来る場合、目的語は文頭に来るので方向補語の位置と無関係になる。

(単純1類)「那個東西我拿去」(あれは私が持って行く)
(複合類) 「那個東西我拿出去」(あれは私が持って出て行く)


単純2類(上・下・進・出・回・過・起・開)の場合、「動詞+単純2類+場所目的語」となる。これらが非場所目的語を取るとき、ほとんど「来・去」と結合して複合類になる。しかし「進 / 出 / 開」がまれに単純2類として非場所目的語を伴い、「動詞+(進 / 出 / 開)+非場所目的語」の語順になることがある。「我拿出一張紙給他」(私は紙一枚を取り出して彼に与えた)


方向補語文の否定はアスペクト補語と同じく「没(有)」で行うが、仮定の意味が含まれる場合、結果補語文と同じく「不」が用いられる。

 (否定文)結果補語文と方向補語文の否定はアスペクト補語と同じく「没(有)」で行うが、条件や仮定の
        意味が含まれる場合、「不」が用いられる。否定詞の位置は結果動詞全体の直前。
        
 (疑問文)麼疑問文と没有疑問文を用いる。




方向補語の派生形態

動作動詞にもはや移動方向性を失ったいわば虚詞ともいうべき「上」「下」が補語となったものもある。本来の意味がなくなったので、「上」も「下」も意味の差はさほどない。「上」「下」が補語として付くことで「何かが仕上がる」「何かが極まって帰結する」という含意などが生じる。

「-上」・・・「取上」(取り切る)。「穿上」(着終わる)。「関上」(閉め切る)。「盖上」(被せ切る)。
       「鎖上」(鍵をかけてしまう)。「貼上」(貼り付ける)。「釘上」(釘付けにする)。「装上」(積み切る)。
       「騎上」(乗り込む)。「遇上」(バッタリ出会う)。「埋上」(埋めおおせる)。「種上」(植えつける)。
       「点上」(炊きつける)。「加上」(付け加える)。「写上」(書き上げる)。「画上」(描き上げる)。
       「編上」(編み上げる)。「数上」(数え上げる)。「吃上」(食べ切る)。「殺上」(殺しつくす)。
       「花上」(使い果たす)。「学上」(学び取る)。「派上」(送りつける)。「選上」(選び当てる)。
       「当上」(~になってしまう)。「愛上」(ほれ込む)。「恨上」(恨みを持つ)。「信上」(信じ込む)。

「-下」・・・「座下」(座り込む)。「睡下」(眠り込む)。「站下」(立ち止まる)。「住下」(住みつく)。
       「剰下」(残ってしまう)。「留下」(残しおく)。「放下」(置き放す)。「脱下」(脱ぎ捨てる)。
       「解下」(解きはらう)。「定下」(取り決める)。「修下」(仕上げる)。「買下」(買い置く)。
       「打下」(取り入れておく)。

「-過」・・・通過・移動・超過・優越などの意味になる。

「-来」・・・「看・説・听・想」の後に付いて「~してみると」の意味になる。


そのほか(下記上段のように)方向補語の複合形の派生形態もある。複合形の場合、動詞に目的語があると、一般に目的語が複合補語の間に挟まれる形と複合補語の後に置かれる形がある。たとえば間に目的語が入る例としては(「打」(戦争を起こす)。目的語のない「動詞+起来」のとき「起来」は(具体的方向や動作を示す場合のほかは)軽声化する。  (「仗」は「戦争」、「打仗」で「戦争を起こす」)


「-上来」・・・上昇動作・昇級動作・接近・発話・漸進  発話の場合、動詞は「説・唱・学・答・背・回答・叫・念」などに
         限られる。
「-上去」・・・上昇動作・付加結合・離れつつ目標接近
「-下来」・・・継続・分離離脱・固定在留
「-下去」・・・動作あるいは状態の継続
「-起来」・・・起動・開始・集中・派生・「~してみると」
「-過来」・・・こちら向きになる。正常化する。満ち足りている。多くは「ー不過来」(満ち足りていない)で使う。
「-過去」・・・あちら向きになる。非正常化する。なんとかやりすごす。
「-出来」・・・外側に出てくる。明白になる。仕上がる。

