日本古代史の謎に迫る


改訂新版


─ 「偽史構築の手順」を新たに追加  ─


「三種の神器」の秘密も解明!


第8章以降(結論部)を中心に随時加筆推敲しています。一度ご訪問された方も時を置いてまたご覧ください。


金哲顕

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「曖昧な日本人について」はここをご覧ください

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日本書紀に記された日本古代史は中国側史料とほとんど一致せず、謎に満ちている。その原因の一つは、中国史書の場合とは異なり、王朝自身の手によってその歴史が書かれ、しかもその王朝が千数百年後の現在まで続いたことにある。そのため正史編纂時の王朝の利害が歴史的諸事実をすっかり歪曲してしまい、それをその後、修正することもできず、今となっては何が史実であり、何がそうでないか、判別が非常に難しくなった。

この謎を解きほぐすためにこれまで無数の努力が考えうるあらゆる角度からなされたが、度重なる新たな考古学的発見の助けがあったにもかかわらず、ついに解明には至らなかった。むろん日本書紀に記述された数多くの個々の出来事の真偽に関してはこのホームページでも最終解明は不可能である。しかし「推古紀」を心柱とする日本書紀の虚偽の根幹構造、偽史構築の全体的な仕組みや枠組みはおおよそ突き止め得た(第8章 「偽史発見の視点」)のではないか。

それに関して微力ながら、十二支で「推古」を「馬子」に、また漢字の音訓操作で隋書にある推古時代の倭王「阿毎多利思北孤」を「馬子」に、それぞれ変換できるなど、いくつかの新発見?や私説をここで報告したい。「馬子・蝦夷・入鹿」という名称が「史記」の李斯列傳にある趙高の逸話に由来することも実証する。つまり 「馬子・蝦夷・入鹿」は蔑称であって実名でない。また隋書の「日出處天子致書日没處天子無恙」についても倭王「阿毎多利思北孤」(馬子)が煬帝に致書したもの、という新しい解釈(同上)を述べている。

すなわち本稿は、推古の実体は馬子であったこと、馬子→蝦夷→入鹿と三代続く蘇我王朝が存在したこと、したがって推古も聖徳太子も舒明も皇極も架空人物であり、
日本書紀の万世一系は天智の次女の持統による捏造で、乙巳の政変で蘇我入鹿大王を暗殺することによって倭人の蘇我王朝の「倭国」を亡ぼし「日本」を建国したのは中大兄皇子すなわち天智なる百済の王子の翹岐(ぎょうき)だったこと、以上の論点で記述されている。

万世一系化は「日本」が百済であることを隠すための細工である。これが二つある最大の目的の一つだ。その万世一系捏造の対外的な原因は、持統時代までほぼ半世紀のあいだ唐の権力者だった則天武后(武則天)による白村江の戦い後の侵攻圧力であり、対内的な原因は、「日本」なる在日百済の純日本化工作である。日本側から想像するに、則天武后(武則天)にとっては自らの手で660年(泗沘城陥落)と663年(白村江の戦い)の二度も亡ぼした百済が日本で生き延びていることは赦しがたく、危険でもあり、「日本」なる在日百済にとっては、もはや朝鮮半島における力の背景を完全に失ったので、ここはすっかり日本化しなくては生き続けることができなかった。

万世一系化のもう一つの大目的は、架空の神功三韓征伐による架空の応神三韓永久神授権の根拠づけである。これはもし万世一系であれば応神からのこの「三韓永久神授権」という遺産も同一王朝であるゆえに引き継ぐことができるという
持統の勝手な捏造空想論理だった。持統の駆使する「『三』の秘数構造」から判断して、天皇践祚の時に伝えられる「三種の神器」の実体は、この「三韓永久神授権」のことである。

日本書紀における
偽史構築の手順第9章 発端編纂基準論の要約および偽史構築の手順で素描されているのでご覧いただきたい。そこでは万世一系化における秘密の基礎構造(変形化された鄭玄の革命革令論)と架空の神功皇后三韓征伐物語における秘密の基礎構造(「三」の秘数構造)と「三種の神器」の秘密が明かされている。


朝鮮と日本の古代史に関する一論

─日本書紀の二つの編纂基準について─


目次


要点



日本書紀は推古後の古代日本史研究のためのほとんど唯一の歴史文書史料である。したがって反証のための文書史料がほとんどないので、その文面にほぼ沿って研究するのが有利であるのは言うまでもない。これまでのアカデミックな研究はそういう有利さの上に胡坐をかいてきた。

しかし現在では研究者の大多数が日本書紀の偽史性に気づいている。問題は偽史がどこまで及んでいるかの判断である。アカデミックな伝統的処方に従って少し修正すれば真相が掴めるのか、それとも大胆な仮説によって根本的に修正しないと真相に至れないのか、その判断が重要なのである。

同じ考古学史料と文献史料から出発しても、結論は学者ごとに異なっている。史料批判に基づくアカデミックな研究だけではこの問題の解決には至れない。事実、史料批判をいくら積み重ねても真相がつかめないからこそ、様々な仮説や憶測が生まれてきたのである。筆者は史料批判を踏まえつつもそれを超えた大胆な仮説による根本的な修正が必要だと確信している。

日本書紀の謎を解くには誰が書かせたかが大きなヒントになる。そこからその編纂目的もだいたい推論できる。筆を執って書いたのは主として百済系と唐人系の史官たちで、直接監修したのは舎人親王(天武の子)、最高監修者は藤原不比等である。



森博達(もりひろみち)氏の『日本書紀の謎を解く 述作者は誰か』(中公新書)によれば、全三十巻あるなかで、巻十四~巻二十一巻二十四~巻二十七は α 群で、持統朝に書かれ、中国音性・倭習の少ないところ・正格漢文の特徴から中国人(グループそれぞれ続守言薩弘恪)の手になるが、 α 群のうちで巻二十、巻二十五などには三宅臣藤麻呂の倭習の目立つ加筆があるとされ、

巻一~巻十三、巻二十二・巻二十三、巻二十八・巻二十九は β 群で、文武朝に書かれ、倭音性・漢文に熟達していないところ・仏教漢文の特徴から、日本人(山田史御方・・・還俗新羅留学僧)の手になるとされ、

最終巻の巻三十は持統紀であるが、これは元明朝に書かれ、「倭習」が少なく紀朝臣清人が書いたとする。おおむね α 群は大宝律令(702)前、 β 群は大宝律令後、持統紀は714年以後とする。

森氏は末尾に次のように記している。「唐人の続守言と薩弘恪は正音により正格漢文で α 群を述作した。つまり中国人が中国語で述作したのだ。倭人(日本人)の御方は倭音により和化漢文で β 群を述作した。若くて優秀な清人は倭習の少ない漢文で巻三〇を述作したが、藤麻呂の潤色・加筆には倭習が目立った。」

おおむね納得できるが、偶然の多く絡む歴史現象なので史実(とくに述作者)は案外森説とは違うかもしれない。上代特殊仮名遣いの書き手問題においても、のちに言及するように記紀や万葉集の八音表記法が百済人の書き手を要求しているという点で、日本書紀の β 群が白村江敗戦後の帰化百済人の史(ふひと)によって書かれたことが推測される。

「史」は帰化百済人たちの専業職なので、 β 群の筆記者とされる山田御方もその姓の「史」からみて帰化系百済人だと思われる。森氏が言う「倭習」は実のところ「百済習」なのかも知れない。

「朝鮮語と日本語は方言の違い」というほど文法構造が酷似しており、したがっておのずと漢文の読みに対する百済語的な偏向は日本語におけるその偏向に似てこよう。「倭習」は百済系の史が日本語に慣れたことによって生まれた準輸入品である可能性がある。

ところで α 群が外国人である唐人の手になり、彼らが史料に比較的忠実だからという理由で、 α 群が概ね史実を述べているとか、 α 群は概ね史実であり加筆した方にこそ誤りがある、とは必ずしも言えない。その例も二、三、本文に記した。

かつて続守言は白村江の唐人捕虜だった。薩弘恪は由来が知れないが、孤立していて立場が弱いとみれば、彼らは日本の正史の筆記者として国家(持統や不比等)の意向の枠内で書いたにすぎず、大変な偽史であっても命令されたならそのように書かざるを得なかったとも言える。

あるいは逆にこの二人の唐人は(唐側の日本への侵攻圧力を背景にして)唐の意向に従って唐の利益に合うように日本最初の正史である日本書紀の編纂を指導・監督・監視した可能性もある。

日本書紀が国家の大いなる偽史であれば、二人の唐人が監督者あるいは筆記者としてその現場で働いている事実は、彼らが「偽史構築の共犯者」であるということを意味する。となれば白村江後の唐と日本との立場からみて唐側の意向で偽史編纂がなされていると推測できる。

以後、二人の唐人の立ち位置の両方のケースも考慮しながら結論へと論考を進めていきたい。森博達氏の説に対するその他の二三の疑問については末尾の「森博達説に対する二三の疑問」をご参照。

(注:本稿における「日本書紀」「続日本紀」からの引用文は、多くの場合、講談社学術文庫 宇治谷 孟氏の現代訳「日本書紀」「続日本紀」による)




日本書紀は(古事記もそうだが)天武天皇(673~686)の発意で始められ、720年、元正天皇の治世のときに完成する。天武→持統→文武→元明(天武の娘)→元正(草壁皇子の娘で天武の孫娘)と続く女帝の多いこの時代はむろん天武系の時代である。

天武の発意が発端であり天武系の天皇が引き続き支配する中で編纂されたからには、むろん天武の立場で編纂されたわけである。そして女帝が続いたことを反映して創作的に過去にも女帝が配置された。それが天皇扱いの神功皇后であり、推古天皇や皇極天皇である。

さて、日本書紀は天武の妻の持統で締めくくられている。歴史書の締めくくりにはそれだけの意図が含まれているものだ。それは天武の立場だけでなく、持統の立場も考慮して編纂されたことを意味している。

というより歴史書の締めくくりは歴史の締めくくりでもあるから、日本書紀は本質的には持統の立場で編纂されたということである。それはまた持統の立場を考慮しつつ藤原不比等が藤原氏の立場で編纂したということでもある。

持統の父(天智)の立場と持統の夫(天武)の立場を持統というフィルターを通して藤原氏の立場を考慮しつつ編纂したわけだから、日本書紀は持統と不比等の合作といえる。卑弥呼と同一視された神功皇后の架空の三韓征伐譚に持統の怨念や願いが投影されている。架空の神功皇后は過去に投影された持統自身であろう。

持統は天武に嫁いだ四人(大田皇女・菟野皇女・大江皇女・新田部皇女)の天智の娘のうちの一人である。天智の生前に二人、死後に二人が天武に嫁いでいるが、持統(菟野皇女)は天智の生前に嫁いだ娘のうちの二番目で天智の次女だ。つまり持統には父なる天智の立場が隠れている。



いうまでもなく天智と天武は相反する。対外的には天智は百済系百済派であり、天武は高句麗系新羅派である。日本書紀では同父同母の兄弟とされているが、むろん両者の出自は異なる。

同父同母兄弟の兄が、生前、弟に二人の娘を嫁がせるだけでもあまりにも不自然。兄の死後さらに二人の娘が嫁いだというのも到底納得できない。少なくとも「逆に弟が天皇位にある兄に自分の娘たちを嫁がせる」というのなら少しは分からないでもないし、父母の片方が異なるという場合でもいくらかは理解できる余地のようなものはある。

だが同父同母でしかも皇太子あるいは天皇の兄から弟へ四人も、というのは、到底ありえない。このケースを婚姻社会学や婚姻心理学でよくよく研究してほしいものである。そこから日本書紀の謎が解けるかもしれない。

それにしても長女を嫁がせたうえ次女まで嫁がせるというのでは、これは下賜というよりいわば奉納に近い。げんに立場が弱い筈の弟の天武の方から兄の天智へは娘の提供が一切ない。つまり娘の提供は兄から弟への一方通行なのだ。これは兄から弟への「上納」と言っても良い状況である。

その上、天智死後さらに二人の娘が天武に嫁いだとき、そこには理由として、

(1)天智が死ぬ前にそうしろと遺言していた、
(2)父天智天皇が死んで、後ろ盾がなくなり、天武に嫁ぐことで身の安全を図った、
(3)天智の死後、天武が所望した、

以上、三つの可能性を考えて良いと思われるが、いずれにせよこれら全てに共通して、ここには明らかに血縁でないからこそ生じる恐怖心が介在している。総計四人の娘で四重に血縁構築しなければならないのは、天智と天武の間にいささかの血縁もないということを意味していよう。

人間常識は100パーセントそう判断する。固定観念や偏見にとらわれなければ誰でもそうはっきり判断できる。そしてここから日本書紀の構造的な虚偽性が誰の目にも見えはじめ、その根本に横たわる謎に迫ることができるようになる。おそらく壬申の乱で天武は天智の後をついで天皇となった大友皇子を滅ぼして即位したと思われる。

しかし α 群の筆記者は「天智紀」で(天武なる大海皇子ではなく)大友皇子こそがそもそもから皇太子だった事実、また β 群の筆記者は「天武紀」でその大友皇子が即位した事実を、それぞれ覆い隠し、壬申の乱の真実を曲げている。壬申の乱のもっとも大事なところが歪んでいる。

これは今でいえば、(丸カッコ内に置き換えると分かりやすい)、昭和天皇(天智)の皇太子を、今の平成天皇(大友皇子)である明仁親王でなく、貴子内親王(持統)の夫となった島津久永(天武)だったとし、しかも島津久永は昭和天皇の弟だ、とするに等しいのだ。



こんなに公然と大出鱈目をやっている。つまり日本書紀では王統に関して当時の誰でも知っているこうした公然の事実を歪めて、あからさまな偽史を大々的に展開してる。そもそも天智に大友皇子というちゃんとした息子がいるのに、誰が弟あるいは他人に後継者(皇太子)の地位を与えるだろうか? その点ですでに「おかしい、怪しい」と気づかなくてはならない。

王統は王権の正当性の基礎であり、王の父は誰であり母は誰であるか、先王は誰でありその皇太子は誰であるかが王朝の命。そこが狂っていては王統は虚偽になり、王権は成立しない。それほど大事なところを大々的にあからさまに歪めている。

国家や社会の公益に適うと判断されるなら、大本営発表のように、どんな偽史でもまるで正しいことのように書けるのである。「歴史とは勝者の歴史、勝者が自分の都合のいいように粉飾したストーリーだ」というのはここでこそ正しい。

天命を受けて成立したとする新王朝は旧王朝に対する処分権の延長として、過去そのものに対しても天命による処分権があると思いなしてしまうのではないか? 確かに過去を変えてしまうだけの権力を持ってしまったからには、これは大きな誘惑となろう。正史が次の王朝によって編纂される中国においては、比較的にその誘惑は弱い。しかし王朝が現在まで続いた日本では、王朝自身が自分の正史を書くことになり、結局、この誘惑に負けてしまったということだろう。

天智と天武を同父同母の兄弟に仕立て上げたのは、(本当はそれでも無理なのだが)、少なくともそうでもしないと、大友皇子という息子がいるのに天智がその息子を差し置いて天武を皇太子(皇太弟)にしたという日本書紀の虚偽のストーリーが成立しないからである。片親が違うとか赤の他人とかでは絶対に天智が天武を皇太子にしたというストーリーは成り立たない。また天智と天武が同父同母の兄弟だと作為してこそ、ちゃんとした万世一系も成り立つわけである。

ちなみに大友皇子は明治三年に「弘文天皇」(672)として諡号を追贈されている。天皇に即位したかどうかは後世でも勝手には決められない王朝の最高重大事。これは皇室やその菩提寺の泉湧寺など特定のある筋には、日本書記と異なる歴史の真相がまるごと伝わっているということを示している。

この諡号追贈は、「天武でなく大友皇子が天智朝の皇太子であり、天智が死んだあと天皇に即位した大友皇子を天武が壬申の乱で殺害した」という真実を洩らす危険を伴うものであるが、それでもなんとか大友皇子の立場を挽回・回復・成仏させたい、とするものなのだ。とはいえこの諡号追贈に天智紀や天武紀と根本的に矛盾するこうした意味があることは未だに隠され続けている。その筋の者たちからみれば、日本書紀にすっかり騙されている日本国民がおろかに見えているに違いない。

「歴史をごまかし出自を歪曲して壬申の乱を正当化する」というのが日本書紀編纂の大目的の一つであろう。むろんあからさまな歪みは日本書紀の至る所で構築されるに至る。生存者も多いごくごく近い過去でさえこのありさまだから、さらに過去なら、なにごとも全く信用できない。

こうして(天智の娘でもあり天武の妻でもある持統自体において天智と天武が一つとなっていることを反映して)天智と天武は父(舒明)と母(皇極・斉明)を同じくする兄弟とされ、このようにして一つとされた血筋は過去にどんどん遡って神武天皇に至り、その神武は神代紀における神々の世界に接続された。



さて、王朝の歴史を編纂しようとするとき、まず歴史の発端が要る。そのあとその発端から続く時代の割り振りが要る。「発端基準」と「割り振り基準」、この二つが歴史の編纂基準になるわけである。

王朝がみずからの架空の歴史を編纂するとき、発端となる王朝の開始年は特別な年でなくてはならないから、それなりの理由のある年を選ぶことになる。とくに神々の先史を持つ王朝の場合はそうだ。それが鄭玄の讖緯(しんい)暦運説による1320年サイクルの「革命」「革令」論である。

これが日本書紀の発端基準を決める原理とされた。神武即位を紀元前660年にしたのはそれによる。「鄭玄に関する1320年論は誤りで1260年論が正しい」と主張する者たちがいるが、真相に至るにはどうやらもう一ひねり必要なようだ。ともかく本文でその理由を詳しく述べるように、日本書紀の発端編纂基準においては、1320年論が正しい。



しかしそもそも神々の歴史にも、それに接続する王朝創始の歴史にも、直接的な史実性などはないから、王朝史に見かけ上の史実性をもたらすためにもうひとつの細工をしなくてはならない。それが中国史書にその実在性が保証された卑弥呼である。

つまり(隠然とした形ではあるが)卑弥呼を神功皇后(気長足姫尊)として記述し、卑弥呼に関する中国史書を引用して、日本書紀における架空の歴史(皇統譜)を事実化しようと目論んだ。

そして卑弥呼と結び付けられた神功皇后時代を歴史を割り振る編纂基準としたのである。日本書紀における中国史書からの引用は唯一「魏志倭人伝」からのこの卑弥呼の記事だけ(神功皇后三十九年条・四十年条・四十三年条・六十六年条)である。

むろん日本書紀には史記・漢書・後漢書・魏志・梁書・隋書・淮南子・芸文類聚・文選からの潤色が数多く見られるので、それらの漢籍が史官たちの横にあったのは事実だが、表立っての引用はこの卑弥呼の記事のみである。

外国史書としてはあとは(百済滅亡後の天智・天武の時代になって現れた「日本」や「天皇」という語さえ見えるので明らかに)偽書だと思われる百済記・百済本記・百済新撰などからの引用がいろいろな天皇紀にときおりあるだけだ。

したがって唯一中国史書から引用している卑弥呼記事は(日本書紀の特に皇統譜の史実性を演出するという点で百済史書とは比重の異なる)非常に特別な(唯一的に歴史を割り振る中心軸を担った)引用記事だということが分かる。

神功皇后(気長足姫尊)と女王卑弥呼は女王と皇后という立場や後継者や時代環境などいろいろな面で明らかに異なる人物であるが、日本書記はあえてそれらを無視して卑弥呼=神功皇后としたわけだ。

その表れの一つが、全三十巻あるうちの丸まる一巻を宛がわれて他の天皇紀と同じ形式の記述になっている神功皇后の天皇扱いである。卑弥呼が女王だったことと神功皇后が持統天皇の投影であることでこうなったと思われる。神功皇后紀が天皇紀のような唯一の例外となっている非常な特異性も、それが日本書紀の「割り振り基準」となっているからである。



ところで、神武天皇を除く全ての天皇の場合、即位年あるいは天皇元年あるいは称制年を「是年也太歳☆△」(☆△は干支)で締めくくる記述方式なのに、神功紀では例外的に崩れて、「是年也太歳辛巳」で終わらず、それに続く「則為摂政元年」で締めくくられている。

神武紀では唯一の例外として天皇の即位年・天皇元年・称制年ではなく東征出発年が「是年也太歳甲寅」で締めくくられている。神武の即位年には文章の中間に、「・・・・・ 是歳為天皇元年 ・・・・」とあるのみだ。

天智の場合は称制年(661)でなくその翌年の天皇元年に「是年也太歳☆△」がある。ちなみに「是年也太歳☆△」が天武紀では天武二年に存在するのも天武の即位年が天武二年であるため。いずれにしても天皇の即位年あるいは天皇元年あるいは称制年を「是年也太歳☆△」で締めくくる記述方式が神武紀と神功紀だけで崩れている。

また天皇の即位年あるいは天皇元年あるいは称制年を締めくくる(各天皇紀に一度きりの)特別な句である「是年也太歳☆△」が、どういうわけか神功紀には三度(摂政元年・摂政39年・最終年の摂政69年)も存在する。

摂政39年条の「是年也太歳☆△」が魏志倭人伝引用紹介と関わっていて、それが元年でもなく最終年でもなく、まさしくそれらの中間(中心)にあるのは、これこそが日本書紀の中心となるべき「割り振り基準」だからである。魏志倭人伝引用は摂政39年条・摂政40年条・摂政43年条を通じて連続記事として、なされている。これらの引用全体が「割り振り基準」なのだ。

また(固有名詞付きの「▽◇天皇元年」という姿でなく)単に「天皇元年」や「摂政元年」という表記も神武紀と神功紀にしかない。これらからも神武紀と神功紀が(編纂基準をなす)例外的な扱いであることが分かる。



それでは日本書紀はなぜ卑弥呼が行いもしなかった三韓征伐を神功皇后(気長足姫尊)にやらせたのか? それは持統天皇の出自に秘密がある。

持統は百済王家の流れを汲む者だったので(言い換えれば父の天智天皇が百済王家の王子あるいは王族だったゆえに)三韓支配権を主張したわけである。

もしかすると天智は百済王子の翹岐(ぎょうき)かもしれないが、そうでなければ、他の在日の百済王子か百済王族だっただろう。

百済王家の血筋である持統天皇が百済の旧地だけでなく三韓の支配権まで主張したのは、持統天皇時代すでに朝鮮半島つまり三韓が仇敵である新羅の支配下に入っていたからである。

これは「三韓は新羅が支配すべきでなく、三韓を支配するものがもしあるとすれば、それはそもそも百済でなくてはならない」という観念の反映なのだ。

すでに660年に百済は唐と新羅の連合軍によって首都の扶余を落とされ、義慈王も捕虜となり、663年の白村江における百済-倭連合軍の大敗で最終的に滅ぼされていて、日本書紀編纂完了時(720)、朝鮮半島はとっくに新羅によって統一されていた。

そこで百済王家の流れを汲む持統天皇は三韓支配権を主張するために神功皇后を創出し、彼女に架空の三韓征伐を行わせ、その三韓征伐中の神功の胎内に応神天皇を孕まさせ、応神が神功皇后とともに三韓征伐したかのような形式を作り、こうして応神天皇を生まれながらの三韓支配者として細工し、このような架空の神功皇后にみずからの意思・願い・妄念を仮託したわけだ。

そこに日本書紀の万世一系論が加われば、「応神のものである三韓は代々自分たち天皇家のもの」という考えが可能になる。

むろん持統天皇を頂点とする日本書紀の編纂者たちが神功皇后紀を日本書紀の「割り振り」編纂基準にしているのは、「神功三韓征伐とそれによる三韓永久支配権」という思想を日本書紀の基本骨格の一つにしたいがためである。

この神功三韓征伐による三韓永久支配権思想はのちの任那日本府経営譚にもつながるもので、日本書紀全体の一つの礎・基調・本体をなすものなのだ。



持統天皇が百済王家の流れを汲む者でなければ、歴史的にみて「三韓は生まれながらの応神のもの」という発想の出所が存在しない。

かりにたまたま三韓征伐をした天皇や皇后がかつていたとしても、支配がたとえば数百年も続いたのでなければ、征服地が生まれながらの所有であるというような観念は生まれてこない。

しかも三韓征伐をした天皇も皇后もいない。天皇家の皇子が三韓征伐をしたというのも、天皇家の将軍が三韓征伐をしたというのも史実としては存在しない。

もしなにか他に理由があるとすれば、それは(後にほぼ事実と判明するが)たとえば応神がそもそも朝鮮半島人の金官伽耶国王(任那王)であって、その彼が九州に渡り大和へ向けて東征したということや、

あるいは継体が応神の後裔として金官伽耶国王(任那王)の王子あるいは王族で、たまたま天皇家すなわち応神の血筋が途切れたので、娘婿となって天皇家を継ぐ者として金官伽耶国から招請されたということが可能性としてありうる。

それらの場合、応神や継体が南韓の一部をかつて王あるいは王子・王族として支配していたのを、彼らのずっと後の後継者たちが野望的に拡大解釈して、「応神あるいは継体あるいはその後裔である天皇家は祖地である三韓の支配権を生まれながらにして所有している」という想念を生み出しうる。

これもまたそもそも天皇家の出自が朝鮮半島人であってこそ可能なのだ。いずれにしても「三韓は生まれながらにして応神すなわち天皇家のもの」という観念は、天皇家が南韓出身である場合にのみ成り立ちうる。これは日本書紀でそういう思想を展開している(百済王家の流れを汲む)持統天皇の場合にも成り立つ。




ところで欽明天皇時代にその回復が企図されたという任那日本府の話であるが、その「任那日本府」という言い方も誤りである。というのも、「日本」という国名が生まれたのは欽明天皇のときより百数十年後の天智朝のときだからである。これは中国の古都の西安(かつての長安)で発見された678年埋葬の祢軍(でいぐん)の墓誌に「日本」の二字があることで判明した。現在のところこれが「日本」という国名の最古の記録である。

「日本書紀」編纂時にはむろん「日本」という国名は存在していたから、そのときの「日本」を過去に投影したわけだ。のちに明かされるが、「日本」という国号には天智と共有する持統の立場が介在しており、「任那日本府」という言葉の中に「任那持統府」と言えるほどの持統の妄念(三韓神授説)が反映している。

「任那」という国名は中国史書にも出ているので、朝鮮半島南岸部に(たぶん伽耶諸国のうちの一つである「金官伽耶国」として)実在し、日本国との親密な外交関係を築いていたと思われるが、そこにも朝鮮人の王がいて支配しているわけである。その王家と倭国の大王家とがもしかすると婚姻関係などで結ばれていて多少の政治的・軍事的・経済的な往来はあったことだろう。

しかし高句麗や新羅や百済から圧迫を受けている任那が倭国から傭兵として援軍を導入したということはあっても、神功皇后の三韓征伐という事実が存在しないため、任那は日本書紀に(かつて神功皇后の三韓征伐でその支配権の土台が築かれた)「任那日本府」という言葉で連想されるような従属国家あるいは従属地域ではなかっただろう。

せいぜい倭人の傭兵や使節団はいるものの、現地政治に介入する「府」と言えるほどのものなど存在しなかったことは、今では大方の専門家の認めるところである。このことについては、かつて天皇制軍国主義日本が朝鮮を植民地にした時、すぐさま中枢地域でそうした官衙遺跡や前方後円墳などを探したが、何も見つからなかった。



ところで、近年になって前方後円墳が、前方後方墳・四隅突出墓・竪穴式石室墓・横穴式石室墓と同様に日本独自のものでなく高句麗から日本へもたらされたものであることが、北朝鮮の慈江道の松岩里や雲坪里などの鴨緑江沿いの積石塚式高句麗古墳群の発掘によって明らかになった。

日本最古の前方後円墳より300年以上も古いとされる慈江道慈城郡松岩里第1地区106号墳(全長24メートル、円丘高1.6メートル、方形部高数十センチ)などには、前方後円墳であることを示す多くの特徴が見られる。全浩天氏の『前方後円墳の源流ー高句麗の前方後円形積石塚」(未来社 1991年)ご参照。

とりわけ5世紀まで倭国は独自に農・工・武具の鉄器を作れず、4世紀前半以降、鉄と鉄器を任那から得、その獲得と分配によってヤマト王朝が列島支配を成し遂げていくほどなのだ。

倭国が鉄器を求めて任那と修好を結び、鉄器のために傭兵を送ることはあっても、先進鉄器武具を備えた任那を武力で破って長期支配するなど不可能なことである。任那が倭国から導入した傭兵ももとは任那の正規軍のように鉄兜や鉄鎧で重装備したものではなかった。

そもそもこれまで日本では伽耶諸国全体を任那と考え、日本府をその全範囲に及ぶものとしてきたが、任那はそのうちの一国である盟主の金官伽耶国に過ぎない。しかも最近の発掘調査によれば、金官伽耶国が新羅や百済や高句麗や倭国とも異なる独自の長期文化圏であることが漸次明らかになってきている。

任那を伽耶諸国全体とし、さらにその全体に日本府を置くという日本書紀の歪曲は、二重三重の歪曲であり、三韓全体に対する持統の所有願望に由来する。



日本書紀に相当な分量で記述されている任那日本府回復のための出兵というものも存在しなかった。但し(第八章でより詳しく述べるが)任那は欽明二十三年(562年)正月条の詔から推測できるように応神と継体の祖国だった。

任那(金官伽倻国)が新羅に滅ぼされた欽明二十三年(562年)正月条で、欽明は「・・・・君父の仇を報いることが出来なかったら、死んでも臣子としての道を尽くせなかったことを恨むことになろう」(報君父之仇讎。則死有恨臣之子道不成)と詔を結んでいる。これは任那が欽明にとって「君父のいたところ」という意味の文である。

応神と継体の祖国だった任那は応神王朝と継体王朝の「君父の国」として敬愛され、百済や新羅などから侵攻を受け存立が危うくなった時に倭国はたびたび任那に救援軍を派遣したものと思われる。こうした「君父の国」救援軍の長大な記録が保存されていて、持統はそれを倭人優越報復史観の立場から、「任那日本府」植民地経営の記録として歪曲利用したということである。

任那日本府回復物語はほとんどが神功皇后の三韓征伐物語に土台を置いたもので、その神功皇后は持統天皇の妄念ともいうべき願いを仮託して創出された架空の人物なのだ。

だから「本来百済に属すべき三韓を取り戻す」という持統天皇の強い妄念が、日本書紀における任那日本府回復物語の背後にある。つまり日本書紀の第九巻に相当な分量で詳しく記述されている神功皇后の三韓征伐物語が架空であるのと全く同じ理由で、君臣主従の事実関係を逆転させた大容量の任那日本府回復物語もほとんどが架空なのだ。

のちに本文で明かされるが、「日本」とは「在日化した百済」の別名であり、したがって架空の「任那日本府」は実は「任那百済府」と言えるほどのものなのである。



さて、扶余陥落による百済崩壊は660年、白村江の大敗は663年である。百済崩壊翌年(661)が日本史の記述基準であるのは、鄭玄由来の1320年サイクルの「革命」「革令」論に従って、その年(辛酉年)から1320年以前のB.C660年(辛酉年)を神武即位年としているところから判明する。(辛酉は「しんゆう」と読む)

別の言葉でいえば、「革命」の辛酉年(661)は斉明の死による天智称制の始まりの年、その三年後の「革令」の甲子年は白村江大敗(663年9月)の翌年の2月9日に大海人皇子を通して発布された「冠位二十六階」という新冠位発布で示される新国家制度開始の年のことである。

「革命」「革令」はむろん王朝の交代を意味している。つまりそれまでの倭国の諸王朝の流れ(たぶん蘇我王朝や孝徳朝)は、百済王朝後継政権(日本に永久移住した百済王国)としての天智時代の開始とともに終わりを告げたということなのだ。

これが日本書紀の時間軸を決める出来事とされた。つまり百済王朝後継政権の樹立というこの辛酉年の出来事が時間の原点となり、鄭玄由来の讖緯暦運説に従って、その1320年前の辛酉年に神武即位を置いた。ともに新王朝の発足年である。



ところで、中国では王朝交代が、事実、何度も起き、そのため後の王朝が先の王朝の歴史を編纂するということになった。その結果、史書の史実性が比較的に保たれたが、日本では王朝交代が起きたことにはされず、古事記や日本書紀では(事実に反して)ずっと同じ王朝であるかのように記された。

したがって日本では王朝がみずからの歴史を編纂するという姿が「形式的に」生じてしまい、真実の歴史が歪められてしまった。そして、その王朝がその後現在に至るまでずっと続いたため、そういう歪曲された歴史を正すことさえ原理的に不可能になった。

もし日本にも王朝交代が起きた事実を前提にして日本書紀が記述されていれば、その後も王朝交代は何度も起きたことであろうし、後代の王朝の手による比較的史実に近い歴史というものが日本人にも可能になったことであろう。



それでは日本書紀においてどうして王朝交代の事実が隠蔽されたのか? それは天皇家の出自を隠し、それによって百済王朝後継政権が日本に溶け込み、根付くためである。つまり日本に溶け込んで一般唐人の目から逃れること、日本に根付いて純日本化することが目的である。

唐がせっかく苦労して亡ぼした筈の百済が倭国に移動し日本として存続しているのをその一般唐人に知られては非常にまずい。また、もはや朝鮮半島にみずからの王朝はない。そこに力の背景もない。とことん日本化しなくては日本で百済王国を営むことは難しかった。

そこで過去の倭国の王朝もずっと一系だったことにして、その王朝の始祖を(三韓とは全く起源の異なる)天上の神々の子孫である神武とし、自らをその一系の王朝に属する姿にして、過去の歴史とみずからの歴史を歪曲した。

そのとき「そもそも神々の子孫だから王家に姓などない」とでもいうように、自分の姓とともに以前の各王家の姓も全て隠蔽した。天孫一系とされた日本の天皇家に姓がないのは、天智天皇家の本当の姓(扶余)を隠すためであろう。

ところで、天皇家が一系でこそ、応神のものだった三韓が代々天皇家のものになりうる。日本書紀における一系論はもともと一般唐人や倭人の目から天皇家の出自を隠す目的のものだが、同時に、「応神のものだった三韓を代々天皇家のものとする」という目的においても構築された。

一系論には(一般唐人の目から在日百済を隠す・在日百済を純日本化する・三韓神授説)この三つの目的があった。それらはともに日本書紀の二つの編纂基準と直接つながっている。

重大な問題は、そうした持統天皇によってもたらされた日本書紀による古代史の歪曲が、のちのち和寇侵攻・秀吉の朝鮮侵略・明治の朝鮮植民地支配・朝鮮半島分断・極東諸国との根深い確執・在日朝鮮人に対する差別などなどをもたらすことになったということである。日本に侵略されたアジア人とりわけ朝鮮・韓国人の不幸の根源には持統天皇の妄念がある。



第1章  序



過去の歴史を現在の民族意識や国境意識で見ては歴史の真実を誤ることになる。人工衛星から見た地球のように、そこにはなにも特別な境界というものはない。

そして朝鮮半島と日本列島との地理的形状や位置や海流を考えれば、渡来して弥生人となった者たちの源流が(量において圧倒的に)朝鮮半島人とくにその南部の人々であることは自明の理である。よく晴れていればプサン市内から対馬が見える。

そもそも紀元前千数百年前から朝鮮半島人は列島各地に渡り、縄文人と交流・混血しながら弥生集落を築き、独自の生活圏を構築していた。そうした太古の時代では交流のある朝鮮半島や大陸と向き合っている日本海側こそ表日本で、そこに多くの大規模集落やクニが築かれた。太平洋側は裏日本だったのである。

そういう素地の上で朝鮮半島各地にいた住民は集団で日本列島に渡って北九州や出雲や越などに拠点を構えた。この段階では彼らはまだまだ朝鮮人だったわけである。

移住民はその後も長いあいだ朝鮮半島の祖地と交流を続けたことであろう。その後、朝鮮半島が国家形成の時代となって三韓時代に入り、さらに三国時代に至ると、日本列島内のそうした大規模集落やクニでも、朝鮮半島南部の祖地に成立したそれぞれの国家の影響を多かれ少なかれ受け続けたに違いない。

彼らは列島内に「クダラ」「カヤ」「シラギ」「コマ」といった名のクニ(小国)をそれぞれいくつも作った。その痕跡が列島内のあちこちにある「百済」「伽耶」「新羅」「高麗」の名を冠した村や郷である。これらは一例として「白木」「駕夜」「賀陽」「狛」「巨摩」などなど同音の別の漢字を当てられることもある。

先進的な朝鮮半島の文化はまず彼らの中に流入し、それから列島の隅々にまで浸透していった。のちにそれらの列島内の「クダラ」「カヤ」「シラギ」「コマ」が大和王朝によって制圧される過程が列島(とくに西日本)の実質的な統一過程となったが、古事記や日本書紀はそれを意図的に横滑りさせて、大和王朝による三韓制圧・支配ということにしたのかもしれない。



国立歴史民俗博物館の春成秀璽氏は炭素14年代法と年輪年代法による「弥生時代の実年代」において、次のように発表をしている。(原文のまま、ただし色字は筆者による)

1. 弥生時代の炭素年代・年輪年代

 炭素14年代測定法によって2003年12月までに測定した範囲内では、

 1) 北部九州の弥生早期の始まりは前10世紀、弥生前期の始まりは前9世紀末~前8世紀前半、中期の始まりは前4世紀前半である。
 2) 四国の弥生前期の始まりは前9世紀末~前8世紀前半で、北部九州と並ぶか、または遅れる。
 3) 近畿の弥生前期の始まりは前8世紀~前5世紀の間にあるが、まだ十分にしぼりこむ段階にいたっていない。中期のはじまりは4世紀前半~中頃である。
 4) 近畿・中国地方の炭素年代と年輪年代とは、判明しているかぎりでは整合的である。

2. 韓国無文土器時代の炭素年代

 韓国南部の無文土器の各時期も通説よりもはるかに古く、ソウル大学校での測定結果を追認することになった。韓国南部と北部九州の土器形型式の併行関係は炭素年代においても確認された。



今では韓国南部の無文土器が弥生式土器の先駆形態であることが判明しているが、このようにおよそ千数百年にわたる弥生時代の期間中、朝鮮半島から朝鮮人が、最短距離にある北九州をはじめ日本列島各地に、断続的にさまざまな規模で渡って行ったことが分かる。

人種的にみても朝鮮人と日本人にほとんど違いはない。たとえばDNAの「遺伝距離」でみると両者の距離はほぼゼロである。琉球人はそこから少し離れ、中国人はさらに離れ、アイヌ人はさらにほんの少し離れ、アメリカ原住民はさらに大きく離れる。

最近のミトコンドリアDNA(母→娘)やY染色体(父→息子)の系統論によれば、列島先住の縄文系に朝鮮半島渡来の弥生系が流入し、その後、生産力の大きい稲作に裏付けられた比較的長寿の女性によるより高い繁殖率によって弥生系が優位になったものが日本人であることが判明している。

鳥取県沿岸部の青谷上寺地遺跡(1991年確認)で100体以上の人骨が発掘されたが、その一部のミトコンドリアDNA(母系)の系譜から、北部インドシナや中国全土に分散していた8つの系統(B4・B5・M7b・N9a・C・D4・D5・G)が朝鮮半島に集まったうえで混血し、紀元2世紀ごろ青谷上寺地地域に渡来して大集落を形成していたことが分かった。

なかでもD4は北部中国~朝鮮半島~北部九州・中国地方に分布する系統で、青谷上寺地遺跡人骨のうちのおよそ半分の圧倒的な比率を占めている。

100体以上の人骨のうちミトコンドリアDNAが判別可能なのは32体だけで、そのうちの31体が朝鮮半島由来の弥生系、1体が縄文系だった。むろん異郷へ移動する場合、女性は男性に伴われてやってくるので朝鮮半島由来の弥生系男性の比率も母系と同じように高かった筈である。

より損傷の激しいY染色体(父系)が判別できたのは母系が朝鮮半島由来の31体のうちの4体だけで、そのうちの3体が縄文系、残り1体が朝鮮半島由来の弥生系だった。母系の場合と矛盾する奇妙な逆転現象である。しかしこの4体のみがたまたま土地の低酸性度などのせいで保存状態が良かっただけなのかもしれない。4体だけでは確かなことはなにも言えない。

常識的に考えれば母系が圧倒的に朝鮮半島由来であれば、父系もそうだったと見るべきだろう。それに、この縄文系がはたして朝鮮半島の縄文系か日本列島のそれかはまだ判別できていないという。

他の地域を含めたより広範な各系統の遺伝子分布図によって、弥生時代~古墳時代の長期間にわたって朝鮮半島からの大小のこういう渡来が日本各地で断続的に起きていただろうことも判明した。

たとえば福島県喜多方市の5世紀ごろの灰塚山古墳(前方後円墳)第二主体石棺墓から発掘された頭蓋骨による容貌の復元については、被葬者が「比較的面長で、鼻の付け根が平らな、渡来系の顔つきだ」と報告されている。2019年6月4日の河北新報によれば、発掘責任者である東北学院大学の辻秀人教授は「会津地方は能登半島などを経由してきた渡来系集団が、大和朝廷の政治的な後ろ盾を得ながら支配していたとみられる」としている。

朝鮮語と日本語は(鹿児島弁と関西弁のように)文法はほぼ同じで、単語さえ入れ替えれば全て通じるほどの方言的距離しかない。たぶん朝鮮半島南部における太古の方言のひとつが日本語の単語の相当部分の起源なのであろう。


(註1)

日本語と朝鮮語との間に共通語があまり見当たらない。音韻系も異なる。むろん比較言語学が主張するように言語の系統問題については音韻対応に注目すべきだが、それに劣らず文法構造も重要だ。文法構造からみて日本語の基本はツングース系であり、一部の見解ではその上に南方オーストロネシア系の語彙や接頭辞などなどが加わって日本語となったとされている。つまり日本語はツングース系とオーストロネシア系の混合語であるとするわけだ。

DNAの系統論からみて現在の日本人の血統は縄文系に対して朝鮮半島由来の弥生系が優位になったものであるが、他方、日本人の言語はどうやら弥生人渡来以前の縄文末期にはすでに完成していたというのが定説化しつつある。

Y染色体でみると、日本人はC1系・C3系・D2系・O2b系・O3系の五つのタイプによって構成され、そのうちD2系・O2b系・O3系が強く、この三者で8割を占めるが、一万数千年前には、朝鮮半島を経由して流入した縄文系のD2(旧渡来系)と南方から流入したスンダランド系(南方オーストロネシア系)のC1系との混交が九州で起きて、このときに日本祖語の基礎構造(ツングース系とオーストロネシア系の混合)がすでにできあがったとする見方だ。

そのあと稲作と製鉄を伴って新しく流入してきた弥生人のO2b系とO3系は、現在の朝鮮人の主要な部分を構成するが、これがすなわち朝鮮半島からの新渡来系で、彼らは縄文系と弥生系という新旧渡来系共通のツングース系文法に助けられて、日本語を比較的たやすく受容できたようだ。なお縄文系のD2は現在では朝鮮人の4%を占めるに過ぎない。

(追記)
日本語に朝鮮語との共通単語が見当たらないのはスンダランド系とはあまり関係なく、もしかすると朝鮮半島から日本列島中央部に渡来した最古の縄文人の言語が日本語の基礎となったためかもしれない。日本列島の閉鎖性のためそれが日本では保存されて現在の日本語の祖語となり、他方、朝鮮半島ではその後、大陸から新しく流入してきた弥生系が先住の縄文系を朝鮮半島から駆逐しそこに弥生系言語圏を形成したため、縄文系の単語とは全く系統の異なる弥生系の単語が使われるようになった、という可能性だ。つまり縄文系も弥生系も倭人の大部分は朝鮮半島から渡来したにもかかわらず朝鮮語と日本語の間に共通の単語や音韻がほとんど見られないのは、日本語が縄文語であり、朝鮮語が弥生語であるためかもしれない。その場合、日本列島に渡来した弥生系集団の言語は縄文語によって淘汰されたということになる。つまり列島先住の縄文人は次々と少人数で渡来する弥生系集団と比べて圧倒的に数で勝っていたということ。縄文系は最終結果としては弥生系に数で圧倒されるに至ったものの、歴史経過としては少人数で渡来して来る弥生系をその都度その都度、縄文色に染めあげることを繰り返した結果、日本列島における弥生系は縄文系の言語である日本語を使うようになったのかもしれない。

(注)
その後の研究でもともとから日本語は五音あるいは六音だったとするのが定説化しつつある。つまり記紀や万葉集にある上代特殊仮名遣いの八音表記( a u i e o i e o ─ i e oは乙音系で i e o は甲音系)は、日本語が八音だったためでなく、中間母音のある百済語で聞き分け話し分けていた帰化百済人の史たちが、多母音系の百済語の発音に影響され日本音を八音に分別して表記したことに起因し、のちになって日本語表記が五音化したのは帰化百済人の史が世代交代する中でついにいなくなったためだとする

この説によると森博達氏のいう述作者説は多少とも修正を余儀なくされる。そしてβ群に見られる「倭習」も実は「百済習」だったということになる。また森氏が「八音表記は古代日本人が八音で語っていたから」とするのも問題となる。森氏はこの「八音発音表記説」の上で自説を組み立てているからだ。

しかし日本語がもともと五母音や六母音であったならいくらなんでも八母音表記は生まれない筈。たぶん日本語はそもそも縄文語であって、この縄文語は八母音であったが、その後、新しく流入してきた弥生語の影響でだんだんと乙音系が条件異音化し、ある条件下ではみずから乙音系を発音しているにもかかわらず日本人にはそれが知覚できなくなった。

しかし二十一も母音のある朝鮮語(弥生語)を話す百済人第一世代の耳には乙音系もすっかり聞き取れて日本語はそのまま八母音表記になった。その後百済人の史が第二世代になると聞き取り能力が落ちて六母音表記となり、さらに第三世代になるとすっかり朝鮮語が使えなくなったため、つまり百済人の史が途絶消滅したため五母音表記となった、こうも考えられる。

この場合、畿内は五音で話していたとかどこそこは六音で会話していたとかということはなく、どこも(百済人一世には八音に聞こえる)ほぼ同じ条件異音含みの五音だったが、聞き取り能力の世代的退化によって六音表記となったり五音表記になったりしただけということになる。六音表記や五音表記があるからと言って事実日本人がその地域で六音や五音で話していたというわけではないだろう。


ちなみに一部日本人研究者の最近の動向として、DNAの比率で渡来系が8割、縄文系が2割であることを認めつつも、日本独特の縄文系に注目し、そこに日本人の純粋なルーツを求めようとする傾向が目立っている。これも古代から今に続く差別意識のなせるわざであろう。

だれがどうみても8割の部分が主、中心、核心、本体であろうが、そこは朝鮮半島渡来系との重複があるので忌避したい。そこで渡来系とほとんど無関係と思われる残り2割の縄文系に日本人の純粋な起源を見ようとするわけだ。彼らはこれを「ルーツ」や「原点」とも呼んでいる。これは差別化の論理に他ならないが、差別視の表れでもある。

最近(2010年代)のDNA研究によると、縄文系は人類がアフリカを出てアジアに向かったこれまで判明している2系統(東アジア系と東南アジア系)に属さず、この2系統が生じる以前にすでに存在していたことが判明し、その独自性や最古性や大陸移動ルートの不分明性などが注目されている。

最近の一部研究者たちは縄文系のこうした特質を日本人の純粋なルーツと結び付けようとしている。ところが縄文系はアイヌや蝦夷・熊襲や沖縄として、古代以来延々とこれまで本土日本人が侮蔑し差別してきた対象ではなかったか? 今更そこに日本人の純粋なルーツ・原点を求めるというのは、なんとも歪んだ話ではある。


この問題の「ルーツ」の真の定義については、

まずは①「完全混血」。比率の差こそあれ、日本人なら誰の遺伝子の中にも普遍的に存在するということ。これには数千年の月日が必要だ。

次は②「主要な源流」。たとえば0.1%の遺伝子の共有という程度なら3千年前のトラキア人やエジプト人やバビロニア人などの遺伝子でさえ日本人の遺伝子の中に普遍的に存在しているかもしれないが、これらを「ルーツ」「原点」とは呼べない。やはり相当な比率で存在する必要がある。それを「主要な源流」と呼ぶわけだ。

どのぐらいの比率であれば「主要な」と言えるだろうか? 50%以上ならむろんOK。主要な渡来系弥生人である朝鮮半島系は70%以上なので文句なしに「主要な源流」であるが、20%の縄文系はどうだろう? 

