脳のなかの幽霊の表紙の写真

『脳のなかの幽霊』への批判的書評




金哲顕

フレームで表示するにはホームの「書評」からアクセスしてください
(Googleで検索し表示するとテンプレート式の文字ページになります)


 近頃ラマチャンドランの『脳のなかの幽霊』(角川書店:山下篤子訳)を読みました。そこでは自我も世界も幻想であるというようなことが脳の神経学的研究成果から結論されております。これは一種の不可知論だと思いますが、あなたは進化論の観点から可知論を展開し、自我や世界は幻想でないとされておられますね。よろしければラマチャンドランの『脳のなかの幽霊』の詳しい批評をしていただければありがたく思います。(SRHD)

目次

はじめに
第一章  内なる幻
第二章  「どこをかけばいいかがわかる」
第三章  幻を追う
第四章  脳のなかのゾンビ
第五章  ジェームス・サーバーの秘密の生活
第六章  鏡の向こうに
第七章  片手が鳴る音
第八章  存在の耐えられない類似
第九章  神と大脳辺縁系
第十章  笑い死にをした女性
第十一章 「双子の一人がおなかに残っていました」
第十二章 火星人は赤を見るか

     はじめに
 結論をいえば、ラマチャンドランの哲学と、その脳神経学的科学研究とは、区別しなければならないということです。脳神経学はある種の哲学と必ずしも一対一の関係で結びつくとは限りません。ラマチャンドランはインド人としてインドで生れ、幼い頃からヒンズー教的環境の中で育ちました。そのことが彼にヒンズー教的世界理解や人間理解に親近感を覚えさせ、そのような哲学的解釈となったのだといえます。

 『脳のなかの幽霊』を詳しく読んでみても、ラマチャンドランの期待とは違い、私は、そこで報告されている様々な脳神経学的事実が、いささかも自我と世界の幻想性を帰結させるもので「ない」のを確認しております。以下にそれを詳しく述べてみたいと思います。

 まず方法論については、ラマチャンドラン自身、「私にはもう一つ、へそ曲がりなところがあって、これまでに学んだ科学のどの分野でも、かならず法則よりも例外に興味を持った」(34ページ)と述べています。

 確かに「例外」は新しい知見へと導いてくれる興味ある局面ですが、それでもここにはラマチャンドランの結論(とくに哲学的結論)に及ぼす大きな問題が隠れています。つまり脳神経学的な病的状態(これは健康状態から見れば「例外」です)から「脳それ自体の本質」に迫れるとしている問題です。

 しかしあるものの病的状態は、そのものの正常態ではなく、あくまでも例外であって、正常態の方にこそ、それ自体の本質がある、というべきなのです。ラマチャンドランはいわば「脳の様々な病的状態の中で脳に映る自己や世界の方にこそ真実性がある」としているわけですが、これは方法論上の決定的な誤りといえるでしょう。病的状態における有様の理解は、あくまでも健康状態における有様を理解するための「補助的なもの」としなくてはなりません。

 第一章「内なる幻」は第二章から第十一章までの症例と解釈の概略を示しているだけですから、そこを飛ばします。第十二章「火星人は赤をみるか」は意識や自己について述べ、それまで陳述してきた内容の全体的な総括と、その哲学的な結論を述べているところで、それは最後に詳しく見てみましょう。 


 まず第二章「どこをかけばいいかわかる」ですが、

 ここでは「幻肢」「幻痛」について述べています。幻肢患者はありもしない四肢の痛みを感じるばかりでなく、その四肢を動かして物を掴んだり歩いたりすることができると感じています。たとえば左腕を無くしたトムの場合、頬を触れられると、無くなった人差し指に触れられていると感じ、下顎を触れられると、無くなった小指を触れられていると感じます。また腕の切断面の数インチ上のところを触れられると、「そこは親指です」とか「小指です」とかと、局所ごとに幻肢の一部が触れられていると感じるわけです。

 これらは脳表面の人体表面地図と関係しており、そこでは人体各部の損傷に対して脳内地図が書きかえられていて、その結果、脳内の地図で距離的に近接している部位では、そこが頬であろうと、下顎であろうと、切断面近くであろうと、互いにニューロンがつながってしまい、頬・下顎・切断面近くを刺激すると、なくなった指の各部が触れられていると感じることになるわけです。

 ラマチャンドランは「脳内地図が書きかえられる」という事実を重視し、そこに、身体観や身体を取り巻く環境世界の像は非常に偶然的(主観的)なものであると考えています。それは遺伝的に蓄積してきた環境認識の客観性を否定するものだ、と解釈するわけです。つまり、生物が客観世界の中で適応してきながら築き上げた脳内地図は固定的なものでなく変化するものであるから、その脳内地図は環境に対応する客観的なものとはいえず、偶然的(主観的)なものであると結論するのです。

 ところが他方ラマチャンドランは、脳内地図が書きかえられる時、ニューロンはめちゃくちゃに再結合するのではないとし、「新しい繊維はどのようにして行き先を知るのであろうか?」と述べています。これは脳内でニューロンが再結合するとき、そこに必然的で客観的な法則性があることを示すものです。それは脳内地図(ラマチャンドランが「感覚ホムンクルス」と呼ぶもの)には進化の上で今あるようなものになるべき「客観的必然性」がある、ということを示しているわけです。