「-出去」・・・内から外へ話し手から離れる。
「-進来」・・・動作に伴って内側に入ってくる。─場所目的語があるとき「進来」の間に入り、「進来」の後に来ない。
「-進去」・・・動作に伴って内側に入っていく。─場所目的語があるとき「進去」の間に入り、「進去」の後に来ない。
「-回来」・・・元の場所に戻ってくる。 
「-回去」・・・元の場所に戻っていく。
「-開来」・・・事物が開いたり、分かれたり、離れたりする。 ─ 目的語は「開来」の後に来る。


方向補語の派生形態においても、一種の方向補語の延長として、単純方向補語でも複合方向補語でも、大抵は普通の方向動詞と同様に「不/得」を使った可能補語文(後述)を構成できる。これは可能補語が結果補語と方向補語から派生したため。たとえば、単純方向補語(走得進・走不進)  / 複合方向補語(走得進来・走不進来)




「得」補語 (程度補語・様態補語・可能補語)


以下の「程度補語」と「様態補語」および「可能補語」の三つは全て「得」という字が係わっている。そこでこれらを「得」補語という名称で括ることにする。

程度補語と様態補語の場合、まず形容詞や動詞の語や句や節があって、それに「得」が続き、そのあと補充情報として動詞や形容詞の語や句や節が付け加えられる。つまり「得」の後方で、程度補語の場合はその程度を、様態補語の場合はその結果や状態や様子を追加する。

可能補語文は結果動詞・方向動詞の本動詞と補語との間に(「得/不」)が入って、補充的に補語の内容の可能・不可能を示す。



程度補語


「得」の次に「すごい」「たいへんな」「たまらない」などを補語として従える。たとえば「我高興得很」(私は嬉しくてたまらない)では「得很」の「很」として「高興」の程度を補充情報として示す。これは「得多」「得慌」も同じである。他にも「不得了」「了不得」「要命」「要死」「不行」などが「得」の次に来る。たとえば「他們都急得不得了」(彼らはみんなとても焦っている) (都・・・とても  急・・・焦る)


 (否定文)慣用文的な用法が中心。
        否定詞の「不」は「不得了」「了不得」「不行」などの慣用表現の中にすでにある。
        
 (疑問文)疑問文としてはあまり見ない。


「死」「極」「透」「壊」「多」を使う(「得」なしの)程度補語もある。これらは形容詞と感情動詞(感動・喜歓・討厭・気・急・楽・笑・恨・火など)に直続し、「了」を直後に伴って「死了」「極了」「透了」「壊了」「多了」の姿で多く文末を成す。「極めて」「大変」「ひどく」「ずいぶん」といった意味を持つ。

「極了」と「多了」は良い意味にも悪い意味にも使い、「死了」「透了」「壊了」は主に悪い意味に使う。「多了」だけは比較文でのみ使う。「我累死了」「我高興極了」「衣服湿透了」「他把那個玩具弄壊了」「他比我好多了」




様態補語


これは「得」の直前に形容詞か動詞、後方に形容詞か動詞の語や句や節文が来るので、

( a )形容詞+得+形容詞・・・「動作慢得出奇」(動作がのろくて普通でない)
( b )動詞+得+形容詞・・・・・「他的漢字写得又漂亮又整斉」(彼の字は美しく又整って書かれている)
( c )形容詞+得+動詞・・・・・「那座山白得像雪」(あの山は雪に似るほど白い→雪のように白い)
( d )動詞+得+動詞・・・・・・・「昨天走得脚都痛了」(昨日は足がすっかり痛くなるほど歩いた)

以上四種類の組み合わせがある。動詞の場合は動作動詞でなくてはならない。その補語は動作の状態を補足説明するものなので、単なる事実説明あるいは動作主体の感情表示のときは様態補語を使えない。たとえば「広東話学習得很難」や「他走得不好意思」は使えず、それぞれ「広東話很難学」(広東話很難以学習)や「他們不好意思地走了」(彼等はきまり悪くて行ってしまった)にする。

( c )( d )のように後方に動詞がある場合、後ろ側から「~するほど・・・しい」「~するほど・・・する」と訳せる場合が多く、( a )( b )のように後方に形容詞が来る場合、「~しくて・・・しい」「~するのが・・・しい」と訳せることが多い。

前方に動詞があるとき「得」の後方の補語は(その動詞の動作がもたらす)「主観的評価」か「状態描写」か「結果の状態」を表し、前方に形容詞があるときは多く「程度」を表す。