最後に③「原住民」という点。これは大きな要素ではあるが、決定因でない。原住民であっても、もし①と②が伴わないなら「ルーツ」「原点」にはなりえない。したがってアメリカ原住民はアメリカ合衆国の「ルーツ」「原点」「源流」にはなれない。アメリカ原住民の歴史(流れ)はアメリカ合衆国を建国した白人勢力の登場によって途絶えてしまった。

以上から考えると、弥生系の他に縄文系しかなく、しかも縄文系が原住民なので、いわば「合わせ技一本」で、20%の縄文系を日本人の「ルーツ」「原点」「源流」と呼んで良いと思われる。ただし「日本人のメインのルーツは渡来系弥生人の朝鮮半島系、サブのルーツは縄文系」とすべきだろう。縄文系は日本人の「純粋なルーツ」とも「支配的なルーツ」ともいえない。


ついでにご参考のため、この縄文系は、①顔の皮膚がシミになりやすく、②耳垢が湿っていて、③くせ毛があり、④二重瞼で、⑤ウインクができるという性質を持つ。①の性質は第16染色体のMC1R遺伝子のある塩基がG(グアニン)であることが原因で、渡来系ではそこがA(アデニン)であり、大半の日本人の顔は縄文人よりはシミになりにくい。このGの現代日本人における分布(縄文系の度合い)は、北海道・東北が17.6%、九州・沖縄が21.4%、それ以外(中国・四国・関西・中部・関東)が5.0%であり、これは本土日本人の主体が大陸弥生系であることを示す。

(追記)
国立科学博物館の海部陽介氏の『日本人はどこから来たのか?』(2016 文芸春秋)によれば、縄文人の渡来は、アムール川樺太ルート(陸続き)が約2万6千年前、中国大陸台湾沖縄海上ルートが約3万年以上前、朝鮮半島対馬渡海ルートが約3万8千年前。これによると最古の縄文人も朝鮮半島経由になっている。しかも沖縄や樺太の南北ルートとは違いそのまま列島中央部に到着し定住したことで、後の朝鮮半島からの弥生系渡来人とも重なってくる。朝鮮半島由来の縄文人遺跡は南九州から東海・中部地方で440以上発見されている。日本列島中央部は伝統的に朝鮮半島系の縄文人や弥生人によって占められ続けてきたということ。これは朝鮮半島と日本列島の地理関係からみて必然の結果といえる。



さてそういうのちに倭人となった朝鮮からの移住民が北九州や出雲や吉備や越や大和や東国各地に拠点を構えたクニが、その後分国となり強大化して、朝鮮祖地から様々な比率で独立してゆく。

そのうちの九州勢力の一部が列島東部に進出して拠点を奈良盆地に移し、その後、各地の分国を制圧して西日本を統一した。その統一国家成立と奈良盆地への移動による遠隔化によって朝鮮半島との相互依存性が決定的に減少し、倭と朝鮮諸国との以前の一体性が失われた。

もともと中国文献においては列島内のどこの国家も「倭」であった。「倭」は地域的な言葉であって民族的な言葉ではなかった。のちに日本書記や日本人が「倭」を「ヤマト」と読ませ「ヤマト」を奈良盆地の大和としたことによって、「倭」という言葉の意味が元来の意味からずれることになった。

ついでにいえば『山海経』にある記述(「盖国在鉅燕南倭北倭属燕」─盖国は鉅燕の南、倭の北にあり。倭は燕に属す─)をもってかつて「倭」は遼東半島近辺にあったとか南部朝鮮にあったとか主張する者も少なからずいる。

だが、戦国時代から紀元3世紀にかけて記された中国最古の地理書である『山海経』は、その空想的な内容からもそれほどの信頼性はなく、そこでの「倭」がその後の「倭」と同一のものだったかどうかは確定できない。

この一文を書いた者の地理的無知もありうるし、また「倭」という一字には「矮」(小柄)あるいは「純朴なる容貌」などの意味があって、その後の「倭」とは無関係に、どこかの民族に対して、その意味で使われたのかもしれないし、あるいは朝鮮半島以南(日本列島を含む)の東夷系蛮族一般を意味するものとして使われたのかもしれない。

「倭」なる民が大移動して日本列島に全民族的に移動したなど、常識を逸脱した考えである。日本列島内で縄文人と出会いその交流のなかから日本祖語が生まれたとするのが定説だが、その場合、日本祖語を話す日本列島内の「倭」は、言語学的に『山海経』の「倭」と繋がらない。いずれにしても『山海経』のこの一文の「倭」については、学問的にはそれほど重視されていない。

とはいえ、その後の倭あるいは日本は、(たとえばそれぞれ新王朝を開いたと思われるおそらく朝鮮生まれの応神やそのずっと後の継体のように)、朝鮮半島の諸王家の血筋を引く者たちの支配的な影響を受け続け、百済系や新羅系や高句麗系や伽耶系といった在日豪族勢力が古代日本の政治を動かしてゆく。それは白村江の戦い後の近江王朝や大和王朝においても多かれ少なかれ同様である。

たとえば天智天皇は百済系で天武天皇は新羅派高句麗系だった。天武天皇の妻である持統天皇は父天智の百済系の立場を重視し、夫天武の新羅派高句麗系の立場を軽視した。

とはいえ持統天皇の天皇位は夫である天武天皇から引き継いだものなので、天武即位に至る経過(壬申の乱)については正当化せざるを得ない。それゆえ日本書紀では持統天皇の父と夫である天智・天武の二重基準が生じている。そこには天智から見た天武と天武から見た天智が矛盾しながら混在している。



たとえば殷末の酒池肉林の暴君紂王と周初の武王の関係で「天智」と「天武」という漢風諡号(しごう)が付けられたのが天武基準の一例であり、「草薙の剣」が天武に祟るとしそれを熱田神宮に安置したという記事が天智基準の一例である。熱田神宮に草薙の剣を納めたちょうど三ヵ月後に天武は死ぬ。

この草薙の剣は神代紀上によればスサノオが八岐大蛇(ヤマタノオロチ)の尾から得たものであり、さらに神代紀下(一書第一)によれば、天照大神がニニギノミコトに与えた三種の神器(「八坂瓊曲玉、八咫鏡、草薙劒」)のうちの一つで、景行天皇時代に倭媛命から日本武尊に手渡され、天智7年、「沙門道行が草薙剣を盗んで新羅に逃げたが、途中風雨にあって道に迷い、また戻った」といういわくのある剣である。
(註2)

(草薙の剣は八岐大蛇の尾から出たとあるが、こうみると八坂瓊曲玉と八咫鏡にも「八」があるので、これらは全て「八」関連の宝物であるわけである。しかも一書第三には八岐大蛇の尾を切ったのは「韓鋤の剣」である。(「素戔鳴尊乃以蛇韓鋤之劔斬頭斬腹」)。「蛇韓鋤之劔」(オロチノカラサビノツルギ)は「大人・首長級の差していた韓製の剣」という意味である。これをみると出雲神話のスサノオの秘数が「八」であることが分かる。この「八」はどこから来たのか? 

スサノオ自体は新羅との関わりが深い。しかし「八」は「沸流百済」系の秘数だという韓国の学者(金聖昊)もいる。すると「八」は新羅ではなく「沸流百済」系なのかもしれない。いずれにしても国譲りによって出雲王国は大和王国の中に編入され、そのとき「八」もまた譲られた。出雲王国の勢力は山陽・山陰・近畿・北陸にも及んでいてそこに後発的に大和政権が侵出し大和王国へ譲り渡されたから、いわば出雲王国を大和王国が引き継いだわけである。だから王権の継承権が出雲系の「八」に関わる三つの宝物になったのだろう。「八」はもしかすると大和政権の由来を探るプローブになれるかもしれない。

「八」の出現頻度は神代紀が圧倒的で、まるで「八」の大洪水のようである。 たとえば、(ただし以下の各回数については数え間違いもあるかもしれない。回数表示のないものは一回を示す)

「大八洲」五回、「八尋之殿」二回、合計数の八神、「醜女八人」、「八十枉津日神」、「潮之八百重」、「八握髭髯」、「天八十河」、「八色雷公」、「八握」、「八坂瓊之五百箇御統」三回、「八握劍」、「八坂瓊之曲玉」五回、「八十萬神」三回、「八咫鏡」四回、「八十玉籤」二回、「八箇少女」、「八岐大蛇」二回、「醸八●酒」、「假●八間」、「頭尾各有八岐」、「八丘八谷之間」、「八箇耳女子」、「八嶋篠」、「八嶋手命」、「八嶋野」、「八十木」、「八箇耳」二回、「酒八甕」二回、「八千矛神」、「一百八十一神」、「八尋熊鰐」二回、「八尋大鰐」二回、「八十諸神」二回、「八日八夜」、「八重」、「百不足之八十隅」、「天八重雲」四回、「経八年」、「八年之間」、「居天八達之衢」、「八坂瓊」、「八目鳴鏑」、「八重席延」、「八重席」、「子孫八十連属」、「海驢皮八重」、「八日」二回、「八洲」、

以上である。神武紀では頻度が相当に落ち、崇神紀ではさらに落ちる。その他の天皇紀にはあまり見られないが、孝徳紀に「東方八道」「八省百官」「浄治四方大八嶋」というのが見られる。また天武紀にはその12年条の「明神御大八洲倭根子天皇」の詔書称号や天武13年の「八色の姓」制度に「八」が見られる。持統紀には「八省百官」や八色の衣服制度に「八」が見られる。天武・持統の夫婦天皇にともに「八」が見られるのは興味深い。

以上から見れば、「八」は特異的には神代紀の数字といえるが、人皇紀中ではとくに神武と崇神に見え、ついで孝徳、最後に天武と持統に関係している。天智紀には特筆すべき「八」の使用は見られない。

人皇紀における「八」の使用頻度は非常に低く、「八」が神代紀で眼を見張る役割をしているのを見れば、それだけに何かの謎を解く鍵にもなりうる。日本書紀を記したのは天武・持統朝だと言っていい。天武・持統(持統の中に天智もいる)の立場から歴史が編まれているということだ。神代紀に「八」が特異的に表れているのは、神代紀が歴史時代でないことを考えても、編纂者たちにとって「八」に特別な象徴的・神学的意味のあったことを示す。それは万葉集で「大君は神にし坐せ(ませ)ば・・・」と歌われた天武の「数」ではないだろうか? 

天武は(対内詔書形式名にすぎないとしても)日本書紀では唯一「八」の数字を持つ天皇(明神御大八洲倭根子天皇)でもある。また以前の孝徳時代の七色13階を「八色の姓」の八色にしている。和風諡号「天渟中原瀛真人」に見られるように、天武は道教に強く影響されたとされるが、「八」は道教において全世界を示す重要な数で、天武・持統合葬陵もまた八角形五壇の形式を持つ。八角形の陵墓は天皇の陵墓の印でもある。天武紀における「八」の数字の出現頻度はそれほどではないが、「八」は天武の重要ポイントは突いている。「八」はやはり特異的に天武の「数」といえよう。だとすれば天武・持統の投影が相当程度神代紀に及んでいると考えられる。

さて、八幡信仰の対象である応神も「八」であるから、「八」は応神からのものである可能性もある。応神が朝鮮半島出身者である可能性については井上光貞も述べている。

ちなみに、「八」は日本文化のいたるところに見られる。「八重垣」「八雲」「八景」「八百万」「八十(やそ)」「八千代」「八咫烏」「八幡神」「大八洲」「関八洲」「八百八町」「八百八橋」「「八百屋」「八っつあん」「八十八ヶ所霊場」「忠犬八公」などなどだが、上記の三種の神器の「八」をこれらに加えれば、これは「八」が日本民族の秘数とも言えるほどの状況だろう。つまり「八」には日本民族の本質や由来を探るプローブの役割が期待できる。)

つまり草薙の剣は神代からの正当な皇位の継承権を象徴する。天武が呪いの剣である草薙の剣を熱田神宮に安置したという記事は、天武の皇位継承の非正統性を暗示している。

これは二重基準のうちの天智基準によるものである。天智朝と天武朝は対立する王朝だから、両者の後裔がどちらかに立って一元論的に記述するのは不可能であろう。




さて、倭人はもとは朝鮮半島人であった。それが海峡海洋国家から列島国家へと変貌を遂げるなかで列島人となっていった。その後も中国大陸に樹立される巨大帝国の強大なポテンシャルのため、人・物・文化の流れは「大陸→朝鮮半島→日本列島」というベクトルが基本だった。

こうした事情だったために日本と韓国・朝鮮間の民族的偏見に曇らされない欧米の歴史学者の中に、日本古代史を朝鮮人の歴史として見る者が少なからずいるのである。

日本書紀の朝鮮関連記事は直接間接を含めておよそ7割にのぼるとされているが、このように古代日本史は朝鮮なくして語れない。だが古代朝鮮史は日本を除外しても語ることが出来る。これは「大陸→朝鮮半島→日本列島」というベクトルが基本だったことの結果である。

しかし日本書紀は、「大陸→朝鮮半島→日本列島」というふうにポテンシャルがだんだん低くなっている状況を、一部だけ意図的に変更した。

つまり日本書紀編纂段階ですでに全て新羅となった朝鮮半島を無視・軽視し、「中国→日本列島」という流れは容認しても、「朝鮮半島→日本列島」という流れは否定するのである。そしてその部分だけは「日本列島→朝鮮半島」という逆のベクトルに仕立て上げた。

いわゆる「高天原」が朝鮮半島南部地域にあるのを知っていながらそれを天上に置いたのも、そのためである。天上においた祖先を韓人でなく神々としたのもその論理的結果だといえる。同様に、そうした神々が船で海を渡ってどこかの浜辺に着いたのを、「天磐舟」などで天上からどこかの山上に降臨した話に変形したのもそのためである。

また神々の地である朝鮮半島南部から東征して来た天皇たち(たとえば「神武・崇神/神功・応神)の漢風諡号(しごう)の中に「神」の一字を挿入した。

宇治谷孟氏が現代語訳「日本書紀」の「あとがき」に記しているように、神武(カムヤマトイワレヒコ)の父である「ウガヤフキアエズ」の「ウガヤ」は伽耶の一つである「上伽耶」の朝鮮語音の「ウカヤ」に由来し、その都である「高霊」の二字の間に「皇を産む」の意味の「皇産」を挟んだのが、「高皇産霊尊」(タカミムスビノミコト)つまりニニギノミコトの天孫降臨を主宰した神である。

─ところで、「皇」というのは明らかに天皇称号を前提とするので、神代紀の「高皇産霊尊」は天武以後に作られた神名であろう。そして女神アマテラスの孫がニニギノミコトなので、祖母から男孫への葦原中国(日本列島)の支配権譲渡は、明らかに(日本史上唯一祖母から男孫へ皇位が委譲された)持統から文武への生前譲位を神代に投影したものと考えられる。つまり女神アマテラスは持統の投影だということである。神代紀の物語には持統を取り巻く諸関係の投影が結構あるとみてよい─

むろん架空の神功皇后の三韓征伐譚や「任那日本府」が上記の「日本列島→朝鮮半島」という逆のベクトルの典型的な代表例だ。それがのちのち和寇の略奪・秀吉の朝鮮侵略・近代の日韓併合につながった。


(註3)

ちなみに「欠史八代説」が正しく、この通説に従って神武=崇神とみる。神武=崇神が正しいのは、神武紀(巻第三)が東征による権力に至る武装闘争の巻、崇神紀(巻第五)がその後の治世の巻であるところが、天武の「壬申の乱」の巻(巻第二十八)と治世の巻(巻第二十九)にそれぞれ対応しているところから判明する。

さらにすでに見たように人皇紀においては「八」が神武紀と崇神紀に特異的に多く、その点でも同一人物であることが示唆される。

神武と崇神との間の「欠史八代」の記述には「八」はないが、「欠史八代」としては、つまり神武と崇神との間に八人の天皇が挿入されているという意味では、「欠史八代」に「八」がある。つまり神武の「八」と欠史八代の「八」と崇神の「八」は全部で同じ人物の「八」だと見てよい。

また実は神功=応神である。応神幼少時の神功の東征は、実は成人した応神の東征の代わりであり、神功に自分を仮託させた女帝・持統が代役させたものであろう。神功紀(巻第九)と応神紀(巻第十)もまた神功紀が東征による権力に至る武装闘争の巻であり、応神紀が治世の巻となっている。

つまり壬申の乱の巻とその後の治世の巻が天武という同じ人物の(東征による権力に至る武装闘争と治世の)二つの時代の記述であるように、同じ形式で記述されている神武紀と崇神紀、神功紀と応神紀も、それぞれが同一人物の二つの時代の記述なのである。
さらにいえば、「神武」と「崇神」については、前者は「神」が前にあり、後者は後にあって、同一人物の前時代と後時代の名前であることを示している。「神功」と「応神」も同様である。

もし「神」の一字がともに前にあってたとえば「神武」と「神崇」あるいは「神功」と「神応」となれば、それは「神武」と「神崇」が、また「神功」と「神応」が別人を意味することになる。

そして(「神武」と「崇神」および「神功」と「応神」の)両者から「神」の一字を除き、それぞれ残りの二字を前後の順序で並べてみると、「崇武」と「応功」となり、「神武」と「崇神」とで「武を崇める神」、「神功」と「応神」とで「功に応じる神」という意味になる。つまり二つで一つの意味ある漢字熟語となる。これは二人が同一人物であるということを示すもの。(ちなみに「武を崇める」の「武」は神武東征、「崇」はその東征を神が尊崇するということであり、「功に応じる」の「功」は三韓征伐、「応」はその三韓征伐に神が応えること、つまり応神への三韓永久神授である。)

同じ論理でもし(持統においては父なる前時代と夫なる後時代をなす)「天智」と「天武」がもし「天智」と「武天」として表記されていたならば、それは「天智」と「武天」が同一人物であるということになる。しかし異なった人物なので「智」と「武」というように(「神」の一字の代用である)「天」の一字が同じく方に来ている。
以上から推測できるように「天武」と「神武」は多少共鳴している。それは神武が「神」の一字を持つ天皇であるように、実は天武もまた隠れた形でその名の中に「神」の一字を持つということを示している。天武の「天」は「神」に通じている。

それは天武の和風諡号(「渟中原瀛真人天皇」)と漢風諡号(武天皇)にともに「天」の一字を有することで暗示されている。

とくに「天渟中原瀛真人」は「仙人の住む瀛州(えいしゅう)の神山にいる道教真理の体得者なる真人」という意味だから、「天渟中原」→「高天原」だとすれば、天武は和風諡号において「高天原の神」のような存在とされている。

天智もまた和風諡号(命開別天皇)と漢風諡号(智天皇)にともに「天」の一字を持つが、こうした天皇は天智と天武のただ二人だけである。

いやそもそも漢風諡号の中に「天」の一字を持つのは(「日本書紀」はむろん「続日本紀」も含め)天智と天武だけなのである。それは天智と天武がともに「神」の一字の隠れた所有者であり、朝鮮半島(高天原)からの東征渡来支配者だということを暗示しているのであろう。

日本書紀(のちの漢風諡号の撰進も含む)は天智と天武の出自を隠すため、天武→天智→神武へと遡る途切れのない皇統譜をめざしているので、この二人の天皇に「神」の一字をあからさまには与えられなかった。

漢風諡号の「神」の一字は朝鮮半島からの東征渡来支配者に(伝統的に陰に)与えられる漢字であり、そういうものとして必然的に王朝交代の存在を指し示すからである。だから「神」の一字を与えられなかった代償として「天」の一字を和風諡号と漢風諡号に与えたといえよう。

(注)
ちなみにいわゆる「二倍暦の問題」がある。これはたぶん日本書記が鄭玄の讖緯(しんい)暦運説によって神武紀元を紀元前660年に遡らせたとき、伝承されている初代王朝らしきものよりも二倍近く遡ってしまい、それで架空の「欠史八代」の天皇たちで時間を埋めたり、実在の天皇たちの寿命や在位期間を倍にして時代を埋めたりしたために生じたものであろう。「二倍暦」というものがかつて実在して、それがそのまま日本書紀編纂時に使われたわけではない。

つまり「二倍暦」を含む過去の記録や伝承を合算して紀元前660年に神武紀元が決まったのでなく、鄭玄の讖緯(しんい)暦運説(1320年説)という原理に合わせようとした結果、日本書紀の編纂者たちが太古の各天皇の寿命や在位期間を実際の倍近くに伸ばすに至ったのである。神功や応神の寿命が二倍暦だったかどうか編纂者たちが知らなかった筈はない。そもそもある天皇たちは一倍暦で、他の天皇たちは二倍暦で、というふうに単位をごたまぜにして正史の全期間を記述できるものではない。



さて話を戻すと、明治維新後に日本はアジアで唯一近代化に成功し、近代でのベクトルは、「日本→朝鮮→中国」と、古代とは全く逆になった。

日本が敗戦するまで極東アジアの誰もがそういう「日本→朝鮮→中国」というポテンシャルの中にいた。そのポテンシャルが、古代に捏造された日本書紀の「日本列島→朝鮮半島」というベクトルと奇しくも一致した。

だからどの日本人の目にも(そして植民地支配下の朝鮮人の目にさえも)日本書紀が捏造したそのベクトルが非常に自然なものに見えた。

太平洋戦争の敗戦後も国力の点でこのベクトルが変わらなかったため、今なお日本人の多くは日本書紀のこの「日本列島→朝鮮半島」という捏造されたベクトルを事実だと信じている。このベクトルに合わない古代理解は日本人の目には非常に不自然に見えてしまうのである。

たとえば「朝鮮人が日本人の祖先?」「水田稲作をもたらした弥生人は朝鮮人?」「関東平野を切り開いて坂東武者になったのは朝鮮渡来人?」「日本の神社信仰は新羅の始祖・朴赫居世を祭った神宮崇拝から来た?」「『奈良』は朝鮮語のナラ(国)、『村』は朝鮮語の「マウル」、『ワッショイ』は朝鮮語のワッソ(来た?)、『ピカリ・光・光る』は朝鮮語のピッカル(光沢・色調)、『原』は朝鮮語のボル(野)が語源だと?」などといった反応である。

しかし最近の韓国経済の目覚しい発展のおかげで多少近代のこのベクトルは修正され、古代のベクトルに若干近づいてきた。そのおかげで日本人研究者の中にも「本当の史実がやっと見えてきた」という人々が現れ始めた。

事実、欧米の研究者たちに「古代日本史は朝鮮人の歴史」として見られるほど、古代日本と古代朝鮮が緊密だったのは確かなことなのだ。すでに述べたように日本語と朝鮮語の間には方言的距離しかない。



さて、こうした太古以来の「朝鮮半島→日本列島」という流れが清算され始めたのは「日出處天子致書日没處天子無恙」(「隋書」)の「聖徳太子」(蘇我馬子の別体)の頃からだった。

その後、清算は日本書紀の編纂などによってさらに進み、新羅朝鮮を無視する百済・天智系の桓武天皇以来の平安朝(新撰姓氏録や延喜式や続日本紀)においてほぼ完成し、鎌倉幕府の武家政権誕生によって完璧なものになった。

鎌倉仏教における「三国一」という言葉はその象徴であるし、また「神皇正統記」(1339)の応神天皇条に、桓武天皇の時、『昔、日本は三韓と同種である』とする書を焼き捨てた、とあるのもそれを示す。以下に引用する。

第十六代、第十五世、応神(おうじん)天皇は仲哀第四の子。御母神功皇后也。胎中(たいちゆう)の天皇とも、又は誉田(ほむだの)天皇ともなづけたてまつる。庚寅(かのえとらの)年即位。大和の軽嶋豊明(かるしまとよあかり)の宮にまします。此時百済(くだら)より博士(はかせ)をめし、経史(けいし)をつたへられ、太子以下(いげ)これをまなびならひき。此国に経史及(および)文字をもちゐることは、これよりはじまれりとぞ。異朝(いてう)の一書の中に、「日本は呉の太伯(たいはく)が後(のち)也と云(い)ふ。」といへり。返々(かへすがへす)あたらぬことなり。昔日本は三韓と同種也と云事のありし、かの書をば、桓武(くわんむ)の御代にやきすてられしなり。天地(あめつち)開(ひらけ)て後、すさのをの尊韓(かん)の地にいたり給きなど云事あれば、彼等の国々も神の苗裔(べうえい)ならん事、あながちにくるしみなきにや。それすら昔よりもちゐざること也。天地神(あめつちのかみ)の御すゑなれば、なにしにか代(よ)くだれる呉(ごの)太伯が後にあるべき。三韓(さんかん)・震旦(しんだん)に通じてより以来(このかた)、異国の人おほく此国に帰化(きくわ)しき。秦のすゑ、漢のすゑ、高麗・百済の種、それならぬ蕃人(ばんじん)の子孫もきたりて、神・皇の御すゑと混乱せしによりて、姓氏録(しやうじろく)と云文(ふみ)をつくられき。それも人民にとりてのことなるべし。・・・・・・昔日本ハ三韓ト同種ト云事ノアリシカノ書ヲハ桓武ノ御世ニヤキステラレシナリ、日本後紀に記録せし事なるべし。然るに日本後紀は四十巻ありて桓武天皇紀は・・・・・・の十巻のみ。残缼の中には此事見えず(アンダーラインは筆者による)

これを以って、帰化人たちの後裔が天皇の子孫であるかのような混乱が生じてきたので新選姓氏録が編纂されるに至ったという経緯を述べたものであって、三韓が日本と同種というのもそういう混乱の脈絡での記述である、とする主張がある。

しかし下線部分の本意はそういうことではない。後段の小文字部分もそれを示している。下線部分は、「神代から続く日本なので、異朝の一書(実は中国の晋書)に日本が(神代からずっと後の時代の)呉の太白の後裔とあるのは全く当たらない」ということなのだ。

そういう論旨の中で、神であるスサノオが居た三韓もまた神の後裔といって良いということを述べている。だが、そのスサノオの三韓のことさえも、昔からつまり(日本は三韓と同種なりと書かれてあった書を焼き捨てた)桓武の御世以後、用いられなくなってしまっている、こういうことなのである。

結局、アマテラスの日本もスサノオの三韓もこの姉・弟神の後裔としては同種、すなわち根本は同種であるというスタンスがここで表明されている。新選姓氏録編纂の経緯の段落は、神代すなわち根本の話とは異なる(渡来人たちが到来し始めた)人皇時代になって以後の事情を記した話なので、両者を混同してはならない。



さて話を元に戻すと、現在でも日本人の多くは、弥生人や弥生文化や日本語や水田稲作の由来などなどについて、なるべく朝鮮半島経由でないと考えようとしている。

朝鮮半島を含む複数地域経由論もそうした態度のものであるが、朝鮮半島経由を否定できない場合は、それを瞬間的な通過点のごとく、あたかも特急列車で朝鮮半島を通過したかのように解釈しようとしている。

「三国一」という言葉は、仏教の伝来において朝鮮半島経由という史実を排除する考え方から生じた。「三国一」の「三国」とは、「天竺」「中国」「日本」のことで、仏教は「天竺→中国→日本」と伝来してきたという意味である。

こうして日本への仏教伝来の直前段階で独自の仏典選択や仏典解釈のもとに主体的に発展を遂げて成熟し、日本における仏教受容においても決定的役割を果たした朝鮮人の仏教が完全に排除されている。仏教用語法の「三国一」から完全に自由になった現在の「三国一」の用法でも、むろん朝鮮は「三国一」の「三国」からは排除されている。

しかしたとえば馬子が建てたとされる飛鳥寺(588)が韓国の扶余で最近発見された威徳王建立の王興寺(577)を原型としたものであることがその発掘結果から判明したように、日本仏教は百済仏教の敷衍として始まり、発展したものなのである。

日本人も朝鮮・韓国人も「朝鮮が天皇制日本帝国主義の植民地とされた」という過去に強く影響され、相互の強い民族的偏見のため、古代の史実にたどり着くのが困難になっている。またたとえたどり着いたとしても国際情勢の圧力によって容易には本当の真相を公表できないような状況下にある。




しかし古代は今とは違って現在でいう民族意識などというものはなく、全世界はいわばどこもかしこも境界のない自由な平原だったのだ。とくに倭人の場合、そもそも倭人自身が朝鮮半島出身者だったため、他地・他国と考えて玄界灘を渡って朝鮮半島に侵出したわけではない。

むしろ故地・故国として朝鮮半島に軍事的・政治的・経済的・文化的に関与したのだ。いわゆる「任那日本府」というものもそれである。

日本書紀は金海地方の金官伽耶国を「任那」と表現し、これを「ミマナ」と呼んでいる。その「ミマナ」の「ミ」は「御」、「マ」は「真」、「ナ」は「那」つまり「国」(とくに海港国)の意味である。したがって「ミマナ」とは「尊ぶべき本当の国」、いわば「祖先の国」という意味なのだ。

金達寿氏も『日本古代史と朝鮮』のなかで『日本語の歴史』(亀井孝・大藤時彦・山田俊雄編)の「(1)民族のことばの誕生」から次のような一節を引用している。

「これは、おそらく朝鮮における原音ないしその日本なまりをあらわしたものであろう。すでに、朝鮮語の研究者、鮎貝房之進が、ミマナは朝鮮音のnim(主君、王の意)ya(国の意)の転訛であるといっているし、東洋学者の白鳥庫吉も、ミマナはnimraで、王または君主をあらわすnimという語にraという助詞が加わったものだろうと指摘している。」

金達寿氏が同書で指摘しているように、日本書紀そのものが一方では任那を『屯倉』(みやけ)つまり植民地のように記述しながら、他方で任那を同じ発音の「官家」(みやけ)としそれを「内官家(うちつみやけ)=日本国之官家」(日本国の君主の国)と表現している。「官家」の元来の意味はそうである。

げんに任那が新羅によって滅ぼされた欽明二十三年(562年)正月条には、「新羅打滅任那官家」とあり、そのあと新羅による任那滅亡について欽明は、「・・・・君父の仇を報いることが出来なかったら、死んでも臣子としての道を尽くせなかったことを恨むことになろう」(報君父之仇讎。則死有恨臣之子道不成)と詔を結んでいる。

これはつまり任那が欽明にとって「君父のいたところ」という意味の文である。



だからこそ「倭の五王」(讃・珍・済・興・武)の珍は自ら「使持節都督・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王」を称して438年、南宋から「安東将軍倭国王」の称号を得、済は(443年に新たに得た「安東将軍」の他に)451年、「使持節都督・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」を加号され、武は477年、自ら「使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事安東大将軍倭国王」と称して478年、「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」とされている。(『宋書』から)

南宋が南斉に取って代わられると479年、「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓六国諸軍事安東大将軍倭王」とされ(『南斉書』から)、その南斉が梁に取って代わられると、武は502年、「鎮東大将軍」とされる。(『梁書』から)

梁では「鎮東大将軍」という簡単な称号に収まっていることから、さきの「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」などの称号が地域的実勢を伴わない名目上のものだったことが分かる。しかし「倭の五王」がこうした称号を求めたのは、任那が「祖先の国」の「御真那」であったからであろう。

日本書紀における「任那」の初出は崇神天皇六十五年七月条「任那國遣蘇那曷叱知令朝貢也 任那者去筑紫國二千餘里北阻海以在鶏林之西南」(下方に訳文あり)という記述である。

その後、垂仁天皇二年条に、大加羅国王子の都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)が崇神天皇時代の末に日本にやってきた話が記されていて、そこに「お前の国の名を改めて、御間城天皇(崇神天皇の和風諡号(しごう)は御間城入彦五十瓊殖天皇)の御名をとって、お前の国の名にせよ」と垂仁天皇にいわれ、それがもとで「任那」という国名になったと記されている。これはむろん本末転倒であろう。しかし崇神天皇(=神武天皇)の出自を窺わせる逸話ではある。

そもそも「任那日本府」という言葉は外国史料には存在しない。「日本」という国名すらずっとあとの天智朝あるいは持統朝で生まれたものなのだ。したがって「任那日本府」という言葉で日本書紀が意味しているのは「かつての祖国」ということなのである。



だからこそ日本書紀の応神天皇紀では、「天皇が孕まれているとき、天神地祗は三韓を授けた」(初天皇在孕而 天神地祇授三韓)として、応神天皇は神々による生まれながらの三韓永久支配権を持っているかのように記されている。

そのような天神地祗が事実存在して三韓永久支配権を本当に与えたのかといえば、それは日本人だけの勝手な思い込みや期待でしかない。

また日本書紀で魏志倭人伝(『三國志』魏書第三十烏丸鮮卑東夷傳倭人条)の卑弥呼と同一視されて、学問的にも歴史上の人物であることを疑われている神功皇后が、三韓全域を支配したという事実も存在しなかったわけである。

ところで、「任那」という言葉は朝鮮の歴史資料に(三国史記と広開土王碑文と鳳林寺真鏡大師碑にそれぞれ一度ずつ)三度しか出てこない。近年では、日本書紀には「任那」の語が219箇所あるのに、任那が所在する肝心の朝鮮半島の歴史書「三国史記」にたった一箇所しかないのは不自然だとして、任那が実は朝鮮半島ではなく日本列島内(たとえば対馬)にあったという説さえ現れている。

上記の崇神天皇六十五年七月条も通常これを「任那国が蘇那曷叱知(そなかしち)を遣わして朝貢してきた。任那は筑紫を去ること二千余里。北のかた海を隔てて鶏林(新羅)の西南にある」と訳しているが、実は後段の「任那者」は主語なので「北阻海」の「北」を「任那の北」と訳すのが正しく、すると「任那の北は海に阻まれ」となり、任那は海中の島にあって朝鮮半島南岸にはないことになる。


ちなみに近年になって次々に発見された全羅南北道の栄山江沿岸に散在する14基の前方後円墳も倭国の植民地的な支配権の痕跡ではなく、百済武寧王(嶋君─武烈紀4年条)の倭人臣下の墓、あるいは百済と北九州豪族との交流の産物、というのが有力な学説となっている。

これらの前方後円墳が作られたとされる5世紀後半から6世紀前半、倭国はまだしっかりした統一国家ではなく、527~528年、筑紫の磐井が新羅の立場で継体軍と戦ったように、まだまだ地方豪族が独自に外交を展開することのできる時代だった。

追記:ちなみにその後、月桂洞古墳については、磐井の乱(527)で大和政権に敗れて国外逃亡した倭人の墓ではないかという学説や武人的要素の少ない副葬品から被葬者は交易を担った倭人だろうという説も出された。



ところで、舒明紀三年三月一日条に「百済王、義慈は王子豐章を人質として送ってきた」(百濟王義慈入王子豐章爲)など、百済の王子たちが従属的な「質」として倭国に送られたかのように日本書紀が記しているのも、史実を記したものでない。これも三韓神授説や任那日本府説の延長線上での細工であるが、あたかも「爲質」(人質と為す)という言葉で百済が倭国の従属国家であったかのように捏造している。

隋・唐の軍事侵略を何度も退けた先進強国の高句麗や新羅と全面軍事対決しているほど誇り高い百済が、なぜ海の向こうの日本にだけは卑屈になって従属しなくてはならないのか? 