 体に比べて、顔、とりわけ唇と、手、とりわけ親指が非常に大きい「感覚ホムンクルス」がいかに我々の人体の正常な形からいびつにずれているとしても、それはこの場合問題ではないでしょう。情報系の大脳表面にある「感覚ホムンクルス」が人体そっくりである必要はありません。


 次に第三章「幻を追う」に移ります。

 ここでは生れつき両腕の無い患者ミラベルが幻肢の手を動かせると感じていること、左腕を事故で失った患者ジョンが幻肢で掴んでいるカップをラマチャンドランに引張られて痛みを感じていること、事故で左腕が麻痺し切断手術を受けたフィリップが、幻肢が固着して一度も動かすことができず痛みを感じていることなどが紹介され、その治療法などについて述べられているのですが、そこでは、箱の中に鏡を入れ、虚像のところに実際の手があるように見せかけて、幻肢幻痛を消滅させる治療法が紹介されています。

 これは脳が実際の手と虚像の手とを区別できないことを示すものとされ、脳の環境認識の非客観性を示すものだという結論の資料とされます。それが、「脳が感覚入力に応じて現実のモデルをたえず更新するようすを、実際に目撃した。」(92ページ)「あなたの体そのものが幻であり、脳がまったくの便宜上、一時的に構築したものだ」(94〜95)という彼の言葉になるわけです。

 現実のモデルである身体イメージがいかに融通性があり流動的であるかを、ラマチャンドランはジュリーとミーナの例や、ゴム製の手首の例や、テーブルの例などを挙げて証明しようとしています。これらは手を不自然に交錯させて刺激を与え、あたかもゴム製の手首やテーブルが自分の感覚器官のように刺激を受けるという錯覚実験です。そこからついにラマチャンドランは、「あなたの身体イメージは、持続性があるように思えるにもかかわらず、まったくはかない内部の構築であり、簡単なトリックで変化してしまう」(98ページ)と表現するに至ります。

 しかし他方で、ラマチャンドランは、「私たちはイメージをきわめて鮮明に思い浮かべても、実際にその感覚を感じて『あ、痛い』と言うことはない。なぜか。私の考えでは、それはあなたが本物の掌をもち、掌の皮膚が痛みはないと言うからだ。想像はできるが感じることはない。それは現実のフィードバックを送り出す正常な手があるからで、現実と幻想が衝突すると、通常は現実が勝つ」(89ページ)と書いています。

 これは正常な感覚の「客観性」を示すものですが、この意味を彼はあまり深く考えません。現実のモデルが客観的であり、脳に損傷が起きて起きる様々な表象は「例外なのだ」ということが彼には分からないのです。

 簡単なトリックによる先の錯覚も、人間の自然な感覚器官の配置のあり方でなく、非常に作為的で不自然な状況での錯覚であるにもかかわらず、そこから得られた結果を一般化している(つまり「現実は全てこのような錯覚だ」)という誤りを犯しているといえるでしょう。


 第四章「脳の中のゾンビ」ではどうでしょうか?

 そこでは一酸化中毒で色やテクスチャーは識別できるが、物の形や顔は識別できなくなったダイアンのことがまず紹介されます。彼は自分の顔さえ認識できません。直線もそれが縦線か横線かも識別できません。しかし手紙を渡すと、彼には見えない筈の横口のポストには、どういうわけか入れることができるのです。

 そこで、ラマチャンドランは、「視覚とは脳内のスクリーンに映っている像を見ることである」という考えを批判し、それを神経インパルスとしての信号という記号・言語であると見なくてはならないと主張します(102ページ)。

 これはいわばコンピュータのデジタル内部記憶が画面上でアナログ画像になるというような理解です。それによって人体像も含め、客観的環境像というものが主観の作り物であるという帰結を導き出そうとしています。

 もし視覚が像を見ているなら、対象が静止しているのに、主観の側が一定しないということはありえないが、立方体が左上を向いているようにも右下を向いているようにも見えるネッカー・キューブという錯覚図(104ページ)では、それが起きているとし、だから視覚は像を見ているのではない、と結論しています。

 「知覚という活動には、たとえそれが立方体の構造図を見るという単純なものであっても、脳による判断(いわば「加工」─ホームページ開設者による解釈)が含まれている」(103ページ)というのはそういう意味です。

 これは脳の反映機能を否定する思想です。しかし、彼はそれに続けて、「脳はこうした判断をするときに、私たちの住む世界が混沌や無定形ではなく、安定した物理的性質をもっているという事実を利用する。これらの安定した性質が、進化の途上で、世界についての一種の『前提』あるいは暗黙の知識として、脳の視覚野に取りこまれ、知覚のあいまいさを排除するために使われるようになった」(103ページ)とも書いています。

 これは外部に安定な客観世界があることを認めた考えです。この「前提」と同じ考えが、第五章では、感覚を脳内で構成するとき、情報処理を経済効率的に行うために前提される「基準」(146ページ)とされ、また周囲の世界の「統計的な規則性」(146ページ)、とも言われるのです。

 脳が現実世界から無限とも言える感覚情報を得てそれを一定の感覚イメージに仕立て上げるには、そこに統計的な平坦性・経済的な基準が必要だというわけですが、その平坦性や基準が主観でなく客観世界から来るものであることは明白です。客観世界と適合しているからこそ、統計的に平坦になり、経済的に効率よく、感覚情報が感覚イメージ化されるわけですから。