ところで「得」の直前は動詞か形容詞なので、動詞に目的語がある場合、目的語を動詞の直前に置くか、動詞を「VOV+得+・・・」のように繰り返す。

たとえば前者は「他鋼琴得很好」、後者は「他鋼琴得很好」(彼はピアノを弾くのが上手だ)。
これは「他的鋼琴弾得很好」とも、また「鋼琴、他弾得很好」とも表現できて、これらの場合は先の前者同様、動詞を繰り返さなくても良い。


 (否定文)「不」で補語の部分を否定。様態補語文の強調ポイントは補充情報の方にあるから、否定もそこを否定する
        必要があり、「得」の後方に「不」が入る。、前方の動詞の前に「不」は来ない。
        「他来得不早」 彼は来るのが早くはない。

                
 (疑問文)麼疑問文と反復疑問文などを使う。反復疑問文は補語の部分で反復する。
        「他来得早不早?」 彼は来るのが早いですか? 




可能補語


可能補語は結果補語と方向補語から派生したもの。可能補語文は結果動詞・方向動詞の本動詞と補語との間に(「得/不」)が入って、補充的に補語の内容の可能・不可能を示す。

これは可能補語文の肯定形と否定形となる。「不/得」の前方に形容詞は来ず、来るのは動詞だけなので、「動詞+不/得+動詞」あるいは「動詞+不/得+形容詞」の二種類となる。

補語には動詞や形容詞がある。形容詞の場合、肯定形と否定形はたとえば、

「吃得飽」(食べて・腹いっぱいになり得る)
「吃不飽」(食べて・腹いっぱいにならない)

一般形は次の(1)であり、(6)は不/得のあとに補語のない特殊な用法である。


(1)動詞+不/得+動作・行為の結果を表す成分・・・「那工作我做得完」(あの仕事はやり終えられる)
(2)動詞+不/得+「了」(終える、しまう、しきる、を表す成分)・・・「那件事我忘不了」(あの件は忘れきれない)
(3)動詞+不/得+(移動・変改・変形の)「動」・・・「他已経走不動了」(彼はもはや歩けなくなった)
(4)動詞+不/得+(収容できるの)「下」・・・・「那輌車座不下五個人」(あの車は五人は座れない)
(5)動詞+不/得+(能力や資格がある)の「起」・・「那個貴的菜、我吃不起」(あの高価な料理、私は食べられない)
(6)動詞+不/得・・・・(~するのに差しさわりがない/ある)・・・「那個菜吃得麼?」(あの料理は食べられる?)


( a )一般に可能補語文は「不」を用い、否定的用法が圧倒的に多い。これは「不能」を用いて一般文のように
   表現すると、「できない」と「いけない」とを混同するからでもある。つまり「できない」を一意に表したいために、
   可能補語文は主に「不」を用いることになる。
( b )その代わり、可能補語文の肯定的用法(つまり「得」を使った用法)は主に疑問文で用いられる。
    さらに確信が持てない場合や婉曲否定の場合も(疑問文に準じるものとして)「得」を使う。
( c )平叙文で「できる」と肯定する場合、「得」ではなく、「能」や「可以」を代用する。
( d )動詞が複数の連動文では可能補語文が不可能なので、可能補語文の「不/得」でなく普通の助動詞の
    「能」「不能」を前方の動詞の前に置いて可能・不可能を表す。


「得」を共通に使うおかげで「様態補語文」なのか「可能補語文」なのか区別しにくい場合もある。たとえば、「写得清楚」は様態補語文としては(書き様がはっきりしている)だが、可能補語文としては(はっきり書ける)である。両者の意味の区別は文脈から行う他ない。


 (否定文)否定は「不/得」の「不」を結果動詞・方向動詞の間に入れて行う。
                
 (疑問文)疑問文は主に肯定形(「得」)で利用され、麼疑問文あるいは反復疑問文を用いる。
        反復疑問は「不/得」の「得」と「不」とを使って繰り返す。たとえば「那件事的謎 他猜得着 猜不着?」
       (あの出来事の謎、彼は解けますか?」(猜着(言い当てる)は結果動詞、ここでは不/得の「不」を使用)