百済もまた高句麗や新羅と同じく先進強国であったけれども、自国の背後を確かなものとするために倭国との親善を確保しておく必要のあったことが、王子たちの倭国派遣となったにすぎない。

これは朝鮮半島内の力関係によるもので、百済と倭との力関係を映したものではない。「爲質」と国家的従属とは本来全く異なるものなのに、日本書紀は三韓神授説や任那日本府説の立場から「爲質」の意味を国家的従属として歪めている。

たとえば650年の白雉元号儀式のとき三人の百済王子(豊璋・塞城・忠勝)がその場にいるが、王子が三人も人質として来日しているのであろうか? 百済王子が三人も在日しているのは、人質というよりむしろ百済と倭国の両王家間のもっと深い関係を意味している。

おそらく倭国の方でも百済との親善のために、何度も王子たちを百済に派遣していたと思われるが、そういうことについては日本書紀は決して記さない。

ちなみに舒明三年(631年)の百済王は義慈王(641~660)でなく武王(600~641)なので、上の舒明三年三月一日条の「百濟王義慈入王子豐章爲質」は誤記である。



「爲質」は後に新羅の武烈王となった金春秋に対しても使われている。大化三年(647)条では、新羅が倭国に金春秋らを遣わしたことを記し、「春秋は人質として留まった。春秋は容色美しく快活に談笑した」(仍以春秋爲質 春秋美姿顔善談咲)と記述している。

百済対策のために高句麗に行って淵蓋蘇文に監禁され、そこから脱出後に日本に立ち寄り、そのあと唐に足を伸ばしてついに新羅と唐との同盟を築き上げた金春秋の一時的な日本滞在さえ、このように「爲質」と表現している。同様に大化五年(649)の金多遂の場合も、新羅が人質として送ったとして「金多遂爲質」と記述している。

こうしてその後の日本人は古事記や日本書紀に書かれた捏造記事やこのような神授思想に影響され、それが倭寇の略奪や秀吉による侵略や明治政府による植民地支配など、朝鮮半島に対する度重なる侵略行動となって近代にまで及んだ。

天皇制日本帝国主義が植民地朝鮮に対し日鮮同祖論による皇民化同化政策によって言語や姓氏まで奪い民族固有の生存権を踏みにじったイデオロギー的背景こそ、古事記や日本書紀の三韓征伐譚と三韓神授説と「任那日本府」説である。朝鮮と日本との関係において、これらほど大きな罪を犯した捏造記事はない。


第2章  編纂基準(1) ─ 発端基準



ところで日本書紀はどのような目的で編纂されたのだろう? それは、

(1)(対外国) ─ 中国(唐)や(とくに)朝鮮半島(新羅)からの独立宣言 ─ (基本は、国生み神話による独自実効支配領域の確定宣言や非百済系皇統譜の対唐提示および架空の神功三韓征伐による応神への三韓神授説や架空の任那日本府経営史の主張)

(2)(対王朝) ─ 天智朝の「革命」「革令」的正統性と天武朝の正統性(壬申の乱の正当性)の宣言 ─ (基本は皇統の万世一系化による天智と天武の出自の隠蔽操作。皇統一系化によって「日本」なる在日百済の存在を一般唐人に対して隠し、対内的には在日百済を純日本化させ、かつ三韓神授説を基礎付ける)

(3)(対豪族) ─ 天皇家と関わる諸豪族(とくに藤原氏)の由来の説明 ─ (基本は上記の架空の歴史や架空の皇統譜を補強する目的による各豪族の─とくに藤原氏の豪族最高位のための─架空の由来記述。それによって主として蘇我王朝の存在を抹消し、ついには王朝交代・易姓革命を起こした過去の諸王朝の存在を消滅させる) 6 「蘇我王朝」参照)

(4)(対自国) ─ 架空の聖徳太子の描出(祭祀)による在日百済としての新生日本の護持・発展の祈願など ─ 馬子を核とする蘇我王朝三代の供養として「聖徳太子」(上宮厩戸皇子)を創出し、大聖・大徳・大賢化して日本の釈迦像として祀り上げ、蘇我三代の怨念・怨霊からの災厄を祓う。さらに架空の女性大王である推古を大聖・大徳・大賢が摂政として仕えたことにして推古を実在だと欺き、それによって蘇我王朝の存在を無化する。さらに蘇我馬子の功績の半ばを架空の聖徳太子に転嫁し、かつ聖徳太子の子孫(山背大兄皇子)を根絶した悪人として蘇我氏を描き、蘇我氏を倒した乙巳政変後の天智系(天智・天武・持統)王朝の正当性を主張する。 7 「聖徳太子」参照)

であったと結論して良い。

その目的のために、日本書紀は、望ましい日本(天皇家)の過去史を提示しようとしたのである。それは特定のイデオロギー(持統天皇が望んだ過去史像をもとに藤原不比等が構想した「藤原式天皇制日本」という理念)による歴史編纂であり、史実の歴史の編纂を目的とするものではなかった。

この「藤原式天皇制日本」という理念は平城京時代に確立され、平安京時代に花咲き誇り、その後、鎌倉時代から江戸時代までの武士時代をなんとか生き抜き、さまざまな姿で現在まで続いている。



そもそも日本書紀という一国の正史を神々による「国生み」から始め、神代に王朝の起源を置くという作業は、編纂者が史実性よりも創作性を重んじたということである。これは誰しも認めざるを得ないところだろう。

むろん創作は創作者の意図を反映する。したがって創作性の大きい神代紀の内容は、その多くが編纂者の利害を反映していると見てよい。王朝の起源論として神代紀を正史の冒頭に置くということは、日本書紀なる正史が、史実よりも編纂者の意図・思想・イデオロギーをより一層反映したものであることを示している。この傾向は正史冒頭の神代紀から正史編纂者の時代まで、つまり日本書紀全体に(いろいろの姿で)及んでいると見てよい。

おそらく神代紀があるのは、一つは誰々がどこからどういう方法でどこにたどり着きどういう風にその後を生きてきたのかについての厳然たる歴史事実を何やら分からない神話の言葉で語ることによって、天皇家の出自を曖昧にするためだと思われる。

つまり日本書紀は、

「これから新時代の我々日本人は日本(天皇家)の過去の歴史をこのようなものとして見ることにしよう」

という立場から、さまざまの過去の史実や伝承を巧みに織り交ぜて編纂・創作・捏造されたものであって、もともと史実を叙述するのが目的でなかったということである。

たとえば一つには「日本なる在日百済の存在を一般唐人や将来の倭国民の目から隠そう」「蘇我王朝の存在はなかったことにしよう」と、天皇家や豪族間で天孫皇統一系化の歴史偽造協定を結んだのだ。



日本書紀が漢文で書かれたということは、むろん唐人に読まれることを大きく意識したということである。それは持統へと続く天智系の皇統が百済系でなく倭国古来の神武系であることを提示し、この架空の皇統譜で一般唐人の目を欺くためであった。

百済は則天武后の唐と二度も戦争をし、とりわけ倭国は百済再建のためわざわざ救援軍を百済まで派遣して白村江で戦った。もし斉明ー天智が百済系であったため倭国の救援軍が白村江に送られたということが一般唐人にあからさまになれば、いずれ百済の後方基地と化した日本に対する唐軍の侵攻は避けられない。そうなると、日本は(百済や高句麗とおなじく)則天武后によって、十中八九、亡ぼされることになる。

高宗時代(649~683)の大部分を実質支配した則天武后(655~)は周の皇帝の武則天(690~705)としても君臨し、その実質支配は半世紀に及び、日本書紀編纂期まで続いた。

この690年は持統と武則天が前後して即位した年でもある。それで天智後の日本は、倭国古来の皇統譜を捏造して、漢文の日本書紀として唐人に示す必要があった。また、それと同時に、国内的には在日百済国家の純日本化工作を遂行して「もともとから倭人だった」とする必要もあった。でないと王朝は長続きしない。

むろん日本書紀編纂当時、日本書紀の内容に触れることのできた日本人の誰もが、推古ー舒明ー皇極ー孝徳ー斉明ー天智ー天武ー持統へと続く(蘇我王朝を消去した)神武以来の皇統譜が全くの偽史であることは熟知していた。だが唐の侵攻を予防するために、また在日百済の純日本化工作のために、そうした日本人の大多数はこの偽りの皇統譜を甘受するほかなかった。

大義の大嘘だからこそ、たいした羞恥心もなく大嘘がつけた。大義の大嘘だからこそ、こうしたほとんどの日本人が道徳的抵抗を感じることなくこの偽史の受容が出来た。

むろん当時、疑いもなく(とくに倭国古来の勢力の間で)批判や抵抗は多少とも存在したであろうが、それも以上のような趨勢では表立って出来るものではない。絶対権力が創作・捏造したこの王朝の歴史は、それがその王朝自身の歴史であるために、その後も批判や抵抗を許さない。

それに、 すでに王権を握ってほぼ半世紀に及び、王朝はある程度土着化し、根付き始めていて、違和感も薄れ、完全な受容もそれほど難しい段階でもない。そういう大王家が百済からの外来政権であることを自ら隠し倭国古来の大王家の後裔であると自称するのは、その支配を受ける倭国人にしてみれば、露骨に外来政権の支配を受けている状態と比べて歓迎すべきことではあった。

遠く振り返ってみれば、王も臣下も人民もほとんどが朝鮮半島からの渡来系。百済系王朝を神武系にはめこんだとしても完全に無茶なものではなく、今ならなんとか受容はできる。こんな感情や雰囲気がそれなりに流れていたとしても不思議はない。

さらに言えば、すでに真相を知っていたかもしれない武則天も、(日本侵攻は大変な事業なので)、「そうことなら・・・」と目をつぶることもできただろう。それも見越した偽史創作だった可能性もある。その結果、こうして捏造された歴史書だけが後世に伝えられて、残ってしまう。

したがって日本書紀から過去の真実の歴史を再構築しようとするとき、我々はたえず上記の編纂意図やイデオロギー的偏向を意識しなくてはならない。その一番の方法が第三者である欧米研究家たちの意見を率直に聞くことである。



ちなみに、日本書紀の筆記者たちは新羅・唐・その周辺の(渤海・契丹・ウイグル・突厥など)様々な国家とその国土の存在を知っていた。にもかかわらず彼らは、太陽神や月神まで生み出される神代紀で、神々による大いなる天地創造行為の「国生み」をたかだか「大八洲」だけに限った

これはむろん唐人にかつての白村江の戦いのときのような朝鮮半島への野望が根本的に(つまり大八洲創造論的に)存在しないことを表明しているのだ。だからこそ出雲国風土記にある(侵略併合を否応なく暗示する)国引き神話が日本書紀に「一書」として引用されることもないわけだ。

また天地創造論的に朝鮮半島への野望がないことを「わざわざ」示したのも、そもそもそれが依然根源的な野望として残存しているからである。血の系譜としてはいかんともしがたいわけだ。でなければ天地創造論という形でそれを形而上学的に表明する必要もない。

形而上学的に否定せざるを得ないのは、形而上学的に繋がっているからである。天智・持統が百済系だったからこそ、唐人に対しては天地創造を「大八洲」だけに限る他なかった。したがって天地創造を「大八洲」だけに限ったのは、日本書紀を編纂した王朝がそもそも「大八洲」の出自でないこと、つまり半島系・百済系だった証拠だとも言えるわけである。

むろん皇統の始祖が「大八洲」のみ創造した神々の子孫の神武だとする(百済系を含まない純粋の)万世一系論も、これと同じ趣旨のものだ。神々の地の高天原を地上でなく天上に置いたのも、また神々が(海を舟で渡って来るのでなく)天上から天磐舟などに乗って下ってくるのも、高天原を地上におけば否応なくそこが朝鮮半島南部になるからなのだ。




日本書紀は漫然と書かれたのではない。そこには編纂・創作・捏造のための歴史の「発端基準」と「割り振り基準」という二つの編纂基準がある。したがってこの二つの編纂基準にこそあの特定のイデオロギーの本質が潜んでいると言えるだろう。

神武紀元を紀元前660年にしたのは周知のように後漢の経学の学者鄭玄(A.D127~200)の讖緯(しんい)暦運説に基づいている。そこでは宇宙の一サイクルが1320年である。三善清行が901年に醍醐天皇に上表・献納した『革命勘文』には鄭玄の文章を引用したと考えられる次の文がある。

「鄭玄曰く、天道は遠からず、三五にして変ず。六甲を一元と為す。四六、二六交相乗ず。七元に三変あり。三七相乗じ、二十一元を一蔀と為す。合わせて千三百二十年」

六甲の甲は十干の10。従って六甲は6×10=60で、これが一元となる。それの三七乗じた二十一元は1260になる。1320年になる計算法については実のところよく分からないが、そこに明らかに「1320年」とある。宇宙の一サイクルが1320年と信じられていたことは、後漢末の紀元184年に新宗教・太平道の教祖・張角による「黄巾の乱」が起きていることからも推量できる。

張角は「蒼天已死 黄天當立 歳在甲子 天下大吉」(蒼天已に死す 黄天當に立つべし 歳甲子に在りて 天下大吉)の旗を掲げて一斉蜂起した。黄巾の乱のときに57歳だった鄭玄はすでに大学者で、後漢書の張曹列傳にも記されている。



殷の紂王を滅ぼした周の武王の父文王が紀元前1137年(甲子年)に天命を受けた年を宇宙サイクルの開始とみたからこそ、その1320年後の紀元184年(甲子年)にこのサイクルを閉じる動きとして「黄巾の乱」が発生したのだろう。

張角のスローガンの中にある「歳在甲子」の「甲子」は、文王への天命に始まる一サイクルの初めと終わりに関連するものとして良いだろう。黄巾の乱の起きた年を考慮すれば三善清行の『革命勘文』引用文における『1320年』という数字は確かさを増す。

とはいえ黄巾の乱のときに57歳だった鄭玄自身の説が黄巾の乱を刺激した可能性はどれほどだっただろうか? おそらく鄭玄以前からそうした説が流布されていて、その説においても1320年だったか、

あるいは張角は、「甲子」が一般的に「始まり」を意味するので、張角から見て基点から1260年後にあたる年も、それに干支一運を加えまさに張角の活動期となった1320年後にあたる年も、同じ「甲子」の年として等価視したのか、

あるいはそれまで理論上は1260年だったのが、実際にはその干支一運(60年)後に黄巾の乱が起きて事態が一変したので、鄭玄の思想の中で「理念計算では1260年で、実際の歴史上の現れや適用では干支一運後の1320年」という姿になったのかもしれない。

そしてそうした鄭玄の数字が彼の著作とともに日本にもたらされ、その讖緯(しんい)暦運説が日本書紀の編纂時に利用され、また三善清行の『革命勘文』引用文における『1320年』という数字として残された?



そうでなければ、あるいはそもそも鄭玄の思想でも1260年だったのを日本書紀は知っていて、日本書紀そのものが編纂基準年をはっきりとは悟られまいとして、わざわざそれに干支一運の60年を加えて1320年にしたのかもしれない。

つまり日本書紀は本当は鄭玄説に従って(編纂基準年である661年から数えて1260年前の)紀元前600年を神武紀元にしたかったが、それでは661年が編纂基準年だと露見してしまう。露見すると天智の正体が判明し、日本が在日百済である真相が明るみに出る危険性が増す。

それで神武紀元をさらに干支一運遡らせて紀元前660年とし、鄭玄説に基づいて発端基準年を求めようとする誰の眼にも、推古時代の601年が日本書紀の編纂発端基準に見えるように装ったのではないか。しかしそのかわり661年条には「革命」の辛酉年にふさわしい出来事(天智称制)を記しながらも、601年条にはそれにふさわしい出来事を何も記さなかった。

こうした見方が正しい場合、そうすると三善清行の『革命勘文』引用文における「1320年」の記述は、「本当は鄭玄の1260年説はみせかけで、日本書紀は真の発端基準から1320年前に神武紀元を置いたのだよ」と真相を暴露しているとみるべきだろう。こうして鄭玄説では1260年だったとしても結局、日本書紀でのその実際の適用は1320年が正しいということになる。

げんに三善清行は『革命勘文』の別のところで「巳上蔀 神倭磐余彦天皇即位辛酉年自り 天豊財重日足姫天皇七年庚申年に至る。合して千三百二十年巳畢わんぬ」としている。「神倭磐余彦天皇」は神武天皇、「天豊財重日足姫天皇」は斉明天皇で、この庚申年は(天智称制の)辛酉年の前年に当たる。

また『革命勘文』前年の上表文には、「明年は帝王革命のとき、君臣剋賊の運にあたり、おおよそその四六二六之数、七元三変之候、これを漢国に推るに、即ち上は黄帝自り下は李唐に至る、かつて毫釐之失もなく、これを本朝に考うるに、即ち上に向いては神武天皇自り始めて、下に向いては天智天皇に至る、また分銖之違なし、然れば即ち明年事変あり・・・」とある。

これは、来年が革命変乱の年であることを示すために、1320年説が中国と日本の歴史に照らしても寸分の違いもなく確実なものなのだとしているわけである。と同時に三善清行は「革命」(王朝創始)という点で神武と天智が同等なのだということを暗に示している。

つまり三善清行は1320年説で神武と天智を結び付けている。「中国と日本の過去の歴史に照らして絶対確実だ」とは言っているが、彼の心の深層では1320年説で神武と天智がしっかりつながっており、そのためそれに矛盾しなければそれで良いのであって、本当は歴史的対応など1320年説をごり押しするための方便に過ぎない。



1320年説の正しさを証左するものこそ「革命」「革令」にそれぞれ対応する「天智」「天武」という漢風諡号である。いうまでもなく「天智」は殷の紂王、「天武」は周の「武王」をさしているからである。

「天智」は暴政と酒池肉林に耽って滅ぼされた紂王の帯びていた宝玉の名であり、「天武」の二字のなかの「武」はその紂王を滅ぼした武王の武である。そこに易姓革命が存在していることも含めて、鄭玄の讖緯暦運説の「革命」「革令」論に従って「天智」「天武」という両者の漢風諡号が贈られたわけである。森鴎外も「帝諡考」(1921)で「天智・天武」と「紂王・武王」の平行論を主張している。

ちなみに、鄭玄の讖緯暦運説では、天命が入れ替わる「革命」の年が辛酉の年に当たり、その三年後の甲子の年が「革令」の年に当たる。

だが「天智・天武」と「紂王・武王」の平行論には反論もある。正史に記述はないが、(8世紀半ば成立の「釈日本紀」に引用された「私記」にある「師説」として)、天智の長子・弘文天皇(大友皇子)の曾孫である淡海三船が天平宝字6~8(762~4)年に神武天皇から元正天皇までの漢風諡号を一括撰進したという伝承がある。

従って「日本書紀における漢風諡号は全て淡海三船によるものなので、天智の子孫で曽祖父の大友皇子を壬申の乱で天武に殺された淡海三船が、「天智」と「天武」を殷の紂王と周の「武王」に対比させた筈はない」という反論である。

しかし淡海三船はいずれ天智系の天皇時代が再来するとは到底考えられず、「今の天武系天皇時代がずっと続く」と想定していたので、いわば阿付する意味で、紂王と武王の対比のもとに「天智」「天武」という両者の漢風諡号を撰進したのであろう。

天智-大友の子孫だからこそ阿付でもしないと未来はなかったのではないか。でないと「天智」と「天武」の「」の両語があまりにも符合しすぎる。漢風諡号を一括撰進したほど漢字に詳しく、日本の歴史の真相や中国史にも通じていた筈の淡海三船が、そもそも「天智」という独特の諡号を撰進しながらそれと同名の「天智」という珍しい宝玉名のことを知らなかった筈もない。

したがって日本書紀の考えている記述原点は紀元661年になる。そこから1320年遡って神武紀元(神武即位年)の紀元前660年が設定されているからである。(ちなみに紀元0年という年がないので、紀元前660年から紀元661年までちょうど1320年になる。)

ところで日本書紀が神武紀元を紀元前660年の辛酉年にした根拠とされる先の讖緯暦運説は唐の玄宗の時の元号である「開元」を冠した『開元暦紀経』からのものらしく、三善清行の『革命勘文』内の先の文章もそこから引用した可能性が高いとされる。ただし三善清行自身は典拠を示してはいない。

これは唐代の王肇の著した書物で、開元は713~741年までの元号だから、720年に完成した日本書紀が神武紀元年設定のためにこの書物を利用した確率は小さい。また先の「鄭玄曰く・・・」の内容がこの書物以前に実在したのかどうかも定かではないらしい。

とはいえ日本書紀において神武紀元が革命の辛酉年になっているのは、天智称制の辛酉年との絡みで、やはり鄭玄説がなんらかの仕方で利用されたためとするのが正しいだろう。




ところで安本美典氏は「邪馬台国の会」の第19回講演会「物部氏と古代日本」において次のような異なった見方をしている。原文をそのまま引用すると、

●『日本書紀』の編纂者は中国の史書を見て、日本の歴史書にも年代を入れて体裁を整えようとした。しかし、古い伝承には天皇の寿命の情報はあったが、絶対年代の情報が存在しなかった。

●『日本書紀』の編纂者は、年代の手がかりを求めて、中国、朝鮮の文献と日本の伝承を調査した。その結果、魏志倭人伝に記された卑弥呼を、海外にまで名前が伝わった日本の女王であるとして、神功皇后のことであると考えた。

●倭人伝には卑弥呼は3世紀前半に活躍したように記述されている。『日本書紀』の編纂者はこの時代を神功皇后の活躍時期と考えて『日本書紀』の年代決定の最初の手がかりとし、神功皇后紀元を201年とした。

●そして、これを起点として年代の記されていない古い天皇の在位年数を60年を一区切りとして割り当て、さかのぼって年代を当てはめていった。

●神武天皇は神功皇后から14代前の天皇である。1代を60年として14代さかのぼると紀元前640になる。60年ごとの辛酉の年に革命が起きるという説にもとづき、BC640年にもっとも近い辛酉の年である紀元前660年を即位の年とした。その結果、神武天皇の在位年数には20年が加えられた。

●天皇の寿命の情報は『古事記』などの伝承として伝わっていたので、『日本書紀』の編纂者はこれを参考にしながら、1代60年として割り当てた在位年数を増減して調整を行い、天皇の寿命を定めた。



安本氏は各天皇の在位年数・寿命・即位時の年令・立太子年その他の統計的確率論から以上のような結論をはじき出したわけだが、その前提として一つは、中国の文献には60年ごとに変革があるという記録はあるがそのどこにも宇宙サイクルを1260年や1320年とみる文章がないとしていることがある。

そして先の『革命勘文』における1320年の文章は「三善清行が菅原道真を追い落とすための口実に創作したのではないか」と考えている。

しかし上の安本説では日本書紀の成り立ちがうまく説明できるとは思われない。たとえば20年のズレが生じているのがそれである。

その足りない20年を単純に神武の在位年数に加算して済ましてしまって良いものだろうか? 20年といえば干支一運の3分の1に当たり、干支を思考や生活の基礎にする者にとっては到底無視し得ない大きなズレであろう。

辛酉変革説を大事に考えるならば、日本書紀の編纂者たちにとって在位年数の細工などなんの造作もないことなのに、彼らはどうして卑弥呼なる神功の元年を20年遡らせなかったのか? 

もし神功元年を20年遡らせていれば、14×60でちょうど辛酉年になるわけである。これをみると安本氏の「一天皇在位平均60年設定説」は成り立たないといえよう。

安本説はどうやら日本書紀の編纂基準が百済滅亡や白村江敗北との関連の中に置かれるのを忌避する目的で考案されたようである。それで「日本書紀は神功元年を基準として編纂された」という一編纂基準論を打ち出し、それで生じるズレは60年辛酉変革説で修正したわけである

しかし安本説のように60年を基準とする場合、その3分の1に当たる20年のズレはやはり説明不可能な大きなズレであろう。



干支は一年一年に違った名前と意味があるのでなおさらである。たとえば「甲子」と次の「乙丑」とではすっかり意味が違う。厳密に言えば干支思想では一年ずれてもすっかり違ったものになる。

ちょうどぴったりでなくては無意味になるというのが干支の仕組みなのだ。そして一年違わずぴったり合うのが百済滅亡や白村江敗北を背景とする「天智称制」と「新冠位発布」の1320年辛酉革命説なのである。

「1320年」が正しい根拠は(後に詳しく触れるが)「天智」「天武」がそれぞれ「革命」「革令」に対応していることにある。いうまでもなく天智の和風諡号「天命開別天皇」の「天命開別」とは「革命」のことである。

ところで「革命」の「天智称制」年(661年)(辛酉年)からちょうど1320年前が、「革命」の神武即位年の辛酉年になる。つまり「天智」「天武」が「革命」「革令」に対応している限り、「1320年」が正しいわけだ。

ちなみに、「革命」の本来の意味は易経に由来し、「革」は「革(あらた)める」、「命」は「天命」で、「革命」とは「天命によって世を革める」という意味である。これは新王朝発足を指し示す。天命は王朝に一度しか与えられない。その王朝の王たちは最初の王(太祖)に下された天命を受け継ぐだけである。

したがって日本書紀の天皇40人(神功皇后を含めると41人)の和風と漢風の諡号のなかでも、天智の「天命開別」は明らかに神武以来の一系論と根本的に矛盾する非常に特異なものとなっている。

なんであれ日本書紀の万世一系に矛盾するものは、ただそれだけで事実性が高いと言えるが、「天命」の二字だけでなくそれに「開別」の二字まで付け加わることで、「天命を受けた太祖としてこれまでの王朝とはの王朝をいた」という意味になる。これは一意に決まる。別の解釈はありえない。

和風諡号の「天命開別天皇」は殯(もがり)つまり葬式のとき、いわば戒名としておくられたものなので、天智の娘の持統は、日本書紀を編纂させるとき、真相暴露の危険があるにもかかわらず、この和風諡号に変更を加えることができなかった。

戒名に変更を加えれば、天智は成仏できないことになる。また変更を加えれば、奥の奥の真相が永遠に隠れてしまうことになる。それも(歴史系譜上の正体不明人物になり、自分の実体・本質を永遠に失うことになるので)困る。



ところで1320年ではなく、二十一元=一蔀(ほう)すなわち1260年だと主張し編纂基点を推古時代(593~628)に取る者もいる。すると紀元601年が「革命」の辛酉年として編纂基点となるが、肝心の日本書紀の推古紀にはこの年になにか基点となるほどの出来事など何一つ記述されていない。

任那関係のことなどが少しあり、その他では「皇太子(聖徳太子)ははじめて宮を斑鳩に建てた」とあるぐらいだ。自明なことだが、もし日本書紀が601年を編纂基点としたのなら、その日本書紀が601年条に「革命」の辛酉年にふさわしい出来事を何も記さなかった筈はない。

ついでにいえば、日本書紀には603年12月5日に冠位十二階が制定され、翌604年1月1日に実施されたことが記され、またその604年4月3日に聖徳太子によって十七条憲法が発表されたことが記載されている。

甲子の年の604年を「革令」の甲子年だとすれば、冠位十二階も十七条憲法も「革令」に当たるものとして都合の良い面もあるが、肝心の辛酉年の601年に「革命」に当たるものがないでは、これらを「革令」に対応しているとするわけにはいかない。つまり推古紀の601年は日本書紀の発端基準年ではない。

しかし604年の冠位十二階と十七条憲法は「革令」を偽装し、「革命」の編纂基準年を601年に誘導するための細工だった可能性もある。つまり本当は冠位十二階も十七条憲法も604年に発布・発表されたものではなかったかもしれない。

げんに十七条憲法は(儒教の礼記における「礼之以和為貴」に由来する)「和を以って貴しとする」(以和爲貴)以下、延々と漢字900字になんなんとする「全文」が紹介されていて、日本書紀でも唯一特異な扱いを受けている。日本書紀での全文引用はこれだけで、それを理由として幕末の狩屋棭斎は「日本書紀作者の潤色」とみなしている。

これは聖徳太子の手になる憲法十七ヵ条の歴史記述というより、現行の生の政治倫理表現となっており、日本書紀編纂者の政治倫理的意図を反映したもの、すなわち推古時代でなくそれよりおよそ百年後の八世紀初頭の日本書紀編纂時期の作であるとするのが正しい。

津田左右吉は、十七条憲法はその第十二条にある「国司」が大化改新以後のものなので天武・持統朝の作であろうとしているが、森博達氏は十七条憲法の和習(漢文に対する筆記者の誤用・奇用)から日本書紀編纂期(少なくとも編纂開始の天武朝以後)の作であるとの判断を下している。つまり冠位十二階も十七条憲法も「革令」を偽装するものである可能性が高い。

古事記の皇統譜が神武(神倭伊波禮毘古)に始まり推古(豊御食炊屋比賣命)に終わっているのも、日本書紀があたかも推古から神武へと遡ったかのように演出しようとしている証左であろう。一般に古事記と日本書紀の両書は相互に無関係だとされてはいるものの、同じ天武のもとでほぼ同時期に編纂が始まり進行していたからには、両書の隠れた共謀は自明であろう。

古事記が推古に終わり、日本書紀の推古紀でその推古が詳しく描写され、しかもそこで「革命」や「革令」を偽装している事実は、推古にこそ古代史の謎を解く鍵が隠されていることを示すもの。げんに「推古」は「古きを推し量る」の意味だから、漢風諡号の「推古」もそういう意味で付けられたとみることができる。



ところで安本説では日本書紀の編纂者たちが卑弥呼を神功と同一視したことを「捏造」という観点からでなく「推定・比定」という観点から見ているが、これはあり得ない。

それなら魏志倭人伝から引用したとき説明文を補足し、そこで「卑弥呼」という名で呼ばれている者が実は「神功皇后」「気長足姫尊」のことであると記さない筈がない。

魏志倭人伝には「卑弥呼」という名しか記されておらず、両者の名前がすっかり違うわけだし、少なくとも片方は女王、片方は皇后となっていて、その点だけみても一致していないわけだから当然だろう。

またもし卑弥呼が天皇家の皇統譜に属する誰かであったと彼らが比定したのなら、なぜその後に続く男王や壱与に比定される天皇などが日本書紀の皇統譜に記されていないのか? 

これをみても安本説は成り立たず、日本書紀の皇統譜が神話や伝承を適当に組み込んだ自分たち本位の全く架空のものであることが判明する。

のちにもう一つの編纂基準(割り振り基準)として神功紀を取り上げるときに触れるが、厳密に言って神功の時代内容は卑弥呼の時代より干支で二運つまり120年も後代にずれているのである。そのことは日本書紀の編纂者たちもよく心得ていた筈だ。とても安本説のように「『日本書紀』の編纂者はこの時代を神功皇后の活躍時期と考えて」と言えるようなものではないのである。




ところで鄭玄の讖緯暦運説では、天命が入れ替わる「革命」の年が辛酉の年に当たり、その三年後の甲子の年が「革令」の年に当たる。ところがそれがちょうどたまたま661年と664年に当たっていた。

661年は百済滅亡(扶余陥落)の翌年であり、664年は白村江敗北の翌年である。別の言葉で言えば、「革命」の辛酉年(661)は斉明の死による天智称制の始まりの年、「革令」の甲子年は白村江敗北(663年9月)翌年2月9日に大海人皇子を通して発布された「冠位二十六階」という新冠位で示される新国家制度開始の年のことである。

ちなみに、「革命」の「辛酉の年」が百済滅亡の翌年(661)なのはたまたまそうだったわけだが、3年後の「革令」の「甲子の年」に新冠位発布があったという日本書紀の記述は話が出来すぎている。

もしかすると新冠位発布はそれより数年後のことだったのに、日本書紀の編纂時に、それを「革令」の「甲子の年」に合わせて繰り上げたのかもしれない。

唐と新羅の連合軍が攻めてくるかもしれない白村江大敗の5ヵ月後に、このように悠長な新冠位発布などやってはいられなかったと思われる。政治のシステムをいじるのは国が落ち着いてからだろう。でないと国家の危急存亡のときに無用の混乱を引き起こしかねない。



新冠位発布について日本書紀は天智三年条で次のように記している。

「三年春二月九日、皇太子は弟大海人皇子に詔して、冠位の階名を増加し変更することと、氏上・民部・家部などを設けることを告げられた」(「三年春二月己卯朔丁亥 天皇命大皇弟 宣増換冠倍位階名及氏上民部 家部等事」)

日本書紀ではこのとき初めて行動者としての天武が言及されている。それまではたとえば舒明天皇紀で、

舒明二年一月十二日、「宝の皇女を立てて皇后とした。皇后は二男一女を生まれた。第一は葛城皇女、第二は間人皇女、第三は大海皇子である」とか、(「二年春正月丁卯朔戊寅 立寶皇女爲皇后 后生二男 一女一曰葛城皇子 〈近江大津宮御宇天皇〉二曰間人皇女 三曰大海皇子 〈淨御原宮御宇天皇〉」)(これが唯一の「大海皇子」名の記述で、「大海人皇子」名も天武紀冒頭に一度あるのみ)、

孝徳紀の白雉四年と五年にそれぞれ難波宮から飛鳥の河邊宮へ、河邊宮から難波宮へ、皇太子が皇祖母尊(皇極)と間人皇后と皇弟などを引き連れて往復していることとか、(白雉四年─「皇太子乃奉皇祖母尊。間人皇后并率皇弟。往居于倭河邊行宮」 / 白雉五年十月一日─「皇太子聞天皇病疾。乃奉皇祖母尊。間人皇后并率皇弟公卿等。赴難波宮」)

斉明紀に、曖昧な形で、「(斉明天皇は)初め用命天皇の孫高向王に嫁して、漢皇子を生まれた。後に舒明天皇に嫁して、二男一女を生まれた」とかの記述があるだけである。(この「二男一女」の「二男」のうちの年長が天智、年下が天武に該当)。

また天武の娘の誕生についても、斉明七年一月六日に、「大田姫皇女が女子を生んだ」とあり、大田姫皇女の夫でありこの「女子」の父親である天武のことはなぜか何も触れられていない。



日本書紀は天武朝へと至る天皇家の歴史を神代から記述したものである。つまり天武天皇こそがいわば日本書紀での最大のヒーローなのだ。

その証拠に天武紀は全30巻からなる日本書紀で唯一2つの巻(第二十八巻は壬申の乱、第二十九巻は通常の天皇紀)が宛てられ、この2巻は日本書紀全分量の約15%(神代紀を除けば約17%つまりおよそ6分の1)を占める。日本書紀に41人の天皇(神功皇后を含む)がいることを考えれば、その比重は圧倒的だといえる。

その天武の実質的な最初の登場が664年の「冠位二十六階」という新冠位の発布である。だからこの条の記述の重点は天智よりもむしろ天武にあると見て良い。つまり日本書紀は「革命」は天智に、「革令」は天武に振り分けていると見ることが出来る。

日本書紀は天智と天武の二重基準を持つが、それがこのようなかたちとなって記述されている。二人合わせて新王朝を始めたとみるわけである。

だからこそ天智の和風諡号(しごう)が「天命開別天皇」となっている。つまり「天」を受けた天智は「」の一字によって「革」と「革令」のうちの「革」の方に振り分けられている。これは逆に「天智」「天武」が(「革命」「革令」に関する)紂王と武王の対比名であることを示している。

ちなみに中国では天命を受けた者は新王朝を開く者とされているので、天智が新王朝を開いた印が「天命開別天皇」(天命を受けて別の王朝を開いた天皇)という和風諡号になった。



むろん天智は母の斉明天皇の皇太子であり母からその位を受け継いだから、「天命開別天皇」はかつての乙巳政変(大化改新)と難波宮の孝徳天皇へのクーデターのことを含んでいる。かつてみずから主導した乙巳政変と孝徳天皇へのクーデターが母の斉明天皇をも生み出した。

乙巳政変直後の孝徳天皇即位前紀皇極四年(645)六月十四日条に「皇極天皇を奉って皇祖母尊と号した」(奉号於豊財天皇曰皇祖母尊)とあるのもそういう意味であろう。「皇祖」という語がこんな後代の人物の尊号に出てくることはおかしい。「皇祖母尊」は「天命開別」と呼応している。言い換えれば天智が(神武と並ぶような)新王朝の太祖であるからこそ、その母なる皇極=斉明の称号が「皇祖母尊」とされたのであろう。

「皇祖母尊」はある種究極の尊号である。これはいわば「太祖の母」というほどの意味を持ち得て、「皇祖母神」のアマテラスと響き合い、日本書紀編纂発端基準と密接に関わっている。「皇祖母尊」という尊称でいわば(皇祖なる)神武と天智が共鳴している。

むろん「天皇」称号が使われ始めた天武以後でなければ「皇祖」という表現は可能でないので、皇極4年に皇極を「皇祖母尊」と称したというのは日本書紀編纂時に捏造した架空の出来事である。にもかかわらず日本書紀では皇極四年六月十四日条以後、皇極を「皇祖母尊」と記述している。

ただし斉明紀本文では斉明(皇極)は「皇祖母尊」でなく「天皇」と記述されている。その切り替えとして、斉明天皇即位元年に「皇祖母尊即天皇位於飛鳥板盖宮」と記述し、すでに存在する「皇祖母尊」なる称号の皇極が斉明天皇として再び即位したという風に細工している。

「皇祖」という語はこの他に皇極の母にも「吉備嶋皇祖母命」として使われ、祖母にも「嶋皇祖母命」として使われているが、さらにその祖母の夫で舒明の父である押坂彦人大兄皇子(天智の祖父)にも「皇祖大兄」として使われている。「皇祖」の語は特異的に太祖の系に使用されていて、ついには「皇祖母神」なるアマテラスにつながっている。

「皇祖」のこうした尊称での使われ方は上記のものしかなく、これらは全て日本書紀編纂時に作られた名前であり、天智が真の「皇祖」であるからこそ、万世一系化のためその架空の父系・母系の直前系譜に「皇祖」が付けられたと見て良いだろう。万世一系化しつつも同時に自分の独自な出自について言及しているのだ。

これらの尊称に共通する「皇祖母」はついに「皇祖母神」なるアマテラスとなった持統天皇に淵源する。「皇祖」を尊称に持つこれら三世代にわたる人物たちは、三世代(馬子・蝦夷・入鹿)にわたる蘇我王朝時代を埋めている。



乙巳政変は日本書紀編纂において天智称制の起きた辛酉年を「革命」の年ともなさしめ、その天智称制年が歴史の発端基準となって1320年前の辛酉年である神武即位年をも生み出した。

天智称制年を「革命」の年ともなさしめたのは、その年がたまたま「革命」の年にもなりうる辛酉年だったからで、日本書紀はそこを基点として神武即位年が定められたことを「天命開別天皇」という和風諡号によって間接的に示したのだ。

とはいえもっと言えば、たとえ天智が乙巳政変と孝徳朝へのクーデターを主導し斉明即位をお膳立てしたとしても、もし斉明天皇即位前に百済が滅んでいたなら、(たとえ百済王家の扶余氏でなくとも)もしかすると「天命開別天皇」という和風諡号は(日本に完全移住した百済の創建者として)斉明に与えられていたかもしれない。

「天命開別天皇」とは実は「天命でもう一つ別の百済を開いた天皇」あるいは「天命で倭国に取って代わって別の百済国を開いた天皇」という意味である。「開別」の「別」はいうまでもなく「同じカテゴリーの中での別のもの」、あるいは、「あるものから別れたもの」「分派したもの」という意味の漢字である。

むろんこの「別」は決して「蘇我王朝とは別の」という意味の「別」でない。それでは打倒した蘇我王朝に重心を置いて和風諡号を付けたことになる。あきらかに「蘇我王朝を含むこれまでの倭国王朝とは別の」という意味である。

百済はまだ滅んでいなかったので斉明にこの和風諡号は与えられなかった。百済が滅んでしまったために結局日本に移住した百済を創建せざるを得なかったのは百済王家の扶余氏翹岐の天智である。また天智が扶余氏であればこそ正しく「在日百済」と言えるわけである。扶余氏でない天智の母では「在日百済」とは言えない。

おそらくまだ百済が存在していた斉明朝は、「倭国に取って代わった」というものではなく、百済系だが扶余氏ではなく、まだまだ倭国王朝の一つだという意識のものだっただろう。



したがってなによりも在日百済国家の創建によって、天智の和風諡号が「天命開別天皇」になったといえよう。たまたま「革命」の辛酉年にあたる天智称制年は、これまでの倭国を滅ぼした在日百済国家の創建年なのだ。

これは神武以来の倭国史全体の終わりであり、王朝の根源的創始という点において、神武即位に匹敵する。だからこそ、これが発端基準となり、そこから1320年前に神武即位年が設定されている。

逆に言えば、神武紀元を決めるほどの出来事が天智称制年に起きたことが、ここから分かる。たんなる「天皇称制」がそれであるわけがない。それは根本的な画期となる(もう一つの神武紀元のような)新王朝の創建しかない。となれば、日本列島に完全移転して倭国を滅ぼした在日百済国家の創建しかない。

日本書紀を編纂するとき神武東征も神武紀元もそもそも史実としてはっきりしていたわけではない。むしろ神武紀元は、この在日百済国家の創建とその紀元を倭国の最過去へ投影して設定されたものなのだ。

また神武即位年が「革命」の辛酉年になったのも、そもそもそうした在日百済国家の創建年としての天智称制年が、「革命」の辛酉年だったからに他ならない。


─ちなみに「百済」を「クダラ」と読むのは朝鮮語(百済語)で「大きな国」(「偉大な国家」)が「クン・ナラ」だからだろう。「クン・ナラ」がなまって「クダラ」になったと思われる。むろん「奈良」は朝鮮語の「ナラ」(国)から来た─



さらに言えば、日本書紀が(むろん持統の眼から見てだが)天智と天武二人合わせて新王朝を始めたとみたからこそ、大海人皇子は天智と同様、「天武天皇」という「天」の一字を戴いた漢風諡号を与えられた。

また天武の和風の諡号は「天渟中原瀛眞人天皇」であるが、漢風諡号と和風諡号にともに「天」の一字を持つ天皇は天智と天武のこの二人しかいない。これはこの二人によって新王朝が開かれたということを示すものだと言えるだろう。

さて、日本書紀では、若い頃の事跡に関して天智のことは、皇極紀の乙巳政変(645)や孝徳紀の無血クーデターや斉明紀の百済救援軍のところなどで、たびたび触れられているのに比して、天武については上に見たようにほとんど触れられていない。それをある学説は、天武出自の非天皇家説や天智と天武の非兄弟説の一つの根拠としている。

しかし日本書紀が天武を最大のヒーローとしている点から考えると、書き込もうとする意思があれば、天武の若い頃の記述について、真偽はともかく、いくらでも書き込めたであろう。

したがって若い頃の天武の記述がないのは、(むろん非天皇家出自説や非兄弟説とも関係はあるが)、直接的には、「革命」は天智に、「革令」は天武に配するという編纂者の意図と関係するとみた方が良い。つまり日本書紀の編纂者は「革令」の年に(新冠位発布という姿で)実質的な天武の登場を設定したかったのである。

これはまた(天智と天武に各々配分された)天皇称制年と新冠位発布年がそれぞれ「革命」の辛酉年と「革令」の甲子年となるようにわざわざ仕組んでいることを示しており、天智称制年が日本書紀編纂の発端基準であることを証明している。そもそも白村江大敗五ヵ月後に新冠位発布などありそうもないので、なおさらその証明性が高まる。



ところですでに触れたように「天智」と「天武」という漢風諡号について、天智の長子・弘文天皇(大友皇子)の曾孫の淡海三船が紂王と武王の故事にならって「天智」や「天武」という漢風諡号を贈ることは絶対にあり得ないという強い反論がある。

しかしもし事実、淡海三船が「天智」と「天武」を含めて漢風諡号を一括撰進したのであれば、それは阿付からのものであろう。むろんもし漢風諡号の一括撰進が淡海三船によるのでなければ他の誰かによる他ない。

ところで、この淡海三船が漢風諡号を一括撰進したということ以外、具体的な経過が同時代の史料からは分からない。たとえば「続日本紀」では、天平勝宝8年(756)から延暦4年(785)の死の年にかけて淡海三船のことが21度も触れられているが、そのどこにも漢風諡号を撰進したことは触れられていない。それを匂わせるような記事さえない。

「続日本紀」の延暦四年七月十七日条に彼が64歳で死んだことが記され、聡明鋭敏で書を好み、文章博士や大学頭であったこと、正六位上から従四位下へとどのような官歴の浮き沈みがあったかなど詳しく経歴が紹介されてはいるものの、漢風諡号に関係する記事はどこにも見当たらない。

過去の天皇たちに漢風諡号を撰進するということの重みや「続日本紀」が「日本書紀」に続く正史であることを考えると、これはやはり彼が漢風諡号を一括撰進したというのが事実でない可能性を示すのではないか?