 大脳と視覚の最新研究では、大脳皮質は、神経細胞が集まってコラム(円筒)を成し、コラムが集まってドメインを構成していて、複雑な図形は基本的な単純図形に反応するコラムの重なりや隔たりとの関係で表現されることが分かっています。つまり(局所的には)スクリーンに映る全体像を見ているようには視覚していません。外部の視覚像はいったん分解されて大脳内で再構成されます。しかしそれはそういうしかたで外部の客観的な映像を効率的に反映しながら再構成しているわけです。でないと動物は環境に適応して生きてはいけません。その証拠に(大局的には)全像的反応も同時に行われています。

 2013年2月1日の発表によりますと、国立遺伝学研究所は生きた神経細胞内でのカルシウムイオン濃度をリアルタイムで測定できるセンサータンパク質であるGCaMPを開発し、それを餌となるゾウリムシの動きを視覚する熱帯魚ゼブラフィッシュの稚魚の脳内で発現させて詳しく観測しました。この実験によって、ゼブラフィッシュの脳内での反応部位が、ゾウリムシの動く軌跡に似た軌跡を描くことが示されました。

 ゼブラフィッシュの脳内反応部位の軌跡は脳表面の『視覚地図』( Visuotopic map )上の神経活動の軌跡なので、これによって外界が視覚を通して脳内に『投影』される様子が分かる、と公表しています。この「視覚地図」は(ラマチャンドランの主張とは異なり)視野全体に対応して神経細胞が脳の表面に並んで構成された(デジタルカメラ内のCCD撮像素子にどこか類似の)いわばスクリーンのようなもので、これは脳が視覚において客観的外界を反映しているということです。

 つまり視覚するとき脳内では細部の局所的なコラム反応と視覚地図上の大局的で全像的な反応とが協同作業しているわけです。脳表面の『視覚地図』の機序はヒトを含む脊椎動物ひいては視覚を持つ全ての動物に共通のものなので、同じことはヒトの視覚でも言える、としています。


 ラマチャンドランは114ページ以降、「半側視野欠陥」の「盲視」患者ドゥルーの例を挙げます。彼は両眼があるにもかかわらず、視野の右半分しか見えません。両眼で見ても左右の片目で見ても同じです。人間の顔も自分の顔も右半分しか見えません。

 ところが見えない左側でもそこにある物の「位置や方向」は分かるのです。見えていないのに見える、ということから「盲視」と名づけられました。これは「一次視覚皮質を失って盲目になったにもかかわらず、系統発生的に古い『方位』の視覚路は無傷」(114ページ)だから、と解釈されています。

 ラマチャンドランは、「『見ている』と意識されるのは新しい経路だけで、一方の古い経路は、何が起こっているかをその人がまったく意識していなくても、あらゆる行動に視覚入力を用いることができるという意味だ」(114〜5)と付け加えています。

 ここから彼は脳内の視覚経路について、一次視覚皮質などからは、頭頂葉に至る「どこ経路」(「いかに経路」ともいい、位置・方向などの空間視に関わる)と、側頭葉に至る「何経路」(対象を区別する)があるとし、盲視は「何経路」は損傷し「いかに経路」は損傷していない状態で起きると解釈します。

 そして、対象認識に関わる「何経路」は錯覚するが、「いかに経路」は何も判断しない自動機能だから騙されず錯覚しないと述べます(121ページ)。「いかに経路」は「ゾンビ」だというのはそういうことです。

 そして、「あなたのなかにもう一つ別の存在がいて、あなたの知らないあるいは気づいていないところで、自分のなすべきことをしている」。そういうゾンビはいくつも脳内にいて統一的な自己の存在というものに疑問を投げかけるのであり、「自分の脳に単一の『私』あるいは『自己』が存在するというあなたの概念は単なる幻想かもしれない」(123ページ)と付け加えます。

 しかし自動で機能する脳内の機構があるからといっても、それで精神分裂症(統合失調症)になるわけではなく、むしろそれがあるからこそ脳が客観世界を効率よく正しく反映できるわけで、つまり自動性は客観的対応性を示すものですから(そうでないと誤った自動装置だったとすれば生物は直ちに環境に適応できず死滅する)、したがって、ゾンビがいるからという理由で統一的自我が存在せず、その結果、客観的世界が存在しないというのは、妥当な判断とはいえません。

 類比的に言えば、たとえば政府には多くの自動装置としての政府機関がありますが、そうであってこそ、政府が、主体的に、正しく、国家・社会の状況を把握して、政策を実行できるわけです。


 次は第五章「ジェームス・サーバーの秘密の部屋」です。

 ここでは「盲点」における「書きこみ」がテーマになります。たとえば体の一部が柵に隠れているウサギを見て、一匹のウサギに見えるのは、柵の部分に脳が書きこみをしたからです。盲点でもそれが起こり、また視覚皮質の一部が損なわれた患者に生じる「暗点」(大きいものではサッカーボールほどの大きさのものさえある)でも起きます。

 盲点に入ると見えていたものが完全に消えますが、その場所に背景の地肌などが書きこまれます。それが黄色い地肌であれば、書きこみ部分は黄色く見え、他の色には決して見えません。盲点を境にして上部と下部に別々の直線を引き、右目を閉じ、左目でその右横の点の部分を凝視すると、盲点の部分が消え、そこに盲点をまたいで上下に連続した長い直線が見えます。上の直線が白、下が黒なら、上部は白、下部は黒の連続した直線として見えます。

