金哲顕

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この「新しいパラダイム」において読者は、弁証法的自然観と、宇宙創造者にして歴史経綸者なる神とを結びつけた全く新しい神学・哲学を見出すことが出来ます。宇宙・生命・心について相対性理論や量子力学やカオス力学からのアプローチもなされています。


(T) 知識と当為との近代的分裂

(1)「終末システム」

 「新しいパラダイム」とは「新しいものの見方・考え方」のことだ。前章までは主に予言について語ってきたが、この最終章は新しい時代の哲学あるいは神学について素描する。

 そのためには、まず現代に至るまでの過去の哲学や神学、とりわけ近世以降の近代的な思惟のあり方に対する概略的な総括をしなければならない。それは近代人の知識のあり方に対するまとめでもある。

 現代世界において知識とは科学や技術の知識である。それは自然や社会に関する経験科学としての知識であり、高度な科学技術の時代である現代世界の根本的な支配原理の一つだ。その射程は人間のあらゆる政治・経済システムを超えてはるかな未来に及んでいる。

 資本主義はヘブライズムのキリスト教やヘレニズムの哲学を土台にして、近代科学とその技術を生み育んできたけれども、科学技術は資本主義のものではない。それはもっと先の、全く違う政治経済システムに向けて、この資本主義をも乗り越えていく。つまり科学技術は資本主義より長生きする。

 ここで提起される重大な問題は、人間のトータルなあり方を反映していないこの科学技術が、今の人間の全体をくまなく支配しようとし、かつ人類の未来をも支配しようとしていることである。

 科学技術は物理化学的物質や生命だけでなく、人間の脳の働き(心)まで数学的な記号に置き換え、どのようにも処理できる客観的な情報体系の中に取り込もうとしている。

 細胞の働き(生命)も脳の働き(心)も、宇宙を超えた超越的な創造者の刻印を帯びているとはいえ、宇宙の自律的物質進化のなかで物質的に生成された機能である。

 したがっていずれは生命の謎も心の謎も全てコンピューターの解析を受けて解き明かされ、その基本情報がシミュレーションされ、再現され、複製されて、自由に処理される時がやってくるかもしれない。そうなれば科学技術が人間に関わる全てを決定する究極的な因子になるだろう。

 だがそのコンピューターを誰がどういう目的で管理し使用するのかという問題は科学技術の問題でなく、卜−タルな人間の問題である。神的・社会的な問題といってもいい。もし人間の神的で社会的な全人的問題が片づいていないなら、その高度な科学技術の知識は人類にとって恐ろしい「エデンの恐竜」になるだろう。

 あることのカラクリを「知る」ことは、そのカラクリを分解し破壊することができることである。人類が原子核や生命や脳のカラクリを知らない間は、それらはその無知によって守られていた。人間はできることは全てする。だからそれらのカラクリが分かってしまった現代世界には、事実上もはやどこにも絶対に安全な聖域など存在しない。

 核技術は核兵器や原子炉として地球の生命環境を破壊し尽くしうるまでになり、分子生物学の遺伝子工学は細胞を細工することによって、守られるべき生命そのものを終末的な危機に陥れ、38億年にわたる地球生命の進化の中で築かれてきた生態系の微妙なバランスを崩壊させようとしている。

 防ぎようのない致死的な細菌を遺伝子工学的に造り出す可能性さえ生まれた。さらに脳の技術はいずれ全ての人間の大脳支配を可能にするだろう。そうなれば人間はもはや人でなく遠隔操縦で動くロボットにすぎなくなる。

 たとえば【時事通信社】の報道によると、中国の郭雲飛・軍戦略支援部隊情報工程大学校長は2020年6月2日付の「解放軍報」で、脳科学の進展によって、将来、敵兵士の脳内の文章・音声・映像などの情報を読み取ることや、電気や磁気で敵兵士の脳に働きかけ命令に反するよう行動させることができるとし、「大脳は未来の戦争の主戦場になり、『制脳権』が作戦のカギとなる」と分析したという。

 むろんこういう研究はずっと以前から物理化学生理学的な洗脳技術の開発を通して米国をはじめ各国も進めてきた。ウィキペディア(マイクロ波聴覚効果)によると、第二次大戦中に米軍レーダー基地で発見されたあと1974年にA・H・フレイによって研究発表され2006年に機密解除された技術である「マイクロ波聴覚効果」(フレイ効果)を使えば、50ヘルツの指向性圧力波で(周囲に全く気付かれずに)遠くから相手の頭骨内の蝸牛を振動させて文章音声を伝送できる。

 これについては2019年、中国公安部は「人間の脳を観察し、その思考を盗聴する設備を配置でき、マイクロ波を対象者に照射して脳内音声を送信できる」としている。いうまでもなくこうした技術の延長線上にもロボット化技術である「制脳権」がある。ロボット化されれば人間性は根本から崩壊する。

 高度な科学技術文明は全一的な有機的社会を構成し、その内部に無数の強い相互依存のシステムを発展させる。例えれば、それまでバラバラであった人々を結びつけて一人の大いなる人間のようにし、思わぬ器官で発生したちょっとした破局が瞬く間に身体全体に波及するように、些細なことが文明全体にカタストロフィーを引き起こすのである。

 高度な科学技術文明は自分の内部に無数の「終末システム」を生み出さざるを得ない。以前には存在しなかった「終末システム」がいまやそこらじゅうにあり、普通の人物でも簡単にアクセスすることができるのである。

 どこに「終末システム」が形成され、誰がその引き金をひくことになるか全く予測できない。これまでの「競争」と「自由」に裏づけられた文明のあり方では、もはやどうにもならなくなっているのだ。


 つまり近代的な科学技術はそれだけでは人間問題の全面的な解決をもたらしうるものではない。近代科学が神的で社会的な、トータルな人間の問題をその誕生の時からこれまでずっと取りこぼしてきたこと、そこに根本的な問題がある。

 トータルな人間とは何か? それは単なる「存在」ではなく、「目的」によって意義づけられた「目的存在」だということである。「目的」と「存在」が統一的全体をなしてこそ、はじめて人間はトータルなのだ。

 科学技術はこの「存在」の面にのみ関わる。目的論的な把握は科学知識と認められず、無意味なものとして切り捨てられる。それと同時に人間存在を意義づける神的・社会的側面が捨象され、人間は歪曲され疎外されて、ついには自滅の危機に直面するのである。これが近代人もしくは近代精神が行き着いた運命なのだ。

 「競争」の原理はこれまで文明の最高理念だった。近代になってその上に個我の「自由」の原理が重ねられた。これらは全て人間のヒュブリス(傲慢)から生まれている。神や社会という「目的」を無視した人間の勝手な恣意と近代的個我の「自由な競争」こそが、その産物である近代科学技術を通して全てを破壊させるのである。

(2)ヘレニズムとヘブライズム

 近代精神のあり方を決定したのはなんといっても近代自然科学である。それは近代市民社会の知的体系といってもいい。近代自然科学は実証的な経験科学として、それまでキリスト教という啓示宗教に支配されてきた封建的な中世ヨーロッパの世界観や人間観に致命的な打撃を与えた。

 宇宙創造者にして歴史の超越的支配者なる「気紛れな人格神」は、「存在」の底辺から自発的に湧き出す民衆自身による近代的な合理的民主政体にそぐわない。超越者も超自然も、信仰も霊魂も、これらは全てまったく不要であるばかりか、いまや不合理で非真実ですらあった。

 近代自然科学はキリスト教の神観や人間観に基づきながらも、結局こうしたものを中心とする中世の知的体系を葬り去った。

 中世の知的体系とはスコラ学のことである。それはキリスト教的な封建制農奴社会のイデオロギーだ。教会が国家に優り、教権が世俗権力を凌駕する中世社会では、当然、彼岸や霊魂がこの世や物質的肉体を含む自然界の上におかれる。

 キリスト教の神は意志を持った人格神であり、宇宙の「外部」にいてこの物質宇宙を創造したゆえに、その真理のありかは自然界としての物質宇宙の「内部」に存在しない。

 だから神の真実は自然界の「存在」の論理には見い出せないことになる。ここに「人格」(意志・恣意)の論理と「存在」(理性)の論理の不一致というスコラ学以来の、いやユダヤ民族の垣根を超えて世界宗教化したそもそものキリスト教誕生以来の宿命的な課題が生じている。

 「存在」の論理は「自然の光」としての「理性」である。理性が学問の姿を取ったのが「哲学」だ。哲学においてもプラトンの霊肉二元論におけるように、霊と肉、本質と現象、真理と仮象といったような区別がなされている場合もあるが、これらは全て「存在」の論理の枠内にある。決して人格的な意味での霊魂世界や超自然界なのではない。

 霊・本質・真理を「存在」とし、肉・現象・仮象を「非存在」としてエレア学派的に分類すれば、「存在」と「非存在」のそれぞれが広い意味での「存在」の「真」と「偽」という両面にすぎないことが分かる。

 エレア学派の創始者であるパルメニデスは「存在」は「ある」であって「ない」でも「なる」でもなく、不変不動とし、変化し動くものを全て「非存在」や仮象とみなした。この「非存在」が私たちの「存在」概念の内部に属しているのは自明であろう。

 「人格」の論理の方はどうか? これは「存在」(自然)を超えた「恣意」である。「存在」は神の恣意的目的を実現するため、神の定めた規則の下に設定された「舞台」にすぎない。だからその「存在」の究極的な存在根拠も神の恣意的目的にある。

 この神の恣意的目的こそ真理であり真実ではあるけれども、しかしそれは「存在」(自然)の中には存在しないし、「存在」の論理である「理性」によって捉えられもしない。それは神の超越的な「啓示」によって神の方から一方的に与えられるのである。

 理性と啓示の区別は、内在的で自足的な自己完結的自然観と、その根拠を外部に持ち、したがって自足的でも自己完結的でもない被造的自然観との区別に対応する。これは第一章で見たヘレニズムとヘブライズムの対比関係そのものだ。

 もう一度繰り返せば、理性啓示は、自然歴史円環直線反復唯一回性必然偶然普遍性個性法則恣意存在人格、「見る」と「聞く」、観照預言認識信仰哲学宗教、といったさまざまな対比関係として現れている。

 中世スコラ学は中世社会における圧倒的なキリスト教勢力の優位を背景にして、理性に対する啓示の優位を学問的に表現したものである。それはキリスト教の信条や教義をまず信じて、その信仰内容の真理性を知的に説明する学問だ。哲学(理性)はスコラ学において神学(啓示信仰)の手段となり、はしためとなった。それは強大なキリスト教の理念に屈した哲学の姿でもある。

 もともと哲学は「存在」する事物を「それみずからの論理」によって捉えようとする。「存在」は「ある」であって、どこまでも「ある」であるから、それを超えたものを想定しえない。

 だからギリシャ哲学における宇宙(コスモス)とは、それみずからのロゴス(理性・法則)によって秩序づけられた自己完結的な全体であって、自律的で自生自存的な自然であり、いかなる超越的な外的存在も許さない。またそうした超越的な外的力によって創造されるものでもない。

 ギリシア的宇宙は、人間との同質性において人間を小宇宙としてみずからの内に位置づける大宇宙であり、宇宙における全てのものは宇宙みずからの永遠の調和の中で自足している。人間はここでは宇宙という自分の家におり、コスモスという自分の故郷を持っている。

 自分の家におり自分の故郷に住む人間は、自足し安定していて、その秩序を破るようなことはしない。だから、コスモスの住人は自分の宇宙をただ観照し、その真相を頭脳の中で学問的に追求し、コスモスの真理の内部へと自分の真の姿を移し込もうとする。

 しかしキリスト教は違う。キリスト教の神は宇宙の外部にあって宇宙に働きかける。したがって、ここでは必然的にギリシア的なコスモスとしての自足的な宇宙は崩壊する。宇宙はもはや人間の家でも故郷でもなくなる。キリスト教的人間の故郷は宇宙を超えた超自然的な人格神のもとにある。

 宇宙の外部に立つキリスト教的人間はあくまで宇宙のよそ者であり、与えられた宇宙の調和を打ち破る。神が宇宙を「創造」したように、「神の似姿」である人間は宇宙を「改造」(第二の創造)する。それが動力学にはじまる近代自然科学の母胎となったエトス(持続的性質)だ。

 このエトスは中世の停滞的な封建的農奴社会においては、内部で準備され成長していく市民社会の根とともに一つの増大していく潜勢力にすぎなかったが、それが現実として顕著に現れたのは近世のF・ベーコンやR・デカルト以来のことである。

(3)唯名論と実在論の普遍論争

 歴史を遡ると、キリスト教は紀元四世紀に国教となってローマ帝国の精神的支配者となる。それによってヘレニズムのコスモスは破れ、自足的なコスモスの代わりに超越的な創造神とその似姿である(宇宙を改造する)人間が取って代わる。

 その後キリスト教はローマ帝国のまばゆい威光を背景にヨーロッパの諸蛮族に浸透し、西ローマ帝国が崩壊する頃にはヨーロッパの支配精神として確立されている。ゲルマン諸族の大移動によって、476年、西ローマ帝国が滅ぶと、その古代的奴隷制の消滅とともにギリシア・ローマ文化の遺産もほとんど失われた。

 しばらくしてアウグスティヌス神学を基調とする新たなキリスト教神学が、カール大帝(768〜814)以来の新しい文化的うねり(カロリンガー・ルネサンス)の中で哲学の衣をまとい、中世の封建的農奴制のイデオロギーであるスコラ学として生み出された。

  中世キリスト教社会が停滞的で安定な社会秩序をもっていたことを反映して、スコラ学においては一種の歴史(時間)の自然(空間)化、コスモス化、つまり、キリスト教的理念のヘレニズム化が起きる。言い換えれば、啓示信仰を理性認識で説明しようとし、啓示宗教の優位を保ちつつ哲学との融和を図ろうとした。

 このヘレニズム化は普遍的なカトリック教会による全体社会的なヒエラルキー秩序として社会制度的に具現しており、スコラ学の初期からあった普遍論争における「実在論」として人間の学問的意識に反映している。

 「実在論」は「普遍は個物に先在する」とする観念論的立場であり、「真に存在するのは個物だけであって、普遍はあとで人間の作った概念であり名辞にすぎない」とするどこか唯物論的ともいえる「唯名論」と長い間対立していた。

 実在論の掲げる「普遍」はどちらかといえばヘレニズムの概念である。歴史的な啓示宗教であるキリスト教は非常に「個物」→「個性」的だからだ。スコラ学における個性的なヘブライズムと普遍的なヘレニズムの融和統一というのは、信仰と知識、あるいは神学と哲学とのそれであるが、また個と普遍とのそれでもある。

 だから、スコラ学における神学と哲学の結合はもともと矛盾をはらんだものであり、その矛盾が普遍論争として現れているわけである。実在論と唯名論はそれぞれ制度化しヘレニズム化した中世キリスト教社会の与党と野党の哲学だ。哲学としては両者ともヘレニズムの圏内にある。

 しかし野党の唯名論の方がどちらかといえば歴史啓示宗教としてのキリスト教に近い。ヘレニズム化した体制宗教イデオロギーとしてのスコラ学を、キリスト教本来の歴史化の原理によって切り崩そうとしているのだ。

 唯名論は個物主義である。それは実在論が普遍主義として概念の能力である「理性」を重んじるのに対して、「感覚」を重んじる。「感覚」を通して与えられる個々のものこそ真の実在だとし、実在論的な「推理・演繹」よりも「経験・帰納」を重視する。

 だから、これは勃興する近代的な都市産業とともに、R・ベーコンからドゥン・スコトゥスやW・オッカムを経てJ・ロックに至るイギリス経験論の源流になり、また近世における個我の自覚、すなわち近代人の精神や近代科学の源流にもなった。

 唯名論はもはやスコラ学における神学と哲学の融和統一を認めない。信仰と知識を厳しく区別する。神学と哲学の間には断絶があるとし、そこにアヴェロエス派にはじまる「二重真理説」が登場した。

 唯名論者は信仰のために哲学から神学を分離しようとしたが、それはすなわち、結局、スコラ学の解体なのである。そしてそのことによって、哲学は神学の支配から解放され、近世の世俗的哲学の発展を促すことになった。

 スコラ学の完成者トマス・アクィナスは、普遍は神の精神(イデア)としては個物より前に実在し、人間の抽象概念としては個物より後にあるが、被造物の形相としては個物の中にあるとした。

 しかし個物をその個物たらしめているのは「質料」だとし、質料が時間的、空間的に限定されてその特定の個物が形成されるとした。それによって個物そのものに「形相」(本質)を認めず、その独自性を否定したのである。

 オッカムによって完成される唯名論の一先駆者ドゥン・スコトゥスは、普遍と個物との関係についてはトマス説に準拠するが、個物がその特定の個物なのはその個物の「形相」によるとし、それぞれの個物の独自性を打ち出した。あらゆる個物もしくは個人にその独自な性格を認めたわけである。

 しかも彼は信仰と知識を区別し、啓示の真理と哲学の真理を分け、厳密な理論学としての哲学に対して神学を実践学として位置づけ、神と人間においては知性に対する意志の優位を主張した。

 形相を与えられた独自な個物(個人)が知識に対する意志の優位を併せ持つとき、そこに近代人の原型が明らかに浮かび上がる。

 歴史啓示を重視するヘブライズムの系列にある唯名論は、スコラ学における神学のはしためとしての哲学の立場を止揚し、哲学を世俗の営みとして解放する。このように、キリスト教の持つ啓示と歴史の理念が中世人の精神世界を世俗化するのに決定的に寄与した。

 もともと宗教的な意図と目的によるものであったものがいつのまにか世俗化し、かえって神を排除するような取り返しのつかない結果になったわけである。

 こうした例は、マックス・ウェーバーの「プロテスタンティズムの禁欲倫理とその世俗化による資本主義の精神の形成」といういきさつにも見られる。

 キリスト教という歴史啓示宗教のせいで中世的なコスモスの平和が破れ、キリスト教の恣意的人間による自然改造の理念が近代自然科学を生み出し、近代人が家や故郷を失って疎外され、それが今日の危機を招いた、ということもそうである。

 しかし問題は歴史啓示宗教としてのキリスト教そのものにあるのではなく、その無節操な世俗化あるいは世俗主義にある。世俗主義は人間の勝手な自己主張を絶対化するところから生まれたものだ。神に代わろうとする人間の傲慢のなせるわざなのである。

 そこから、神を失い、生きる意味を喪失し、虚無の上に自分の壮大な偶像あるいは空中楼閣を作り上げた不幸な近代精神が生まれた。

(4)デカルト系のホイヘンスとニュートンにおける光の波動説と粒子説

 ところで近代自然科学が成立するときまでは、唯名論による神学と哲学の分裂は信仰にとっていかなる本質的な脅威でもなかった。また人間の問題においても、信仰理性世界価値事実実践知識などの分裂はまだいかなる近代的な分極的疎外でもなかった。世俗化はまだまだ弱い流れにすぎなかった。世俗主義というほどのものは生まれていなかった。

 近代自然科学が確立し、理性(哲学)が今度は神学のはしためから経験科学のはしためとなったとき、信仰は真に危機に直面し、人間存在の本当の近代的な分極化が生じたのである。

 中世的な問題、すなわち信仰学問の間の問題は、理性(哲学)が経験科学の手段となり、そのはしためとなったとき、今度は「信仰科学」との問題となり、科学が実証性のある確実な知識であっただけに、信仰にとって一層脅威あるものになった。世俗主義の知的土台の完成である。

 近代自然科学が「動力学」として成立した背景には、自然を創造し改造するキリスト教的な神と人間の姿がある。近代自然科学の創始者たちは、聖書を読むように神の言葉の具現である宇宙を読もうとした。

 したがって、彼らは近代自然科学の名において無神論や唯物論を標傍したのではなく、スコラ学における「理性と信仰」のアヴェロエス的な二重真理説を、今度は唯名論的な伝統の上で、「科学と信仰」との二重真理説として提唱したのである。

 科学的真理と信仰の真理との分極は近代人における肉体(自然)と精神(霊魂)の新たな二元論として現れ、近世哲学の祖デカルトにおいて明確なかたちを取って現出した。

デカルトの肖像 デカルトは、感覚を通して与えられるものから数学的演繹によって理性的に導き出されるものまで、なにもかも一切を疑う。この作業は過去の中世スコラ学的伝統に対する決着だ。そして彼は一切を疑う自我の実在性に行き着き、これを哲学の新たな出発点にする。

 このデカルト的自我こそ近代人の自我であり、ドゥン・スコトゥスやオッカムなどの唯名論的潮流によって準備されてきたものの実現である。

 疑う私は実在する。したがって思惟する私も実在する。しかも思惟する私は明らかに物質でない。自我は思惟であり、精神であり、物質に依存しない実体である。そして神は完全であって人間を欺く筈はないから、感覚を通して知覚され、さらに数学的明証性において把握される物質的自然界やその法則なども実在する実体である。

 こうしてデカルトは欺かざる神の下に、精神と物質という全く相互に無関係な二つの実体世界を想定し、精神の属性を「思惟」、物質のそれを「延長」とした。

 デカルト的物質宇宙は数学的に記述できる力学的自然界で、全く機械的なものだ。宇宙の生成から物質の化学的特性を経て人体の生理作用に至るまで、全てを「機械」として見る見方だ。したがって非機械的な人間の精神活動とはいかなる接点もない。思惟たる精神と延長たる物質は全く別のもの、且つ互いに無関係であって、精神が物質に還元されるなどということはありえない。

 デカルトは近代的な衣をまとったこうした二重真理説によって、宗教と科学という相互に独立した二つの領域の並存を認め、時代的な知的制約性と社会的妥協から、信仰のために精神の領域を認めたのである。

ニュートンの肖像 こうした二重真理説はニュートンの世界にも見られる。デカルトとニュートンは共に無限大の機械的な力学的自然観を展開したが、それぞれ全く相反するタイプの機械論的宇宙論であった。

 デカルトのそれは「自然は真空を嫌う」といった中世のアリストテレス的自然論をもとにした「充満の原理」に立っている。「もの」と「もの」が接触せずに力が伝達されることはない、という考えだ。

 ニュートンは違う。彼は古代ギリシアの原子論者と同じように物質の基本成分を微小な質点粒子とし、それらの間には真空という空虚な空間があるとした。だから重力や磁気力のような物理的な力は、真空を超えて
遠隔作用するわけだ。

 デカルトの「延長=物質」説では真空などありえない。自然は延長する媒体で充満し、そこに渦流が出来て力が伝達されるとする。彼にとっては、何もないところを通って力が伝達されるニュートン流の遠隔作用説は、新たな神秘主義にほかならなかった。

 現にニュートン自身遠隔作用が機械的でないことを理由として、重力や磁気力などの背後に「非機械→精神→神」の超越的な働きを想定しようとした。真空の存在はかつて古代ギリシアでは原子論的な唯物論の土台であったが、ニュートン力学においては、神がそこから超越的に介入しうる「穴」のようなものになったのである。

 ところが充満説に立つデカルトにとって「穴」は存在しない。だから一度世界が創造されると、デカルト説では神の介入は原理的に許されないのである。しかしニュートン説ではそれがいくらでも許された。

 このようにデカルトとニュートンの宇宙論は全く相反する機械論的宇宙論だ。一体どちらが正しかったのだろう? 

 無限は一つしかなく物質宇宙を無限だとし、神と物質宇宙との間で「たった一つの無限」を取り合って勝利し、神を排除せざるをえなかった両者の論理自体は誤っていた。「ビッグ・バン理論」の現代宇宙論によれば、宇宙は無から創成された。つまりこの物質宇宙は無限でなく、時間にも空間にも初めがあったことになっている。

 また超紐理論や最近のM理論によれば、時空は四次元連続体でなく10次元あるいは11次元連続体だから、この宇宙がたとえ無限であってそこに無限なる神はいなくても、より高次なレベルで無限なる神は存在しうる。だから近代啓蒙主義の伝統に立って当時の論法で今も神を排除したままでいるのは明らかに誤っている。

 その他の問題ではどうだろう? もし世界が隙間なく充満しているとすれば、どうして物質の運動(渦流)がありうるのだろう? そういう疑問からすればニュートンの方が正しいようにみえる。しかし媒体なしにどうして力が伝達できるというのだろう? この立場からみればデカルトが正しくみえる。

 これが当時、充満する媒体の存在を重視するデカルト系のホイヘンスの「光の波動説」と、真空の中を運動するニュートンの「光の粒子説」の激しい論争として現れた。波動は媒体の振動であり、粒子は真空の中を運動するからである。

 当時は全く解きがたいように見えたこの問題も、現在ではもうすっかり解決されている。真空は、微視局所的にはガンマー線の高エネルギーで穴が開いて電子と陽電子の対生成となりまた電子と陽電子の合体で穴がふさがり対消滅してガンマー線放出となるが、量子力学的性質のため普通の物質とほとんど全く相互作用しないマイナス・エネルギーの粒子(反物質 ─ 通常の物質とは逆の現象を起こすので発見者のデイラックはこれを、ひとの言うことを聞かない「ロバの粒子」と名付けた)で充満している。

 だから普通の物質からみれば何も無いに等しい。その真空の海の中で、普通の物質同士の機械的な接触による運動が起きているのだ。もちろん、その充満した真空の粒子を通して、重力や電磁気力などのいわゆる「遠隔作用」が働く。

 つまり逆説のようだが、「真空はそれを構成する粒子でびっしり充満していた」ということである。だから充満説も真空説も一面的だったわけだ。これは現在ではさらに理論的に改良・拡張されて、真空空間は(量子力学的法則によって決してゼロにはなりえない)「最低エネルギー状態」とされている。

 20世紀に入って光の粒子説と波動説も一面的であることが分かった。光は波長が短いときは粒子性が働き、長いときは波動性が働くのである。光は両方の性質を持っていたのだ。

(5)機械論的自然観

 デカルトやニュートンの機械論的宇宙像における精神と物質の近代的二元論は、人間そのものを原理上全く異なる二つの領域に分裂させ、いわゆる「身心(霊肉)二元論」で人間を見ることである。人間の統一的全体性が失われ、世界は分離し、目的から存在が引き離され、思惟する人間主観とその対象である客観的環境世界との分裂をも引き起こす。

 存在に対する科学的知識は、事実に関する無目的的な知識になる。事実認識と価値判断とは峻別され、価値判断は事実認識を歪曲するものとされる。

 もちろん、事柄の真理を知ることと、それを土台に行動することとは全く別のものになってしまう。理論と実践との間には「事柄の真理の価値判断」という(近代科学にとっては)許されない矛盾した過程が介在するからである。

 自然科学が発展し、もろもろの経験科学とその技術が支配的になるにつれ、人間におけるこの近代的分裂はますます深まっていく。存在はさらに目的を失い、世界はなお一層神を見失い、人間は加速度的に信仰や希望を喪失して、自由と競争の中で暴走するハイテク文明における自己破壊的な滅亡へと突き進む。

 精神と物質の近代的分裂は、人間における心身の分裂、心における神の喪失、身体を取り巻く世界の喪失であるばかりでなく、事実認識と価値判断、理論と実践、科学と倫理道徳という二つの不可分な要素をそれぞれ分離することによって、「事実認識に基づく正しい価値判断を媒介にした正しい行動」といったものを不可能にし、人間を原理的に疎外した。

 知識は科学となることによって当為(為すべきこと)から切り離されたわけである。当為は宗教や哲学の領域のものになり、人間がどのように生きるべきかは科学(知識)の全く関知できないものになった。

 しかし人間にはとりあえず生きるための意味や目的が必要である。それはできれば究極的で絶対的な方が都合がいい。科学としても宗教としても、客観的に真実であるものを望むわけだ。人間にとってはどのように生きるかが大事なことであり、事実に関する科学的な知識が多く得られたからといって、それで済むものではない。

 人間は絶えず客観的な価値基準を求めている。それは神であり、理念であり、理想であり、未来である。そのような光に照らされて今の生を生きるように人間はできている。それが疑うことのできない人間の客観的真相だ。

 しかし、神も理念も理想も未来も、近代科学の手法で確かめられるものでも、そのような近代科学の知識でもない。それは信仰であり、理想であり、希望であって、近代科学の客観的知識ではない。だから、そういうもののない近代科学はどこかおかしいのだ

 人間の全営為としては、知識も価値判断や実践もトータルに必要だ。どれが欠けても人間の生存は歪むことになる。ちょうど人間の知・情・意のどれが欠けてもいけないように、科学も必要だし、哲学も宗教も必要なのだ。

 いってみれば(数学も音楽も倫理道徳もともに必要なように)それぞれが異なる機能を果たしながら、全体としての一なる人間を作り上げている。哲学を媒介として宗教と科学が共鳴する、そのような統一的調和が必要なのだ。

 しかし近代科学の発見した機械論的自然観のもとでは、そうした統一は不可能である。宗教と科学は二元論になっていて、そもそも共鳴できる土台がない。

 だが、近代科学の出発点がこのような機械論的自然観であったというのはやむをえないことだった。というのも、自然の仕組みは力学的なものがもっとも単純で理解しやすく、自然科学は力学から始まる他はなかったからである。

 力学的自然像はすなわち機械論的自然観だ。この観点では、化学的過程や生命反応という自然の一層精妙で難解な分野の仕組みについて、当時、まだほとんどなんの知識も得られていなかったため、宇宙を機械仕掛けの時計のように見なし、人間の身体さえゼンマイ仕掛けの機械人形のように見ることになる。自然界のなにもかもが機械であり、機械運動なのだ。

 したがって、そこに歴史も進化も成長もありえない。永遠に同じことの繰り返しである。このような無機的な機械論的自然観には、有機体が本来持っている目的性がない。目的性のない自然観が宗教と本当に共鳴・調和できる筈がない。

(6)デカルトによる時間・歴史・社会への軽視

 哲学的理性は近代科学のはしためとなってひとまず信仰と妥協し、哲学的二元論として現れた。だが近代科学のはしためとなったからには、それは当然「存在」をそれみずからの論理で内部から説明しようとする哲学本来の要求にしたがって唯物論に行き着くことになる。

 デカルトは身心(霊肉)二元論で人間を説明しようとしたけれども、脳なる肉が精神の座であることは分かっていた。たとえ理論的に説明不可能であっても、実践的には人は脳によって思惟し言葉を話すわけである。だから脳のどこかに肉と霊との通路がなくてはならない。

 彼は肉と霊の交接するところに人間の「情念」を置き、「情念」を統御する中心として脳内の松果体を挙げた。これはまた二つの眼球がどうして一つの像を造り出すのかを説明するための器官としても導入された。松果体は大脳内で左右二つの部分に分かれておらず、脳の中央部にただ一つ存在しているからである。

 こうした考えは方向としては霊魂を肉体としての物質に帰着させて一元化しようとする試みでもある。その後、この方向の発展として、18世紀フランス唯物論の代表の一人であるド・ラ・メトリは、人間の精神活動の実体性(霊魂)を否定し、精神を肉体活動に帰着させる『人間機械論』を著わした。

 宇宙創造後の神にいかなる介入も許さなかった空間充満論者のデカルトの二元論にかろうじて残っていた霊魂(精神)は、このようについに物質の活動に還元されたわけである。

 ここに神はいない。自然は機械であって、そこには歴史も進化も成長もありえない。あたかも神が「生命の素」ででもあったかのように、神の喪失とともに自然の生けるあり方そのものが、どこかに消え失せてしまったわけである。

 人間を機械論的自然の一部とし一種の機械に還元することによって、人間の神的・歴史社会的目的性が失われる。人間存在の意味、人間活動の目的が喪失する。こうして近代の機械論的自然観は人間に本当の生き方を指し示してやれないようになってしまう。

 以前から「空間=延長=実体」論者で、「時間」の独自性を認めない「時間」軽視論者のデカルトによって、社会や歴史については自然科学のような一意に決まる明晰な研究は不可能とされ、いわばこれらはガラクタの世界だと侮蔑されてきた。それで、真の歴史社会研究から生まれる筈の人間の正しい生き方は、はじめから放棄されていた。

 したがって、こういう機械論的自然観からは、せいぜい一種の個人主義的な快楽主義か、理性による情動制御的道徳論が人間個人の生き方として提唱されるぐらいだった。

 歴史社会的な観点のないこの時代では、「無神論者や唯物論者は道徳を守りうるかどうか」という低レベルのテーマが、ディドロやダランベールなど18世紀フランス啓蒙主義者たちの間で真剣に論議されていた。

 「神」を云々してもこのような「個人」主義ではいけない。「個人」と「神」を人間の「歴史社会的関係」から見ることが最重要で、人間は進化の中で遺伝子的にそうした関係を構造づけられている。

 人間のこうした歴史社会的関係は、あのデカルト的侮蔑のためにそれまでずっと発見されずにいた側面だったが、このような歴史社会的人間観の発見・導入とともに、それまでの「個人」や「神」の性格も歴史社会化するに至った。そして自然も単なる機械としてでなく、成長・進化を伴う「自然史」として再発見された。

 自然の歴史的動態はその上に築かれた人間社会を歴史化し、社会における人間を歴史創造的な実践的主体として浮かび上がらせる。人間は単に事実を知るだけでなく、それをもって判断し行動する全一的統合体となっていく。

 しかしそうした自然観や人間観が成立するためには、化学や生物学がある程度成長して機械論的な自然観が修正され、政治学や経済学およびその他の歴史社会科学の知的蓄積によって、デカルト的な歴史・社会不可知論を克服しようと試みる過程が必要であった。

 科学知識は事実を追う。そして事実は価値判断とは無関係なものとして出発した。近代自然科学に起源を持つこのような考え方は、認識論と実践論や価値判断を分けたカントを経て、普遍的事実を追求する自然科学と個性的価値に基づく文化科学とを区別する新カント学派を通り、その派のマックス・ウェーバーに至って、ついに社会科学にも適用されるまでになった。

(7)マックス・ウェーバーにおける近代二元論

マックス・ウェーバーの肖像 ウェーバーにおいては、自然科学が没価値的事実研究であるのと同様、社会科学も、たとえその対象である社会現象が人間活動として価値関係を含んでいるとしても、あくまで事実として没価値的に研究されるべきものである。

 社会科学における没価値的事実研究は「価値の客観的規範」の存在を認めない。それは価値判断がどこまでも主観的なものだという主張なのだ。

 こういう社会科学の方法論は彼の「理念型」(イデアル・ティプス)というものに行き着く。社会科学が客観的価値規範の存在を認めないことが、没価値的事実関係に対するこのような一種の「モデル論」になったわけである。つまりどこまでも仮説でしかないというやり方だ。

 したがって、社会科学は社会的実体そのものを論じることはできず、単なる架空の整合的理念型論の研究に留められる。ということは、客観的価値基準に基づく政策決定や行動というものは社会科学からは出てこないということである。

 社会科学は実践を要求する価値判断を下せない。たとえば、ある理想的な社会へと人類がある仕方で歩むことが客観的事実であるから、現在のこの事態を歴史発展の特定のある段階だと判断し、ある一定の行動を取るべきだという、いわゆる「革命の科学」などというものはありえない。事実認識と価値判断や実践はあくまでも別であり、学者と政治家や預言者とは両立しない

 このようにして、科学知識は、自然科学であれ、社会科学であれ、それが近代科学の知識であるかぎり、価値判断と実践から区別され、無関係にされた。

 確かに「歴史の科学」というのは知的冒険だ。歴史は未来を含むものであり、その未来は人間の目には隠されている。社会も歴史の原理から理解されるべきもので、現在の社会をどう捉えるかは「未来の視点」からしか可能ではない。

 未来がどうなのか誰も知らないので、したがって客観的価値規範を含む社会科学というのは絶えず一つの知的挑戦に留まるだろう。

 ウェーバーのいう客観的価値規範の科学的否定は、未来の不透明さの表現でもある。そのような規範があるとかないとかではなく、同定し確定できないということなのだ。また、そうした慎重な理性的自制がある意味で有意義だということも確かといえる。

 しかし人間は試行錯誤の実践的主体であり、人間のそのような歴史創造的な動態は、理性的自制という学者的なきれいごとを吹き飛ばす。吹き飛ばしてしまうことで歴史が形成されていくのである。ウェーバーのような学者はそうしてできあがった歴史を、後から化石研究者のように研究するわけだ。

 考えてみれば、人間は事実を知ってそれを評価し、その評価によって実践する存在だ。事実認識と価値判断や実践を別々にしてしまう近代的原理には、やはりどこか非人間的なところがある。トータルな人間の生が損なわれる。

 だから、デカルト以来のこの近代二元論を克服しようと試みるもう一つの別の流れがあった。その偉大な流れはG・ヴィーコからJ・ヘルダーを経てG・W・H・ヘーゲルに至る歴史哲学的研究の中で試みられた。

 時間(歴史)軽視のデカルト主義のように人間を身心(霊肉)二元論に分け、事実認識と価値判断や実践を区別し、そうすることによって人間を解体し疎外するのではなく、知識と理念とを歴史の動態の中で一つのものと見、歴史の中でトータルに生きる人間の全体像に迫ろうとするのである。

 ここでは人間は歴史哲学が与える知識と理念に従って、何をなすべきかを判断し、実践する。事実と価値判断は実践において動的に統一され、トータルな人間像に一層近くなった。ウェーバーのような自制的モデル論より、ある意味ではこちらの方が人間社会の歴史的実像に一層近いといえよう。

 しかし人間とは神の未来へと開かれた人格神的存在(神の似姿)であって、その定義は歴史の「中」では定まらない。ある面で自然や歴史そのものを超えているからである。だからトータルな人間像を神なしにいくら科学的に、哲学的に解明しようとしても、結局は誤るものだ。そして人間の社会や歴史の全一的で完全な把握もなしえない。

 だが、これを科学知識や哲学の絶対の究極的な体系に仕立て上げようとしたのが「科学的社会主義」としてのマルクス主義であった。

(U) 自然の弁証法的階層構造

(1)「生産力と生産関係」の史的唯物論

カール・マルクスの肖像 マルクス主義は科学知識と価値判断との実践における動的統一を目指し、トータルな人間の回復を壮大な規模で真剣に試みた。没価値的自然科学は何度でも繰り返し実験ができる。そして実験による再現性によって事実を確定し理論を実証しうる。

 マルクス主義は理論と実践との統一について、自然科学の実験行為(実践)による理論の実証という例を挙げる。理論の真偽を決めるのは実験すなわち実践であるとし、理論と実践とがそれぞれ別のものでありながら、また同じものとして、弁証法的に統一されているとした。

 そうした自然科学のやり方を歴史や社会の分野にも拡大適用し、社会発展の原動力として生産力を挙げ、その大きさに応じるかたちで時代時代の生産関係(原始共同体→奴隷制→封建制→資本主義→社会主義)とその発展が決められると考えた。

 生産力(量)は「人間と自然」との関係であり、それに依存する仕方で「人間と人間」との生産関係(質)が決められる。自然界で量が臨界量を超えると質が劇的に変化するように、生産力がある量を超えると、生産関係としての社会の質も革命的に激変する。こういう考え方の骨子に、歴史や社会を、自然科学的な歴史法則に帰着させようとする態度が見られよう。

 歴史の各段階が客観的に分かれば未来が予測できるわけである。そうすると、今なにをなすべきかという「当為」が客観的「事実」として決まる。事実認識と価値判断はこのように統一されている。ウェーバーにはなかった客観的価値規範がここでは存在することになったわけだ。
 つまり、マルクス主義は近代科学や近代精神における人間の二元論的な分裂を、弁証法というやり方で克服しようとしたのである。

 しかし歴史は繰り返しのきかないものである。実験は一度しかできない。自然科学のような再現性はありえないし、それによる実証性も持ちえない。

 マルクス主義は歴史を導く客観的原理を発見したとし、社会主義・共産主義へと向かう、生産力と生産関係に基づくプロレタリア階級の壮大な歴史哲学的科学を築き上げ、資本主義の現段階が世界史におけるいかなる段階であり、人類はいまここで何をなすべきかをはっきりした言葉で提示した。

 だが、本当に歴史社会の原動力が、生産力と生産関係の統一体としての生産様式における両者の矛盾にあるのかどうか、果たしてそれが「唯一の」原動力なのかどうか、どのように実証し検証することができるのだろう? 