もしかすると漢風諡号を一括撰進したのは当時の権力者だった藤原仲麻呂(恵美押勝)だったかもしれない。恵美押勝が反乱者として淡海三船などによって鎮圧されたことによって、その役割が名目上移されたのかもしれないのだ。淡海三船は(鎮圧の)「その功績によって、正五位上・勲三等を授けられ近江介に任ぜられた。」と「続日本紀」延暦四年七月十七日条にある。



漢風諡号の「天智」には悪い意味だけでなく唯一つだけ積極的な意味合いがある。それは殷の末王紂王のように、ずっと以前から継続してきた王朝の最後の王であるという意味合いである。

だとすれば、天智が新しい王朝を開別した天皇であるという「天命開別天皇」という和風諡号が存在する一方で、それを相殺する目的で漢風諡号を「天智」としたということになる。

結果として万世一系が必要な場合、一見マイナスではあるけれども「天智」という漢風諡号は必要だったということになろう。

むろん「天智」には単に過去の王朝の系譜にあるという効果とともにその最後の王であるという効果もあるので「天智」それ自身が二重基準になっている。そして最後の王という効果を打ち消すために天智と天武とを兄弟にしてともに舒明天皇と皇極天皇の皇子としたということではないだろうか。

とはいえ「天智」「天武」のそもそもの意味が紂王と武王のアナロジーであるということは、その後、忘れ去られたか、あるいは「天智の子孫の淡海三船がそのような意味で漢風諡号を撰進した筈はない」と考えられたか、どちらかであろう。でないと天智系の桓武朝以後の朝廷がそのままでは置かなかった筈だ。「武」は「桓武」の中にもあるからである。

ところで、「武」は「神武」の中にもある。神武紀は崇神紀とともに天武紀上の壬申の乱の巻と天武紀下の通常の治世の巻に当たるから、神武は天武のいくばくかの投影である。そのことは「天」と「神」とが意味の上で可換であることから分かる。「天武」の「天」を「神」に換えれば「神武」になる。


さて、発端基準の「革命」年は天智の称制年、そこから算出された神武即位年は天武の関連であり、ここで発端基準に関する計算元と計算先において天智から天武へと乗り換えが起きている。これも二重基準の一形態であろう。

しかし新羅と誼を通じる天武は、持統の愛する夫でもあるが、百済を愛する持統にとって同時に疫病神でもあり、それが神功(持統の投影)と仲哀(天武の投影)との関係で示されている。

仲哀は新羅征討の信託に従わずに神に殺され、天武はいわば草薙の剣のたたりで死んだかのように死ぬ。日本書紀では「草薙の剣」が天武に祟るとし、天武はそれを熱田神宮に安置したちょうど三ヵ月後に死ぬ。

これらは持統朝が天智の立場を支持・肯定することを意味する。天智の立場は退位した持統が後見している文武朝初期でさらに強化され復権する。そのことは文武三年に営造が始まった天智の山科陵が藤原京の中心軸の真北に位置すること、さらにそれまで国忌廃務の忌日は天武だけだったのが大宝律令後は天智も加えられたことで証することができる。




話を戻そう。繰り返すが、たまたま661年が鄭玄の讖緯暦運説では天命の入れ替わる「革命」の辛酉年に当たり、その三年後の664年の甲子年が「革令」の年に当たる。したがって日本書紀はこれを奇貨・奇遇として、661年を「革命」の年、664年を「革令」の年として、そこを基点にして神武紀元を設定したわけである。

すでに述べたように661年は百済滅亡の翌年、664年は白村江敗北の翌年に当たる。「革命」の辛酉年(661)は筑紫における斉明天皇の死による天智称制の開始年、(事実かどうかはともかく日本書紀によれば)「革令」の甲子年は白村江敗北(663年9月)翌年の2月9日の「冠位二十六階」という新冠位発布で示されている新国家制度の開始年である。

むろん中大兄皇子の天智称制そのものは天智即位ではないし、また新冠位発布そのものも大海人皇子の天武即位でないので、それ自体で編纂基準の全てを担っているわけではない。天智称制年と新冠位発布年がたまたま鄭玄の讖緯暦運説の「辛酉」と「甲子」の年に合致していたので、天智称制年や新冠位発布の方に基準年を合わせたに過ぎない。

いや、そもそも「革命」や「革令」は同じ王朝内で何度も繰り返される天皇称制や天皇即位程度で云々されてはならない性質のものである。本当は「易姓革命による新王朝の創建」というほどの出来事がないと、「辛酉」「甲子」の年は「革命」「革令」の年として判断され得ない。

だから編纂者にとってはむしろ天智称制と新冠位発布の前年に起きている百済滅亡や白村江敗北との関連こそが重大な視点なのだ。そこにこそ「易姓革命による新王朝の創建」というほどの出来事が潜んでいる。なぜ日本書紀という日本国の正史の編纂基準が外国の出来事である百済の滅亡や百済の白村江での敗北と関係付けられているのか、これまでの記述から今や明らかであろう。



すでに述べたように、「革命」の辛酉年としての天智称制年が、滅亡後、日本に移住した百済の創建年とされたからである。これはまた、なぜすでに滅びた百済を復興するために国力を尽くし、新羅だけでなく唐という超大国まで敵に回し、国運をかけて白村江へ派兵したのか?というたびたび発せられる問いとも関係している。

「唐を敵に回してもし敗北すれば、いずれ倭国は百済と同じく唐と新羅の連合軍によって滅ぼされてしまうだろう。すでに百済は滅んだのだ。わざわざ国運を賭けてまで百済の再建に行くことはない」。当時の誰でもこう考える筈である。

しかしあたかも一蓮托生、滅んだ自分の家にかけつけ、壊れた自分の家を再建するかのような意気込みで救援軍を百済に派遣した。しかも欽明朝などの任那回復軍の話のときとは違い、征討将軍を派遣するのでなく、天皇みずから筑紫の朝倉宮に赴き、しかも天皇家総出で出向いている。

皇太子の中大兄皇子とその弟とされている大海人皇子も伴って出向いている。直接記述されてはいないが大海人皇子が同伴していることは、その妻で中大兄皇子の娘の一人である大田皇女が途中船内で大伯皇女を産んでいることから分かる。

また斉明が死んだ数日後にその喪を中大兄皇子が勤めている記述から、中大兄皇子もまた同伴していたことが判明する。つまり百済再建軍は天皇家総出で行っている。



このようなことはほとんど前例がない。天皇だけでなく天皇総出というのは百済再建軍がすなわち自の再建軍であることを意味している。それ以外の解釈は成立しない。天皇家総出については、もし斉明が百済武王の妻で、中大兄皇子がその子の翹岐(ぎょうき)だとすればなんとか説明もつく。

日本書紀の皇極紀によれば皇極元年(642)1月に武王の妻とその子翹岐は、武王(600~641)のあとを継いだ義慈王(641~660)によって済州島へ流され、皇極2年、翹岐は、(おそらく一緒に流罪にされた母や妹や多くの取り巻きも帯同して)、そこから明日香にやってきている。

なお百済再建軍が自家の再建軍だったことによってこそ白村江での大敗北の説明もつく。倭国の利益を全く無視した(百済王家の利益のみによる)派兵だったために、倭国将兵の戦意も高揚せず、倭国軍と百済軍の連携・調和も成立し得なかった。

ちなみに、中大兄皇子による乙巳政変(大化改新)は翹岐と母などが来日して数年後の645年のことであり、これは642年秋の高句麗における淵蓋蘇文によるクーデターの影響を受けて起きたと考えられる。

このクーデターは、栄留王とその臣僚180人を殺し、王弟の子を立てて宝蔵王としたもので、日本書紀の皇極元年二月条によれば高句麗からの使臣によって伝えられた。



いうまでもなく「革命」「革令」といった概念は宇宙論的なサイクルを意味していて、王朝の生滅と本質的に関係している。そのように根本的な事柄が日本書紀において百済の滅亡や白村江の敗北と深く結び付けられたのは「百済はすなわち日本である」という考え・思想・発想法のためであり、そうでなくてはこれは決して理解できないことである。

これは「日本という国家が百済を後継することが『天命』である」ということであって、ある意味で百済はこのとき倭を滅ぼして日本に化したのである。そしてその推進者が「天命を開別する天皇」なる天智だということになる。「日本とは日本列島に移転した百済である」と言っても良い状況だ。

だから日本書紀には百済記・百済新撰・百済本記からの引用が多く、武烈紀ではわざわざ百済王家の内情に詳しく触れていて、そこにはあたかも自分の王家の出来事であるかのような雰囲気の文章さえある。

ちなみに皇極(=斉明)の夫とされる舒明天皇の十一年(639年)条では、舒明は百済川のほとりを宮の地とし、そこに百済宮を作り、また百済大寺もつくりはじめ、舒明十三年(642年)条では、舒明は百済宮で死に、その宮の北に殯宮を設けて「百済の大殯」と呼んでいる。この殯(もが)りのとき「東宮の開別皇子(のちの天智)は16歳で誄(るい)を読まれた」とある。

これを見るとあたかも倭は百済の日本版でもあるかのようだ。これはたとえば英国のヨークを想起してニューヨークとしたり、フランスのオルレアンを考えてニューオーリンズとするなどの例とはわけが違う。

これは米国の首都ワシントンを流れるポトマック川を「テームズ川」とし、キャピタルヒルを「ウエストミンスター」と名づけ、ホワイトハウスを「バッキンガム宮殿」と呼ぶに等しい。

百済王家が倭に渡り、そこに倭版の百済国を創建したというぐらいのにおいがある。したがって舒明紀にはどうやら命名において(おそらく「翹岐の母 - 翹岐」であろう)「斉明 - 天智」以後(とりわけ百済滅亡後)からの投影があるようだ。



さて、朝鮮半島が新羅の手に落ちたことで王族と百済人たちは、大挙、天智の日本に亡命・移住し、百済という国家はいわば日本に移転・移動することになった。したがって現在に至るまでの朝鮮と日本の対立は、そもそもこの新羅と百済(日本)との対立が尾を引いているものだとも言える。

朝鮮半島で百済が新羅に滅ぼされた憎しみは、百済の存在しない朝鮮半島に対する過小評価や無視となって、その後の日本人の精神世界に深く潜在するようになり、あらゆる面でいびつに表現されるようになる。

たとえば平安初期の「新撰姓氏録」(815)では、「韓」を「漢」「唐」とし、それを全て同じ「から」と読ませ、朝鮮半島由来の氏族をなるべく中国由来のものに変更したりしているし、すでに述べた鎌倉仏教における「三国一」もそうした流れのものである。唐から753年に渡って来た盲目の鑑真や唐招提寺に対する殊更のような持ち上げもそうだ。



天智は百済系で、天武は新羅派高句麗系である。それを如実に示すのが百済からの亡命者たちに対する処遇である。

百済人の亡命・移住は白村江の敗北後の天智時代(10年間)のことである。すでに斉明は661年、百済復興ための遠征拠点の筑紫で病没し、そのとき中大兄皇子(天智)が称制天皇になっている。

むろん日本とは在日百済、すなわち百済が日本列島へ移動した国家だから、百済滅亡後に日本へ移住してきた百済人の総数は、日本書紀に記されているより少なくとも一桁から二桁は多いと考えた方がいい。

天智には自分を支えてくれる百済人の大勢力が必要だった筈で、できるだけ多くの百済人を積極的に呼び寄せたであろう。しかし日本書紀は日本が在日百済だということを隠そうとしているので、歴史記述上その実数を格段に減らす必要があった。

他方、注目すべきことに、ほぼ14年にわたるその後の天武時代に百済人の亡命・移住は記されていない。ただ日本書紀の天武十年八月十日に、

「三韓からきた人々に詔して、『以前、十年間の調税を免除することとした。またこれに加えて、帰化の年、一緒につれてきた子孫は、すべて課役を免除する」

という優遇措置がとられている。しかし他方、天武十三年五月十四日には、

「帰化を望んできた百済の僧尼および俗人の男女合わせて二十三人は、みな武蔵国に住まわせた」

として、天智時代に百済からの移住者を近畿近くに移住させることが多かったのに比べて、一種の冷遇が行われている。

他方、天武は新羅に遣新羅使をたびたび送り、新羅からも使者が足繁く訪れている。



百済移住民への再度の厚遇は持統時代になってはじめて日本書紀に現れる。それは新羅への反発と一対になっている。

たとえば持統元年三月二十二日、

「自ら帰化してきた新羅人十四人を、下毛野国に居らせ、土地と食料を賜い生活出来るようにされた。」

「夏四月十日、筑紫大宰が、自ら帰化してきた新羅の僧尼と百済の男女二十二人をたてまつった。武蔵国に居らせて土地食料を給され、生活出来るようにされた。」

持統三年「夏四月八日、自ら帰化してきた新羅の人を、下毛野に住まわせた。」

持統四年二月二十五日、「帰化した新羅の韓奈末許満ら十二人を、武蔵国に住まわせられた。」

八月十一日、「帰化した新羅人らを、下毛野国に住まわせられた。」

など、敵国統一新羅から自ら日本に帰化してきたという記事を何度も載せて新羅を貶めようとしている。しかも指定する移住地は近畿から遠い関東の地である。

また持統三年五月二十二日条では、天武の死を伝えた日本の遣新羅使に対する不当な処遇を強く非難する記事を長々と載せている。



反対に百済人に対しては、持統四年十月二十二日の条に、白村江のとき唐の捕虜となった大伴部博麻がみずからを奴隷として売り、その代金で他の捕虜四人が日本に戻れるよう衣食代金を調え、自分は三十年も経って今やっと戻れたという記事を載せ、その忠誠を褒め、褒賞を与える話が見える。

また同じ脈絡で、持統十年四月十日、「長らく唐土で苦労したことを労わられて」、物部薬と壬生諸石に褒章が与えられている。

さらにそうした流れとともに、持統五年五月七日に百済王扶余禅広とおそらくその二人の子に優(にぎおえ)を与え、十三日に冠位に応じた一般の加増行政の中で扶余禅広にも食封百戸の加増があった。

さらに持統七年一月十五日、「正広参の位を百済王禅光に追贈され、合わせて博物を賜った。」 
持統十年一月十一日、「直大肆の位を百済王南典に授けられた。」
とあって、百済王族への厚遇がたびたび示されている。

したがって天武時代と持統時代は、天武時代と天智時代の関係に戻っているわけである。それは百済系日本と統一新羅朝鮮との対立という構図である。この構図は「革命」「革令」の論法からすれば、日本と化した百済と朝鮮半島の新羅との対立という構図でもある。



この流れはのちのち天智系の49代光仁の時代に一層深まり、その子である50代桓武時代以降、定着・沈降していった。

持統が自分の子の草壁皇子に自分の皇位を本意で継がせようとしていたかどうか定かではないが、ともかくそれは夭折されてならず、それでその草壁皇子と妹の阿閇(あべ)皇女(のちの元明天皇で、持統と同じく天智を父とする)との間に生まれた孫の軽皇子(文武天皇)に自分の位を継がせる。つまり持統は自分の子の系列でしかも可能な限り天智系列に近い孫に、自分の天皇位を継がせようとしたわけである。

この流れは文武天皇後も続き、最後には藤原百川らによる度重なる暗殺によって、ついに天武系の後継者候補が絶滅した。そのため天武の血の混じらない純粋な天智系の光仁(天智の子の施基皇子系)が皇位に昇れるようになった。

そしてその光仁天皇と百済系の高野新笠の子である桓武天皇が最終的に天武との関係を絶つために、時代を一新する意味で長岡京や平安京に遷都したのである。

したがって現在の天皇家は天智系であり、そのことは延喜式で天武系天皇陵が遠陵扱いにされていること、仁治3年(1242)年以来歴代天皇の位牌を祭る泉湧寺に天智 - 光仁 - 桓武天皇が供養されていて天武系は供養されていないことなどから判明する。天武系は天智系とは全く異質の血なのだ。

天智と天武が日本書紀に書かれている同父同母(舒明/皇極=斉明)の兄弟なら、天智の娘四人(大田皇女・菟野皇女・大江皇女・新田部皇女)が天智に嫁ぐということは、たとえ前二者が天智の生前に嫁ぎ、後二者が天智の死後に嫁いだとしても不自然である。



もしかすると天武系が称徳天皇で途絶えた後に皇統が天智系の光仁天皇に伝えられたのを、「天智と天武が兄弟だから」とする識者もいるかもしれないが、必ずしもそういう必要はない。

というのも、一つには天武系にも持統を通じて天智の血が入っていること、一つには天武即位から光仁即位までほぼ100年も経っていて、事実上、皇統は天武系が途絶えれば天智系しか存在しなかったこと、一つには偽史の日本書紀の内容がすでに浸透・定着していて、そこに天智と天武が兄弟だとされていること、以上の三つが協同して働く。つまり天武系が途絶えれば、天智系しか存在しない。

思うに天武の死後、持統が即位せず天武との子である草壁皇子が即位していれば、はっきりした天武系の王朝史が成立したことだろう。だが持統はすでに24歳だった息子の草壁を即位させずに称制後みずから即位し、草壁の夭折後、孫の文武に生前譲位した。これで半ば天武系は途絶したとも言える。このとき天智(扶余翹岐)の次女の持統は扶余氏の女王となり、日本は百済になったともいえる。

もしかするとこれが草壁を即位させなかった原因なのかもしれない。草壁を即位させると日本は天武の高句麗系に渡ってしまい永遠に百済性を失ってしまう。持統にはそれがなによりも耐え難かったと思われる。草壁を抜き、草壁の子でみずからの孫である文武を即位させると、抜けた草壁がバッファになって、天武系の流れは格段に弱くなるわけだ。



文武はなるほど天武と持統の子である草壁の子だが、天智の第四女で持統の異母妹の阿閇皇女が文武の母であり、したがって文武の血は天武系よりも天智系の方が断然濃い。しかも14歳で皇位に就き、はじめはずっと持統の後見下にあった。

文武が持統の死後に皇位に就いたのであればある程度の父系としての独自性は得られるが、生前譲位という形ではどうしても先帝の持統の意向が先立つ。

祖父の天武が死んだとき文武は3歳、天武からのパーソナルな影響はなかっただろう。また父の草壁が死んだとき文武は6歳、草壁からの影響もそれほどのものではない筈。幼く即位したことも原因して、文武朝はほとんど父系性を消失して母系の持統色に染められたと言っていい。

祖母も母も天智の娘であり、祖母から生前譲位され、その祖母が天武より天智を尊重するというのでは、これは天武系王朝というより天智系王朝とでもいうべきもの。げんに持統晩年の文武朝初期になされた陵地選定や国忌廃務日の設定などから分るように天智の復権が行われた。

したがって父系をたどれば藤原京時代と奈良時代は天武系だが、元明を継いだ元正天皇も母親が持統の娘の元明なので、内容で見ればそこにはむしろ「天智系女系列王朝」とでも言える伝統が成立している。

だから天智と天武が兄弟でなくても、天武系が途絶えたとき、天智系が皇位を継ぐのは誰にも異存はなかったであろう。そして注意しなくてはならないのは、日本書紀編纂は天武の発意で始まったとはいえ、こういう系列の王朝が監修したということである。



ここで付言すると、藤原京の天極(大極殿の真北)に天智陵を選定するとか国忌廃務日を天武に加えて天智にも制定するとかは、天智復権を示すだけでない。藤堂かほる氏の『律令国家の国忌と廃務─8世紀の先帝意識と天智の位置づけ─』(1998)によれば、天智に対する国忌廃務の制定は、「天智が律令国家の受命の天子であることを象徴するものでもあった」。つまりいまや天武より天智が優越している。

これは天智が国忌廃務制度制定翌日(持統没の二週間ほど前)に国忌廃務対象とされたこと、つまり大宝律令による新たな国家における最初の国忌廃務対象だったことからも判明する。

「受命の天子」、これは天智が死直後の殯(もがり)のとき「天命開別天皇」という和風諡号を与えられた者として、日出る東方に移った在日百済なる「日本」の建国者であったこととも符合する。

むろん「受命の天子」とはいっても、大宝律令のときに系譜の違う新国家が生じて故人の天智に新たな天命が下った、という意味にはならない。「受命の天子」の本意はかつての「天命開別」にある。

ところで天智と天武は相反するが、持統のなかで彼らはそれぞれ父と夫である。だが結局どうやら持統は夫より父の立場を選んだようだ。普通、女性は結婚して夫と暮らし子をなせば、夫の家門の者として、父の立場より夫の立場に立つものである。つまり父よりも夫がもっと大事になる。これは十中八九そう言えよう。もし持統が夫の立場より父の立場を選んだのであれば、そこにはそれ相応の「特殊な理由」がなくてはならない。

天智も天武も国家の王である。だからこの特殊な理由も国家レベルのものであってこそ納得がいく。となれば、天武の出身国が天智の出身国の百済ではなかったから、ということになるだろう。「わたしは百済人の娘。高句麗人の妻にはなったが、やっぱり百済が良い」というわけだ。

そうでこそ持統は天武の死後、皇位をすでに一人前の大人だった草壁皇子に継がせず、みずから継いだのではなかろうか。草壁に継がせると日本の皇統は永遠に高句麗出身の天武系となる。

こういうわけで天武に優越するかたちでの天智復権は天智と天武とがそれぞれ別の国家の出身である証拠の一つになりうる。それ以外の理由はちょっと思いつかない。

さらに付言すると、もし漢風諡号を一括撰進したのが天智の後裔である淡海三船だったのであれば、「持統」という漢風諡号は、「天智の娘で天武の妻でもある持統天皇を通じて、天武系と天智系が相結んで皇を維するべし」という期待を込めたものだといえよう。


第3章  天智と翹岐(ぎょうき)



(1)天智は百済系で、天武は新羅派高句麗系
(2)日本書紀の編纂基準である「革命」「革令」による百済後継国家としての日本
(3)「天」の一字を和風諡号と漢風諡号に唯一同時に持つ新王朝を開いた天智と天武
(4)天智の母の皇極=斉明が乙巳政変直後の皇極四年に「皇祖母尊」の尊称を受ける
(5)天智の和風諡号が「天命開別天皇」であること

これら五つを併せて考えれば、少なくとも王子か王族でなければ日本の王になれないから、中大兄皇子すなわち天智は皇極紀に登場する百済王子の翹岐(ぎょうき)なのかもしれない。

この翹岐は皇極元年(642)二月から七月にかけて何度となく主人公のように登場する。そこではともかく異常といえるほどの親しみと敬愛とが端々に表現されている。



さて、この翹岐については奇妙な記述がある。皇極二年(643)四月二十一日条に、

二十一日、筑紫の大宰府から早馬で伝えて、「百済国王の子、翹岐弟王子が、調使と共に到着しました」(百済國主兒翹岐弟王子共調使來)といった。

とありながら、すでに言及したように、皇極元年(642)二月条から七月条にかけて何度となく主人公のように登場しているのである。

つまり日本に来る前にとっくに日本に来ているという不思議さなのだ。これは翹岐は新参ではあるが、日本書紀に記されるさいには中大兄皇子としてとっくに日本にいる者として描かれているという暗示なのかもしれない。

その他にも皇極元年条には、二月条で百済の大佐平・智積(ちしゃく)は死んだとされているのに、その五ヶ月後の七月九日条では、百済の使者の大佐平・智積を朝廷で饗応したと記されている。また「智積らは宴会が終わって退出し、翹岐の家に行き門前で拝礼した」ともある。



日本に到着していない翹岐がとっくに日本にいてあれこれ厚遇を受け、死んだはずの智積が生きていて朝廷で饗応を受けている。こうした矛盾した記述がすぐ近くで(いわば数ページ以内で)同居している。

自分たちが記述したのだから日本書紀の編纂者たちがこれらの矛盾に気づかなかった筈がない。だからこれは何かの暗号であろう。この矛盾と混乱には天地を逆転させるような、つまり大王家支配構造の激変、いやその歴史記述上の驚くべきトリックを示すなにかの意図した暗号があるようだ。

たとえばまだ来日していない翹岐がとっくに日本にいる者として細工してあるように、のちに「斉明」として初めて即位する翹岐の母が、「皇極」としてすでに一度即位した天皇として細工してあるとか・・・・? だからこそ皇極が乙巳政変のすぐあとに「皇祖母尊」なる尊号を得たとされたと言えるのではないか?

また、上記のような翹岐と智積との親密な主従関係は、もし翹岐が中大兄皇子であれば、死んだ筈なのに生きている不思議な智積が中臣鎌足である可能性は大きい。

となれば、神代紀上にある「天児屋命」から皇極紀の中臣鎌子=鎌足まで少なくとも38回(ほぼ半分が推古十六年以後のもので、およそ三分の一が皇極三年以後の中臣鎌子=鎌足)も記述されている中臣氏の歴史はすべて架空となる。



むろん(皇祖母尊なる)皇極が斉明として重祚したというこの細工で、中大兄皇子(天智≒翹岐)の乙巳の政変と孝徳朝へのクーデターによる王朝断絶・王朝交代が隠蔽できる。この重祚はいわば持統天皇から神武天皇に遡る王朝一系化のための糊付けなのだ。

翹岐は641年に父の武王が死に義慈王が即位すると、母などとともに済州島に島流しになる。皇極元年二月二日条に次のようにある。

「今年一月、国王の母がなくなりました。また弟王子に当たる子の翹岐や同母妹の女子四人、内佐平岐味、それに高名な人々四十人あまりが島流しになりました」(今年正月。國主母薨。又弟王子兒翹岐。及其母妹女子四人。内佐平岐味。有高名之人册餘被放於嶋。)

それがすでに記したように皇極二年(643)四月二十一日条に「百済国王の子、翹岐弟王子が、調使と共に到着しました」となるので、済州島から日本へいわば亡命してきたということであろう。島流しになった者が全て日本に亡命してきたのであればその勢力は小さくないし、日本書紀が翹岐にささげる敬意も尋常でない。



当然、日本に亡命してきたとなれば、流刑地に母たちを残して来る筈がない。一緒に来た筈である。日本書紀が翹岐などの来日だけ告げて母の来日について何も触れないのは、ちょっと細工くさくみえる。

なぜなら皇極元年五月条で、二十一日に従者の一人が死んだこと、二十二日に翹岐の子どもの一人が死んだことに言及し、「翹岐とその妻は、子の死んだことを畏れ忌み、どうしても喪には臨まなかった」と記述しているからである。このように翹岐は家族とともに来日している。自分の妻子とだけ来日して母を残してくる筈はない。もし母が生存していたなら、これは100パーセント断言できる。

日本書紀は従者や子の死については語りながらも、母の死についてなにも語っていない。流罪から亡命まで長くて一年そこそことみて良いから、おそらく母は生きている。

これは母とともに来日したと記述すれば、母と息子がセットになっているため、「母が斉明で、息子が中大兄皇子なる翹岐である」という真実が露見しやすいからだとも考えられる。

むろん一王子である翹岐だけでは大きな勢力になりえなかったであろう。40年以上も王位にあった武王(600~641)の妻が一緒だったからこそ、いや武王の妻が渡日してきたからこそ、百済王家の最大分派が倭国内で権威を確立し、(天智朝の前に)まず斉明朝となって、倭国の政権を継いだともいえる。

上記の「及其母妹女子四人」の「母妹」を「おもはらから」と読み、それを「同じ母から生まれた姉妹」と解釈しては、日本書紀が提供する重要なヒントを見逃してしまうことになる。日本書紀のヒントは明示的でなく、いつも技巧的に歪められ、暗示的にあるいは両義的に、曖昧な形で提供されるもの。これは「おもはらから」と紛らわせているのであって、本当は「母」と「妹」の間を切って、実は母が妹たちとともに来たというヒントと見做さなくてはならない。でないと、翹岐(天智)の母である斉明天皇の存在を説明できないことになる。



さて、孝徳即位前紀 皇極四年六月十九日条の末尾に、「皇極天皇四年を改めて大化元年とした」((改天豐財重日足姫天皇四年爲大化元年)とある。「大化」元号は日本初の元号で、そうした意味でも新機軸の政権が始まったこと、またまさに政権がこれまでの倭国の伝統からオオバケ(大化)したことを示している。

そして大化六年(650)一月一日に当たる日が、突然「白雉元年一月一日」として表現され、その上で白雉元年二月九日条に白雉発見の報とその関連記事、六日後の十五日条に元号を「白雉」(はくち)とする儀式の記事が続く。

白雉年号は白雉五年(654)まで続き、その後32年間、日本書紀から元号が一時消滅する。そして天武の没年の元号「朱鳥」(685)がたった一年だけあって、その後、元号は日本書紀(残りの持統紀)には現れない。

ところで「白雉」については、推古七年秋九月条にラクダなどとともに百済から送られてきたのが日本書紀における初見で、そもそも百済との因縁が深い。白雉元年二月九日条の白雉発見関連記事でも、どういうわけか孝徳天皇は他の人々に先立って百済王子の扶余豊璋に尋ねている。

また十五日条の元号儀式の式場でも「左右大臣、百官及び百済の豊璋君、その弟の塞城と忠勝、高麗の侍医毛治、新羅の侍学士などがこれに従って、中庭に進んだ」と百済王子たちを最初に挙げている。

「白雉」元号のきっかけとなった白雉は穴戸(長門)の麻山(おのやま)で発見されたと白雉元年二月九日条に記されている。のちに天武二年三月十七日条でも別の白雉発見の記事があり、そこでは備後の亀石郡(神石郡)での発見とある。どちらも都から見てずっと西方(百済の方角)である。



そもそも推古七年に百済から送られてきた白雉は日本原産の雉とは異なる高麗雉(鶏ほどの大きさでオスには首によく目立つ白い首輪状の羽毛がある)で、全身が白い白雉はその変種だとされていて、現在、そうした白雉が「ホワイト・フェズント」(White Pheasant)という名で存在している。

雉は飛ぶのが苦手で白雉も玄界灘を渡ってくることはないから、発見されたどちらの白雉も人の手で朝鮮半島からもたらされたものだろうが、それを穴戸や備後の国司がそれぞれの地で発見したと報告したのではないか。

ともかく百済では雉は瑞鳥だったようで、だからこそ白雉が推古七年に送られてきたのであろう。495年、新羅の救援を受けて高句麗軍を壊滅させ大勝利を収めたのが百済の雉壌城だったため、雉には良いイメージがあったと思われる。

「白雉」と「百済」との関わりはこうしたことだけではない。それぞれの発音が朝鮮音で「ペクチ」「ペクチェ」と(倭人の耳には)非常によく似ていて、そこからも「白雉」が「百済」の隠語になった可能性がある。

つまり元号の「白雉」は孝徳朝前半期(大化年号時代)とは違う後半期(白雉年号時代)の実質的な百済政権性(翹岐なる中大兄皇太子の実質支配)を連想させるわけである。

そして「翹」は「抜きん出ている」、「岐」は「高い」の意味なので、「翹岐」は「高く抜きん出ている」となり、そもそも命名はこの意味でなされたであろうが、また「翹岐」の「翹」には「鳥が尾羽を上げる」という意味もあるので、「翹岐」は「鳥が尾羽を高く上げる」という意味にもなる。「翹岐」の命名者である百済武王はそのことも当然考えたことであろう。

むろんこの「鳥」が瑞鳥とされたであろう高麗雉である可能性は大きい。すると百済(ペクチェ)の「翹岐」(尾羽を高く上げた鳥)こそは「白雉」(ペクチ)だということになる。こうしてたまたま白雉が発見されたのを機会に、そうした漢字の意味やいきさつを利用して元号を「白雉」とした可能性がある。



「翹岐」は皇極元年から皇極二年(643)にかけて12回も出てくる。すでに見たように日本書紀は翹岐に大きな敬意を示し注目を集めている。百済の一王子の家族が亡命してきたにしては詳しすぎる感がある。なかには「そこで力の強い者に命じて、翹岐の前で相撲をとらせた」(皇極元年7月22日)とあり、相撲で翹岐を饗応している場面もある。

  (註)これは相撲らしい相撲の初めての記述で、これ以前の相撲はいわば殴り殺しもする格闘技のようなものだった。
     相撲で饗応するというこの構図は、天智なる翹岐の後裔である現在の天皇に対して今も行われている。

しかしその後、突然、言及されなくなり、一切出てこない。言及されなくなってほぼ7年経った650年の白雉元号儀式のとき、豊璋・塞城・忠勝などの百済王子は全てその場に居並んでいるが、そこにも日本書紀があれだけ敬意と詳細を示した翹岐の姿はない。

翹岐の家族は流罪地から亡命してきたので日本にいた筈だ。流刑の亡命者だから参席できないという理由もありうるが、皇極紀によれば百済の使臣とともにやってきているわけである。

それに日本の元号儀式だから日本の朝廷が誰を招待しても差し障りはない。つまりあれだけ敬意をもって丁重に取り扱われていた翹岐の姿がこの儀式の場にないのはやはりおかしい。

そこで参考になるのが、その儀式の場での孝徳天皇と皇太子中大兄皇子の描写である。「天皇は皇太子を召され、共に(雉を)手にとってご覧になった」(天皇即召皇太子共執而觀)とある。「共に(雉を)手にとって」(共執)という表現から、皇太子の中大兄皇子が孝徳天皇と並ぶような地位にいることが分かる。

そして翹岐が「白雉」の象徴として、また白雉元号の起こりとして、そこに皇太子中大兄皇子となって存在しているとすれば、その後、あの突然言及されなくなっていた翹岐は名を変え、日本書紀の中に、中大兄皇子あるいは天智天皇として、同じような頻度で、ずっと存在し続けているわけである。そうであればこそ白雉元号儀式のとき百済王子が三人もその場にいるのであろう。

ちなみに日本書紀は天武の没年に「朱鳥」に改元したとし、その年限りの元号としているが、万葉集には朱鳥4年、6年、7年、8年が見える。これらの年は全て持統朝時代に入る。これが正しいとすると日本書紀は「朱鳥」を天武没年に限ることで持統と切り離し、意図的にそれを天武に帰属させたわけである。

これは「朱鳥」を天武と関係させることによって、「白雉」を天智と関係させているとも言える。というのも「朱鳥」は「朱雀」「赤雉」「赤雀」に由来するからである。

ここには「白雉=天智」「赤雉=天武」という意図的な対比がありそうである。「白雉」(ペクチ)が「百済」(ペクチェ)の隠語であるなら、これは天智が「百済」(ペクチェ)の「白雉」(ペクチ)なる翹岐(尾羽を高く上げた鳥)であることを示す今ひとつの対比であると言えよう。



ところで乙巳政変のとき、入鹿暗殺の現場にいた古人大兄皇子は家に逃げ帰って「韓人が鞍作臣(蘇我入鹿)を殺した」と述べている(「古人大兄見走入私宮 謂於人曰 韓人殺鞍作臣」)。これは中大兄皇子が実は韓人だという意味以外には受け取れない。

でなければ、中大兄皇子が蘇我入鹿を殺す乙巳政変の情景を詳しく描写しながら、「韓人が鞍作臣(蘇我入鹿)を殺した」は到底ないであろう。これは日本書紀に仕組まれた日本古代史最大の謎に対する決定的なヒントであり、日本書紀がみずから与えるその謎解きの最大の鍵なのだ。

これを中大兄皇子などが三韓の使臣に仮装したためだとする見解もあるが、それなら皇極の横にいた古人大兄皇子は弟の顔も識別できなかったことになる。弟の服装だけを見て顔を見なかったのか? 普通このような場合「誰がこんなことを?!」と防衛本能から出来事の核心である犯人の顔を見ようとするものである。

むろん入鹿が殺されたことを古人大兄皇子が確認したのでなければ、「殺」の字を使って、「韓人殺鞍作臣」と言った、というふうには記述できない。入鹿暗殺は最初、中大兄皇子が頭から肩にかけて切りつけ、入鹿が転んだところを「子麻呂ら」(「子麻呂等」・・・佐伯連子麻呂と葛城稚犬養連網田)が斬り殺した。

そこまで目撃していないと「韓人殺鞍作臣」とは言えない筈。つまり古人大兄皇子は一部始終を目撃していたわけである。その彼が弟の仮装を見抜けなかったのだろうか?

しかも「韓人殺鞍作臣」の「韓人」は単数である。複数なら「等」が付いて「韓人」は「韓人等」となりうる。げんに「子麻呂ら」は「子麻呂等」となっている。

むろん暗殺を完成させ実際に斬り殺したのは「子麻呂ら」なので、最初に切りつけた韓人を暗殺のリーダーと認識したうえで「韓人殺鞍作臣」と言った、としなくてはならない。しかし最初に切りつけたからといってその者をリーダーだと即断するわけにはいかない。リーダーだと一目で判断できる別の要素がなくてはならないわけだ。

つまり誰が最初に切りつけたのか古人大兄皇子は分かったうえで「韓人殺鞍作臣」と言った、としなくてはならない。だからこの「韓人」は最初に切りつけた中大兄皇子に対してしか適用できないのだ。

それに、百歩譲ってもし古人大兄皇子のその言葉が仮装による誤認だったのなら、日本書紀が記述されるとき、内実のない「韓人殺鞍作臣」は記述されなかっただろう。



となれば「韓人」はやはり韓人を仮装した日本人のことでなく、本来の韓人であり、しかも中大兄皇子であって、中大兄皇子が百済王族の誰かである可能性は大いに出てくる。筆者は(おそらく母とともに日本に来ているという点で)翹岐が一番可能性が高いと想像している。翹岐だとすると、「韓人殺鞍作臣」→「中大兄皇子殺鞍作臣」→「翹岐殺鞍作臣」となる。

百済義慈王によって母・妹・妻・多くの取り巻きまで全てが流罪にされた翹岐だったからこそ、百済義慈王と誼を通じる蘇我王朝の入鹿に対する中大兄皇子なる翹岐の反発があり、それが一因で乙巳の政変となったのではないか? しかしその後百済武王の子として、やはり百済寄りになって白雉改元を境に孝徳と対立していくのも仕方ないところではあろう。

それはともかく、このヒントを含め、日本書紀のあちこちにあるヒントや暗号には、皇統の真の系譜はやはり暗示しておきたいという持統系の側面もないではないが、同時に偽史を書かされた史官たちのせめてもの知的良心の所産という側面もあるに違いない。それは和風諡号や漢風諡号を撰進した者たちにも言えよう。

ただし「韓人殺鞍作臣」の「臣」は本来「王」とすべきところだったが、それではヒントであることがあまりにもはっきりしてしまうので、編纂目的に沿ってあえて「臣」としていることに注意しなければならない。

古代日本史の真実に迫ろうとする者は誰であれ、この「韓人殺鞍作臣」という一節の存在から目を背けてはならない。日本書紀という膨大な偽史をこのヒントで読み解き、勇敢に整理整頓すべきなのだ。



ところで一応新羅系だとされる天武が新羅王族に連なる金多遂だという林青悟氏などの説がある。金多遂について日本書紀は孝徳紀に、

「この年(大化五年 649)新羅王は沙喙部沙金多遂を遣わして人質とした。従者は三十七人であった」(「大化五年 是歳◆是歳。新羅王遣沙喙部沙金多遂爲質。從者卅七人」)─(注:は「」の一字。フォントになく表示できない)

と記している。

だが金多遂についての記述はこれだけで、この金多遂が新羅に帰ったという記述がないことから、天武が金多遂だとする説が現れたわけである。しかし日本書紀が使臣の帰国を記さないのはこれ以外にも数多ある。それにしても、もし天智が翹岐(ぎょうき)あるいは百済王族の誰かであれば、金多遂が天武だということもありうるのだろうか。



しかし天武はどちらかといえば高句麗系だから金多遂ではないようだ。藤原京の南の「ネクロポリス」にあるいわゆる「聖なるライン」上あるいは「聖なるゾーン」に存在する高松塚古墳とキトラ古墳は、天武の皇子たちの墓であろうが、そこには高句麗系の壁画が描かれている。

たとえば高松塚古墳の人物像は(とくに女性像が)高句麗の古墳壁画に描かれている衣装とよく似ており、また四神図の意匠も(高松塚古墳よりおよそ百年前の)高句麗の西江大墓古墳と酷似している。それだけでなく、キトラ古墳の星宿図は高句麗の首都の平壌辺り(誤差の範囲内)から見たそれに等しい。

2015年現在の研究では、高句麗由来の朝鮮最古の天文図「天象列次分野之図」(1395)における星の大小表現がキトラ星宿図に反映していること、キトラ星宿図における内規(一年中地平線に沈まない北極周りの限界線─これは北緯で決まる)と天の赤道との距離比から北緯38度(ソウルもここにある)あたりから見た図に近いことも判明した。

暦法と天文図は一体のものなので、西暦443年に始まる中国南朝の宋の元嘉暦が百済を経て倭国にもたらされた時にキトラの星宿図ももたらされたのではないかとされている。さらに高松塚古墳とキトラ古墳は横口式石槨で、これは高句麗や百済に由来する。


(参考までに、現存する中国最古の「蘇州天文図」(1247)では星はすべて同じ大きさで描かれているが、高句麗由来の「天象列次分野之図」では老人星(カノープス)や天狼星(シリウス)などいくつかが少し大きく描かれている。キトラ星宿図でも天狼星と極北・極西の三つの星が少し大きい。

ちなみに北緯38度の地平線上では山嶺に隠れてほとんど見えないカノープスがキトラ星宿図の外規の少し内側に(つまり見える星として)描かれていることや、さらに内規が特定の二つの星宿内を通過する位置から、キトラ星宿図は北緯34度近傍(秦・前漢・後漢・北周・隋・唐の都だった咸陽/長安や洛陽などがある)から見たものとする有力説もあるが、カノープスは北緯38度線あたりの山上はむろん水平線上では見えるし、この二つの星宿以外の星宿ではこの説は当てはまらない。つまり誤差はいつもつきまとう。またたとえ北緯34度付近の空であり高句麗の平壌ではなく中国の長安や洛陽の空だとしても、高句麗系の被葬者が中国由来の天文図を利用した結果かもしれない。)


さて、当然、故人の思想・背景・出自・祖先の地への思いが墓式や壁画となっている筈だから、これらの墓式や壁画は被葬者の皇子たちが高句麗系の皇子であるという証であろう。それはつまり天武が高句麗系であるという意味である。四神図が儒教か道教からのものであり、日本社会の底流をなす神道系でもなく上流層をなす仏教系でもないのも示唆的だ。つまり四神図に囲まれた被葬者は純日本人っぽくない。

小林恵子氏は天武を淵蓋蘇文と考えるが、自国・高句麗の存亡をかけた唐との幾度の戦争が続く中では、それはないであろう。

666年に彼が死んだことによって弟((淵浄土)と息子たち(淵男生・淵男建・淵男産)の間で内紛が生じ、それが668年の高句麗滅亡に直結したぐらいだから、なおさらである。

もし天武=淵蓋蘇文なら、天武が四人の天智の娘以外にも妻たちを得て次々と多くの皇子や皇女を得ていることが理解できなくなる。これは淵蓋蘇文の長期の連続的な日本滞在を余儀なくさせる。この点でも天武は淵蓋蘇文よりもその隠れた弟だとする方がまだ納得できる。



淵蓋蘇文には文書で確認できる弟(淵浄土)の他に、ごく一部で口伝承されている「淵蓋蘇珍」というもう一人の弟がいる。

淵蓋蘇珍は中国遼東地方にある建安城で兄の淵蓋蘇文とともに唐軍と戦ったという現地に伝わる口伝承があるが、栄留王を殺し宝蔵王を立てた642年秋のクーデターの後、唐太宗李世民の第一次高句麗遠征(644)と第二次高句麗遠征(645)の間に、彼が兄の命を受けて対唐闘争の使節として日本に渡り、そのあと日本に住み着いて天武となったとする方が小林説よりは分かりやすい。

すでに倭国には百済から王子たちが出向いているが、高句麗も対唐戦争のために倭国に対して効果的な外交工作が必要だった筈。そのためにはできるだけ権威ある使節が要る。百済のように王子を送れば良いが、実権のない高句麗王家の者ではこれは無理なので、できれば淵蓋蘇文の親族が行くべきだということになるだろう。というわけで、淵蓋蘇文の弟の淵蓋蘇珍を使節として送るのは、ある意味で必然とも言える。

もし小林恵子氏が受け入れた李寧熙氏の説のように、淵蓋蘇文の官職名の「大莫離支」の「莫」が古代朝鮮語の吏読で「水」を表し、「水」がそのまま「海」をも意味し、「離支」が貴人の意味で、「大莫離支」が正しく「大海人」になるのであれば、天武がみずからを「大海人」と称することによって「大莫離支」を自分に重ねたのかもしれない。

高句麗では淵蓋蘇文の亡き後、「大莫離支」の地位、言い換えれば淵蓋蘇文の後継者をめぐって、弟の浄土と息子たちが互いに争い、その内紛が原因で高句麗は唐に滅ぼされた。もしかするとそういういきさつを全て踏まえて、日本に渡っていた淵蓋蘇文のもう一人の弟なる淵蓋蘇珍が、兄の真の後継者という意識を持って、みずからを「大海人」としたのかもしれない。

そうであればこそ、天智三年三月条に淵蓋蘇文(蓋金)の死と(あまりにも近しく親しい)遺言が記されているのであろう。遺言には「お前たち兄弟は、魚と水とのように仲よくし、爵位を争うことがあってはならぬ。もしそんなことがあれば、きっと隣人に笑われるぞ」と言ったとある。また天武が自分を漢の皇祖の劉邦のような下層の遊民に擬したという点も、淵蓋蘇文によって日本に送られ異郷の地であれこれ苦労しながら生活している彼の立場に合う。


大海人皇子が淵蓋蘇珍なら、もしかすると645年の乙巳政変は、数年前に兄の淵蓋蘇文が起こしたクーデターを日本でも再現できるとして、淵蓋蘇珍が中大兄皇子なる翹岐を唆して起きたのかもしれない。

つい最近に成功した先例があればやりやすい。その担い手の一人の淵蓋蘇珍が横にいて支えになってくれるのなら、中大兄皇子なる翹岐の心に強固な自信も生まれよう。

その後も唐に脅かされている倭国日本の天智にとって、唐の皇帝・李世民率いる数十万大軍を遼東地方で兄とともに幾度となく打ち破った経験を持つ淵蓋蘇珍は、恐るべき存在ではあるが、また大きな心の支えにもなったであろう。

これらが天智生前に(下賜というよりはあたかも奉納のように)長女ばかりでなく次女(菟野皇女=持統)まで天武に嫁がせることにつながり、倭国内で急速に大きな勢力を天武にもたらすことになったと思われる。注意すべきは娘の提供は天智から天武への一方通行だったということである。

そして天武が壬申の乱で勝利したのも、唐との大戦勝利の経歴がものをいい、美濃の有力者たちなどが「戦争になれば大友皇子にきっと勝てる」と支持したから、ということになるだろう。

天武の「大海人」(おおあま)というのも、遣隋使や遣唐使の航路と比べてきな海だとされたであろう日本を渡ってきたとすれば、(上記の「大莫離支」と並ぶ)名前の由来も理解できる。「大海人」はどこか渡来者/渡海者の匂いのある名前である。ついでに言えば、淵蓋蘇文の弟の淵蓋蘇珍のことが史書にないのは、最後に倭国に渡ってからはずっと高句麗に戻らず、そのため高句麗でのその後の政争に関わることもなかったためとも解釈できる。



さて、淵浄土は淵蓋蘇文の死んだ666年に12の城・763戸・3543人と共に新羅に投降し、また、弟たちに追い詰められた淵男生は唐に投降する。

そして滅亡した高句麗の宝蔵王の庶子とされる安勝は一部の高句麗遺民とともに新羅に亡命し、高句麗再建を目指す高句麗人たちの対唐闘争を支援する新羅によって、670年に「高句麗王」(漢城に都を置く)、安勝の高句麗滅亡後は674年に「報徳王」(金馬渚に都を置く)に封じられ、680年に新羅の文武王の妹を嫁として与えられている。

ところが「新唐書」によれば、実のところこの安勝は淵浄土の子であるらしい。となれば「淵蓋蘇珍」なる天武にとって安勝は甥に当たり、高句麗再建を目指して戦う甥を援助する新羅に対して天武が好意を持ち、誼を通じる気持ちになっても不思議はない。ここから天武がなぜ新羅派高句麗系なのか説明がつく。

さて、神武は天武のいくばくかの投影であることはすでに言及したが、神武東征のおりの「八咫烏」は、(記紀に「三足」の記述はないものの記紀以前の高松塚とキトラの両古墳には三足烏が描かれているので)、明らかに三足のカラス。ところが、(韓国大河テレビ時代劇の「朱蒙」(チュモン)や「大祚栄」(テジョヨン)などなどで見られるように)、三足のカラスは古来、朝鮮半島では高句麗の国鳥で、その国章や軍旗のデザインともされている。

三足のカラスというイメージはすでに中国神話にあり、前漢時代に編纂された「淮南子」にも「日中有踆烏・・・謂三足烏」(太陽の中にカラスが蹲っていて、・・・三足烏という)と記されている。

高句麗古墳壁画には太陽の中で翼を広げている三足烏を描いたものが多くある。頭に冠をつけた三足烏は東アジアでは高句麗にしか見られないもので、太陽の子孫すなわち天孫たる高句麗王族の象徴。つまり神武紀の「八咫烏」は高句麗から来たものと考えていい。したがってこれは(「八」という道教からの数字にも深く関わる)天武が高句麗系であることの今ひとつの証となるだろう。

天武の和風諡号は「天渟中原瀛真人」である。これは「仙人の住む瀛州(えいしゅう)の神山にいる道教真理の体得者なる真人」という意味なので、天武が究極レベルの道教信奉者だったことは間違いない。しかしそうであれば日本人統治者としては非常にマニアックともいえ、日本人らしくない。この時代は現代と違って官吏や民衆が国の最高統治者を受容するのは(血統を除けば)主に宗教的権威によるので、天皇が神道や仏教といった国民宗教からマニアックに離れているのは政治的にあまりにも不利であり、非常に不自然で、これも天武が高句麗人であることを暗示している。

道教は淵蓋蘇文や淵蓋蘇珍の生きた高句麗の末期に大いに流行したが、天武はおそらく彼の高句麗時代以来の道教信奉者なのであろう。でなければ神道と仏教の支配する倭国において、天武はいついかなる経路をたどって特異的に真人具現を目指す凄まじいまでの道教信奉者となったのであろうか? 知識としての道教でなく実践道教のためのいかなる教育環境が成長著しい仏教主義国家に存在したのだろう? 