 これについてラマチャンドランは、

 「おそらくあなたの視覚系のニューロンは、統計的な判断をしているのだろう─二つの別々の直線が単なる偶然で盲点の両側にぴったり配置されているというのは、まるでありそうにないことだと『悟る』のだ。そこで視覚系のニューロンは、高次の中枢に、おそらく連続した直線だと『知らせる』。視覚系の働きはすべて、こうした経験に基づく推測が基盤になっている」(131〜133ページ)

 と記しています。

 つまり、経験に基づいて統計的・確率的にそうだと判断するわけです。これをラマチャンドランは「客観的判断ではない証拠」と考えています。盲点は誰にもあるので、その盲点に関わるこのような錯覚は、人間一般における知覚の客観的な確かさを否定する強力な証拠だと考えられているようです。

 しかしこれは進化において知覚が客観性を確保するために取った戦略だと言えるものです。決して知覚の主観性の証拠ではありません。多くの知覚情報を得た上で統計的な処理をしているのは、効率よくその客観性を求めているからです。でないと、環境認識において客観的判断ができずに、生物としては滅ばざるを得なくなるからです。ヒンズー教的背景を持ったラマチャンドランには何もかもがヒンズー教的世界観にぴったりのように見えるわけですが、全くそういう根拠はありません。

 たとえば、「盲点をまたいで完成できるものとできないものとがあり、書き込みは比較的単純なパターンの場合によく起きる」と、彼はもう片方で述べています(136ページ)。また、小さな x を直線状に並べ、先のように配置した場合、盲点をまたいで連続した x の並びが見えますが、大きな X の字の場合は、区別されてしまいます(143ページ)。

 このように大きな X も盲点をまたぐことができません。つまりこれらは書き込み不能です。それはこれらの場合、「書き込み」で知覚の客観的情報を歪めることができない、ということを意味します。

 後頭部に鉄棒が刺さって一次視覚野皮質の一部を損傷したジョシュは掌ほどの大きさの「暗点」があり、そこに時間遅れの五秒はかかるゆっくりした「書き込み」が生じます。それは「書き込み」という出来事のリアルタイムの現象です。ラマチャンドランは、「彼は単純な幾何学図形の一部を書きこむことはできるが、顔などの複雑な物体やそれに類するものは書き込めなかった」と書いていますが、これも書き込みという作業の限界性を示すものだと言えるでしょう。

 さて、盲点や暗点があっても知覚は完成されなくてはならないようになっています。それについてラマチャンドランは次のように書いています。

「視覚の重要な原理の一つは、できるだけ少ない処理で仕事を済ませようとすることだ。脳は視覚の処理を節減するために、周囲の世界の統計的な規則性─輪郭線は一般に連絡しているとか、テーブルの表面は均質であるといった規則性─を利用する」

 ラマチャンドランはこうした経済的・統計的処理は知覚の主観性を表すものと誤解していますが、他の誰が読んでも、これは「客観的世界の客観的規則性を知覚が頼りにしていることの現れ」だと分かるのではないでしょうか。「書き込み」があるということは何も知覚が主観的なものだということではなく、生物は「書き込み」によって効率的に正しい客観判断を確保して生き延びようとする、ということでしょう。これは生物の知覚戦略です。

 「シャルル・ボネ・シンドローム」にかかったラリーは、自動車事故で前頭骨と眼窩板が折れ、全く視力を失った視野の下半分に架空のものが鮮やかに見えます。診察しているラマチャンドランの膝に(数秒後には消えるが)猿が座っている鮮やかな幻覚を見るのです。これは視覚機構が普通の場合とは全く逆に、猿に関する記憶が高次領域から一次視覚皮質に向かって流れることで起こるとされます(154ページ)。

 一次視覚皮質は網膜から入ってくる情報を単に区分けするだけでなく、高次領域からの指令情報が送り込まれる作戦本部に似た場所だとされます。このシンドロームでは「知覚の完成」でなく「概念の完成」がなされていると述べられています。むろんそこにもラマチャンドランは知覚の主観性を見ます。


 とはいえ、それならなぜ普通の健康な人間では内部イメージと外部の視覚イメージとがいつもごっちゃにならず、「猿のことを考えても、猿が見えないのはどうしてだろうか?」(155ページ)と彼は問い、「それはたとえあなたが眼を閉じていても、網膜の細胞や初期視覚路がつねに活動して、基準となる平坦な信号を出しているからだ。この基準信号は、網膜に対象物(猿)が何も飛び込んできていないことを高次の視覚中枢に知らせ、したがってトップダウンの想像で喚起された活動性を否定する」と答えています。

 また、「内部のイメージがひどく現実味をおびていても、実際に本物の代役になることは決してない。これは進化的に道理にかなっている」(155ページ)とも付け加えています。これは基準となる統計処理された平坦な情報が客観世界を反映したものであることを示しているのですが、ところがヒンズー教的背景を持った彼には、そうは見えないわけです。

 「感覚情報と過去に貯蔵された視覚イメージに関する高次記憶との動的な相互作用」によって大規模なフィードフォワードとフィードバックが起き、「このようにして、貧弱な像が段階的に調整され、改良され」「それが真実のもっとも近くに接近することを可能にしている」(156ページ)と言いつつも、ラマチャンドランは最後に、「私たちはいつも幻覚を見ているのであり、私たちが知覚と呼んでいるものは、どの幻覚が現在の感覚入力にもっともよく適合するかを判断した結果なのである」と結んでいます。この哲学的見解が必然的でないことはもはやお分かりだと思います。