「把」構文・「被」構文・「使」構文


「把」構文の処置性は「被」構文の受動性と表裏一体の関係にある。何かを処置するのは、視点を変えれば、何かが処置されるということ。そこから「把」構文で言えたことが「被」構文でも言えることになる。

意味の上では、「A+把+B+V」(AがBをVする)は「B+被+A+V」(BはAにVされる)に置き換えることができる。

「語順」の章の冒頭部分で述べたように、ともに多くは把促性・把捉連想性・処置性のある動詞でなくてはならず、「把」構文では「把」目的語(B)の、「被」構文では主語(B)の特定性も要求され、また動詞が単独で使えない点も多くは同様である。

さらに「把」構文と「被」構文はともに可能補語を取れない。この点も同様である。ただし「被」構文で使える動詞は「把」構文ほど厳しく制約されない。「把」構文では思惟・感覚・談話動詞などの動詞はダメだったが、「被」構文ではそれが多くは許される。

「被」構文の「被」はまた「譲」「叫」「給」に置き換えうる。「譲」「叫」「給」は話し言葉でよく使われる。これらはみな介詞である。

「被」構文はまた受動構文であるばかりでなく、使役構文でもある。「叫」「教」と「譲」は受動にも使役にも使え、「被」「給」は受動のみに使う。「令」「使」請」「求」は使役に使う。「給」は受動の介詞でもあり、また他の受動の介詞を補うものにもなる。

「令」「使」請」「求」などは「強制動詞」とも呼ばれ、兼語文(前の動詞の目的語が後ろの動詞の意味上の主語になる文)を構成する。受動構文と使役構文とは全く同じ構造なので、「叫」「教」「譲」を使う場合、内容から両者を区別しなくてはならないケースも生まれてくる。

ところで介詞構文では、介詞構造(介詞+目的語)の前に否定副詞や助動詞や副詞を置く。これは「介詞構造+動詞」を一つの動詞と見る中国語の特性のため。したがってこれは「把」構文(処置形)にも「被」構文(受動形)にも「使」構文(使役形)にも適用できる。ただし「也」「都」「全」「全部」などの(範囲を示す)副詞は介詞構造の前にも後にも入りうる。

これをみると「把」構文だけでなく「被」構文も「使」構文も、介詞(「把」「被」「使」などなど)を伴った介詞構造文(主語+介詞構造+動詞)であることがわかる。介詞がそもそも動詞由来であることを考えると、ある意味で上記の強制動詞も一種の介詞のようなものでもあることになる。



「把」構文・・・処置形


「把」構文の「把」はその字の通り「把捉」「把握」の意味を持つ。それが拡大し把捉が連想される対象についても、さらに処理・処置が可能な対象に対しても使われることになる。

むろん判断・存在・所属関係を表す動詞(是・像・有・在)にはそうした処置は不可能だし、思惟・感覚・談話動詞(知道・想・記・看・听・相信・希望・以為・覚得・・・・・)/方向動詞(来・去・到・上・下・進・出・回)/偶発動詞(看見・听見・遇到・感到)なども使えない。「把」にはその目的語が必要だが、目的語の取れない自動詞(旅行・休息・走などなど)・離合詞のVO動詞(生気・畢業・結婚・看病・握手・見面・録音・・・)も排除される。

「把」構文はまた「把」目的語の特定性を必要とするが、把捉して処理しなくてはならないから、特定性は当たり前。「把」目的語は話し手と聞き手にとって既知のもので、たいていは指示代名詞などの限定修飾語を伴う。

また把捉してどのように処理するのかを補充情報として示すところに重点があるので、一字動詞あるいは裸のままの動詞だけではダメ。動詞の直前になんらかの修飾語があるか(「把手一揮(手を振る)」の「一」など)、直後に、助詞の「了」や「着」を付けるとか、動量詞(一次・一下など)を付加するとか、同じ動詞で動詞を重ね型にするとか、その他、処置結果の状況を示すなんらかの修飾が必要になる。

すでに上で詳しく述べた(可能補語以外の)結果補語や方向補語、様態補語、アスペクト補語でも良いし、間接目的語(~に)でも良い。結局、動詞の直前直後に処置結果を示す何かが付けば良いとも言える。これはまた処置の結果を(意識して)示す語句が動詞の前後に来る場合、必ず「把」構文を使うということでもある。つまり把構文は話者が目的意識的に具体的な何かについてどうするかを示す構文である。