ちなみに高松塚古墳壁画には東壁の青龍の真上に描かれた太陽の中に三足烏が描かれている。その後、キトラ古墳天井壁画星宿図の太陽にも、この三足烏が描き込まれていることが(2002・2・26)判明した。これは藤原京(694~710)の「聖なるライン」上にあるネクロポリスに位置する高松塚古墳やキトラ古墳の被葬者たちが高句麗系で、天武が高句麗人であるもう一つの証拠だと言えよう。

同じ三足烏図がどちらにもあるというのは、そういう真実の非常に強い主張である。これらの三足烏の頭には冠がないので、高句麗王族でないことは明らか。とはいえ天武が淵蓋蘇珍なら話は通じる。猪熊兼勝氏によれば、高松塚の被葬者は天武の皇子の「忍壁皇子」(705没)で、キトラの方は同じく「高市皇子」(696没)だという。

ついでに言えば、21世紀に入って、「狂心渠(たぶれごころのみぞ)」と当時の民衆に非難された石材などを運搬するための運河を構築した斉明天皇が不老不死を求めた道教傾倒者であったとする見解が、道教における亀と水と蓬莱山の思想に着眼した亀石や酒船石や亀形石造物などの研究から提出されている。倭人になじまない「狂心渠」や道教的なこれらの石造物も斉明(天智の母)が倭人でない証拠であるといえよう。



日本書紀では(他の天皇の場合はほとんど明らかなのに)なぜかこの天武(大海人皇子)の場合は出生、年齢が不明である。日本書紀が天武を最大のヒーローとして書かれているのを考慮すると、これは意図的な隠蔽で、天武の出自を隠そうとしたからだとしか考えられない。

朝鮮半島では(漢城に都を置いた安勝の高句麗との共闘によって)これまでの唐と新羅の連合体制が崩れて671年に新羅の対唐攻撃が始まったので、唐は日本に新羅を背後から攻撃してくれるよう望んだ筈である。げんにその年の末に、唐の使人の郭務宗が2000人の兵を乗せた47隻の船で博多湾を埋めている。

したがって、唐の要求に応じようとした百済系の天智に対して、そうはさせじと、671年(天智10年)12月に天智を誘拐・暗殺し、672年、その後を継いだ弘文天皇(大友皇子)に反旗を翻して戦ったのが、天武の壬申の乱だろう。天智の誘拐・暗殺を思わせる天智の失踪事件については「扶桑略記」に三井寺(園城寺)の伝承として今に伝わっている。

それは、山科に馬で出かけた天智天皇はそのまま帰ってこず、そのあたり一帯を探したところ沓(くつ)のみが落ちていたので、そこに墓を作った、という伝承だが、その墓の場所が(筆者も一度訪ねたことのある)現在の天智天皇陵(山科陵)であるとされている。

おそらく天智は病没したのではないし、大友皇子も天皇に即位しなかったのではない。日本書紀が天智の誘拐・殺害と大友皇子の即位に触れないのは、壬申の乱による天武の即位を正当化するためになした歴史の美化・捏造であろう。


 第4章  天皇家の無姓問題と国名「日本」への更号について



天皇家の無姓問題


ここで注目されるのは日本の天皇家にはなぜか姓氏がないという事態である。隋書倭国伝(656)には倭王姓を「阿毎」とした「阿毎多利思北孤」のことが次のように記されている。(アンダーラインと太字は筆者による)

開皇二十年、倭王阿毎多利思北孤、號阿輩[奚隹]彌、遣使詣闕。・・・・。王妻號[奚隹]彌、後宮有女六七百人。・・・・大業三年、其王多利思北孤遣使朝貢。使者曰:「聞海西菩薩天子重興佛法、故遣朝拜。兼沙門數十人來學佛法。」其國書曰「日出處天子致書日没處天子無恙」云云。帝覧之不悦、謂鴻臚卿曰:「蠻夷書有無禮者、勿復以聞。

開皇二十年は西暦600年で大業三年は西暦607年である。聖徳太子を摂政とした推古時代が593~628だから、男性の名前の「阿毎多利思北孤」を聖徳太子に比定する見解もある。つまり倭王の姓氏は「阿毎」(アメ)であった。ところがいつの間にか日本の天皇家から姓氏そのものが消滅した。

天皇家の姓については「旧唐書」(945)の「倭国伝」にも、「新唐書」(1060)の「日本伝」にも、「其王姓阿毎氏」と記されている。

「日本書紀」では天皇の姓氏はどこにも触れられていない。かつて「阿毎」であった事実も記載していない。倭王の姓氏を隠し消滅させたのはむろん日本書紀である。意図的に天皇家の姓氏を隠蔽したことが歴然としている。

それがのちの平安初期に皇別・神別・諸蕃・未定雑姓に分けられた「新撰姓氏録」(815年 弘仁6)となった。最終的に天皇の姓氏を消滅させるためである。

『日本後紀』延暦十八年十二月条を見れば「新撰姓氏録」は、延暦十八年(799)十二月、勅命によって各氏族に「本系帳」を提出させて整理編纂したものとされている。



なぜ「日本書紀」は天皇家の姓氏を消滅させたのか? それは天智と天武の出自が過去の天皇家(大王家)でなかったからだろう。出自が過去の天皇家であれば「阿毎」としても何の不都合もないからである。

とはいえ彼らとしては架空でも表向きは過去の天皇家(大王家)とのつながりを構築する必要がある。それを否定すれば出自が露見してしまう。そうなると日本が在日百済だと唐人一般にも代々の倭人にも知られ、さまざまな危険と弊害が生じてしまう。

唐が亡ぼした筈の百済が日本に移転して存続しているのを一般唐人に知られるのはまずいし、倭人に代々伝わっては在日百済が純日本化していくにも障害になる。

人間の歴史ならいくら途中で姓氏を消滅させても、過去に遡ればなんらかの姓氏に行き着く。しかし神代からの王家であればその必要はないであろう。そのためにこそ神代の記述があるのではないだろうか。

そして少なくとも継体朝と応神朝のときに易姓革命があったにも拘わらず、あたかも一切なかったかのように、万世一系の皇統譜を作り上げねばならなかった。でないと皇統が途絶えた瞬間に姓氏が必要になってしまう。



そういうわけで出自を隠す目的があったために神代からの皇統であるように記さざるを得ず、その結果として万世一系となったと言えるのではないか。

日本書紀には「万世一系」という言葉はない。したがって日本書紀は万世一系を目指して編纂されているのではない。「出自を隠そうとした結果、万世一系化する他なかった」というべきであろう。
(むろんすでに触れたように、万世一系化には出自を隠そうとする目的とともに、神功皇后の三韓征伐によって応神のものになった三韓を代々天皇家のものとすることができる、という別の目的もあった。)
天智も天武も出自を隠す必要があったため、架空ではあるが旧天皇家(旧大王家)とのつながりは認める他なかった。旧唐書と新唐書にある「其王姓阿毎氏」もそういう事情を物語る。そしてその象徴が「阿毎」の音(アメ)を受けた(漢風諡号と和風諡号にともに持つ)「天」の一字であったのであろう。諡号を贈った者たちはむろん事情をよく知っていたわけである。

和風諡号は漢風諡号よりも古くからあり死直後の殯(もがり)のときに贈られるので、天智の「天命開別」も殯(もがり)の時に贈られたものであろうし、天武の「天渟中原瀛眞人」も同様であろう。となれば「天」の一字の意味も殯(もがり)の時には知られていたわけである。むろんすでに述べたように漢風諡号の「天」の一字は、「神武/崇神」や「神功/応神」の「神」の一字の代用としても使われている。



つまり「天皇」という称号の中に姓氏隠蔽と架空継続を意味する「天」の一字が入っている。この「天」の一字は「ヒノモト」と共鳴している。「天」こそは「ヒノモト」(太陽の源)だからである。

また日本は東の果てでいわば「東」そのものである。太陽は東から昇る。そして「東」の一字のなかに「日」と「本」とが潜んでいる。というのも、「本」は「木の根もと」を意味するが、「木」に「日」が重なった形こそ「東」なのだから、「日本」は「東の根もと」という意味になる。

「東の根もと」はすなわち「ヒノモト」(太陽の源)である。(のちに二字になった別の理由を述べるが)、この「ヒノモト」の音に「日本」という漢字二字を当てはめたのは、こういう事情だと考えられる。


ついでに言えば、660年に則天武后が皇帝と皇后を「天皇」と「天后」に呼び改めた。これは「天皇・天后」として並立的に天と結びつけることで改めて自身の政治的な立場を権威づけるもの。つまり則天武后は自身を「天后」と呼ばせたいがゆえに、夫のための称号としてついでに「天皇」という称号使用を思いついたわけである。

その後、道教の強い影響を受けた唐の高宗は674年に君主の称号を「皇帝」から「天皇」に変えている。これらの動きがきっかけだったと思われるが、この頃(天武朝 673~686)、日本で「天皇」という称号が新たに使われはじめた。

日本では持統皇后が天武天皇に並ぶような強い存在でなかったので「天后」は使われなかったが、「天皇・天后」という概念はセットとして入ってきた筈である。そして「天」に関わる「天皇」称号の導入によって、天武と持統の神格化や、古事記や日本書紀にみられる神代の記述、すなわち天皇家の起源に関する神話化が始まった。天武が世を去ると日本の隠れた「天后」は即位して持統天皇となり、密かに太陽の女神への道を歩み始めた。



そうして海部氏の元伊勢女神(豊受)信仰と伊勢湾海洋民の伊勢男神信仰とが結びついた古い伝統の上で、持統時代に女神アマテラス神話が構築された。本来、二見が浦の夫婦岩信仰を反映して、内宮には太陽の男神、外宮には月の女神がいる筈だった。

しかし父を天智とし夫を天武とする並ぶもののない女帝持統の威光が太陽を女神に変えたため、伊勢信仰における太陽も女神と化し、内宮では天照大御神が、外宮では豊受大御神が祭られるようになった。

日本書紀の持統6年(692)3月条をみると、持統は中納言武市麻呂が全てを賭して「農繁期に行くべきではない」と諫言するのを無視して伊勢に行き、阿胡行宮に泊まっている。

持統の目にはおそらく二見が浦の夫婦岩から昇る日の出の太陽が神々しく見えた筈で、そのとき持統はその日の出の太陽とみずからを一体化させたものと思われる。ときまさしく古事記あるいは日本書紀の神代が書かれている最中であったかもしれない、その一体化が日本書紀や古事記のアマテラス物語になった。



(式年遷宮のときに今も見られる)もともとの真夜中の火明かり行列の仄かなともし火(月の豊受)が、持統天皇の威光を映して、天と地を照らして煌々と輝く昼間の太陽の光(太陽の天照)に変じ、元来存在していた伊勢海洋民信仰の男神の地位(太陽)を奪ってそこに移り、その男神を追放したわけである。それはアマテラスがスサノオを放逐するかの如くだった。

祖母の持統天皇から孫の文武天皇への天皇位の生前譲位は、アマテラスからその男孫ニニギへの(天孫降臨による)地上支配権の譲渡という神話となった。煌々と光り輝く女神アマテラスの実体は持統天皇だということである。

日本の天皇が神として強く印象づけられたのは壬申の乱後に、「大君は 神にしませば 赤駒の はらばふ田井を 都となしつ」(大伴御行)と歌われた天武のときが最初であり、その延長線上で女神アマテラスが神なる夫・天武の位を継いだ持統天皇の投影として創作された、と言えるだろう。

また「大君は 神にしませば天雲の 雷の上に 廬らせるかも」(柿本人麻呂)は一説に持統天皇に贈られたとされる歌である。柿本人麻呂は草壁皇子が亡くなった時の儀礼的ないわゆる「草壁挽歌」(万葉集巻二)において草壁皇子も「月」として神格化し、このとき神格化された天武・持統夫婦の天皇像は(その子の草壁皇子とともに)日本書紀に投影され、都合の良い形で古来の神々の伝承と結び付けられて神代紀となった。

たとえば「続日本紀」にあるように、大宝3年(703)12月17日の持統火葬の際に和風諡号として「大倭根子天之廣野日女尊」が与えられたが、その「天之廣野」と「日女(ひめ)」に「高天原」の「アマテラス」が隠れている。これより後に与えられた『日本書紀』持統紀での和風諡号「高天原廣野姫天皇」との照合から、持統が「高天原」の「日女」すなわちアマテラスであることが判明する。

草壁挽歌には高天原とアマテラスの原型が、天地の初めの時に神々の集う「天河原」(あまのがはら)と、葦原の瑞穂の国を支配する「天照らす日女(ひるめ)の命」として、すでに現れている。

ここでの「天照す」はこの語の初出で、「天照らす日女(ひるめ)の命」は前後の句から明らかに持統のこと。またこの「日女の命」は持統の和風諡号の中の「日女」と同じ語である。したがって日本書紀の神代紀がそもそも柿本人麻呂の天武皇室に対する神話化イメージに由来する可能性が指摘できる。

ちなみに『日本書紀』において「高天原」という語は神代紀を除けば持統紀にしかない。つまりアマテラスなる持統の支配する「高天原」という語は『日本書紀』の最初と最後を抑えている。また俯瞰してみれば、『日本書記』はその実体が持統であるアマテラスの神代紀(上)に始まり、アマテラスとして神格化された女性天皇の持統紀で終わっている。ここから『日本書紀』が「持統日本紀」とでも呼べるものであることも納得できよう。

そのため『日本書記』は女性的な性格や構成を持つ。皇祖神がアマテラスという女性神であるに加えて、イザナギとイザナミの出会い・相思相愛・性交・出産という国生み神話も女性的な発想のものであるが、母と子の絡まる神功皇后三韓征伐時における胎内皇子なる応神天皇への三韓神授という思想もそうであり、さらに推古や皇極といった架空の女性天皇の挿入もそうである。このように正史を次々と大いなる偽史で埋め尽くすというのは、おそらくそれ自身が女性的な作業であろう。これは男性の敢えてしないところである。



国名「日本」への更号について


さて、ここで「日本」という国名についてもう一度考えてみたい。もともと「倭」であった国が「日本」に改名したことについては、「旧唐書」(945年 後晋末期)の「日本伝」に、

「日本国は倭国の別種なり。其の国,日辺に在るを以つて,故に日本を以つて名となす。 或はいう。倭国自ら其の名の雅ならざるを悪み,改めて日本となすと。或はいう。日本は旧小国、倭国の地を併せりと。その人、入朝者、多く自ら尊大にして、実を以って対せず、故に中国この言を疑う。」

(日本國者倭國之別種也 以其國在日邊 故以日本爲名 或曰 倭國自惡其名不雅改爲日本  或云 日本舊小國,併倭國之地。其人入朝者、多自矜大、不以實對、故中国疑焉。)

とあることが理解の出発点になる。

日本は旧小国、倭国の地を併せり」が何を意味するのかは、古代史における大いなる謎の一つである。そこで解決のヒントになるのが「日本」という国号が自称なのか他称なのかである。



其の国,日辺に在るを以つて,故に日本を以つて名となす」を見れば自称だと結論づけていい。だが、ここで参考にしなくてはならないのが、戦前に書かれた黒板勝美の『更訂国史の研究総説』にある他地的自称説だ。

そこでは、「日本」は東方を意味する「ヒノモト」を意味しており、ヒノモトにいる者が自国を東方の国・ヒノモトと名づけるわけにはいかず、したがって「(西方にある)韓土における日本人によって名づけられた」と主張されている。

しかし今となっては「古代の韓土における日本人によって名づけられた」というには無理がある。これは明らかに戦前の植民地支配意識の影響を受けたもので、実際は「古代における百済人によって名づけられた」としなくてはならない。

というのも、日本が東になるのは新羅と百済から見てであるが、日本が新羅よりさらに東となるのはまさに百済からだからである。翹岐が中大兄皇子でその母が斉明である可能性が非常に高いのも、そうした見方を支持する。したがって他地的自称説ではなく他称説が正しい。しかしまた自称説も正しいのである。

翹岐とその母が百済人として倭国を東方のヒノモトという意味で「日本」と名づけても不思議はない。つまり「倭国」とは、蘇我王朝→傀儡の孝徳朝で滅んだこれまでの国家のことであり、「日本」とは、はじめは小さかった列島における翹岐の勢力が成長し乙巳政変や孝徳朝へのクーデターを経てついに斉明→天智で結実した「日本列島に渡ってきた百済」「倭を滅ぼして日本と化した百済」のことだと解釈できる。だから「日本」は他称でもあり自称でもあることになる。



この場合、古来中国で東方地域を「日本」と呼んだことがあるなら、「日本」を国名にするとき、それを参考にしたことも考えられる。

そもそも「ヒノモト」としての「日本」という国名表現(地域表現ではない)は太陽が持つ神聖で偉大な意味からいえば、名づけた他地の国・百済よりも一層価値があるという判断を含む。

他国を自国よりいわば形而上学的・神学的に価値があるという表現法は、その他国が自国になった場合に可能となる。だから「日本」という国名はそれ自身が他称で自称である場合にのみ存立するとも言える。



ところで、「日本は旧小国、倭国の地を併せり」の「旧小国」を領土的に理解すると真実を見誤ることになる。領土的に「旧小国」だとするなら、(「旧唐書」の「倭国伝」と「日本伝」の間の時代の前後関係からみて)、7世紀中葉以降に列島内で「倭国」と「日本」の間で領土戦争があったことになり、そういう記録の全くないことが説明できなくなる。

旧小国」の「小国」とは領土が小さかったということではなく勢力が倭国内で小さかったということだろう。しかも列島内でも「日本」というものが従来の倭国の勢力とは違う系統の勢力であることを意味している。でないと「日本が倭国の地を併せる」という表現そのものが成り立たない。

他方、「旧小国」の「」は「旧百済」の「旧」だと考えると分かりやすい。「かつては百済であり、倭国内では勢力の弱かった在日百済としての日本」を「旧小国」と表現していると考えるわけである。

あるいは「旧小国」はずばり朝鮮半島にかつて存在した「旧百済」のことかもしれない。すると 「日本は旧小国、倭国の地を併せり」→「日本は旧百済、倭国の地を併せり」→「日本はかつての百済、倭国の地を併せ、在日百済の日本となれり」となる。

これもまた「日本」とは「日本列島に渡ってきて倭を滅ぼした百済」→「東方ヒノモトに移転した百済」→「ヒノモトの百済」であることを示している。

そういうわけで結局のところ「日本」が「日本」であるのは百済が東方のヒノモトに移ったからであり、再生百済の在所が「日本」だということになる。「日本」とは再生百済の在所として、ついにその別名となったものなのだ。

以上が「日本は旧小国、倭国の地を併せり」という旧唐書における記述の真相とすれば納得がいく。「日本」という国名が自称でもあり他称でもあるという二重性が、こうした解釈を正当化する。



したがって「日本」という国号は天智が付けた名前である可能性もある。げんに斉明紀と天智紀に高句麗僧・道顕の記した「日本世記」という(知られている限り初めて「日本」の名を実際に書名に使った)書物のことが出てきて、それぞれの紀に2度ずつ、都合4度そこからの引用がある。この書のことが百済人母子の斉明紀と天智紀にのみ見られるのは、「日本」が百済系の国号であり、百済人の更号によるものであることを暗示している。

さらに、「ヤマト」なる「倭」の「八方が山の地」(奈良盆地)は日の立ち上る東が山に隠れて「日本」という名にふさわしくない。琵琶湖畔の大津(近江京)では広々と東が開けている。だから近江朝(667~672)の天智こそが「日本」という国名の生みの親なのだろう。

ちなみに奈良盆地には小川のような川しかないが、琵琶湖畔の大津は近くに瀬田川の河口もあり、奈良盆地よりは随分と(大河の錦江を挟んで東西に広がる)扶余(百済の首都の泗沘)に似ている。大津も扶余も海辺でなく淡水域の畔にある。天智は懐かしい扶余を想って都を大津京に移したのかもしれない。

おそらく天智は本当は国号を「百済」としたかっただろうが、それは唐の目があって不可能だった。在日百済の純日本化も目指さなくてはならない。そのため百済が移動した場所(ヒノモト=「日本」)で「百済」の代わりとしたのであろう。

また高麗時代の金富軾の三国史記「新羅本紀」文武王十年(670年)十二月条に、「倭國更號日本 自言近日所出以為名」(倭国は国号を日本に代えた。自ら言うには、日の出る所に近いので、これを以って名としたという)ともある。文武王十年(670年)は天智9年である。

おそらくこれは「新唐書」(1060)からの引用文で、「新唐書」の「日本伝」には
「咸亨元年、遣使賀平高麗。後稍習夏音、惡倭名日本使者自言、國近日所出、以為名。或云日本乃小國、為倭所并、故冒其。使者不以情、故疑焉。」とある。咸亨元年は670年(天智9年)である。

この部分を訳すと以下のようになる。

「(日本国は)咸亨元年に(遣唐)使を遣り、(唐による)高句麗平定を賀した。(そのとき)使者みずから言うには、中国語音を習って間もなく『倭』という名が悪しく(感じられ)、『日本』に更号した。国が日の出る所に近いので、これを以って名としたと。あるいは云う、日本はすなわち小国で、倭によって併せられた。故に(倭は)その『日本』を騙(か)たったと。使者は真心を以ってせず、故にこの言を疑う」

「新唐書」のこの「使者」はたぶん「旧唐書」の「入朝者」と同一人物で、おそらく669年(天智8年)に第七次の遣唐使として派遣された河内鯨のことであろうと思われる。そうなると更号年は670年でなく669年だったことになる。

ちなみに河内鯨については帰国したかどうか不明となっている。もしかするとこれは尊大で真心を以ってしなかったために、唐に抑留された結果なのかもしれない。中国の正史にその無礼や疑念が記録されるほどだから、抑留も十分あり得たであろう。なにしろ663年の白村江大敗後のことなのだ。当時、唐は日本に侵攻する目的で、新羅に対して軍船を必要数建造するよう強要していた。遣唐使はその後、702年(大宝2年)の粟田真人のときまでおよそ40年間中断する。この中断はこうした事情を暗示している。



一連の流れを見れば以下のようになる。

661年・・・天智称制
667年・・・近江京遷都
668年・・・天智即位
669年・・・「倭」から「日本」への更号(三国史記「新羅本紀」と「新唐書」などから)
671年・・・天智没

天智は称制から即位まで七年も掛かっている。これは(多くの研究者が645年の乙巳の政変直後に即位しなかったことも併せて指摘しているように)日本書紀が記すようには天智が舒明と皇極の長男ではないこと、さらには息子ですらないことを示す。もし日本書紀の言う皇統譜が正しければ、一体何が七年間も即位を阻んだのか全く理解できないことになる。(ただし日本書紀における舒明の長男は古人大兄皇子で、中大兄皇子は次男だが、本稿では舒明・皇極夫婦の生んだ長子と次子という意味で、天智を舒明・皇極の長男、天武をその次男とした)

天智が称制から即位まで七年も掛かったのは、倭国内でその間それだけの(百済系の)力の背景が整っていなかったということである。扶余氏でない母の斉明朝の時とは違い、旧百済王家の扶余氏王朝となると、さすがに倭国内での抵抗も強かったわけだ。

しかしようやく力の背景も整って遷都し、即位すると、即位の翌年に国号を数百年続いた「倭」から「日本」に変更した。こういうことになる。

ちなみに本稿では一応更号年を第七次遣唐使年の669年にしたが、本来は「即位と同時に更号した」というのが自然なので、更号年を668年とする方が正しいかもしれない。となると天智は668年に即位して百済王朝を継ぐ新国家の「日本」を創建したことになる。

たしかに(「続日本紀」慶雲元年-704年-七月一日条に依拠して)702年に送られた遣唐使・粟田真人が703年、武則天(則天武后)に「日本国の使いである」(日本國使)と告げたのが「日本」という国号の対外使用の最初だとし、日本という国名の誕生はそれ以前の689年(持統3年)の淨御原令施行の時が最も可能性が高いとする意見もある。持統は天智の立場だから、それもありうるかもしれない。

というより、国号を「日本」に改めた翌々年に天智が死に、その後、壬申の乱(672)で天智の子の大友皇子に勝利した(非百済系の)天武が即位するので、それによって天智の創建した百済系国家「日本」が滅亡し、同時に国号「日本」もまた生まれて間もなく立ち消えになった、と言えよう。そしておよそ14年間の天武の時代が終わり、持統の時代が来てやっと彼女の手で再生したと考えられる。

持統によって天智の立場が復権したことについては天智陵修造と国忌廃務日に関して既に少し触れた。天智陵についてさらに言えば、藤堂かほる氏は『天智陵の造営と律令国家の先帝意識─山科陵の位置と文武三年の修陵をめぐって』(1998)において、

「山科陵が新たに営まれたのは、藤原宮大極殿の真北である。これは藤原宮の「天極」にあたり、このことは、天智が律令国家の受命の天子であることを象徴するものであった。」

と記している。藤原宮には持統も文武もいる。その藤原宮の天極に天智陵を営造した。つまり天智によって「倭」から改号された「日本」という国号が天武時代の後に復活したのである。

それが淨御原令(持統三年)の時でないとすれば、持統の死の前年、すなわち文武時代の大宝元年(701)の大宝律令(現存しない)に、もしかすると国号「日本」の制定条項が別式などとして存在し、それが先の粟田真人によって武則天に「日本国の使いである」という姿で伝えられたのかもしれない。ともかく淨御原令の時にしろ大宝律令の時にしろ、いずれにしても持統の影響力が直接及ぶ時代のことである。

むろん持統の妄念を偽史として具体化したのが「日本書紀」だから、「日本書紀」の中の「日本」もまた天智→持統に由来するもので、したがって「日本書紀」という書名も(事実上)持統の命名と言って良いだろう。「日本書紀」は「持統日本紀」と呼んでいいほどのものなのだ。
註4)加筆挿入文

2011年10月23日の朝日新聞によれば、中国の古都の西安で百済の将軍である祢軍(でいぐん)の墓誌(884文字)が発見され、そこに「日本」の文字があり、国号「日本」の最古の例である可能性が言及されている。ちなみに祢軍については日本書紀(天智紀)の天智四年(665)九月二三日条に記述がある。

この将軍は墓誌によると678年2月に死亡し10月に埋葬された。すると、これまでアカデミズムで主張されてきた701年の大宝律令時に「日本」という国号が制定されたという定説は誤りであったことになり、「新唐書」や「三国史記」の670年記述の方が真実に近かったわけである。日本のアカデミズムはなぜこれらを無視してきたのか?

いずれにしても(本稿が従来から ─ 祢軍の墓誌より10年古い ─ 668年の更号だと主張してきたように)「日本」は天智の更号によるものであることがこの墓誌によって示されたといえよう。中国の王連龍副教授(吉林大学)はこれに関する論文「百済人『禰軍墓誌』考論」で「三国史記」にある670年記述の信憑性を支持している。

墓誌には「于時日本餘●據扶桑以逋誅」(●は
へんにで「生きる」の意)とある。但し「扶桑」の「扶」はそこだけ欠けていて見えない。「日本餘●」の「日本」は国名、「據扶桑」の「扶桑」は日本の国土のこと。これを気賀沢教授(明治大)は、(白村江大敗の)「そのとき生き残った日本は、扶桑(日本の呼称)に閉じこもり、罰を逃れている」と訳している。

この場合、「餘●」の「餘」を「余震」「余生」などの「なお~し続ける」の意に解釈しているわけだ。すると「餘●」で「生き残った」「なお生き続けている」になる。しかしこれは本土決戦でもない遠征軍の大敗にすぎず、日本本土は全くの無傷なのだから、ふつう「日本は生き残った」はないだろう。

たとえば612年に隋の煬帝は100万以上の大軍で高句麗に侵攻しそのうちの30万が清川江で乙支文徳に全滅させられ敗戦撤退するが、それを「隋餘●・・・」と記し、これを「生き残った隋は・・・」と訳して良いだろうか? 遠征軍が大敗しても本土は無傷だから「隋は生き残った」はありえない。

「日本国土に閉じこもっている」(據扶桑)とか「誅罰を逃れている」(逋誅)という表現は、国家や国民や民族でなく、それより小さな単位である戦争責任者の国王個人に対して描写されているとみるのが自然だ。その国土や国民より小さいものだからこそ、日本国土に閉じこもることができる。もともと日本本土にいるのが日本の国家・国民・民族であり、それらに対して、「日本国土に閉じこもっている」とかそれで「誅罰を逃れている」とか表現するのは不自然。

すなわち「餘●」を「生き残る」と訳すのではなく、「餘●」の「餘」を姓、「●」を「生きる」という動詞に見立てるべきだろう。すると上の墓誌文は
「日本国の『餘』は生きて、日本列島に閉じこもり、誅罰を逃れている」と訳せる。これが最も自然な訳である。むろんこの「日本国の餘」(日本餘)は「扶餘翹岐」のことになる。この場合、「日本餘●」には(百済国の『餘』は滅んだが)「日本国の『餘』は生きた」という意味が含まれている。

ところで、一部に祢軍のこの678年の墓誌にある「日本」は、678年が天武7年であるので、(「天皇」称号と同じく)、国号「日本」も天武時代に「倭」から更号されたとする見解もあるが、墓誌では白村江の戦いの敗北表現として「日本」が使われているので、この戦いに敗れた天智関係の言葉であることは明白。

したがって「日本」は天智の国号であって、天武の国号でない。都を近江の大津からもとの飛鳥に戻した天武時代の国号は「日本」でなく、飛鳥時代からの「倭」であった。天武を継いだ持統がそれを捨て、父である天智の国号「日本」を復活させたのである。




それにしても「旧唐書」や「新唐書」や「三国史記」に記述はあるのに、「日本書紀」という名の肝心の日本の正史に「日本」という国号の成立経緯、「倭」から「日本」への更号のいきさつがなにも記されていない。これを日本書紀最大の謎だとする者さえいる。

しかしそれはもしかすると神代紀の国生み神話ですでに本州を「大日本豊秋津洲と名づけて」(號大日本豐秋津洲)しまったからかもしれない。神武の「神日本磐余彦」という名前にもすでに「日本」という二字を使ってしまっている。

またイザナギがこの国を見て「日本は心安らぐ国」と言い(神武三十一年四月一日条)、ニギハヤヒも「日本国」と名づけた、としてしまっている(同条)。どの「日本」も「ヤマト」と読む。つまりこの「日本」は古くからある「倭」の代字である。

「日本」は在日百済としてどうやら説明以前のアプリオリ、あらゆるものに優先先行するもの、形而上学的な大前提として扱われたのではないか。こうして日本書紀は「日本」という国名の起こりについて語る機会や理由を失ってしまったのかもしれない。むろんそれが全部ではない。

先の「続日本紀」慶雲元年七月一日条にある粟田真人の遣唐のいきさつでも、まず「どこから来た使いか」と訊かれて「日本国の使いである」と告げた粟田真人が、中国側に、「どうして大唐という名から大周という名に変わったのか?」と尋ね、相手側から則天武后の即位による国号変更の丁寧な答えを得ているにもかかわらず、どういうわけか中国側は日本側に対して単に、「海の向こうに大倭国があり、君子国ともいい、人民は豊かで楽しんでおり、礼儀もよく行われているという。今、使者をみると、身じまいも大へん清らかである。本当に聞いていた通りである」と述べるのみである。

たった今「日本国の使いである」という言葉を聞いた筈の中国側は、国号変更についてはむしろ自分の側こそ質問する権利があるのに、「海の向こうに大倭国・・・」と言いながらも、「なぜ倭国の国号が日本国に変わったのか?」と肝心なことを尋ねない。

何か自分の問題を相手の問題にすりかえたようで、これもおかしな記述である。日本書紀や続日本紀はどうしても国号「日本」の成立経緯について語りたくないようである。

「日本書紀」という名の国家の正史なのに、その「日本」という国名の起こりについて何も触れないのは、どう考えてもおかしい。一体全体、自国名の成立経緯をその正史に記さない国家があるだろうか? 

たとえば「セイロン」を「スリランカ」に改名したことをスリランカの国史が記述しないなどということがありうるだろうか? 名前はいわば本体それ自身を表すものなのに? 国家の改名はそれこそ一大決心のものであり、やむない事情があって初めて可能なことなのに、改名とその事情を正史になにも記さないとは?

これではその真の由来を隠そうとしていると考えられても仕方ない。「倭」のような大昔からのものでその由来がはっきりとは分からないものならいざ知らず、「日本」はつい最近の国名でその由来についてしっかり知っているのに、その起こりに触れないのは余程のことだと言うほかない。



これはもしかすると倭人の系統とは異なる百済人の新王朝の話をしなくてはならなくなるのを避けるためではないか。事実「新唐書」には「日本伝」しかないが、「旧唐書」には「倭国伝」と「日本伝」とが時代を前後して別国扱いで並存している。

つまり「倭国が滅んで日本が成立した」という認識が反映されている。「旧唐書」の「日本伝」の「日本は旧小国、倭国の地を併せり」がそれである。

しかも(上記のように)その「旧唐書」の「日本伝」には、「倭」から「日本」への更号の説明について、中国側が、「その入朝者は著しくおごり高ぶり、実を以て応対しないので、中国はこの説明を疑う」(其人入朝者、多自矜大、不以實對、故中国疑焉)と強く疑問に思っていることが記されている。

これは「日本の使者が(「倭国」が滅んだことに伴う)更号の真相説明を避けて、なにか尊大に開き直った態度で歪めて伝えた」という意味であろう。十中八九、国号変更は易姓革命・王朝交代を意味するから、言い訳は難しかったであろう。

しかしなんであれ日本における易姓革命・王朝交代はなんとしても隠さなくてはならない。でないと真相糾明が続き、一般唐人に露見すれば(白村江の戦いのこともあるので)唐から侵攻を受けたり、なにかといちゃもんをつけられる恐れがある。

そのため結果としては、以前の倭国と今度の日本とは同じで国名を変えただけだとか別種だとか、なんやかやと話をそらすような不正直で不誠実な態度をとる他なかったわけである。それで中国側に完全に疑われるに至った。使者はたぶん、「これまでの『倭』も新しい『日本』も同じく「ヤマト」と読むのですよ」と弁明したことであろう。

これもまた倭人の系統とは異なる百済人の新王朝の話をしなくてはならなくなるのを避けるためだったとすれば、納得がいく。それ以外の説明は難しい。



むろんそもそも倭国日本における易姓革命・王朝交代の存在がなければ、このような問題は決して起きない。日本書紀にあるように依然として皇統一系であり続けているのなら、そのまま素直に正直に伝えれば良いわけで、決して「旧唐書」「日本伝」に記述されているようなこじれた事態にはならない。これは100パーセント断言できる。

つまり「旧唐書」「日本伝」は倭国滅亡と日本建国およびそれに伴う易姓革命・王朝交代の存在を(反論の余地なく)明示している。

国号「日本」の誕生は倭国日本における易姓革命・王朝交代の存在を明示している。すなわち天智はやはりこれまでの倭国を亡ぼして新王朝を樹立した「天命開別天皇」なのである。こうして日本書紀の皇統一系論は完全に崩壊する。

応神や継体のような遠過去においてでなく、持統の父の天智のときから、すなわち日本書紀編纂に直接関わるごくごく近過去において皇統一系論が崩れている。持統から神武へと遡る日本書紀の皇統譜は、その出発点ですでに嘘だということになる。

つまり日本書紀は嘘のために嘘を重ねたということだ。嘘を真実らしく見せるために嘘の海の中に史実が散在しているというのが、日本書紀の実情ではないだろうか。日本書紀は歴史書を編纂したのでなく、極論すれば、歴史書の体裁をした官製御用歴史小説を創作した、とも言えよう。

森博達氏は α 群の筆記者を続守言と薩弘恪だとするが、それが正しければ、続守言は少なくとも継体紀で継体の系譜の造作を、薩弘恪は国号「日本」の成立経緯無視の造作を行っている。

天智紀にあるべき「日本」という国号の新たな制定は、おそらく唐から来日したと思われる薩弘恪自身も体験した筈の出来事であった。外国人の中国人ならとくに「倭」から「日本」への新たな国号制定は無視できない性質のものであった筈。にも拘らず無視している。



そもそも孝徳・斉明時代までの倭国には天孫皇統一系論なるものはその片鱗さえ存在していなかったわけだから、その時代までなら倭国は自国で易姓革命・王朝交代が起きたことを一般唐人に対してことさら隠す理由はなかった筈である。事実、複数の易姓革命・王朝交代が、過去、日本においても起きていただろう。

にもかかわらず天智以後になって遣唐使が一般唐人に対して易姓革命・王朝交代の起きたことをひたすら隠そうとし、さらに日本書紀が読者に対して皇統一系の皇統譜を主張するのは、天智における易姓革命・王朝交代が普通のそれでなく外国人とりわけ百済人による倭国の乗っ取り・滅亡だったからとしか考えられない。

同じ倭国人による普通の易姓革命・王朝交代だったなら、誰に対してもなにも隠す必要などないからである。そしてのちの日本の正史でも(日本書紀とは違って)その易姓革命・王朝交代が(過去にもたびたびあった易姓革命・王朝交代と共に)そのまま記録されたことだろう。

だが外国人の百済人による王朝交代だったという事情で、在日百済が(将来)日本に完全に溶け込むために日本書紀は天智の出自を隠して皇統一系化する必要があった。

また唐に、「せっかく苦労して二度も亡ぼした百済なのに、なんと倭国に引っ越していたのか!」ということで、なにかと難癖をつけられたり、侵略の口実にされたりしないようにしなければならなかった。

なによりも660年に百済を一度亡ぼしたのに663年に倭国日本が半島に出張ってきて白村江の戦いとなったのは、実は倭国日本における百済王朝系権力のためだったということが一般唐人に露見すれば、禍根となる後方基地を永久に破壊するためにも、今や天智時代である日本への唐の侵攻はほぼ必然となる。
百済を亡ぼした則天武后がまだ中国を統治しているから、なおさらである。

そのために遣唐使は(易姓革命・王朝交代についてはほとんど相手に露見していたとしても)、「倭」から「日本」への更号の真相を、どこまでも、どんな詭弁を弄してでも、尊大と思われようとなんと言われようと、曖昧にしなくてはならなかった。

それが記録に残って「旧唐書」の「日本伝」の「日本国は倭国の別種なり。其の国,日辺に在るを以つて,故に日本を以つて名となす。 或はいう。倭国自ら其の名の雅ならざるを悪み,改めて日本となすと。或はいう。日本は旧小国、倭国の地を併せりと。その人、入朝者、多く自ら尊大にして、実を以って対せず、故に中国この言を疑う」というような記述となった。むろんここからの転用である「新唐書」の先の記述も同様である。



しかしだいたい「倭」から「日本」への更号の理由が「倭」の字の意味への嫌悪にあるというのは、よくよく考えると嘘っぽい。もし万世一系(継体以後一系でも良い)が正しければ、「倭」は天智も幼い時から親しんだものだった筈で、むろん否応なく脳内に深くインプットされている。

天智の父王も祖父王も曽祖父王もそのまた先代もみんな「倭」をなんの嫌悪もなく使ってきているということになる。つまり「倭」は皇子あるいは大王としての天智にとって自国の悠久の歴史とともに歩んできた国号であって、普通なら愛着や親しみや掛け替えのなさの感情はあっても、嫌悪感はないであろう。