 それを「唯一の」原動力とすることでマルクス主義は「史的唯物論」となったが、原始共産制以来のそれぞれの段階の生産様式に関する弁証法的発展過程の説明はともかく、当面する肝心の資本主義からマルクス主義的な社会主義・共産主義への移行という予測は、ソ連・東欧社会主義の崩壊によって見事に外れてしまった。

 マルクス主義は個人の自由な人格と底知れない無限の可能性を捨象し、その奥深い心理的機制や宗教的・道徳的側面を切り捨て、人間をもっぱら集団としてのみ捉えた。しかも経済社会の脈絡でのみ理解しようとし、そのうえさらに、経済社会の中でもまた特に「生産」にのみ価値を認め、一切を生産力と生産関係に帰着させる。

 そうしてあたかも自然法則のように人間を支配し突き動かす歴史法則の歯車の中で、神や個性を失った経済主義的人間が労働機械のように変貌してしまうことになる。つまり、人間の全貌を捉え、人間の統一的全体性を回復しようと試みたものの、一切を「生産」に帰着させるやり方のおかげで、そもそも一つの原理に帰着させられない人間の生きた有機的全体像をまたもや見失ったということである。

 社会主義の祖国ソ連は崩壊し、マルクス主義の歴史実験は失敗に終わる。その理論体系はいまや大きく崩れた。それは今では科学的哲学や哲学的科学であったにしても、科学そのものではなかったことが明らかになった。

 そもそも厳密な意味で「歴史の科学」などというものはありえない。「歴史の哲学」もそうである。なぜなら科学も哲学も事柄の内在的因子の究明をその原理としているが、預言に関するこれまでの諸章で明らかなように、歴史は神のシナリオに従う「神の世界史」であり、神がイスラエル民族に託した究極目的を実現するための「イスラエルの世界史」であって、その「外部」からの神の超越的な介入によって方向づけられているからである。

 「神の似姿」としての人間の根源は神に根差すもので、科学や哲学の言葉だけでは人間の現象を包括できない。神学の言葉も必要なのだ。歴史は「歴史の神学」を理念とし、「歴史の哲学」と「歴史の科学」とを駆使してはじめてその全貌を客観的に捉えることができる。

 歴史を導く神は主体的な人間存在のあり方を通して歴史に働きかける。神の歴史が人間の歴史として具現されるかぎり、神の歴史関与は人間の主体的な存在様式に従ってのみ可能なわけである。それは神が自律的な自然のあり方を通してのみ自然に働きかけることができるのと全く同じことだ。

 そもそも自然が弁証法的な意味で自律的でなければ、主体的な人間が進化の中から出現することなどありえない。神は自然をそういう仕組みで創造した。だから神の目的遂行の手段として、自然の弁証法的自律性も人間の主体性も存在論的に保証されているのである。

 神は実は私たちの自我よりずっと私たちに近いところに存在している。人間は神を他者だと思い込んでいるが、むしろ人間自我の本体ともいえるものなのだ。

 人間が主体的存在として、自分で考え決断しながら生存しているのも、そもそも神が弁証法的な主体的存在だからである。自然も人間もそういう神が(部分的ではあれ)外化(物質化)したもので、したがって人格としての人間の本質は「神に似たもの」なのだ。

 そういうわけで、神が人類の歴史の究極目的をあらかじめ設定して歴史の枠組みを決め、シナリオ通りに進行させているとしても、人間の主体性そのものに抵触するものではない。

(2)エンゲルスの『自然の弁証法』

フリードリッヒ・エンゲルスの肖像 マルクス主義の理論体系は今や社会主義諸国の崩壊によって大きく信頼性を失ったとはいえ、その人間や社会や歴史や自然に対する科学的で哲学的な弁証法的把握には依然として大きな真理性が横たわっている。マルクス主義は神の真理表現ではないが、そのごく近い世俗的表現なのである。

 しかし人間の歴史における神の超越的介入は非常に全般的であって、そこでの自律的内因のみを求める科学も哲学も、厳密には成立することはない。したがって、マルクス主義の歴史体系はどこまでも歴史の全貌解明のための一助に留まることになる。

 反面、自然に対する神の介入は宇宙全体からみればほとんど無いに等しい。そこはあまりいじられない。自然は人間の歴史が繰り広げられるための大舞台で、不動の背景であるべきだからである。したがって弁証法的な自律因子を求めるマルクス主義の真理性は、その体系のうちで最も未完成なこの自然の部門であらわになる。

 マルクス主義は自然に弁証法的階層構造を発見し、確かな科学的自然観をもたらした。その自然像はデカルト以来の機械論的・力学的な自然像ではなく、自分の中にエネルギーを持ち、自律的に進化して進化の各段階を階層づける、いわば生きた有機的自然像である。エンゲルスは『自然の弁証法』(田辺訳)の中で次のように述べている。

われわれに交渉のある全自然は一つの体系、諸物体の一つの全一的なつながり、を形造っている

 そして運動は物質に本属するものであり、宇宙における全運動量と全エネルギー量は不変であって、「もしその上、物質なるものが何か与えられたもの、創り出すこともできなければ壊すこともできないもの、としてわれわれに向かい立っているのであれば、このことから運動も(したがってエネルギーも、<筆者>)また創り出すことも打ち壊すこともできないものである、ということが帰結する

 エンゲルスは全運動量や全エネルギー量の不変性を宇宙の全一的な自存性と自足性の証拠と見倣し、超越的な神の存在とその介入を否定している。そしてさらに、そうした量の不変性から一歩進んで、質的なレベルで「運動の不可創造性と不可破壊性とへの結論」を引き出す。

 だがこの唯物論的命題はエンゲルスが近代の科学的諸発見から引き出したものではない。むしろ自存自足的なギリシア的コスモスにおけるギリシア哲学的伝統の援用なのだ。つまり彼は「世界をそれ自身から説明」したいのである。

 エンゲルスは正直に述べている。

現代自然科学は運動の不可破壊性の命題を哲学から受け容れなければならなかった

 だからこれは哲学の命題ではあっても、科学の帰結ではない。彼は、「この命題なしでは現代科学はもはや成り立たない」と続けているが、運動の不可破壊性はその不可創造性と一体のものであって、こうした唯物論的命題が現代科学のはしためとなった理性(哲学)の一つの親和的な帰結であるとはいうものの、やはりこれは哲学であって科学ではない。

 さきほどの引用文で、エンゲルスは運動の(したがって物質の)不可破壊性と不可創造性を条件付きで引き出している。すなわち、「もし、物質なるものが、創り出すこともできなければ壊すこともできないものとしてわれわれに向かい立っているのであれば」(色太字は筆者)という条件である。

 しかしこれは、「われわれ人間にとって不可破壊、不可創造であれば」ということを言っているにすぎず、神にとっては必ずしもそうではないということになる。エンゲルスにとって既に神は存在していなかったのでこの条件で十分だったかも知れない。だがこれは事実上、宇宙創造者の有無についての論議だから、やはり短絡といえよう。

 しかも、これは「もしAであればAである」というような無意味なトートロジー(同語反復)になっている。エンゲルスが「唯物論を受け入れることは現代科学の前提だ」というのは、彼の哲学者としての弁であって、科学者としての弁ではない、ということである。

 私たちが本書の第一章からずっと見てきた内容は、神が実在し、しかもそれは「三・一」の刻印を帯びた「三・一の神」であって、自然と歴史にみずからのさまざまな刻印を刻み込み、多くの偉大な預言者を通して確かな預言を行なっているという「事実」であった。読者の多くがそれを納得されたことと想像する。

 すると、物質宇宙は神によって創造されたのであり、しかも自律的なものとして創造された、ということである。その自律性に物質宇宙の自発的な弁証法的進化の根拠がある。

 宇宙はだから自律的ではあっても、本来、決してコスモスのように自存するものでも自足するものでもない。しかし一旦自律的な物質宇宙が創造されると、(エンゲルスは既に死んでその情報に接することはできなかったが)、特殊相対性理論においてアインシュタインが導出した「質量とエネルギーの等価原理」(E=mc2)によって、物質はみずからエネルギーの一形態として、自発的に進化を遂げていくことになる。

 この物質宇宙の自発的進化の流れの中に超越的な神が介入し、そのような自然介入を通して、人間の歴史に全般的に介入する。そうしたことを認めたうえで、エンゲルスの『自然の弁証法』は真理についての無限の宝庫になるのである。

 マルクス主義はキリスト教との激しい思想闘争を経るなかでその弁証法的「唯物論」を築き上げた。マルクス主義における「唯物論」は、キリスト教的観念論が資本主義体制のイデオロギーであったという事情により、その対立イデオロギーとして、生産労働者の階級的要請から、いわばアプリオリ(先天的)に受け入れられたものにすぎない。

 だから唯物論を正当化するあらゆる科学的論拠は、全て本質的には後発的な粉飾にすぎないのである。

 物質の自発的進化というのは、当時すでに確立されていた科学的事実であった。デカルト以来の機械論的自然観では自然の「外部」に動力が要る。機械としての自然には自発性がない。運動量やエネルギーは保存されるので、最初に誰かがゼンマイを巻いてやれば、それで事足りる。そうした最初の動因として機械論的自然の外部に神が要請された。

 この神は最初にゼンマイを巻けば用済みになる哀れな神であったにしても、近世の機械論的自然観には確かに神の存在する余地があるかに見えた。

 しかし、マルクスやエンゲルスの時代までに化学や生物学などの分野で科学的に明らかになった物質の自発的変化や進化という事実は、自然が力学的機械でなく自分で動くものであり、したがって宇宙の「外部」に動因を想定する必要がないという考えを力強く支持した。

 この新しい知識がプロレタリア階級からの要請と結びついて、彼らを一足飛びに弁証法的「唯物論」へと進ませることになった。

 神は最初にゼンマイを巻けば用済みだという近世哲学を「理神論」というが、これはいわば「愚神論」とでもいうべき一種の無神論であり、こうした愚かな神は物質が自発性を持つと立ち消えになるわけである。神を無みする点ではどっちもどっちというところだ。

 しかし神は次元の彼方に実在し、しかもこの宇宙にはその創成以来、物質の自律的な弁証法的自己発展の性格を与えた、というのが事柄の真相なのである。

 物質の律的な己発展性は、動的物体→変的物質→活的生物→欲的中枢神経系動物→主的人間、という物質の自発的進化として具現された。

 人間の主体性の物質的根拠は、そもそも宇宙が自律的な物質によって弁証法的に創造されているところにある。そして物質の弁証法(d i al e c t i k)的に自律的な性格は、絶対的主体としての人格神、人間に語りかける言葉(ロゴス)としての神の性格を反映しているものなのである。

(3)全自然科学の弁証法的な統一的体系化

 エンゲルスは『自然の弁証法』(菅原訳)で次のように全自然科学の弁証法的な統一的体系化の必要性とその可能根拠について述べている。

今日ますます必要となってきた自然科学の体系化は、諸現象自体のもろもろの連関のなかに見出す以外には見出しようがない。こうして、一天体上の小物体の力学的運動はいつも二物体の接触に終わるが、接触には摩擦と衝突という、程度のうえの区別しかない二つの形態がある。だからわれわれがまず研究するのは、摩擦と衝突というその力学的作用である。

 ところが、この力学的作用はそれではつくされないということがわかる。摩擦は熱や光や電気を生みだし、衝突は電気こそ生じないが熱や光を生ぜしめる。したがって物体運動から
分子運動への形態変化が生じるのである。われわれは分子運動の領域つまり物理学に入り、研究をすすめることになる。

 ところが、ここでも分子運動が研究の最終局面をなすのでないことがわかる。電気が化学変化に移行したり、化学変化から出てきたりする。熱や光も同じである。分子運動はいつしか
原子運動に移っているのである。化学。

 化学的過程の研究は研究領域として有機界[生物界]を見出すようになる。すなわちそれは、化学的な諸過程が無機の世界におけると同じ法則に従いながら、無機の世界におけるとは異なる諸条件のもとに進行しているような一つの世界であり、化学はこの無機の世界の説明には十分まにあっているのである。

 これに反して、有機界の化学的研究は結局のところ一つの物質にたどりつくことになるのであるが、それは、普通の化学的過程の結果でありながら、しかも自分で自分を実現してゆく恒久的な化学的過程であるという点で他のすべてのものから区別される物質−
蛋白である。

 ………化学がこうした蛋白をつくりだすのに成功したあかつきには、弁証法的移行は実在するものにおいても証拠立てられたことになり、またしたがって完全に立証されたことになる。……化学が蛋白をつくりだすことによって、化学的過程はさきの力学的過程がそうであったように、自分をのりこえて拡大してゆき、言いかえればそれはいっそう広大な領域、
生物の領域に達する。

 生理学はもちろん生きた物質の物理学であり、またとりわけ化学であるが、しかしそれによって生理学は特殊的に化学であることをやめる。一面ではそれは自分自身の範囲を限定することになるのであるが、しかしそのなかでいっそう高次の段階にまで自己を高めているのである。


 エンゲルスはここで物質の運動形態を大きく四つの部分に分類し、それらの各部分が便宜的なものでなく実在そのものの区分に対応するものであることを強調する。そして、それらの実在世界のそれぞれの領域が相互移行的な連続でもあり、かつ運動形態の質が異なるという点で非連続でもあるという、弁証法的な「非連続の連続」の論理を展開する。

 さらに、これら四つの領域の間の「移行はそれ自体でおこなわれなければならず、自然的でなければならない」とし、また、「一つの運動形態が他の運動形態から発展してくるように、その映像であるさまざまな科学もまた、一つの科学から他の科学が必然的に出てくるようになっていなければならない」と述べた。まさに天才的な予見である。
 現在ではもうすっかり当たり前のことが当時は全然当たり前でなかったわけである。

 四つの領域を列挙して並べると次のように整理できる。

@力学……単なる位置の変化…物体間の相対的運動→摩擦と衝突→(分子運動)
A物理学…分子運動…電気・磁気・熱・光→(原子運動)
B化学……原子運動→化学変化→(蛋白質の自己形成)
C生理学…蛋白質の自己形成→生物活動

 現在では、力学は電磁気学や熱力学などとともに物理学の一分野として分類されている。またエンゲルスがここで「分子運動」といっているものを現代科学用語でいう「原子運動」と入れ替えると話の辻褄が合う。こうした外的な微調整さえすれば、彼の実在把握はすべて正しい。またさらに、その弁証法的統合の論理である弁証法の三つの法則も真理である。

(4)形式論理学と弁証法論理学

 エンゲルスは『自然の弁証法』の「計画草案」の中で次のように述べている。

全体のつながりに関する科学としての弁証法。主法則は、量と質との転化─両極的な対立物の相互浸透と頂点にまで押しやられた際の相互の間の転化─矛盾による発展或いは否定の否定─発展の螺旋的な形式」 

 これらを箇条書きにすれば次の三法則だ。

(1)量の質への転化
(2)対立物の相互浸透
(3)否定の否定

 この弁証法の三法則はいわゆる従来の形式論理学の三原則を動態化したものといえる。

 形式論理学の三原則とは次の通りである。

(1)AはAである (A=A)

 
これは「同一律」と呼ばれ、議論のなかで同じ言葉はいつも同じ意味で用いることを命じている。この命題は当たり前のようであるが、現実の動態に対応していない。なぜなら氷の議論をしているうちに、当の氷は水や水蒸気に変質するからである。

 これはつまり温度という「量」の変化に伴う「質」の変化であって、弁証法三法則の
となる。しかし一定の条件下では氷は氷であり続けるから、同一律は守られねばならない。

(2)Aは非Aではない (A≠非A)

 これは「矛盾律」と呼ばれ、議論のなかで同じ言葉を他の意味にすり替えてはならないという命題だ。詭弁を排除しようとするものであるが、現実の動態の中では存在するあらゆるものが常に変化しているので、A はいつしか非A になっている。

 もちろんこれによる矛盾判断は詭弁でも誤解でもない真性の矛盾、実在の変化に伴う矛盾であって、ここから激しい議論が果てしなく続くことになる。つまり議論のダイナミクスと実在のダイナミクスの根本には、対立物の矛盾関係および相互乗り入れが生じる。

 この事情は弁証法三法則の
(2)に当たる。対立物の相互浸透は一切の現象の根源だ。また対立物は相補的でもあって、これは「太極」における陰と陽のダイナミクスの西洋的な表現でもある。

 しかし「A は非A ではない」という矛盾律も一定の条件下では成立しているし、それがあるからこそ矛盾と対立のダイナミクスも生まれるので、これもやはり守られねばならない。

(3)Aは{Aでも非Aでもないもの}ではない

 これは「排中律」と呼ばれ、互いに矛盾する二つの判断の他に中間の第三者がありえないという規則だ。(2)の矛盾律を補強するものであるが、通常の現実ではこのような二者択一の矛盾関係はまれである。

 例えば、「この紙は白い」と「この紙は黒い」という二つの判断がA と非A として与えられたとき、その中間に「この紙は灰色だ」という判断が現実にありうるわけである。

 排中律の命題は明らかに「ない」の「ない」という姿をしていて弁証法三法則の
(3)の「否定の否定」に対応している。

 形式論理は実在の静止論理、弁証法論理はその動態論理として、各々「存在」と、(それへの否定の<>を含む)『存在』としての「生成」の論理だといえる。「ある」(存在)が否定されて「なる」(生成)になるからだ。

 「生成」はエレア学派のパルメニデスによれば「非存在」(仮象)に他ならないが、「万物は流転する」としたヘラクレイトスにとっては、それこそ実在の真のあるべき姿である。「存在」はいつも「生成」の中にあり、「生成」はいつも「存在」の中にある。

 だからこの二つの論理学の相互関係そのものが弁証法的動態の中にあるといえよう。弁証法の三法則は実在や議論において別々に機能するのでなく、いつも同時に有機的に働いている。

 ここで第三法則の「否定の否定」について一つ修正しておかなければならない。「否定の否定」という二重否定は、形式論理では、単に元に戻ることである。そういう印象を与えてはまぎらわしい。

 弁証法的動態の中では、例えば「力学的階層」が否定されてより複雑で高次な「化学的階層」が創出され、その「化学的階層」がさらに否定されて一層高次で複雑な「生物学的階層」が創造されるというふうに、前段階が否定を通じて新しいより高次な段階の中に包み込まれ、その土台として保存されている事態を指しているから、ヘーゲル哲学のいわゆる「アウフヘーベン」(止揚)のことである。

 それを本書の脈絡でいえば、以前の古いものを踏まえて新しい歴史が築かれることだ。自然においても歴史においても同様の論理が通用する。

 すると、第一法則の「量の質への転化」や第二法則の「対立物の相互浸透」を含めた弁証法三法則の同時作用性の側面がはっきり浮かび上がる。

 新しいものは古い質のものの諸量の変化が臨界量に達して、(物理学でいえばいわゆる「相転移」を通して)、生み出され、新しく生み出されたものは古いものと対立し相互浸透するからである。

 この過程は、例えば、古い資本主義の否定が新しい社会主義だというように単純なものでない。もちろん古い資本主義の否定として新しい社会主義が生み出されたものの、社会主義が資本主義を全否定できなかった、つまり社会主義の世界革命が実現しなかった結果、結局二つの社会システムが共存するようになり、その共存の中で、新しいものと古いものとが再び相互浸透するという複雑さなのだ。

 弁証法は動態的統合の法則である。それはすなわち対立し矛盾するものの統一でもある。対立し矛盾するものを統一すれば新しいより高次なものが生まれてくる。それはすでに矛盾し対立する両者であり、かつ、両者でないものになっている。

 例えば量と質は対立し矛盾する。それらを統一すると、量的規定を持った新しい質、つまり「質量」(物理学でいう質量ではなく、ヘーゲル論理学でいう「限度」Massのこと)になる。「質量」は質と量の両者であり、かつ、もはや両者でない。

 さらに例を挙げれば、力学的階層(量)と化学的階層(質)は互いに矛盾し対立する。両者は相互浸透し、弁証法的統一をなして(新しい「質量」としての)生物学的階層を創り出す。新しい質量としての生物は、力学的物体でもあり、同時に化学的物質でもあり、かつ、もはやその両者ではない。

 自律的物質宇宙は弁証法的に自己進化して、人間へと向かう次に掲げる五つの大きな自然の階層を順次自己創造する。

(@)自動的物体─力学的・物理学的階層
(A)自変的物質─化学的階層

(B)自活的生物─生物学的階層

(C)自欲的動物─動物学的階層

(D)自主的人間─人間学的階層


 これらは前者が後者のための前提となり土台となって、より複雑・高度化し、ピラミッド型の弁証法的階層構造を形づくる。

 全ては自律的な物質の自己進化において連続し、しかも新しく自生した階層は前の階層とは質的に違っていて非連続である。非連続なものを非連続なまま連続において見る。これが弁証法による多様なものの力動的統一の原理だ。

 「非連続の連続」の分かりやすい個別の例を挙げると、例えば一つの石は全体としては連続したものだが、素材としての元素(原子)は粒粒の非連続である。だからこれは「非運続の連続」だ。もちろんこれは全ての物質に当てはまる。

 また、氷→水→水蒸気など物質に普遍的な「物質の三態」(固体・液体・気体)のそれぞれの質は、温度という連続する量に存在する凝固点や融点や沸点によって区別されており、その節目に到達するまでは一つの質のままである。

 物質の三態は温度の連続量における臨界量的非連続によるもので、これも「非連続連続」だ。「非連続の連続」の原理は後に出てくる「還元論」の弊害を克服し、取り除くうえで、決定的な役割を果たす重要な原理である。

(5)ビッグバン宇宙の自然史における弁証法論理

 現代科学の描き出す自然像は明らかに弁証法的な階層構造をなしている。それらの諸階層は全て「非連続の連続」を原理とする弁証法の三法則によって自律的に自己創出されたものだ。「量から質への転化」は現代物理学でいう「相転移」の概念にほぼ等しい。

 第一章で述べたが、13ページに掲げた表(下の表)に自然界における四つの相互作用が説明されている。現在のところ自然界のあらゆる現象は、素粒子から銀河に至るまで、重力強い力弱い力電磁力、以上の四つの相互作用力で全て説明できる。


 作用範囲 作用する荷量   交換される粒子 相互作用の強さ 実例    
 重力   無限大 質量 グラビトン(重力子) 5.9×10−39 天体間の力
 電磁力 無限大 電荷 フォトン(光子) 1/137 原子間の力
 強い力 10−13cmまで 色荷 グルーオン(膠着子) 約1/4 クォーク間の力
 弱い力 10−16cmまで 弱荷 ウィークボソン(弱中間子) 1.02×10−5 原子核のベーター崩壊


 化学結合の世界である(原子核外の)私たちの身体や周りのさまざまな普通の物質の織りなす自然現象は、重力相互作用を除けば全て電磁相互作用による。私たちの身体もその環境である全宇宙も例外なく化学結合体だ。

 その物質の化学結合は(量子力学的ふるまいをする)電磁力に帰着し、物体と物体が衝突してそこに変形や破壊や方向の変化が起きるのも電磁力に起因する。

 そもそも摩擦や衝突をする物体の固体性そのものが、物質を構成する無数の原子の間に量子力学的に働く電子の雲、言い換えれば電磁力のバリアー(障壁)によるのである。

 現代の科学的宇宙論は「インフレーション・ビッグバン」モデルの宇宙論だ。

 この理論によれば、

(1)宇宙は「無」もしくは「量子的ゆらぎ」あるいは「虚数時間における虚宇宙」から創成された。

(2)ついでエネルギーの全く無いゼロのところに重力の無限の落ち込み(重力の無限のマイナスポテンシャル)が生じ、その見返りとして無限のプラスのエネルギーが初期の真空宇宙に溜め込まれ、それが一種の過冷却現象を梃子にして、真空宇宙を光の速さを超えて急激に膨張(インフレーション)させる。

(3)その無限の真空エネルギーが真空インフレーション宇宙のある段階で相転移を起こして大爆発(ビッグバン)し、無数のクォークやレプトンに生まれ変わる。

(4)そしてこれらの基本粒子の結合から、水素(一個の陽子)や重水素(一個の陽子と一個の中性子)の原子核が生成し、宇宙創成三分後、それらからヘリウムや少量のリチウムなどの原子核が生成した。

 この過程は、宇宙が断熱膨張して宇宙温度がだんだん下がっていく過程でもある。宇宙を膨張させる主因子は宇宙斥力である真空のエネルギーだ。それが宇宙引力である物質の重力との対立と相互浸透によって、宇宙の物質的進化のドラマが形成されていく。

 もともと宇宙開闢時には、重力も強い力も弱い力も電磁力も全て同一のものであった。想像をはるかに超えるそういう唯一の力が宇宙の初めにあったと宇宙物理学者たちは考えている。

 宇宙が膨張し宇宙温度が下がることによって、ちょうど水蒸気が水になり、水が氷になるように、力の統一性(対称性)がみずから壊れて枝分かれしていき、そのつど宇宙は全般的な相転移を起こして、まず重力が独立し、次に強い力、最後に弱い力と電磁力が独立した。

 自然界の全てを支配し、その後の物質宇宙のあらゆる弁証法的自己進化の土台となったこの四つの基本的な力が、例外なく、温度の低下という「量」の変化によって「質」的変化を遂げながら発生したわけである。これは弁証法論理法則のなかの「量から質への転化」なのだ。

 温度の変化(低下)は粒子の生成とその安定性にも決定的に寄与している。「質量とエネルギーの等価原理」によって、ある粒子は 「エネルギー密度の面で自分の質量に等しいある温度」における熱平衡状態のなかでは、「対発生」したり「対消滅」したりして安定性がない。

 「対」とは、「物質」と(それとは電荷だけが反対の)「反物質」との対のことだ。例えば電子と陽電子、陽子と反陽子などがそうで、あらゆる素粒子にそういう反物質がある。

 質量を持った二対の粒子が消滅して電磁幅射(光)のエネルギーになり、また電磁幅射エネルギーが二対の粒子になって現れたりし、こうしてその温度での生成消滅を繰り返す。これは物質と幅射との「対立物の相互浸透」である。

 この粒子が安定した恒存的粒子になるためには、宇宙がさらに膨張し、その発生消滅温度より低い温度に宇宙温度が下がらなくてはならない。ちょうど凝固点を下回ってはじめて水が氷という安定した状態になるのと同様だ。

 第一章で見たように、クォークが三色三つ揃って「透明=白色」の安定した陽子や中性子ができる。だが宇宙温度が高すぎるとクォークどうしの結合が破れ、安定した恒久的な(永遠ではない)結合体としての陽子や中性子は生成されない。

 この宇宙の形ある全ての物体は、砂粒から人間を経て銀河に至るまで、なにもかもが、安定した陽子と中性子を原子の核子としてできている。だから宇宙膨張にともなう宇宙温度の低下が、形ある宇宙の基本条件の一つなのだ。

 宇宙創成三分後には、陽子と中性子の結合体が安定した原子核として存続するほどに宇宙温度が下がった。そのとき生成された元素(ただし原子核のみ)はヘリウムとリチウムなどの軽元素だけである。

 ビッグバンではさらに重い元素を生成するには宇宙の膨張冷却速度が余りに速く、元素の自発的進化の過程は一度ここで終わる。

 これより重い元素はその後の恒星活動、主にその後十数億年経ってから無数の銀河の中で形成された恒星の核融合反応により、核子が順次寄せ集められてその内部で創られた。だからこの三分後というのは宇宙の物質進化の一つの節目になっている。

 宇宙創成三分後までに生成された水素・重水素・ヘリウム・リチウムなどのプラス電荷の原子核は、宇宙がまだあまりにも高温であったためその周りにマイナス電荷の電子を捉えておくことができなかった。それらは電子を持たない裸の原子核にすぎなかったのである。

 温度はエネルギー密度の高さに比例し、エネルギー密度の高さは電磁幅射の振動数に比例するが、振動数の大きい高温の強力な電磁波によって、原子核に引き寄せられる全ての電子が弾き跳ばされてしまうからである。こうして宇宙全域がプラズマ状態にあった。

 これらが電子を捕獲して安定した電気的に中性の原子(元素)になるのは、宇宙がさらに膨張し、宇宙温度が絶対温度で三千度(三千度 K)に下がってからだ。そのときには宇宙創成からおよそ三十万年も経っている。

 化学結合とは電子結合のことだから、原子核が電子を身の回りに持つことによって化学結合一般がはじめて可能になる。宇宙の一切の形ある物体は、全て物質、すなわち化学結合体なので、この三千度 Kという宇宙温度は、構造を持った宇宙生成の真の節目であり、この温度以下になってはじめて、あらゆる形あり構造ある物体・物質が生成可能になった。

 原子核が電子を捉え、中性原子(といっても水素からリチウムまで)となったとき、全宇宙の電離したプラズマ状態は相転移し、プラズマ宇宙から電気的に中性の原子宇宙となる。

 このとき宇宙全域でプラズマの霧が消える。光(電磁幅射)は電離したプラズマの霧にもはや乱反射することなく直進し、宇宙はきれいに晴れ渡る。

 要約すれば、宇宙の物質進化は、宇宙斥力である真空のエネルギーと宇宙引力である物質の重力との間の、つまり斥力による宇宙膨張と引力によるその制動、また真空と物質、光(幅射エネルギー)と物質質量などの間の、対立物の相互浸透と統一的力動の中で行なわれる。

 また宇宙の四つの基本的な力も、宇宙を構成する素粒子や元素も、さらにはもろもろの形ある物体・物質を含むなにもかもが、温度の量的変化に伴って生成された新しい質なのである。

 これはまさに「対立物の相互浸透」における「量から質への転化」による「前段階の古いものの新しい高次なものへの移行」なのである。この論理がことさらに重要なのは、それによって宇宙が階層状に歴史形成されたという事実のためである。それは同時にまた自律的物質の自発的進化の歴史でもあった。

(6)自然の弁証法的階層構造の論理

 ここでそういう階層関係をまとめた左の図表を参考に、人類創出へ向かうこれらの物質階層の間にどのような関係、いかなる論理が働いているか考えてみたい。

 この表は17ページの図の横に自然の各階層に対応するそれぞれの学問の形態を添えたものだ。

 心は大脳の機能であるが、一つの独立した実体のようなところ、つまり独自の実在性があるので、大脳の上にある階層とした。

 霊魂は「独立した実体」という従来の意味では存在するものでないが、心がそれを求めて創り出し、いったん創り出されると独立的な主体となって心そのものを支配するような「かたちになる」ので、心の上の階層に「仮に」おいたにすぎない。

 霊魂の座は心に映じた神の投影にすぎず、本当は「精神的実体」としての霊魂なるものは存在しない。また、心の独自な実在性は疑いえないが、それがこのように単なる大脳の機能に留まらないのも、神を映す鏡だからである。

(1)まずいえるのは、下位のものは上位のものの素材であり、土台であって、その存在根拠である。アリストテレス風にいえば、下位のものは上位のものの可能態(デュナミス)であり、質料(ヒュレー)であって、上位のものは下位のものの現実態(エネルゲイア)であり、形相(エイドス)である。

(2)さらに、上位のものは自分の論理を下位のものに対していわば「理念」として働かせ、下位のものは自分固有の論理で動きつつ、この上位の「理念」に従って、みずから素材となり手段となり土台となって、その上位のものの「理念」を実現する。つまり下位のものは上位のものの実現のために現れる。ここでは存在の目的論が許される。

(3)そして上位のものは下位のものにもはや従属せず、自分の独自な論理と法則をもって独自な実在となっている。この場合、上位のあるものは下位のものの「ある特定の部分集合」としての一つの全体となるが、この全体は部分の総和以上のものになっている。だから全体を部分に還元することは本質的に不可能になる。これが還元論を克服する弁証法の原理なのだ。

 数学や物理学ではこういう性質を表わすのに「非線形」という言葉を使う。数学や物理学でモデル化するときの普通の単純化された「線形」の世界では、部分間の関係は全体の質の変化に対して特別に意味あるものでなく、単に量的な諸関係にすぎない。つまり部分間の加減や定数倍の乗除などそれぞれ勝手なことをしていてもいい。

 だが、「非線形」の世界では部分間の関係は全体の質の変化に関わるものとなるので、そういうわけにはいかなくなる。

 「全体は部分の総和以上のものである」という私たちの世界の真実は、この世界の「弁証法的な非線形性」の証なのだ。こういう性質は自然の階層が高次になるにつれて一層強く現れる。自然の上に構築された人間文化の場合には、こうした非線形性はさらに強められて極大化される。


 確かに力学層・化学層・生物学層・意識層など自然界におけるすべての現象は原子の離合集散に帰着する。還元論者たちはそれに立脚して化学物質、酵素、神経、大脳などの上位階層は全て原子の離合集散にすぎないので独自の階層でなく人間の幻想だとみ、いわば一種のモアレ(干渉模様→錯覚→幻影)のようなものだとするわけである。上位階層はそのモアレを誤って実体化・物質化したものだとみているわけだ。

 こうした見方の根本には、「何物かが原子の離合集散にすぎないものならば、単純な計算の積み上げで済むものなので必ず計算可能である筈」という錯覚がある。しかし彼らも、単純な流体の乱流でさえ近似式しかないことを知っているのである。自然界では惑星の三体問題さえ近似式で行っている。四体以上ならなおさらである。本当のところほとんどの実験で利用されている様々な方程式はほとんどが近似式や統計的平均値式なのだ。

 我々の宇宙の現実は無限の多体系なので日常の単純な現象でさえそもそも厳密な方程式を発見するのが非常に困難なのだ。弁証法的階層構造は階層が上がるほど複雑になりそれだけ多体系になる。つまり上位階層になるほどますます方程式が発見されにくくなっている構造なのだ。したがって「単純な構成要素の原子に還元できればその離合集散で何でも計算できる」というのは幻想なのである。それはどの科学技術者も本音では知っている。

 一般にある質の物質については無限個をたどってもその質の平面からは脱出できない。その質と別の質との間には量で見て無限大の壁が立ちはだかっている。これは物理学的な原子の離合集散の層と化学変化の層・生命活動の層・神経活動の層・大脳意識活動の層の間でも言える。例えばある酵素とその働きを原子の離合集散方程式で表そうとすると、そうした無限大の壁が現れ「永遠の壁」になるとすれば、そこには物理層と生命層との質の違い、層の違いが実在すると言える。

 乱流でさえ近似式しか得られないのに、どのようにして原子の離合集散式で酵素とその活動を表現できるだろうか? たとえば「いくつかの酵素の働きで私が風邪に強い」ということをどのように原子の離合集散方程式で表せるのだろう? 還元論者は「それも原理的には可能だ」と言い張るに違いないが、それは誤った哲学的願望や信念や性向にすぎない。実際のところ彼らは近似式しか利用できないことを日々の実験で痛感し、「もっと良い方程式はないか」といつも探し求めているのだ。

 たぶん上位階層を原子の離合集散方程式で表そうとすると、きっと何らかの「無限」が現れてそこが「永遠の壁」になっている筈なのだ。たとえば無限大に発散したり、あるいはカオスが現れたり、ゼロになったり、無限循環式になったり、無限回計算式になったり、迷路化方程式になったり、永遠に解にたどり着けない未知の新方程式になったりしているのだと思われる。そうなっていないと階層が独自に存在する説明がつかない。「全体は部分の総和以上のものである」であるというのは、そういうことである。還元論者にモアレとして見えたものは実在の階層なのである。

 げんに細胞が生きようとすることをどう原子の離合集散で方程式化できるのか? さらに細胞が生きようとして自己増殖を求めて細胞分裂するのをどのように原子の離合集散方程式で表しうるのか? 

 生きようとする意欲的な動きがなければ生命でないが、そういう生命は明らかに原子の単なる離合集散では説明できない。生きようとする意志的な動きは(無数の種類の有機分子によって形成される全体構造として)どの細胞にも存在するけれども、その止むない動きがあるからこそDNAはメッセンジャーRNAに転写され、そのメッセンジャーRNAはスプライシングされて核外に出、リボソームにまでたどり着いてアミノ酸の鎖であるタンパク質に翻訳され、さらに小胞体やゴルジ体で正しい姿のタンパク質に補正され選別されて細胞内外で利用される。この全過程をどのように原子の離合集散方程式で表せるというのだろう? 

 いったん必要不可欠なあらゆる有機分子の全体構造として生命体が細胞として成立すると、そこに新しい高次元の論理として自己構造の維持・増殖の論理、言い換えれば「生きようとする意志」が新規に現れ、今度はその目的のために有機分子の生成・維持・補修・分解・廃棄などのコントロールをしながら下位の物質過程を支配するに至るのである。すなわち生命はすでに下位の層に還元できない上位層として、下位の物質過程に支配されるどころか、逆に下位の物質過程を決定的に支配するに至っている。

 物理学的階層である原子の離合集散世界と化学変化の世界の間には原子の離合集散方程式不在による「化学変化の計算不可能性」という「永遠の壁」があり、化学変化の世界と生命活動の世界との間には「生命の説明不可能性」(化学反応式不在)という「永遠の壁」があり、生命活動の世界と意識活動の世界との間には「ニューロンによる意識・心・精神の定義不可能性」という「永遠の壁」がある。意識・心・精神のこの「定義不可能性」について説明すると、ニューロンがいくらどう集まっても心(意識)にはならない。心はニューロンの集積物やその分泌物や電磁場などではない。(具体的には(X) 大脳の働きとしての「心」ご参照)

 したがって原子の離合集散の世界と生命活動の世界の間には「化学変化の計算不可能性」と「生命の説明不可能性」という二つの「永遠の壁」が聳え立っており、原子の離合集散世界と大脳意識活動の世界との間にはこの二つに加えてさらに「定義不可能性」という永遠の壁も聳えていて三重の壁で隔てられている。実はこれらの「永遠の壁」が自然界に弁証法的な階層構造をもたらしている。むろん自然界におけるこれらの「永遠の壁」は人間が説明しようとすることで立ち現れてくる客観的実在ではあるものの、自然界では弁証法的な「量から質への飛躍」によっていつも乗り越えられている。

 ここで参考のために「化学変化の計算不可能性」(説明不可能性)の例を二つ取り上げてみよう。原子の離合集散の世界はそのもっとも単純な場合が水素原子二つの世界であり、化学反応世界はその水素原子が二つ共有結合して水素分子になっている世界である。水素原子をいくら研究してもその二つが結合するとどういうものになるか実際のところさっぱり予想できず、ほとんど分からない。分っているように思っているのは(力学や物理学の教科書からではなく)化学の教科書から既に水素分子の化学変化について多くを知っているからである。

 水素分子が無数に集合するとどういう性質のものになるのか、それが摂氏何度でどういう振る舞いをするのか、何気圧でどうなるのか、重力場が加わるとどうなるのか、電場や磁場ではどうなるのか、それらのどれかの組み合わせではそれぞれどうなるのか、それらのすべて加わればどうなるのか、水素原子をいくら調べてもそこからだけでは水素分子の性質や振る舞いについてさっぱり演繹ができない。

 さらに、水の分子は水素原子二つに酸素原子一つが結合したHОだが、HОが無限個集まると「水」になり、水が凍ると液体状態よりも体積が増えて比重が減り水に浮かぶとか、透明だとか、一気圧下では摂氏100度で沸騰するとか、他の元素と結合するとどうなるとか、水蒸気が凍ると雪の結晶になるとかなどなど、こんな単純な初歩の化学反応でも、もはや原子の離合集散方程式では演繹できず完全にお手上げなのだ。これが「化学変化の計算不可能性」というものである。こういうわけでさらに上の階層の生化学現象や生命現象や大脳の意識活動については「言わずもがな」といえよう。

 量子化学者や量子生物学者の多くはまるで化学も生物学も量子力学という物理法則で全て説明し尽くすことができるように主張しているが、これは正しくない。たしかに半導体における電子の流路など化学現象の一部を量子計算で解き明かすことはできるし、生物現象もたとえば神経のシナプス反応を量子計算であれこれ評価することもできるが、それらは量子現象と関わる特殊部分での局所的な分析的説明にすぎない。化学や生物学が全体として量子力学によって物理現象に還元され、さらにそこから量子力学でもとの化学現象や生物学現象の全体を復元できるというような総合的様式で説明できているわけでは毛頭ない。これはあくまで部分的な分析的研究であり還元論的説明なのだ。つまり本質的には量子力学で分析(還元)はできても、下(部分)からの自己創造的な総合はできない。化学も生物学も物理学(量子力学)で広域的・全域的に説明可能になることはない。

(4)次に、上位のものは自分の論理をみずから犯す、あるいは犯させられると解体・消滅し、また上位のものは自分の土台である下位のものの論理を犯す、あるいは犯させられると、その一層下位のものへと解体・消滅し排除される。たとえば心は自分の大脳を破壊すると解体・消滅する。さらに大脳を支える身体の仕組みを心が破壊すれば人間はただの死体になってしまう。

 以上四つの点が大事なところであり、ぜひとも押さえておかなくてはならないポイントである。こういう階層的な重層構造は自然だけでなく、人間の心や、心と心の紡ぎ出す社会や歴史や文化にも普遍的に見られる。

(V) 還元論者の弁

(1)「アルケー」(根源物質)を求める還元論者たち

 いつの時代にも還元論者という者はいるものである。たとえぱ、個物は普遍に先立ち、普遍は個物集団の共通点に与えられた名前にすぎない、という中世哲学における唯名論がある。一例を挙げれば、「馬はいない。それはただの名称である。存在するのは一匹一匹の馬だけである」という主張だ。

 しかしこの唯名論に対して、「普遍こそ先在するものであって、個物はその物質的なあらわれにすぎない」とする実在論がある。生物種の生態や遺伝および進化の研究をしている者にとっては、実在論の方が実感があるだろう。個体を「種」という普遍者の保存や進化の道具として見ているからである。

 R・ドーキンスの「利己的遺伝子」も、結局、個々の遺伝子の利己的なふるまいを通して(利己性を超えた)種の発展が図られていると見るべきだろう。これは「偶然を通して必然が貫徹する」「個物を通して普遍的理念が実現する」などというヘーゲル哲学の「理性の奸計」で説明できよう。

 唯名論と実在論の対立は、おおむね人間の認識過程において、「感覚」を重視するか、推理の能力である「理性」を重視するかの対立と照応している。

 感覚を通して与えられるものはあれこれのランダムな個々の印象である。しかしそれには感覚の持つ独特のリアリティーがある。あれこれの印象を自分なりに統合して、ある一つの全体像を作り上げるのもこちらの方だ。どちらかといえば発見・発明・創作に向いている。

(1)感覚経験リアリティー個物ランダム偶然帰納的総合的創作的歴史的直線的ヘブライズム的(どちらかといえば)

 という道筋だ。

 それに対して推理の理性は感覚によって与えられた情報の中に共通した要素を抽出し、こちらの方こそ実在的だとみる。それは個々の具体的な物から抽象されたものではあるが、ずっしりした重い法則性がある。

(2)理性推理抽象普遍(共通牲)規則牲必然演繹的分析的学問的自然的円環的ヘレニズム的

 これは前者とは全く対照的な道筋だ。

 この二つの道筋はちょうど古くからある霊肉(身心)二元論とも重なり合いながら、唯物論や観念論という極端な姿としても現われ、互いにいがみあって譲りあうことがなかった。

 還元論者はもちろん感覚や経験を重視する個物具象主義、つまり前者の道筋の方に属している。

 彼らは全てのものをその土台となる構成要素の素材に戻さなければ気が済まない。本当に存在するものは結合されたものでなく、材料としての素材の方だという主張だ。結合されたものは二次的な誘導体で、一次的なものでないとする。だから前に掲げた実在の弁証法的階層構造を認めない。

 たとえば生命は化学的作用に還元され、その化学的作用は物理学的・力学的作用に帰着させられてしまう。つまり一切は結局力学的作用にすぎないものとされるのである。

 いわく、感覚や経験が与えるのは個々の物質である。だから馬はいない。個々の馬のみがある。しかしこの馬もまたいない。それは個々の細胞の集合であるにすぎない。

 だがこの細胞も実は存在しない。それはDNAと各種の蛋白質・脂肪・炭水化物といった化学物質にほかならない。

 ところがこれらの化学物質もまた存在するものでない。それらは元素の集合体であって、個々の元素(原子)が存在するだけである。

 だがこの個々の元素も存在するものでなく、それは陽子・中性子・電子の結合体である。さらにまたこれらの粒子も存在しない。存在するのは(陽子・中性子の場合)それらの構成因子であるクォークだ。クォークはサブ・クォークに、サブ・クォークはサブ・サブ・クォークに、というふうに無限後退する。

 これは肉眼から顕微鏡を経て粒子加速器へと観測手段が高度化・精密化するに従って感覚対象が微小化してきたことによるものだが、この還元論は究極の基本粒子に行き着こうとし、それのみが実在すると主張する。全てのものはその究極の粒子の各階層における離合集散にすぎないとみるわけである。

 だからこの立場では、物質の弁証法的諸階層は一種の抽象であり、人間の設定した架空の構造にすぎないことになる。そういうわけで生命も心も実在するものでなくなり、当の還元論者が生存し還元論を説いていること自体も、一種の空しい幻にすぎないということになるわけだ。

 究極の粒子はギリシア哲学では「アルケー」(初め根元物質)と呼ばれた。筆者はアルケーを求める還元論者を「アルケー主義者」と呼ぶ。後に見るように、感覚主義者の彼らは、ついに宇宙とその空間・時間さえ人間の勝手な作り物だと主張するまでになるのである。

(2)単質の根源物質は存在しない

 この還元論の古代的形態が原子論者のアトム論だ。ギリシア語の「ア・トモン」とは「非・分割子」のことで、アトムはそれ以上分割できない究極の粒子のことである。

 ソクラテスと同時代に生きたデモクリトスは、自然現象は全てアトムの離合集散だとし、人々のいう色や味はこのアトムの運動にともなう主観的現象にすぎず、社会の法律や国家も人間の作り事でしかなく、アトムの離合集散のみが絶対の真実だと主張した。

 エンゲルスは化学的階層が力学的階層に還元されることを怖れて、こうしたアルケーの実在性に疑問を提起した。彼は『自然の弁証法』の中で次のように述べている。

「もし質のあらゆる区別と変化とを量的な区別と変化、力学的な位置変化に帰着させうるものとすれば、われわれは必然的に次の命題に到達せざるをえない。

 すなわち、物質はすべて同一の最小粒子からなりたっていること、また物質をつくりあげている化学的諸元素のすべての質的区別は量的なそれ、つまりこれらの最小の粒子が集まって原子(今日の分子のこと<筆者>)となるさいのそれら粒子の個数と場所的配置とのうえでの区別で生じたものである、という命題がそれである。しかしわれわれはまだとてもそこまではいっていないのである」


 エンゲルスは質的区別を内包することのない「単質の究極粒子」の存在について懐疑的である。彼はこれを「物質そのもの」なる抽象概念にすぎないと批判している。

 「物質そのもの」とは、アリストテレスの「第一質料」、すなわちいかなる形相も持たない「純粋質料」と同じく一つの抽象であることは確かである。

 もしこうしたアルケーがあるのなら、全ての質も物質世界の諸階層も、一つの幻影のようなものにならざるをえないのだろうか。アルケーが宇宙の本質的実体であり、その他のあらゆる自然現象は独自な実在性のない仮象で、アルケーの離合集散のさまざまなあり方につけたただの名前ということになって、自然における一切の質的区別の実在性は否定されるのだろうか。

 そうなれば生命も実在ではなくなる。それは一つの高度な質だからだ。しかし生命が実在しないなどといわれても、どうにも納得できない。生命が実在しないのなら、どうしてそれを云々する私が存在しているのだろう? 