動詞の後方に来る場合、構文としては、 動作者+「把」+受動者+動作動詞+結果 という姿になる。
たとえば、他 把門 推了 / 他 把衣服 洗干浄了 / 他 把銭包 放在書包了 /

「把」構文は把捉して処理するので、(特定のものを)、

(1)どこかへ持っていくとか(把+O+V+到+場所)
(2)どこかに持っていってそこでなにするとか(把+O+V+在+場所)
(3)何かに変えるとか(把+O+V+成+変身先)
(4)誰かになにする(把+O+V+給+相手)

とかの文章を構成することもできる。さらに「~を・・・とする(当做)」「~を・・・と看做す(看做)」「~を・・・と呼ぶ(叫做)」の場合も使える。(「做」は「~と」)

また、もしうっかりミスを示したいのであれば、「把」構文で示す。でなければうっかりミスの意味合いは消える。「那玩具、我孩子已経弄壊了」(あのオモチャは私の子供が意図して壊してしまった)

否定形と疑問形の構造も「把」構文と「被」構文は似ている。

否定形は、不あるいは没(有)を「把」の直前に置く。(「他没把傘帯来」彼は傘を持って来なかった)。助動詞がある場合は助動詞を「把」の前に置き、それが否定文のときはその助動詞の前に否定詞を置く。 (「他不能把傘帯来」彼は傘を持って来られない)

疑問形は麼疑問文・没有疑問文・反復疑問文などがある。反復疑問文は「把」を「把没把」というように反復する。(「他把没把傘帯来?」彼は傘を持って来たか?) 助動詞のある場合は助動詞の反復形になる。「他能不能把傘帯来?」(彼は傘を持って来られないの?)


ちなみに、ここで「VO構造」の動詞について少し言及する。VO動詞はその中にすでに目的語があるので、さらには目的語を取れない。だから「畢業」(卒業する)はさらなる目的語を取れない。すると「大学卒業する」をどう表現するのか?

その場合は「畢業」の前に意味上の目的語を置いて「大学畢業」(大学は卒業する)とか、「従大学畢業」(大学から卒業する)とか、「于北京大学畢業」(北京大学で卒業する)とか、「我在北京大学畢了業了」(私は北京大学を卒業した)の形にする。

離合詞のVO動詞が目的語を持つ場合、このように介詞を用いて「介詞+目的語+VO動詞」とするのが一般的だ。どの介詞を使うかは、おおむね「結婚」など相手と一緒の行動の場合は「跟」「和」、「敬酒」など相手のためであれば「給」、「畢業」など場所を示す場合なら「在」「来」「去」を使って目的語を導く。

また動作の長さの場合はVOの間に時間量を置く。すでに「数量のある場合の語順」のところで見たように、数量詞は動詞や形容詞の後に置くが、動詞に目的語があるときは、その目的語の前に置く。したがってVO動詞の数量詞はVOの間に入る。たとえば「睡覚」の場合は「八個小時」(八時間眠る)、「遊泳」の場合は「一個少時」(一時間泳ぐ)となる。




「被」構文・・・受動形


受身マーカーのない受動形

たとえば、「菜 已経 做好 了」は、文頭に主語が来るという中国語の文法的規約によって(料理は もう 作られた)という受動の意味になる。一見、たとえば、「菜 我 已経 做好 了」の主語(我)が省略され、さらに目的語(菜)が文頭に倒置されたかのような形だ。

受身マーカー(「被」「譲」「叫」「給」「教」)のある受動形  (受動者+「被」+能動者+V)

「在公共汽車上 我 被小偸児 吃 了」(乗り合いバスの中で私は盗人にしてやられた)


受動形の構造は(受動者+「被」+能動者+V)だが、「被」を用いる受動文では「人々」といった一般的な能動者を省略できる。「他被選為主席了」(彼は主席に選ばれた)。(「為」は「~に」「~として」)。 詳しくは「被」「給」を使用する場合は能動者があってもなくても良いが、「叫」「譲」の場合は能動者が必ず要る。

元来、受動形は悪い意味がそもそもの用法である。しかし英語の受動形に影響されて「被」の場合は良いことにも悪いことにも使えるようになった。とはいえ「被」より口語的な「叫」「譲」「給」は悪いことに使う傾向が強い。