 さて第六章「鏡のむこうに」に移ります。

 ここでは右側の頭頂葉に損傷のある「左側半側無視」の患者のエレンが登場します。彼女は左側が見えているにもかかわらず、それに注意をせず、(他人に注意されないと)結果的には見えていないような行動(鏡に映った自分の顔の半分しか化粧をせず、左側の髪をとかすこともしない)を取ります。だから「半側無視」という病名がついています。

 頭頂葉には「いかに経路」があり、そこが損傷していると、左側の空間で起きていることに全く注意がいかず、左側のある物にぶつかったりするわけです。しかし「何経路」のある側頭葉は無傷なので、物や出来事が彼女の注意を引きさえすれば、なんなくそれを認知できます。

 さてエレンは右側の鏡に映った虚像の実物が左側にあることを認知できず、鏡の中かその背後にあると思い、それが鏡だと分かっていても手を鏡の中に突っ込もうとします。これは「鏡失認」と呼ばれる症状です。鏡像が右側にあるから実物は左側にあるという単純な推測さえ「鏡失認」患者にはできません。

 そこで、ラマチャンドランは彼一流の論法で、「これは、現実はゆるぎないものだという私たちの見解にどれほど確信がもてるかという、深遠な哲学的問題を提起する」(173ページ)と、この章を結んでいます。


 次は第七章「片手が鳴る音」に入ります。

 ここではまず、脳の右半球の損傷によって、左手や右足が麻痺しているのに、それと気づかず、ちゃんと動かしていると思っているドッズ夫人の「疾病失認」が取り上げられます。「両手で叩いてみてもらえますか」というと、「いま、叩いています」と答えます。

 ドッズ夫人とは別の患者の場合、「今、手が痛い」とか「自分は両手使いでない」とか、あらゆる詭弁を弄して両手を叩くのを避け、合理化しようとします。非常に極端な場合は、麻痺している腕を「自分のものでなく兄のものだ」と断言することさえあります。これは「疾病失認」に伴ってしばしば現れる「自己身体否認」と呼ばれるものです。

 ここでラマチャンドランは、
(1)正常な人はなぜさまざまな心理的防衛機制をするのか? 
(2)その同じ機制がなぜこれらの患者では誇張されているのか?
 という問題を提起し、
「この謎を解く鍵は、(デジタル的な左脳とアナログ的な右脳という─ホームページ開設者による付加)二つの大脳半球に役割分担があることと、私たちの生活に一貫性と連続性の観念をつくりだす必要があることだ」(180ページ)
 と述べています。そこで次のように付け加えられます。

「脳は一貫性のある行動を起こすために、過剰な細部を整理して、内的な一貫性をもつ安定した『信念体系』─手元にある事実を意味のあるものにするストーリー─をつくる何らかの方法を持たなくてはならない。新しい情報の品目が入ってくるたびに、すでにある世界観のなかに継ぎめなく入れこむのだ」(181ページ)

 ここでは過剰な細部の情報を整理することが、そのまま客観的世界との乖離を意味するものとして捉えられていることは明らかです。それは単なる信念体系やストーリーや世界観や現実のモデルとなるものによって制御されるというわけです。

 しかし明らかに、「情報を整理することでいつも客観性が失われる」と直ちに主張することはできません。「赤いリンゴ」を目に前にして、脳が様々な整理や編集を行うとしても、それは「赤いリンゴ」が客観的にそこにあることを否定するものではありません。

 これとよく似た論法が唯名論でも主張されています。つまり「言葉」は「現実そのもの」ではなく現実を抽象化したもの(単なる名辞)だからという理由で、それを一種の編集や加工や整理として捉え、「言葉」は現実から乖離しているという理屈です。「赤いリンゴ」と、言葉に出して言う場合、言葉はなるほどその赤いリンゴの何もかもを言い尽くしてはいませんが、少なくともそこに、客観的に、赤いリンゴがあることだけは正しく表現し得ています。

 だからラマチャンドランはこれと同じ種類の誤りを犯しているわけです。もしモデルや信念体系やストーリーや世界観が環境の客観的情報を担っているものでなければ、どのようにして生物は生存していくことができるのでしょうか? ラマチャンドランは編集・加工・整理という側面を過大に評価し、そこから「のみ」脳を見ているという誤りに陥っていますが、これは彼のヒンズー教的背景のせいでしょう。

 「疾病否認」患者のマッケン夫人の場合、通常は「左手が使えない」という事実を否認しているのですが、左耳に冷や水を注入すると「失認」が解除され、「左手は使えますか?」に対して、「このところずっと左手は使えません」といいます。つまりちゃんとこの間(かん)の正しい事実を頭のどこかで記憶しているわけです。

 とはいえ、ニ、三時間後に「左手は使えますか?」と再び訊くと、また失認状態に戻っており、先の質問と答えのやりとりやその際の自分の言葉もすっかり忘れて、「使えます」と答えます(192〜194ページ)。