 だから生命は実在するのである。そしてそれは物質のあのあらゆる弁証法的階層についてもいえるのである。アルケーのみが真実在だというのは還元論者の誤った考えなのだ。

 そもそもアルケーの在る無しに関わらずあの「計算不可能性」「説明不可能性」「定義不可能性」なる「永遠の壁」によって自然の弁証法的階層構造が成立しているので、「アルケーがあればそれによる自余の構成物は幻影になる」という発想そのものが誤っている。したがって還元論が誤りであるのはむろん、それをそのまま否定するエンゲルスの論法も舌足らずだったといえよう。

 たとえアルケーという単質根源粒子が存在していてもそれで自然の弁証法的階層構造が幻影化するわけではないが、アルケーが存在しないなら必ず自然の弁証法的階層構造は実在することになる。


 そもそも単質の根源粒子(アルケー)などありえない。粒子は現代の量子力学─これについては後節で詳しくご説明する─が明らかにしたように波動でもある。一つの粒子は本質的に無限個の場所と運動量(質量×速度)、スピンの向き、各種の物理的性格を決める抽象的な位相空間的ベクトルの確率波動の重ね合わせで、それ自身が等質でない相互に排他的な場所と運動量、スピン向き、位相空間的ベクトルの、無限の可能態の重合である。

 根源粒子が単質でありえないのは、粒子と波動、場所と運動量という相反する質の側面があるからだけではない。粒子自身、質量とエネルギーという異なった質の力動的統一であり、また真空空間が、質量を持った粒子とは別の質として、粒子以前にすでに存在しているからでもある。

 粒子は真空なくして存在しない。真空の特殊なエネルギーの場、つまり「特殊化した真空空間」が粒子なのだ。

 粒子は凝固したエネルギーであり、真空や光と向かいあってすでに或る仕方で相互作用している。粒子は他者、すなわち真空、光、他の粒子との相互作用なくしてはありえず、それ自身がすでに或る仕方で存在する相互作用の総体なのだ。

 粒子は機能(働き)の総体であり、同時にある機能を持った仕組みの総体であって、その質量がエネルギーと等価であるように、それ自身、その相互作用、その機能、その仕組み、その法則そのものと等一である。

 このように粒子は先在する様々な機構に媒介されたエネルギーの凝固体であるばかりでなく、諸法則そのものの重合体でもある。

 したがって、なんの形相(規則性・法則性)も持たない単質のアルケーという名の「純粋質料」など初めから存在しない。この宇宙はその基本となる構成要素そのものが、すでに幾重にも重合した複雑なものなのだ。純粋に単純なものから複雑なものができたのでなく、宇宙は初めからそれなりに複雑であった。

分かりやすい初歩的な説明しよう。仮にアルケーなる単質根源質料粒子があったとしよう。たった一つの粒子ではこの宇宙を構成できないから、それは粒子一個ではない筈だ。すると複数の単質根源粒子があることになるだろう。

複数の単質根源粒子が存在するには一個の単質根源粒子より大きな空間的広がりが必要である。となれば単質根源粒子とは質的に異なる筈の「空間を構成する別の無数の粒子」が前提されているわけだ。

そしてさらに、これらの複数の単質根源粒子間の相互作用を媒介する粒子がなくてはならないが、それはたぶんこの単質根源粒子とは異質の粒子となる筈だ。とすると単質で根源的な粒子などありえないことになる。


 一次的とされる単質のアルケーを想定し、その外部に(自然の各階層を形づくる)ニ次的な離合集散の法則をおく全ての原子論的還元論者は誤っている。これでは質料と形相を区別するアリストテレスとなんら変わりがない。

 現代科学が明らかにしたように、我々の物質宇宙には純粋質料などはなく、質料自身が同時に形相なのだ。かりにアルケーがあるとしても、それはさまざまな諸法則の重合体として異質なものをその内に含むのである。

 つまりアルケーは決して単質の根元物質なのではない。それはもともと、さまざまな姿を取りうるという意味での「多質」なエネルギーの或る仕方の存在形態であり、諸法則の重合体として多質の根源物質である。したがって必然的に複数の質のアルケーとして実在する。

 さまざまな粒子のもとになるエネルギーそのものがアルケーではないかと思われるかもしれないが、それはない。エネルギーはいつも既に自分に由来しない何らかの衣をまとっているし、エネルギーだけでは複雑な宇宙が創り出される筈がないから、その他に空間や時間や、エネルギーに質量(慣性)を与えて粒子化するシステムなどなどがなくてはならない。

 つまり、これらの多くの因子とその背後にあるさらに多くの見えざる因子から宇宙がなりたっている。

 そもそも「複雑なものは全て単純なものからなりたっている」という(「オッカムのかみそり」起源の)思想自体が、近代科学の誤った発想なのだ。こうした要素還元論では宇宙も生命も心も、さらに一層複雑な社会や歴史も決して理解できないことだろう。

 神は多質で複雑なアルケーのアンサンブルを出発点として、この自律的な物質宇宙を創造した。したがって、物質宇宙の自律的進化において物質が新たに獲得したあらゆる質、あらゆる弁証法的階層と、そこにおける論理や法則なども実在するわけである。

(3)カント哲学における認識主観の先験的枠組み

 概念一般性規則法則、という道筋を否定して、
 個物特殊性偶然混沌、に全てを還元し、
前者の道筋を便宜的な人間の作り事だとする素材主義的還元論者の絶えないのは、こうした二つの道筋を同時に含む量と質の弁証法的関係を知らないか、あるいは知ろうとしないからである。

哲学者カントの肖像 全てを上記のような量的な力学関係に還元しようとする還元論者の背景には、デカルトやニュートンなどによる近代の機械論的自然観に基づいてその認識論を展開したカント哲学がある。

 カントの時代には自然のシステムが機械として見えたので、人間の自由の物質的説明ができなかった。だからカントは自由の理論理性による説明を放棄し、実践理性の要請だとしてそれを受け入れる他なかった。説明はつかないが、事実上存在するのは間違いなかったからである。

 カントにはまた機械以外のもの、たとえば生命の仕組みも人間の思惟や言語能力などの説明もできなかった。つまり彼は自分と自分の生存環境のほとんど全てについて認識できず説明することができなかった。

 だから実在世界に対しては雑多な個々の感覚的所与のみを認め、その感覚的個物群の中に発見された個物共有の結合的な規則性というものは、本来人間主観の反省的理性が創り出した架空の秩序であるという、唯名論的伝統に基づく不可知論を主張した。

 カントは認識する主観の先験的枠組みとして、時間・空間と、悟性の十二のカテゴリー(215ページ)というものを人間に本属させた。

 つまり人間がこの宇宙に時間や空間や因果関係などもろもろの規則性があると考えているのは、宇宙にそれらが客観的に実在するからではなく、認識する主観が人間の中に生まれつき(先験的に)存在するそれらの主観的枠組みを、対象世界に投影しているからだ、というのである。


 こういう考えを自然科学に当てはめると、「あらゆる自然秩序や自然法則というものは、人間の側から対象世界に与えたものだ」ということになり、個物を超えた全ての抽象的法則性はいかなる客観性も持てないようになるわけである。

 これが現代の還元論者の哲学的基礎なのだ。カントのこの考えを社会科学に当てはめると、マックス・ウェーバーの「理念型」モデル論になる。

 現代の科学者たちがこのような思想を後生大事に奉っているのには、もちろんそれなりの方法論的な理由がある。

 一般に科学者たちが自然や社会の現象を説明するために開発するもろもろの概念や術語は、たとえ対象世界から要求されるという一面はあるにしても、あくまでも現象を合理的に説明しようという目的で「科学者の側」から対象世界に当てはめたものである。

 だから科学者は自然科学においても社会科学においても仮説やモデルを提供するにすぎない。こういう考え方である。

 確かにガリレオは「慣性」の概念を導入し、ニュートンは「力」や「運動量」の概念を新しく開発して近代科学を樹立した。彼の「絶対時間」「絶対空間」(後節参照)の概念もそうである。

 ニュートン以後、「エネルギー」(仕事の量)という概念も新しく作られて物理学に導入された。現代素粒子論は、素粒子の内部空間を抽象化し、到底実在するとは思えない奇妙なベクトル空間として記述している。

 社会科学においても「ゲマインシャフト」(共同社会)と「ゲゼルシャフト」(利益社会)、「資本主義」と「社会主義」、「労働価値説」と「限界効用学説」、「自然法」と「実定法」、「上部構造」と「下部構造」、「生産力」と「生産関係」など、これらは全て概念であり術語である。

 自然にも社会にも、その現象の中にこのような概念や術語が「これでござい」と貼られているわけでは決してない。科学者がランダムな現象を合理的に説明するために、このような概念や術語の範型を創作して現象に当てはめているのである。

 与えられているのは個々のランダムな情報だけであり、この概念や術語を科学者たちが創出して現象説明に当てはめているという一面を強調すると、あたかもカントの説のようになる。

 だが、これはあくまでも事柄の一面である。なぜそのような概念や術語で対象世界が合理的に説明できるのか、という他の一面に注意すると、それらの学者の創出した考え方の枠組みが、実は対象世界を反映したものであるということが明瞭になる。

 つまり表向きは学者の創出であり、そこに上手下手もあるけれども、実際は対象世界のあり方に促されて創出したということなのだ。

 したがって優れた概念や術語はそれだけ正確に対象世界を反映しており、学界で広く認められて公認の「モデル」となり、さらに実証が積み重ねられて「定説」という客観性まで与えられるのである。

 概念や術語や規則や法則というものに、どこまでも人為性を与えて感覚的所与と区別し不可知論を唱える者は、質量とエネルギーを分け、粒子と空間をどこまでも別のものとし、物質と法則を区別する古いニュートン流の力学的な機械論的自然観を持った還元論者の範ちゅうに属する。

 概念や術語は、科学的実証性を持ち得れば規則にも法則にもなるほどに客観性のあるものなのである。だからこそ現代の科学技術文明が成立している。

 テクノロジーのあらゆる産物は、もとは誰かの概念や術語であった実在の諸法則を利用して生み出されたものであり、この科学技術文明が客観的であるほどには、これらの概念や術語は客観的で実在的たりうるのである。

 科学者の創案したカテゴリーや概念や術語がなぜ客観的世界の真相を程度の差こそあれ反映できるのか? カント主義の還元論的不可知論者は訊ねるにちがいない。

 その答えは、科学者の感覚器官も、信号を伝える神経細胞も、その信号の意味を判定する大脳も、その大脳が対応している物質対象も、全てが同じ宇宙の同じ物質、同じ論理を共有しているからである。

 カントのいう人間主観のあの先験的枠組みも、実は客観的環境の一部として現れた人間が、長い生物進化過程のなかで客観的環境世界から抽出して内在化させたものである。 カントの時代には進化論はなく人間の認識能力はいわば進化を経ずに
もともとあったものとせざるを得なかった。

 そのため(神によって客観的環境世界である物質世界とは質的に異なる存在つまり「神の似姿」として創造された「創世記」のアダムのような)「出来上がりの人間」の能力として見るほかなかった。それが、カントのあの客観世界と隔絶された認識主観の先験的枠組みとなったと言えよう。「先験的」という性質もこの「出来上がりの人間」概念に由来する。


 もちろん全ての法則は宇宙の全一的諸関係のなかにあるから、宇宙の究極的な真相がはっきりしてこそ最終的な法則たりえるといえる。

 ニュートンの力学がアインシュタインの相対性理論の、ある領域内での近似にすぎないことが分かったように、いつかその相対性理論も、より一層一般的な基本理論の、ある有限領域における近似にすぎないことになるだろう。

 だから宇宙の究極理論が確立されるまでは、厳密な意味では、現在「法則」といわれている全ての法則は暫定的な「定説」もしくは「モデル」であるともいえよう。

 しかし、だからといってその法則の客観性までが失われるわけではない。それらの法則を利用して、エンゲルスのいうように、染料のアリザリンが作れればアリザリンの諸法則は客観的に掴めたといっていいのである。

(4)自然の諸階層は実在する

 還元論者は生物を見てもそれを依然として化学的分子機械のように見ている。彼らは人間の目線で見るより顕微鏡の目線で見る方が科学的だと錯覚している。

 たしかに細胞を電子顕微鏡で千万倍にも拡大すれば、酵素も蛋白質もアミノ酸も見えない。そこには原子の訳の分からない配列が無数にあるだけで、生命活動の痕跡すら掴みようがない。

 ここで作用している法則は量子力学の諸法則であり、生物学的諸法則ではない。生きた細胞は千万倍の電子顕微鏡のなかには実在しない。細胞は原子に解体してあたかも幻であったかのように消え失せる。すると生命は人間の作り上げた幻影だったのだろうか?

 このような機械論的還元主義に抗して、ベルグソンは生体の有機的全一性の立場から、生体はその構成物質に還元しえず、またしたがって構成物質から組成されもしないとし、一種の神秘的な「生気論」を主張した。

 すでに見たように、たしかに生命のなかにはDNAの情報体系にみられるように「言葉の神」のあの「三・一」の刻印が見られる。だがこの刻印はあくまでも物質による刻印であって、生命の神秘主義や生気論とはいささかの係わりもない。だからベルグソン流の生気論は誤りである。

 生命は高度な生化学的物質による有機的全一体で、その構成物質から組成することができる。そこにどのような神秘もない。

 しかしだからといって、生命が素材の単なる化学的な反応にすぎないとか、さらには一部の量子生物学者たちが主張しているように、量子力学的過程にすぎないとか、言っているのではない。連続面だけをみればそういう還元論になる

 だが実在の基本原理は弁証法的な「非連続の連続」だ。非連続の面も見なくてはならない。連続性のなかで非連続な質的区別が自然史的に階層進化し、物質宇宙の弁証法的階層構造が創り上げられたからである。

 その「非連続」の断面では、飛び越えるギャップが可能なかぎり小さくなるように、古い下位階層は質的飛躍のための全条件を準備しながら、新しい上位階層のできるだけ厳密な近似になっていなければならない。そうした条件が全て厳密に整ったとき、質的飛躍が「おのずから」可能になる。

 つまり物理・力学的自動物体は化学的自変物質になり、化学的自変物質は生物学的自活生体になる。この反対も真である。生命は、構成素材である生体分子の厳密な一セットと厳密な配在における、力学的で化学的な反応の総体として、おのずから生成される。

 生命活動の基本は「酵素」という生体触媒の反応である。触媒は化学反応の促進剤だが、酵素の反応は一般の化学触媒の実に一億倍から千億倍という超絶した高効率だ。こうした高効率が可能なための酵素の構造と働きがあり、酵素によるこうした高効率があってこそ、生命活動がはじめて可能になる。

 酵素は分子量が何万という大きな生体分子だ。その大きな分子量が酵素に特定の立体的な姿を与える。その立体的な構造は、凹に凸というように、それに姿かたちのぴったり合う特定の反応分子を効率よく誘導し、その構造の穴の中にかっちり填め込み、特異な構造の巨大分子というところから生まれる非常に効率のいい省エネ的な量子力学的電子反応(化学反応)を起こすことができるようになっている。

 ここで注目すべきことは、

(@)酵素=蛋白質が生体特有の分子であること
(A)しかもこの生体分子はまるで機械の触手が対象を力学的に掴むように反応分子を捉えること
(B)そしてそのうえで化学的巨大分子の量子力学的電子反応(化学反応)を起こすこと

 以上三点である。

 したがって、酵素という生体分子の反応のなかには、力学的物体の論理も、化学的物質の論理も、生体分子の反応というより高次のレベルで保存され、統一的に再現されているわけである。

 土台としての力学的階層と化学的階層を止揚(保存しつつ乗り越えること)し、より高次の生物学的階層が弁証法的に創出される仕方がここにはっきり見える。

 クォーク、核子、原子、物質、有機物、生物、という物質の各階層は、それぞれがより基本的な一つ下位の階層の素材で出来ているが、いったん新しい上位階層が出来上がると、各階層はそれ独自の存在法則や自然法則を持つことになる。

 それらの法則は自律的自然が歴史的に新しく獲得したものであり、すでに下位の素材の論理には還元できないものになっている。

 たとえば生命は化学過程ではあるが、生化学という新しい質の化学的過程で営まれている。生命はいわば生きようとする「意志」を持っていて、その「意志」を実現するために、一般の化学過程や力学過程を「自分風に」作り変えているのである。

 全てを原子の離合集散の一元論で説明しようとする還元論はなにか勘違いをしているのだ。たしかに酵素の全ての形状の背後にはそれぞれを成り立たしめる原子の相互作用がある。しかし細胞の中で特定の酵素がその特定の形状を取るのは、生命細胞の生きようとする意志と要求によるのである。細胞の中で酵素のそれぞれの形状を決めるのは原子の相互作用ではない。

 生命の独自な実在牲は、それがそのままでは素材に還元されず、むしろみずから新しい生化学物質を素材から造り出し、物質の新しい諸関係を創出しつつ、素材を利用し、管理し、支配するところに如実にあらわれている。

 上位階層はいったん創出されると独立し、そこから自分が生み出された下位階層を、今度は自分の独自な論理で「上から」支配し、再構成するのだ。それは、社会から生み出された国家がその母体や土台である社会を支配するのと全く同じである。

 また経済活動を仲立ちする貨幣が現れると、今度は貨幣が経済活動を再編して支配するというのも同様だ。自然の階層構造の論理は、自然だけでなく、その上で繰り広げられる人間社会の世界にも一般に通用する。

 二次的誘導体がどうして一次的なものより優れたものになるのか? それは、自然の弁証法的階層の頂点に、「神の似姿」として神を(部分的ではあれ)映す鏡であり宇宙創造の目的でもある人間がいるからである。

 もしより実体的な実在が自然の頂点に位置づけられているような仕組みになっていないのなら、二次的→三次的→四次的と進むにつれてだんだんつまらないものになっていくのが筋だろう。ところがそうはなっていない。

 次数が増え階層が上位になるにしたがってますます主体的で創造的で実体的な自然が創出されるのは、この自然の階層がますます神に近づいているからなのだ。

(W) 「唯脳論」という感覚主義

(1)自存する「アルケー」と聖書の神の「バーラー」(創造)

 ある還元論では永久に存在するものだけが真実在だという。時の流れの中で移りゆく形ある全てのものは本質や真実在の現象や仮象にすぎないという東西世界のほとんどあらゆる哲学(仏教哲学も含む)の基調がこれである。

 これは一様に現実世界を本質や真実在に(非弁証法的に)直接、還元し、それらの単なる投影として捉え、夢か幻のように思いなす思想だ。アルケー主義はこの変種である。

 もともと「存在」に基づくギリシア的宇宙は、非時間的な永劫回帰の円環的コスモスだから、アルケーは永久不滅のものである。「存在」(ある)は永遠に「あり続ける」他はない。

 そもそものアルケーは実在の根源として、いわば「純粋質料」と「純粋形相」の二つが未分化の状態だ。それを「純粋形相」として捉えるとピュタゴラス風の数秘宗教的な「数」となる。

 ピュタゴラスの教団では「数」をもって万物の根源となした。ディオゲネス・ラエルティオスは『ギリシャ哲学者列伝』(加来訳)の中のピュタゴラスの項で次のように述べている。

「万物の始元(アルケー)は一(モナス)である。そしてこの一から、不定の二が生じるが、その不定の二は、原因である一にとっては、あたかも質料であるかのように、その基体となっている。

 そして、
と不定のとからが生じ、また数からはが、点からはが、線からは平面が、平面からは立体が、立体からは感覚される物体が生じるのである。

 そして感覚物の構成要素は、火、水、土、空気の四つである。また、これらの構成要素は(もとは数だから<筆者>)相互に転換して完全に他のものに変るのである。

 なお、これらの構成要素から宇宙はつくられているのだが、この宇宙は、生命(魂)をもち、知的で、球状のものであり、地球を中心にしてそれを取り巻いているものなのである」

 また次のような条も見える。

形のなかでいちばん美しいのは、立体のなかではであり、平面のなかではである(と彼は言っていた)

さらに次のようにも述べている。

天を『コスモス』(秩序)と名づけ、地(球)は円いと言った最初の人はピュタゴラスであったといわれている

 まさに、永久不滅のアルケーによる自己完結的で自存自足の円環的なギリシア的コスモス像が、視覚の上に現れてくるかのようである。

 アルケーを今度は単質の根源物質としてみれば、アリストテレスの第一質料(「純粋質料」)であり、「純粋形相」としての神の対極にある。

 アリストテレスにおいては、全ての自然物は質料に形相を与えたもの、すなわち質料と形相の結合体である。ギリシア哲学では神はアルケーとしての質料(純粋質料)を創造することができない。質料に形相を与えるだけである。

 だから「無からの創造」という観念は永久不滅のアルケー観を持つギリシア哲学においてはありえない。プラトンが『ティマイオス』において描いた世界形成者としてのデミウルゴスは、原型としてのイデアに則って質料に形を与える者でしかない。

 「無からの創造」という思想はヘブライズムの聖書的思考の産物である。それは言葉としては聖書のなかにあらわれていない。『創世記』冒頭の「バーラー」(創造)というヘブライ語は「形づける」という程の意味で使われている。だからこの創造神はデミウルゴスとあまり違わないようにみえる。

 しかし聖書の神の基本的性格はその円環的な歴史性・意外性・新しさにある。しかも歴史の絶対的な人格的(恣意的)主体である。

 自然(存在)の法則にとらわれず全てを恣意的に始めさせ終わらせるこうした超絶した歴史的性格は、ヘブライズムがヘレニズムに遭遇し、ヘレニズムの言葉で聖書の神を語ろうとしたとき、神の内なるあらゆる形相はいうまでもなく、アルケー(純粋質料)さえも創造されて始まりがあるものとされ、ここに「無からの創造」という概念が成立したのだった。 「無からの創造」は、存在の自己完結性に対する人格的意志の優位を表わす思想なのだ。

 現代科学の宇宙像ではアルケーに基づく永久不変のギリシア的コスモスはどうやら崩壊したようである。インフレーション・ビッグバン・モデルの現代宇宙論によって、宇宙にはその時間・空間に「始め」があったことが明らかにされた。

 宇宙は百数十億年前に爆発的に創成され、膨張・冷却しながら物質宇宙の自己進化を遂げ、現在の自然の弁証法的階層構造を創りあげた。だから宇宙に時空の初めがあったという意味では、「無からの創造」が正しかったというべきだろう。

 ただしホーキングをはじめほとんどの宇宙物理学者は宇宙のなんらかの「自己創造」を模索している。宇宙の「はじまり」は容認するが、「宇宙は自分で自分を創造した」というわけだ。

 そのようにしてギリシア哲学以来の「存在自存の学」の伝統に立って、つまり、存在をその内側から説明しようとする姿勢を維持しながら、存在の自己完結性を保とうとしている。

 ホーキングは実数で記述される私たちの実在世界(実数宇宙)の自己創出の彼方に、虚数で記述される虚数時間の宇宙の実在性を仮定している。その虚数宇宙から実数宇宙への飛躍は、量子力学的なゆらぎ、偶然、確率波動に求められる。

 むろん、これは「無からの自己創造論」であって、そこに人格神やその創造目的などは想定されていない。あくまでも存在自身の量子力学的な「偶然」の作用で、無から生起したとする。

 しかしそのゆらぎ・偶然・確率波動が実在化するとき神が働いて特定の結果が帰結しているかもしれないことまで、どうして否定できるだろうか? さらに、その量子力学的諸法則はそもそもいったいどこから来たのか? それは無限に高温だった宇宙創成の最初期まで通用する法則なのか? さらに、それは宇宙創成にも適用して良いのか? これらの問いには今のところ誰も答えられない。

 宇宙は超宇宙の内部で無数に生成消滅しているというのが最新の宇宙論であるM理論の主張である。あらゆる瞬間に10の500乗個の宇宙が超宇宙内で生成消滅しているらしい。すると超宇宙のことが分らなければ、そのなかで生じている無数の宇宙のなかのほんの一つにすぎない我々の宇宙について、その起源も本質も分るわけがない。

 ところが超宇宙のことは原理的に把捉できないので、結局いくら追及しても我々の宇宙の起源も本質も捉えきれるものではない。三次元理論のニュートンから時空四次元理論のアインシュタインを経て、今や時空10次元の超弦理論や時空11次元の超膜のM理論に辿り着いたが、「先は永遠に続いている」というべきだろう。

 これはアナロジーで言えばいわば超宇宙がさまざまな色も外形面も素材も持つ物体であるに比して我々の宇宙はそれの影でしかないということである。影には明暗情報しかないので色も外形面も素材も持つ物体の正体には辿り着けないという理屈だ。虚像が永久に実像に届かないようなものである。であれば影なる我々の宇宙の起源も本質も突き止められる筈がない。


 ホーキングの説は「点→線→面→立体」という、幾何学的に高まる抽象的な次元の次に現実の「物体」を導き出したピュタゴラスのやり方とほぼ同じだといえる。「数」から「物質」への移動に似た、虚数宇宙から実数宇宙へのこのような移動を、果たしてどういう理由で量子力学は許すのだろうか? 

 特殊相対論のローレンツ変換式に空間軸と同じ権利で現われる(it)軸の項があるからといって、果たして虚数時間を実在と見て良いのだろうか? ちなみにローレンツ変換式は、x2y2z2+(ict2=0 で、xとyとzは空間の三軸、(ict)は(虚数のi×光速度×時間)である。

 方程式に現われるこうした虚数は量子力学のハイゼンベルク方程式にもシュレディンガー方程式にも現われる。しかしこれらは、複素数で表わされた確率振幅の絶対値を自乗し実数化してはじめて現実世界の確率となる方程式なのである。

 ローレンツ変換式における虚数時間軸の(it)も、実在世界ではその自乗の姿ではじめて意味を持つ。どこにも虚数時間など事実上存在しないし、誰にも何にも体験・反応できない。つまり方程式的実在であっても物理学的実在ではない。

 こうした物理方程式における虚数は、ちょうど複素数をベクトルとして数学的に応用するように、実在世界の物理学的結果を説明するためのいわば「手続き上の存在」であって、それを虚数の姿まま実在化しようとするのは問題だといえよう。


 一般にこのような量子力学的な「無からの宇宙創造」を「完全無」からの「有の創造」と勘違いしている場合が多い。しかしのちに宇宙となるべき物理学的なこの「無」はいわば体積上の無であって、その無が何らかの作用で体積を持って有に転化する外部のあるいは先在的な枠組みやシステムまで「無」としているわけではない。事前に量子力学の法則もなくてはならない。

 つまり量子力学的な「無からの創造」は「完全無からの創造」なのではない。完全無からの創造論が成り立つ時はじめて神の存在を否定できるが、そうはなっていない。外部のあるいは先在的なこのような量子力学的な枠組みはどこからきたのか?という問題が残るからである。

 ホーキングは宇宙創成において空間のマイナスエネルギーと真空のプラスのエネルギーが相殺したので宇宙はゼロエネルギーから生み出されたとし、そのとき時間もまた同時に生み出されたので、時間以前の因果、たとえば宇宙創造神の働きを想定するのは無意味であるとする。宇宙は神無くして、ゼロエネルギーから、みずからの量子力学的偶然によって生じたというわけだ。

 たしかにたとえばA宇宙にとっては宇宙創成と同時にA宇宙の時間が生じたのでA宇宙の内部ではその時間先行的な生成因はたどれない。だとしても、A宇宙だけが存在するのではなく、量子力学的に言えば、超宇宙にA宇宙のほかにおよそ無限といっていい数の別の宇宙も量子力学的に生成消滅しながら存在している。いわゆる無数の並行宇宙の存在である。

 我々の住むA宇宙内では時間先行的にそのA宇宙の創成論は語れないとしても、超宇宙の視点からすればA宇宙に(物理的に)先行するその生成因を論議できるわけである。

 十数年前であろうか、オーストラリアの物理学者たちが粒子加速器のなかで模擬ビッグバンを起こして宇宙(仮にB宇宙と呼ぶ)が創成するかどうかの実験を行ったことがある。

 もし仮にこのときB宇宙が生じたとすれば当のB宇宙の時間もそのとき初めて生じているので、B宇宙内部では時間先行的には当該B宇宙の生成因を突き止められない。だがそのことをもってホーキングのように宇宙創造神(オーストラリアの物理学者たち)の存在を否定するのは、正しいことではないことが分るだろう。真の宇宙創造神ならなおさらのことである。

(2)「時間」について

 これまで、本質や真実在の一時的な仮象や現象として実在の物質宇宙をみてきた還元論者は、時間や空間、物質やその法則など、全てが永久不滅の真実在ではなく始まりがあったという理由で、真実に存在するのは「我」のみで、これらは全て「我」の作り事にすぎないとするカント的な先験的主観主義の立場に逆戻りしつつある。

 客観的真実在としてのアルケーを追求してきた現代科学者たちは、アルケーが虚数の彼方に消えてしまった代償に、「我思う、ゆえに我あり」の近代的個我の哲学に立ち戻ろうとしている。

 ある物理学者の一群は、時間というものは人間が抽象的に創出した概念であって、人類の共同幻想だという。こうした人たちによれば、時間はもともと放牧や狩猟や漁労など、それぞれ異なる生活に合わせた各共同体における具象的な時の流れである。

 真木悠介氏は『時間の比較社会学』の中でこれを「具象のうちにある時間」と呼び、たとえば牧畜民の「牛時間」などを挙げている。

 ところが、それらの共同体の産物を物々交換する交流のなかで、それぞれの共同体における時間の具象性が止揚され、共通の抽象的時間が求められるようになった。

 それはちょうど牛一頭と鯖百匹とを物々交換するとき、物品それぞれの具体的価値(使用価値)が止揚されて、それぞれに共通する抽象的な「価値」が求められ、その「価値」がのちに貨幣で表現されるに至ったのとよく似ている。商品流通とともに時間も抽象的なものになったということである。

 時間は農耕文明時代に入ると、太陽や月による暦といった一層抽象的な時間になり、ニュートン力学に至って「絶対時間」という完全に抽象的な時間になった。

 そして人類の誰もが、宇宙のどこにおいても一様に同時的に流れる「絶対時間」というものがあると信じ込んでしまった。今でも腕時計をはめ、世界標準時に合わせた時間に追われている現代人の多くは、こうした感覚で時間を意識している。

 しかしアインシュタインは「特殊相対性理論」によって加速度ゼロの慣性系(等速度運動系)における時間の相対性を発見し、慣性運動する系ごとに時間が伸縮し、その尺度が異なることを見出した。

 さらに彼は、系を慣性系から加速=重力系に一般化した「一般相対性理論」において、加速=重力系の中では時間と空間の尺度が歪むことを発見した。

 一般相対性理論からは、その後オッペンハイマーなどの研究を通してブラックホールの実在性が浮かび上がり、外部から見たブラックホールの「事象の地平線」上での時間の消失、ブラックホール内での時間と空間の役割の逆転、ブラックホールからホワイトホールヘの時空を超えた無時間的・無空間的な瞬間移動などが、厳密な方程式のかたちで導出された。

 時間というものがニュートン力学のような絶対的なものでないことが実証されたわけである。

 運動する系ごとに、また置かれた重力の場ごとに時間の尺度が違うという真理は、放牧や狩猟や漁労等々の各共同体に流れていたそれぞれ異なる時間の流れの多様性や相対性と対応させられるに至る。

 こういうことから、京都大学の佐藤文隆氏は『量子宇宙をのぞく』において次のように述べている。

「時間とはあくまでも認識する主体と対象との関係であって、対象独自の性質ではない」
「人間以前に時間的に記述される現実があったのかと聞かれたら、簡単に”ノー”と答えたらいいと思う」


 これは全くカントの先験的主観主義の哲学である。

 実はあらゆる基礎物理方程式が時間対称で、時間の方向に関わらず同じように成立するということも時間の実在性を否定する根拠となっている。これは右から左へ転がる球は時間反転しても左から右へ転がるだけで、いつも可逆的であるということだ。ここでは時間の流れとともに新しい不可逆的なことは何も起きない。こうした観点から時間の実在性を否定する物理学者は多い。

 今では、時間とは、宇宙が膨張を続け、エントロピーが弛まず増大していることが、人間の意識に反映していることだと規定されている。時間は始めがあるだけでなく、系によって相対的なものだという理由で、人間の意識の産物とされ、人類の共同幻想とされる。

 しかしよく考えてみよう。べつに時間というものが、川があるように存在するのでなく、ある物理過程の表現だとしても、そういう仕方で時間は実在し、そのようにして実在する時間があるからこそ、宇宙や人間の歴史があり、祖父母や父母がいて、今の自分がいるのではないか? 

 時間が実在でなければ、一般に運動や生命活動や思考とは何であるのか? これらは時間の因果性があってこそ成立するから、時間が仮象なら、これらも全て仮象になってしまう。すると「思考する」あなたはいったい何者なのか? あなたが存在する前には時間、つまり文明の歴史はなかったのか? 

 もし人類が地球上に現れる以前に時間がなかったのなら、化石とはいったい何であり、人類はどうして今地上に存在しているのだろう? また時間が人間意識による幻想なら、なぜ時間はいつも際限なく厳密に分解できるのだろう? 物理学の世界では恒常的にピコ秒(10−12秒)やフェムト秒(10−15秒)などの単位で物理現象を厳密に測ることができるが、それはなぜか? 

 そもそも時間が人間意識による幻想なら、時間は「幻想」という意識現象レベルの生物時間(短くてもせいぜいミリ秒単位まで)であり、物理時間のピコ秒やフェムト秒など意識が幻想として作り出せるものではない。

 時間が絶対でなく相対的で、しかもその起源があり始めがあるからといって、系の意識の産物だとするのは短絡である。意識の産物なら、時間と空間の厳密な自然法則としての相対性理論が成り立つ筈がない。なぜなら意識はどのようにもメチャクチャに意識できるからである。

 意識がその系の運動状態に従う厳密な法則によってその時間の尺度を定められるというのは、時間の客観的実在性の表示であって、意識にはどうしようもないのだ。

 それは意識の「外」にある。系によって時間の尺度が異なるとしても、それは対象がはかない幻であったり、実在しないことではなく、いわば対象を見る視角が変るということにすぎない。見られているものはちゃんと実在する。時間は厳然たる客観的実在なのである。

 それは系そのものの「固有時」が不変であるというところにも現れている。その系の固有時はその系のいかなる運動形態にもかかわらず不変のまま保たれるのだ。

 どの系にいても自分の身体の細胞はちゃんと同じように働いている。だからブラックホールの中に吸い込まれても、吸い込まれた当人・当物体の時間の流れ(固有時)になんの変化も生じない。もちろん時間が消滅することなど決してない。

 時間を意識の産物だとする還元論者はなにか勘違いしているようである。彼らは時間が水の流れる川のように不変の枠組みを持っていなければ時間でないように錯覚している。ニュートンの「絶対時間」が成立しなければ時間そのものも幻影だと思い込んでいる。

 宇宙やその枠組みも、永遠に存在するとか永久不滅のアルケーに帰着するのでなければ、他愛もない幻想であるかのように思い違いをしている。一次的なものだけでなく、二次的誘導体も真に実在するのだ。

 だいたい一次的なものといっても、純粋に一次的なものは「純粋形相」にしろ「純粋質料」にしろ、そもそも存在しない。宇宙はもともとなにもかも全て、いわば「複合的」という意味で二次的で多質なものなのだ。

 むろん、たしかにニュートン的な固定した「絶対時間」は存在しない。しかし運動のあるところ時間が伴っている。運動には速度があり、速度は空間的距離を時間で割ったものだからである。したがって運動と時間とはどちらが先だというものでなく、共に存在していて、時間は物理状態に影響されるだけなのだ。相対論では物理系によって時間は空間と共に伸縮したり歪んだりする。反物質による反世界では時間は我々の世界とは逆方向に流れている。ビッグバン以来のエントロピー増大の法則と時間の矢とはむろん関係している。

 こうした観点から見ると、時間は運動が存在するときにはいつも存在していて、宇宙の物理状態によって、局所的にあるいは全局的に、いわば過流になったり、ブラウン運動をしたり、円運動をしたり、伸縮したり、歪んだり、逆行したりしながらも客観的に存在するわけである。だから時間は系によって、見える角度が異なるか、姿が変わる、というに過ぎない。その系ではいつもその姿の時間があるというのは、時間の客観的実在性の証であろう。

 一部の物理学者はアインシュタインの相対性理論における時空4次元連続体としての宇宙のあり方から、全ては時空の幾何学で既存していて、過去・現在・未来は幻影に過ぎないとする。しかし光速を超えない系ではどのような形態であろうと過去・現在・未来は物理的に作用して因果法則を成り立たしめている。

 時空の幾何学で全てが非時間的に既存しているかのように考えるのは、アインシュタイン的な幾何学的時空論の持つ静的思考の所産である。確率論的不確定性を原理とする量子力学を考慮すれば、全てが時空の幾何学で一意に決まっているかのように思考するのはやはり一面的であることが分る。

 物理学的には、宇宙はあらゆる瞬間にあらゆるところで非決定論的に選択される無限に多様な出来事の全体なのだ。そもそも量子力学的現象は何もかもが確率的で「偶然」を原理とする。偶然の結果は繰り返しができず、すなわち不可逆である。また量子力学では同じ作用素でも作用の順序が違えば多くは異なる結果となり、これも不可逆性とつながる。

 事実、2017年9月7日の報道によれば、東大物理工学専攻グループは多体系の量子力学に基づいて熱力学第二法則(エントロピー増大の法則)を導出し、時間の不可逆性つまり「時間の矢」を量子力学だけから導き出した。

 これは「あらゆる基礎物理方程式は時間対称なので時間は実在でない」と主張してきた物理学者たちの誤りを意味している。そもそも物理方程式は(複雑な環境を捨象した)理想的な単純系をもとに作られている。多体系ともなれば天文学における三体摂動問題でさえ非線形化して数値計算で解を求めるしか方法がない。

 もしかするともっと複雑な多体系となれば、時間の不可逆性も考慮しなくてはならなくなるかもしれず、複雑な多体系になればなるほど時間が顕在化してくるのかもしれない。だからこそ(環境も対象分子も混在した)統計力学のような無限ともいえる多体系で、熱力学第二法則という時間の不可逆性が姿を現してくるのではないか?