「被」構文は「把」構文と対比関係にあるので、動詞も裸のままでは使えず、受動の結果を示す結果補語や変化を表す「了」など、なんらかの要素が後方あるいは文尾に必要だ。ただしいつもされている場合は、二音節動詞であれば、裸でも可能で、このとき「被」など受身マーカーの前に「常」「常常」その他の副詞を伴うのが普通。

受身には「為/被+名詞+所+動詞」のかたちで「所」を使う場合もある。たとえば「我為他所笑」/「我被他所笑」(私は彼に笑われる)。ただしこの「所」がなくても「我被他笑」のままで受動形にはなっている。つまりこの「所」は関係代名詞の段で見たのと同じく虚詞的。


否定形否定詞(不あるいは没(有))を「被」の前に置く。「他被選為主席」(彼は主席に選ばれない)。助動詞文の場合は助動詞を「被」の前に置く。「他被選為主席」(彼は主席に選ばれる筈だ)。むろん助動詞否定文の場合はさらに否定詞を助動詞の前に置く。「他被選為主席」(彼は主席に選ばれる筈がない)

疑問形は「他被選為主席了麼?」のように麼疑問文もありうるし、「他被選為主席了、没有?」のように没有疑問文もある。また「他被選為主席?」のような反復疑問文も可能。




「使」構文・・・使役形


使役構文は受動構文と同じ構造をして受動構文と同じく「叫」「譲」「教」を用いる。「叫」「教」「譲」は受動にも使役にも使える。他にも、「令」「使」「請」「求」があり、これらは受動ではなく使役に使う。

使役構文は兼語文(前の動詞の目的語が後ろの動詞の意味上の主語になる文)を構成する。受動構文と使役構文とは全く同じ構造なので、「叫」「教」「譲」を使う場合、内容から両者を区別しなくてはならないケースも起きる。

これらは通常、前に主語を置いて使われ、「請」は目下から目上へのお願いを表す。この「請」を「~してください」という場合の(主語の要らない)「請」と混同してはならない。「叫」は目下に何かをさせるときや同年輩に頼むときに使われる。「譲」は目下に何かをさせる時に使われる。また「譲」は目上に使うと謝罪を前提とした丁寧な使役にもなる。「使」の用法は主語が人物でなく非動作的な抽象語句である場合が多い。

否定形は「不」か「没」を、「叫」「教」「譲」/「令」「使」「請」の前に置く。助動詞がある場合は「不」か「没」をその前に置く。

疑問形は麼疑問文・反復疑問文などが可能。反復疑問文は「叫」「教」「譲」/「令」「使」「請」「求」を反復する。
     (「他叫不叫我孩子去買豆腐?」 彼は私の子供に豆腐を買いに行かせるの?)



連動文


最後に「連動文」について。連動文には、

(1)単純連動文
(2)兼語文型連動文(「兼語文」)
(3) to不定詞型「有」連動文

の三つがある。

(1)「単純連動文」は「V(+目的語)+V(+目的語)」構造の文で、「VしてVする」というようにVの間には(時間あるいは因果あるいは目的あるいは方法・状況などの)前後関係がある。「V」が「来」「去」のときは、それの目的語なしに「VV(+目的語)」も良い。「他去玩児」(彼は行って遊ぶ→彼は遊びに行く)。

時間の前後関係の例では、「他回家吃飯」(彼は家に帰って食事をする)。<移動動詞と目的動詞>
因果の前後関係の場合は、「我有事没能去」(私は用事があって行けなかった)。<原因動詞と結果動詞>
方法の前後関係の場合は、「我用刀子刻一座像」(私は小刀で一体の像を彫る)。<手段動詞と目的動詞>
目的の前後関係の場合は、VがVの目的を示し、「我去郵局寄信」(私は手紙を出すために郵便局に行く)となる。<動作動詞と目的動詞>

これらの単純連動文について、完了相の「了」や経験相の「過」は後ろの動詞の直後に付き、「不」「也」「都」などの副詞は普通は前方の動詞の前に付く。

(2)「兼語文型連動文」は、第二章「語順」冒頭で五文型の紹介をしたときに、主動詞(V)の目的語が(意味の上で)後続の第二動詞(V2)の主語の役割をする英語の第五文型(SVOC)に似た「兼語文」として言及した。すなわち「S+V目的語+V(+目的語)」構造で、V目的語はむろん不可欠。