 ここでラマチャンドランは「記憶とはなんだろうか?」と問い、記憶のはかなさや非現実性や創作性が強調されます。


 次に第八章「存在の耐えられない類似」を見てみましょう。

 交通事故で脳に損傷を起こし、他の人の場合は問題ないのに、どうしても実の父母を偽者だと言い張るアーサーの「カプグラの妄想」と呼ばれている症例があげられます。アーサーは、「あの人は父の外見をしているが、父じゃなく、父だと嘘をついています」と主張します。ところがアーサーは電話口では父母を偽者だと言いません。

 側頭葉の「何経路」と、その何認識と結びついて感情を呼び起こす辺縁系の扁桃体との間の連絡が途切れてこの症状が生じている、とラマチャンドランは想定し、「アーサーは、顔を認識できないわけでもないし、感情がないわけでもない。彼に欠けているのはその二つを結びつける能力なのだ」(216ページ)と説明します。

 そこで次に、扁桃体を切除された患者の場合でも、カプグラ・シンドロームが出ない現象があるのに対して、彼は、それは扁桃体がないので、情動反応が全般的に鈍くなり、比較のためのベースラインがないからかもしれない(217ページ)とコメントしています。そこからラマチャンドランは次のように指摘します。

「この考え方は私たちに、脳の機能に関するある重要な原理を教えてくれる。すなわち私たちの知覚はみな─そればかりか、おそらくは私たちの心の局面のすべてが─絶対的な価値ではなく、比較によって決定されているという原理だ。」(217ページ)

 ラマチャンドランは脳が絶対的な知覚をしているのでなく、つまり客観世界を客観的に知覚しているのでなく、それらは比較によって操作しているだけだ、とします。これは前章のモデルや信念体系やストーリーや世界観による編集・加工・整理と同じ論理です。脳が効率を求めてできるだけ比較を利用するからといって、それが客観世界の情報と乖離したものだと果たして結論づけることができるのでしょうか? 


 次に第九章「神と辺縁系」に入りましょう。

 磁気刺激ヘルメットを被って側頭葉を刺激すると、正常な人物でさえ強い霊的感覚を覚え、著しい神体験をする場合があります。この部位に損傷があって癲癇症状を起こす患者はたびたび霊的体験をし、宗教的・道徳的な問題にとりつかれたりします。こうしたものは「側頭葉人格」と呼ばれます。

 ラマチャンドランは正常な人間の脳内に神を感覚する特別な回路としての「神モジュール」があるのだろうか? あるとしたら、それは進化の産物か、深い神秘を起源とするものか、と問い、235ページ以降で、「側頭葉人格」の宗教体験の四つの可能性を挙げています。

(1)神が実際に訪れている(これについては否定も肯定もできないとします)
(2)ありとあらゆる奇妙で不可解な体験をするので、唯一の頼みとして宗教的な静謐を求める
(3)感覚中枢(視覚中枢および聴覚中枢)と、扁桃体(辺縁系に属し、外界の事象の情動的な意味を認識する)との過結合が根拠になっている。
(4)宗教信仰のために進化した遺伝子がある(進化心理学=社会生物学の観点から)

 ラマチャンドランはこれらの中のどれとも断定しません。これは神の実在性そのものを否定するものではないとしつつ、ともかく側頭葉が宗教に関係しているのは間違いないとし(238ページ)、その上で、最終的な結論として、「人間の脳には宗教的な体験に関与する回路があって、一部の癲癇患者ではこれが過活動になる」(241ページ)としています。

 次に、他の能力は人の水準をはるかに下回るのに、一部の能力では天才的である「イデオ・サヴァン・シンドローム」の例を挙げ、昔からの謎、つまり「環境内での必要に応じてしか進化しない中で、必要以上の能力がどうして生み出されるのか」という問題に取り組みます。なぜ環境はそのような高度な数学的能力を要求していなかったのに、クロマニヨン人に高度な数学が理解できる能力を与えたのか?(245ページ)といった問題です。

 まるで未来を予知してその能力が予め進化したかのように見えたため、ダーウィンと同時代の進化論者A・R・ウォレスは、そこに「神の御業」を見ました(246ページ)。

 ダーウィンは人間の「一般的知能」の発展の必然的付加物だと解釈しました。しかし、これでは「一般的知能」の遅れた一部天才現象である「サヴァン・シンドローム」は説明できないため、ラマチャンドランはこの問題の解決をあくまでも「偶然」に求めます。

 進化の過程で脳容量が大きくなるときホルモンあるいはモルフォゲンによって大脳の全ての部位が一律的に拡大され、そのため天才の脳内部位である「角回」も肥大したのだ、とするわけです。つまり大脳が大きくなることによる意図せぬ「おまけ」だったという説です(252ページ)。進化の中ではこのような予期せぬ副産物が多くあるとし、羽は保温のために進化してついに翼になったという例を挙げています。


 さて次に第十章「笑い死にした女性」に移ります。

 辺縁体異常(内出血による視床下部の圧迫)によって数日内に笑い死にした数例が紹介され、ここで「笑い」というものがテーマとして追及されます。笑いとはなにか? それに関してジョークの「落ち」の仕組みなどが述べられ(261ページ)、フロイト流の鬱屈した心の解放説を否定し、「笑いは主として、個人が社会集団の他のメンバー(通常は近縁者)に、検出された異常はささいなことなので心配はいらないと合図するためではないか」と自説を展開します。これが笑いの元であり、その上で様々な笑い(ほほえみ・ほくそえみ・冷笑・苦笑いなど)が付け加えられたとするわけです。