あの隋書にある煬帝に対する「日出ずる処の天子・・・」も「倭」の王としての矜持を示したものであり、漢字一字の国号として「倭」が隋の冊封国家並みでないことを宣言したものであった筈。

「倭国自ら其の名の雅ならざるを悪み」という「倭」に対する嫌悪感は、改号者の「天命開別天皇」なる天智の立場からすれば、これまでの「倭」と全く異なる王朝を創始したがゆえに生じた感情であろう。もう「倭」は要らないわけである。だからこそ永く倭の都が営まれ続けた奈良盆地をきっぱり捨てて、それまで「倭」の都が置かれたことのない琵琶湖畔の大津に都を移した。

つまり「倭」に対する嫌悪感は「倭」という字への嫌悪感にとどまらず、奈良盆地の放棄→大津への遷都→「倭」から「日本」への更号、という流れとともに現れているものなのだ。

唐への説明では「倭」の字に対する嫌悪感のせいだとしているものの、実のところそうでない。「倭」の字ではなく倭国そのものへの嫌悪感なのである。そして天智は二字の国号の「日本」へ更号し、そのことによってみずから唐の冊封国家並みであることを唐朝に告げた形になった。

「倭」が一字なのに対して「日本」が二字なのは「百済」が二字だったことの反映と考えられる。つまり「倭」を滅ぼして「日本」を打ち立てた者は、二字の国号を持つ国の人物であるという可能性である。脈絡からいえば百済の翹岐とその母およびその系列の持統のことになる。

ここまでくると「日本は旧小国、倭国の地を併せり」の「旧小国」についても新たな解釈が可能になる。あれもこれも日本が在日百済であることを隠そうとするためになした遣唐使の言い逃れの詭弁だから、「旧小国」には「貴国大中国大唐が心に留めるに値しない小さな国だったのですよ」という、相手の目こぼし・見逃し誘導を目的とする言い逃れの意味含まれることになる。

となれば単なる嘘かもしれず「旧小国」についてあれこれ論議しても大して意味はないのかもしれない。げんに「新唐書」では「旧唐書」の「舊小國」を(正しいかどうかはともかく)「乃小國」と言い換えている。



以上の展開を中国関連で少しまとめてみよう。

もし日本書紀が示している通り皇統一系が正しければ、中国側に疑われて記録に残るようなこのようなこじれた事態には至らない。これは100パーセント断言できる。

すると少なくとも天智8年(669)に国号を「日本」とした天智のところで、(つまり実質的には661年の天智称制のときに、名実ともには668年の天智即位のときに)、易姓革命・王朝交代が起きている。万世一系に矛盾する天智の和風諡号「天命開別天皇」もそれを示している。これまで都のあった奈良盆地を捨て琵琶湖湖畔の大津京に遷都したのもそれを示している。天智の母なる皇極=斉明が「皇祖母尊」という称号を得たこともそれを指している。国号を数百年も続いた「倭」から「日本」へ変えたのは、やはり普通でない。これまでの「倭」とは決定的に違う、自分たちは「倭」とは別の流れだという意識がなければ、このような改名はない。常識的には、十中八九、国号変更は易姓革命・王朝交代に伴うものである。事実、「旧唐書」は「倭国伝」と「日本伝」を分けて「倭国」と「日本」をそれぞれ別の国家とみなし、「日本伝」では、国号変更の理由についてあれこれ述べながら、「日本は、倭国を併せたり」と記述している。また国号「ヤマト」としては「倭」も「大倭」も(「倭」の代字の「和」を伴った)「大和」も全て同じ範疇のものなのに、「日本」だけはこの範疇からすっかり外れている。一字の国号と二字の国号とでは中国の冊封国家並みかどうかという点で本質的な差異がある。しかし「日本書紀」はその書名に「日本」の語があるにも関わらず、国号『日本』の成立経緯について一言も述べようとしない。したがって「天智のところで易姓革命・王朝交代が起きている」と疑う余地なく100パーセント断言できる。

もし天智が倭国人であれば、これは倭国人から倭国人への普通の易姓革命・王朝交代となり、それを中国に対して「ああだこうだ」とあのように詭弁を弄してまで隠し通す必要はない。(ちなみに、天智が外国人であったことは、倭国では易姓革命・王朝交代が何度もあったにもかかわらず、数百年来、倭人王朝である限りずっと「倭」だった国号を、全く別の「日本」に改めたところにも垣間見られる)

さらに天智がかりに普通の外国人だったとしても、それを中国に隠す必要はない。「どこそこの外国人の私が倭国を占領して新王朝を樹立した」と中国に伝えればそれでいい。中国がせいぜいそれを追認する他ないことを、当然、日本側は知っている。

すると結論としては、則天武后に決して知られてはならないタイプの外国人による易姓革命・王朝交代が起きていたということになる。これしかない。

ところで「易姓革命・王朝交代は天の審判であり、新王朝は旧王朝の悪を裁くことによって成立する」というのが新王朝の基本的な立場である。裁かれる旧王朝は(かりにいくらその歴史が長くても)新王朝にとっていわば屑籠の中の屑でしかない。したがって本来、新王朝はみずからを旧王朝の系譜の中に位置づけて自身を隠匿するということなど、しないものである。このような隠匿は、旧王朝の方が正しく、新王朝は誤って易姓革命・王朝交代を断行したということを意味するからだ。それでもなお新王朝が旧王朝の系譜の中に紛れ込もうとするのはなぜか? そこにそうするべきよほどのことが起きているからだというしかない。

それは一つは則天武后が大軍を何度も派遣して、660年に亡ぼし、さらに663年の白村江の戦いで根絶して、苦労してやっと消滅させた筈の百済が、倭国に移動して「日本」となっていた、という事態しかない。当の則天武后がまだ統治しているから、なおさらこれだけは中国側に知られては非常にまずい。それで「旧唐書」「日本伝」に見られる遣唐使のあのような何とも訳の分からない曖昧な話になった。さらに「続日本紀」の方では、慶雲元年七月一日条にあるように、粟田真人は、相手からは国号変更の理由をしっかり尋ねてちゃんと聞いておきながら、自分の方は国号変更について何も訊かれず何も話さずというような、あたかも自分の問題を相手の問題にすりかえたかのような、なんとも奇妙な記述となった。

もう一つは在日百済王朝の純日本化工作。外来王権であると人民に意識され続けることになれば、いずれ日本から弾き出されてしまう。千年万年王朝のためにはどうしても純日本化工作が絶対の課題となるわけである。

むろん乙巳の政変(645)のときに古人大兄皇子が発したと記述されている「韓人が鞍作臣(蘇我入鹿)を殺した」の句は、前後の情景から、その「韓人」が中大兄皇子(天智天皇)であることを明示していたが、こうしてみると、やはりこの句は歴史の真実を物語っていたわけである。

以上から、倭国を亡ぼし「日本」を国号とした天智は百済人であり、百済を倭国に移動させた天皇(大王)だということになる。したがって天智は百済王子の扶余翹岐だろう。



ちなみに、「旧唐書」の「倭国伝」最終歴史記事は貞観22年(648年/大化4年)、「旧唐書」の「日本伝」初頭歴史記事(粟田真人の遣唐使記事)は長安3年(703年/大宝3年)なので、(「新唐書」に基づく)三国史記「新羅本紀」における「日本」更号年の670年(新羅文武王10年/天智9年)は、ちょうど「倭国伝」と「日本伝」の間にある空白の55年のほぼ中間あたりになる。これもまた天智8年が更号年であることを示すものであろう。

ここでついでに一応言っておかねばならないが、「旧唐書」(945)では「日本が倭国を併せた」(或云 日本舊小國,併倭國之地)とあるのが、「新唐書」(1060)では「日本が倭国に併せられた」(或云日本乃小国、為倭所并)とあって事情が全く逆になっている。

しかし「旧唐書」と「新唐書」を見比べると、同じ出来事について後者が前者を手前勝手に書き直していることが誰の目にも分かる。げんにもし日本が倭国に併せられたのであれば、「新唐書」に「日本、古倭也・・・」で始まる「日本伝」しかないことが全く理解できなくなる。

手前勝手に書き直すというこの傾向は「新唐書」全般についても言えるので、一般に「旧唐書」に比べて「新唐書」は史料的価値が劣るとされている。したがって「旧唐書」にある通り「日本が倭国を併せた」として良い。


第5章  編纂基準(2) ─ 割り振り基準  



さて、ここでもう一つの編纂基準について述べてみよう。それは神功皇后を魏志倭人伝の卑弥呼と同一視していることに関係している。

すでに見たように、661年と664年の「革命」「革令」の基準点から1320年遡って紀元前660年に神武紀元を設定したわけだが、皇統年代の割り振りの基準となるものが中間点に一つ必要だった。

それを基準にしてそれ以前・それ以後の天皇たちを年代別に配列するわけである。それが魏志倭人伝の卑弥呼と神功皇后との同一視である。

持統は日本書紀を編纂するにあたってどうしても、三韓征伐をさせ天皇家に三韓支配権をもたらす架空の人物が(日本書紀全体の皇統譜を決める中心軸として)必要だった。そうすることによって皇統譜・天皇史の歴史的展開そのものが、そのまま三韓支配権を「先天的に」含んでいる姿にできる。

それを中国史料にある実在の卑弥呼と重ねることで、あたかも三韓征伐もそれによる天皇家の三韓支配権も、すでに史実として既存するかのように、日本書紀を編纂しようとした。それを成し遂げるために相当な無理も敢行している。

あとで具体的に示すように、日本書紀は魏志倭人伝からの引用文の中で邪馬台国の女王のことに触れているが、そこには卑弥呼・壱与の名前が一切見えない。

つまり日本書紀は意図的に卑弥呼や壱与という名前が含まれていない部分を引用している。それは史実の卑弥呼と架空の神功とを結合するための細工なのである。

もし卑弥呼の名前の見える部分を引用してしまうと、神功を魏志倭人伝の卑弥呼と同一人物にしたことになり、その誤りがすぐに判明・露見してしまう。

また魏志倭人伝においては卑弥呼は三韓征伐など行っていないから、卑弥呼とあからさまに同一化させると日本書紀のもともとの編纂目的の一つが達成できなくなる。

そもそも倭人の誰かが三韓征伐して三韓支配権を得たという出来事そのものが存在しないから、それを誰か架空人物に託す他ないわけだが、実在の人物に何とか接続し合同させないと、結局、目的が達せられず、意味がない。それで実在の人物と接合してその名前だけは伏せたということである。



名前を意図的に伏せたというのを否定する安本美典氏のような見方は、あり得ない。

というのは、「卑弥呼」「神功皇后」「気長足姫尊」が同一人物の名で、もし「神功皇后」「気長足姫尊」が「卑弥呼」の別名なら、(片方は独身の女王、片方は子持ちの皇后というように両者はいろいろとあまりにも違いすぎるので)、どうしても中国史料にある「卑弥呼」の名のことに触れておくべきところだからである。だから意図的に「卑弥呼」の名を伏せたのだ。

また「いま誰にでも嘘だと露見してしまう過去史を創作して見せても、誰にどのような効果が望めるのか?」「日本書紀の編纂者たちがそのような見え透いた嘘を書くだろうか?」という反論も、実はあり得ない。

全く嘘の過去史でもそれらしい過去の人物や出来事と結びつけると、なにほどか錯覚効果が望める場合がある。特に(持統天皇のように)「そうあれかし」と期待している者がいるケースでは、この錯覚効果は大きい。

さらに歴史書というものは同時代の読者のために著すというより、未来の読者のために書き残すものであるから、事情の知らない未来の読者を欺き、史実と信じさせることが出来れば、それで十分に嘘の過去史を創作する意味があるわけである。

それに出版技術のある現代のように何万部も印刷されて誰もが読め誰もが手にし得る社会とは違い、当時、大多数が漢文も読めず、しかも日本書紀に接し得る立場の人物も限られていて、事実上いわば内輪でいくらでも捏造ができるような環境であった。日本書紀は完成してまもなくその講義が行われているが、それは偽史の押し付け講義にすぎない。



日本書記は歴史捏造を国家事業として敢行した。権力が捏造し強制した偽史なので誰も表立っては逆らえない。そうして後世ではいつの間にか史実として受け取られることになる。そこまで考えての偽史の創作であろう。

むろんそのため相当な無理をあえて行っている。卑弥呼は女王で独身だったが、神功は皇后にすぎず、仲哀天皇の妻であって、「誉田別尊(応神)」という子供もある。

日本書紀は魏志倭人伝からの引用文(「魏志云。明帝景初三年六月。倭女王遣大夫難斗米等」)でも「倭女王」とみずから引用している。にもかかわらずこの「倭女王」を神功皇后だというふうに強弁しているわけである。

卑弥呼・壱与が女王なら、なぜどうせ架空人物なのに神功を仲哀のあとをついだ女性天皇という形にしなかったのか? 

この問題の答えは後に譲ることにして、日本書紀で皇后でありながら(名目上「摂政」とはされているものの)丸々一巻を当てられて天皇扱いを受けているのは、すでに触れたようにおそらく卑弥呼が女王であること、神功皇后が持統天皇の投影であることに関係しているだろう。

神功紀が天皇紀のような唯一の例外となっている非常な特異性も、それが日本書紀の二つの編纂基準の一つとなっているからである。それは天皇の即位年あるいは天皇元年あるいは称制年を締めくくる(各天皇紀に一度きりの)特別な句である「是年也太歳☆△」(☆△は干支)が、神功紀には三度(摂政元年・摂政39年・最終年の摂政69年)も存在するところにも見えている。

摂政39年条の「是年也太歳☆△」が魏志倭人伝引用紹介と関わっていて、それが元年でもなく最終年でもなく、まさしくそれらの中間(中心)にあるのは、これこそが日本書紀の中心となるべき「割り振り基準」だからである。魏志倭人伝引用は摂政39年条・摂政40年条・摂政43年条を通じて連続記事として、なされている。これらの引用全体が「割り振り基準」なのだ。




ところで、日本書紀の神功紀は摂政期として数えられている。まず仲哀9年に夫の仲哀天皇が熊襲遠征途上の筑紫で死に、そのあと神功皇后が摂政を続け、神功69年2月6日にちょうど100歳で死んで、それから応神天皇が即位したとなっている。

実に69年ものあいだずっと天皇位は空位で、応神天皇は69歳の老人になるまで即位しなかったという異常事態である。

日本書紀によれば応神天皇はその後41年間も位にあった。老齢になって位に上がったのでその補填をする必要があったわけである。そのため応神天皇は110歳まで生きたことになった。

また仲哀が死んで10カ月を超えて応神が生まれているという記述は生物学的におかしい。これらの異常事態は仲哀から応神へ皇統がスムーズに引き継がれたことを疑問視させるに十分であろう。

崇神天皇以来の皇統は少なくとも一度ここで途切れて新たな王朝(応神王朝・河内王朝)が始まったということであろう。その橋渡しの仲介役が架空の神功皇后というわけである。

それは仲哀天皇が新羅遠征に関する神の啓示に従わずに「神に呪われて死んだ」という古事記と日本書紀に共通する記事にも垣間見ることができる。



神功皇后が三韓征伐や三韓の永遠の臣属にこだわり、そうして永久に従属させた三韓を「神の御子」なる応神に生まれながらにして所属するものとするのは故なしとしない。

しかしそういう架空の神功皇后像を描き出したのは天智・天武の時代を継いだ日本書紀の最高編纂者の持統なのである。

「神」の一字が前と後にある神功/応神が同一人物で、神功が実は応神の前期像であることはすでに述べた。同一人物を前期と後期に分け、前期を女性の神功として登場させたのは同じ女性の持統であって、つまり神功なるものは持統の化身なのである。持統は自分の化身を応神前期に神功としてはめ込んだ。

すでに述べたように応神が朝鮮半島出身者である可能性については井上光貞も述べているが、神功/応神のような朝鮮半島関連者あるいは出身者の王朝がこのように日本書紀の一つの編纂基準とされているのは、もう一つの日本書紀編纂基準の「革命」と「革令」に対応する天智と天武の出自をも暗喩している。

つまりその出自が百済人・新羅派高句麗人である天智天皇・天武天皇を基軸として日本書紀が編纂されたがゆえに、同じく朝鮮半島関連者あるいは出身者である神功皇后(前期応神でかつ持統の化身)がもう一つの編纂基準として導入されたとみることができる。

そして出自を隠すという作業は、天智と天武だけでなく、当然のことながら神功/応神にも適用されたわけである。むろん実際に皇統が大きく途絶えた時こそが架空の皇統譜の基準点となるべきだから、「革命」「革令」の原点と卑弥呼=神功皇后の二つが編纂基準になったのは自然といえる。




ところで日本書紀の神功紀には、神功三十九年(239)条以下に、

「この年の太歳巳未。─ 魏志倭人伝によると、明帝の景初三年六月に、倭の女王は大夫難斗米らを遣わして帯方郡に至り、洛陽の天子にお目にかかりたいといって貢をもってきた。太守の鄧夏は役人をつき添わせて、洛陽に行かせた。

四十年、─ 魏志にいう。正始元年、建忠校尉梯携を遣わして詔書や印綬をもたせ、倭国に行かせた。

四十三年、─ 魏志にいう。正始四年、倭王はまた使者の大夫伊声者掖耶ら、八人を遣わして献上品を届けた

とある。原文は以下の通りである。

神功皇后摂政三九年(己未239)◆卅九年是年也。大歳己未。〈魏志云。明帝景初三年六月。倭女王遣大夫難斗米等。詣郡求詣天子朝獻。太守鄧夏遣使將送詣京都也。
神功皇后摂政四十年(庚申240)◆四十年。〈魏志云。正始元年。遣建忠校尉梯携等奉詔書印綬。詣倭國也。
神功皇后摂政四三年(癸亥243)◆四十三年。〈魏志云。正始四年倭王復遣使大夫伊聲者掖耶約等八人上獻。

ここで原典の魏志倭人伝の原文と訳文を下に載せる。これは全文の最後の三分の一ほどに当たる。
訳文は「邪馬台国とは何だろうか」(http://www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/index1.html#top)のイリヒコ氏に基づくもので、無断で借用させていただいた。ただし文字列の色分けは筆者による。上記の部分も下記の部分もの文章は同色同文である。



                                 (原文)

     景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝獻、太守劉夏遣吏將送詣京都。
     其年十二月、詔書報倭女王曰:

     「制詔親魏倭王卑彌呼:帶方太守劉夏遣使送汝大夫難升米、次使都市牛利奉汝所獻男生口四人、
     女生口六人、班布二匹二丈、以到。汝所在踰遠、乃遣使貢獻、是汝之忠孝、我甚哀汝。今以汝爲
     親魏倭王、假金印紫綬、裝封付帶方太守假授汝。其綏撫種人、勉爲孝順。汝來使難升米、牛利渉遠、
     道路勤勞、今以難升米爲率善中郎將、牛利爲率善校尉、假銀印青綬、引見勞賜遣還。今以絳地交
     龍錦五匹【臣松之以爲地應爲[糸弟]、漢文帝著sau皂衣謂之戈[糸弟]是也。此字不體、非魏朝之失、
     則傳冩者誤也】、絳地suu[扁糸旁芻]kei[冠网厂垂中扁炎旁右剣]十張、sen[冠艸脚倩]絳五十匹、
     紺青五十匹、答汝所獻貢直。又特賜汝紺地句文錦三匹、細班華kei[冠网厂垂中扁炎旁右剣]五張、
     白絹五十匹、金八兩、五尺刀二口、銅鏡百枚、眞珠、鉛丹各五十斤、皆裝封付難升米、牛利還到録受。
     悉可以示汝國中人、使知國家哀汝、故鄭重賜汝好物也。」

     正始元年、太守弓遵遣建忠校尉梯儁等奉詔書印綬詣倭國、拜假倭王、并齎詔賜金、帛、錦kei[冠网厂
     垂中扁炎旁右剣]
、刀、鏡、采物、倭王因使上表答謝恩詔。其四年、倭王復遣使大夫伊聲耆、掖邪狗等
     八人、上獻
生口、倭錦、絳青[糸兼]、緜衣、帛布、丹木、hu[扁犬旁付]、短弓矢。掖邪狗等壹拜率善中郎
     將印綬。其六年、詔賜倭難升米黄幢、付郡假授。其八年、太守王kui[扁斤旁頁]到官。倭女王卑彌呼
     狗奴國男王卑彌弓呼素不和、遣倭載斯、烏越等詣郡説相攻撃状。遣塞曹掾史張政等因齎詔書、黄幢、
     拜假難升米爲檄告喩之。卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、jun[扁犬旁旬]葬者奴婢百餘人。更立男王
     國中不服、更相誅殺、當時殺千餘人。復立卑彌呼宗女壹與年十三爲王、國中遂定。政等以檄告喩壹與
     壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還。因詣臺、獻上男女生口三十人、貢白珠五千、孔青大
     句珠二枚、異文雜錦二十匹。


                                    (訳文)

     景初二年六月、倭の女王が大夫難升米等を派遣し(帯方)郡に詣り、(魏の)天子に朝貢したいと申し出て
     きた。(帯方郡の)太守劉夏は、文官と武官を付けて(魏都)洛陽に送った。
その年の十二月、次のような詔書
     が倭の女王宛てに出された。

     「親魏倭王卑彌呼に制詔す。帯方太守劉夏が使と共に汝の大夫難升米・次使都市牛利を送り、汝が献じた
     男生口四人・女生口六人・班布二匹二丈を奉じてやってきた。汝の住む所は非常に遠いにもかかわらず貢献
     の使を遣わした。これは、汝の忠孝であり、私は汝を大切に思う。今、汝を親魏倭王となし、金印・紫綬を帯方
     太守を通して汝に授ける。汝は民をいたわり、勉めて孝順を示しなさい。汝の使者である難升米と牛利は遠くか
     らやってきてご苦労であった。今より、難升米を率善中郎將に、牛利を率善校尉とし、銀印・青綬を授け、ねぎ
     らって賜物を与えたのち送り返す。汝が献じたものに答え、絳地交龍錦五匹 【臣松之、地は[糸弟]となすべき
     であろう。漢の文帝は[白/十]衣を着、これを戈[糸弟](よくてい)といった。これである。この字は体(のっとら)ない
     ので、魏朝の過失ではなく、伝写した者の誤りである。】 ・絳地[糸芻][四/(炎り)]十張・[サ/倩]絳五十匹・紺
     青五十匹を与える。また、特に汝に紺地句文錦三匹・細班華[四/(炎り)]五張・白絹五十匹・金八兩・五尺刀
     二口・銅鏡百枚・眞珠・鉛丹各五十斤をあたえる。皆、難升米・牛利に託す。帰ってから目録どおり受け取り、
     すべてを汝の国中の者に見せ、魏が汝を大切に思っていることを示しなさい。そのために汝に好物を賜うのであ
     る。」

     正始元年、(帯方郡)太守弓遵が建忠校尉梯儁らを遣わし、詔書・印綬を奉って倭に詣り、倭王に拝仮し、詔を読
     み上げ、金・帛・錦[四/(炎り)]・刀・鏡・采物を与えた。倭王は使者に上表文を渡し、その中で詔勅に対する感謝
     の意を表した。その四年、倭王がまた大夫伊聲耆・掖邪狗等八人を使として遣わし、生口・倭錦・絳青[糸兼]
     緜衣・丹・木[犬付]・短弓矢を献じた。掖邪狗等は率善中郎將の印綬を授かった。その六年、詔して倭の難升
     米に黄幢を賜り、(帯方)郡を通して授けさせた。その八年、(帯方郡)太守王[斤頁]が着任した。倭の女王卑彌呼
     は狗奴國の男王卑彌弓呼ともともと不和であった。倭の載斯・烏越等を(帯方)郡に遣わし、相いに攻撃する
     様を説明した。(これにより太守は)塞曹掾史張政等を(倭に)遣わし、詔書・黄幢をもたらし難升米に授けた、檄に
     よりこれに告喩した。卑弥呼が死んだ。大いに冢を作った。径百余歩で、殉葬者は奴婢百余人。次に男王が立
     つ
が、国中が従わず、互いに誅殺しあい千余人を殺した。また、卑弥呼の一族である十三歳の少女台与を立
     てて王とした
ところ、ようやく国中が定まった。張政らは檄により台与に告喩した。(女王)台与は、倭の大夫率善
     中郎將掖邪狗等二十人を遣わし、張政等が還るのを送った。このとき、(掖邪狗等は)洛陽に詣り、男女生口三
     十人を献上し、白珠五千孔・青大句珠二枚・異文雜錦二十匹を貢した。


    (注) イリヒコ氏は壹與を「台与」と翻訳されているが、筆者は本文で一応「壱与」とした。特に他意はない。
    [ ]の括弧内はフォントがないので分解字として示されている。
    太字
や[ ]の括弧内の色字以外の色字は筆者による。

    ちなみに、卑弥呼の墓について「大作冢、徑百餘歩」とあるが、(隋書・宋書によると)そもそも中国では個々の
    物体を計るのに「歩」は使わず「寸・尺・丈」を使ったそうである。「歩」は二点間の距離、この場合は斎場全体に
    用いた。だから古墳丘の径が百余歩ではなく、それを含む斎場全体の径が百余歩だとする考えも可能らしい。

    また「徑」は円墳の尺度であろうという解釈もある。卑弥呼の墓ではないかとされる箸墓古墳のような前方後円
    墳は「徑百餘歩」というふうに一度では表現できない。もしかすると卑弥呼の墓は円墳かもしれず、持統が日本
    書紀で卑弥呼と神功皇后を重ね合わせるとき、日本書紀の偽史に合わない場所にあった卑弥呼の墓を、架空
    の推古の墓を造作するときに、前後して、破壊した可能性もある。馬子の墓(石舞台古墳)もあのように破壊され
    てしまっている。


(註)
ところで、「邪馬台国」がどこにあったかについては諸説あるが、有力説は畿内説と北九州説の二つである。畿内説については近年、巻向駅近くの線路わきで発掘された大型建築物跡やその近傍の穴から出土した2800個余りの桃の種のおかげで、とみに力づいた感がある。以前から三角縁神獣鏡が畿内中心に500以上も発見されていることが畿内説の有力根拠だった。これらは魏志倭人伝における卑弥呼の「宮室」や魏から贈られた「銅鏡百枚」や卑弥呼の呪術性の記述と一致しているように見えるからである。さらに卑弥呼の墓とされる前方後円墳の箸墓古墳が周辺から出土した土器などから卑弥呼の死の前後のものだと判明し、箸墓古墳の後円部の直径が「徑百餘歩」にほぼ一致するのも畿内説を有力にした。

しかし当時は日本列島に馬が存在しないので交通・情報・運搬の能力が甚だ低く、果たして畿内の邪馬台国がどのように北九州の伊都国を管理しその「一大率」を通して海外と交流をなしえたのかさっぱり説明できない。仮に馬が存在していたとしても、卑弥呼の時代には数多くの国による「倭国大乱」もありいわば戦国時代の様相をなすなかで、いかにして遠く遠い畿内の邪馬台国が途中、中国地方や四国地方や九州地方の数十ある諸国を切り抜けすり抜けて中国の魏と通じ合えるのか? 実際はまだ馬が存在しなかったので、なおさら疑問が募る。中国の魏を意識し、魏との交流が可能で、魏から多くの利益を得ることができるということが可能なのは、魏と一衣帯水というべき北九州に邪馬台国がある場合に限るのではないか。卑弥呼時代の3世紀のものとして、北九州では畿内でまだ発見されていない(鋤・鎌・鍬・矢じりなどの)鉄器具や文明の尺度ともいうべき筆記道具(土器製硯・木製筆記台・書かれた文字を木片から削り落とす削刀・墨をすりつぶす砥石など)が数多く発見されている。つまり卑弥呼の時代、巻向など畿内の国々は軍事力においても文化水準においても北九州の諸国に遠く及ばなかったことが明らかになりつつあるが、これは邪馬台国が畿内にあったのではなく北九州にあったことを示している。

魏志倭人伝における邪馬台国への行程についても北九州では詳しいのに、そこから一足飛びに畿内の邪馬台国に記述が及んでいるとすれば、途中の中国地方や四国地方がまるで存在しないかのように省略されてしまい、余りにも不自然すぎる。邪馬台国もまた北九州にあったとすればそうした行程記述も自然になる。ところで、魏志倭人伝の行程記述ははじめ距離を示す「里」が単位として使われているのに、途中で時間を示す「日」や「月」の単位に変わっており、そうしたことなどから魏志倭人伝は陳寿一人の作ではなく複数の人物による(漢代の史書も含む)様々な文書の混合だとして、その統一的信憑性が疑われている。

それはともかく、その後、北九州の邪馬台国が卑弥呼の時代から早ければ半世紀後には東遷して大和盆地に入りのちの大和王権となったと思われる。「やまたい」と「やまと」の共通発音や北九州の地名群の大和盆地への平行移動の事実がそれを証している。北九州の古地名群と大和盆地の古地名群とが全く同じでそれらの相互の位置関係も相似しているという事象は、同じ国家・同じ政権が移動したときにのみ起きるからである。もし魏から贈られた「銅鏡百枚」が三角縁神獣鏡だったのであれば、この東遷のときに北九州から畿内に持ち込まれたのであろう。畿内説の新しい有力根拠となった巻向駅近くの大型建築物跡には環濠がなく、明らかに卑弥呼の「宮室」ではない。魏志倭人伝には「宮室楼観城柵厳設」とあり「宮室」は「楼観」(物見やぐら)や「城柵」(環濠)によって厳重に守られているからである。そういうわけで、巻向駅近くの大型建築物跡近くから呪術用の桃の種が数多く発見されたとしても、当時の有力国家群ではどこもかしこも呪術師や巫女たちが国のために活動していただろうから、この桃の種の出土を卑弥呼につなげる必然性はない。また箸墓古墳の後円部の直径が「徑百餘歩」と一致しても、前方部も存在する箸墓古墳を「徑百餘歩」と表現するのはおかしい。それに、卑弥呼が戦争の最中に死に、死後に内戦まで起きていることを考えれば、全長300メートル近い巨大な箸墓古墳を造営する余裕などなかった筈である。



日本書紀は魏志倭人伝を横に置いて、このように卑弥呼の時代を神功皇后の摂政時代のこととして、その一部(の文章で示した部分)だけを抜き出して書き込んでいる。

魏志倭人伝の景初二年(239)六月条にある「倭の女王」というのはむろんもともと卑弥呼のことであるが、日本書紀のこの条では卑弥呼の名がない部分だけを引用し、その名を隠蔽して、それを神功皇后のこととしているわけである。

もし隠蔽意図がなければ、引用文のあとに説明文などを付して「倭女王」の名が「卑弥呼」であることを記しておくべきだろう。(注:景初二年でなく景初三年(240年)が正しいそうである)

ところが上に乗せた魏志倭人伝には正始8年(247)かその翌年かに卑弥呼が死に、男王が立って国が定まらず、卑弥呼の一族の13歳の壱与が立ってやっと安定したことまで書いてある。

神功43年(243)が正始四年だから、神功皇后が神功69年(269)に死ぬまでそれから26年もある。すると神功皇后の摂政期は卑弥呼の死後も続き、卑弥呼と男王と壱与の全時代をまたぐことになる。

それら三名を全て残らず時代的にカバーするかたちで神功紀が描かれているからである。つまり神功皇后は女性だから仮想的に卑弥呼と壱与の二人の女王に対応させられている。だからこそ神功皇后の摂政期間は69年の長期に亘らなくてはならない。そういう設定である。



しかし神功紀の時代設定は卑弥呼の時代にしたものの、その時代内容は120年(干支で2運)も下っている。たとえば神功紀の神功五十五年条と五十六年条に、

「五十五年 百済の肖古王が薨じた。五十六年 百済の皇子貴須が王となった」(「五十五年 百濟肖古王薨  五十六年 百濟王子貴須立爲王」)。

とある。しかし肖古王から貴須(仇首)王になったのは西暦214年のことであり、これは神功紀の前後の内容からみて明らかに肖古王・仇首王を近肖古王・近仇首王と取り違えたものだ。

それは神功六十四年(264)条に「百濟國貴須王薨」、神功六十五年(265)条に「百濟枕流王薨」とあることから判明する。枕流王は貴須(仇首)王でなく近仇首王に次いで王となったので、日本書紀が貴須(仇首)王を近仇首王と取り違えているわけである。

近肖古王から近仇首王になったのは西暦375年である。神功56年は西暦256年だから、すると干支で2運、すなわち120年も未来の時代のことを内容としているわけである。

編纂基準として卑弥呼の時代に神功時代を重ねておきながら、時代内容はその「120年もあと」なのだ。(:こうしたズレはどういうわけか最初の女帝である推古紀にも現れている。ここでは120年ではなくその10分の1の12年のズレが隋書との間で見える)

それではこの「120年あと」の時代状況はどうなのか? この時代に該当する天皇は誰なのか? 神功1年~神功69年は西暦201~269年。その120年後は西暦321年~389年。ほぼ日本書紀の仁徳天皇時代(313~399)に相当する。



仁徳天皇は応神天皇の第四子であり、その時代は中国南北朝時代の初期にあたる。そこから応神王朝の「倭の五王」(讃・珍・済・興・武)の時代が続く。これらの「倭の五王」は南朝(宋→斉→梁→陳)に次々に臣属しその都督となった。

しかし日本書紀では「倭の五王」について何も触れられていない。神功紀には魏への臣従を誓う卑弥呼と壱与の姿を描きながらも、日本書紀はなぜか中国南朝に都督として臣従する「倭の五王」のことは触れようとしない。

そのため現在でも、讃・珍・済・興・武の五王がそれぞれどの天皇なのか判別できない。邪馬台国北九州説など九州王朝説では「倭の五王」は九州王朝の王たちであって大和王朝のそれではないとしているほどである。

日本書紀はなぜ卑弥呼と壱与が魏に臣従したことは記しながらも、南朝諸国に臣従した「倭の五王」のことは触れないのか? 

それは(古田武彦氏の指摘どおり)日本書紀が書かれた時代が中国では唐の時代で、唐は(南朝の漢族ではなく)鮮卑族の拓跋氏に属する北魏→西魏→北周→隋→唐と続く北朝に属していたからである。そしてその唐は北魏の後継国家を自認していた。そうわけで日本書紀は唐からの独立を宣言しつつも、唐を恐れ、おもねっているといえよう。

つまり神功時代を卑弥呼・壱与の時代としつつも時代内容を120年後の南朝に臣従した「倭の五王」時代に合わせているのは、魏志倭人伝の卑弥呼・壱与条をあたかも神功条であるかのように引用することによって、その南朝への「倭の五王」の臣従時代を覆い隠し、あたかも南朝臣従時代も北朝に臣従していたかのように装いながら、「我々日本人は古くからこのようにずっと北朝に忠実に仕えてまいりました」という姿勢を示すためなのである。

むろんこうした唐に対する遠慮という視点からだけでなく日本書紀そのものの視点からも、宇宙日月開闢以来の伝統を誇る天孫天皇家がかつて中国南朝に代々その「都督」として臣従したなどという具体的な制度上の事実を述べるわけにもいかない。しかしそれだけではない。




日本書紀はおそらく8年前に完成していた古事記を底本にしたと思われる。たとえば古事記は上・中・下の三巻からなり、上巻は神代記、中巻と下巻は人皇記であるが、中巻は1代の神武から15代の応神まで、下巻は仁徳から33代の推古までとなっている。

人皇記を前後に分けると神武から応神までが前巻、仁徳から推古までが後巻にあたる。したがって人間の歴史時代の中間の切れ目がちょうど仁徳天皇なのである。そしてそれがまた日本書紀においては、神功から120年後の仁徳紀の時代にあたっている。

つまり神功紀は古事記を底本として、人間の歴史の中心点を16代の仁徳のところに置いてそこで前後に分け、しかも年代形式的には120年も遡らせて神功を魏志倭人伝の卑弥呼に重ね、それを現実の「時の中心軸」にするために中国の歴史書である魏志倭人伝を引用し、卑弥呼を神功とダブルさせたわけである。

中国史書の引用はここだけであり、ここからもこれに非常に特別な、言い換えれば唯一的な意味が与えられていることが分かる。
それは日本書紀における唯一の「時の中心軸」、すなわち「割り振り基準」という意味である。

このようにして中国史書の引用による卑弥呼=神功の「割り振り」編纂基準は、日本の歴史・天皇史・皇統譜に関する「日本書紀」という架空の楼閣を支える唯一の中心棒であり、「革命」「革令」という「発端」編纂基準はこの架空の楼閣の高さ(歴史のサイズ)を決めるものと言える。



それにしても魏志倭人伝を横に置いてそれを参考にしながら日本書紀を編纂した者たちにとって、そこ記載されている卑弥呼・男王・壱与はまさしく史実だったわけである。卑弥呼を神功皇后に対応させるのは仮に良いとして、それではその後の男王や壱与については日本書紀の皇統譜にどう対応づけ、どう処理したのか? 

魏志倭人伝の順序では、日本書紀の神功皇后のあとにごく短期間続いた騒乱時代の男王がいなければならない。またその次に壱与に対応する女帝がいなければならない。

だが明らかに日本書紀で神功に続く応神はこの男王ではないし、壱与に対応する次なる女帝など日本書紀にない。すると日本書紀の編纂者は魏志倭人伝を参照するとき明らかに意図的に歴史を捏造したわけである。

この問題について古田武彦氏の九州王朝説では、卑弥呼・男王・壱与はもともと九州王朝に属していた王たちだったので、大和王朝の編纂した日本書紀にはその各々に該当する女帝や天皇がいないのだとする。そして大和王朝は自分たちに都合よく九州王朝に関する魏志倭人伝の卑弥呼を盗用したと考える。

確かにそう考えれば一応説明がつく。だが大和王朝説には、郡評問題・九州年号問題・『隋書』「(イ+妥)ダイ国伝」の兄弟統治制問題・神籠石朝鮮式山城問題などなどという未解決の問題はあるとしても、全体として九州王朝説はまだまだ弱い仮説である。

だいいち陵墓の規模と数が近畿のそれと北九州のそれとでは比較にならない。もし7世紀末に至るまで北九州王朝の格下として大和王朝が存在していたのであれば、陵墓の規模と数の大小が説明できない。陵墓の数と規模の大小は権力のそれに比例するとみるのが妥当だと思われる。

それにもし7世紀末まで北九州王朝が格上で存在したのであれば、地理的に見て白村江の戦い(663)は当然のことながら北九州王朝の行った遠征であったことになる。しかしそうすると、近畿の大和王朝の正史である日本書紀が、北九州王朝の敗戦を自分たち大和王朝の敗戦であるとして描いたことになるわけだ。

これでは敗戦という究極の国辱を引き受け、しかも唐あるいは中国に対して歴史の続く限り永遠に戦争犯罪の責任を引き受けることになるが、大和王朝側にそうまでする何の利得があるのか全く説明が付かない。



ところで、日本書紀の煌々と輝くアマテラスの実体が持統であるとみたのが正しければ、おそらく同じく架空の存在である神功の背後にはその同じ持統がいると見てよい。だからこそ卑弥呼・男王・壱与の中の男王があたかも女性と化して、全部で一人の神功皇后と化したのであろう。

それは古い伊勢海洋民信仰における男神を女性化して太陽の女神アマテラスとしたのに通じている。日本書紀の編纂者たちはおそらく「持統=神功=アマテラス」という図式を持っている。宝賀寿男氏によれば、

「『延喜式』神名帳には女性の天照大神を祀る式内社はない。「天照」は全て男性神を祀るとされている。物部氏関係の系図「亀井家譜」(東大史料編纂所などに所蔵)では「天照御魂大神」として男性神的に記している。

筑紫申真氏は『アマテラスの誕生』(角川新書)で、太陽神のアマテルと呼ばれる男性自然神がアマテラスの原型であり、後に性格を変遷させたこと、皇祖神としてのアマテラスは新しく天武・持統天皇によって七世紀後半に造りあげられた神だったと述べている。

田村円澄氏も「古代朝鮮と日本仏教」(講談社学術文庫)で、「大王から天皇へ」は「倭から日本へ」と同時期であり、その7世紀後半の天智・天武・持統のときにアマテラスが誕生したと想定している。(注:現在では国号「日本」は天智朝で、「天皇」称号は天武朝で採用されたと判明)



日本書紀は天皇の皇統譜であるが、唯一「神功紀」という例外がある。日本書紀では神功は天皇でなく、なぜかどこまでも皇后なのだ。しかし並み居る天皇を凌駕する皇后である。

神功紀は日本書紀全30巻のうちの第9巻全部を宛てられていて、通常の天皇紀以上の扱いになっている。つまり「神武」「崇神」「応神」などと同様の「神」の一字を与えられた特別な天皇としての扱いである。

それは夫についで神となった女帝の持統が日本書紀の編纂基準を体現する者として特別な天皇であることの投影だろう。神功皇后紀が天皇紀のような唯一の例外となっている非常な特異性も、神功皇后が持統の投影として日本書紀の編纂基準となっているからである。

したがって日本書紀の編纂基準は一つは「革命」と「革令」の「天智」と「天武」であるが、もう一つの編纂基準である神功紀は実は形を変えたもう一つの持統紀だったと言えよう。

神功皇后の三韓征伐の華々しい有り様は持統の潜在的な願望の表れであり、それは百済系である持統の統一新羅に対する復讐心の過去への投影でもあるだろう。 

持統の時代、すでに百済は滅ぼされ三韓は統一新羅によって永久に支配されてしまっている。だから持統の化身である神功は神の啓示によって三韓征伐へと渡海し、新羅を討ち、三韓を征服して三韓の各王に永久臣属の忠誠を誓わせ、そのとき胎内にいた応神を神の御子として、神による生まれながらの三韓支配者としたのであろう。




ここで「生まれながらの三韓永久支配者としての応神」という想念について少し考えてみたい。すでに第一章の「序」で引用したが、応神紀のはじめに、「天皇が孕まれているとき、天神地祗は三韓を授けた」とある。

神功紀に何度も場面や時を変えてくどいほど繰り返し記されているように、これは母の神功皇后が三韓征伐のおり三韓の各王から永久の臣属・忠誠・朝貢を誓わせた結果なのだという話である。

しかしこの三韓征伐の話の前に、「熊襲攻略のため筑紫にいた夫の仲哀天皇が三韓征伐を命じる神の啓示に従わなかったので神に呪われてすぐに病気になり、翌日、早くも死んだ。それで神功皇后が、魚釣り・溝通し・髪分かれで三度占ってみるとそのつど同じ啓示があった」というストーリーがある。

つまり神功皇后の三韓征伐は神の命令・神の啓示によるものとされている。だからこそ三韓が「永久に」応神のものになったという論理なのだ。

三度の占いによる三度の結果は、おそらく三韓の「三」に対応するものであろう。おそらく一度一度がそれぞれ新羅・百済・高句麗に対応していると思われる。

三韓所有が永久化するには、まず軍事的な制圧と三韓各王の永久臣従宣言だけでなく、さらになによりも神の命令による三韓征伐という要素が必要である。このうちのどれが欠けても三韓の永久所有権は成り立たない。だからこそ神功紀にこの三要素が繰り返し出てくることになる。



だがふつう外国勢力が一時的にある国を征服し服属させても、その国が、自分はむろん、いわんや自分の子の永久所有物になる、というような考えには至らない。神によろうと人間の誓約によろうと、ある国がある人物の永久所有物になるという考えは、その人物が生まれながらにしてその国の人間である場合に限られるだろう。

他国を一時的に征服してみたところで、いずれは放棄せざるを得ない。それが人間世界の常識である。天皇制近代日本も、朝鮮を植民地にし、言語や姓氏をはじめ民族固有の様々な文化を奪い、他方、天皇のいる宮城に向かって遥拝させ、かつ京城神社や平壌神社などに強制参拝させ、可能な限り皇民化して同化し永久支配しようとしたけれども、結局は敗戦によって手放さざるを得なくなった。

人間世界では不可能事なのに植民地時代に日本が朝鮮民族の同化を目指したのは、日本書紀の神功紀や応神紀における「三韓は神によって永久に与えられたもの」という神話に突き動かされたからである。



とはいえ、そもそもある国がある人物の永久所有物であるのは、その人物がその国の人間である証だといって良い。「神の命令や啓示による」というのは永久所有の「永久性」に対する人間側の修飾語にすぎない。人間による永久所有を主張するために「神の命令や啓示による」とするわけである。

つまり神功皇后に投影された持統天皇が三韓に対して生まれながらの神による永久所有意識を持っていたのなら、それは持統天皇が百済人であったという間接証拠になるだろう。

それは直ちに持統天皇の父天智天皇が百済人であったということに帰着する。となれば、天智天皇すなわち中大兄皇子の正体が翹岐であるという可能性が非常に大きくなるわけである。

これに対して当然のことながら、「日本書紀の編纂者たちがそのような見え透いた嘘を書くだろうか?」という反論が起きるだろう。だがすでに説明したように、それは無意味な反論である。日本書紀は斉明や天智や持統が百済系でなく神武以来の純粋の倭人であることを万世一系で一般唐人に示す必要があった。また万世一系で在日百済を純日本化するのも絶対の課題だった。

それに、たとえば三韓征伐をした神功皇后なる人物が急拵えの架空人物で実在しなかったことは、日本書紀編纂当時、誰もが知っていたことだろう。

日本書紀はそのようなあからさまな嘘でも、現在の、あるいは事情を知らない未来の日本人にとって必要なら、いくらでも書き込んでいたわけである。嘘を事実であるかのように粉飾するために雄略や武烈など諸天皇の悪い面もあれこれ記すというテクニックも駆使している。



それにしても神功はなぜ皇后のままなのであろう? 卑弥呼は女王で持統も女帝なのだから、神功も皇后でなく天皇であって良い筈だ。もしかすると卑弥呼・壱与は九州王朝の女王たちであって、大和王朝自体においては推古天皇以前に女帝はいなかったという強固な伝承でもあったのだろうか? 