主動詞(V)には使役動詞・強制動詞・呼称認定動詞・「有」などがある。「有」の例文として「附近有人叫趙」を挙げた。この例文では「有」の文法上の目的語の「人」は意味の上で「叫」(~と呼ぶ)の主語の役割を果たしている。他には「他有個朋友叫趙」(彼には趙と呼ぶ友がいる)も同様。

(3)「 to不定詞型「有」連動文」は、「的」と関係詞について述べたところで言及した「我有工夫写信」( I have time to write letter )の形の文である。これは「有」の文法上の目的語の「工夫」( time )が(上記のようには)動詞「写」( write )の(意味上の)主語にはなっていないケースで、「写信」を「工夫」にかかる to 不定詞句として見る。




中国語の有効な無料学習法として、Yahoo の翻訳サイト( http://honyaku.yahoo.co.jp )を利用すれば良い効果が得られるだろう。左に日本語、右に中国語を選び、そこに自分が必要と思うポイントを含む様々な日本語の文章を入力して中国語に翻訳させる。できれば(辞書や文法書などで正誤の最終確認をしたあと)意味・読み・四声とともに、翻訳結果をできるだけ覚えてゆく。日常生活の中国語から政治経済文化のそれまで、なんでもやってみる。毎日これをやってみる。これで次第に中国語が身に付いていく筈である。


ところで私がぜひともお勧めしたい方法は、ちょっと手間はかかるが、俳優がシナリオの一場面を丸覚えするのにヒントを得たやりかたである。200~300字の中国語テキストの一場面分を(リスニングを繰り返しながら・テキストを垣間見ながら)丸ごと自分の日本語に翻訳して、そのあと、その自分自身の日本語の翻訳文を見ながら中国語に、口に出して逆翻訳(元のテキストの再現)する。正確にしっかり逆翻訳できるまで何回も逆翻訳を繰り返す。こういう学習法を20場面ほど続けると、耳単語もしっかり覚えることができて、びっくりするほどリスニングも進展するし、スピーキングも捗る。50場面ほどやりこなせば、中国語はほぼマスターできている。はじめは一場面分に数日かかるかもしれないが、そのうち一日で一場面分が出来るようになり、その後だんだん実力が増して、いつしか一日に数場面分でも出来るようになる。むろん本物のシナリオである必要はない。市販の学習書にある会話体でない通常の例文を使っても同じ効果が望める。むしろこちらの方が良いかも知れない。手間と覚悟が必要だが、ぜひともこの方法を試していただきたいと思う。




またリスニングの練習には、

(1)「中国語リスニング強化」(http://bitex-cn.com/gsitemap/rss_news.xml)が非常に良い。アンダーラインのある灰色の題目をクリックすると、テキスト・ナレーションだけでなく、和訳・ピンイン表記もあり、また、学習スロー版と標準スピード版の二種のナレーションもあって、中国語の学習にはもってこいのサイトである。初級・中級者向けのサイト。

(2)さらに「NHK WORLD Chinese」(http://www.nhk.or.jp/nhkworld/chinese/top/index.html)を利用するのも良い。アナウンサーによるニュース放送が聞け、同時にそのスクリプトも見られる場合がある。アナウンスが結構速いので、リスニングの上級段階を目指す中級学習者の活用すべきサイトである。

問題はあれこれのニュースがまとめて次々にアナウンスされており、スクリプトはあってもアナウンスのないものや、アナウンスはあってもスクリプトのないものなどがあって、スクリプトのあるアナウンス部分を探し出すのがいささか面倒だということ。運の悪い時はスクリプトしかない場合も結構ある。

(3)また「Learn Chinese--CSLpod」(http://www.cslpod.com/rss.xml)も、テキストとナレーション付きの、効率よく勉強できるサイトである。これは初級者向けのサイト。

(4)最後に「鳳凰網 衛視」(http://phtv.ifeng.com/)では(変則発音の非常に多い)本場速度でのネットテレビ放送のニュースなどが視聴できる。そこでは動画画面内下部に次々とスクリプトが映し出されるものもあり、また画面外の数行下に別にスクリプトが掲載されているものもあって、これはリスニングの完成を目指す学習者のためのサイトである。



以上のことは中国語の学習・習得のための出発点をなす眼目として記した。