 第十一章「双子の一人がおなかに残っていました」を見てみましょう。

 ここでは「想像妊娠」について話が展開します。想像妊娠では「へそ」がひっこんだままであるのを除けば、あらゆる生理的的特徴(月経の停止・乳房の膨隆・乳首の色素沈着・酸っぱいものが好き・つわり・陣痛)が妊娠を示しています。これは心と体の相互関係(特に心が身体に与える影響力)の問題として取り上げられます。

 心は体にどれほどの影響力を持っているのか?について、催眠術で疣(いぼ)が取れるという例や、バラを見るだけでバラ花粉症症状が現れる事実を挙げて論及されます。心的な動きがある一定の症状と度々重なることでいつしか学習され、それが心的影響力として現れるという場合があり、そのとき内部で心から免疫系への影響があるという一種のプラシーボ効果(偽薬─例えばこれは頭痛薬ですと言って騙し、食塩水を飲ませて治す)の考えも紹介されます。

 そして西洋医学が心と身体とを分けてしまうのを批判し、その相互作用に注目すべきことを提唱します。
 そのことでラマチャンドランは、心の身体に対する影響という視点を、身体を取り巻く環境に対する心の影響という思想に置き換え、主観(心)の環境知覚における編集・加工・整理といった面を強調すべきことを間接的に主張しているわけです。

 さて、ついに最終章の第十二章「火星人は赤を見るか」です。

 ここでは自我とは何か? 意識とはなにか?という究極問題が取り扱われます。ラマチャンドランは、第二章から第十一章まで述べられた諸症例から、「単一の統合された自己が脳に<宿っている>という考えは、実は幻想である」に多くの真実がある、と述べています。

 ここでラマチャンドランが述べている「クオリア」と「意識」について述べてみなければなりません。「クオリア」とは、たとえば「赤い」といった「主観的な感覚」のことです。それは生々しい体験です。またこれは全色盲の相手には決して伝えられない主観的体験です。彼は次のように述べています。

「クオリアとは、私の立場から見たときに、科学的な記述を不完全にする私の脳の局面である」(291ページ)

 多かれ少なかれ主観の微妙な具体的感覚内容は相手には伝えられません。「赤」といってもそのニュアンス(質感)は人間によって全て違います。また同じ人間でも、その時その時で異なります。クオリア(質感)は言葉で表現できません。感覚と言葉とは違うからです。ラマチャンドランはこの主観的な感覚としてのクオリアこそが意識の本性だと考えます。

 したがって、脳内において意識の存在する場所を、脳がクオリア体験をしている部位だとし、それをPET(陽電子放射断層撮影法)やfMRI(機能磁気共鳴画像法)やMEG(脳磁図)などの新しい画像技術で探索し、側頭葉辺縁系(特に左側頭葉の)がクオリアの部位で、そこが意識の主な場であると結論を下します。

 彼は次のように述べています。

「意識の座が前頭葉にあると考えている人が多いが、これは驚くべきことだ。前頭葉に損傷があっても、クオリアにも意識そのものにも劇的な変化はないからだ。………私はむしろ、意識の活動の大半は側頭葉にあると言いたい」(307ページ)

「いきいきとした主観的な意識の性質を体現しているこの回路が、おもに側頭葉の部位(扁桃体・中隔・視床下部・島など)と前頭葉の単一投射区域(帯状回)に存在する」(288ページ)

 むろんV・S・ラマチャンドランはクオリアと意識を同一視しません。だがクオリアを意識の源だとして意識をそこに帰着させてしまいます。だから意識はクオリアの部位にほぼ収斂させられてしまうわけです。

 これに対してフランシス・クリックとクリストファー・コッホとは、クオリアは一次感覚野の下層ニューロンから生じ、そこから前頭葉に投射しているとします。どちらが正しいのでしょうか?

 V・S・ラマチャンドランがクオリアに意識を帰着させているのは、「クオリアの三法則」(と彼がいうもの)が存在する時はじめて「意識がある」と言える、と主張しているところにも現れています。

 「クオリアの三法則」とは、

(1)一旦入力されると高次神経系の修正が効かない(入力変更不可能性)−たとえば「赤」に見えれば赤にしか見えないということ
(2)「赤」が見えたとき、それに関連する様々な想像・連想などができ、その中から「選択」ができる(出力融通性)
(3)短期記憶が可能(その間に選択的作業ができる)

 以上です(296〜302ページ)。

 これに依拠して、ラマチャンドランは、たとえばミツバチは巣箱の前で「8」の字ダンスをして蜜の在り処の情報を他のミツバチに伝えるが、その際(1)と(3)はあっても(2)がないから、ミツバチは意識を持っていないとし、同じく夢遊状態のとき人間の夢遊病患者はこれらのうちのいくつかが欠けるので、意識がないと述べています(306ページ)。

 ミツバチに意識がない状態と夢遊病患者に意識のない状態とをこのように混同するのは、やはり問題でしょう。人間の場合、意識と無意識とは表裏で、無意識状態でも意識は隠れているが、ミツバチの場合、顕在化している意識はむろんのこと、俗に言う隠れている意識(無意識)というものさえそもそも存在しないからです。だからラマチャンドランが意識をクオリアと区別しながらも、前者を後者に帰着させたところに彼の誤りがあるといえます。