しかし神功紀を見ても分かるように、過去の史実にとらわれずに今必要な捏造を可能な限り行っているのが日本書紀だから、おそらくそのようなことはないだろう。

となれば、それは「天皇自ら海外へ遠征に出ることは許されない」という島国らしい渡海禁止の思想のためだろう。雄略紀の9年3月条を見れば、

「天皇はみずから新羅を討ちたいと思われたが、神が天皇を戒め、『往くな』と言われたので、天皇は行くことを果たせず、紀小弓宿禰・蘇我韓子宿禰・大伴談連・小鹿火宿禰らに勅して、『・・・・・・汝ら四卿を大将となす。王軍をもって攻め掛かり天罰を加えよ』と言われた。」(天皇欲親伐新羅 神戒天皇曰 無往也 天皇由是不果行 乃勅紀小弓宿禰 蘇我韓子宿禰 大伴談連 小鹿火宿禰等曰・・・・・以汝四卿 拜爲大將 宜以王師薄伐天罸襲行)

とある。

また任那日本府回復遠征軍を記した欽明紀を見ても臣・連・宿禰級の将軍が現地遠征軍の大将軍になる。推古紀では来目皇子と当摩皇子が相次いで征新羅将軍となる。

せいぜい皇子までである。皇太子もない。日本書紀の記述では、白村江のときも称制天皇(実質は皇太子)の天智は北九州の長津宮(博多大津)で軍の指揮を執っている。決して玄界灘を渡ることはない。

天皇の渡海禁止は事実上、天皇の朝鮮半島への渡海禁止である。これは結局のところ「斉明と天智が朝鮮半島から渡ってきた」という事実を否定し抹消する思想から生まれ出ている。実はそのためにわざわざ国生み神話で朝鮮半島とはいかなる関係もない大八洲(日本列島)を新たに作り、かつその大八洲に(朝鮮半島からでなく)天上から降臨したことにしたわけである。

記紀編纂の根底に「天皇家と朝鮮半島との根本の接点はどんな形でもなんとしても認めない」そういう持統の基本編集ベクトルがあるので、無理を重ねて何とか皇后には半島を往復させることはできても、天皇にそうさせるわけにはいかなかった。天皇自ら朝鮮半島へ渡海し往復するストーリーになれば、いずれ朝鮮半島から渡海してきた天皇家の正体にもイメージが重なってくる危険性が生まれてくる。

また、今や統一新羅のものとなった朝鮮半島に、「新羅に滅ぼされた百済出自の天皇が足を踏み入れるのは汚らわしい」という持統の生理的反発もあったと思われる。これは幕末期に見られた尊王攘夷の時の欧米人に対する孝明天皇の生理的嫌悪反応のようなものでもある。



持統の意を受けた日本書紀の編纂者たちは、卑弥呼も女王だし持統も天皇だから、できれば神功を天皇にして、持統の父天智の故国百済を滅ぼされた腹いせに、新羅を縦横に蹂躙させ、三韓を見事に征伐させたかった。だがそれはこうした事情のため不可能だったのである。

しかしそれだけではない。すぐ下に記すように、実は持統は、唐の病弱な高宗の皇后として実質的に百済と高句麗を亡ぼした則天武后を、自分の妄念を仮託した神功皇后のモデルにしたと思われる。

持統も則天武后もほぼ同時代に皇后として過ごし、同じ690年に皇位に就いた。だからそういう面でも三韓征伐した神功皇后は(百済と高句麗を亡ぼした時代の)則天武后と同じく皇后でなくてはならず、皇后のまま一巻を宛てて天皇級の扱いで済ますほかなかったのだろう。

そのとき古事記のように新羅国王を天皇の「馬飼い」にし百済国王や高句麗国王を天皇の「倉庫番」にしただけでは満足できず、古事記にはなかった「三韓征伐」という要素を新たに付け加えた。古事記には天照大神の託宣による宝の国の三韓に対する「侵略占有支配」指示はあるが、日本書紀のような懲罰的な意味合いはない。ちなみに、日本書紀では「馬飼い」は「飼部」、「倉庫番」は「内官家」、古事記ではそれぞれ「御馬甘」、「渡屯家」である。

ところでこの「馬飼い」や「倉庫番」という表現はいわば(自分の裏庭のような)地続きの領土内に設置したイメージの言葉であり、近畿からそれほど遠くない日本列島のどこかに設置して運営しているという概念であろう。到底海の向こうに設置した海外領土のものというイメージの表現ではない。

この「馬飼い」や「倉庫番」は「そもそも新羅も高句麗も百済王家のものであるべきだった」という観念と通じる。つまり仮に百済が新羅や高句麗を支配して隷属化したときに設置したとするなら、それは百済の地続きの領土に設置したことになり、「馬飼い」や「倉庫番」にもなるわけである。

それが玄界灘の向こうの朝鮮半島に設置しているという結果になったのも、神功皇后に自分を仮託した持統が、百済王家の血を受ける者として、百済や新羅や高句麗に対する領地意識を持っていたからだと考えられる。ひるがえって、この「馬飼い」や「倉庫番」という表現は持統の出自を窺わせるもう一つのヒントになっていると言えよう。



持統は自分をアマテラスや神功に擬するほど自分自身にひどく執着していたと思われる。夫の天武(672~686)が即位する前に(667)姉の大田皇女が若くして死んだため、天武が壬申の乱に勝利して即位すると妹の持統が天武の皇后となった。

だが天武が死ぬとすぐに姉の大田皇女の息子である23歳の大津皇子を、天皇に即位させまいと、謀反企図を理由に謀殺してしまう。

しかしすでに24歳だった自分の息子の草壁皇子にも即位させず、3年半ほどの称制の後、みずから即位して持統天皇(690~697)となった。

唐では則天武后が夫の高宗の死ぬ683年のずっと前から息子たちを廃太子や廃位して直接実権を握りついには即位して武氏の周(690~705)を成立させるが、もしかすると持統は唐での則天武后のこうした動きから影響を受けたのかもしれない。

自分をアマテラスや神功に擬する持統の背後には、もしかすると「弥勒菩薩」や「聖神皇帝」を名乗った同時代人の則天武后がいる可能性がある。のちにそれを漢風諡号の撰進者が悟ったからこそ、漢風諡号の「神功」が生まれたのではないか? 

なぜなら持統の化身の「神功」は、その二字が武則天なる「聖神皇帝」時代の数多ある年号の一つだからである。「神功」はちょうど持統の皇位末年、すなわち文武に生前譲位した697年だけの年号だ。このように「神功」の二字は持統と武則天をつないでいる。

神功皇后と則天武后は皇后としても響きあっている。655年に立后した則天武后は病弱の高宗に代わる実質的な権力者として百済と高句麗を亡ぼしたが、それは応神の母である神功皇后の三韓征伐の神がかり的な大活躍にも通じている。

日本書紀における(持統の仮託なる)神功の三韓征伐譚が(持統のもう一つの仮託なる)則天武后の百済・高句麗征伐からそのアイデアを借用したものである可能性は大いにある。筆者は持統を「日本の武則天」と名づけたい

なお神代紀におけるアマテラスとスサノオの関係についてだが、ある面ではアマテラスは在日百済としての「日本」の、スサノオは朝鮮半島を統一した「新羅」の寓意とも言える。日本を代表する神が女神になったのは持統が女性であったためであろう。

個人の寓意としてはアマテラスが持統で、スサノオが(持統の夫である)高句麗系新羅派の天武ということになる。もしかするとスサノオの実体は「矮小化された夫の天武」なのかもしれない。

そしてスサノオがアマテラスに数々の暴虐を働いたというのは、新羅が百済を滅亡させたということの暗喩だと思われる。したがってイザナギによるスサノオの根の国(母国新羅)への追放は、日本列島と朝鮮半島における在日百済(アマテラス)と統一新羅(スサノオ)との住み分けを意味しよう。


第6章  蘇我王朝



さて、天武が稗田阿禮に命じて暗誦させたものをのちに元明の命で太安万侶に書き留めさせたものが古事記だとされているが、古事記の序を見ると、そこでは諸家の持つ帝紀や旧辞がすでに事実とは異なり多くの虚偽を加えたものであって、このままでは国家組織や天皇家の根幹が滅びてしまうので、記憶力に優れた28歳の若い稗田阿禮に命じて暗誦させたとある。

しかしこれは非常に不自然である。まず第一に、多くの誤りのある帝紀・旧辞などの中から正しい伝承を、何を基準にして、どのように選び出したのだろう? 

第二に、それをいかにしてまたどれほど正確に暗誦できたのか? 

第三に、その暗誦したものを太安万侶がいかに正確に音と訓を駆使しながら記録しえたのか? 実際にシミュレーションしてみれば多くの困難があることに気づく筈である。

ところで、もし多くの誤りのある諸家の帝紀・旧辞の中から正しいものを選別したのであれば、それは書かれた記録からあれこれの部分を選別した「部分文書資料集合体」だったわけである。それを暗誦せずにそのまま書かれた記録として残しておく方がどれほど確かなことであろう。

またそのような資料の部分集合体のままでなく、なにほどか統一的な文書として残すとしても、(音を全て漢字で表記できるのはやっと大伴家持の頃だから、音のみで表記はできなかったであろうが)、訓と音を取り混ぜて、なんとしても文書化しておくべきだっただろう。 



なぜ一度暗誦する必要があったのか? なるほど暗誦で訓読みは伝わるだろうが、必ずしも一度稗田阿礼が暗誦しなくてはならないというほどのものでもない。年寄りが昔の訓を聞き知っているというのならまだしも、若い稗田阿礼ができるほどなら、少し後の時代でも訓読みのできる者は多数いた筈。記録文書さえあれば暗誦者の稗田阿禮が死亡するなどしても問題はない。

普通なら暗誦するよりは選別した部分文書資料集合体のままで残しておくか、あるいはなにほどか文書化したならそれを暗誦せずに記録文書として残しておく方法を選ぶのが筋である。だから稗田阿禮に正しい帝紀・旧辞を暗誦させたという話は到底通じる話ではない。

もし天武の命令があったとすれば天武は何者かに、「天皇家の姓氏に言及せず、その出自を隠し、諸伝承を利用して、できるだけもっともらしい天孫一系の天皇家の系譜を創作し、わが国の過去の全歴史伝承をそれに合わせて編集せよ」と命じたと考えるほかない。

多くの国が分立し王統に様々な栄枯盛衰があったなかではせっかくの資料も散逸し、また漢字という唯一の記録手段が存在しないかその導入・普及が十分でないなかでは、太古の諸伝承における王妃・王子・王女の名前はむろん王たちの名前ですら過去に遡るほど一致するものはなかったであろう。

また、それらの名前を一つにまとめるかあるいは創作し、伝承された過去のあれこれの出来事をそれらの人物にそれぞれ割り振るとき、名前自体が明確なものでないぐらいだから必然的に任意性や恣意性が働かざるをえず、編纂意図によって多くが歪められた筈である。



「稗田阿禮」なる人物について「続日本紀」にはなんの記載もない。太安万侶は五度、「続日本紀」に言及されているが、太安万侶と古事記とを結びつける記述もない。そもそも「続日本紀」には古事記についての記述さえない。

それに古事記と日本書紀とを対照すると日本書紀が古事記を底本とした痕跡は少ないとされる。たとえば日本書紀に「一書」として引用されている中に古事記からのものはないそうである。

しかしこれは意図的なポーズである可能性がある。なぜなら同じ天武の発案で同時進行的に編纂記述が行われていて、しかも日本書紀があれこれ「一書」に言及しながらもそこに古事記と共通するものがないのは不自然であり、にもかかわらず皇統譜における架空の天皇たちについては古事記と日本書紀との間に正確な対応が見られるからである。

架空の皇統譜においてこれだけの対応があるのはどちらかが他方を底本としたからであろう。ならばより原始的な記述である古事記こそが日本書紀の底本とされたと見るべきである。神功の新羅征伐の話一つを見ても日本書紀が古事記を敷衍したことが明瞭である。



もともと「旧古事記」というほどのものがあって、その「旧古事記」を底本として日本書紀が編纂されたと想像される。それを隠そうとして日本書紀が「旧古事記」を底本とした痕跡を少なくし、意図的に両書の間に多くの不一致点を入れたのだろう。

それによって、「たまたま両書で内容や音韻が一致あるいは酷似しているのはそれが歴史的事実だからだ」と読者に思わせるためである。もし底本があるなら、意図がなくてはそれと一致しないようには書けない。

たとえば「神倭伊波禮毘古」と「神日本磐余彦」のように漢字が異なっていても訓音は同じ「カムヤマトイワレビコ」だから神武は実在人物だろう」とか、「多くの不一致があるにもかかわらず皇統譜が厳密に一致しているのはそれが史実であるからだろう」とか、

「神功の半島遠征が古事記にも日本書紀にもあるのはそれが史実だからだろう」と思わせる効果があるわけである。日本書紀は史実の書ではないが、架空の話を史実と信じさせようとすることは熱心に行っている。

むろん旧古事記そのものも、のちの日本書紀を前提とした歴史偽造の共謀者である。たとえば古事記の皇統が神武に始まり推古で終わっているのは、古事記の役割の一つが(第二章で述べたように)日本書紀の編纂発端基準を鄭玄の讖緯暦運説における1260年解釈によって推古時代に誤導するためと、(以下で詳しく述べるように)蘇我王朝の馬子大王を神武以来の皇統の女帝推古に置き換えるためである。

日本書紀の編纂目的の一つが蘇我王朝の消去なので、古事記でともかくも神武の後裔として推古を引き出し、日本書紀がその後の歴史を捏造できるようにその土台を作り上げたというのが真相だろう。

ついでに、古事記が古いか日本書紀が古いかという問題については、おそらく今は失われた「旧古事記」というものがあってそれを日本書紀が底本としたのであろうが、その後、両書がそれぞれを参照しつつ幾度も書き換えられたと考えられるので、現存する両書のどちらがより古いかについては決定できないし、決定しても無意味であるとするのが正しいと思われる。



ところで天武が淵蓋蘇珍なら彼は高句麗王家の血筋ではないので、日本に在日高句麗王朝を打ち立てる必要などなかった。そういうわけで、天武が何者かに「偽史を編集せよ」と命じたとき、自分の出自を徹底的に消滅させ、完全に天孫一系の中に融合させたと思われる。

しかし百済王家の血筋の持統の立場は違う。余儀なく在日百済王朝を神武以来の天孫一系の中に融合消滅させるとしても、自分の出自を暗示するヒントや鍵を日本書紀のあちこちに埋め込み、子孫が真の系譜を知りうるように日本書紀を編纂せざるを得なかった。それが現在の日本書紀である。そういうわけで天武段階の偽史構成と持統以後の偽史構成とは大きく異なることになる。

天武段階の偽史構成でも、天武のいくばくかの投影である神武がやはり人皇記の最初にあり、これは持統以後の(現在の)古事記や日本書紀の偽史構成と同じである。持統は、夫だったので天武が自身を天孫一系の最初の神武にいくばくか投影した天武段階の偽史構成に反対しなかった。そのかわりBC660年の神武紀元を決める日本書紀発端編纂基準年を天智称制年(661)としたわけだ。

両者の偽史構成の違いは異なる出自のために多岐にわたったであろうが、少なくとも天武段階の偽史には女帝持統の女性的な意図を反映して創作された神功皇后や推古したがって聖徳太子も登場せず、さらに皇極も存在しない。したがってこれらの架空人物を実在化する様々な擬古的工作もまた持統時代以降になされたことになる。持統称制(686)以降はよほど注意がいる。証拠だと思われた物品や文章もねつ造かもしれない。

おそらく上記の「旧古事記」は持統段階の偽史構成であろうが、持統のこの「旧古事記」はむろんさらに先行する天武段階の偽史である「原古事記」を踏まえて改変・創作された筈である。




それにしても江戸時代の1784年に九州福岡市志賀島で発見された「漢委奴国王」という金印の主は誰なのだろう? 

もしこれが後漢書東夷伝にある「建武中元二年,倭奴國奉貢朝賀,使人自稱大夫,倭國之極南界也。光武賜以印綬。安帝永初元年,倭國王帥升等獻生口百六十人,願請見」とあるA.D.57年(建武中元二年)の時の印綬であれば、このとき印綬を受けた倭王は古事記や日本書紀の誰であろう? 

また107年(安帝永初元年)に生口160人を献上したこの「師升」なる人物に相当する倭王は日本書紀ではどの天皇なのだろう? 

もし大和王朝の誰かに印綬を与えたのであれば、なぜ金印は九州の志賀島で発見されたのか? 金印が北九州で発見されたのであれば、そこに倭国の首都があったと考えるべきであろうし、「師升」の王国も北九州にあったとしなくてはならないだろう。となればこの頃はまだ倭の中心は北九州にあった可能性がある。

さらにすでに見たように卑弥呼の名は古事記にも日本書紀にもない。しかしすでに見たように日本書紀の編纂者たちは卑弥呼のことは知っていて、魏志倭人伝を利用して彼女を神功と同一人物だったように仕組んでいる。

だが邪馬台国を脅かし卑弥呼を恐れさせた強大な狗奴国はどこにあり、その男王の卑弥弓呼は誰なのか、日本書紀にはなにも言及がない。そして卑弥呼・男王・壱与と続く王統に対応する皇統が日本書紀と古事記に見られないことを見れば、邪馬台国がどこにあったにしろ邪馬台国の卑弥呼と大和王朝とは連続性のないものだったわけである。

それはまた五世紀の「倭の五王」についても言い得る。記紀の編纂者たちは(かたわらにあった「梁書」からも)中国史書が「倭の五王」について書いている事実を知っていながら、全く彼らに触れようとしない。それは「倭の五王」が大和王朝と無関係だったからであろう。少なくともその可能性は排除できない。

こうして少なくみても五世紀末までの天皇たちは、伝承にある様々な人物を都合の良いように加工して利用しているか、全く架空の人物であって、系統的には実在しないと見てよい。



それでは記紀で応神の五世孫と記されている六世紀初頭の継体以後の皇統は正しいのだろうか? 記紀の捏造性がこれほどすさまじければ、それもそのままでは信用できない。

たとえばすでに見たように『隋書』では7世紀初頭の推古時代の倭王について、姓を「阿毎」、名を「多利思北孤」と記している。隋書ではこの「阿毎多利思北孤」は607年に隋に使者を派遣しているが、「阿毎多利思北孤」という名前は、明らかに男性王の名前である。だから女王の推古のことではありえない。

隋の煬帝によって派遣された中国使節の裴世清も、日本書紀の推古紀に詳しくあるように、608年にこの「阿毎多利思北孤」王に直接対面しているから間違いはない。

一部の研究者は、女王であることが分かれば隋に軽く見られるから、裴世清との対面のとき推古の代わりに聖徳太子が出たのではないかとしている。これはいわばアメリカ大使を偽の天皇や偽の首相と対面させるようなものである。

国交のある国の王が男性か女性かはふつうは国交樹立前に分かっている筈のものだが、かりにそうでなくとも長くは隠しようもないもので、いずれ露見する可能性が高い。露見すると国交断絶だけでは済まず大変なことになる。だからこの手は絶対に使えない。というより魏志倭人伝にもある女王・卑弥呼のことを考えれば、女王であることを隠す必要は特段なかったといえよう。

ところで、前章で全文紹介した中国史書の魏志倭人伝は卑弥呼を「倭女王卑彌呼」と何度も記している。中国史上、「女帝」は21世紀の現在に至るまで(唐の武則天以外)存在しない。

そういうわけで中国人にとって女王なるものは非常に特異な興味ある存在であるばかりでなく、交渉相手国の最高権力者が女性であるという事態は、外交的にも政治史的にも是非とも抑えておかねばならない要点なので、正史である隋書が「阿毎多利思北孤」を女王として記さなかったというのは、非常に理解しがたい。

つまり推古が女性大王だったならば隋書で必ず「女王」として記録された筈なのだ。となれば聖徳太子の時代である推古(593~628)でさえ偽りの天皇だったということになる。



「天皇家の無姓問題と国名『日本』への更号について」の章の冒頭に一部引用したように、隋書は「阿毎多利思北孤」が男王だったことを、「王妻號[奚隹]彌、後宮有女六七百人」(王の妻は[奚隹]彌と号し、後宮には女が600~700人いる)という記述で明瞭に示している。(注:[奚隹]彌でケミと発音する)

日本のアカデミズムは以前から推古の実在性について疑問視するのをいわばタブーとしており、そのためこの隋書の記述もあまり重視しない。なかには600人から700人の女が後宮に居るというのは甚だしい誇張だとして、資料としての信憑性を疑問視する学者もいる。しかし同じ隋書倭国伝にある「日出ずる処の天子・・・・」は認めておいて他の記述には頬かむりするというのはいただけない。

妃嬪愛妾だけでなく雑用女性も含めれば、一国の国王の後宮に600人~700人の女がいるというのはむしろ自然ではないか? 一説には百済滅亡時、その後宮に「三千宮女がいた」とも言われている。これこそ誇張であろうが、この時代、豪族や大臣の邸内でも少なくとも女性100人ぐらいは働いていたのではないか。

そもそも数は量に関する問題であって、量の問題で質の問題まで度外視してはならない。推古時代の倭王が男王だったかどうかは量ではなく質にかかわる問題である。これには聖徳太子が実在したかどうかも関連してくるので、むしろ日本書紀の根幹に関わる大問題だと言って良い。隋書のこの記述をどう解決するのか、この問題について正面から取り組むことこそ本来のアカデミズムというものではないだろうか。

また隋書に「倭王姓阿毎、字多利思北孤」とある「阿毎多利思北孤」の「阿毎多利思」を「天足」と見て「天の充溢」などと意訳し、それに「北孤」を付け足した「阿毎多利思北孤」を「天の充溢のある壮士」と解いて、姓でも名前でもないと主張する学者さえいるけれども、それはおかしい。

原文にある「北孤」(ホコ)は「比孤」(ヒコ)の誤記だと見る学者もいるが、ともかく隋書にははっきり「姓」と「字」が別々に指摘されて記述されている。したがって隋人が日本の使節から、「姓はアメ」、「字はタリシヒコ」あるいは「タリシホコ」、と直接耳で聞いたからこそ「倭王姓阿毎、字多利思北孤」という記述となった、と解釈すべきだろう。

つまり推古時代の倭王の姓名は事実「アメタリシヒコ」あるいは「アメタリシホコ」だったということである。もしかすると日本の使者が「漢字音で表記するとこのようです」とみずから「阿毎多利思北孤」と示したかもしれない。ともかく、いずれにせよ、百歩譲っても、この「天の充溢のある壮士」は「壮士」(ヒコ・ホコ)なので、結局、女性ではなく、女帝の推古を指し示しているものではない。この時代の倭王は男性だったということである。



ちなみに森博達氏は『日本書紀の謎を解く』において α 群を中国人によるとし、巻一四(雄略紀)から巻二十一(用明紀・崇峻紀)までは続守言、巻二十四(皇極紀)から巻二十七(天智紀)までは薩弘恪の手になるものとした。

その際、続守言は本来は巻二十三(舒明紀)まで書く筈だったが、病気あるいは死亡などによって巻二十一までとなり、しかもその巻二十一も完成しないまま末尾部分を残したとする。末尾部分に中国人にはありえない倭習や語法があるからである。ところがそれがちょうど馬子による崇峻殺害(推古即位の直前)部分なので、したがって結果としては続守言は推古紀を書くには至らなかった。

ところで日本書紀編纂のとき記述者たちの横に『隋書』があったことは確かめられている。『隋書』にはかの推古時代の倭の男王「阿毎多利思北孤」のことが記されている。つまり、もし森氏の述作者説が正しいとすれば、続守言は隋書の記述と全く異なった倭王について書かなければならない羽目に陥ったということになる。

これは中国人としてはとても痛い。『隋書』『日本書紀』ともに国家の正史だから、この傷は中国人と日本人とりわけ母国の中国人に対してのちのちまで永久に残ってしまう。それで病気や老齢を口実にして退き、そのうちに死亡したのかもしれない?ということになるだろう。

続守言が書き残した部分は、当然、同時並行的に自分の分担部分を書き進めていた薩弘恪に委ねられてしかるべきものであろうが、その薩弘恪も、(天智紀を最後までし遂げているところをみてもまだまだ健康だっただろうが)、推古紀は書いていない。彼もまたそこはあれこれ理由を挙げて断り、引退したのかもしれない?・・・ということになる。

そこでしかたなく β 群の書き手に委ねるほかなかったのだろうか??? 結果として、巻十四から巻二十七までの α 群の大海のなかにぽつんと β 群の小島(巻二十二の推古紀と巻二十三の舒明紀)が二つ浮かんでいる格好になっている。



さて近年になって大規模な前方後円墳である丸山古墳のすぐ東側に位置する、それよりずっと小規模の方形墳(植山古墳)内に(この時代を特徴付ける)双室墳墓が発見され、それが日本書紀の推古紀最後の文章を実証するものではないかとして学会でも重視された。

推古紀の三十六年条には、

「秋九月二十日、始めて天皇の喪礼を行った。このとき群臣はそれぞれ殯宮に、誄をのべた。これより先、天皇は群臣に、「この頃五穀がみのらず、百姓は大いに飢えている。私のために陵を建てて、厚く葬ってはならぬ。ただ竹田皇子(敏達天皇と推古天皇の皇子)の陵に葬ればよろしい」といい残されたので、二十四日、竹田皇子の陵に葬った。」(後に河内国磯長山田陵に改葬)─ちなみに丸括弧内は日本書紀にない説明文─

とある。植山古墳の東の石室には石棺があるのに西の石室にはないなど、この通りの出土状況だったので、学会でも近年発見されたこの合葬陵墓をおおむね推古紀にあるそのときの陵墓とみなしたわけである。それはまた推古女帝の実在性を強力に示すものとされた。

しかし三十六年もの長きにわたって大王であった者が、(あたかも大王として生きた痕跡をみずから隠すかのように)、なんと自分の息子の墓に埋もれて合葬されてしまうということが果たしてありうるのだろうか? これでは主客転倒である。

しかも日本書紀は竹田皇子の陵墓名を記していない。つまり植山古墳がはたして推古とされた女性とその息子の合葬墓かどうかは定かでない。



息子の墓に葬られたというのは、単純に、推古とされた女性が死んだ時、まさしく大王でなかった証として見るべきだろう。大王でなかったからこそ、そういう格式に捉われない(大王墓としては)例外的な埋葬が出来たと解釈すべきではないか? 

そして推古がのちに移葬されたのは、持統天皇が日本書紀において推古なる偽りの女帝を捏造して以後のことではないだろうか? であれば、飢饉のために薄葬を推古みずから委託したというのも、むろん後でなされた作り話の理由付けだろう。

それに、植山古墳の石室の規模も石材の大きさも馬子の墓とされる石舞台古墳のそれより小さい。両者の規模には巨人と小人ほどの差がある。大王の推古が、築造されて間もない(臣下である)馬子の墓を直接目にしながら、それより小さな墓に、しかも自分の墓でなく息子の墓に、みずからを葬らせるというのも非常に不自然な点である。

これでは政治体制としての示しがつかない。同時代の古墳規模の大小はそのまま被葬者の地位の高低を意味するので、石舞台古墳の馬子の方が地位が高かった、つまり馬子の方が大王だったということになる。

蘇我王朝を消去することは日本書紀の最大目的の一つだったから、その点では抜かりはなかったと見ることが出来る。誰かを馬子大王と取り替える際に、みずからが女性であることも考慮して、持統は推古なる女帝を捏造したのではないだろうか? おそらく推古とされた女性は蘇我王朝に先立つ王朝最後の大王の娘だったに違いない。



さて、これらを見ると日本書紀では中国史書に出ている倭王はすべて無視されている。あたかも日本書紀の編纂者たちは中国史書を全く知らないかのようだ。しかし卑弥呼を神功だとして細工しているのを見れば、中国史書や朝鮮史書を横において書いているのは明らかである。

げんに神功紀や応神紀には「百済記」からの引用文があるし、また雄略紀や武列紀には「百済新撰」、欽明紀や継体紀には「百済本記」(「百済本紀」ではない)からの紹介文もある。

これら「百済記」も「百済新撰」も「百済本記」も、(そこに百済滅亡後の天智・天武時代になってはじめて現れる「日本」や「天皇」という語があるのをみても)、自らの歴史を偽るための偽書あるいは改変文書であると思われるが、とにかく中国と朝鮮の史書は日本書紀の編纂者たちの傍らにあったわけである。日本書紀の編纂者たちの横に魏志・史記・漢書・後漢書・梁書・隋書などなどがあったことは、それらからの潤色が見られることで判明している。



とすれば、なぜ中国史書の倭王と日本書紀の天皇とが全く系統的に符合しないのであろうか? あるいは日本書紀の編纂者たちはなぜ符合させようとさえしないのか? 答えは簡単である。それは日本書紀の皇統譜が史実でないため符合させようがなかったからに他ならない。

こういうわけで日本書紀の皇統譜はほとんど信頼できない。たぶん日本書紀が依拠した旧古事記の神武から推古までの皇統譜そのものが厳密な意味では架空なのだ。したがって各天皇の事跡も当該天皇の事跡としてはほとんど全て架空なものになる。

日本書紀は、みずからは神代紀や皇統譜を創作せず古事記に依拠するという形をとることで、なにほどかの客観性をかもし出そうとしたと言える。そのときすでに指摘したように両書間にズレを意図的に構築することによって、一致する項目については史実であるかのような細工を施した。完全に架空なものを史実と見せかける細工である。

しかしむろん古事記における天皇にはモデルが存在するケースも多くあるだろうし、様々な事件にも史実やモデルはあるだろう。それは神代紀にも言える。

とはいえ大抵のところ古事記や日本書紀に描かれている出来事はほとんど全てにおいて極度に粉飾されており、多くは創作だと思われる。粉飾と創作のほとんどは、朝鮮=統一新羅に対する無視・軽蔑・敵意と、蘇我王朝の否定と、天孫皇統一系化が最大の原因である。




おそらく倭国の王朝は概ね(1)奈良のヤマト王朝→(2)河内王朝→(3)継体王朝と歩んできた。6世紀末葉から7世紀前半は、継体王朝を転覆した馬子に始まる蘇我王朝だったと思われる。この蘇我王朝を乙巳の政変で倒してついに「扶余王朝」を開いたのが、「中大兄皇子」(天智)なる百済王子の扶余翹岐である。

一部の熱狂者や日本古代史に詳しくない者を除けば、今では神武以来の皇統一系を信じる者はいないが、少なくとも乙巳政変の直後、「鞍作をもって天子に代えられましょうか」(豈以天孫代鞍作耶)という中大兄皇子の言葉には、大王位の取替え可能性が含まれている。

もし神武以来の皇統一系が事実であれば、豪族が大王位に誘惑されるということは決してありえない。大王が「天孫」なら、なおさらである。日本書紀が記述する中大兄皇子の(むろん架空の)この言葉は、過去の王朝が一系でないばかりか、王朝は容易に可換であり、したがって蘇我入鹿も大王たりえたこと、さらに大王だったことを暗に示している。

「日本書紀」は中大兄皇子に切りつけられた入鹿が、「日嗣の位においでになるのは天子である。私にいったい何の罪があるのか」と言ったとして、死に際して入鹿が臣下を自認したかのように組み立て、また蝦夷側で蜂起した漢直に対し、中大兄皇子は、「天地開闢以来君臣の区別が始めからあることを説いて」その抵抗を断念させたとして、いかにも天地開闢以来天皇家はずっと君位にありつづけたかのように捏造している。

しかしそれでは乙巳政変すなわち母なる皇極の大極殿の座所で皇極の皇子がそこに参内した入鹿の暗殺にあれほど入念な準備工作と実行計画を立てなくてはならないのが理解できない。宮殿の警備体制はいつも皇極-中大兄皇子側(王室側)にある筈だからだ。入鹿はその中に参内するのだから、たとえ皇極紀にあるように「昼夜剣を帯びて」いても無防備に近い。

にもかかわらず、あたかも入鹿大王の座所でその警戒をかいくぐりながら、うまくだまして防備を解かせて、入鹿大王の暗殺をなんとか成し遂げたかのような、実質そんな困難な情景描写になっている。つまり入鹿暗殺の困難ないきさつは蘇我王朝の存在を要求している



乙巳政変の入鹿殺害の翌日、「蘇我蝦夷らは殺される前に、すべての天皇記・国記・珍宝を焼いた。船史恵尺はそのとき素早く、焼かれる国記を取り出して中大兄にたてまつった」と皇極四年六月十三日条にある。

推古二十八年条には天皇記・国記・本記は聖徳太子と馬子とが相議って記録したとあるが、王統を記録するこれほど大事な書籍がなぜ蘇我家だけにあるのか? これは蘇我家が大王家であり、そこにこそ天皇記・国記・珍宝があったことを示すものではないか? でなければ国記を中大兄皇子にたてまつるというようなことは意味を成さない。

これは国記が蘇我家から中大兄皇子に渡ったということよりも、むしろ倭国の大王位の(実質的な)移行を暗示している。(ちなみに「天皇」という称号はまだないので「大王記」は存在しても「天皇記」というものはなかった筈である)

また皇極三年十一月条に、「蘇我の大臣蝦夷と子の入鹿は、家を甘橿岡に並び建てた。大臣の家を上の宮門(みかど)と呼び、入鹿の家を谷(はざま)の宮門といった。男女の子たちを王子(みこ)といった」(蘇我大臣蝦夷・兒入鹿臣雙起家於甘梼岡。稱大臣家曰宮門。入鹿家曰谷宮門。稱男女曰王子)とあるのも、蘇我家が大王家であったことを暗示するものだろう。

ちなみに、筆者も数度登ったことのある南北六百数十メートルほどの細長い甘樫の丘一帯はどうやら蘇我氏のものだったようである。最近その東の麓の(駐車場近くの)一角から上記のものらしき遺構が発見されたが、せいぜい10坪ほどの建物の群でしかなく、到底「宮門」といったものではなかった。つまり上記の記述は蘇我家逆心説を唱えるための虚偽であるが、これもそもそも蘇我家が大王家だったことの反映だろう。

その他にも甘樫の丘の北端あたりに推古の豊浦宮(現在は向源寺)がある。そもそもこれは蘇我氏の邸宅の一部であった。つまり推古なる者は蘇我氏の邸宅にいた者だったわけである。また甘樫の丘の南端あたりの学校敷地に最近(2017)になって蘇我蝦夷の墓と思しき方墳も見つかった。

飛鳥のずっと南部には馬子の墓とされる石舞台古墳があり、そのさらに奥の山間に馬子の父とされる蘇我稲目の階段式ピラミッド風の都塚古墳(方墳)がある。考えてみればそもそも飛鳥地方中央北部の飛鳥寺は蘇我氏の氏寺ともされているので、こうなると飛鳥地方一帯が蘇我氏の所有だったわけである。その領域の中には豊浦宮・小墾田宮・板蓋宮・川原宮・岡本宮・浄御原宮などの飛鳥時代の王宮がある。これらの王宮は蘇我氏のいわば広大な敷地内に建てられていたことになり、これはつまり蘇我氏が一豪族でなく大王家だったことを示すものといえる。



蘇我家が大王家であったことを暗示する記述は他にもいくつかある。少し遡ると、皇極元年七月二十七日条では、蝦夷が日照りのための雨乞いをしているが、これは(中国皇帝もそうであるように)本来、天皇の行事である。また同年十二月条には、「この年、蘇我大臣蝦夷は、自家の祖廟を葛城の高倉にたてて、「やつらの舞」(六十四人の8×8の方形の群舞で、天子の行事)をした」とある。

「宮門」「王子」「祖廟」、次に出てくる「陵」という表現も大王家レベルのものであるが、8×8の六十四人の方形の「やつらの舞」もそうである。諸侯豪族は「6×6」の36人、大夫は「4×4」の16人、士は「2×2」の4人という格式が決められている。

さらに同じく同年十二月条には、蝦夷は生前に自身と入鹿の墓を造ってそれぞれ「大陵」(おおみささぎ)、「小陵」(こみさざき)としたともある。皇極二年十月六日条では、蝦夷が入鹿に紫冠(最上位の位階)を授け、入鹿の弟に「物部大臣」の称号を与えているが、冠位や氏姓の下賜は天皇の権限である。

これらをみると蘇我王朝の存在が浮かび上がってくる。それとともに、大王家(天皇家)というものが、神代からの万世一系どころか、ずいぶん相対的・可換的で、結局のところ短期的なものだったことが分かる。

なぜなら蘇我王朝が実在していれば万世一系でなかったことなり、一豪族の蘇我氏が天皇家にこのように挑戦しているのであれば、それはそもそも天皇家なるものが神聖なもの・長期的なものでなく、相対的・可換的・短期的なものだったということになるからである。



常識的には、住居が「宮門」で、墓が「陵」で、子どもたちが「王子」で、あれこれの行動や行事が大王のそれで、しかもこういう状況がいわば常態化していたということは、事実上あるいは事実、馬子も蝦夷も入鹿も大王で、蘇我王朝が実在したということである。

大王が別にいてしかもそれを踏みにじるように公然とこうしたことをするというのは、みずから大王になりたいからであり、そういう野心家が大王家にのみ許されるこれらの名称や権能だけを奪いながら大王位そのものは簒奪しないということはまずない。

大王家が別にあるなら、みずからを「宮門」「陵」「王子」などなどで飾ってみても何の意味があるのだろう? 大王家を蔑(ないがし)ろにするこういう類の地位簒奪性の暴挙を敢行しながら、あえてなおその大王家を温存する確率はいかほどか? 

つまり本当は蘇我氏が大王家であったということである。「宮門」「陵」「王子」などなどの名称が使えたということは、その時代ではそれらの名称を合法的に使えたということであり、蘇我王朝の実在性の証といえる。

もしかりにそれ以前の大王家の血筋が根絶されずに残存していたとしても、合法的な大王家の地位は蘇我氏に移っていたということだ。たとえAなる旧王朝が蘇我王朝に取って代わられ蘇我王朝がさらにこの元のAなる王朝に取って代わられたとしても、継起的には蘇我王朝が合法的に存在していたことになるということである。しかも蘇我王朝に取って代わったのは元の王朝ではなかった。



蘇我王朝が成立したとき、もしその国名を「倭」とは異なるものにしていたならば、蘇我王朝は日本書紀の万世一系論のなかに埋没することはなかったに違いない。たとえばもし武則天が立てた国家の名が「唐」のままだったなら「周」は唐史のなかに埋没してしまったかもしれない。「周」が唐史のなかでその実在性を失わなかったのは、ひとつには「唐」ではなく「周」という国名を名乗ったからでもあろう。

しかしそれぞれ異なる王朝だった北九州の倭や奈良盆地の倭や河内平野の倭のように、蘇我王朝もまた数百年来のこの「倭」を国名として踏襲したことで、のちの日本書紀に万世一系捏造の機会を与え、ついに一豪族と化して、王朝としての実在性を奪われるに至った。

蘇我氏は古くは百済の出自だとされるが、もしそうであれば百済王家の風下にいたことになる。百済武王の子の中大兄皇子なる翹岐が築いた新王朝の流れからすれば、倭国の大王家だった蘇我氏もまた風下に見えた筈で、そうした流れの中で記された日本書紀において、蘇我氏を一豪族化するのは自然な成り行きとなるだろう。

日本書紀が蘇我氏の傲慢な振る舞いを記述するとき、かつて蘇我大王家が日々なしていた数々の行事を、そのまま皇位を無みする証例として利用できるわけである。



それでもまだ蘇我王朝の実在性にどうしても首を傾げてしまうのは、日本書紀の作り出した架空の「皇統一系の天皇家」という強固な幻想のためであろう。かつての皇国史観のなごりの所為(せい)だといっても良い。

一体全体、一般になぜ蘇我氏がずっと一豪族だったと主張しようとするのだろう? 

(1)実力や権力はあっても大王の即位式を経なかったという制度的な非合法性のため? 
(2)馬子や蝦夷や入鹿がみずから大王を名乗らなかったから? 
(3)名実とも立場を失ったとしても依然として旧大王家の者たちが生存し続けていたから? 
(4)蘇我王朝が結局、もとの旧大王家に取って代わられたから? 
(5)日本書紀にそう記されているから?
(6)そう判断できる確かな考古学的証拠があるから?