 例えば理想的な単純系である真空中の振り子は永遠に同じ動きを続けそこに過去も未来もないが、現実世界である大気中では空気抵抗でだんだん振幅が小さくなるのでここには時間がある。確かに振り子の法則を求めるには一切の外部因子を除いて理想的な単純実験系を構築する必要はあるけれども、それで得られた法則を全ての外部因子を含む宇宙に適用して「時間は存在しない」などと判断してはいけないわけである。

 2021年11月2日発表の京大基礎物理学研究所による「一般相対性理論におけるエネルギー概念の革新」(ブラックホールの新しい描像と新しい保存量)によれば、一般相対性理論に最初から存在したエネルギー問題、すなわち一般相対性理論では一般座標変換(観測系の変換)で維持されるべきエネルギーの不変性が正しく表現されていないという問題が、今回新しく発見された正しい定義のエネルギー概念により解決されたのだが、同時にそこに新しい保存則の介在することが発見され、それが熱力学第1法則として導入されるに至った。熱力学第1法則が作用するならむろん熱力学第2法則(エントロピー増大則=時間の矢)も作用する。たとえばそこには次のような言及がある。

「宇宙のような全体から成る系においてそのような保存量が存在しその具体的な表示を与えることに成功しました。そしてその結果を私たちが住んでいる宇宙のような系に当てはめると、その保存量をエントロピーと解釈することで熱力学第1法則を満たしていることが分かりました。特に我々の宇宙ではエネルギーは保存しません。またよく知られたブラックホールに対してこの保存量を計算すると、ごく自然な仮定の下に、ベッケン シュタイン・ホーキングの公式から計算されるブラックホールエントロピーと一致することを確認しま した。以上のことから、この保存量が一般の閉じた物理系におけるエントロピーではないかと予想していま す。」

 さらに2022年1月28日発表の理研などによる「二次元ディラック電子の量子異常を実証することに成功」によれば、グラフェンやトポロジカル絶縁体の表面には特殊相対論的粒子である「ディラック電子」が存在し、その量子理論では時間対称性が保存されないとしている。引用すると次のとおりである。

「こうした相対論的粒子の量子論では、さまざまな異常(量子異常)があることが確認済みで、例えば二次元のディラック電子では、ゲージ対称性の下でパリティ(空間反転)対称性および時間反転対称性が保存されない「パリティ異常」を生じることが知られている。」

 もともと現実世界は単純系でなくいわば無限の多体系だから、時間の実在する(無限の多体系とも言える)現実世界こそが真実なのだ。基礎物理方程式が導き出された理想的な単純系は、時間の存在する現実世界とは違うのである。つまり基礎物理方程式を立てるとき宇宙を単純系に抽象したので基礎物理方程式が時間対称なものとなり、あたかも時間が存在しなくてもいいように見えたのだといえよう。

 客観的に実在するということは、ニュートンの「絶対時間」のように、いつでもどこでも同じ姿や同じテンポで存在するということとは違う。我々は宇宙のほんの一部である地球上に、ほんの一時的に生存するが、それでも客観的実在である。「絶対時間」が存在しないと時間の客観的実在性が失われ、時間そのものがないように思いなす傾向があるが、そうではない。

 自然や人生をなにか単純な本質や真実在の仮象としてみるこうした還元論者は、自然や人生のなかにこそ本質や真実在が込められていることを見ようとしない。自然や人生が、神によって厳密な階層的諸法則の上に創造された自律的な独自の実在であることを認めようとはしない。

 この自然、この人生ははかない夢でなく、二次的→三次的な誘導体というふうに階層の次数が多くなるにつれて逆に一層優れたものとして実在する現実であること、この自然、この人生の中でしか人間は存在しえないこと、この自然、この人生を捨てると人間の行き場がないこと、また人間の究極的な救いは神に蒸発したりアルケーに解体したりするところにではなく、人間の唯一の現実であるこの弁証法的に階層づけられた自然界の中で成就される「神の国」にあること、これらのことをしっかりと認識しておくべきだろう。

(3)「唯脳論」とは?

唯脳論の表紙写真 ここで最近流行のもう一つの還元論である「唯脳論」について触れておこう。「唯脳論」の出発点はいうまでもなく人間の「脳」である。「脳」は唯脳論の提唱者である養老孟司氏にとっては、何よりもまず「知覚」能力である。そしてその「知覚」は脳における「視覚系」と「聴覚・運動系」という二つの異なる解剖学的領域に伴う二つの機能に分けられる。

 だから「唯脳論」とは知覚論であり、視覚系と聴覚・運動系についての哲学だ。そこから他のもろもろの哲学に対する評価や批判が行なわれる。

 視覚はものの「構造」や形を認識する脳の「空間処理能力」とされ、芸術では絵画に結びつけられる。聴覚・運動系はものの「機能」や動きを認識する脳の「時間処理能力」とされ、芸術では音楽に関係づけられる。

 人間の言語能力はこの二つの知覚系の一種の干渉や共鳴として生起したものとされ、自然認識は視覚系、歴史認識は聴覚・運動系に帰着させられている。

 そして、いわゆる古くからある物心二元論(古い言葉では霊肉二元論)は、同じものを「構造」として捉える視覚系と、「機能」として把握する聴覚・運動系の、脳内における二つの異なる処理機能の「並存」に由来するものと解釈される。

 つまり「」は同じものを視覚系→構造→物質の線でとらえたものであり、それを聴覚・運動系→機能の線でとらえると「」になるとする。古くから人類を悩ませてきた物心二元論は、こうして脳の二つの相異なる感覚処理能力に帰着させられるのである。

 筆者もこれまでヘブライズムとヘレニズムを二つの道筋に分けて系統的に見てきたので、読者の中にはここで同じことが述べられていると考える方もおられるに違いない。

T ヘブライズム─歴史−時間−預言−聞く(聴覚)
U ヘレニズム ─自然−空間−観照−見る(視覚)

 たしかにそっくりそのまま同じもののように見える。しかし筆者はヘブライズムとヘレニズムの思想を二つの異なる「感覚」に帰着させるようなことはしていない。この二つの系列を(1)(2)として、481頁に図式化したように、歴史自然偶然必然個物普遍ランダム規則性経験推理「感覚」「理性」、という仕方で分けた筈である。

 つまりヘブライズムはどちらかといえば聴覚的で、ヘレニズムは視覚的だというにすぎず、重点は「感覚」「理性」の対比にある。実在の弁証法とは(1)(2)のこの二つの系列の動的統一であるということだ。それが実在の真理だといっていい。ところが唯脳論は筆者が並べた二つの系列を二種類の「感覚」に接続し、(2)の「理性」の系列を消去してしまうのである。

 唯脳論は感覚主義である。その基本カテゴリーは視覚系と聴覚・運動系の二つだ。客観的実在の全情報は感覚にランダムに与えられ、感覚は自分の方式に従ってそれを、(養老氏のことばによれば)、「ろ過」する。そのろ過された情報が脳の特異なシステムによってさらに「加工」されて意識にのぼる。

 人間は感覚器によって「ろ過」され、脳によって「加工」されてしまったものしか意識できない。だから人間が意識しているものは全て「脳の作り事」であると断定される。

 それは「脳に起こることだけが存在する」という唯脳論の彼のテーゼに行き着く。「脳に起きていること」がろ過され加工されたものである以上、もはやそれは客観的実在に対応するものではないとされる。

 したがって、脳はなにか「本質的に」未知で知的に到達できない環境に取り巻かれているわけだ。脳の外部に客観的真理が存在するというのは、脳の身分をわきまえない「等身大以上」の非科学的態度だと非難される。

 結局、感覚のあり方と脳のあり方によって客観的実在が不可避的に歪められ、脳はその外界の真理に到達できないということだ。これはカントの認識論の神経生理学的表現だといえよう。

(4)唯脳論とバークリー

 カントは認識する主観にその先験的枠組として、感覚には時間と空間を、理性には因果律に代表される悟性の十二のカテゴリーを本属させ、それらを対象に属するものでなく、全く主観の側のものだとした。

 だから時間や空間や因果律は自然界に客観的に存在するのでなく、認識する主観が自然界に与えるものである。

 したがって、カントは、主観の「外」にたしかに「なにか」があるが、それがなんであるかは永遠に分からないとし、それを「物自体」と名づけた。養老氏はカントの「物自体」を「なにか」と呼び変えているのである。

 唯脳論は少なくとも「脳」という物質の存在は認めている筈だから、パークリー風の独我論とは一線を画しているようにみえる。だが「脳に起こることだけが存在する」といっているようでは独我論とさほど変らない。

 聖職者のバークリーは一切の唯物論を避けようとしてイギリス経験論を極端にまで拡張し、純粋な感覚主義哲学を主唱した。

 それによると、全ては「感覚」を通して「私」なる精神的実体に与えられた知覚情報にすぎず、感覚の向こうに物質的実在はない。樹木も、そこを吹き抜ける風の音も、それを見たり聞いたりする「私」がいなければ存在しない。

 もし知覚情報のなかに客観的な秩序があるようにみえるとしても、それはありもしない物質的外界から来るのでなく、神から来るものだ、とする。

 だから有り体にいえば、デカルトが神を、嘘をつかない誠実な完全者とみたのとは反対に、神は物質的宇宙があるかのような「偽情報」を人間に送っているわけである。

 もちろん、ありもしない物質的実在世界のなかには、バークリー以外のあらゆる人物も、その物質的世界とともに含まれるから、実在するのは、神を除けばバークリー一人だけだ。それも物質なる彼の肉体を抜きにしての話である。これがバークリーの独我論である。

 バークリーの「私」なる精神的実体は、唯脳論の脈絡でいえば「脳」にあたる。バークリーの感覚主義哲学には「神」と「私」なる精神的実体しか実在しなかったが、唯脳論には、知覚によって「ろ過」され、脳によって「加工」される前の、なにやら得体の知れない「なにか」と、養老氏の「脳」だけが実在する。

 もし脳に与えられる知覚情報に何らかの客観的な秩序のようなものがあるとすれば、今度はバークリーの「神」のかわりに、養老氏の「なにか」から来る。感覚主義という点では両者は同じ土俵の上におり、同じ構造をしているのである。

 読者は解剖学者の養老氏がまさか独我論者であろう筈がないと思われるかもしれない。養老氏自身も自分の脳しか存在していないとは思っていない。だがその論理は、自分の脳の身分をわきまえないでその外部に客観的真理があると思うのは、「等身大以上の独断」というものだ。

 だから、とりあえず養老氏の脳の外部のものは、ろ過や加工で変わり果てた「なにか」にすぎない。その「なにか」であるにすぎないものの中には、他人の脳もその身体も、全自然とともに含まれる。

 これらが「なにか」にすぎないものなら、「なにか」区別のつかないものであって、他人や世界が養老氏の脳ほどにははっきりしたものである筈がない。はっきり実在するのは、やはり養老氏の脳だけなのだ。

 唯脳論は彼自身の脳についての論議だったのである。これが一種の独我論でないとすれば何であろう? 養老氏は認めたくないとしても、独我論は唯脳論の帰結であり、哲学的本質なのである。

 確かにデカルトが方法論的に一度は疑い、パークリーが主張したように、外部の物質世界、意識の外にある客観的宇宙が本当にあるのかどうか、疑わしいといえばいえないこともない。神か誰かが私の脳に、あたかも物質宇宙があるかのように仕組んで五官の知覚情報だけを入力すれば、私は自分が肉体をまとい、物質的自然や人間社会にいる自分自身を発見することだろう。

 私がそれを「偽情報」だとチェックする方法はどこにも存在しない。神と自分の脳さえあればこの説は成立し、それなりに完璧な哲学である。なぜなら自分が生きている間は成立しているし、死んでしまえば誤っていたことを確認する自分はもはやいないからである。

 これは完全に「独り勝ち」だ。自己満足の哲学である。他人の存在を無視した思い上がりのエゴイズムだ。自分勝手なことをいっても食っていける象牙の塔の住人らしい哲学である。

 養老氏がパークリーと全く同じだというのではないが、感覚主義では他人が消滅し、社会も自然も曖昧になってしまうということである。だから、感覚に共通する普遍的な規則性を認めることが、感覚主義を乗り越え、他人や社会や自然の客観的実在性を保証する唯一の道だということが分かる。

 それは反省と推理の能力である理性を、感覚によって与えられたランダムな知覚情報の整理役として導入すべきことを意味する。

 そして理性が設定した概念や術語やカテゴリーなどが客観的物質世界から来たものであること、それらは実証され検証されれば客観的実在の法則ともなり真理ともなりうるということを教えてくれている。

 そうでなくては、他人も社会も全自然も全く浮かばれないことになる。それらは雑多な感覚的印象の茫漠たるカオスのなかに消え去ってしまう。全ては雑多な「感覚」という新しいアルケーに還元され、せっかくの人生も幻に変貌してしまうのである。

(5)一時的なもの、二次的・三次的なものも真に実在する

 これらの還元論者はそのほとんどが哲学上の個物主義者である。だから個人主義に帰着する。彼らによれば、時間も空間も物質も法則も、普遍的なものは全て人類の「共同幻想」になる。したがって国家も貨幣も共同幻想だとされる。国家も貨幣も個人間の約束事にすぎないというのだ。

 個人主義の彼らにとって個々の人間のみが実在である。個々の人間の間に成立した普遍的なものは、二次的な誘導体、副次的な派生物にすぎない。だから政治的には国家が、経済的には貨幣が共同幻想だとするわけである。

 国家は人間社会が素材となり土台となって、その中、その上に生み出された一つの権力機構であるという意味では、確かに二次的な誘導体だ。だがそれをもって他愛のない共同幻想のように考えたり、単なる約束事で済ませたりするのは間違っている。

 国家は社会の弁証法的な上位階層で、人類史の必然的な形成物であり、文明において避けられない過程であった。そこには約束事を超えた独自の客観的な実在性がある。

 また、個々の具体的な使用価値を持った物品を商品として交換させる、商品共通の抽象価値の表現である「手垢に塗れた」貨幣が、人と人との間の商品経済的約束事の共同幻想だといって、なにか見事に悟り済まして仙人気分になってもらっても困る。

 たとえば国際基督教大学の岩井克人は(要言すれば)貨幣を「何の根拠もなく慣性的に延々と自己循環する幻想価値」だとし、本質的に国家の存在やその働きと無縁のものとする。したがっていつかは国家と無関係な貨幣が生み出されてもおかしくないとし、ビットコインなどの「仮想通貨」さえ容認するかのようである。

 しかし貨幣とは古代共同体社会においていわば未来に都市国家を予想して布や塩や穀物などなどとして生み出されて進化し、金貨や銀貨→兌換紙幣→不換紙幣となって現在に至るものである。貨幣が生み出されるにも、それが流通するにも、権威ある社会システムの存在とその働きがあった。

 つまりそもそも貨幣が自己循環するものだとしても始動(貨幣の発生)に外力が要り、循環にもずっと外力が必要だったわけである。通貨を鋳造・印刷し、流通過程を整備し、通貨総量を制御するシステムがあってこその貨幣なのだ。

 もし仮に近々貨幣が姿を見せなくなり、個人認証と売買認証とネット上の瞬間的なデジタル帳簿数字処理だけで売買がなされ、コインや紙幣ばかりでなく磁気カード類まで消滅したとしても、個人認証と売買認証とネット上のデジタル帳簿処理のシステムはなんらかの公共機関が維持管理運営しなければならない。個々の売買次元のシステム保障だけでなく税や国債や金融管理の無貨幣的デジタル処理もやはり国家が行う必要があるだろう。

 岩井克人は貨幣は人間を狭い共同体から解放して自由をもたらしたが、本質的に有限な社会は貨幣への無限欲を包みきれず不平等と不自由の格差社会へと変貌し、ついにはいずれ自らを生んだ社会システムさえ無限欲によって破壊するに至ると予想する。

 彼によれば、こういう資本主義の矛盾と暴虐から人間を救い出すのは哲学者カントの言う(価格で見積もれない)人間の「尊厳」であり、「尊厳に全ての価格を超越した高い地位を認める」(カント『道徳形而上学原論』)ことだとする。

 なんという悟りすました短絡であろうか。かつて神の無限の愛や人間の倫理道徳的善意などといった信仰や徳目の実践が結局何にもならないと分かったからこそ、人々は社会変革への道を切り開いてきたのではなかったのか? 

 「心の持ち方だけでは限界がある。矛盾をもたらす社会構造を変えてこそ、こういうモラルも働くのだ」と数百年かけて人類全体がやっと気づいたというのに、全ての救いをカントの「尊厳」意識に帰着させるとは! 

 人々がカントの言う尊厳意識に目覚めれば人類は救われるというのか? それではいつ誰がどうやって全人類にそれを目覚めさせるのか? カント的な主観主義的倫理観を批判し別の方向を模索する人々の立場はどうなるのか? 

 当然様々な立場のせめぎ合いが起こるが、どのように視点の一致を実現するのか? 岩井克人の「尊厳」意識主義は一種の内面逃避であり、全く何の解決にもならない短絡した個人倫理の悟りであるとしか言いようがない。

 貨幣に基づく商品経済は文明や国家と同じく、人類が経るべき必然的な弁証法的過程なのである。仙人気分になっても仙人にはさせてくれない現実があるということだ。


 宇宙時間貨幣国家も、それぞれの存在法則を持った独自の実在である。かりに人類がいつの日かそれらから解放されるとしても、それらが実在だということに変りはない。それらは人類の「共同幻想」なのではなく、物理的に作用し、物理的な結果をもたらす、いわば「共同幻想」である。

 共同幻想体は物理的に実在する。一匹一匹の馬だけが実在するのではない。「馬」という共同幻想体もちゃんと実在する。種としての「馬」は個体としての馬を手段として自己発展する。そもそも種としての「馬」がいて、それが集団として具現されていなければ個々の馬も存在しない。

 種としての馬の本体(プラトンの言葉でいえばイデア、アリストテレスの言葉では形相)はいわばDNAにあるが、そこに「馬」という名前以上の「馬」の実在性がある。

 種としての「馬」が先か、個としての馬が先か、ということでなく、個物と普遍、感覚と理性など、あの「(1)と(2)」の二つの道筋のように、その弁証法的力動関係の中で、共に同時に実在するのだ。一般に形式論理におけるこのようなニ者の矛盾は、大抵の場合、動態化・歴史化すると一体化して解決する。

 人間の場合は、とくに個人としての人間の方が本当はリアルでない筈なのだ。人間は種としても社会的存在としても、一人としてはそもそも存在しえないし、生きることもできない。

 したがって、あれこれの独我論は、それなりの歴史社会的背景はあるものの、全て人間精神の一つの畸形というべきだろう。

 もちろん全体主義が正しいというのではない。それは(2)の道筋の絶対化であり、(1)のそれの絶対化である感覚主義や個人主義の対極をなすもう一つの誤りである。

 独我論も全体主義も人間精神の両極端であって、ともに正常とはいえない。感覚的個物群が理性的普遍によって弁証法的に媒介されてはじめて正しい認識が可能なように、個人と全体社会とはその弁証法的力動の中でともに生きたものにならねばならない。

 弁証法的な実在の論理は、その自然の階層構造にみられるように、一時的に存在するものも真の実在であるし、二次的に導出されたものも、それぞれが独自の自律的法則を持つ場合には真の実在である、ということを教えてくれる。神の被造物が虚妄であったり幻影であったりすることはない。

 感覚−リアリティー−個物−ランダム−偶然、という(1)の道筋と、理性−抽象−普遍−規則性−必然、という(2)の道筋を「身心(霊肉)二元論」のように完全に引き離してしまうのは、人間の感覚と理性を相互に無関係な二つの部分に分裂させることであって、正しい人間のあり方でもなければ、また正しい現実世界の認識方法でもない。

 弁証法的な自然の階層構造から分かるように、各階層はそれぞれの個物を持っている。それらの個物はその物質階層の共通な普遍的性質や法則によってその階層の個物として実在している。それのもとを正せば、上位階層の個物は下位階層の個物間の「ある特定の相互関係や相互作用」であり、またその働きの実現である。

 下位階層でのそのような特定性は、その性格を与えられた上位階層の全ての個物が共有する普遍性になる。
 だから、感覚で捉えられたリアルな個物のみがあるという還元論も、理性による演繹的な推理の産物を偏重する理性主義も、どちらも現実世界の実情に合わない空論である。

 この二つの道筋を弁証法的に統一し、こうした物質宇宙の弁証法的階層構造を正しく反映させ、実在の正しい認識のあり方や、正しい人間社会のあり方を指し示す「一つの前提」となすべきである。

 ここで「一つの前提」というのは、これだけでは自然と社会などにおける神的側面が十分汲み尽くされないからである。科学や哲学だけでは自然や人間や社会や歴史の全てを説明し尽くせないのだ。

(X) 大脳の働きとしての「心」

(1)ニ種の感覚系に起因する「モノ」と「働き」

 養老氏によれば、同じものを視覚的にとらえると「構造」のあるモノであり、聴覚・運動系でとらえると「働き」(機能)である。そして、その「同じもの」とは、すでに感覚や脳によるろ過や加工を受けて歪んでおり、正体が永遠に不明な「なにか」だ。

 この同じある「なにか」を視覚的にとらえると「脳」で、聴覚・運動系でとらえると「心」だという。「脳」と「心」は永遠に不明な同じある「なにか」が二つの異なる感覚系にあらわれたものにすぎない。

 これではいったい何が何だかわけが分からない。こういうことで「脳」と「心」についてなにか一層理解が深められたと思う人はいない筈である。

 というのも、「脳」や「心」の本体であるべきその同じある「なにか」が何であるのか不明のままに取り残されているからだ。分かったような気にさせられた人がいるとしたら、その人はダマサレタのである。何が分かったのか検討してみると、何も分かったのでないことが分かる。

 実は養老氏自身が「脳」と「心」の問題を取り扱いあぐねているのである。ある「なにか」の二つの感覚的あらわれとして同列の「脳」と「心」である筈のものが、いつのまにやら、「心」は「脳」の機能であると説明されている。

 もちろんこれで正しい。だが養老氏の論理を忠実にたどれば、本当は、「心」はある「なにか」の機能である、というべきなのだ。彼がそれを「脳」の機能だと明言しているのをみると、やはりある「なにか」が別にあるのでなく、それは実は私たちのいう「脳」なのである。

 ある「なにか」が視覚系にとらえられて「脳」という構造体として現れているのではない。視覚は忠実に脳という客観的実在をとらえているだけである。「なにか」なるものは養老氏の頭脳にのみ唯脳論的にあるものであって、対象の実在世界には存在しない。

 構造と機能は二種の感覚系によるある「なにか」の二通りの現れ方にすぎないのではない。それは実在する対象そのものに帰属する客観的区別である。それを否定して二種の感覚系のろ過や脳による加工を強調しすぎる結果、感覚主義に陥って客観的実在における区別一般が曖昧になり、客観的実在は「なにか」という得体の知れないものになるのだ。

 もし感覚器官や脳の機能がそれほど環境のことが分からないとしたら、どうして何十億年も生命が存続し、進化し、人間が偉大な文明社会を築くことができたのだろう? 環境の事情に適応できたからこそ、生命が生き長らえ、変化する環境のなかで進化してこられたのではないだろうか? 環境適応が生命体の環境認識でなくてなんであろう? 

 だから、動物一般の感覚器官や中枢神経系の働きは環境との客観的適応過程において進化してきたものであり、それらが本質的な意味でその物質的環境世界の情報を歪めてしまうということはありえない。もし歪めてしまう病的な動物種がいるなら、それは正常な感覚器官を持った動物種によって淘汰されてしまう。

 進化の中で自我生体(生物)は客観的環境の一部として現われた。したがって生物の自我(主観)はもともと環境世界(客観)と同質、同レベルのものである。したがって主観と客観の間には、生存においても感覚(認識)においても、質的な絶対的障壁などはありえない。

 数億年にわたる動物進化の歴史は、中枢神経系における情報処理能力の進化の歴史でもある。人間の感覚器官や脳の反映能力を疑う者は、科学技術文明の成立根拠だけでなく、種としてのホモ・サピエンス・サピエンスの生存根拠さえも見失うことになる。

 最近、自然科学者のなかにこのような感覚主義的還元論が頻繁に見られるのは、相対性理論と量子力学のもたらした物質世界に対する新しい知見によるケースが非常に多い。そこでは通常の経験や感覚が通用しないからだ。極端な例をいくつか挙げれば、

この世界には絶対的な「同時刻」というものがない
時間と空間の尺度が観測者の系によって変わる
ブラックホールの中では時間と空間の役割が入れ代わる
質量とエネルギーは等価で、粒子は波動でもある
そういう波動は粒子の「確率」の波であり、実在する物質の波ではない
量子力学の「不確定性原理」は人間の観測が「本質的に」粒子状態に影響を与えることを示している。だから、あたかもカント哲学のように、観測者は対象そのものに到達できない。なぜなら観測によって粒子状態が変ってしまうからである。これは一種の不可知論だ。

 観測とは感覚と同じものだ。したがって、感覚はそのままでは信用できないという結論になる。感覚不信は感覚そのものに対する不信、つまり実在の真相に至り得ない感覚への不信である筈だが、つねにいつのまにか感覚の向こうに存在する客観的実在への不信に転化し、感覚依存主義哲学になってしまう。

 相対性理論や量子力学の論理については後節で詳しく触れるが、ここでは次のようにいうことで済ましておくことにする。

 つまり日常的な感覚の論理といかにかけ離れた物理学的ディメンションがあるとしても、そういうディメンションの存在を確認できたのも、観測や実験という「感覚」によってなのである。だから日常的な感覚論理の通じないディメンションがあるとはいえ、それは感覚そのものへの究極的な不信につながらない筈のものなのだ。

 粒子の世界や準光速あるいは高重力の世界のディメンションが通常の感覚論理を受け付けないのは確かであるが、それはそのディメンションでのことである。

 階層やディメンションによってそれぞれ異なる論理を、そういう力学的階層の論理に一元的に収斂させて適用するのは、実在の弁証法的階層性からいっても誤りであり、新たな還元論だ。

 ここで言っておくが、粒子が無数個集合して成立している光学顕微鏡レベル以上の巨視的物質の世界、すなわち私たちの生活世界では、無数の粒子の量子力学的統計作用により「不確定性原理」効果が消滅して、通常の日常的な力学の論理が通用する。

 また動物は動物レベルの論理で感覚(中枢神経系)などを通して、その環境を正しく認識していることは確かである。

 高重力や準光速の系に生物を置いたからといって、生物活動のカラクリがそれで変化するわけではない。そういう環境に置かれて適応(生物認識)できなければ、もちろんその生物は死ぬのである。

 生物はそれ自身環境の一部だから自分の環境を「正確に」知っている。動物がその環境の物理を知らないからといって、自分の生活環境を知らないというわけでは決してないのだ。

 粒子がもっとも根本的な素材で、生物も生物環境もそれでできているからとか、光速が物理世界の絶対基準で、系によって空間と時間の尺度が変るからとかいって、なにもかも量子力学や相対性理論の論理に還元するのは、自然の弁証法的階層性を無視した誤った物理・力学主義的還元論なのである。

 筆者はすでにアルケーが存在するとしても、それは量の変化だけが問題な単質なものでなく多質なものであること、しかも粒子とはその働きの総体であり、その働きの仕組みの総体でもあると述べた。

 こう規定することによって、量だけの論理や質だけの論理を避け、量と質に共に従うそれぞれ独自な階層と法則を持つ物質宇宙の弁証法的構造が正しく把握されることを願ったわけである。

 これだけがあらゆる種類の誤った還元論を克服し、質のない量とか、普遍のない個物とか、法則と分離した個体とか、理性と切り離された感覚とか、エネルギーでない質量とか、波動でない粒子とか、時間のない空間とか、真空のない物質とか、客観のない主観とか、他者のない個人とかいった非現実的な発想を止揚しうるからである。

(2)構造と機能

 ふつう物質宇宙の構造とその機能について考える場合、物質が質量を持った粒子の集合体だということを前提にしている。「物質がある」ということは、突き詰めて考えれば、「慣性質量による物理的抵抗がある」ということだ。

 一般相対性理論によると「慣性質量」は「重力質量」と等価だから、押すときの抵抗と支えるときの抵抗の本体はこの質量にある。この質量の本体は素粒子の持つ質量だ。そして、素粒子の質量とは、その粒子に「慣性」を与える働きとそのエネルギーの総体なのである。

 粒子に慣性・質量を与える機構は「ヒッグス場」と呼ばれているが、慣性・質量とはそうした場の働きとそのエネルギーである。

 もし質量に慣性がなければどのような構造もありえない。どれもこれも宇宙を光の速度で行き来するばかりだ。慣性があることで抵抗が生まれ、静止することが可能になり、質量を持った物質が安定的に構造化するきっかけが得られる。

 質量とは慣性という「働き」のエネルギーがいわば凝固したものなのだが、ふつう「働き」の面からは捉えられておらず、凝り固まった物質のように思われている。

 
空間的な「働き」が他の空間的な「働き」とぶつかり抵抗を受ける場合、そこにあたかも抵抗するなにものかが物質・物体としてあるかのようになる。これが「働き」から「物体」への転化である。それはエネルギーが物質に転化するのに対応するカラクリだ。

 粒子とはヒッグス場にコンパクトに詰め込まれた電磁波動(光)エネルギーである。光は短い波長のとき光量子化して粒子的になるのが光電効果から分かっている。粒子はヒッグス場でそれがさらにコンパクトになったものだ。

 ヒッグス場で慣性・質量を与えられた粒子は抵抗を得、物質・物体としていわば凝固する。すると「抵抗」という空間的な「働き・機能」がいつのまにか「構造」を持ったモノになる。

 粒子は真空空間が局所的に特殊化した「力の場」である。その真空空間そのものも真空エネルギーに満ち、重力や強い力や弱い力や電磁力を伝える多質な力の場なのだ。

 空間それ自体がこのように多質なものだから、それをさらに特殊化した粒子が多質でないわけがない。つまり単質のアルケーなど存在しないもう一つの証拠がここにある。

 それはともかく、真空と粒子、粒子と粒子という関係は、「力の場」と「力の場」との相互関係であることが分かる。全ては「力の場」の相互作用なのだ。

 「力の場」は場自身が「構造を持った働き」であり「空間的な働き・機能」であって、それが互いに関り合うことで、そこに空間的な構造を持った物質・物体一般が生成するきっかけが生み出される。

 だとしても機能から構造が出てくるというのではない。むしろ機能は構造から出てくるともいえる。特定の構造が特定の機能を生み出すからである。

 だから機能は構造の働きなのだ。自明なように、構造を持たない機能はなく、機能を持たない構造はない。機能と構造は、質と量のように、どちらが先ともいえないもので、もともとから弁証法的に共在・共働している。

 力の場。ここでは機能と構造が弁証法的に統一されて客観的に実在している。機能と構造は「なにか」という同じものが二種の感覚を通して現れたものでなく、感覚以前にちゃんと実在するのである。モノ=物質はその「背景」的土台として空間と時間を持ち、その実体はエネルギー・質量で、その属性が機能・構造である。

 だが、力の場としての粒子のレベルをはるかに超えて、粒子が無数個集まった日常的な巨視的世界になればなるほど、機能と構造との分極化が進み、独立した全く別々のものとして見えてくる。

 こうした機能と構造の弁証法的な関係は、自然の階層構造の、力学的、化学的、生物学的諸階層においてそれぞれ違った質、異なった姿をとる。それは大脳を持つ動物、とりわけ人間において、「脳」とその機能である「心」として典型的に現出する。「脳」と「心」は構造と機能の両者が最大限、分極化したものだ。

 「脳」は構造で「心」は機能、といった単純な分け方ではいけない。「脳」は意識や心としては現れていない底辺の生物学的機能の総体でもあり、「心」はたしかに「脳」の機能ではあるが、多様な構造を持っているからである。

 479ページに掲げた図では物質を下から大きく四つの階層に分け、それぞれを力学、化学、生物学、大脳生理学に対応させてみた。

 これら全ての構造ある階層に共通しているのは、みずからの内に本属するエネルギーであり、空間におけるいわばその微分的表現としてのさまざまな力である。

 エネルギーと力はそれぞれの階層で違った働きのあり方をしている。そして、それらの空間的な働きの総体が各階層のそれぞれの構造体としての物質である。

 自律的物質宇宙の最底辺である力学的階層はモノとしてみれば「物体」で、その機能は「運動」である。
 化学的階層をモノとしてみると「物質」で、機能からみれば「変質」だ。
 生物学的階層
の場合、モノは「細胞・生体」で、機能は「生命・生きる」である。

 階層が高まるにつれて次第に強められる構造と機能への分極化によって、機能の側面は次第に構造としてのモノの背後に隠れてしまい、モノのようには「どこにある」とはいえなくなってくる。

 「運動」も「変質」もそうであるが、「生命」はなおさらそうである。機能のこの抽象性は、物質の階層が上位になり、機能がより複雑化し高度化するにしたがって強くなる。

 たとえば細胞を光学顕微鏡で観察するとさまざまな構成要素が見られるが、そのどこに「生命」があるとはいえない。「生命」は細胞全体に広がっており、細胞全域の同時的な活動としてあるからだ。

 その上の階層にいくと、今までとは全く趣の異なった側面が出てくる。大脳生理学の階層をモノとしてみると「大脳」である。その機能は「意識」であり「」である。

 機能は「運動」→「変質」→「生命」というようにだんだん捉えどころのない性格を増大させてきたけれども、「意識」や「心」に至ってついにハシにも棒にも掛からない非物質的なものになってしまう。

 「運動」「変質」「生命」は、ともかく物質的に存在していて感覚的に知覚できる。しかし確かに「意識」や「心」は大脳の機能ではあるが、大脳という物質をある意味で超え出てしまっている。これが「脳」と「心」の関係を分からなくさせている根本的な理由である。

(3)脳と心との関係は?

 いうまでもなく「心」は脳の機能である。それは大脳内の特定の生理学的過程から生まれる。しかし明らかにそうした生理学的過程そのものが「心」なのではない。またそうした物質的過程につけられた名前でもない。

 たとえば「熱」は分子のランダムな運動につけた名前であり、「音」は分子の振動につけた名前である。「心」とは脳のある物質的過程につけたそういう類の名前なのではない。「心」とは、脳内のある物質的過程が「意識」の中に生み出したものについての名前なのだ。

 もちろん、物質的過程がなければ「意識」の中にそのもの(心)を生み出すことはできないから、脳がなければ「心」はない。だが、物質的過程そのものが「意識」や「心」でないことも確かなことである。これは自分の心を少し反省してみると誰にも分かる。

 「心」が脳の機能として生み出されるためには、すでに脳の内部にその機能としてなんらかの「意識」や「心」がなければならない。すでにあらねばならないこの「意識」や「心」はいったいどこから来たのだろう? この問題が解ければ「心とはなにか」という「心」の起源と実体に関する「脳」と「心」の根本問題が解決する。

 読者の多くはこういう立論では駄目だと思われるにちがいない。というのも、「心」がある前に「心」がなければならない、というのは、ただの同語反復にすぎないように見えるからである。こうした同語反復を養老氏は、脳が脳、心が心のことを語るとき必ず起こす「自己言及の矛盾」と言っている。

 脳が脳、心が心を知ろうとすると、主体としての脳や心を、対象としての脳や心の「外」に置かざるをえない。対象としての脳や心を捉え尽くしたとしても、主体としての脳や心は捉え尽くした脳や心の「外」にあって、それを超え出ている。結局、脳や心そのものの全体は捉えそこなってしまわざるをえない。

 脳が脳、心が心を知ろうとすることは、鏡が他の鏡に自分を映すようなものだ。鏡の中に鏡が映り、それが無限後退的に続くようなことが起こる。こうした「自己言及の矛盾」の一例としてよく知られている次の「ラッセルの矛盾」と等質ともいえる「クレタ人のパラドックス」といわれるものがある。

「全てのクレタ人は嘘つきだ、とあるクレタ人が言っている」

 このあるクレタ人の言うことが正しければ、全てのクレタ人は嘘つきである。だがこのクレタ人もクレタ人の一人だから嘘つきだ。

 すると「全てのクレタ人は嘘つきだ」というのは嘘になる。となれば全てのクレタ人が嘘つきだとは限らない。「全てのクレタは嘘つきだ」といったこのクレタ人は正しいのかもしれない……というように延々と続くことになる。

 これではなんのことやらさっぱり訳が分からない。現実にはありえない言葉の上での矛盾である。

 エレア学派のゼノンの有名な「飛んでいる矢は止まっている」というパラドックスは自己言及の矛盾ではないが、これも言葉の上での矛盾だ。こうした言葉のうえでの矛盾はいくらでも作れる。「生きものは死んでいる」とか「木でできた鉄」などもそうだ。

 またたとえば幾何学レベルの問題として、いま円面をその中心軸のまわりに高速で回転させる。そして、「そこにあるのは球であって球でない」と表現することにしよう。幾何学レベルではどこまでも円面がその中心軸のまわりを回転しているにすぎないから、これは無意味な矛盾表現だ。そもそも球のレベルの問題ではないのである。

 しかし、こうした言葉の上でのパラドックスのなかには別のレベルや領域のなかに移すとそれなりの意味を持ち、思い掛けない実り豊かなものになることがある。弁証法の基本原理である「非連続の連続」がそうだ。空間の無限分割を想定したゼノンの矢は数学的微分の原点である。

 そしてラッセルの自己言及の矛盾は、実は「心がある前に心がなければならない」という脳と心の根本問題に一筋の光明を投げかけている。

 こうした言葉のうえでの矛盾は、それを動態化させると解決される場合がある。形式論理の矛盾を弁証法的な動的統一において見るのだ。すなわち、そのまま直接矛盾を一致させられないから、反対者や共通の第三者などを媒介し、迂回させて一致させる。

 ゼノンの矢は、「飛びつつ止まり、止まりつつ飛んでいる」とすれば、そこから微分方程式が生み出される。細胞は「死にながら生きており、生きながら死んでいる」とすれば、生命の動態がよく掴める。

 「木でできた鉄」は、一度素粒子のレベルに還元し、そこを迂回すれば錬金術的に可能になる。

 回転する円面はその円周速度が光速に無限に近づくと、光速より速い区別の手段はないから、事実上連続した球面になり、したがってそこに物理的レベルの球が成立する。

 ところで、物質の機能のあり方は、自然の弁証法的諸階層において、「運動」→「変質」→「生命」→「心」(意識)などとそれぞれ異なった姿で現れていた。

 それはまたそのメカニックな面からみれば、力学的階層の「作用」、化学的階層の「化学応」、生物学的階層の「生体応」、動物学的階層の「神経射」、中枢神経系動物では「感覚的映」、そして人間の大脳では「概念的映」という「反の系列」の姿になってあらわれる。

 これらは全て、物質と生物を通して行なわれる進化という名の弁証法的な「非連続の連続」を土台にしてつながっている。

(4)「感覚の鏡」と「理性の鏡」

 脳の機能は「反映」である。脳はいわば「鏡」の働きをする。人間は大脳のなかに二つの鏡を持っている。一つは感覚的な反映機能をもった「感覚の鏡」である。これはいわば「本能」と呼ばれる自欲的な動物意識としての「直接的な意識」を生み出す。大脳の「感覚野」がおおむねこれに当たるだろう。

 この鏡は、基本的には、外界から与えられた知覚情報をただ直接的にランダムに反映するのみである。だからこの鏡だけでは、知覚情報が脳のなかの自分の鏡に反映しているという「自覚」は得られない。つまり感覚している「自分の存在」に気づくことがないのである。

 だから「自己意識」が成立するためには、この「感覚の鏡」の他にもう一つ別の種類の鏡が必要だ。もう一つ別の種類の鏡が「感覚の鏡」に映った映像を概念的に解析し、実在の真理であるリアルな映像を映し出さねばならない。

 これが反省(リフレクション)の機能、理性の機能を持った「理性の鏡」である。おおむね企画や想像や意志をつかさどる大脳の前頭野や言語野などで代表されるといえよう。

 この「理性の鏡」の働きの基礎は、「感覚の鏡」に映っている映像が脳内にある自分の「感覚の鏡」に映っているということを発見することである。これが「自覚」であり「自己意識」である。そういう無自覚でランダムな感覚の束を整理する「意識された自己」を通して、概念の機能が生まれてくる。