 なるほど進化史的にも人間の日常的な意識活動においても、主観的感覚(クオリア)は出発点であり土台です。しかし意識は人間においては、(大脳発展の諸段階におけるさまざまな動物においても多かれ少なかれ)、「概念の意識」でもあります。意識は感覚に始まり概念に至ります。人間が概念活動しているとき、むろん意識がそれを行っているわけです。

 だから出発点を終着点と同一視してはいけないでしょう。鳥類の羽は保温・抱卵のために生じ、のちに翼になりました。また脳幹に小さく付属していたものがのちに大脳へと進化しました。そのように、物は出発点と異なるものになるのが普通なのです。

 意識は主観的感覚(クオリア)から出発したとはいえ、それは感覚を超えた「概念の意識」にもなりました。だから意識の所在をクオリアの場所に特在(局在ではない)させては誤りでしょう。

 むしろクオリアの場所である「側頭葉」という土台の上で「感覚の鏡」(感覚野)と「理性の鏡」(前頭葉)の二つの鏡が向かい合って無限回帰的に情報のやり取りをしていること、これが意識だといえます。

最近の研究でも『日経サイエンス』2006年3月号の「自己の神経生物学 『私』は脳のどこにいるのか」でC. ジンマーは、

「自己の認識には,身体感覚,記憶,社会への適合など,さまざまな側面がある。こうした自己の感覚を脳はどうやってまとめ上げ,統一された自己感(sence of self)を生み出すのだろうか。自己の統合を担っている脳領域は特定できていないが,いくつかの実験から内側前頭前野とよばれる場所が有力候補と考えられている。内側前頭前野は霊長類の中で特にヒトで発達していること,ほかの部位にはない特殊な形のニューロンがあることなども,この領域を自己ネットワークの要とする裏付けになっている。」(太字や下線の文字修飾はホームページ筆者による)

と述べています。



 さて、ラマチャンドランは最後のところで「クオリアと自己とはコインの表裏である」(309ページ)と記し、続けて、「自己とはなんだろう?」と問いかけます。そこで通常の誤った解釈では、「さまざまな感覚の印象と記憶を統合し(統合性)、私の人生を「管理」することを要求し、選択をする(自由意志をもつ)ものであり、空間的・時間的に単一の存在として存続しているものだ」(309ページ)とされていると述べます。

 むろん、これらの常識的な「自己」は第二章から第十一章までのそれぞれで「幻想にすぎない」ことが指摘されてきたものですから、答えはすでに出ています。

 しかし、この最終章で展開されているクオリアは変更不能です。生き生きとしたクオリアがもし変更可能で曖昧なものであれば、思考で想像される記憶の中の像と紛らわしくなって、「本物の物体との混同が起こり、生体が長く生き延びられない」と述べています。

 続けて、「現実の知覚がいきいきとした主観的なクオリアを必要とするのは、それが決断の動因になっているから」だと述べています。もし「赤かも知れない、黄色かもしれない」などとあれこれ想像し逡巡していたら到底生き延びられません。「クオリアが変更不能であるのは、ためらいを排除して決断に確信を持たせるためなのだ」(304ページ)とその理由が述べられています。

 クオリアは主観的なもので錯覚を排除できないものですから、クオリアと表裏の「自我」も時間的に・空間的に統一的な管理的主体などではなく、錯覚・幻想だとするわけですが、クオリアに変更不可能性があるのは、たとえたびたびそこに錯覚が生じるとしても、そもそも生体が生き延びるための「客観的情報」とクオリアとがつながっているためではないでしょうか? でなければ、なんのための変更不可能性なのでしょう? 

 だから、ここでもラマチャンドランは彼の哲学からの偏向を免れないでいます。こうした誤りはクオリアを意識と同一視してそこに帰着させたところから生れたものでしょう。

 ラマチャンドランは、「どんな魔法で、物質(脳)が目に見えない感性や感覚の織物(意識)に変わるのだろう」(289ページ)と問いつつも、結局、意識に最も特徴的なその「飛躍性」についてその起源を触れていません。その「飛躍性」の起源に関する量子力学的解明については「新しいパラダイム」の(Z)「自由と量子論、そしてカオス理論」をご参考下さい。

 ラマチャンドランは、最終章の始めで次のように、

「私はインドに生まれヒンドゥー教の伝統のなかで育った者として、自己という概念─宇宙からの隔たり、周囲の世界を見下ろすように検分する私のなかの「私」─は一つの幻であり、マーヤーと呼ばれるベールだと教えられた」

 と述べています。これが彼が自然科学の諸事実を哲学的に解釈するとき、いつも彼に影響を与えてしまうのです。

 総じて、彼は進化の中で認識能力が発展してきたという視点が薄く、基本的には、出来あがりの脳を解析しているから、自己や世界は幻想だというこのような誤りを犯すのだと思われます。

 進化の中では生物(人間を含む)は客観的環境の一部として現われたので、客観的環境とは質的に同一のものです。そこには生物と環境とを分ける絶対の障壁は、認識(知覚)においても、生活においても、存在しません。

 生物の環境適応は生物の環境認識です。生物が環境適応しつつ進化してきたということは、基本的には生物が客観的環境世界に対し正しく認識する能力を、質的に量的に、だんだん進化させてきた、ということを意味します。自己も意識も世界も、そこにたとえ脳による多少の例外的な錯覚や加工・編集・整理があるとしても、決してラマチャンドランの哲学的見解のような「幻想」ではありません。(終り)