 「感覚の鏡」と「理性の鏡」は互いに向き合って立つ二つの鏡のように、与えられた情報のやりとりを積み重ね、その過程を通してより正しい実在の真理に至ろうとする。

 人間の「心」とは、「感覚の鏡」と「理性の鏡」との間に、無限に、しかも自己発展的に繰り返される情報の弁証法的往復過程そのものである。その互いに相手を映し込み、互いに相手を前提とした情報の閉じたループ状のやりとりこそが、「自己意識」であり、「自我」であり、人間の「心」であり、「精神」である。

DNAの二重ラセン図 ちょうど生命が、DNAという二つのラセンの鏡像関係による無限反復的ループにおいて永生へと向かう、無限の自己複製、自己増殖、自己主張、自己貫徹なる「自己目的的な自己性」を獲得したように、大脳における二つの鏡の間の情報の無限反復が、人間の自己意識の哲学的根拠である。

 無限反復のループを通して永遠に自己から自己へ帰る。「自己に帰ること」が無際限で無条件的な目的である場合だけが「自己性」を形成できる。

 「自己」とは本質的に「自己目的」的な活動なのだ。神においても、人間においても、生物一般においても、それは同じである。

 「感覚の鏡」と「理性の鏡」における情報の反復は互いに相手の存在を前提にしたもので、この無限反復のループは、意識におけるあの「自己言及の矛盾」の真の解答である

 つまり「意識や心がまずあってこそ、大脳のある物質的過程が意識や心として現れる」わけだが、まずあるべき意識や心というものが、「感覚の鏡」に映った意識と「理性の鏡」に映った意識とが互いに相手を映し合っている二つの鏡による自己意識としてすでに成立している人間にとっては、それはもはやなんの矛盾も含まない命題になっている。

 ここでは意識の中でのみ意識(心)が生まれる。脳や心の自己言及の矛盾はもともと二つの鏡がお互いを映し合って無限後退していることである。だから脳内で互いに向き合う二つの鏡の存在によって、このように心の説明がつくわけだ。

 あとはこの二つの鏡が進化の中でどのように発展してきたかをたどることと、そもそも「意識」とは何であり、それがいかにして進化の中で生成してきたのか、をたどるだけでいいだろう。

 そうすることで、「意識の中でのみ意識が生まれる」ということが、「自我の中でのみ意識が生まれる」ということであることが分かってくる。この「自我」は脳内の二つの鏡(とりわけ後発的な「理性の鏡」)とその奥に潜むDNAの鏡像関係に見られるあの「自己性」に根ざしている。

 人間以外の大脳の未発達な中枢神経系動物には、いわゆる「自己意識」がない。だがそれでも「意識」は持っている。この「意識」は人間におけるような「顕在化した自己意識」でなく、「隠れた姿の自己意識」である。

 「意識」は意識する主体である自己・自我がなければありえない。自己・自我とは「意識」であるから、それが「意識のある前に意識(=自我)がなければならない」という事態の真の意味なのだ。その自己・自我があってはじめて意識一般が可能になる。

 「意識」というものは隠れていようと顕在化していようと、いつも自己意識で、したがってどの「意識」も自己を土台としてもっており、動物の「意識」の場合、その自己がいわば隠れているのである。つまり動物の意識は「隠れた自己」による「隠れた自己意識」といえるわけだ。

 別の言葉でいえば、動物にも隠れた「理性の鏡」がすでにある。動物もそれぞれの進化のレベルに見合うあり方で、記憶し、学習し、予測し、諸感覚を統覚的に整序する能力を持ち、霊長類では、原初の形態ではあるが、すでに人間に見られる能力のほとんどを獲得している。

 だが「理性の鏡」はいわばまだまだ単純で小さいから、「感覚の鏡」の中に埋もれて発現せず、それで自己として発見されないだけなのだ。

 動物の「隠れた自己」の遠い生物学的原因は、電気信号を伝える情報系の細胞(神経細胞=ニューロン)のDNAを通して、生命の本体である二重ラセンの無限反復的自己性にまで遡る。

 しかし「意識」そのものが現れるのは、感覚を統合判断する統覚機能を持つ中枢神経系動物からである。

 中枢神経系のない単純下等な動物には、いまだ「隠れた理性の鏡」さえ存在せず、したがって動物の「意識」の主体である「隠れた自己」も、またその自己による意識そのものも存在しない。

 ただ分散した神経節や神経叢によって並行的に処理される、感覚以前のバラバラな神経反射の束があるのみである。

 もちろんそこにもDNAの自己性に起源する「隠れた自己」のまだ発芽しないタネのようなものはある。DNAの自己性をもった情報系の細胞が集中するところでは、たとえそれが分散した神経節や神経叢であっても、当然、神経情報の統御の中心が「おのずから」生成し、それが神経情報を受け止める主体になる。

 しかしこのレベルでは、この主体はいわばIC回路のような生体集積回路として情報の機械的なシーケンス処理(あらかじめ定められた順序による自動制御)をするのみであり、情報はまだ原始的な感覚(意識)にさえなっていない。

 とにもかくにも、脳のような中枢神経系が進化のなかで形成されてこそ「理性の鏡」が作り出され、それによってはじめて神経情報が新しく形成された「隠れた自己」の感覚として捉え返される。これが感覚すなわち意識の発生である。

 まだ大脳がないか、ほとんどないに等しい下等な動物の脳では、脳内の主体である「隠れた自己」は存在するが、自分が感覚しているその事実について、まだ潜在的なかたちでさえ気づいていない。この感覚はいまなお原始的で、いわば非常に暗く、細部のはっきりしない曖昧な感覚である。

 大脳の発生・進化にしたがって暗い感覚は次第に明るい、細部のはっきりした、情報量と情報の質の多い豊かな感覚になっていく。「理性の鏡」が「感覚の鏡」とともに成長するからである。

 それにともなって、動物は自分が感覚していることをなんとなくおぼろげに知るようになる。さらに「理性の鏡」の成長がある境界を超えると、動物は自分が感覚していることをはっきり自覚し、自己自身の存在に気づいて人間になる。
(註)
 ここで大脳神経生理学者のV・S・ラマチャンドランが『脳の中の幽霊』(角川書店)で述べている「クオリア」と「意識」について述べてみなければならない。「クオリア」とはたとえば「赤い」といった「主観的な感覚」のことである。それは生々しい体験である。またこれは全色盲の相手には決して伝えられない主観的体験だ。

 多かれ少なかれ主観の微妙な具体的感覚内容は相手には伝えられない。ラマチャンドランはこの主観的な感覚としてのクオリアこそが意識の本性だと考える。

 したがって、脳内において意識の存在する場所を、脳がクオリア体験をしている部位だとし、それをPET(陽電子放射断層撮影法)やfMRI(機能磁気共鳴画像法)やMEG(脳磁図)などの新しい画像技術で探索し、側頭葉辺縁系(特に左側頭葉の)がクオリアの部位で、そこが意識の主な場であると結論を下す。

 彼は次のように述べている。

「意識の座が前頭葉にあると考えている人が多いが、これは驚くべきことだ。前頭葉に損傷があっても、クオリアにも意識そのものにも劇的な変化はないからだ。………私はむしろ、意識の活動の大半は側頭葉にあると言いたい」(前掲書307ページ)

「いきいきとした主観的な意識の性質を体現しているこの回路が、おもに側頭葉の部位(扁桃体・中隔・視床下部・島など)と前頭葉の単一投射区域(帯状回)に存在する」(前掲書288ページ)

 むろんV・S・ラマチャンドランはクオリアと意識を同一視しない。だがクオリアを意識の源だとして意識をそこに帰着させてしまう。だから意識はクオリアの部位に収斂させられてしまうわけだ。

 これに対してフランシス・クリックとクリストファー・コッホとは、クオリアは一次感覚野の下層ニューロンから生じ、そこから前頭葉に投射しているとする。これはほぼ「感覚の鏡」と「理性の鏡」の関係に対応している。どちらが正しいのだろうか?

V・S・ラマチャンドランがクオリアに意識を帰着させているのは、「クオリアの三法則」(と彼がいうもの)が存在する時はじめて「意識がある」と言える、と主張しているところにも現れている。

 「クオリアの三法則」は、

(1)一旦入力されると高次神経系の修正が効かない(変更不可能性)−たとえば「赤」に見えれば赤にしか見えないということ。
(2)「赤」が見えたとき、それに関連する様々な想像・連想などができ、その中から「選択」ができる(出力融通性)
(3)短期記憶が可能(その間に選択的作業が可能)

 以上である。

 これに依拠して、ラマチャンドランは、たとえばミツバチは巣箱の前で8の字ダンスをして蜜の在り処の情報を他のミツバチに伝えるが、その際(1)と(3)はあっても(2)がないから、ミツバチは意識を持っていないとし、同じく人間の夢遊病患者はこれらのうちのいくつかが欠けるので、夢遊状態のとき意識がないと述べている。

 ミツバチに意識がない状態と夢遊病患者に意識のない状態とをこのように混同するのは、やはり問題だろう。人間の場合、意識と無意識とは裏表で、無意識状態でも意識は隠れているが、ミツバチの場合、顕在化している意識はむろんのこと、隠れている意識(無意識)というものさえそもそも存在しないからだ。だからラマチャンドランが意識をクオリアと区別しながらも、前者を後者に帰着させたところに彼の誤りがあるといえる。

 なるほど進化史的にも人間の意識活動においても、主観的感覚(クオリア)は出発点であり土台である。しかし意識は人間においては、(大脳発展の諸段階におけるさまざまな動物においても多かれ少なかれ)、意識は概念の意識でもある。意識は感覚に始まり概念に至る。人間が概念活動しているとき、むろん意識がそれを行っているわけだ。

 だから出発点を終着点と同一視してはいけない。鳥類の羽は保温のために生じ、のちに翼になった。また脳幹に小さく付属していたものがのちに大脳へと進化した。そのように、物は出発点と異なるものになるのが普通なのだ。

 意識は主観的感覚(クオリア)から出発したとはいえ、それは感覚を超えた概念の意識にもなった。だから意識の所在をクオリアの場所に特在させては誤りだろう。むしろクオリアの場所である「側頭葉」という土台の上で「感覚の鏡」(感覚野)と「理性の鏡」(前頭葉)の二つの鏡が向かい合って無限回帰的に情報のやり取りをしていること、これが意識だといえる。

(5)意識と物質の「予測不可能性」「偶然性」

 以上から、「意識」はまずは「感覚」であること、「感覚=意識」が可能なためには、感覚する主体二つの鏡、とりわけ後発的な理性の鏡が必要であることが分かった

 「感覚の鏡」が脳内にいくら多くあっても駄目である。それとは別種の「理性の鏡」が発生・成長しないと、感覚する主体としての自我・自己が現われない。つまり鏡が鏡を映すこと(自己意識)ができない。

 感覚する主体・自我・自己の生物学的根拠はDNA、なかでも神経情報を伝える神経細胞のDNAの自己性にある。「感覚=意識」を生み出す「理性の鏡」は、身体と神経系の両面から絶えざる環境適応を目指す動物進化の、漸進的でときには飛躍的な、長い弁証法的試行錯誤の過程のなかで発生し生長した。

 しかし「意識」の非物質的な抽象性というものは、これだけでは説明し尽くせないところがある。

 どうして「意識」は時間と空間の制約を全く受けず、物質のような連続した変化を経ないで、非連続に、デタラメに飛躍しながら、あちらこちら自由自在に動き回れるのだろう? 物質の必然性に束縛されない「意識」のこういう自由な能力と性格はいったいどこから来たものなのか? 

 「意識」は脳のどのような物質的メカニズムからこのような非物質的働きを得ているのだろう? 決定論的な法則に従う普通の物質の脳が、どうしてこのように自由奔放な能力を生み出したのか? 

 脳内の決定論的な物質過程の必然性からは、飛躍と偶然を伴うこのような「意識」が生み出される筈がない。物質の持つなにか「予測不可能な、偶然な性質」が生み出すほかはないだろう。

 実は「予測不可能性」や「偶然」を許す物理過程がある。それはカオス力学量子力学である。そこでの「予測不可能性」や「偶然性」が、化学的→生物学的→動物学的→人間学的というふうに、自然の自律的な階層進化が進むにつれてそれなりに整備され、生命や意識の自由な主体性を支えている。

 カオス力学と生命活動とは多くの類似点があり、生命としての脳の活動とも係わりがある。

 だが、それだけでは「意識」のこのような抽象性と飛躍性は説明し切れない。そこに量子力学の論理が加わらなければならないのである。だがこの両者については後節で取り扱うことにしよう。

 自己自身の存在に目覚めた自己意識としての人間の「心」は、やがてその顕在化した「理性の鏡」に「言葉」という新しい機能を加えるに至る。言語の獲得によって「理性の鏡」はその本来の進化目的に到達し、(完全ではないまでも)「言葉の神」なる人格神を映しうる真の「概念的な鏡」となった。

 神が自律的で弁証法的な物質宇宙を創造した目的は、自然の自律的物質進化の過程を通して各階層を形成し、それを一段一段内部から積み上げ、そうした自律物質の、自動→自変→自活→自欲の頂点に「自主」なる人間を創造し、言語を操る自主的で創造的なその主体的人間の「理性の鏡」に、主体的な「言葉の神」なるみずからの姿をともかくも映し出すところにある。

 主体的な人格神は主体的な「理性の鏡」の中にしか自分の姿を映すことができない。そして主体的人間の「理性の鏡」は、自律物質の自己進化の主体的な路程を通してのみ生み出しうるのである。

 物質の各階層における機能は、運動→変質→生命→意識(心)→自己意識(精神)というふうに、階層が上位になるにつれてますます捉えどころのない抽象的なものになった。

 しかしその抽象性の度合いがまた対象との距離の度合いともなり、対象世界に対する主体性の増大、つまり対象把握と対象支配の増大になった。

 人間の心は言語を得て、感覚的対象世界全体を向こうに対置させて、自分を立てる。言語を持った「自己意識」はその物質的対象世界からの概念的な抽象的飛躍のゆえに、物質世界総体を鳥撒しうる位置と能力を勝ち取った。

 存在の総体、宇宙の時間的・空間的な全体像、それらの始めと終わり、こうしたことを鳥徹する人間の視座は、ある意味でまさしく神の視座に準じる視座ともいえる。完全ではないまでも神を反映しうる人間の脳は、神の概念が内包する広さにまで、その射程を拡げることができる。

 人間の心はいったん成立すると、下位の全ての物質階層を見通し、それらの全てに君臨し、物質宇宙をその思念においてはるかに超えて、その主人としての相貌をあらわす。

(6)神の手の一般的自己実現と神の特殊的自己実現

 神は私たちの物質宇宙の次元をはるかに超えた全知全能の人格的存在である。その神によって創造された自律的物質宇宙の初期条件総体は、神の手(神の姿の端末的一部)とその力を宿している。物質宇宙の自己進化もその表現だ。被造物なる自律的物質宇宙は、創造者なる人格神の手の「他在」、すなわち「外化」であり、別の姿である。

 この他在なる宇宙のうちに宿された神の手と力は、宇宙の弁証法的物質進化とともに成長し、生命進化の最高物質、すなわち人間の大脳の機能(心)の中に顕現し、「心」の姿で現れた。

 人間の心は、だから物質宇宙を超えた神の、その手と力の現れであり、この人間の心という鏡のなかに、神は自分自身の手の姿と力を見ているのである。したがって、人間はその心において「神の似姿」であり、第二の神なのである。

 すなわち魚類より両生類が神に近く、類人猿よりホモ・サピエンスの方が神に似ている。とはいっても、いくら神に近づいても永久に神にはなれない。絵画が画家に変貌できず、陶磁器が陶器制作者になれないように、被造物は決して創造主なる神になれない。それでも人間は被造物における最大近似の「神の似姿」であり「第二の神」と言える存在なのだ。

 だがそれが究極の真相なのではない。物質宇宙はもっとも底辺の一般的な力学的宇宙を土台にして、生命という特殊な物質のあり方から、さらに人類といういっそう特別な生命へと進化し、一般から特殊へ向かう絶えざる進化をたどりつつ、単に人間の心において神の手の一般的な表現に到達しただけでなく、神はついに人類のなかのある特定の個人の心と身体に、恣意的に、特別に宿るのである。この特別に選ばれた人物の心と身体が「受肉した神」なのだ。

 だから、神の手は人類の心の中に一般的に現れ、人類の心として顕現することによって、人類を第二の神にするだけではない。神はどこまでも、ある一人の特定の個人においてみずからを具現しようとするのである。

 そういうわけで、この物質宇宙の創造と進化の特殊な究極目的は、人類という多くの第二の神を創出し、それを土台にし前提として、その中のある一人の個人に神が自分自身を実現することなのである。

 百数十億年前のビッグバンのあと、最も一般的で普遍的な土台である力学的宇宙が、自然の弁証法的各階層を自発的に形成しながら上位階層へと段々特殊化し、最も特殊な人類へと進化したのも、「一なる神」が「一なる人」として、究極の特殊において顕現するために他ならない。

 また自然の弁証法的階層秩序は、神の手がこの究極的な特殊的自己実現のためにみずから一歩一歩変貌しながら昇っていく一般的階程でもある。石ころも珪藻もコマクサも、シーラカンスもオオサンショウウオもイグアナも、そのさまざまな階程における有り様だ。

 むろんそれは神の本体でなくその手の一般的階程だから、神が自然・宇宙そのものに全的に変貌したわけではない。神は人格神としてあくまで自然・宇宙の外部に別に存在している。

 もし神の本質・本体が自然・宇宙として全的に外化したとするなら、それはヘーゲル哲学のように存在が神となり、存在の論理が神の論理となり、自由で恣意的な人格神からの啓示によらず、人間自身の哲学的営為を通して神の知に至れることになる。

 しかしそれは神の真理ではない。あくまでも神は人格神として恣意的にこの宇宙を自らの手の他在として創造したのであって、神はこの宇宙の外部にあり、この宇宙には神の手(神の本質的でない一部)の写像・シルエットは存在しても、神そのものの知は存在しない。いわばこの世界は大工が作った椅子や机のようなもので、被造物に神の手の痕跡はあっても神の本質はない。

 写像・シルエットとしての知とはつまり神が存在するということの知識、神の漠然とした知識が手に入るということに他ならない。神の手が他在としてこの物質宇宙となり、それが人間の心という「理性の鏡」に映し出されて、その写像・シルエットとなるのである。

 さて、創世以来、宇宙はその物質進化の各段階で全面的な相転移を遂げながら、プラズマ宇宙(クォークと電子のスープ状宇宙→陽子・中性子・電子の宇宙→原子核と電子の宇宙)から中性原子宇宙へと、いつも全一体として進化してきた。

 そして多くの惑星系で生命を生みだし、それらの生命が進化し、動物進化のなかで情報系を発展させ、ついに心と精神を生みだし、全宇宙に向かってその精神の触手を伸ばしている。

 それは、創造者なる神の、地球上のある特別な個人における特殊な自己実現のための、神の手の一般的な自己実現なのだ。


 神は全一的宇宙のなかに「一なる人」として特殊的に自己実現するため、(神の本体でなくいわば)神の手の形である「三・一の原理」に基づき、その手の刻印を存在の大事な局面にところどころ刻み込みながら、自律的物質宇宙の自己発展的進化の一般的土台を築く

 そのうえで、ある個人の心と身体に受肉するために、自然や歴史に対して大小さまざまな事後的な調節的特殊介入を行なう

 それがたとえば、「三・一」の地球系、太平洋による東西の区切り、朝鮮の「三・一」の民族史、龍形の日本列島の形成、その他すでに諸章で詳しく示した数々の自然と歴史の不思議な「しるし」である。

 地球上の生命進化の一般的な諸条件は基本的には神の特殊介入ではないが、人類へと向かう進化の過程の節目節目にいろいろな仕方で神の特殊介入がある。

 例を挙げれば、六千数百万年前の大隕石の衝突は恐竜の時代を終わらせ、ほ乳類の時代を登場させたといわれている。この出来事が神の特殊介入だということは、「太極」風の皆既食の時代に人類において自己実現しようとする神にとって不可避的なことだろう。前の諸章から「太極」の神的意味はすでにすっかり明らかになっている。

 さてすでに見たように、地球系では系の角運動量保存則のため、月の潮汐力によって地球の自転速度が少しずつ遅くなるかわりに、月が1年に2・7センチほど地球から遠ざかってきた。

 そのおかげで現在、天空における太陽と月の視直径がほとんど同じになって皆既食が可能になり、その結果、ちょうど「太極」風の日食と月食の皆既食の時代に人類が地球上に現れる、という絶妙な出来事が起きた。

 また新生代の第四紀になって太陽活動に変化が生じ、四度の大氷河期を経て、そのつど人類が試練を潜り抜けて進化してきたという事実から、第四紀の太陽活動に神の特殊介入をみることができる。

 太陽系と地球系の特殊整備を済ませたうえで、神は地球上に人類を進化させて登場させた。心を持つ人類への物質進化は、同時に神の手の自己進化でもある。人間とは人間の姿を取った神の手の一階程であるこの人間の心が身体を媒介して紡ぎ出す文明の歴史のなかで、宇宙の内なる神の手もまた精神的に物質的に成長する。

 そして、その歴史の終局点において神がある個人として自己実現できるように、文明史に対する神の超越的な介入は一層強められていく。それが人類文明の終末へと向かう「イスラエルの世界史」なのである。


                                    

(Y) 心と自由

(1)自由の本性

DNAの二重ラセン図 そもそも「自由」というのは「自己性」がなければ成立しない概念だ。「自己性」はまず生きようとする生命の意志である。その意志の自己目的的な構造の姿は、DNAの鏡対象的な二重ラセンにはっきりあらわれている。

 自分の姿を鏡に映して、また鏡に映った自分がもとの自分の姿を見ているというこの無限循環のなかに、全ての安定な構造体の原型である円環運動(周期運動)の求心的な中心たる「自己性」の、限りなく自分を複製し、増殖し、限りなく生き続けようとするかたちが現出している。

 これが生命であり、自我であり、中枢神経系動物の隠れた自己意識(本能的感覚)であり、人間における自己意識(反省的理性)である。これらは全てDNAの二重ラセンに具体化された生命の、進化の各段階に現れた形態なのだ。

 すなわち、神がみずからの姿と力の一部を、進化する物質宇宙や人間の「理性の鏡」の中に映し出し、かつ具現し、それを通して部分的に自分に戻ろうとする神の弁証法のあらわれである。そういう意味で、DNAの自己目的的な性格は神の自己目的的性格の一つの他在なのだ。

 「自己性」は人間においては「自己意識」としてあるから、もっともはっきり自分の「自己性」に気づいている。「自己性」は自分自身に気づいてはじめて完結・完成される。「自己性」とは自己目的的な自己回帰だからである。

 もちろん、そのために神はいったん自分の外に出て、限りなく創造者なる神に近づこうと進化する物質宇宙、およびその中で生み出される人間の心、というかたちで、自分自身の手の他在となり、そこに部分的に自分を実現する世界や、自分を映す鏡を形成しなくてはならない。その世界や鏡を通し自分に帰るのである。

 人間の心は神の(部分的な)自己実現のための鏡として、自己意識という精神的な「自己性」を与えられている。したがって、自己意識の可能な人間の大脳において、生物の「自己性」、ひいては物質の自律性は、その神的自己意識の一つの自己目的に到達するのである。

 そして「自己性」と切り離せない「自由」も同時に、そのもっとも完全な姿で現れることになる。「自由」は人間の本質になる。人間の「自由」とは人間の「自己性」のことであり、それはそのまま「自己意識の自由」のことなのだ。


 自由とは人間の自己意識に本質的なものである。それは大脳の物質過程からの観念や意識や心の独立性のことである。自由とは大脳の物質過程に支配されないで、自分の意志、自分の思想、自分の判断で大脳の物質過程を統御することなのだ。

 心が大脳の機能であるのは明らかであるが、大脳の中にたとえばある思想がいったん物質的に根付くと、今度はその自分の思想が大脳の中にさまざまな観念を連想的に生み出す。それは、それらの新たな観念の背後でその観念の動きを物質的に支えている大脳の物質過程を、その自分の思想が新たに作り出して統御しているということなのだ。

 つまり思想は大脳の物質過程を支配しているというのは事実なのである。だから心は大脳の弁証法的上位階層として独自に実在しているのだ。

 ここで1980年代になされたベンジャミン・リベットの実験について述べておかねばならない。彼は被験者の脳に電極を差し込んで「指を曲げよう」と意識した時間と、「指よ曲がれ」という筋肉への指令が大脳の運動野から出た時間を比較し、意識よりも平均0.35秒前に筋肉への指令が発せられていることを発見した。

 これによって自分の意識や意志が自分の行動を決めているのではなく脳内の無意識な過程が決めているとし、「人間には自由意志がなく、意識は幻想であり、自我も幻影である」と結論付けて虚無主義者になる人々もいる。

 ここで具体的に考えてみよう。卓球でラリーが始まれば0.35秒で対応するには余りにも素早すぎるので、原則的にはもはや試合は意識無しの条件反射のみで進行するということになる。これは果たして正しいか? 

 意識は往々後発的ではあるが、予想もし、フィードフォワードもして、試合展開では(想像の中で筋肉情報より先行して)球を待ち構えることもする。予想して待ち構えるのはむろん主に意識が行なう。こうして試合全体は意識がコントロールしている。現実は多くの場合こうではないか?

 現在のところ一般的には意識は意志決定過程には余り関わらず、むしろ無意識からの信号に対する検閲過程に関わっているとされている。これは本能と理性の関係に似ている。

 たしかに出会った瞬間の他人への第一印象は意識する前にすでに自分の本能的な嗜好性によって決まっている。条件反射もそうした無意識の過程でなされているものである。動物は生存競争の中でできるだけ素早く反応することが求められてきたので、こうした意識を介しない直接反応系が進化した。

 「意識より先に大脳の運動野から指令が出ている」と言って嘆くのは、いわば「意志とは無関係に自律神経が不随意に作用する」と言って嘆いているようなものだ。

 意識より先に大脳(運動野)における無意識の過程で筋肉への指令が出ているとしても、それは意識と無意識との分業と捉えるべきものであって、「無意識の過程だから自分以外の誰かが外部から操作している」というわけではない。大きく見ればやはり自分自身が(表裏で)操作し決定しているわけである。

 様々なケースで意識が後回しにされていることは意識というものを無価値化するわけではない。もし意識が無価値な幻想ならおよそ40億年もかけて意識という生命の最高機能を生み出した物質進化の過程は一体何だったのか? 意識があったればこその人類出現ではないか? 意識がなければ言語もなく、文化・思想・科学、つまりこの文明も生まれなかった。それでも意識は幻想で無価値だと言えるのだろうか? 

 意識が後発であるから自由も自我も幻想であると考えるのは、ニュートンの絶対時間が存在しないということで時間というものは実在でないとし、何もかもを主観の幻想だとしたあの短絡と同じ的外れの反応である。筋肉活動が往々反射的だとしても、人間の精神活動は意識的であり、人間の人間たるところは筋肉活動より精神活動の方にあるので、それほど落胆すべきものではない。

 脳内における意識の仕事は無意識に対する検閲だけでない。予想や想像や計算など様々な働きもしている。意識は思想を前提に個人においても社会においてもそうした機能を働かせてさまざまな検証や総括や改善に取り組んできた。そこでは観念が検証し検閲し修正して個人や文明の新たな出来事が作られていく。そのとき思想は大脳の物質過程を新たに作り出しているのである。

 すなわち思想を生み出す意識や観念や心が物質の決定論的な法則にとらわれない独自な階層として、時間や空間や物質の因果法則をはるかに超えて自由に動き回れるということ、これこそが自由の本性なのだ。物質を超えた観念の持つ抽象性と飛躍性、そこに自由の秘密がある。

 人間は明らかに責任存在である。その責任の根拠は、人間が自由な意志を持ち、自由な選択ができるという命題の上に成り立っている。自由は人間の、とくに近代人の確信である。

 (付記 : ちなみに国立精神・神経医療研究センターなどの2019年7月11日公表の 「一次体性感覚野が、運動についての事前情報を(一次運動野から)受け取っていることを発見〜脳は触る前からどんな感触を得るか知っているかもしれない〜」もリベットと軌を一にしたものだと言える。後者の感覚をリベットの意識と置き換えれば両者はほぼ同じ内容になるからである。

 そもそも意識は進化の原初に感覚として現れたので、その脈絡でここでは「感覚=意識」としてもいいわけだ。とりあえず素早く反応しなくては生き残れないという進化圧の中で意識も感覚もいくつかの局面において無意識な運動野に先を譲ったにすぎず、そのことで意識や感覚が環境から乖離したり無価値化したりしたわけではない。ところどころで無意識な運動野に先を越させるのも生命の環境適応の一形態なのだ。

(2)近代人の「自由」

 近代人の自由は近代人の自我と切り離せない。その自我は中世神聖共同体とそのイデオロギーであるスコラ学の解体を通して成立した。中世社会では教会とその知的信仰体系の中で、神も人も世界も一つの有機的全体をなしている。人と世界は神において結びつけられ、教会がその結合を保証していた。

 教会が要となる中世社会の人間は、キリスト教の価値観に基づいた客観的な「目的存在」であった。法王を頂点とする中世社会は、システム化しヘレニズム化した一つのコスモスとして、人々の住む家であり故郷であった。そこでは人は生きる目的がはっきりしており、「存在」は「目的」と客観的に結合していた。人々は教会と教会の与える客観的価値体系のなかで社会的に結合していた。

 しかし、近代市民社会の胎動とともに中世の封建的農奴制のうえに築かれた教会の地位は低下し、農奴的な土地の呪縛から解放された新しい市民社会の自由な個我が誕生する。自由な個我の武器は、因習にとらわれない自由な批判精神であり、「自然の光」としての理性に基づく合理主義である。

 これらはアリストテレスの自然学における四つの運動因(質料因・形相因・動力因・目的因)から形相因と目的因を取り除いた、没価値的な近代自然科学を生み、その機械論的な自然観は人々の身の回りから神の姿を取り払った。人と人、人と世界を結びつけていた神は自然界から追放され、社会の中からも放逐された。

 それと同時に、「存在」は「目的」を喪失し、知識は価値や実践や信仰と分離し、価値を抜き取られた機械論的自然とバラバラの自由な近代的個我が残された。これがデカルト哲学に典型的に現れた自我とその機械論的世界である。

 このデカルト的自我は自分以外の全てを疑い、全てを従属させる。真に存在するのはまず自我であり、残りは、神も世界もその自我によって発見されるにすぎない。この自我は神とともにその世界の外にいる。世界はもはやそれ自身のうちに客観的な意味を宿す、自我の環境ではない。

 こうして近代的自我は、自然としても社会としても、目的のはっきりした自分の家としての世界を失いはしたが、そのかわり、なにものにも囚われない無目的な、自分のためだけの「個我の自由」を手に入れたのである。つまり自由のための自由、自分のためだけの自分の世界を作り上げた。

 自己性も自由も、自己意識をもつ人間においてその完成された姿を取るが、それは近代の機械論的自然観のなかで、客観的な目的と意味を失いアトムのように分解した近代的自我において単離されて現れ、もっとも抽象的な仕方で純粋に自覚される。

 これを近代における「純粋自我」と呼ぶことができるだろう。一度は人間の自己意識はこうした純粋自我、純粋自由の過程をたどる必要がある。あたかも化学物質や物理学的粒子のように、一度は単離されて詳しく調べられ、そうして自己意識のための十分な材料を提供しなくてはならない。それが近代的自我やその自由の出現した歴史的意味の一つである。

 しかしその作業が終われば、人間の純粋自由の純粋意識はその本来の立場へと豊かに止揚されねばならない。神と自然と社会を取り戻し、一つの全一的な有機的世界の意味ある一部として自覚し、純化され無内容になった自分の自由に、豊かな対象世界を取り戻してやらねばならない。それはとりあえずは有機的な弁証法的自然観によって近代の機械論的自然観を止揚することである。

 自由の物質的根拠は私たちには明らかであり、ちゃんと説明することができる。いずれ詳しく触れるが、それは究極的には物質の自律的性格にある。物質はみずからエネルギーの一形態として、自動し(物体)、自変し(物質)、自活し(生命)、脳を得て自主化する。それが物質の弁証法的な自己発展の歴史、物質進化の歴史であった。

 むろん無数の惑星で多くの知性体が存在する筈だが、知られているかぎりでの生命の最高形態は地球人類である。この人類の身体と脳の働きが自律的で主体的である物質的根拠は、神の部分的外化であり他在である以上のような弁証法的自然の持つ構造と性格、ここにある。これが人間の自由の根拠に関する物質的説明である。神の自由が物質の自律性となり、それが人間の心の自由として実現しているのだ。

 筆者はすでに掲げた自然の階層図で「大脳」の階層の上に「心」の階層を置いた。心は大脳の機能に他ならないが、自分が大脳の機能にすぎないと認めることを嫌う。心はいったん生じると、大脳の物質的過程から独立した一種の精神的実体であることをみずから主張するのである。どうしてそういう独立性が生み出されてくるのか、なぜ心はそういう権利があるとみずから信じているのか、それも心の謎の一つであるが、そういうあり方が心の独自な階層を形成させているのも確かなことだ。

 私たちは心のこうした独立性への自己主張の起源を、自然の階層進化の究極目的である神の部分的な自己実現にみる。神が人間の心に自分の一部をシルエットとして映し出し、そこに自己実現しようとするからこそ、主体的な神を映す鏡としての人間の心に、主体的な実在性と一種の実体性が与えられている。

 もちろん物質としての大脳のある特殊な機構の働きがそういうことを可能にさせているのはいうまでもない。それは物質宇宙の中に「予測不可能性」と「偶然性」の存在を許す「カオス力学」や「量子力学」などと係わっているが、それについては少しあとで述べる。

(3)「自然的自由」と「社会的自由」

 自由はもともと共同体と個人との矛盾から生まれた概念だ。共同体と個人とがまだ未分化の状態の原始社会では、自由は人間の問題として浮かび上がっていない。生産力が向上して社会が豊かになり、私的所有の偏頗性を土台にした文明社会が勃興してくるにしたがって、共同体と個人との矛盾が、

(1)神々と人間(神官階級と民)
(2)王と臣民
(3)支配階級と人民

 など、それぞれの間の矛盾としてあらわれ、それによって個人の自由が意識され始める。次にそれが、

(4)制度
(5)思想・信条
(6)文化

 などにともなうさまざま自由の問題をも惹起するに至った。近代では自由は市民的自由(企業と契約、財産と身体、思想と良心、言論・集会・結社の自由)と参政権などの政治的自由として具体的に現れている。

 「社会的自由」というべきこうした共同体と個人との間の自由とは別に、「自然的自由」と呼ぶべき自然力の支配からの人類の自由も問題にされた。人類と自然との闘いである。

 自然は精霊の跳梁する夜の暗闇や未知な森林や砂漠、また猛獣や毒蛇やサソリ、暴風雨や洪水や旱魃、地震や雷や火山の噴火等々である。かつては治水灌漑が人間に自由をもたらし、近代では科学技術が人類の自由を飛躍的に増大させた。

 もともと自然の自律的な進化の中から自然の一部として現れた人類であるが、自然のその自律性からみずからの主体性を獲得して独自な「心」の階層を形成し、自然(物質)から独立しようと企てるに至ったのである。

 近世以後になると、機械論的に説明された自然の支配からいかにして人間精神の自由の根拠を説明しそれをを守るかが、大きな問題として浮かび上がった。デカルトやニュートンなどは物質と精神の二元論でこれを乗り切ろうとした。

 カントは自由を、機械論的因果律の支配する現象世界の背後にある「物自体」に帰属させ、理論的には説明のできないものだが実践的には純粋意志として実在するとした。これも先の二元論の一種である。

 彼は説明可能なものを機械論的現象世界だけに限ったので、その中に存在する自律的で自主的なものは全て、自由であれ、霊魂であれ、神であれ、生命であれ、全く不可解なものとする他なかった。自由はずっとなんの根拠も示されないまま、ただ盲目的に主張されてきただけである。

ヘーゲルの肖像 ヘーゲルはカントの「物自体」を弁証法的な論理を持った生きた精神的な理念として捉え、自然や歴史を、それぞれ空間や時間におけるそうした理念の他在による自己実現の歩みとして理解したおかげで、不可知としてカントが取りこぼした自律的で自主的なものが究極的にはいずれ理解できるものとして、全てその哲学体系の中に取り入れることができた。

 ヘーゲルは『歴史哲学概説』(真下訳)の中で、物質は諸部分ばかりからなりたっており、自分の中に一体性をもたらす中心点はないが、「精神は己れ自身の許にある存在であり、このことこそがまさに自由ということなのだ」と定義した。

 そして、自由は物質(自然)を凌駕した精神の実体であり、精神の唯一の真実態であるとし、「世界史とは精神がそれ自身の本来の姿(自由<筆者>)を知るに至ろうと努めるありさまをあらわしたものだ」と述べている。

 ヘーゲルのいう歴史とは自由の原理が現実社会に実現していく過程のことである。それは自然に対する人間の支配の限りなき増大であるが、逆からみれば、むしろ物質そのものからの人間精神の限りなき後退であった。

 ヘーゲルのいう物質にはみずからの全一的な中心がない。それはバラバラな要素の集合体で、あたかもアリストテレスのいう「形相」(本質)を持たない純粋な「質料」のように、自分の内部にみずからの根拠・本質を持たない存在であった。

 マルクスエンゲルスは物質こそが実在の本質だとし、自然過程にも社会の歴史過程にも生きた有機体の論理のようなヘーゲル的な弁証法が働いているものと考えた。彼らは唯物弁証法の立場から、物質はみずからの内部にそれ自身の根拠があるとしたのである。こうしてカントの不可知な「物自体」は、ヘーゲルの可知的な精神的理念を経て、マルクス主義においてついに科学的に実証しうる弁証法的自然そのものになった。

(4)マルクス主義における「自由」とその諸問題

 マルクス主義における自由とは、ヘーゲル哲学と同様、歴史的に実現されていくものである。ただそれは史的唯物論が示すように生産力と生産関係を軸とし、その矛盾と相克の中で具体的に完成されていくとする。マルクス主義においては「自然的自由」は生産力に基づけられ、「社会的自由」は生産関係に基づけられる。生産力は自然征服力であり、生産関係はそれに見合う、生産に係わる人間どうしの関係だ。

 生産力は、生産関係はである。としての生産力が臨界量に達して、としての生産関係の変革や革命をもたらす。「量から質への転化」という弁証法の論理がその根底にある。自由とは自分の労働の対価がそのままそっくり収奪されずに戻ってくることで、それは共産主義社会の全人民的所有のもとで実現されるべきものとされた。

 経済的形態を取った唯物論としてのマルクス主義は、自由を経済生活の脈絡でのみ捉え、「自然的自由」や「社会的自由」も、生産力や生産関係というふうに「生産」だけと結びつけて規定した。果たして自然を支配するということが人間の真の自由につながるのか、環境問題などを通して今や大きく問われている。

 「社会的自由」の共産主義による実現の試みも、今や失敗してしまった。マルクス主義は意識や心を脳の機能としてのみ捉え、意識や心の独立したあり方を否定した。その独立性を認めることは観念論や宗教や神秘思想につながると考えたからである。

 しかし、大脳の物質的過程からの心の独立性を、相対的なかたちにしろ絶対に認めなかったことが、マルクス主義に人間の真の生きた全体像を見落とさせ、それを新たな人間疎外の思想とならしめ、スターリン主義という怪物に変貌させ、結局、人類に見捨てられるようにさせたというのも事実である。

 なぜマルクス主義は失敗したのか? 現象論的にはさまざまな事柄が挙げられる。

 (1)たとえばその計画経済である。一国の経済を資本主義のように市場の自動調節に委ねず、それを細大もらさず計算し、管理し、運営することは、たとえコンピュータを導入しても不可能なほど多岐多様で膨大すぎたという説がある。そのための専門家集団が生まれ、知識や技術の局在化が進み、新しい階級と差別が出現した。

 そこから「全人民的所有」という共産主義の高い理想が形骸化し、資本と労働の相克する資本主義社会をはるかに凌ぐ劣悪な全体主義的階級社会に変貌してしまった。官僚制とテクノクラートの問題である。

(2)また全ての生産物は生産する労働者の労働に由来し、生産労働こそが価値の実体であって、全ての人間は生産労働者の労働の結実である生活必需品に依存してはじめて生存できるという事実をあまりにも強調しすぎ、それが生産至上主義哲学となり、「平均的生産労働時間=価値量」という労働価値説主義を生み、生産と流通と消費を有機的に結ぶ経済社会全体のバランスのとれた把握を不可能にさせたという説もある。

 これは流通・サービス部門とそこで働く者たちに対する軽視となり、労働蟻的な人間観を産み出し、生産労働者の利害を土台とする労働者党の一党独裁による全体的人間像の破壊、民主主義的自由の否定につながった。

 マルクスにおいて人間とは、とりあえずは「生産労働者」である。人間は自己の本質を、労働を通して、その生産物として具現する。その生産物が全て再び自己に帰ることが人間的自由の実現だ。搾取されて帰らないことが、人間の疎外、人間的全体像の歪曲、非自由である。

 ここでは自由は本質的に生産労働とのみ係わる。これは「生産労働者」が社会の大半を占める時代や社会における人間観であり自由論だ。そこでは人間を「生産労働者」として普遍的に提示できる。客観的に見て、流通やサービスや消費過程は、あらゆる文化活動とともに、生産労働に付け加えられる一つの付録にすぎない。その領域では確かに一つの真理である。だがより広い領域ではもはや真理でない。

 その後の歴史が明らかにしたように、人間の全体像は「生産・流通・サービス労働者」を含む全労働領域の労働者を内包したものに進化し、さらに経済活動の局面さえ超えて、政治・文化・社会の全局面をも包含するものになる。

 生産労働なくして文明社会はおろか人間の生存さえありえないことは確かである。しかしいまや流通・サービスや政治・文化・社会のあらゆる局面、たとえば政治による経済計画や規制はもちろんのことだが、高等教育・高度な医療・さまざまな娯楽などの支えなくしては、近代的生産労働そのものが成立しないのである。つまり生産労働者以外のあらゆる労働者が間接的に生産労働しているとみなくてはならない。

 先進資本主義諸国ではどこでもサービス部門が生産部門の労働者数を大きく上回っている。もうすでに「生産労働者」は人間や社会を代表できなくなっているのだ。マルクス主義が時代的・地域的な有限真理であることは間違いない。それを無視して普遍化すると、むしろそこに人間の全体像が歪曲され、自由なる人間が疎外されるのである。

(3)マルクス主義の歴史実験が失敗した理由として、さらに次のようにいう説もある。
 
 社会主義革命はマルクスの予想を裏切って、ロシア・中国・東欧・北朝群・ベトナム・キューバなど、比較的近代化の遅れた、言い換えれば社会的資本の十分成熟していない地域に発生して成功を収めた。

 そのため、経済的・文化的・社会的土台の整わない、あたかも空中楼閣のような幻想的政体の社会となり、そうした脆弱さのうえに、さらに既存の強大な先進資本主義列強との無理な経済的・軍事的対決を強いられ、その膨大な政治的・軍事的出費と出血で政治・経済・文化・社会のあらゆる部分に思わぬ歪みが生じ、内部矛盾が著しく増幅された。そして結局、社会主義は「貧者の社会主義」となって自己崩壊した。

 こういう説である。

(4)さらに、ずっと以前から指摘されていたマルクス経済学における「窮乏化理論」の問題がある。この理論は経済学そのものの要求によるというより主にプロレタリア革命を正当化するためのもので、社会の総需要の上限を、ほぼ「生産労働者」の生存線ぎりぎりのところに基準を置いて設定した。

 そのため機械的な生産力の発展が、熟練労働力の単純労働力化による低賃金化だけでなく、労働力そのものの削減をももたらして失業率を高め、それがさらに賃金を低下させ、富める者はますます富み、貧しい者はますます貧しくなるという理論である。これもまた有限真理であり発展途上国では真実性はあるが、発展した国々においては十分正しいとは言えない。北欧諸国のように国民の政治的な判断によって資本主義でありながらも高度な福祉国家もまた生じている。

 すなわち、生産力の発展は富の絶体量の飛躍的な増大をもたらし、団結力次第でその恩恵を「生産労働者」も間接的に受けることになるのである。生産力発展のもとでの労働者の賃金上昇による購買力の向上や労働時間の短縮は、(搾取率の低下をもたらしつつも)、資本家階級の富の絶対量は増加させたので、(むろん資本家階級の様々な抵抗は続くわけだが)、資本家階級が労働者の賃金上昇や労働時間・労働環境の改善などなどに最後まで抵抗する必要性を感じさせなくした。むろん収奪がある限りあちらこちらで窮乏化は続くが、労働者の団結力によって緩和の傾向も現れうるのだ。

 マルクス主義は、人間の欲望の質と量が、生活必需品をはるかに超えてこのように文化的に無際限だということについて想像すらできなかった。労働力を再生産しうるぎりぎりの賃金が労働力の対価だと考えたからである。そうした労働力も資本主義の低い発展段階のそれであった。

 後期の資本主義社会になると高品質の生産物が求められ、それには高度の労働力が不可欠になるということがよく見えなかった。また何事においても「生産」に重点を置いたため、物質生産における肉体的側面、つまり肉体的労働力という側面に著しく偏ってしまった。資本主義社会における賃金も基本的にはそうした肉体的労働力の再生産費という視点から規定された。そのため無尽蔵の知的労働力が要求される経済社会の到来を見通せなかった。

 マルクス主義には人間の可能性やキャパシティについての十分な洞察が欠けている。それが個人の創発性や歴史における個人の役割や、思想・宗教・文化的伝統に対する過少評価につながった。そのために心理学や道徳論の重要性も見落とされることになった。

(5)マルクス主義に足りなかったもの

 マルクス主義に対するこれらの見解は現象論としては全て正しい。だが事柄の真相には達していない。どのような社会も─たとえ背後で神が働いているとしても─人間のつくる人間の社会だから、ある一定の人間の論理、その時代に適合した人間理解のうえに立っている。もしその人間理解が正しければ正しい度合いに応じて、その社会や文明は成立しうる。正しくなければ成立しても短命に終わるだろう。

 経済システムとしては、特に資本主義のように歴史の中で誰が発明したというのでなく自然発生的に生じた文明社会は、それなりに人間の論理に従う盲目的過程があって、事情が許すまで長生きするものである。

 だがマルクスという一人の人物が人為的に構築した経済システムの場合には、当然、自然発生的な適合性がない。本当に正しい科学的・哲学的・神学的人間理解にその社会の経済システムが基づけられないならば、その時代の要求する本当の人間理解と人間救済は不可能であり、成立した社会主義社会や国家も長持ちする筈がない。

 しかしマルクス主義は多くの国家の指導理念となり、一時は全人類を支配するかとみえるまでに及んだ。この事実はこの思想にそれだけの真理性があることを意味している。それは弁証法的な自然理解において際立っているが、さらに人間を自然と社会の歴史的動態のなかで把握しようとする点でも際立っている。

 現在では自然や社会に対するこういう歴史(「自然史」や「社会史」)の視点を全ての思想家が土台にしているが、そもそもこの視点はマルクスとエンゲルスが発見し開発したものであることを忘れてはならない。

 マルクス主義の人間理解に足りなかったのは、神を映す人間の心の独自性、大脳生理を超えるその独自な階層性に対する認識である。確かに意識や心は大脳の機能であるが、すでに述べたように思想(心)は脳を相対的に支配できるということである。

 自然は自己完結的なコスモスではない。自然はその弁証法的階層の頂点である人間の心において破れている。人間の心は物質宇宙の始めと終わりを映す神の視座に準じる視座であり、人間の心において物質宇宙はトータルに超えられているからである。

 マルクス主義はキリスト教との熾烈なイデオロギー闘争を通してその弁証法的唯物論を構築したため、物質に対する観念や思想の役割、いわゆる「存在」に対する「意識」の役割、具体的にいえば、下部構造(生産関係)に対する上部構造(政治・宗教・芸術・道徳・哲学)の役割を著しく過少評価することになった。それがまた「唯物論」と自称するゆえんでもあった。「唯物論」は「弁証法」とともにマルクス主義の優越性を示す指標であったが、前者は結局その命取りになったのである。

 社会現象の何もかもを経済活動に還元するマルクス主義のような経済主義史観は、現代ブルジョワ経済理論にもみられる。なるほど現代の社会現象は経済活動が決定因子として振舞うことが多く、経済主義史観は社会や歴史を読み解く唯一のキーワードのようにみえる。そのためそれを現代だけでなく人間社会の過去でも未来でもそうであるかのように敷衍し普遍化する。それがマルクス主義では「史的唯物論」となり、現代ブルジョワ経済学では古典派・新古典派などの哲学的背景となる。

 一つの原理にすべてのものを還元するのは分析哲学的であって弁証法的でない。実はそれぞれの時代にはその時代の独自な力学が働いていたのだ。中世ヨーロッパでは教会・宗教・信仰が、近世ヨーロッパでは国家・政治・理性が主導的であったし、現代世界では企業・経済・欲望が主導的になったということである。それを(マルクス主義の「唯物史観」風に)過去も未来も人間社会現象は全て経済活動に還元できるということになれば、人間は経済人としてしか存在せず、人間の全貌は失われ、その全人的な把握は疎外されるほかない。

 筆者がこのようにマルクス主義を批判するとしても、それはなんら資本主義を現在の姿のままで肯定することを意味するわけではない。はっきりいうが、これまでの資本主義は近代人の、精神と物質、価値と事実、当為と知識との分裂母体であり、人類社会のガン細胞である。資本主義とがん組織は酷似している。がん組織と全く同様に他との調和、全体との和合を無視し、個人主義・利己主義の上に立って無限に増殖し貨幣を際限もなく追い求め積み上げて、自らを生んだ社会を重力崩壊させる。資本主義は現代人とその社会のあらゆる分裂と疎外と不幸の根本病巣だ。

 資本主義は欲望を原理とする。マルクス主義はそれを政治革命を通じて理性的にコントロールしようとしたがついに失敗した。マルクス主義は人類のこの絶望的な病に対する人類自身の唯一の特効薬だった。一般にマルクス主義の他に薬らしい薬さえ存在しなかった。だがこの特効薬はガン細胞に免疫力をつけただけで崩壊し、人類自助の希望は永遠に失われたのである。

 人類を資本主義の個人主義・利己主義的な欲望がもたらす破滅から解放するのは政治・理性だけでは不十分だということである。政治・理性をコントロールする高度なモラルがなくては資本主義の欲望を統御できない。しかし高度なモラル(利他主義・愛他主義)は真の宗教(真の信仰)からしか生まれない。従来のままの資本主義が勝利したこと、これが人類社会に対する神の裁きであり、その裁きを呼び寄せるのだ。

(6)人間の「自由」は人間の大脳の避けられない本能

 ところで自然観についてはマルクス主義の弁証法的自然観が正しく、二十世紀に入って現代科学はエネルギーと質量が同じものであること、物質がその内部に自分の根拠を持ち、自律的で弁証法的に自己発展するものであることを明らかにした。生命の自活性と自己進化の仕組みも明かされた。そういう生命の最高形態である人間の大脳の自発性、その心の主体性も、おおむね今ではこうして弁証法的に説明可能である。

 もちろん、これだけでは人間の心の本性である自由の由来する本当のメカニズムが明らかになっていない。自由とは大脳の物質的過程からの人間意識=自己意識の自由のことであるが、心の観念性の持つ時空を超えた抽象性と飛躍性がどこから来ているのか、そのカラクリが説明されないかぎり、自由の定義は不可能なのである。それは意志の自由の由来を説明することだともいえよう。

 心の自由論については弁証法的階層論で大枠の説明が可能だとしても、最後の詰めのところはもっと詳細な描写が必要だ。人間だけではなく動物にも心(隠れた自己の意識)がある。それを一般に「本能」といっている。動物の心における「A10神経」に関係する「報酬の体系」を軸とした知・情・意の構造やその性格については、ここでは触れない。それらの発展形式として人間の知・情・意があることについても詳しく言及しない。

 ふつう動物の「本能」を人間の「自由意志」と区別している。しかし本当は「隠れた自己意識」と「顕在化した自己意識」という質的区別を無視すれば、両者の間にさほどの違いは存在しない。

 動物本能と人間の自由意志の違いを強調する場合、動物が肉欲の従う生理学的自然法則の必然性によって決定論的に支配されているのに対して、人間は肉欲の従う生理学的必然性から理性的に自由であると主張される。人間の大脳における内部依存的で外界に対して独立的な概念機能を持った「理性の鏡」が、動物的な外部依存的で外界に対して従属的な「感覚の鏡」を、その働きにおいて凌駕しているというふうに言い換えることもできる。

 感覚より概念の方がはるかに自由であることは確かである。そういう意味では動物より人間の方がずっとずっと自由である。

 だが、これは人間における意志の自由がいかなる自然法則的必然性からも理性的に自由であるということではない。大脳という構造と機能があってこその自己意識であり、自由なのである。

 意志の自由は大脳の従う生理学的諸法則の上に成立している。ただ内部依存的であるという点で「理性の鏡」は直接的な「感覚の鏡」から相対的に独立しており、大脳の生理学的諸法則に基づいて、その生理学的諸過程に自分の観念のパターンを主導的に刻印することができる。これが意志の自由の本体である。

 だから「理性の鏡」のある全ての動物に多かれ少なかれ意志の自由がある。それが「自欲」として現われれば動物の「本能」であり、自己意識を媒介にして「自主」として現われれば人間の「自由」ということである。

 人間の自由において意志の自由の本質的規定が完全に実現したという点からみれば、人間の「自主的自由」は動物の「自欲的自由」の飛躍的な完成である。そこにはあの弁証法的な「非連続の連続」が存在する。「理性の鏡」が言語を得て概念の能力を持つとき、自律物質の究極的完成として人間の自由が実現される。

 人間の自由とはその自主性の別名である。そして人間の自主性は、人間の自由にはならない人間自身の運命であり宿命である。この自主なる人間の自由は人間の大脳の避けられない本能である。

 人間が自由な責任存在であるのは、「絶対自由」なる神が人間に与えた運命であり、第二の神の宿命なのだ。世界史が太極的終末へと向かう「イスラエルの世界史」であり、神の世界史だとしても、責任存在としての自由な人間のあり方にはなんの変化もない。

(Z) 自由と量子論、そしてカオス理論

(1)小鳥の「自由」とニュートン力学の破れ

 どうして決定論的な物質世界(脳)から時空にとらわれない自由な意識が生まれ出ることができたのか? ここには必然性と偶然性との間の重大な哲学的問題が含まれている。

 機械論的自然観の中に「偶然」は存在しない。弁証法的自然観では、「偶然」を通して「必然」が貫徹するとか、普遍的理念はあらゆる個々の「偶然」を媒介して自分を実現するとかいわれる、いわゆる「理性の奸計」と呼ばれる論理が作用する。

 必然性だけでは、自律的、自主的、有機的、創造的なものは表現できない。より高次で複雑で、全く新しい意外なものを自己創造する論理が含まれていてこそ、機械論的なものを超えた自然や歴史の本質を捉えることができるのである。

 それは「必然性」「偶然性」を乗じたもの、「法則的なもの」「デタラメさ」を足したもの、「連続性」「非連続性」を加味したもの、「論理的・理知的なもの」「情動的・意志的なもの」を付け加え、「デジタル的なもの」「アナログ的なもの」を添加したもの等々で、いわゆる数学や物理学でいう予測不可能な捉えどころのない「非線形的な性質」を持たなくてはならない。

 ここでは「偶然」「非連続」「確率」「ゆらぎ」「曖昧さ」を取り入れ、それらに一種の合理化や体系化を施す論理が必要だ。それは哲学的には弁証法論理であり、数学的には非線形性で、力学的には「カオス力学」や「量子力学」の論理などであるといえよう。

 必然と偶然の問題についてまずニュートン力学からはじめよう。

 近代力学を築いたニュートンは、無限で一様な性質を持つ「絶対時間」と「絶対空間」を前提とし、その枠組みのなかで、その枠組みには全く無影響に運動し、かつ重力作用を及ぼす原子論的な力学を、幾何学的手法で樹立した。それを数十年後、R・J・ボスコビッチが解析学(代数学)的な手法に書き直し、ニュートン力学を、現在どこででも教えられている「質点の力学」とした。

 ニュートンは原子論的な物質観を持っていた。とはいっても、それ以上分解できない「アトム」なのかどうか確言していない。だが、その原子論的な物質がのちに「質点」へと解析学的に抽象化されたといえる。

 「質点」は質量を持ったそれ以上分解できないようなものだ。「質点」どうしの距離は「剛体」においては絶対に不変不動で、いかなる運動系や重力系においても変化しない。そして「質点」(あるいは複数の質点による「質点系」)は真空空間の中を運動し、さらに、重力は逆二乗の法則で、質点間の距離を瞬間的に超えて伝わるとする。ニュートン力学はあたかもデモクリトスの原子論に近代の動力学的な数学的説明を与えたような力学である。

 ここでは宇宙のカラクリは互いに無関係なさまざまな永久に不変な要素絶対時間絶対空間質点粒子剛体粒子間に働く重力質量や力などによる運動の法則)の単純な組み合わせにすぎず、全てが一意に定まる決定論が支配する。「必然」だけが真実で、宇宙のどこにも「偶然」は存在しない。

 その後、気体や液体といった流体の運動や弾性体の振動にもニュートン力学は拡大され、熱が無数の分子のランダムな運動であることが分かると、熱力学にまで統計的手法で拡張された。基本は質点粒子の運動であり、固体も液体も気体も、その質点粒子どうしの異なる関係に他ならないからである。

 私たちの身の回りの物理現象は、(黒体放射と)電磁気現象を除けば、これで全て片がつく。全宇宙は一つ余さず根本のところで決定されており、決定論の「決定性」と同じだけ、物質宇宙は「客観性」のある実在と理解された。

 ここでは観測する人間がどうあがこうと、物質宇宙のあの不変な諸要素になんの変化もあろう筈がない。山は聳え、川は流れ、星は巡り、鳥は飛ぶ。それらは人間の意識や働きかけがどうあろうと決して動かぬ、ニュートン力学の不変な諸要素の造り出す永久不変な枠組みの上に築かれた「客観的実在」なのである。

 物質のこういう「客観的実在性」という観念は、人間の日常的な感覚そのものだ。全ては物質的にちゃんとあり、あらゆる現象は時間の連続関数として表わしうる。つまり客観的物質世界の途切れることのない因果関係が「客観的に」実在する。

 これはどの粒子や物体も連続的な軌跡を描いて運動するという意味である。直前のものが原因となり、直後の結果にそのままつながる。その軌跡のどこにも「飛躍」は存在しない。事物の「客観的実在性」とは、それが時間の連続関数で表わしうる(軌跡を描く)ということだ。それが因果律であり、決定論であり、物質の「客観的実在性」なのである。

 かりに人間がある事物の因果的連続過程に関与するとしても、その関与が新たに組み込まれたうえで、そのまま時間の連続関数は成立する。人間に本質的に新しいことはなにもできない。なぜなら全ては物質の客観的因果関係によって連続的に決定されているからである。

 人間の「自由」が介入する隙間はどこにもなく、肉体という物質で構成された人間のその「自由」そのものさえ、本来ありえないことになる。人間に「自由」がないぶんだけ、事物は「客観的実在」になる。これがニュートン力学の世界であり、非弁証法的な力学的自然観のよって立つ物理学的・哲学的基礎である。

 これが間違った力学であることは、この宇宙に「生命」や「意識」があることを考えただけでも分かることである。地上で石を投げれば石は1G におけるその初期速度と投射角度で決まる連続的な放物線を描く。諸条件が同じであれば決定論的にいつも同じ放物線になる。ところが手の中の小鳥を投げ放つと、石のような決まった曲線を描かず、そのつど違った複雑な曲線を描いて飛び回る。

 連続曲線ではあるが決定論でないことが分かる。小鳥の持つ自由(それは小鳥の脳・神経系と筋肉系で具体化される)が石とは異なる曲線を描かせるのである。小鳥の「客観的実在性」はその連続曲線に示されているが、小鳥の「自由」は、複雑で予測不可能な飛翔曲線に示されている。

 これをみればどこかでニュートン宇宙が破れていることが分かる。小鳥の重力中心という一点の軌跡だけをたどれば、どこにも決定論的な連続的因果を壊す因子は見つけられない。小鳥の羽ばたく全身の働き(脳・神経系と筋肉系)の中に決定論的な連続的因果性を破る因子が潜んでいる。小鳥の生きた身体のどこかで時間の連続関数が壊れている。

 それはまたニュートン的な「客観的実在性」のかすかな破れでもあろう。だがその因子の正体を突き止める前に、ニュートンの絶対力学を止揚したアインシュタインの相対性理論について略述しなければならない。

(2)相対性理論

 すでに述べたように、物理学的ディメンションでは(黒体放射を別にすると)電磁気現象を除けば、ニュートン力学とその基本哲学は揺るぎのない完璧な体系であった。だがこの電磁気学こそニュートン物理学(力学と哲学)の終焉を告げる因子を内包していたのである。

 ファラデーはコイルの中を回る電流がコイルの周りに磁場をつくること、磁束の中でコイルを動かすとコイルの中に電流が作られることを発見した。電磁気現象は周りの空間が変化を起こし電場磁場がつくられることを要求する。これはつまり「空間の変質」だ。変質する空間が絶対であるわけがない。これがニュートンの「絶対空間」に対する最初の攻撃である。

 ファラデーの実験から得られた電磁気現象の詳細なデータをもとにして、マクスウェルが「古典電磁気学」を樹立する。すでに電気の力はクーロンの法則によって両電荷間の距離の二乗に反比例するということが分かっていた。それは重力が両質点間の距離の二乗に反比例することと全く同じである。

 電気力(F=k・qQ/r2 )と重力(F=G・mM/r2)を記述する二つの方程式が「まったく同じかたち」をしていた。それは両者の物理現象の相似性を意味していた。ちなみに、rは距離、kは比例定数、Gは重力定数、qとQは電荷、mとMは質量である。

 すると電荷のまわりの空間が変質するように、質点のまわりの空間も実は変質している可能性が大きい。ニュートンは二つの質点の間には、不変の、そして当然、等質の空虚な「絶対空間」があり、重力作用は瞬間的に伝わるとしたが、空間に変化があるということは、重力や電磁気力の伝わり方に変化があり、すなわち有限速度であるという想定につながる。

 マクスウェルは電磁気学の彼の四つの基礎方程式から電磁波(光)の存在を予想し、真空中のその伝達速度を真空の誘電率と透磁率だけから導出した。すなわち「真空の誘電率×真空の透磁率」の平方根の逆数である。電磁波とは真空における電場と磁場の交互振動である。したがって電磁現象には有限速度があり、それが電磁波の速度となる。

 となると、瞬間作用力としてのニュートンの重力が、実はある有限速度を持つだろうと十分に類椎できるわけである。しかもそれが電磁波と同じ速度である可能性が大きい。

 電磁気学において「絶対空間」と「瞬間伝達力」が止揚されたこと、これがアインシュタインの相対性理論を生み、それによってニュートン力学とその絶対哲学が全面的に克服されるに至った。

 相対性理論の根本は「光速度不変の原理」である。それは実はマクスウェルの基礎方程式から直接導き出すことができる。あらゆる慣性運動系(静止系または等速度運動系)に対して光速度が不変であるということによって、ニュートン物理学の全体系が止揚されるのである。

 光速度がどの慣性系から見ても一定不変であるということを前提にすれば、まず「ガリレオ変換」と呼ばれるニュートン力学における「速度の加算式」が壊れる。

 ニュートン力学では、かりに光速の三分の二の運動体からさらに光速の三分の二の物体を進行方向に放り投げると、単純計算では光速の三分の四となって光速を超えてしまう。しかし光速度を宇宙の最高速度とする相対性理論では、こういうことは決してありえないことである。したがって「速度の加算式」がニュートン力学の場合とは違っている。

 速度とは「距離」(空間)を「時間」で割ったものだ。すると速度の基本構成単位の「時間」と「空間」に異変が起きている可能性があることになる。それは、運動することと「時間・空間」とが、相関していることを示している。つまり運動する系ごとに時間と空間の尺度が変わるのである。それが系の運動速度に伴う時間と空間の「ローレンツ変換」と呼ばれるものだ。

 読者が光の速度に近い速さで飛んでいる宇宙船を観測するとする。その速度が大きくなるにつれて宇宙船系の時間がますますゆっくり流れ、宇宙船の船体が進行方向を軸にしてどんどん縮んでいくのを観測できる。

 もし宇宙船の質量が計れるとすれば、同時にその質量が増えていくことも分かる。物質宇宙の最高速度である光速に近づくにつれて宇宙船の時間は無限に間延びし、宇宙船は際限なく縮み、その質量は無限大になっていく。

 つまり時間も空間も質量も、一定不変の光速度と宇宙船の速度とのある種の「比」によって変化するのである。とくに質量がこの「比」によって変化するというのは、質量と運動との相関性を示すものである。

 運動がエネルギーと切り離せないものであるために、そこから質量とエネルギーの相関性が導き出される。それが「質量とエネルギーの等価原理」(E=mc)である。

 こうして、ニュートン力学のよって立つ、系の運動状態によらない絶対哲学の、それぞれの独立な、水久不変の議要素(絶対時間・絶対空間・質点粒子による剛体性・粒子質量)は、どれもこれも実は運動する系ごとに変化し、しかも相互に連動しているということになったのである。それらは相互に独立でもなければ不変でもなかったというのが、物理宇宙の真相だと分かった。

 時間と空間は互いに連動し合って「時空四次元連続体」を構成していること、物体は剛体ではなく伸縮し、質量は可変で、しかもエネルギーと等価であること、瞬間伝達力はなく伝達の最高速度は光速度であること、これらは全て「光速度不変の原理」から導き出されたものだ。

 あらゆる慣性系において光速度が不変ということは、慣性系どうしの間に一切の軽重がない、いいかえれば、全ての慣性系がどこまでも平等で、互いに相対的であるということである。

 それはつまり運動体の「絶対速度」を計る「絶対静止系」(たとえばニュートンの「絶対空間」や、それを埋めていると考えられた「不動のエーテル」)などはなく、この宇宙には互いの相対運動、相対速度しかないという相対性原理の哲学を生み出す。こうしてニュートンの絶対哲学はアインシュタインの相対哲学に取って代わられた

 ふつう我々は地球の大地を「絶対静止系」と考え、絶対静止している大地に対して動くものの「絶対速度」を測っていると勘違いする傾向にあるが、それはただの生活習慣にすぎない。そういう地球も我々の銀河系の回りを回転運動し、その銀河系も銀河集団の中でそれぞれの方向へ動いている。

 つまり、我々の宇宙の中に絶対に静止しているものは存在しない。絶対に静止しているものが存在しない限り、「絶対速度」を測る基点となる「絶対静止系」は存在しない。

 そういうわけで、不変の光速度以外、なにもかもが相対的である。どの視座がより正しい視座であるかという基準が完全になくなった。どの視座も誰の視座もそれぞれが正しいことになった。

 とはいっても、全てが曖昧になり混沌になるということではない。相対性理論という客観的法則が支配しており、しかも運動体の時間的連続変化に対応する途切れのない因果関係、つまり物質の「客観的実在性」が存在している。

 物理的実体はちゃんとあり、相対性理論が定める厳密な法則の上で、ただ視角(運動系)によって見え方や物理学的効果が変わるだけである。

(3)量子力学と物質の「客観的実在性」の問題

 ところが、量子力学の登場によって運動体の連続的時間変化というものが、原子のレベルでは成り立たないことが判明した。事物が連続的な時間の関数で表わされるというのが、すなわち因果律であり「客観的実在性」である。言い換えれば、粒子や物体が連続した軌跡を描くということが「客観的実在性」の因果法則的根拠である。

 だが原子核のまわりを「旋回」する電子は、こうした連続的な軌跡を描かない。というより、描くことができないのである。

 電子は外部からエネルギーをもらうと軌道半径のより大きな軌道に跳び移る。つまり軌跡を描いて連続的により大きな軌道に移行していくのではなく、非連続に、瞬間的に、空間や時間を無視して跳び移る。これを「遷移」という。

 こうしたことは日常的な世界、無数の原子で構成されている巨視的物質世界では起こり得ない。巨視的物質は、たとえ一ミクロンのチリであろうと、加速噴射する人工衛星と同じく、より大きな軌道に移るために連続的な軌道を描く。またこれが物質の「客観的実在性」というものである。

 もし人工衛星が電子のような非連続な跳躍をすれば、それはいわゆる超常現象の「テレポート」だろう。そういうことは巨視的物質には本来ありえないようなことなのである。

 電子が、空間的には非連続に、時間的には瞬間的に、他の軌道に「遷移」するのは、そうするほかに方法がないからだ。というのも、エネルギーには最少の単位があって、いわは「粒粒」になっており、比ゆ的に言えば、なだらかなスロープ状でなく、整数の階段のように飛び飛びになっているからである。

 それを「エネルギー量子」というが、一と二との間に整数がないように、ある電子軌道のエネルギーと他の電子軌道のエネルギーとの間には中間の大きさのエネルギー量子が存在しない。つまり連続的な位置変化に見合う連続的なエネルギー状態が存在しない。だから一挙に「遷移」するほかないのである。

 もし粒粒状の最少のエネルギーの単位というものがなければ、無限にエネルギーは分割できるわけで、エネルギーは連続量になりうる。そうすれば階段はなくなり全てがスロープになるから、電子は「遷移」せずに済み、噴射する人工衛星のように連続的な軌跡を描いて別の軌道に乗り移ることができる。

 もしそうであれば、もう量子力学というものも必要でなくなる。だが実際、エネルギーが連続量でなく、粒粒の量子として存在することで、事物の「客観的実在性」とはなにか?という重大な哲学的問題が生じた

 まず電子が非連続に瞬間的に遷移するということは、普通これまで客観的に実在すると考えられてきた物質観と食い違う。その後、粒子が同時に「波」つまり波動でもあるということが、ド・プロイの物質波の発見によって明らかにされた。

 そもそもエネルギー量子というものが存在せずエネルギーが連続量であれば、粒子はどこまでも粒子でありうる。しかし連続量でないため、粒子は連続的軌跡を描くことができず、忽然と遷移する他ないから、そこに位置の曖昧さが生じ、それが振動や軌道運動に固有する周期性を帯びた波動として現れることになる。

 ところで、粒子が波動だとすれば、それは「波」のどこに存在するのだろう? 波動だといっても粒子の物質性が「波」全体に広がっているのではない。「波」のある部分は粒子の存在する確率が大きく、他の部分は小さいという具合になっており、その存在確率の分布のさまが、波のようになっているのである。そういう意味での波動であった。

 ここが大事なポイントである。ボーアやボルンを中心とする「コペンハーゲン解釈」では、その物質波の波動が「存在の波動」ではなく、「存在する確率の波動」だとした。

 ふつう波は水面の波紋にしても音波にしても、ともかく空間に物質的に広がっている「存在の波」である。これがこれまでの物質観であり、素朴実在論といわれるものだ。しかし粒子は「存在の波」でなく「存在確率の波」、さまざまな存在の可能性が重ね合わされた「確率の波」だということになった。

 「存在」というのには客観的実在性がある。それは粒子がある時間にどこかに必ず存在するということの確実性だ。しかし粒子が「存在確率の波」であるというのでは、物質の客観的実在性がどうしても曖昧にならざるをえない。

 ある粒子状態(位置運動量のさまざまな状態)の確率分布はシュレンデインガーの波動方程式の「波束」として表わしうる。これはその粒子の取りうるあらゆる可能な状態の総体、つまり「重ね合わせ」であり、その粒子の全確率分布像を与える。

 粒子の取りうる一つの状態を一つの波と考え、波と波が(粒子とは違って)いくらでも同じ場所に重ね合わせることができるように、あらゆる可能な状態の波を「重ね合わせて」一つの波動として表わしたものが、シュレディンガー方程式で示される「波束」である。だからこの方程式によって粒子のトータルな状態は掴める。どういう形の波束になっているかは分かる。

たとえば原子内における電子軌道の形が球形分布のS軌道、アレイ型分布のP軌道、二つのアレイ型が様々な角度で交差する分布形のD軌道などがそうだ。結晶の中で電子がどういう方向に動くかを見るとき、これらの形がお互いに次々と重なり合う経路で判定する。

 しかしある瞬間の粒子の状態(位置と運動量)は、もともと存在としてあるのでなく確率(可能性)としてあるだけだから、原理的に予測できない。測定してみてはじめて、その可能性の中の一つが排他的に決まるのである。つまり測定によってあらゆる可能性の「重ね合わせ」の波束は忽然と消えて、一つの状態だけが決まる。これを「波束の収縮」と呼んでいる。

(4)量子論理と「意識」との間の類似性

 注意すべきことに、測定結果からもとの状態を復元することは原理的に不可能だ。なぜなら遷移的収縮の結果は連続的状態変化の結果とは違って、絶対に逆算しようがないからである。

 たとえばサイコロをころがすとどの目が出るか予想できず確率しかいえないが、しかしこうした巨視的物質の場合、無数の因子の連続的変化によるものだから、たとえ人間には計算できないにしても、原理的には逆算可能だ。初期条件と境界条件が全て分かれば、どの目が出るか分かる性質のものである。

 ところが粒子の場合、そもそもの「波束」そのものがあらゆる可能性のバラバラな「重ね合わせ」なので、測定によって出る結果は本質的に決して(サイコロのようには)逆算できないもので、むしろ原理的に測定によって、非連続に偶然に、選び出されるのである。サイコロの場合は「見かけの偶然」だが、粒子の場合は「原理的な偶然」だ。「存在論的な偶然」といってもいい。

 したがって測定によって粒子の状態は「本質的に」影響される。例えていえば、測定によって対象が影響を受け、測定の度に犬になったり猫になったりするようなことになるわけだ。これではどうみても「客観的実在」とはいえない。「客観的」というのは外部からの観測行為によっては本質的に変わらない性質をいうからである。

水素原子内の電子の確率分布像 さらにいうと、たとえば粒子の位置の測定によってあらゆる位置の可能性の「重ね合わせ」である「波束」のうちの一つの位置が排他的に決まり、ある一つの場所に粒子が現れるとすると、あらゆる位置に広く広がっていたその「波束」は瞬時に収縮して忽然と消え、他の全ての場所の存在確率はただちにゼロになる。

 位置の確率(可能性)が宇宙の果てまで広がっていたとしても、一つの場所に粒子として現れると、宇宙の果てまで伸びていた「波束」は、その全域で、同時瞬間的に、光速の限界を無視して無時間的・無空間的に消滅する。

 これは「ベルの定理」で証明されている。こういうことが起こるのも粒子が「存在確率の波」だからで、普通の「存在の波」では、これは決して起こりえないことである。


 存在確率波という粒子の一面は、人類がこれまでいだいてきた素朴な物質観ではとうてい捉えきれない。それは今まで考えられてきた物質というものを離れて、いわば「非物質化」している。

 それがただちに感覚・意識・心・観念と結びつくわけではないにしても、連続的因果性のない突然の「遷移」とか、存在確率波の無時間的・無空間的な共鳴などは、中枢神経系動物一般、とりわけ人間の心の性質や能力に実によく似ている。

 物理世界には他にこれほど似ているものはないので、これはきっと意識や心のメカニズムと関係がある。実は脳(物質)からその機能として「非連続的に」「遷移的に」あらわれた新たな弁証法的実在階層としての心(精神)の根源に、深く関係しているといえるのである。

 量子生物学者たちはニューロンにおけるパルス電圧による情報伝達は無数のミクロな情報伝達の統計的結果(マクロな結果)が担っているので、一つ一つのミクロな量子力学的効果は消滅するとして、たとえば、「ペンローズの量子脳理論で言う神経細胞内の微小管に働く量子力学的効果には学問的根拠がない」と一蹴する。

 だが、2006年12月13日の太陽フレアのデータから、放射性元素の崩壊確率が太陽フレアによって影響されると判明した。太陽フレアが強いほど崩壊確率が大きくなるのである。いかなる環境にもかかわらず放射性元素の量子力学的崩壊確率は不変であるというこれまでの常識が覆った。マクロな環境によってミクロな量子現象が影響を受けるのである。

 粒子が波動でもあるということを示す代表的な量子力学的実験である二つの平行なスリット実験(二重スリット実験 後述)も、それとそっくりな現象がマクロな世界で発見された。イヴ・クデー(パリ第7大学)は振動する液面にシリコンの滴を2つ落として浮かせ、平行する二重スリットを通過させ、上記の二重スリット実験と同じ結果を得た。

 これらは量子力学的現象がミクロ世界に局限されたものでないことを示唆するものであって、ミクロとマクロは様々に相関しており、その結果、何らかの量子脳理論もまた成立可能であることを示していると言えよう。

 最近になって地磁気を利用して渡り鳥が方向を感知するマクロな現象にミクロの量子力学が働いていることが判明した。渡り鳥の網膜にある青色光に反応する「クリプトクロム」タンパク質の内部で電子対が青色光を受けて二つの電子に分離し一つのラジカル対を作り出すが、このラジカル対がその量子力学的性質により非常に微弱な地球磁場にも敏感に反応する微小な磁石となって渡り鳥に方向を示すのである。

 むろんそこに無数の微小な磁石の加算効果が存在するわけだが、それは統計によってまるで性質が異なってしまう確率的な量子統計とは違う。これはミクロな量子力学がマクロな現象に直接影響している最初の例だといえよう。量子の微視的現象と日常世界の巨視的現象の間をつなぐミッシングリンクがついに発見されたわけである。

 さらに2019年6月14日の公表によれば理研・東大・東北大学などのグループは「ミクロな量子力学からマクロな機械運動を生み出した」として、電子スピン流によるYIG製のカンチレバー操作を実証した。これも単なる単純加算効果であって確率的な量子統計効果とは違う。

 したがってペンローズの量子脳理論はある意味でなんらかの根拠を得たと言えるだろう。むろんニューロンにおけるこのような量子現象はペンローズの指摘する微小管だけでなくシナプスを含む神経細胞の至る所で起きている筈である。その総合的結果として(何らかの物質や場などではなく、脳の機能として)意識が生み出されているのであろう。

 そもそも上記したシュレディンガー方程式の「波束の収縮」でみたように、量子状態は観察や測定という意識活動によっても決まるという現実がある。これはつまり量子現象と意識活動との深いつながりを示唆している。意識が量子状態を決めるのであれば、それは両者に相互作用が働いているということであり、すなわち量子状態が意識出現に関わっているという示唆となる。


 それはさておき、粒子が無数個集まった巨視的物理世界(たとえばチリ一つにも何千兆個以上の粒子がある)では、用いられるエネルギーが原子の世界と比べて無限といっていいほど大きいので、エネルギー量子の粒粒効果は統計的に均されて、ほとんど全く消滅してしまう。粒粒も小さいものには粒粒だが、非常に大きいものにとってはツルツルになるわけだ。

 つまり、

(1)遷移
(2)重ね合わせの確率の波
(3)測定による対象の状態変化

 などというものは、ほとんど絶対といっていいほど起こらない。その「絶対性」が物質運動の時間的・空間的連続性であり、すなわち物質の「客観的実在性」である。

 だから、普通の巨視的物質は、たとえ風に舞うチリでも「位置」がはっきりしており、確率的に存在しているわけではない。ちゃんとした「客観的実在」である。

(5)測定による対象粒子の本質的に不可避的な状態変化

 粒子やその集合体としての物体の運動は、結局のところ「位置」と「運動量」の二つで決まる。運動体はある瞬間をとれば、ある「位置」にいて、ある「運動量」を持つ。すなわち、ある「位置」で、ある「方向」を、ある「速さ」で動いている。

 運動体の状態は基本的には「位置」と「運動量」の二つに全て含まれているといっていい。運動体には「位置のない運動量」も「運動量のない位置」もありえない。運動体はこの二つを同時に持っており、この二つが同時に決まれば全て決まる。言い換えればその物質の「客観的実在性」とはその二つが同時に決まって連続的な軌跡を描くことなのである。

 それは、運動体の位置と運動量の変化が時間における連続量として、(風に舞う木の葉の軌跡と同じく)、一つの連続した軌跡で表わされるということであり、つまり必然的因果関係を構成するからだ。その連続的軌跡は運動体の位置と運動量に関する「時間の連続関数」として記述できる。

 「エネルギー量子」はプランク定数「h」(6.626×10ー34 J・S)に振動数を掛けたもので、定数「h」がエネルギーを量子化、つまり粒粒にさせる。「h」の値は見ての通り非常に小さいものである。「h」の単位のJ・S は「ジュール×秒」のことで、要するに「エネルギー×時間」のことだ。これを「位置(距離)×運動量」としてもブランク定数の単位は変わらない

 ここからハイゼンベルグの「不確定性原理」が生まれた。つまり「位置×運動量」が最少のところで「h」という定数になるので、測定器の中で粒子の位置が正確になり数値が小さくなればなるほど、この粒子の持つ運動量の誤差値、つまり速度(速さと方向)の誤差値が大きくなり曖昧になる。逆も真なりで、片方を精密化すると、もう片方はそれだけ不確定になる、とされた。また「エネルギー×時間」の単位で見れば、非常に短い時間の間であれば、それだけ多くエネルギーを使って良いともいえるわけで、中間子のやり取りで核力を説明する湯川秀樹の中間子理論もここから生まれた。


 (追加挿入の註)

2012年1月16日の新聞報道によれば、名古屋大学の小澤正直教授がハイゼンベルグの「不確定性原理」の方程式を修正し、条件次第では位置と運動量を同時に測定できることを示した。小澤式は、凾燥凾吹{σ凾吹{σ≧h/4π である。凾燥凾吹h/4π の部分がもとのハイゼンベルグ式で、太字の部分が小澤教授による追加修正項だ。は位置のズレ、は運動量のズレ、σは測定前の位置の量子力学的なズレ、σは測定前の運動量の量子力学的なズレで、σ凾吹{σは測定する側と測定される側の関係を表す。これによればたとえ位置のズレ(凾早jがゼロであっても、σ項は残り、式はゼロにならない。つまりある位置での運動量が正確に分かるわけである。ハイゼンベルグ式では位置のズレがゼロに近づいていくと運動量の誤差はいわば双曲線風に増大して、ズレゼロでついに無限発散してしまうが、実際の測定ではそうはならない。確かに位置のズレが小さくなると運動量の誤差はだんだん大きくなってはいくけれども、小澤式が示すように、位置のズレがゼロに近づいていくに従って、運動量は、いわば投石が最高点に到るように放物線風に収束して、位置のズレゼロでついに有限値に収まる。
しかしこれは測定対象となる粒子が本質的に量子的な揺らぎや不確定性の中にあるというそのこと自体を否定するものではない。測定によってシュレディンガー波束が収縮し、無限の可能性や不確定性や揺らぎの中の一つが選択・確定・固定されたというに過ぎない。依然として粒子の量子飛躍は存在するし、位置も運動量も飛び飛びの値であり、決して通常の運動体のような連続的な軌跡を描くことはない。そのため(後述するように)測定によって対象の量子状態が本質的に変化する点に変わりはない。その結果、「客観的実在」の「客観性」に問題が生じてくる。これもエネルギー量子が存在するためだ。


 粒子の量子現象としては、(後述するように)粒子を粒子として測定すると、波動は測定器から消え、波動として測定すると、粒子が測定器から消えるというほかにも、次のような性質がある。

(1)遷移
(2)存在の確率の重ね合わせとしての波
(3)測定による粒子の本質的に不可避的な状態変化
(4)粒子と波動の排他的重ね合わせ

 これらの量子力学的性質、なかでもとくに(3)の「測定による粒子状態の本質的に不可避的な変化」のために、これまで「客観的実在」と信じられてきたものが、「客観的」とも「実在」ともいえないようなものになった。こういう微視的粒子で構成されている私たちの巨視的世界は果たして「客観的」に「実在」しているのかどうか? ここに量子力学が提起した最も根元的な哲学的問題がある。

 フォン・ノイマンやE・ウィグナーなどは、巨視的世界が微視的粒子から成り立っている以上、微視的量子論理は巨視的世界にも適用できるとする。すると測定によって粒子状態が決められるように、測定によって物質宇宙のあり方も決められる。すなわち人間の測定がこの物質宇宙をあらしめているという、とんでもないような結論になる。

(6)「不幸な猫」の思考実験

 このような結論を避ける道は、微視系と巨視系の質的差異を示すところにしかない。現実の世界では、見たところ粒子の状態測定で物質宇宙全体になんら変化が起きていない。したがって微視系の論理と巨視系の論理とは違う。こういうことを示そうとして、E・シュレディンガーは有名な「不幸な猫の思考実験」を提起した。

不幸な猫の思考実験の図 左に掲げた図(並木美喜雄著『量子力学入門』から)のように、左側に、或る放射性元素と、(その崩壊による放射線に感応して信号を出す)検知器の入った箱がある。その右側に、毒ガス容器信号で作動する破壊装置等の入っている箱がある。信号は検知器のある箱から猫のいる別の箱へ電線を通して伝えられる。

 放射性同位元素の原子核には二つのエネルギー状態があって、高いエネルギー状態から低いそれに移るとき放射線が出るものとする。もちろん崩壊は量子的遷移だから完全に偶然の確率による。一時間以内に崩壊する確率は50パーセントだとしよう。するとそのあいだ、その確率で、崩壊と非崩壊の「重ね合わせ」の状態が本質的な意味でそこにあることになる。

 もし微視系の論理がそのまま巨視系にまで拡張できるものなら、猫は「生きている状態」と「死んでいる状態」の重なった半々の状態にいることになる。実際にはこういうとんでもない状態はありえないから、微視系の論理が巨視系にまで拡張されることは許されない。これがシュレディンガーの主張であった。

 実際、量子論理が目立つのは「h」の粒粒効果の現れる微視系だけであり、無数の粒子の集合体である巨視系では、「h」のこのようなとんでもない効果は消滅する。こうした効果を「量子統計効果」という。集合体を構成する無数の粒子の量子状態を統計すると、微視的量子効果が消滅するのである。ある粒子のあらゆる可能な状態を総計したシュレディンガーの「波束」も、こうした統計的な定常性を保っている。

 ノイマンとウィグナーは、測定によって粒子状態や物質宇宙が決められるとした。測定は人間の脳を通して「意識」が行なう。だから非物質的な「抽象的自我」が測定してはじめて測定が成立するとする。この「抽象的自我」が粒子状態と宇宙の全ての有り様を決めているとするわけである。壮大な独我論だといえよう。

 これはあのパークリーの独我論の物理学版だ。なぜなら「抽象的自我」はさしあたり誰かある個人の自我であり、その自我が粒子状態や他人の存在や宇宙のあり方を決めているからである。「不幸な猫の思考実験」では、「抽象的自我」である「或る人間」Aが観測・測定してはじめて、その測定した瞬間に、「生きている猫」と「死んでいる猫」の重ね合わせの状態(波束)が収縮して、どちらかに決まるということになる。

 ウィグナー自身がさらに問題提起しているように、「抽象的自我」が介在する論理では、「或る人間」Aが測定して初めてどちらかに決まるとは一意に断言できない。もしその「或る人間」Aを観測・測定している「或る人間」Bがいれば、その「或る人間」Bまで含めないことには観測・測定が完了せず、これはC・D・E……と入れ子式に無限後退的に続くことになる。

 そしてついには彼ら自身は認めたがらない最終観測者・測定者として、究極の「抽象的自我」なる「神そのもの」へ行き着かなくてはならないことになる。

 だが測定というのはそもそも測定器がなくては成立しない。微視的世界を測定するには検知器が必要だ。検知器は必ず巨視的物体である。とするなら、巨視的検知器を通してしか微視的世界は測定できない。だから「不幸な猫の思考実験」の場合、測定は検知器の検知の段階で終わっている。

 そういうわけで「抽象的自我」など必要でない。物理的に測定器の役割をするものさえあれば、人間の意識があろうとなかろうと、測定における波束の収縮が起きて粒子状態が決まるということである。

遅延選択実験の模式図                                                                           
 こういう考え方に対して、ノイマンとウィグナ一の陣営に属するJ・ホィーラーは有名な「遅延選択の思考実験」を提起して反論している。詳細は左図の通り(並木美喜雄著『量子力学入門』から)である。

 斜線のある丸いのが半透明鏡である。これはは光子を透過光と反射光の二つに分ける。一個の光子でも波動だから二つの分波に分けることができる。透過光では光子の位相(波の山と谷の位置)は変わらないが、反射光では90度位相が変わる。位相は180度で正反対になり360度で元に戻る。丸のない太い斜線は完全反射鏡で、完全反射光の位相は変わらない。そういう物理になっている。

 上の観測器の場合、A 経路の分波は位相を変えずに検出器 D に入る。 B 経路の分波は90度位相を変えて検出器DBに入る。一個の量子力学的粒子は二個以上の粒子検出器に検出されることはないから、二つの分波に分かれても結局どちらか一方の検出器に検出される。どちらでもいい。それは遷移に任せられている。これは光子の「粒子性」の観測器である。

 下の方の観測器にはもう一つの半透明鏡 Mを両経路の最後の交点に置いた。これを取り除けば上の「粒子性」観測器になる。M を置くとどうなるか? DA に入る光子は位相変化のないA 経路の分波と、位相が180度(90度+90度)逆転した分波の合成波で、両分波は山と谷、谷と山がちょうど互いに打ち消し合って消滅する。だからDA は何も検出しない。DBに入る光子の場合、両分波とも90度位相がずれた全く同位相の光子の合成波で、波の性格は強められて検出される。これは「波動性」の観測器である。

 光子を粒子として観測するか波動として観測するかは、完全にMの出し入れを決定する観測者の自由意思による。Mの出し入れはいつでもできるし、いくらでも遅らせることができる。MとMの距離を無限大に引き伸ばせばいい。

 一番下の図にあるように重い天体の重力レンズ効果を使うと、一億年前に発せられた光子が二つの分波に分かれて地球に到達し、地球上では観測者が自分の自由意志でMの出し入れをして、一億年前の発せられた光子の粒子性や波動性を決定できる。それ時まで光子は単なる「確率の波」にすぎず「実在」ではない。

 ホィーラーのこの遅延選択の思考実験は研究室の規模では1986年ごろにアメリカとドイツで実験的に確証された。ずっと昔に発せられた光子の粒子か波動かをMの出し入れで人間が自由に決定できる。これは確かな事実である。

 ホィーラーは遅延選択実験を宇宙大に拡大して、人間が観測するまでは今のあり方の宇宙は存在しない、つまり観測されているこの物質宇宙は人間が観測することによって存在していると結論する。



(追加挿入文 2012・1・24)

 さらに二つの平行なスリットを光子が通過する実験もある。光子を一つ一つ次々と両スリット方向へ照射して その後ろのスクリーンに感光させると、つもり積もって波の縦じま干渉縞になるが、両スリットにそれぞれ縦と横の偏光板を置いてどちらのスリットを光子が通過したかの確認を取ると、干渉縞は消えて粒子が通過したかのような結果になる。そのスリットの後ろにさらに45度の角度で偏光板を置いてどちらのスリットを通過したか分からないように偏光を揃えてしまうと、また波の縦縞の干渉縞が現れる。これはあたかも第二の偏光板に当たったとたんに第一のスリットに戻って干渉をやり直した格好だ。

 こうしたことは上のような遅延選択実験にも拡張できる。たとえば量子対である二つの光子のペアをたくさん作り、次々とペアの片方の光子をまずスクリーンに当てた上で、もう片方の経路を(気まぐれに)検査したりしなかったりすると、検査しなかった方の対側で作るスクリーン上の模様は干渉縞になり、検査した方はそうはならない。片方を調べたのは、最初の片方がすでにスクリーンに当たった後なのに、あたかも未来が過去を変えるかのような結果になっている。

 そこで名古屋大学の谷村省吾教授は、ホィーラー同様、光子が波になるか粒子になるかは、光子が観測器に捉えられたときではなく、それよりずっと後、「人間がいるマクロな世界で結果が確認されたとき」と考え、それまでは光子の過去は変更可能だとする。(日経サイエンス2012年3月号)

(7)H・エバレットの「無限分岐宇宙論」

 私たちはそう考えない。観測装置の役割を果たすものがあれば、人間の存在の有無にかかわらず波束は収縮して「重ね合わせ」の中の一つが決定されて具現するとするのである。たとえば光子が縦横の偏光板を通過してまた45度の偏光板を通過すると再び波の干渉縞を作るのは、人間が観察や測定しなくてもそうなる。

 
それにしても一体彼らのいう「抽象的自我」とは何なのだろう? それは大脳の機能である人間の心のことではないか。もし大脳という物質的観測器が観測不能とするなら、観測可能なその「抽象的j自我」なるものは一体どこから来たものなのか? 物質を遥かに超えた「抽象的自我」は「神そのものから来た」、とでもいわない限り到底理解できない代物だろう。

 だから、もしどうしても「神はいない」というのであれば、人間の「抽象的自我」ではなく、自然界のどこにもある巨視的物質の観測器がシュレディンガーの波束を収縮させる、というしかない。

 ホィーラーの場合のように、人間の自由意志で観測装置のMを出し入れすることでも、それができる。だが、天体の重力レンズを使って宇宙大に拡大しても、観測されるものは基本的には一つ二つの粒子状態にすぎない。一つ二つの粒子状態がどう決まったからといって、全宇宙がどうのこうのというのは筋違いだ。宇宙の観測されない部分の方が圧倒的に多く、観測されなくても宇宙はこのようなものとして実在する。

 実際に原子は「重ね合わせ」の状態のままシュレディンガー方程式の示す確率分布に従って実在し、化学結合一般を可能にしている。なにも測定で粒子か波動かを決めなくても、つまり波束が収縮して具現しなくても、客観的に「重ね合わせ」の状態でちゃんと機能し、物質宇宙をこのようなものとして実在させているのである。たとえばS軌道やP軌道やD軌道といった原子内の電子軌道の確率分布はシュレディンガー方程式で球形・アレイ形などと表すことができるが、それはその形のままで結晶内の電子の流れの方向を決めている。

 実験室や宇宙大の規模で一つ二つの粒子状態が決まったとしても、宇宙の大勢に与える影響はゼロなのだ。この「ゼロ」性が物質宇宙の「客観的実在性」の保証になる。

 しかし粒子にもなりえ、かつ波動にもなりえた筈の粒子が、測定器(人間の有無に関わらない測定装置)によって片方に遷移してどちらかに具現すると、もう一つの可能性の方は一体どうなってしまうのだろう? 

 量子力学的遷移は本質的に非連続だから、他の可能性が実現される場合も当然あった筈なのである。これはサイコロの場合とはわけが違う。サイコロの目は初期条件と境界条件さえ分かれば一意に決まる連続性がある。だから非連続に遷移する粒子の場合、他の可能性が実現してもいいのである。これらの可能性はいったいどこへ消えてしまうのか?

 「平行宇宙」の実体験から得た私の考えでは、宇宙はそこにおける全粒子のそれぞれが取りうるあらゆる可能な粒子状態の重合体(重ね合わせ)として客観的に実在する。

 その場合、生物の感覚器や自然の中のなにげない無数の測定器によって波束の収縮が起こり、一つの可能性が排他的に実現すると、それと同時に、この宇宙ではこの収縮が、あの宇宙ではあの収縮が、というように、全ての波束のそれぞれのあらゆる可能な収縮が、色々な宇宙で一斉に起きているのである。

 つまり宇宙はその度に無数の宇宙に分岐する。だから過去を同じくする無数の並行宇宙が実在するわけだ。

 ホィーラーが自由意志で光子の粒子性を選択したとたんに、彼は粒子として波束が収縮した宇宙に投げ込まれる。波動として収縮した宇宙は、もちろんこちらからは見えない状態でこの宇宙の向こうに並行して実在するが、それはその宇宙のホィーラーが自由意志で波動を選択して投げ込まれた宇宙として実在する。

 つまりいつも自由意志の選択肢の数ほど、いやそれ以上に多くの可能な宇宙が準備されているということなのだ。したがってH・エパレットの主張する「多重分岐宇宙論」がほぼ正しいのである。

 物質宇宙の「客観的実在性」は次の(1)から(3)までのようにこれまでとは違ったかたちで成立する。

(1)測定機能があれば人間がいようといまいと測定が行なわれる。宇宙の中には自然の測定装置が無数にあり、そこで絶えず波束の収縮が起き、不断に粒子の状態が決まっている。そしてそれぞれの可能性の数ほど分岐した宇宙でそれぞれの可能性が具現して無数の並行宇宙を創成している。

(2)それぞれの宇宙では測定によって当面する一つや二つの粒子の状態が決められるだけで、宇宙の大勢に与える影響はゼロである。また測定によってそれが決められないと物理的に機能しないのかというとそうではなく、ちゃんと機能して私たちの物理宇宙をこのようなものとして実在させている。

(3)人間はいつも絶えず他のところで分岐した宇宙のどれかに投げ込まれており、自分の自由意志による選択で行なわれた測定においても、その選択によって実現した可能性の方の宇宙に投げ込まれる。

 さて、エバレットの「無限分岐宇宙論」では、何もしなくても粒子の持つあらゆる可能性が全ての瞬間にそれぞれの「平行宇宙」で実現している。だから、そこでは「観測」「意識」「波束の収縮」も全く不要だ。

 したがって、もしエバレットの考えが正しければ、波束・観測・収縮などの術語を使って従来の論議をたどり、それらの言葉で整理した上の(1)(2)(3)のような表現は全く不必要かもしれない。これはエバレットの考えを、これまでの文章の展開に従い、従来の言葉で表現し直したものにすぎないともいえるからである。

 無限に分岐する宇宙はほんの些細なことで生成するが、だからといって人間の観測で何か大きく巨視的に変わるようなものではない。ほんの些細なことで生成するこれらの宇宙には、その都度、ほんの些細な微視的変化しか起きていない。だから、無限分岐によって生成する無数の「平行宇宙」の間には、ほんの微視的相違しか存在しない。

 ともかくこうして自律物質の自動→自変→自活→自主、という弁証法的階層構造の宇宙が客観的実在として存在するわけである。そして巨視的物理レベルの世界では、やはりほぼ一意に決まる因果的連続性という「客観的実在性」が存在する。

 かりに宇宙のどこかでそれが無限小の確率で破れることがあっても、計算上、全宇宙の規模において一ミクロンのチリ一つを百万年に一度地球から月に瞬間移動(遷移)させる程度の確率が関の山だ。そんなことでは巨視的宇宙の必然性はびくともしない。むしろ量子論理がどうのこうのと騒ぐ人間の社会的行動の方から宇宙により大きな影響が及ぶことだろう。

 それはいわば線形的に単純な力学的階層の論理より、非線形的に複雑な人間学的階層の論理の方が、宇宙に与える影響力が断然大きくなるということである。単純な力学的階層から離れて、生物学的→動物学的→人間学的というように、より一層複雑な非線形的階層へと高まるにつれ、物質の主体性が強められ、宇宙に対する影響力が増してくる。

(8)プランク定数()と心

 ところで、もしこの世界にプランク定数「h」が存在しなければどういう世界が展開されるのだろう? それは巨視的論理を微視的世界にまで押し広げることである。この場合、ニュートン力学的な意味での巨視的な力学的機械論や因果的必然論、すなわち隙間のない時間の力学的連続関数が物質宇宙の全てに適用される。微視的世界も単なる精密機械にすぎなくなるわけである。

 するとこの世界には一般に「非連続」や「質的飛躍」は存在しなくなるだろう。だから自然の階層性も消滅する。因果性は自然の各階層でそれぞれ違った法則のもとにあるが、それらは全て解消されて力学的機械論の因果的必然性に還元されてしまう。

 それはたとえば途中にトランジスターやシナプスのある導線を、それらのない単なる電線にするようなものである。導線にトランジスターがあればこそ機械に高度な計算能力が生じ、シナプスがあればこそ生命に高度な精神活動が可能なのである。導線におけるトランジスターやシナプスは一種の「非連続性」なのだ。

 事実を見れば、こういう連続的な因果的必然性は、より高い自然の階層で「非連続的因果性」へと止揚されている。階層が高度化するにつれてますます機械的な連続的必然性の傾向が弱まり、それぞれの階層で各々の「物質の主体性を許す因果法則」が実現されていくのである。

 因果法則と必然性とは違う。切れ目や隙間のない連続的な力学的必然性がなくても、因果法則は存在する。力学的階層とは別の階層には、たとえば生命の論理や意識の論理などのように、それぞれの階層に固有するそれぞれの「非連続的な因果法則」がある。それを可能にしているのは、実は「h」であったということである。この世界に化学物質や生命や意識というものがありうるのも、突き詰めて考えてみれば「h」のあるおかげなのだ。

 すると、まず根底に「h」の力学の作用する粒子レベルの階層があり、次にそれらの粒子が無数個集まって構成されるニュートン力学的な普通の機械論的物体の階層がある。その物体はいつも同時に化学的物質でもあるから、そこに「h」とニュートン的な機械論的力学が同時に作用する化学的世界がある。

 その非連続な「h」効果は、巨視的レベルにおいても自然の階層が高まるにしたがって、生物(生命)→ 動物(脳・神経系の本能)→人間(思惟)とだんだんより強く主体的なかたちで現れてきて、このように意識や心や精神を生み出すまでになる。

 しかしそうはいっても、「h」が微視系と巨視系のどこにでも強く現れるのでは巨視的世界が不安定になる。巨視系では「h」の粒粒効果は全くなくなるわけではないが無限に小さくなり、いわば奥にしまわれる。そうしながら巨視的世界の質的な客観的多様性を土台の方から支えているのである。

 ノイマンやウィグナーにとってずっしりした巨視的物質の「客観的実在性」は、彼らの「抽象的自我」や「意識」に対する抵抗となり、邪魔ものになる。つまり物質の客観的実在性は「自由」な自我意識を阻むものと考えられている。ここでは「自由」とは自我意識によって客観的物質宇宙が構成され、創り出されることなのだ。

 だから微視系の量子論理を巨視系にまで無節操に拡張し、「人間の抽象的自我が測定してはじめて測定そのものが可能になり、その測定によってそれらの量子力学的諸可能性が物質的に具現され、そうしてこの物質宇宙が存在する」と主張するのである。したがって、これは実はそもそも自由論の問題であったということだ。

 彼らは全て独我論者である。その背後には「自由」を許さない古いニュートン的な機械論的・力学的自然観が隠れている。そうした自然観があるかぎり、彼らの「自由」は物質宇宙の客観的実在性を否定して「独我論」の上に求められる他はない。

  物質性客観性実在性普遍性必然性不自由

 これが彼らの図式である。だから彼らは存在における究極的な「自由」の根拠を求めて、「h」の世界、確率的偶然や非連続な瞬間的遷移の世界、波動の量子論理の世界を絶対化しようとする。それを絶対化したとたんに巨視系の安定性が破れ、次の瞬間、彼らは「遷移」して月や火星にいるかもしれないことすら厭わない。だが、そういうことが起こらないことを彼らも重々承知しているのである。

 自然の弁証法的階層構造の土台は「h」にある。質的飛躍の根には非連続な「h」が横たわっている。生命にも意識にも実は「h」が働いている。だが「h」が絶対化されると脳の安定性は崩壊し、「感覚の鏡」も「理性の鏡」も壊される。「h」は機能しなければならないが、ほどほどに機能する必要がある。微視系主義でも巨視系主義でもいけない。両方の要素を止揚して一段高いところで統一すること、これが存在の弁証法であろう。

 「心」は非物質的な抽象能力を持っている。それは脳の機能ではあるが、量子論的波動のようにいくらでも「重ね合わせる」ことができ、時空を超えて、非連続に、非因果的に、瞬間的に、全くの確率的な偶然によって「遷移」することができる。心のこうした能力は「h」に根差したものなのである。

(9)エックルスの「サイコン」説

 生命はそのDNAの形態に見られるように自己反復的なループの中に自己性を形成している。自己性とは自己自身に帰ること、すなわち自己目的性のことだ。これが生命における主体性の根拠である。いわゆる「目的」なるものは、このような自己性があってこそはじめて成立する。そしてそれと同時に、事柄の「意味」も生成する。

 単なる物理・化学現象が自己目的なる生命の主体性によって「意味」づけられると「情報」になる。「意味」は生命の主体が物理・化学現象に付加するものであり、それは生命の自己目的性、つまり生命の維持と増殖という目的から与えられるのである。

 情報系の細胞である神経細胞は、感覚器を通して、外界の物理・化学現象などをパルス状になった活動電位の電気信号に変える。パルスの時系列のパターンが、それを受け取る神経細胞の主体によって処理され媒介されて「情報」になる。

 自己目的に沿って情報処理する主体というものがなければ、物理・化学的パターンは「意味」を与えられず「情報」になることもない。この主体は物質と機能との弁証法的な統一体であり、生きている神経細胞の自己性の発現である。

 神経細胞レベルの自己性は無数の神経細胞の軸索や樹状突起による広大なネットワークの上に移され、一つの量子力学的共鳴状態にある「連合的自己」、「連合的主体性」を構成する。連合が可能なのも一つひとつの神経細胞の自己性(DNA)が同一だからである。

 連合的主体は神経細胞における自己性の発展形態としてその可能性の実現であり、その目的の具現された上部構造、上位階層である。それは高次な段階の自己となり、自己目的性の影響力、すなわち主体性の度合いが一層強められる。

 機械論的独我論者にとって、主体性とは物質宇宙を創り出す量子力学的自己意識の自由のことにほかならず、その場合、たとえばJ・C・エックルスが『脳の進化』(伊藤訳)の中で述べているように、心とは量子力学的偶然性や確率の場となる。その物理学的な確率の場が、そのまま心の単位である「サイコン」とされる。

 エックルスは神経軸索の終端にある「シナプス小胞」と呼ばれる小胞が量子効果を十分期待できるほど微少だと想定し、その量子力学的小胞をそのまま心の単位の「サイコン」としている。他のある神経生理学者は、軸索の微少繊維に量子効果が働いて心が創り出されるとしているが、その論理はエックルスとほぼ同じである。

 シナプス小胞という物質がそのまま心の単位である筈がない。ここでは量子論的遷移を利用して、あたかもピュタゴラスが次元数から物体を引き出し、ホーキングが虚数宇宙から実数宇宙を取り出したように、物質から心をそのまま引き出している。しかし量子論理がいくら遷移を許すとしても、こういうことは起こらない。これは物質とその機能を混同するものである。

 つまり物質の機能(心)であるものを一つの物質(場)として実体化させている。確かに心は大脳の機能であると同時に、大脳に還元できない一つの独自な実在階層を形成してはいる。しかしその場合でも決して物質としての心なのではない。

 これは霊魂が「霊子」という粒子の集合体だという類の妄説と同じである。量子力学的遷移による心の実体化(物質化)だ。

 心は物質ではない。電磁場でも量子場でもない。あるものの機能を物質的実体と混同するのは、かつて「フロギストン」(燃素)や「熱素」という仮想実体を想定して燃焼や熱現象を説明しようとしたときにも現れた。

 「サイコン」は、単なる分子のランダムな運動や化学反応という物質の機能にすぎないものに「熱素」や「燃素」という架空の物質を想定して実体化したのと同様の誤りである。

 エックルスはシナプス小胞の量子論的確率の場そのものが心の次元の「サイコン」だとし、そのファジーな場が心だとした。ここには「心の主体」がない。「心がある」ということは「意識がある」ということである。意識があるためには、「意識する主体」がまずあらねばならない。

 「意識する主体」は自己意識であって、自己自身を互いに映し合う「感覚の鏡」と「理性の鏡」の間の閉じた情報交換のループなのだ。この二つの鏡の向こうにはDNAの二重ラセンという二つの鏡が存在する。

 すなわちDNAの相互鏡像的自己性はその細胞の自己性であり、その細胞によって形作られる組織・器官・生体の自己性となる。つまり器官としての大脳の自己性ともなるわけである。

 大脳は情報系細胞(ニューロン)の集合体として情報を組織体系的にやりとりするが、
その情報のやりとりに大脳の自己性が関与すると、大脳の自己性はおのずと情報化して「自我」となり「意識」(自己意識)となる

 この自己の意識は大脳を持つ一般動物においてはまだまだ隠れているが、進化の進んだ人間においては顕在化していて、感覚と思惟の意識的な主体となっている。

 DNAの自己性→神経細胞群の連合的なネットワークの自主性→「感覚の鏡」と「理性の鏡」における自己意識、この流れの中で、量子力学的に共鳴する無数の神経軸索や樹状突起によるネットワークが築かれ、進化し、より高次な自己性と主体性を実現していく。

 そこに強くもなく弱くもなくちょうど適度に「h」が神妙に働いている。意識はその巨視系からは定常的な安定性を、微視系からは非連続な飛躍性を与えられる。それにともなって、「自由」も自分勝手な独我論的自由でなく、個性を活かせるしっかりした巨視的土台のある自由となる。

(10)「カオス」

 生命や意識を理解するには以上の量子力学的因子をどうしても欠かすことはできないが、それだけでは巨視系そのものの階層進化のメカニズムに関する説明がやはりおろそかになる。生命や意識(脳)には非線形力学として最近注目を集めている「カオス力学の論理」がどうもどこかで働いているようだ。

 むろん自己宣伝とは違い、「カオス力学」だけでは到底、生命を説明できないし、意識も解明不可能だ。カオス力学に量子論理を加えても、生命や意識の実証レベルには遠く及ばない。それにもかかわらず「カオス」は生命を理解する一助として必要不可欠の因子である。

 「カオス」(混沌)といっても「デタラメ」のことではない。デタラメであれば、到底「生きた秩序」としての生命や意識を捉えるための論理にはならない。

 「カオス」の定義は「自由」の定義と同様、本来的な困難が伴う。「自由」はあらゆる定義からの自由でもあるし、カオスは自分が定義されることをカオス(混沌)によって抵抗するからである。実際いまだ「カオス」の厳密な定義は存在しない。だが「自由」についてなんとか明らかにできたように、「カオス」についても輪郭は掴むことができる。

 カオス力学でいわれる「カオス」とは「決定論的カオス」のことだ。それは一つあるいは幾つかの非線形方程式で表わしうる現象を記述しようとするもので、その方程式に数値を代入すれば一意に解の値が決まるから「決定論的」である。

 だが、代入する初期値のごく微少な誤差が瞬く間に巨大な誤差になり、時の経過とともに、ますます複雑・不規則・非周期・不安定な振舞をして、その先が全く予測できない点では「カオス」なのである。

 完全にデタラメだと、どのように処理してもデタラメだが、見かけの上でデタラメに見えるものにある数学的な処理をすると、一種の定常性をみせる場合がある。

糸をぐるぐる巻いた形のストレンジアトラクター像
テーラー・クエット系に現われた「ストレンジ
アトラクター」(「カオスの素顔」宮崎訳より)
 つまり、その系の定常状態(アトラクター)を図形化(例えば地球軌道のアトラクターは楕円運動の写像であるという具合に)すると、非周期的ではあるが、「ストレンジ・アトラクター」と呼ばれる意味のありそうな有限領域の非常に複雑な図形を描く。カオスの性質が異なれば、この図形も全て異なる。一応それを「カオス」ということができよう。

 カオス理論は非線形方程式のふるまいをたどる数値計算の手段が開発されてはじめて生まれた。非線形方程式は線形方程式のように簡単に解けない。つまり解の公式がない。だから方程式に数値を一つひとつ代入してそのふるまいを調べるしかない。それには膨大な計算が必要だ。したがってコンピュータが発明されてはじめて可能になった部門である。

 線形性は一様な周期的運動で代表される。だから厳密に予測可能だ。非線形性はいわば流体の乱流のような複雑な非周期性で、どのようになっていくのか将来を予測できない。

 もともとカオスは天気予報の研究から気象学者のE・ローレンツによって発見された。それは線形的・周期的な空気力学の上にさまざまな要素を付け加えた「ナビエ・ストークス非線形方程式」に、さらに非周期的因子(一様でない陸地の形や海流の温度など)が外因として作用する複雑な系の研究である。

 周期的な現象でも、外から非一様な力が加えられるとたちまち非周期的になる場合が多い。自然現象は一部を除いてそのほとんどが複雑な多くの力のせめぎあいで起きている、いわば雑音の世界であり、周期的な現象はその雑音を整理し分析してやっと捉えられるようなしろものだ。

 たとえば周期的な地球の公転軌道は太陽と地球との二天体系ではニュートンの線形的な重力方程式で簡単に解けるが、それに加えて木星などからの引力の影響(摂動)を考慮した三天体系以上になると、もう非線形方程式で表わさなければならない非周期的な軌道運動になる。それをいちいち数値を入れ替えながらたどっていくことは高性能のコンピュータでなければ難しい。

 太陽系は一億年単位のカオスではないかともいわれている。こんな単純な系でも因子(変数)が多くなって非線形になれば、もうお手上げになる。

 因子が多くなっても非線形にならない系では、部分間の加減と定数倍の乗除をするだけでいい。だから問題は単純なままである。しかし自然の持つ階層構造はそれを許さないのである。部分間の加減乗除だけで済む系は、全体が部分の単純な総和にすぎない系だけに限られる。

 すでに見てきたように、弁証法的な自然のあり方は全体が部分の総和以上であることを教えている。部分が寄り集まって自発的に全く新しい質の全体を構成している。

(11)複雑適応系の科学は弁証法的科学の方向を向いている

 これまで科学は自然をできるだけ単純・単質な要素に分解して厳密な数式で表わそうとしてきた。ヴィトゲンシュタインやラッセルなどによって発展させられた「分析哲学」はそういう科学に合うような分析的論理学を提供した。

 「分析哲学」は言語を分析してそれを一つひとつの要素となる言葉に還元し、それぞれの言葉の意味や言葉と言葉との連関を厳密に定義した。分析哲学が科学哲学と呼ばれるゆえんである。これはすでに第三節で批判したいわゆる還元論者の要素還元主義だ。もちろん分析的な科学が成功してきたように、分析哲学も成功を収めてきた。

 自然科学は脳や身体を細胞に、細胞を核酸・蛋白質・脂肪・炭水化物などに、それらを高分子に、高分子を分子に、分子を元素(原子)に、原子を核子と電子に、核子を陽子と中性子に、さらにそれらをクオークに、と自然を究極の単純な粒子に還元し、厳密な科学を樹立しようとしてきた。

 生命をバラバラに分解するこのような分析的方法論による科学技術観が、結局、生態系を無視させるに至り、人類の存続を脅かすようになる。そうしてやっと、これまでの「全体は部分の単純な総和」という傾向の強い分析的科学のあり方が真剣に見直されるようになった。

 そういう動きなかで、複雑なものを単純な要素に還元するこれまでのやり方を正反対にして、単純なものから複雑なものを再構成する科学の運動が起きてきた。それは、宇宙が自発的に進化し、自然がみずから複雑化・高度化してきた路程をたどる科学でもある。

 とりあえず力学としては、複雑なものを記述しうる非線形の力学であり、そのうちでもとりわけ「カオスの力学」である。自然を下位階層(要素)から上位階層へと自己組織化する複雑適応的な創造的主体として見ようとするこういう科学を「複雑適応系の科学」ともいい、アメリカの「サンタフェ研究所」が中心になって実践されてきた。

 彼らは自分たちの論理が弁証法の論理であることに気づいていない。しかし彼らの言っている内容は弁証法そのものなのである。だから複雑適応系の科学は実は「弁証法的科学」を目指すものだといえよう。

 これまでの分析する科学は、宇宙の物質進化によって出来上がった、「結果としての特定物質」を分解して研究する。「結果物質」から「原因要素」へと遡るわけだ。

 これは宇宙の物質進化の路程をたどることと比べればそれほど難しくない。というのも、宇宙の物質進化の節目節目では、それこそ無限の選択肢の中からある一つがある仕方で選ばれて新しい上位階層を作り上げているが、それが無数にある各階各層で全て違ったメカニズムの下に起きているからだ。

 進化の結果からみれば、それは一本道のように見える。だから還元論者は、物質を分析し分解していけば単純な要素を捉えることができ、「多かれ少なかれそれらの要素の単純な総和で全体を表現できる」と勘違いしているのだ。

 だが実は自然がたどってきた道は「結果」から見えるそのような一本道ではない。したがって新しい複雑適応系の総合科学は、その無限の選択肢の中からどのようなメカニズムでこの一つが選び出され、これまでとは全く異なった高次な質的全体が創造されたのかを突き止めなければならない。

 このように下から自己組織化し複雑適応化する生命や意識の発生進化のメカニズムを、「人工生命」や「人工知能」としてコンピュータ上に数学的なかたちで厳密に跡付けようと試みている。

 もはや部分を単に総和しても新しい全体の質を説明できないことは分かっている。それぞれの階層の質的飛躍のメカニズムの研究は過去の原因要素(部分)の中には存在しないから、これは不可能なぐらい困難を極める作業になるのである。

 たとえばM・M・ワードロップが『複雑系』(田中・遠山訳)の中でフィル・アンダースンの言葉から紹介しているように、一つの水の分子(HO)の中には、それが全体として集合すると、このような流体として私たちの知っているさまざまな性質を持った水になる、ということは含まれていない。

 流体としての水の性質は、部分が集団化してはじめて新しく創発的にあらわれた性質であり、部分としての一分子をどのように研究しても、その多様な性質はほとんど分からないのである。

 結果として存在する流体としての水が経験的に先にあり、それを研究して分かった気持ちになっていたのが、これまでの物理学や化学だといえよう。

 こういう単純なレベルでさえそうだから、無数の多様な有機体要素で構成されている複雑窮まりない生きた全体としての細胞が、その部分の単純な再構成で説明できるわけがない。そこには生命細胞に至る無数の進化の階程があり、それぞれの階程でなされた筈の、無限の選択肢における特定の選択のメカニズムがあった。

 自然を下から説明するにはそれを厳密に数学的に跡付けなければならないが、その作業はほとんど不可能といっていいほどである。

 たとえば百種類の分子を50つなぎにすると10の100乗組の高分子の組み合わせができる。これは宇宙の全陽子数よりもずっとずっと大きい数だ。むろんその全ての組み合わせを考慮した力学でなければ、その系の高分子が選び出された本当のメカニズムを決定することができない。

 ところが、このように大きい数の一つひとつのケースを計算できるコンピュータは原理的に存在しないといっていい。細胞を構成する蛋白質は分子量何万以上という超高分子である。だからコンピュータはもう到底ついていけない。

 細胞はこのような蛋白質の他にもさまざまな種類の無数の超高分子の有機体を含む。だから生命のような複雑な系を数学的に跡付けることは到底不可能だ。

 せいぜい「人工生命」というコンピュータ上のその単純な粗悪版、つまりオモチャの生命のようなものを生み出すいくつかの方程式で真似事をするしかないのである。細胞でさえそうである。もっと複雑精妙な「意識」についてはいうまでもない。

 むろん細胞の数学的跡付けではなくその生物化学的な追求なら相当な成果が期待されうる。 2011年現在、人工細胞の実現に向けて多くの研究成果が上がってきている。人工細胞膜や人工ゲノムや人工たんぱく質生成システムや人工増殖システムなどが別々に実現し、今やそれらを総合した人工細胞の合成へと向かっている。

 一つ一つの研究分野は成果を挙げている。だがそれらを複合化して果たしてうまく働くかは別問題である。とはいえいずれ近いうちに初歩的な人工細胞が作れるかもしれないという楽観的な予想も出てきてきる。

 しかしそれもまた人工のものであって自然のものではない。厳密に言えばいわば人工の「細胞もどき」といえるものだ。実は人工細胞膜・人工ゲノム・人工たんぱく質生成システム・人工増殖システムは全てどこかで既存の生命体(細菌類)の機能を利用していて完全には人工でない。数学的にも跡付けできていない。

(12)「カオスの縁」

 カオス理論は、単純ないくつかの方程式が驚くほど複雑な系を構成できるという側面から、さまざまな複雑系を説明したり処理したりする最有力候補として期待された。だが実は人間の顔面のような比較的単純な曲面でさえ再構成できないのである。

 複雑な系は相互に独立な因子の複雑な絡み合い、あるいはその有機体だから、一つの因子のふるまいから他の因子のふるまいを導き出すことができない。したがって多くの(実は無数の)相互に独立な方程式が必要になる。

 それは現実の複雑系はいくつかの単純な方程式では説明できず、複雑系は複雑にしか説明しようがないということを示しているのである。そういう意味で、非線形の複雑系を研究するカオスの理論はどこまでもオモチャの真似事レベルの話に他ならないが、それでも生命や意識の研究には欠かせない。

 この物質宇宙の運動には、大きく分けて周期的デタラメ的カオス的の三つがある。全くデタラメでも、全く周期的でもないカオスは、その中間にある領域だといえよう。たとえば生命は単に周期的であっても、ただデタラメだけであってもいけない。

 健康な人の心拍にはカオス的なゆらぎがあるが、病的になると規則的・周期的になる。一般に細胞は、健康だと周期性から若干離れたゆらぎ・ゆとり・あそびを持つが、病むと周期運動化するという事実が報告されている。

 つまりこれは、周期性だけでは没主体的な機械的ふるまいをするほかないということを意味しているわけである。したがって、生命や意識は周期運動系からカオス系に入る間際の「カオスの縁」と呼ばれているところにあるのではないか、とも言われている。

 生命活動におけるこのカオス的側面は、その活動の内部だけでなく、外部においても現れる。たとえば個体の繁殖率の変化や伝染病などの伝染率の増減にも見られるといわれている。人間の社会活動も生命活動の一種だから、(本当かどうかはともかく)、たとえば株式市場などの経済現象にもカオス性があるとみられているほどである。

 また巨大神経を持ったヤリイカの神経反応の非線形的な応答性の中にカオスがあることが発見され、神経系一般にカオス性が含まれていることが指摘された。人間の脳・神経系を含む動物の神経系は基本的には全て同じものだから、実は脳の働きとしての心や精神にもカオスが働いているとみられる。

 量子力学もカオス力学もその体系の中に、「原理的に予測不可能」という意味での「偶然な性質」(非運続・確率・ゆらぎ・曖昧さ)を許容する法則を持つ。そういう点からみれば、偶然と必然の生きた弁証法的統一に通じている。

([) 人間・精神・文明

(1)コトバ

 人間の言語能力は大脳における言語野に基づくが、その言語野もまた人間のDNAの遺伝情報に起因している。人間は「コトバ」を話す。この「コトバ」はDNAの遺伝情報という「暗号コトバ」を通して、創造者なる「言葉の神」を反映している。

 考えてみれば、DNAの二重ラセン構造のなかに「コトバ」の能力がどんな具合に刻み込まれているのか、いささか不思議な気がしないでもない。「コトバ」というこの世界に物質的に存在しない能力が、物質としてのDNAのなかに刻まれている。音や光を感じる能力を物質としてのDNAに刻みうるのはなんとなく分かる。どちらも広い意味で物質的だからである。

 「コトバ」は音や光などに「意味」を運ばせたものだ。「意味」はそれを「意味」として受け取る自己目的的な主体があってはじめて成立する。そのような主体がまずあって、音や光などに自分のための「意味」が込められ、音や光が単なる物理現象を超えた「意味」を運ぶ媒体になる。

 この主体はもちろんまずは中枢神経系の「隠れた自己意識」の「隠れた自己」である。だからおよそ意識ある全ての動物にとって音と光などには「意味」がある。「意味」があるから音と光などで意思を伝える。

 目や耳や鼻や舌など、動物のあらゆる感覚器官は「意味」のある物理・化学的過程を前提にしている。感覚器官は「意味」が物質化したものであり、「意味」のある物質過程(情報)をやりとりする。

 「隠れた自己」は「隠れたコトバ」を持っている。「隠れたコトバ」はすでに感覚器官の遺伝情報としてDNAのなかに書き込まれている。「隠れた自己」が人間において顕在化した自己(自己意識)となったとき、「隠れたコトバ」も顕在化する。それが「人間のコトバ」である。

 「人間のコトバ」に至るまでには「隠れたコトバ」の長い進化の歴史がある。DNAの遺伝情報が遺伝暗号という名の「コトバ」であり「言葉の神」の反映であるからには、当然、DNAの二重ラセン構造のなかに「人間のコトバ」の能力は刻まれるべくして刻まれたといえよう。

 「人間のコトバ」は単にそれによって生活上の情報を的確に他者に伝えるだけでなく、人間に抽象能力、すなわち想像力や構想力を与えた。

 コトバは単語文法からできている。単語の名辞性は文法の普遍性とともに、感覚的即物性からの飛躍の能力、すなわち自由な抽象力を与えるが、同時にそれはいつも自然や社会や人間の存在論理であるそれらの法則や構造をおのずから抽出しており、特に文法構造に存在の規則性が反映している。

 人間の子供は地球上のあらゆる言語を習得することができ、どの言語環境におかれてもた易くマスターしてしまう。つまり個々の特殊な言語の文法にとらわれない。N・A・チョムスキーがいうような、あらゆる文法に通じる「普遍文法」のようなものが人類にはある。

 それはDNAに刻み込まれているものだが、このような「普遍文法」があるのも、地球型生物の全てが、あの三・一的な「トリプレット」という同一の「文法」のもとで、同一のアデニン・チミン・グアニン・シトシンという四種類の塩基(単語)で書かれた遺伝子構造を持っており、また現代人が全て同一の祖先から出ていて、地球という同一の環境に対して、同一の適応をしてきた結果にほかならない。

 あらゆる人間現象は「コトバ」の抽象力、すなわち自由な想像力と構想力とがもたらしたものだ。人間の全ての文化的所産は、思想であれ産業であれ、民族であれ国家であれ、宗教であれ芸術であれ、なにもかも「コトバ」によって創り出されたものである。

 神は言葉によって宇宙を創造し、神の言葉は外化して物質宇宙の弁証法的な諸構造となった。人間は自然の内なる第二の神として、与えられた物質宇宙を「コトバ」を通して改造(第二の創造)する。

 たとえば絵画表現というものはそれ自身としては「コトバ」とは別の精神世界であるが、もとはといえば「コトバ」の抽象的構想力に基づくものであり、「コトバ」なくしてはありえない。人間の精神が生み出すあらゆるものが、絵画であれ音楽であれ、舞踊であれ工芸品であれ、「コトバ」のこの抽象的構想力を媒介にして成立している。

 「コトバ」は単に知(情報)を担っているだけでなく、感情の世界も「コトバ」によって多様化し、霊妙となり、創造的で豊かなものになっている。人間の大脳は言語能力の進化とともに、言語野だけでなく、その全域が多様な発展を遂げた。

(2)進化は目的を持つ

 人間への進化はそのDNAの進化である。DNAはいわば本質であり、肉体(脳と身体)はその表現(現象)だ。この本質あってのこの肉体である。言い方を換えれば、R・ドーキンスが『利己的遺伝子とは何か』(中原・佐川訳)でいうように、肉体というものは遺伝子の乗物だ。

 しかしDNAはそれ自身だけでは無意味であるし存在もしない。それはちょうど本質がいつも現象として、ある形象をとらねばならないように、必ず自分の肉体という衣をまとわなければならない。本質の目的は現象にある。それが細胞や組織や器官や身体および脳である。

 動物の細胞には大別して、「生殖細胞」「体細胞」「神経細胞」の三つがある。これらは細胞そのものに元来宿るそれぞれの基本機能の分化したもので、いわば生物の分業戦略である。DNAを本質と見、肉体を現象と見る見方をとれば、DNAの遺伝子をつかさどる「生殖細胞」がこれらのうちの主導因子のように思えるかもしれない。

 この観点は「生殖細胞」のために「体細胞」や「神経細胞」があり、生殖行為のために肉体があるという生殖主義を生み出した。これは心理学の分野ではフロイト流の汎性主義を支え、そこから文明論を含むあらゆる人間現象の解釈をしようとするに至る。

 しかしDNAは「遺伝情報」と呼ばれてはいるものの、同時にその生物の日々の生活を営ませる「生活情報」でもある。生命は個体維持と種族の維持を企てる。DNAを後者の立場でみると「遺伝情報」であるが、前者の立場でみれば「生活情報」である。

 確かに個体の維持と種族の維持が統一されているところが生殖行為だといえる。なぜなら生殖は個体が姿を変えてさらに生き続けようとする行為であると同時に、それがそのまま種族の維持にもなっているからである。

 すると生物における生殖細胞や生殖行為の優位性という思想は正しいのだろうか? 個体が神経細胞という情報系をもって体細胞を統御し、環境に適応しながら日々生きる行動は、生殖と比べると劣るのだろうか? 

 そのようなことは断じてありえない。両方とも違った局面、異なった次元で同じくらい重要なのだ。なんでも一つの原理に還元しようとするやり方は、相互に独立な要素でできたもの、特に生きた有機体とその活動を説明する場合には、絶対に当てはまらない。

 個体の過ごすほとんどの時間は摂餌行動に費やされる。生殖行動は非常に一過的で季節的なものだ。また動物進化にとってはいかに生殖の効率を高めるかということより、いかに日々効率良く生きていくかがもっと重大なことだろう。

 体形は生殖のために進化するよりも日々の生活の適応のために一層進化する。それは生殖細胞より体細胞をより高く評価するということを意味する。生活効率の高い、個体維持力の大きいDNAが生殖を通して勝ち残っていくのである。

 むろん、ほんの一部の植物のめしべ・おしべや昆虫が、性行動そのものだけに適応したかのような特殊な姿を取っている場合がある。だが、これはどこにもある例外に過ぎない。

 ところで両性生殖が生物に普遍的なのは、それによって多様な免疫系と適応性が生じて生物種の生き残り効率が高められるからである。またそれによって進化速度も速くなる。進化における生殖の意味は大きい。だが決定的なものではない。それは進化におけるいわば一つの土台であるが、進化の方向を示すものではないのである。

 進化は目的を持つ。それは神の宇宙創造の目的因に従う。すなわち、まずは生殖よりも「情報系の発達」による「生態系での優位」に向かうのである。言いかえれば、生殖細胞は出発点としての土台であり、生命進化は神経細胞手段にして体細胞の優位という目的に向かう。

 だが本当はこの手段目的とは逆転している。「生態系での優位」というのは架空の目的で、それは実は「情報系の進化」のための手段なのだ。真の目的は「情報系の進化」の方にある。DNA自体が情報系なのだ。だから体細胞神経細胞の進化のための手段にすぎない。とはいっても、土台としての生殖細胞も、手段としての体細胞も、目的としての神経細胞も、それぞれ相互依存的なものとして、そのうちのどれかに還元できない独立性を持っている。

 情報系細胞の進化の究極目的こそ、人類の大脳における神の自己省察、「一なる人」の心における神の自己実現なのである。大脳が身体を通して行なう文明社会の創出とその物質的・精神的発展の目的もまたそこにある。

 もちろん究極のそれは大脳における単なる精神的出来事に留まらない。人間の心に神が部分的に映し出されいわば外化して具現するだけでなく、その肉体もまたいわば「神のからだ」になるのである。それは精神なる人間の心が物質宇宙の時空を超えるように、人間の肉体も、さらにその延長である任意の自然の一部も、この物質宇宙の時空の制約を物理的に超えるということだ。

 これがキリスト教でいう「新しいからだ」である。そしてこのような人類究極の救済目的は、一なる神の一人なる受肉、すなわち再臨のキリストを通してはじめて人類社会に実現される。

 それを可能にするのは神の超越的な力である。人間の大脳が神のこの超越的な力にリンクされるとき、人間の想いは神の許した範囲内で全てこの宇宙の現実になる。

 そしてついに人間の心は物質宇宙の全ての自然法則の制約を超えてこの宇宙のなかの真の主人になり、この宇宙の物理の存在論理に最終的に打ち勝つのである。

(3)「霊魂」とは?

 だからいわゆるモヤモヤとした「霊魂」と呼ばれている霊的実体などは実在しない。「神」が存在するといいながら「霊魂が実在しない」というのは矛盾だと思われるかもしれないが、そんなことはない。

 もともと「霊魂」の観念は人間の言語能力の概念性に由来する。心のなかの霊魂の「観念」が、概念(ことば)による抽象化を経て心の外に独立的実体として捉え返されたもの、これがいわゆる「霊魂」となった。

 それは心の階層の実在化に伴うもので、心が実在化すると、心(人間においては精神)はその中の観念の或るもの、とくに「自分と似たもの」に自分同様の実在として、それの実体化を促すのだ。

 そのきっかけは愛する者の死である。その死とそれによる肉体の腐乱。そういう遺族の悲しい経験のなかで、死者は生き残った者の頭の中になお「記憶」として生き続ける。

 「霊魂」の実体は死者に対する生者の「記憶」なのだ。どこかに愛する者がなお自分とともに生きているという願いが、腐乱する肉体の原理とは全く異なる超物質的な不変の実体を要求した。

 それがいわゆる超自然的な物質としての「霊魂」なのである。だから「霊魂」は肉体の無常性に対立する性格を帯びている。愛と憎しみは表裏一体である。したがって、死せる愛する者の霊魂は生者を呪う悪霊ともなる。

 いうまでもなく、死後もなお愛する者が生き続けているという願いは、同時に自分の死後における霊魂的な永生願望と表裏一体の関係にある。

 さて、霊魂と生命は太古からアリストテレスを経て19世紀に至るまでずっと同一視された。そして生命が空気を呼吸することで維持される点から、非物質的・無構造的な気体状のものとして見られるようになり、こうして「霊魂生命空気気体的で無構造的な、そのため、もはや朽ちることのない永生する霊魂」という一つの循環的な理解が成立するに至った。

 霊魂がなにかモヤモヤした気体のような無構造のものとして理解されるようになったのはこのためだ。

 それはともかく、永生する霊魂はその性質のゆえに、肉体やそれが属する物質世界よりも優れた世界に由来するものと考えられるに至った。そして神も霊魂として、当然その世界にいるものとされたのである。

 昔の人たちが現代の遺伝子工学の知識を持っていたなら、無常な肉体生存の原理とは別の原理に立つ、超物質的な霊的実体世界の必要性をとくに感じなかったに相違ない。今では遺伝子工学の技術によって遺伝子の老化のメカニズムが解明されつつある。

 これがすっかり解明されてしまえば、いずれ老化を抑え、(人間の社会的・神的問題の解決という条件つきではあるが)、人類は念願の不老不死の青春を謳歌できるようになるかも知れない。あるいは永生とはいえないまでも、うんざりするほど生きたいだけ生きられる非常な長寿が実現できるだろう。

 こういう可能性そのものが昔の人たちには到底思い及ばなかった。もしこの肉体のままでいつまでも若く永生できるのであれば、誰がモヤモヤして実体のない「霊魂」に化けてまで生き続けたいと願っただろう? できれば本当はこの肉体のままで永生したかったのである。だがその可能性の端緒にさえ昔の人たちは思い及ばなかった。

 キリスト教は「からだの復活」を唱えたけれども、本当はそれがどういうことなのか誰にも分からなかった。だから死後の永生を求めて霊魂宗教化したのである。ほとんど全ての宗教がこうして霊魂の宗教に化してしまった。

 肉体のまま永生できる道がある。人間の手でさえ、いまやそれが遠い日程に上っている。神の手であればそういう目先の方法でなく、神の時空を越えた超越的な力によるもっと根元的な方法で肉体のまま永生させることができる。人間の肉体は神の力にリンクされることで人間の思いのままになるのである。それが「新しいからだ」なのだ。

 だから永生を求めて霊魂宗教化した宗教は、その時代の人間の知識と技術の限界を表わしたもので、一種の自己疎外なのである。

 神はみずから作った物理法則に従ってこの宇宙を創造した。神はこの物質世界の「外」にいて、この物質宇宙に物理学的に介入し、働きかける。

 神のいる、物質宇宙の「外」は、確かにこの物質宇宙におけるあり方とは異なっている。だがその異なりはいわゆる「霊魂」などとは無関係だ。

 たとえそこに我々の宇宙のような時間・空間・物質・エネルギーなど全く存在しないとしても、神は宇宙の彼方に実在する、人間の把握を無限に超えた、非常に広い意味での非霊魂的実体なのである。


 神の力は宇宙を創造した力である。それは創造されてすでに存在する時間と空間に基づく相対的な力(人類の科学技術の延長線上にある力)とは質的に異なる究極の「絶対的な力」だ。

 その神の力によれば、終わりの日の「からだの復活」も「新しいからだ」も「肉体のままの永生」も、全て(完全に)叶えられる。こうしてこの宇宙にもこの宇宙の「外」にも「霊魂」なるものは存在しない。

 もし人間に死後の行き場があるとすれば、それは「霊魂」となって行くのではない。彼あるいは彼女の死後は、宇宙と歴史を導く神の記憶の中の「情報」としてのみ存在しているだけである。

 
その「情報」の中には宇宙創成以来の全ての瞬間の情報があり、神はいつでもその情報を基にして、どの時代の誰でも何でも任意に物質化(復活)させることができる。

 
死後の人間は神の記憶の中の「情報」としてしか存在せず、それ自身で永生する「霊的実体」としての「霊魂」など、どこにも存在しない。

(4)心はモノの主人

 人間を研究するには進化の視点が必要であり、「サル学」がぜひとも進歩しなくてはならない。またその他に、文明とはいかなるものか、文明を生んだ人間がどのような存在かを知るために、文化人類学で研究されているような未開人のことも知っておく必要がある。

 さらにそのアナロジカルな指針として、言葉を覚えはじめようとする乳幼児の成長過程も参考になる。それは未開人から文明人になる過程に似ている。

 サルから未開人へ、未開人から文明人へ、乳幼児から成人へ。これらにはあたかも個体発生が系統発生の繰り返しであるのと同じようなところがある。さらにリーキー父子によって進められてきたような考古人類学的研究が人間研究の重要なファクターであることはいうまでもない。

 サルから人間への進化においてもっとも顕著なものはコトバの進化である。コトバははじめは他者への情報伝達の手段として、数種の鳴き声や身振りから出発したのであろう。コトバはいまでは「思想」として結実し、考える手段としての内省的な側面が大きな発展をみせている。

 人類の祖先であるサルが森の中からサバンナに放り出されたとき、つまり果実の豊かな森が地質学的変化による気候の変動によってサバンナに変貌し、林の点在する草原に適応せざるをえなくなったとき、環境の変化は新しい試練となり、祖先の新たな挑戦を生み出した。

 霊長類のボノボにその原始的な生態が見られるが、木切れや石ころなどの初歩的な道具を使った手の進化、草原で猛獣を警戒するため、あるいは仲間や食料のありかを探し求めるための視点の持ち上げ、林から林への移動による足の進化、二足歩行によるエネルギー効率の向上、これらの全てが相乗的に働いて、人類の祖先に直立歩行への進化の道を歩ませた。(2012年春、チンパンジーの生態研究から、二足歩行の進化には両手で獲物を独占する行為が大きく作用したのではないかとする仮説が提出された)

 一匹のサルが新しいことをやり始めると、それがその集団に広く拡散し代々受け継がれていくことが、食物を海水で洗うことを覚えた宮崎県幸島(こうじま)のサルの例からも分かる。これは遺伝子にすでにあった可能性の発現であり、発現し行為され自然選択されることで、遺伝子にさらなるこの方向への進化が刻まれていくのである。

 驚いたことに、ボノボは教え込めば人間のことばをちゃんと理解したうえで、キーが各種の絵や図形になっているワープロさえ打つことができるのである。こういう遺伝子的な潜在能力が進化して、ついに人間のコトバに至ることになる。

 直立歩行は手と足の特殊進化を加速すると同時に、口腔を広げて多様な発声を可能にした。そして多様な声とともに増大する多量の情報を担えるよう進化し、容量を増し、ますます重くなる大脳を支える、垂直な頚椎と背骨とを与えた。

 猿人→原人→旧人→新人と進化する人類の大脳はその容量の大きさで区別されている。コンピュータ同様、量の大きさが弁証法的に新しい質の処理機能の発生をもたらし、大脳全般の質的変化を導き出す。

 ところが、コトバが単なる情報伝達手段であるだけではまだ外に向かっただけの直接的なものであり、自分の意味に気づいていない。コトバが考える手段として思想を担い、自分を吟味し反省し、外から内に戻って豊かな内省手段となったとき、コトバははじめて自分の意味に気づき、自分の姿をみるのである。

 コトバのこの自省はすなわち人間の自己意識である。そしてこのときはじめて「隠れた自己」は顕在化し、人間は単なる心の動物から精神の動物になった。もちろん自己意識としての精神もその大脳の進化とともに発展し、原人→旧人→新人へと階層進化を遂げてきた。

 エンゲルスはサルから人間に進化するうえで手を使う道具労働が決定的な役割を果たしたとみる。それを手と足の特殊進化と直立歩行の主因子だと見倣す。そしてコトバを交し合う協働によって実現される獲物の効率良い捕獲が、コトバと社会性の進化に決定的な役割を果たしたと考える。

 道具は自然を改造したものであるが、同時に手の延長でもある。道具は自然と人間の接点・融合点であり、自然を人間化(手化)したもの、あるいは、人間(の手)を自然化(物化)したものだといえる。人間は自然と素手では闘わない。自然の一部を道具として改造し、それを手段として自然に立ち向かう。自然によって自然を制するという考えだ。

 マルクス主義は労働者階級のイデオロギーだ。手を使った道具労働が、コトバによる協働とともに、人間進化の決定因と見えるのはけだし当然のことである。いうまでもなく生産労働は人間生存の基礎だから、これが進化因にならない筈がない。これはこれで正しく、その真理性はいまではマルクス主義を離れて広く一般に認められている。

 しかしモノ(物質・生産物・生産力・生産関係)の発展は「心」の発展の手段なのである。すでに無数の証拠から神が実在することは確かなことだ。物質宇宙の弁証法的階層構造は、そこで神が自分の姿の一部を映し(人間が神を考え、論じ、信仰し)、あるいは自分を部分的に実現する(人間の心が神の心と部分的に一体になる)、「心」(精神)の創出へと物質進化が方向づけられていることを確かに示している。

 主体はモノにあるのではなく「心」にある。モノの主体性は百数十億年の物質進化の末に「心」として実現している。そして実現された主体としての「心」はモノの主人なのである。

 確かにモノなくして「心」はないが、モノは弁証法的階層においては土台にすぎない。マルクス主義はこの土台にとらわれたけれども、土台があるのもその上に築かれるもののためである。とくに弁証法的物質進化の階層論理はそれを強く訴えている。心はこの物質宇宙の最高階層として、あらゆるモノを土台にし、材料にし、手段にして、自分自身を実現しようとするのである。

 心がモノの思想に支配されている間はまだまだ直接的で未発展である。しかし心がその段階を経なければ無内容で空虚である。その段階を終局的に乗り越えてついにモノの思想を完全に支配するとき、心はモノの論理を超えて真に豊かな主体となり、(部分的で不完全ではあるが)神の心と一体になる。

 脳と身体はいわば主体と客体として弁証法的に統一されて進化してきた。進化の過程で脳が身体の方の要求に応えてきたのは事実である。だが、身体の求めに応じることを通して脳の進化が計られたというのが真相なのだ

 そういう意味からすると、客体としての身体は主体としての脳(心)の欲する姿をとっているといえる。「目は心の窓」というが、目だけでなく全ての感覚器官が脳(心)の出先機関である。現代風にいえばコンピュータの端末だ。それはマニュピユレータとしての手足についてもいえる。

 ある意味で身体は脳(心)のあらわれであり、その衣である。そういう観点からみれば、手を使う協働性の道具労働がサルから人間に進化するに際して決定的な役割を果たしたという仕組は、手が脳(心)の出先機関・端末だから、実は脳(心)の自己進化のための戦略だったということが分かる。

 その証拠に、協働性の道具労働はコトバを進化させて脳(心)のさらなる進化を促し、手の延長である道具はいまや高度に「脳化」して、コンピュータ内蔵のハイテク機器として多くのセンサーやマニュピュレータをその端末に持っている。自然道具への道筋である。

 科学技術文明の「脳化」とは心の歴史主導性の表現といっていい。書物や計算機のように、心は自分のためだけの外化(物質化)もするが、また食料・衣類・住居などのように、身体のためだけの外化もする。脳(心)は身体なくしてはありえないからだ。

 だが総合してみれば、比重に差こそあれ、大抵は心と身体の両方のために外化し、与えられた環境を弛まず「人間化」していく。文明とは宇宙の絶えざる人間化である。そしてそれはまさに心の主導性を実現する過程なのだ。

 その心はとりあえずは人間の心(精神)である。だがいずれ終局的な試練を経て、ついには神の心と部分的に一体になるであろう。人間とは、神が(部分的ではあるが)その心のなかで自分自身と語らい、その身体の中にみずからを具現するという目的のために、物質宇宙としてみずからを外化し、弁証法的物質進化のなかで絶えざる変貌を遂げながらついにたどりついた、物質宇宙における神の最高の発現形態であり、最高の実在階層である。

 それはこの宇宙における神にもっとも近い似姿で、また第二の神なのである。それを土台にして、神の特定の個人への特殊な自己実現が成就される。

(5)文字と文明

 人間精神は物質の論理を知り、物質を精神の求めるかたちに加工し、万物を人間の姿に変えて自然や宇宙を休むことなく人間化する。それはそのまま人間社会や文明を作り上げる作業であるが、また同時に、精神がすでに外化して産み出したあらゆる文化的所産をみずから点検し、自省し、新たなよりよい文明社会とより幸福な人間のあり方へと進む歴史の歩みでもある。

 文明の担い手は人間である。その人間を担うものはその精神だ。精神は大脳の機能だから大脳なくしてありえない。この大脳はその身体によって養われている。精神は大脳を通して身体を働かせ、それによって自分の想いをモノのかたちにする。

 したがって精神は身体の想いでもあり、精神の外化は人間(精神と肉体)の姿になる。人間の精神がモノのかたちをとると、そこに宇宙における人間の拡張が起こる。

 原始社会から産まれ育った文明は、幼児が成長していく過程と同じく本質的に歴史である。文明の主体である精神は、いわば永劫回帰する「自然」の中に埋もれた原始社会の無自覚な段階を超えて、与えられた自然環境を自覚的に人間化する。

 「自然」の永劫回帰の鎖を断ち切るこういう営みから「歴史」というものが生み出される。だから精神のあり方は、本来、歴史なのだ。そして一般に歴史のあるところには陰に陽に精神が働いている。

 未開の精神はモノの貧しさに相応してキャパシティが小さい。それは相対的に満たされていて自分自身としては豊かである。だが文明に至って精神は豊富な知的記憶となり豊かな物的財となって、みずからのキャパシティを増大させる。したがってそれだけますます相対的に貧しくなり、さらなる知と財と、それらによる力の獲得とによって、自分の新たな貧しさや欠乏を埋めようとする。

 精神と物質の絶対的な貧しさの中に実現されていたかつての原始的な調和は破れ、徐々に豊かになっていく過程が、人間と自然、人間と人間の間の矛盾・確執・競争・闘争・憎しみ・優劣・自尊や蔑視・尊敬や自虐などを生み出す。こういう文明を「競争原理の文明」と呼ぼう。

 知的記憶と物的財はそれみずからのさらなる発展のための土台になる。知は精神の、財は身体の延長である。知と財の蓄積はそのまま人間の拡張であるが、それはまた文明の精神的・物質的基礎であって、この両者の蓄積が歴史を歴史たらしめる。文明社会ではこの知的・物的蓄積が自覚的に計画的に行なわれる。

 知の蓄積はコトバの外化した文字の発明によってその本来の舞台に立つ。財の蓄積は安定した剰余生産の可能な農業社会の段階に入って本来の土俵に立つ。文字と農業の発明こそ文明の本当の出発点だ。

 文字は「記録コトバ」であり、商取引の証書作成の必要から、血縁共同体の外部にいる他者に対して作られた。文字の発生と発展は、所有の私的分化の一定段階におけるこの他者の誠実さと記憶力に対する信・不信が原因である。

 血縁という自然状態では文字は必要でなかった。それが破れたところから文字が生まれて進化し、社会や文明の歴史を導くようになった。文明は文字を得て本当の「文・明」になる。

 文字と農業。この両者は文明内部ではまずは教育と経済活動である。医療や娯楽や文化はこれらを正常に保つためにあり、政治がこれらを統括する。

 細胞のような共通の構成単位は、それによって組み立てられた全体としての一個の生物に、自分の構造と働きによく似た性質を与えるものだ。

 個々の細胞は、それぞれがDNAの中にその個体の全情報を宿しつつも、多細胞生物という全一的個体のなかで分化し、特殊な機能を分担している。そういう特殊な細胞が全て統一されて一つの全体としての個体になる。細胞の新陳代謝や生死・生殖の論理は、かたちを変え違った姿で一層高い段階の生物個体の生態に繰り返される。

 それと同様に、一人ひとりの人間は社会全体の情報を宿しつつ、社会の中で特殊な働きを分担し、このような個人が全て統合されて一つの社会を構成している。だからこの諸個人の有機的構成体としての社会には、それがまた一人の巨大な人間のようなところがある。

 いわば教育システムが「知」、娯楽や文化が「情」、政治が「意」として、人間の「心」の部分に相応し、経済活動や医療が「身体」に相応する。一つひとつの社会の個性は他の社会との遭遇においてあたかも一人ひとりの人間の個性のように働く。家族・社会組織・民族国家・文明社会という人間社会のあらゆるディメンションで同じような性質と働きが繰り返される。

 あらゆる部分がそれぞれ全体の情報を宿しながらみずから特殊化して全体を構成するというこのような仕組みを「ホログラフィー構造」という。レーザー・ホログラフィーから取られた名前であるが、それが生物や人間社会にも見られるわけである。

 こういった考えを社会学説化すると、進化論を加味したスペンサー風の古い社会有機体説になる。マルクス主義の経済史的な社会学説を人間社会の動的な一側面とするなら、ホログラフィックな社会有機体説はその静的な一側面だといえよう。

 ホログラフィー的な論理は、代替機能による安定な自己同一を目指す系では、生命であれ、民族であれ、文明であれ、全てが取り入れている仕組みである。これは変動生滅の中で維持される恒常的な要素に少なからず関わっている。

(6)文明と自由

 ところで文明はそれではどこに向かおうとしているのだろう? この問いに答えることは歴史の主体的担い手である人間の本質が何であるかに答えることである。歴史の目的はその担い手の本質を実現することにある。でないと担い手は歴史そのものを放棄するだろう。

 カントやヘーゲルといった啓蒙主義の思想家たちは「自由」を人間の本質と見、歴史とはそれを実現していく過程であるとした。

 だがこの「自由」は経済的土台に裏打ちされておらず、道徳主義的あるいは政治主義的な観念性に留まっていたから、どういう経済システムの上でのいかなる政治体制が人間の自由を最終的に保証し実現できるかについて、何らの具体的な見通しも持たなかった。

 その「自由」に具体的な規定と内容を与えたのはマルクス主義のみである。それはまた経済史の脈絡でとらえ返された新しい人間理解であり、そのように理解された人間を、人間みずからの手で、階級のない共産主義社会において実現しようとする革命的行動でもあった。

 「自由」とはここでは階級・搾取・それらを保証する国家のない状態である。マルクス主義は文明を「競争の原理」から「調和の原理」の上に移し変えようとした最初で最後の全人類的ムープメントだった。

 だが人間の自由の本質はこうした経済主義的なものではなかった。また自由は社会主義・共産主義的な社会的平等と単純に両立するようなものでもなかった。平等は調和を破るものではないが、肝心の自由を破ることになった。


 本来、もし平等が完全に実現されたなら、完全平等と成った各個人が他の個人に対して不自由を強いることはない。不自由を強いるための不平等な立場や権力というものが存在しないからである。

 そもそも「平等」とは「全ての個人の自由度が平等である」ということであって、「自由」の別表現であり、完全な平等はもともと完全な自由と両立するのだ。

 平等とは不平等でないことであり、不平等は主に富と権力の格差、すなわち経済上の格差や政治を含む支配・被支配の管理権力の格差から生まれる。すなわち平等とはこうした経済的・管理権的格差のないことであり、
「貧富がない・支配被支配がない」というそうした平等があってこそ真の自由が保障される

 しかし完全な平等を実現する長い過程では不自由が生じるのを避けられない。人間はそれが堪らず自由のために平等を捨てた。これもまた人間には不可避なことなのだ。

 確かに文明は一定の生産力を超えなければ成立しない。それがまずは農業の発明だった。農業は剰余生産物の蓄積を可能にし、その剰余のうえで、それを滋養分としてありとあらゆる文明・文化の草花が咲き乱れる。

 文明の精神的・物質的基礎である知と財は互いに結合してその生産力となり、増大する生産力は、原始共同体→奴隷制→封建制→資本主義→社会主義という、生産手段のさまざまな所有形態に見合うそれぞれの生産関係を歴史の舞台に登場させた。

 神を除外して存在(自然と社会)の論理だけを人本主義の観点から自己完結させれば、これはこれで成り立つ一つの見方である。しかし存在の根は神にあるから、史的唯物論というこの「科学」は人間の真の科学ではありえなかった。

 そもそも究極的な意味で「人間の科学」というものは存在しない。人間は存在のなかでも際立った神学的・哲学的・科学的な多重の有機的な統一的存在であり、科学は人間の一局面を記述できるだけである。

 マルクス主義は哲学と科学の二つの局面から左右の手で挟むように人間の全体像に迫ったが、あくまで自己完結的な存在の論理に留まったため人格の論理が抜け落ち、人格神とともに人間そのものの全体像を取りこぼしてしまった。

 このように人間にのみ依拠した自由の実現は社会的平等という壁に突き当たって崩壊する。再臨のメシアなる人格神の直接支配(神の国=神の共産主義)のもとでのみ、貧富の格差も支配被支配の社会構造も最終的に克服され、平等は完全な自由となりうるのである。

 というのも、神が部分的にではあるが自己実現するそこでは人間は第二の神として完全に実現されており、もはやモノが人間を支配せず、モノに対する人間の支配度によっては自由や平等が左右されないからだ。

 弁証法は存在の論理だが、それは言葉なる神の他在・反映として宇宙とともに神によって創られたものだから、神とそれを映す人間の心というその究極の地平で「人格的に」開かれているのである。マルクス主義はそれを認めず、自己完結して人格の論理を取りこぼし、自分もまた「メシア的終末」へと向かう「イスラエルの世界史」の一部であることを知る由もなかった。

 マルクス主義は土台主義の思想だ。土台主義は土台の上に築かれた全ての上部構造の意味・成り立ち・働きに対する解釈原理を土台に求め、その土台に自分の全体重を預ける。

 上部構造を土台に照らし合わせることは不可避的に秘密や幻想の暴露というかたちをとる。なぜなら、土台こそ真実であり、その上に築かれた構築物はその現象もしくは反映にすぎないというのが土台主義の思想だからである。

 土台主義・暴露主義はなにもマルクス主義だけでない。現象の本質を求める学問的姿勢そのもののなかに土台主義の芽がある。現象の意味を忘却したのが土台主義だ。たとえば「深層心理」という土台に「意識」の活動を帰着させようとする考え方がそうである。

 またDNAや「ミーム」(文化遺伝子ともいい、文化のなかで根深く生き続けながら人間の思惟と行動を規定する伝統的因子)という土台などであれこれ暴露しようとする各学問分野の土台主義者の群がいる。

 間違いなく人間は物質的生産なくして生きられず、文明は一定の生産力を越えてはじめて発生する。そして生産力の節目に応じてさまざまな生産関係が生成され、この生産関係が土台となって、それに見合う政治イデオロギー的な、人・モノ・組織・思想が上部構造として築かれる。

 この見方はあらかた真実であろう。生産労働がなければ文明の物質的基礎はない。これを歴史を読み解くキーワードとして発見したこと、これはこれで正しい。だがそれを唯一のキーワードとしたことが行き過ぎだったのである。

 本書の脈絡で文明の精神的基礎といってきたものは、マルクス主義では上部構造に移される。それはそれでいい。だが物質生産や生産関係といった土台は、あの物質の弁証法的階層論からいえば、上部構造のための存在条件もしくはその可能態である。

 土台は下位の階層で、上位の階層のためにある。下位階層の可能性の発現形態あるいはその目的の実現として、上位階層(上部構造)があるのだ。

 だから「上部構造だ、上位階層だ」と馬鹿にしてはいけない。そもそも人間それ自体が、下位の全ての自然の階層を土台にした最上層の上部構造なのだ。下位のものは、それぞれDNAであれ、ミームであれ、深層心理であれ、生産関係であれ、それだけでは上位の人間を包括できない。

 上位のものは下位のものの発現形態ではあっても、独自な法則や論理に基づく新たな主体的階層をなしている。発現した生物個体はもはやDNAではなく、花の咲いた植物はタネと同じではない。意識はすでに無意識ではなく、人類はもはやサルではない。そして民族国家はすでに家族や氏族や部族ではない。

 下位に還元したり土台に解釈原理を求める者は、上位のものがなぜ存在しているのか、その存在の必然性と独自性を見ようとはしない。DNAも植物のタネも発現するためにある。可能性は現実性のため、土台はその上に築かれるもののためにあり、本質の目的は現象することにある。

 宇宙の物質進化の弁証法的階層構造では、上位のものが進化目的で、下位のものはその準備をする。まず下位のものが現れて上位のものの土台をつくる。そのための物質宇宙や人類社会の弁証法なのである。

 社会主義は土台主義だ。それは社会の上に築かれた国家組織を否定し、それを土台である社会に還元しようとする。しかし土台の目的は上部構造にあるから、社会の目的は国家にある。

 国家は社会全体の統御機構という意味では、あらゆる社会・全ての文明の本質的な要求なのだ。止揚されるべき階級国家があり、また実現されるべき無階級国家がある。民族主義国家は止揚されねばならないが、再臨のメシアによる地球人類の世界政府、世界国家(神の国)は、神の歴史目的の一つなのである。

(7)「知の文明」の自滅

 文明の精神的基礎は「知」である。だがそれは存在(自然と社会)の自律的で自己完結的な論理にのみ係わる。存在の自律性は本当は決して自己完結ではないが、「知」は存在の自己完結性を追い求め、みずからの破れを認めようとしない。神を無みする「知」は罪の刻印を帯びている。そしてついに人類文明の脅威となり「エデンの恐竜」となった。

 「知」は豊かな文明社会をもたらした。だがその歴史は「知」によってますます拡大する殺りくと破壊の歴史である。人間は「知」によって包括できるものでも救えるものでもない。

 「知」はまずは哲学であり、次には科学・技術である。「知」は極めて楽観的だ。それは存在の破れを認めず、その自己完結性の上に立っているからである。自己完結なものは自存自足的で楽観的であるほかない。「知」は全てのものを包括し、あらゆるものを飲み尽くす。

《「知」は万能で、どのような問題も解決しうる》

 これが「知」のエトスであり、根本的な性質だ。 「知」は本質的にコスモスの「学」である。それは永劫回帰するコスモスなる自然の、非時間的・非歴史的な反復的法則という名の「永遠の現在」についての「知」だ。

 「知」は現在ではコンピュータに対する過信として現れている。「知」は遠からずコンピュータによって生命機構の全ての過程を統御し、単に生命を造り出すだけでなく、想いのままの生命体を創り出し、さらにはコンピュータの中に人間の脳の機能と同等なものをセットできるだろうと豪語する。そのときはコンピュータも人間同様、意識を持つことになるだろう。

 コンピュータの中のこの精神は、人間の脳以上の頭脳に、コンピュータ特有の高速演算処理機能が付け加えられた超頭脳になる。それが超ハイテクの端末と結びつくとき、人間をはるかに超えた「超人」になる。

 生命も人間の脳も自然の一部であるかぎり、反復する存在として「知」の領域にある。だから「知」のこの豪語はあながち空論だとはいい切れない。しかし「知」の射程は自然であって歴史ではない。

 反復される自然的なものは「知」の射程の中にあるが、反復されない新しい未来は「知」の射程の「外」にある。人間の心やそれが作る社会はもともと神を宿したものであり、到来する神の未来、「神の国」に向かって開かれている。「知」は神とそれを映す人間の心が紡ぎ出す未来において破れている。

 しかし「知」は全体としてはそれを認めようとしない。また気づきもしない。未来は知られうると豪語し、「知」によって未来を支配できるものと過信している。そして「知」はついに神の未来さえ征服しようと挑みかかる。 だがコンピュータの「超人」は存在の「外」にある未来を征服できない。神と人間の心を尽くしえないコスモスの「超人」にそれが可能な筈はない。

 いやそういうことよりも、コンピュータの「超人」を産み出す前に、近代文明のあらゆる分裂と矛盾が無数の敏感な「終末システム」を生み出し、文明社会そのものを破壊することだろう。そうでなければコンピュータの「超人」を生み出すことによって、産みの母なる人類自身が滅んでしまうにちがいない。

 いまや文明を産み育んできた「知」そのものが、地球という生存環境の狭さの中で自分の限界に気づき始めているかのようにみえる。あたかも自分のなしてきたことに疑問を投げかけているかのごとく、「知」は文明の自滅という危機の前でおののいている。

 だが「知」はどこまでも自己完結的な存在の知であって、自分の破れをみずから気づくということは本質的にありえない。そして「知」は神を忘れた自分の罪性の報いを、いままさに「人類文明の終末」というかたちで受けようとしているのである。

 存在の自律性は存在の自己完結性ではないこと、それは超越的な人格神が自分の設定した恣意的目的を実現するために物質宇宙に与えた性質にすぎないこと、したがって「知」はその誕生以来ずっと存在の知として自己目的化しているが、実は存在が人格的な神(厳密には神の手あるいは恣意的思いの一部)の他在であり「存在」であって、神が部分としての自己に戻るための媒介であり手段でしかなかったこと、こういうことを「知」は文明の自滅において終局的に思い知らされるのである。

 文明の自滅は「神の最終審判」というかたちをとる。これは人類の衣を着た神自身の恣意の歩みであり、神の自己否定である。自然・人間・社会・歴史としてさまざまに(部分的に)外化し他在となる神は、部分としての自分に戻るために一旦はみずからの他者にならねばならない。

 そこに他者として立てられる一切のものの独自な実在性が根差している。そしてその他者の中で神は自己を否定して、それを通して自分自身に部分的に戻るのである。

 文明の自滅。それは人間からみれば「知」に対する「信」の審判、現在に対する未来の審判、存在の真理に対する人格の真理の審判である。そしてそれを通してはじめて人間の「知」は止揚され、その「信」と統一されて、神の「知」となる。

 なぜなら、人間の「知」の向こうにある「信」は人間にとってはいつまでも不確かな「信」でありつづけるが、神においては知りつくされた世界の「知」であるからである。

 神の「知」において人間の「知」と「信」ははじめて統一されることになる。それとともに人間の「知」の文明は滅んで神の「知」の文明が現出し、くまなく実現された第二の神なる人類の新たな世界が創出される。

 それはまた「知」の文明史の裏側に隠されてきた「再臨のメシア」へと向かう 「イスラエルの世界史」(神がイスラエル民族に託した世界史)の完成なのである。こうして個人主義・利己主義に基づいた「競争原理の文明」は終わりを告げ、神の直接支配による「調和の文明」としての利他主義・愛他主義の「神の国」が実現する。

 「神の国」は「調和の文明」「共助の文明」をもたらす。そういう意味で「神の国」は「愛の国」でもある。そこでは宗教(信仰)と哲学(推理)と科学(知識)は統一されて「神の知」となり、創造者なる聖書的な唯一神が、自ら進化する弁証法的階層構造の宇宙を創造し、単細胞生物をついには人類へと進化させ、その世界史をユダヤ教・キリスト教・イスラム教の三つの啓示宗教を中心として導いてきた真実が、全存在に普遍的にみられる「三の印」(「自然・歴史・人間に見られる『三・一』の普遍的刻印を帯びた『神の手』」ご参照)を通してくまなく明示される。

 もはや存在を神と同一視するスピノザ的な汎神論哲学も被造物の宇宙を神や仏とする宗教もなく、カント的な不可知論もヒューム的な懐疑論もなく、いかなる主観主義も個人主義もない。むろん資本主義に体現された生存競争的な利己主義と排他主義は永遠に淘汰されて利他主義と愛他主義がくまなく実現する

 それによって個人の個性も自由も多様に最大限に開花する。自己完結視された横暴な自然とその自然に応じる人間の傲慢な「知」は、いずれ到来するメシアの神的能力や権威によって築かれた「神の国」の知と共助と愛の力によって克服される。そして人間の中の獣性はついに克服され、人間は神の知と共助と愛に満ち満ちた真の人間となる。

 人類だけでは、国家と国家、企業と企業、個人と個人の間の生存競争なる自然状態をいつまでたっても乗り越えられない。国家も企業も個人ももともと利己的な利益追及存在なので相手は否応なく敵となり、相互の不可避的な不信のゆえに、あらゆる手段を使って相手に打ち勝とうとする。

 国家も企業も個人も、内心は共助によって平和に共存できればそれが一番なのだ。しかし人類だけでは相互不信のためそうした共助はそのシステムの構築過程で必ず暗礁に乗り上げてしまい、決して実現しない。それはメシアの神的能力や権威およびその神の知と愛によってのみはじめて実現できるのである。多様な「終末システム」が日々無数に生み出される中では、人類自助の道はない。