(6)は存在しないのでおそらく(5)であろうと思われる。しかし(5)は日本書紀が史実を正しく記述している場合にのみ正当性がある。筆者は馬子・蝦夷・入鹿は大王の即位式を経て即位したけれども、日本書紀がその事実を曲げて伝えていないだけなのだと考えている。



そもそも用明天皇の病死直後、馬子は、穴穂部皇子(欽明天皇の皇子)と宅部皇子(宣化天皇の皇子)を殺している。そしてその後、崇峻五年十一月三日、東漢直駒を使って、崇峻天皇を殺している。そのあと即位したのが欽明天皇の第二女とされる推古(炊屋姫=額田部皇女)である。

ふつうどこの国でも王子を二人も殺し大王さえ殺して何の咎めもないなら、これは蘇我馬子による易姓革命、蘇我王朝の成立であろう。しかし日本書紀は神武以来の天孫万世一系を前提としているので、「蘇我氏はどこまでも天皇家周辺の一豪族にすぎない」とせざるをえない。

その結果、出来事全体を神武以来の天皇家史における一重臣の政治騒擾程度に変形してしまい、結局、天孫天皇家に属する推古の即位という姿にしてしまう。

むろん馬子は神武以来の天孫天皇家なるものなど存在しないことを、(先行諸王朝の後裔たちがあちこちにいるなど)現実体験上、知っていた筈だし、中国では易姓革命が何度となく起きていることも知っていて、むしろそれが歴史の普通の姿であることを熟知していたわけである。

馬子にとって先行する王朝を滅ぼして蘇我王朝を打ち立てるのを阻む「天孫神聖不可侵感」などのような心理的障碍など特段どこにも存在しなかった筈である。絶好のチャンスなのにわざわざこの数百年来、存在しなかった女王を擁立してまで、蘇我氏が後ろに引き下がることはない。

それに二人の皇子を殺し天皇さえ殺してもし蘇我王朝を打ち立てなかったならば、自分たち蘇我一族がこの天皇家からいつどのような仕返しを受けるか知れたものではない。したがって蘇我王朝は崇峻天皇を殺したとき樹立されたとみるのが自然であろう。



蘇我馬子・蝦夷・入鹿が大倭王朝の大王だった可能性は大きい。それが断絶したのが乙巳の政変であろう。そのあたりから、のちに天智へと続く一つの王朝の流れが兆し始めたと思われる。

そしてその天智朝が成立すると、そこから(天武を挟んで)持統・文武・元明・元正へと続く女帝の多い流れが、のちに皇極なる女帝を創作し、乙巳の政変後の孝徳に続く斉明を(はじめての即位なのに)重祚とさせ、そのあと天智に続けさせたのではあるまいか? 

つまり古くからの倭は乙巳の政変と孝徳朝へのクーデターで(実質的に)滅び、いわば在日百済としての日本が樹立された。むろん先に架空の皇極を立て後に実際の斉明で重祚させたのは、そこに王朝交代が起きた事実を隠蔽し、持統→天武→天智から神武へと遡る一系化を細工するためであろう。重祚ほど一系化に便利な手立てはない。途切れた切れ目を糊付けできるからである。



日本書紀では「重祚」はこれが唯一で、他に「続日本紀」に孝謙天皇が称徳天皇として重祚しているのがあるのみである。現在まで続く125代の長い天皇家の歴史のなかで「重祚」はこの二度しかない。したがって重祚は異常で不自然な事態だといえよう。皇極/斉明の重祚は王朝交代・王朝断絶の隠れ蓑なのだ。

ちなみに「皇極」の「極」のそもそもの意味は「棟木」である。それは屋根の一番上で左右の屋根を支える中央の水平の木であり、(建物最上部の)右側と左側の屋根をそこでつないでいる

したがって「皇極」とは「天皇をつなぐ棟木」という意味で、いわば「天皇の糊付け」である。そういう意味での「皇極天皇」なのであろう。このように「皇極」という二字には途切れた切れ目をつなぐ重祚の暗示が潜んでいる。「皇極」の「皇」にはむろんすでに触れた(「日本」の皇祖なる天智の母上さま」という意味の)尊号である「皇祖母尊」との絡みもある。

それでは「斉明」の場合はどうか? 「斉明」の「斉」の意味は「整えて等しくする」だから、「斉明」は「整え等しくして明かす」となる。すると「皇極/斉明」で、「天皇を(架空に)つなぎ、整え等しくして(その秘密を)明かす」という意味になる。これは重祚のカラクリの開示的暗示であろう。

そういうわけで、倭の王朝断絶をもたらした乙巳の政変と孝徳朝へのクーデターの主導者である天智は、やはり新王朝を創始した百済系の「天命開別天皇」(「天命でもう一つ別の百済を開いた天皇」あるいは「天命で倭国とは別の百済国を開いた天皇」)なのであろう。

それを天智・天武後に天智系の持統が記紀を編纂したとき(一般唐人や倭人の目から)天智・天武や自らの出自を隠すため、(また神功-応神による三韓支配権の遺産相続のため)、姓氏を消滅させて架空の皇統譜を作り上げ、有力豪族でかつて大王家でもあったことのある門閥を臣や連という姓の臣下となし、神代以来の万世一系の天皇家という姿にしたというのが真相だと思われる。




ところで、蘇我王朝を消去することで実は中国史に対する記述もまた歪められた。「隋」(581~618)という国家の存在が日本書紀からほとんど消え失せたのである。

日本書紀は隋書にある開皇二十年(600)の第一次遣隋使のことには全く触れない。607年(推古15年/大業3年)の小野妹子の第二次遣隋使と翌年の同じ小野妹子の第三次遣隋使と犬上御田鍬などを派遣した614年(推古22年)の最後の遣隋使について触れるのみだ。しかも日本書紀では小野妹子を隋ではなく「大唐」への使者としている。犬上御田鍬についても同様だ。

608年に小野妹子が帰国するときに伴った隋使の裴世清についても、一貫して「大唐客」あるいは「唐客」あるいは「大唐使人」としている。しかも小野妹子が隋の煬帝から託されその後百済人に盗まれて紛失した(とされる)国書についても、「唐帝以書授臣」として、唐帝が授けたものとしている。

(「隋書倭国伝」とその訳文についてはここを参照していただきたい。この参照サイトではそもそもの原文の「多利思北孤」を「多利思比孤」としているが、筆者は原文どおり「多利思北孤」とした。「北孤」(ほこ)でも「比孤」(ひこ)でも今の議論の大筋では特に問題はない)



「隋」について語りながら「唐」と間違えるのは、「江戸時代」について語りながら「明治時代」と間違えることに匹敵する。これはほとんどイギリスとアメリカ、いやソ連とロシアを混同するに等しい。

アカデミズムの世界では概ね「日本書紀は隋と唐を混同した」と考えられているが、よくよく考えてみればその見解はナンセンスだといわざるを得ない。小学生ならこういう混同もありえるだろうが、中学生となると決して混同はありえない。それほど幼稚な混同なのだ。

日本書紀は三度の遣隋使しか言及しないが、(隋書「煬帝紀」を参照すれば)実は隋に五度以上も使節を遣っている。五、六度、使節を派遣しておきながら名前を混同するということなど100パーセントあり得ない。しかも正史においてをや。これは絶対に断言できる。

百歩譲って、隋・唐がどこかの小国だったのならもしかすると混同もあり得るかもしれないが、隋・唐は倭国・日本の運命に決定的な影響を与え続けてきた近隣唯一の世界帝国なのだ。いわば世界の中心国家だったわけである。そうであればこそ遣隋使や遣唐使を派遣したのではなかったのか。にもかかわらず正史を書くほどの者たちが両者を混同するなど、到底ありえる話ではない。

隋が唐の直前国家でなく数百年も昔の国家だったのならいざ知らず、そもそも隋が唐によって亡ぼされたからこそ唐が存在し、日本はその唐と外交関係を築いているのである。そういう建国の事情を知っていなくては、もとより唐との外交もありえない。倭国使節は唐という国家の存在理由や成立根拠の妥当性を慶賀しなくてはならないからである。

それにたとえば日本書紀は詳しく遣使小野妹子や裴世清来日のいきさつを記し、また第三次遣隋使のとき中国(隋)へ派遣した(高向玄理・南淵請安など)学生・学問僧八人の名前まで具体的に記しているが、これらはむろん手元にある史料を参考にして書かれているわけである。でないと個々人の名前まで書けるわけがない。

日本書紀の記述者はそうした史料からも唐でなく隋への使者・学生・学問僧であることを明白に知っていた筈なのに、「このとき唐に遣わされたのは学生だれそれ・・・・・学問僧だれそれ・・・・」というように、それを(隋ではなく)唐へ派遣したとしている。



なぜ日本書紀は開皇二十年の(最初の一番大事な筈の)第一次遣隋使について全く触れようとしないのか? なぜ「隋」という語を全て「唐」という語に置き換えて、隋なる国家があたかも存在しなかったかのように仕組んでいるのか? 

日本書紀では「隋」なる語は一度しか現れてこない。「煬帝」も一度だけである。推古26年(618)八月一日条に、

「高麗遣使貢方物。因以言。煬帝興卅萬衆攻我。返之爲我所破。故貢獻俘虜貞公。普通二人。及鼓吹弩抛石之類十物并土物駱駝一疋。」

(高麗が使いをおくり、土地の産物をたてまつった。そして、『隋の煬帝は、三十万の軍を送ってわが国を攻めました。しかしかえってわが軍のために破られ、今そのとりこ二名、貞公と普通の二人と、鼓吹・弩・石弓の類十種と、国の産物・駱駝一匹とをたてまつります』といった)

とあるのが「隋」「煬帝」両語唯一の例である。これは隋が滅んだ年の出来事の記録で、高句麗使節の言葉の中にやっと存在するに過ぎない。「隋」を全て「唐」と置き換え、隋帝も「唐帝」として記述している日本書紀の圧倒的な流れの中では、この記述も隋なる国家の存在を示すものとはなっていない

なぜならもし意図的に隋を消去しているのであれば、「高句麗使節の言葉の中の一語だけなら隋があったということにはならないだろう」と判断して書き入れたのだし、また仮にこれを、姓が隋で名前が煬帝という者について記しているとして、隋と唐を混同しながら記述したのであれば、記述者の彼らでさえ、それでも結局、隋と唐の混同は避けられないままだったわけである。読者の混同については述べるまでもない。

それにしても「隋」を全て「唐」の字に置き換えて隋を消去しつつも、唯一、その大敗によってついには隋が滅ぶことになった敗北報告記事についてはちゃっかり載せているわけで、徹底して隋を無化しようとする意図がありありと見える。



しかしどちらにせよ日本書紀(推古紀)を書いた者たちは、いわゆる推古時代の一史料のなかの「隋煬帝興卅萬衆攻我・・・・」という記述を参考にしてこの一文を記したのである。

もし(ありそうにないが)隋と唐を日本書紀の記述者や監修者の誰もが一様に混同していたとしても、その一史料を目にしたとき、「あっ、隋なる国家があったのだった! いやー、すっかり忘れていて唐と混同していたよ!」と気づいたことだろう。

正史を書くほどの者たち(多少とも当時の内外の歴史に通じている筈の者たち)が、「隋煬帝興卅萬衆攻我・・・・」という記述を見てもなお隋と唐を混同し続けたということは100パーセントありえない。

「隋」という字の意味や「帝」という言葉の使用法を知らないということはあり得ない。「隋煬帝」という句を見れば、正史を書くほどの者なら誰でも「隋帝国の煬帝だ」とピンと来る。むろん「隋」の字のある隋時代の関係史料は他にもたくさんあって、当然それらにも目を通した筈なのだ。

げんに「隋書」が他の漢籍とともに筆記者たちの傍らにあったことが日本書紀の雄略紀と清寧紀におけるそこからの潤色で判明している。また、大業三年(推古15年 607年)の遣隋使・小野妹子のときの国書にある「日出處天子致書日没處天子無恙」(「隋書」)ついても、推古紀の十六年九月十一日条に「東天皇敬白西皇帝」と記述し直されて言及されている。

この記述し直しが可能なのは筆記者の横に「隋書」があったからである。「天皇」称号は天武以降のもので推古時代にはまだ使われておらず、これは「隋書」内の倭国からの国書にある「日出處天子致書日没處天子」の(天武・持統時代以降における)翻訳なのだ。

「日出處天子」を「東天皇」、「致書」「無恙」を「敬白」、「日没處天子」を「西皇帝」と一字一句たどって(つまり隋書を見ながら)翻訳したわけだ。筆記者の傍らに「隋書」があってそこからの利用もしながら、隋と唐を混同する確率はゼロ。つまり意図的に混同を演じている

そしてそれを悟られまいと、隋書の「日出處天子致書日没處天子」をそのままは引用せずに「東天皇敬白西皇帝」という形で記述した。そのまま引用すれば隋書が傍らにあったことが露見し、推古紀が隋と唐とを意図的に混同していることも露見してしまうからである。

いまでこそ「世界史」の科目でだれもが隋や唐について学ぶが、当時はごくごく限られた少数者たちしか歴史書を手にし得ず、日本書紀を記述した者たちは、少なくとも、「これで、いずれ隋は存在しないことに十分なるだろう」と判断した筈である。



日本書紀が第一次遣隋使について全く触れず、さらに第二次などその他の遣隋使を大唐への遣唐使として記し、隋なる国家を消去している理由は、開皇二十年の第一次遣隋使のときの外交記録が倭国に残っていて、その内容が蘇我王朝を消去する日本書紀の偽史構成に全く不利だったからに他ならない。

第一次遣隋使の外交記録はむろん中国にも残されていて、隋書倭国伝はそれを史料として書かれ、そこにあの「阿毎多利思北孤」のことが記されているわけである。

隋書の開皇二十年条をみれば、倭国王の姓は「阿毎」、名は「多利思北孤」と記されているだけでなく、この王が妻を持ち、600人~700人の女を後宮に有しているという記述もあり、さらにそのときの官僚機構や地勢や風俗なども詳しく記されている。

なかでも大王の姓名や男王であることが、女帝推古紀を捏造する日本書紀の記述にとって大きな弊害となった。しかも隋書の開皇二十年条は蘇我王朝の実在性を指し示すものでもあり、推古を軸とした日本書紀の万世一系の皇統譜構想を崩壊させるものとなる。それで日本書紀は第一次遣隋使のことに全く触れず、しかも隋なる国家の存在さえ消去せざるを得なかった。



小野妹子が倭国に帰国するとき「唐帝」からの国書を紛失したという事件にしても、おそらく後年になって日本書紀がなした捏造だろう。隋の国書を紛失するということは隋を無化するということと等価なのである。

これは隋の煬帝からの国書であったが、結局、小野妹子はその国書紛失の罪を問われなかった。隋など存在してはならないように、(後年の偽史なる推古紀の中でさえ)その国書など紛失してもたいしたことではなかった。

それではなぜ日本書紀は隋を無化しようとしたのだろう? それは「隋が外交関係を結んだのは蘇我王朝だったから」としか言いようがない。もし皇統が一系だったならば、なにも隋を消去しようとする必要など起きない。

つまり倭国で蘇我王朝が滅ぶという王朝交代が起きたからこそ、その後皇統を万世一系化する際に、結果として隋の存在が障害となったのである。隋の存在した時代(581~618)はほぼ推古時代(593~628 実はほぼ蘇我馬子大王時代)と重なるが、蘇我王朝を消すには、それとの外交資料などを保管していた隋もまた消す必要があった。

いや、何よりもその倭国伝に当時の男性倭国王の阿毎多利思北孤のことが書かれている「隋書」の存在を知られないために、隋を消す必要があった。隋がなければ隋書なるものがあるわけもなく、したがって隋書を探す者もいない筈である。38年間しか存在しなかった短命の隋だから、唐初の中に紛れ込ませて消すことも出来ると考えられたのだろう。

日本書紀が蘇我王朝を消去したとき、隋も隋書もほとんど消され、煬帝のこの国書も盗難・紛失・消滅させられたといえよう。この国書の中には、開皇二十年条にある第一次遣隋使のときのような、馬子大王と蘇我王朝の実在を示し、女帝推古の虚構を明かす決定的な文言があったかもしれない。

むろん遣隋使が帰路に国書を紛失したということにすれば、その内容も分からないことにでき、日本書紀はその国書の引用をせずに済むわけである。煬帝の国書が手元にあるとなれば無視できず、正史としてはその内容の紹介は避けられない。むろん隋の存在も明らかになってしまう。

日本書紀は、第一次遣隋使のことに触れず同時にこの国書の内容について頬かむりしている限り安全だと考えたのだろう。筆者は、日本書紀が書かれるとき史料の一部としてこの国書も調べられてその内容が危険であることが改めて分かり、始末・廃棄されたと想像している。

ふつう煬帝の国書の内容が倭国の大王を隋の臣下として扱う内容だったため、それが倭国の大王の怒りを惹起するのではないかと畏れた小野妹子が盗難・紛失を演じたのであろうとされているが、真相はそうではなかったということである。

もし紛失・盗難を演じたのであれば、小野妹子の断罪は避けられなかった。この断罪がなかったということは、この紛失盗難事件そのものが後世の作り話、日本書紀による捏造だったということであろう。




いうまでもなく、中大兄皇子の乙巳政変こそが新しい大王家の実質的な出発点を構成したといえる。のちにその線上で日本書紀も書かれた。日本書紀は蘇我王朝の存在を消去しその三人の大王の本当の名を隠し、それぞれに「馬子」「蝦夷」「入鹿」という蔑称を与えている。

子・蝦夷・入鹿」三代の漢字の一番前の「馬」と一番後の「鹿」をつなげば「馬鹿」になる。これを「蝦夷」とからめて三代の名前の意味を読み取れば、「野蛮で未開の愚かな狼藉者たち」となる。

一説に「馬鹿」という言葉(「バカ」という発音ではない)は「史記」(紀元前91年 司馬遷)に記されている秦末の次の故事に由来するとされている。

「史記」巻八十七李斯列傳第二十七に、

  高自知權重,乃獻鹿,謂之馬。二世問左右:「此乃鹿也?」左右皆曰「馬也」。

とある。すなわち始皇帝の後を継いだ二世皇帝の胡亥に、あるとき実力者の宦官・趙高が群臣の居並ぶ前で鹿を献じて、皇帝に「これは馬です」と言った。皇帝は「これは鹿では?」と反問したが、趙高を恐れ皇帝に鹿を指して「馬です」と言った群臣たちは生き延び、そうでない者たちは滅ぼされたという。

(不条理を暴圧で強いるという)「史記」のこの故事について日本書紀の編纂者たちが知らなかった筈はないから、たとえ「馬鹿」という単語はまだ存在しなくても、「馬」と「鹿」に関するこういう故事の意味で「馬子」「蝦夷」「入鹿」が蘇我三代の蔑称として与えられたに相違ない。門脇禎二氏も蔑称論を唱えている。

たんに「馬鹿」という単語が古来中国にも鎌倉時代中期以前の日本にも存在しないということで蔑称論を否定してはならない。たとえ「馬鹿」という単語がなくても「馬」と「鹿」のこの故事が知られてさえいれば、「馬子」「蝦夷」「入鹿」は蔑称として成立しうる。

事実「馬子」「蝦夷」「入鹿」は単に「馬子」「蝦夷」「入鹿」であって、「馬鹿」という単語が存在することを前提としてそれらが成り立っているというわけではない。



ところで、たとえば古代には、「大伴鯨、土師莵、巨勢猿、倉小屎、鴨蝦夷、粟田飯虫、久米子虫、舎人糠虫」などという名前も見られるから、 「馬子」「蝦夷」「入鹿」が蔑称でないという主張がある。

大伴鯨から舎人糠虫までの名前については、父母が果たしてこのような名前を付けたのか、それとも今で言う何らかの理由のもとに類比あるいは差別された「あだ名」のようなものなのか、分かりかねるが、その中のいくつかについてはさすがに父母がこのような名前を付けたとは考えにくい。

ともあれ、これらの蔑称のような名前が古代に散見されるからといっても、それは主として中堅層以下でのことで、権威と威厳を誇るべき政治支配者の蘇我家の名前が三代にわたって「馬子」「蝦夷」「入鹿」というのは、(「日本書紀」が蘇我氏を憎んでいる以上)、やはり蔑称として付けられたのであろう。

というのも、史記の故事では皇帝や群臣の居並ぶ場に入ってくるのは馬でなく鹿である。「鹿を入れる」。それを「入鹿」と表現しているとすれば、「馬子」「蝦夷」「入鹿」が蔑称だったというほとんど確定的な結論が得られよう。

「鹿を入れる」というのは馬や牛や羊を入れるという状況とは異なり、ふつうはあまりありそうにない状況である。とくに宮廷内についてはそう言える。つまり史記のなかの先の故事を前提にしてこそ生じうる名前である確率が(「確定的だ」と言えるほど)非常に高い。

ただし「馬子」「蝦夷」「入鹿」はそれぞれの本名と、一部、発音が微妙にどこか似ていたかもしれない。漢字表記するときに様々な表記法があるなかで、蔑称化するため多少発音をデフォルメしたものと思われる。とりわけ「馬子」についてはそう言えよう。本名が「ウマコ」にどこか似ていたので、その「ウマコ」の「ウマ」が「馬」として趙高の「馬と鹿」の醜悪な逸話と結びつき、「馬子」になったのだろう。、

こういうわけで、「馬子・蝦夷・入鹿」は、「鹿を入れて・馬と言わせる男は、野蛮で無知な狼藉者である」という意味になる。

ちなみに史記原文の「獻鹿」は「鹿を献じる」だ。ところで「入鹿」の「入」には「納入」の意味もあり、「納入」は「献納」に通じるので、「入鹿」で「献鹿」という意味にもなる。



こうした事情は日本書紀において馬子から入鹿にかけての日本の歴史が極めて歪められている可能性を示している。

たとえば隋使の裴世清が608年に会った大王「阿毎多利思北孤」が蘇我馬子である可能性はきわめて大きい。筆者は「推古舒明皇極」の三代の実体を概ね「馬子蝦夷入鹿」に当てたい。

実は「推古」の中に「馬子」が隠れている。「推」とは「追いやる・押しのける・引いて移る」などの意味だから、「推古」で、「過去に追いやる・昔に押しのける・以前に引いて移る」となる。

ところで「推」は「手偏」に「隹」(とり)としてよい。「隹」は「鳥」→「酉」となる。すると、「推古」の二字で、「酉から過去へ引いて移る」となる。そこでどれほど引いて移るかであるが、手偏が三画なので「三」とすると、「推古」で、「酉から過去へ三つ移る」となる。むろん「酉より三つ古い」でもいい。

十二支(子・丑・寅・卯・辰・巳・・未・申・・戌・亥)において酉から三つ古い過去に移ると「午」になるが、「午」は「馬」と書き換えていい。すると「推古」は「馬」を指す。「推古」の「古」(こ)を今度は「子」(こ)とすれば、「推古」は「馬子」に変換できる。

ここで三画なら手偏でも何でも良いというのではない。というのも「手」はそれによって物を並べて順番を決めるものでもあり、また数詞と結びついて(とくに日本では)順序を示す場合にも使うからである。だから「隹」に手偏を持つ「推」が不可避的に選ばれた。こうして「推」の一字で、「隹」から三手目・三番手・三番目、という意味が構成され、「推古」(手偏・隹・古)で「三つ・酉より・古い」となるわけである。これは一意に決まる。



さて、この場合、意味からいえば「推古」も「推前」も「推昔」も「推舊(旧)」もほぼ同じなので、漢風諡号の撰進者にとって「推古」「推前」「推昔」「推舊」のどれでも良かったのではないかと思われそうだが、それは違う。

「推前」の「前」や「推昔」の「昔」や「推舊」の「舊」は「馬子」の「子」(こ)の発音と違うので、「推古」の「古」(こ)にせざるをえなかったというのが真相だろう。したがって「推古」の実体は「馬子」だということになる。

日本書紀は中国史書に倣って、たとえば「神武天皇元年 辛酉」「神武天皇二年 壬戌」「神武天皇四年 甲子」の年順ばかりでなく、月順や日順も十干十二支で記しているから、こうした解釈は根拠を持っている。

ちなみに「舊」の字の一部をなすという理由で「隹」を「ふるとり」(旧とり)と呼んで「鳥」や「酉」と区別するのは日本だけだが、日本書紀の編纂当時、すでに「ふるとり」という意味で「隹」が区別されていたならば、あるいは漢風諡号の撰進者がこの漢字のそういう組み立てに気づいていて利用したのであれば、「推」の一字だけで「酉より三つ古い」となり、そのまま「午」に変換され、「推古」でちょうど「馬子」となる。

ところで、「雀」の中の「隹」は鳥類としての「とり」であるが、「推」の中の「隹」は鳥類としての「とり」を意味するものでなく、形成字の音符の「隹」(スイ)である。意味としては「追いやる」で、鳥類とは無関係だ。

漢風諡号に使われる漢字には概ね上(美諡)・中(平諡)・下(悪諡)があって、そのどこにも動物を意味するものがない。つまりどれも直接には十二支と繋がらない。だから漢風諡号を「馬子」の暗号として使うために、形成字の音符としてあれこれの意味を別々に持つと同時に(うまいことに)鳥類の「とり」をも意味する「隹」を選び出し、それに三画を加えて「推」としたのだろう。



さらに、隋使・裴世清の会った倭王の「阿毎多利思北孤」が実は「馬子」だったかもしれないことを(いささか強引ではあるが)次の変換で示すことができる。

「阿毎多利思北孤」→「阿毎足鉾」→ ame tarishi hoko / ama tarishi hoko

ここで「足」(tarishi)は(倭風諡号に使われるなど)大王と関係した字と判断して省くとすると、ama tarishi hoko → ama hoko となる。

さて「馬子」=「馬鉾」とすれば、uma ko → uma hoko となる。するとこれは ama hoko に似ている。中間母音の存在した古代の発音ならもっと似ているかもしれない。それに、上記したようにそもそも「馬子」は蔑称であって、本名系は(連想可能な範囲内で)「馬子」( uma ko )に発音が似ていれば、それで良い。

むろん、もし馬子が大王であることを隠したいのであれば、「足」(tarishi )は当然省く筈だから、全体を復元すると、

「馬子」→「馬鉾」→ uma hoko → uma tarishi hoko → ama tarishi hoko / ame tarishi hoko→「阿毎多利思北孤」 → 「阿毎足鉾」→「天足鉾」

となる。したがって馬子の本名は「天足鉾」で、隋使・裴世清の会った倭王「阿毎多利思北孤」は馬子だった、となる。


(注:もし「阿毎多利思北孤」の「北孤」の「北」が「比」の誤記なら、もっと単純に、

「馬子」→「馬彦」→ uma hiko → uma tarishi hiko → ama tarishi hiko / ame tarishi hiko→「阿毎多利思比孤」 → 「阿毎足彦」→「天足彦」

となり、「馬子」の本名は「天足彦」となる。

「彦」(ヒコ)と「姫」(ヒメ)は「ヒ」の部分が「尊」「貴」の意味で、「コ」は男子、「メ」は女子を意味するから、「馬彦」は容易に「馬子」になる。古代では「子」は小野妹子や中臣鎌子など貴人の男性名に使われていた。「子」が貴人の女性名に使われ始めたのは平安時代以降のこと。特に藤原摂関家の女子名(穏子・明子・倫子・詮子・超子・懐子・綏子・妍子・・・・・・)に顕著。漢字一字に「子」を付けて女性名にするのは今の皇室も同じ。)




こうしてみると「馬子」の「馬」( uma )は本来「天」( ame/ama )のことだったのかもしれない。「足」( tarishi )は大王名の共通部分として固有名詞の呼称・通称から外れて良いものだとすれば、「天足鉾」の通常呼称は「天鉾」( ama hoko )となる。

すると「天足鉾」→「天鉾」( ama hoko )→「馬鉾」( uma hoko )→「馬子」( uma ko )となり、これらは全て直接間接に「天子」を意味することになる。これは大業三年(推古15年 607年)の遣隋使・小野妹子のときの「日出處天子致書日没處天子無恙」(隋書)にある「日出處天子」の「天子」とつながる。

「日出處天子致書日没處天子」、これはつまり「東の天が西の天に書を致す」ということ、つまり自分はそもそも姓が「天」(あめ)なので「天氏」であり、「孫子」「孔子」「老子」「墨子」などの中国的な表現を使うと「天子」ともいえるので、そういう東の「天子」が西の「天子」に書を到すという意味を含むものに違いない。

となると、蘇我氏の本来の姓氏は ─ これはあるいは蘇我王朝を開いた馬子による改姓かもしれないが ─ 「天」( ame )であって、「蘇我」の方はもとは馬子の出身地名に由来するものかもしれない。

かつては葛城県蘇我里(現在の奈良県橿原市曽我町の近辺)という地名があり、一説には馬子はそこを本居地(ウブスナ)にしていたという。だから「蘇我の地の天氏」→「蘇我の天氏」が本来の呼称だった可能性がある。日本書紀はそこから「天」を省いて「蘇我」としたのかもしれない。

ちなみに隋書の「日出處天子致書日没處天子無恙」は推古紀十六年九月十一日条で「東天皇敬白西皇帝」と翻訳されて記述されている。すなわち「日出處天子」を「東天皇」、「致書」「無恙」を「敬白」、「日没處天子」を「西皇帝」と、一字一句意訳した。そうすることで日本書記は「天子」として東西に並ぶという馬子(阿毎多利思北孤)大王の気概を知らぬ素振りで放り捨てた。

これは日本書紀編纂時代の唐と日本との上下関係を反映したもので、日本書記が「隋」など存在しなかったとしたから、「隋」と「倭」のかつての関係が日本書紀編纂当時の「唐」と「日本」との関係になってしまっているわけである。



さて、「」の「」が「天鉾」の「天」だとすると、「」は「鉾」→「北孤」に対応するが、実は「北孤」が「子」(こ)を指し示していると言える場合がある。「北」は十二支で見ると「子」(ねずみの「ね」)だが、これを「ね」でなく「こ」と読むべきことを「北孤」の「孤」(こ)が示していると解釈する場合である。そうすると「北孤」で「子」(こ)を指し示しているという結果になる。

むろんこれは「たまたま」そうなっているわけだが、日本書紀において蘇我大王の「天鉾」を一豪族の「馬子」に変えた者は、隋書にある(たぶん倭国側が隋側に示した)「阿毎多利思北孤」という古(いにしえ)の表記法を知っていて、そこの「阿毎」を「天」でなく「馬」とし、「北孤」を「鉾」でなく(上記のような「北孤」のたまたまのあり方を発見・利用して)「子」(こ)とし、「阿毎北孤」( ame hoko / ama hoko )を(姓も名もごっちゃにして)「馬子」( uma ko )に変えたということである。

こうして日本書紀はその「推古」という漢風諡号によって推古が馬子であることを一意に明示し、また同時に信頼可能な外国の正史である隋書もまた推古時代の倭王「阿毎多利思北孤」によって、推古が馬子であることを強く指し示している。

内外の正史が互いに共鳴・補強しあうことで、ここに「推古=馬子」が実証できたと言えよう。これで「隋書」開皇二十年条にある倭王「阿毎多利思北孤」が妻を持ち後宮に数百の女を有するというのもうなずける。

すると蘇我王朝が実在し、蝦夷と入鹿の時代に、住居が「宮門」で、墓が「陵」で、子どもたちが「王子」で、あれこれの行動や行事が大王のそれで、しかもそういう状況がいわば常態化していたというのもまた肯けるわけである。

また、蘇我王朝三代が持っていた筈の大王家系固有の名称を隠すためにそれぞれを偽名で表す必要があった際、史記の故事の趙高をもじって、「鹿を入れて・馬と言わせる男は・無知で野蛮な狼藉者である」という意味で、それぞれの名を「馬子・蝦夷・入鹿」として蔑称化し、そのことで同時に蘇我氏が大王家でなく趙高と同じ臣下の立場だったということも主張しているのである。



さて、それでは日本書紀はなぜ男性大王の馬子の代わりに女帝の「推古」を置いたのか? それは一つにはおそらく皇極/斉明と重祚するその皇極が日本における女帝の最初であっては、その不自然さが際立つからであろう。

そこから重祚のトリックが露見する恐れがあるわけである。それで皇極/斉明の前に「推古」なる女帝を即位させておいて、女帝が続く状況を自然化しようとしたと思われる。

女帝を置いた二つ目の理由は、女帝の実体が男性の大王だと、そこに意外性が生まれ、想像力がそこまで及ばず、正体が掴み難くなるからであろう。

すでに言及したが、たぶん日本書紀が完成する720年までに持統・元明・元正と女帝の続いたことが、皇極/斉明の重祚や女帝・推古の即位という発想を生み出したと思われる。むろん日本書紀の編纂理念を体現する女帝持統の立場が最も反映されている。

しかし女帝を置いた最大の理由は馬子大王の時代に男性大王を置くと否応なく馬子大王を彷彿させてしまうからであろう。馬子大王時代は仏教国教化の偉大な時代であり、その時代を担うことにするには女帝推古だけでは全く物足りない。そこで架空の大聖大徳大賢なる聖徳太子が摂政としてどうしても必要になった。

つまり聖徳太子は男性であっても摂政なので馬子大王を彷彿させないし、女帝の推古は女性であるから馬子大王を彷彿させない。そういうわけで持統はセットで女性大王の推古と男性摂政の聖徳太子が必要だった。これはつまり推古も聖徳太子も馬子の分体であるということで、ここから馬子大王がどれほど偉大だったか想像できる。



さて「舒明」(629~641)については一部に百済の武王(600~641)だとし、この時代を百済武王による百済・倭国共同統治時代とする説がある。しかし武王が百済と倭国を同時に統治したというのにはさすがに無理があろう。

これは日本書紀が入鹿時代を架空の皇極にあてたことによって生じた一種の相似現象である。架空の皇極を立てたとき、その夫を先帝の舒明天皇として蝦夷大王の時代を埋めたため、偽史操作上、斉明の事実上の夫である百済武王が、架空の舒明にあてられる形になっただけである。

そういうわけで(とくに)皇極の即位と関連して舒明の没年と武王の没年は一致しなくてはならなくなる。またすでに述べたが、舒明天皇は百済川のほとりを宮の地とし、そこに百済宮を作り、また百済大寺もつくりはじめ、百済宮で死に、その宮の北に殯宮を設けて「百済の大殯」と呼んでいる、というような記述が舒明紀に生まれることになる。

しかしこれは偽史上の文書操作であって、なにも舒明が事実存在して、それが史実として百済武王だというのではない。舒明も架空なのである。

ところで「舒明」の「舒」は「ゆっくり伸ばす・伸ばし広げる」である。ここで「舒明」の「明」を「明らか」および「斉明」の「明」だとすると、「明」は「皇極」でもあるので、「舒明天皇」で、「明らかに斉明/皇極から伸ばし広げた天皇」となる。



第7章  聖徳太子 



蘇我王朝が実在したとなれば推古・舒明・皇極は全くの架空人物で、それぞれの紀に記された歴史記述は、聖徳太子に関するものも含めて、全て(事実関係を巧妙に歪めた)単なる歴史小説となる。

筆者は聖徳太子は実在せず、馬子を核とした「馬子・蝦夷・入鹿」三代の別体だと考えている。つまり(十七条憲法の制定など史実でないものは論議するまでもないが)、史実に関しては、馬子などが行ったことを聖徳太子という別人が行ったことにしたと想像している。

核となっている馬子と聖徳太子とのつながりについては、たとえば聖徳太子の幼名は「厩戸皇子」(うまやどのみこ)だが、(日本書紀の駆使する「馬子」「蝦夷」「入鹿」のやり方で解釈すると)、「厩戸」の中に「馬」があり、「皇子」の中に「子」があって、「厩戸皇子」という名前の中に「馬子」という名が(最初と最後の語として)潜んでいる。一説によれば、馬子の家で生まれたので「厩戸皇子」という名が付けられたとするが、それも馬子と聖徳太子との同質関係を暗示している。

日本書紀では馬子と太子との並行記事が多い。まず活動期がほぼ重なり、死期も太子の死後五年ほどで馬子が死ぬ。廃仏・崇仏を賭けた物部守屋との戦争のとき、それぞれ願掛けして、勝たしてくれれば寺塔を建立すると誓うのも平行し、その結果、太子の四天王寺と馬子の法興寺(飛鳥寺)の建設も並行して行われる。

仏教を守護・発展させる立場や摂政皇太子と大臣という政治のトップ機能も重複している。「皇太子と大臣は、百寮を率いて神祇を祀り拝された」(推古十五年二月十五日条)も平行し、太子と馬子が相議って天皇記・国記・本記を記録する(推古二十八年条)というのも平行記事だ。

そしてどういうわけか(直前まで頻出しながらも)隋使の裴世清が来日するや否や「皇太子」と「大臣」(馬子)の名が共に(突然)消えてしまうのも平行している。こうしてみると聖徳太子は馬子の影のようにも見える。

おそらく「聖徳太子」なるものは(ずっとのちに「昌泰の変(901)」で左遷した菅原道真を天神としたように)乙巳政変で無残に滅ぼした蘇我氏の怨念・怨霊を祓うために日本書紀が作り上げた架空の聖者であろう。

むろん殺された入鹿や蝦夷だけでなく、排仏主義者の物部守屋と戦って仏教を日本に根付かせた馬子を核にしてこそ(仏教の観点から見れば)蘇我三代が聖徳太子の別体たる聖者にふさわしいわけである。



「怨念・怨霊を祓う」という観念の生まれるのは(菅原道真の場合のように)その怨念・怨霊によると思われる青天の霹靂のような不幸な出来事があったからであろう。それはおそらく唐と新羅の連合軍による母国百済の滅亡や持統のただ一人の子の草壁皇子の夭折だったのではないか。

「在日百済を創建するために蝦夷と入鹿を殺して(馬子を太祖とする)蘇我王朝と蘇我氏を滅ぼし倭国を滅亡させた報いが、母国百済滅亡であったのかもしれない」と女帝斉明が女性らしく怯えたとき、息子の天智、とりわけこうした迷信に動じやすい孫娘の持統の心の中に、怨念・怨霊を除去して在日百済なる新生日本を守ってくれる「聖徳太子」という架空の人物が生み出されたのかも知れない。

とりわけ草壁を唯一の子としその子の軽皇子を唯一の男孫とする持統にとっては、「皇統を継ぐべき草壁皇子の死は蘇我氏を滅ぼした報いであって、病弱な自分の家系もその祟りで滅びるのではないか」という気持ちとなって表れたことだろう。

持統は(おそらく「大雲経」なる偽経を創作し「弥勒菩薩の生まれ変わり」と称して全国に大雲経寺を建造して拝ませたり、「聖神皇帝」を名乗った武則天にならって)みずからを女神のアマテラスに擬し、それを伊勢神宮などで祭らせた。同じように持統は怨念・怨霊の蘇我三代を(馬子を通して)架空の聖徳太子に擬し、日本書紀などに日本の釈迦のような存在として描き祀り、聖徳太子崇拝の礎を築いたのではないか。

釈迦は誕生するやすぐに七歩歩き、右手で天を、左手で地を指して、「天上天下唯我独尊」と言ったとされているが、おそらく(中国的な聖人思想を念頭に置きながら同時に)この伝承にも基づいたのだろう、聖徳太子についても推古紀に、「太子は生まれて程なくものを言われたといい、聖人のような知恵をお持ちであった」とあり、ここから日本書紀が大聖・大徳・大賢としての聖徳太子に(中国的聖天子像だけでなく)日本の釈迦像をも期待していることが分かるだろう。



日本書紀では、仏教のための聖戦ともいうべき物部守屋との戦争を除けば、太子はいかなる争いにも関わらない。政治の全権を委ねられた摂政だというのに、派兵の決定や一般政務はほとんど推古天皇が処理している。

太子は、十七条憲法の作成・発表や天皇記・国記・本記の記録を除けば、(二、三の例外はあるけれども)、四天王寺を建てるとか、秦河勝に仏像を祀らせるとか、仏の祀りのためのあれこれの祭具を製作するとか、天皇に鬘鬘経や法華経を講じるとか、こういった仏教の守護や発展のための些細なあれこれの事柄に関わるのみだ。

せっかく政治の全権を委ねられたのに、いわゆる政治の「汚い」仕事には関与しない。しかも聖性・徳性・賢性についてはいろいろと露骨に開陳されている。これは実在人物の行動記録というより、理想人物の構築作業に近い。つまり日本書紀は厩戸皇子に関しては(事実よりも)理想像を描こうとしている。一体なぜだろう?



こういう記述姿勢は「神」や「天」の一字を漢風諡号に与えられた神武/崇神、神功/応神、天智・天武に対してさえも見られない。日本書紀の編纂目的と関係する天智・天武・(むろん持統/神功)にもない、というのが大きい。それほど大きな比重がここにかけられている。

もともと正史としての日本書紀なので一応誰に対しても(形式的には・体裁上は)その人の「事実の記述」という原則が貫徹している。しかしただ太子だけは唯一の例外として「事実の記述」でなく、「価値の宣伝」となっている。太子は日本書紀で唯一特異で特別な人物なのだ。

これは実は架空の「聖徳太子」を描出し大聖・大徳・大賢として祀り上げることが、日本書紀の大きな編纂目的の一つであることを示していると言えよう。

なぜ日本書紀は唯一の例外としてそのような上宮厩戸豊聡耳皇子なる人物を描き出さなくてはならないのか? 彼はなぜ推古や馬子と同時代の人物でなくてはならないのだろう? 

その理由は一つには(上記のように)おそらく「蘇我王朝三代によってかけられたかもしれない」と危惧された在日百済に対する怨念・怨霊の祓いであろう。日本書紀(すなわち持統)はそれによって在日百済としての新生日本の護持・発展および草壁→軽(文武)系王朝の永遠の継続を望み、祈願した。日本書紀そのものがいわばお祓いの祭祀書なのだ。

もう一つは、架空の女帝である推古を実在した大王だと欺くためである。というのも大聖・大徳・大賢なる人物が摂政として仕えた人物が架空であったり虚偽であったりする筈がないという効果が望めるからである。日本人が聖徳太子を崇める限り、推古の実在性は疑われない。

そのことによって蘇我王朝を無化する。大聖・大徳・大賢なる人物が蘇我王朝を無化する効果は大きい。「推古天皇に摂政として仕えた聖徳太子の時代に蘇我王朝が存在した筈はない」と思わせることができる。むろん聖徳太子信仰がそれを強く支える。

またすでに言及したように、倭国を仏教化する偉大な事業は馬子だけに業績があるのではなく、その半分は大聖大徳大賢なる聖徳太子にあるとして馬子の偉大性を半減させる役割がさらなる理由の一つである。

理由にはもう一つある。大聖・大徳・大賢なる聖徳太子の子孫(山背大兄皇子)を根絶した蘇我氏を悪玉とし、その悪玉を滅ぼした乙巳政変を善とし、乙巳政変後の天智・天武系王朝を正当化し強化する。ここでは聖徳太子よりもその子孫の方に意味がある。

そしていずれこうして生まれた架空の仏教的聖者像が仏教国家としての日本の誇り高い理想となり、カピラヴァスツ国の同じく王子だった大聖・大徳・大賢なる釈迦の生まれ変わりとして日本人の精神構造の中に深く沈潜してゆく。

こうして日本書紀は馬子を核とする「馬子・蝦夷・入鹿」の(いわば招魂体としての)別体を聖者化して聖徳太子とし、蘇我氏三代の供養としたと考えられる。そもそも聖徳太子の聖性や徳性や才の非凡さは、その架空性の証なのである。



日本書紀において聖徳太子の聖性・徳性・才の非凡さを示している記事は崇峻紀と推古紀にあり、崇峻紀では仏教受容をめぐる蘇我・物部戦争、推古紀では十七条憲法・餓死聖者の死体消滅の話・太子の死の知らせに接して高句麗の地でなしたという慧慈の言葉である。

崇峻紀の蘇我・物部戦争の話は森博達氏によれば、三宅臣藤麻呂が書記編纂最終段階で(714年以降)、 α 群に対する様々な加筆を行うときに挿入したもので、「厩戸皇子の聖人化を企図したものである。」(「日本書紀成立の真実」58頁)

推古紀の十七条憲法が太子時代のものでないことはすでに触れたようにほぼ定説。また(誰が高句麗にいる慧慈の言った言葉を聞いて記録したのか)明らかに十七条憲法と呼応している内容の慧慈の言葉も根拠にはならない。死体の失せた餓死聖者の話については、その超自然的内容からみて捏造記事であることは明白。こうして聖徳太子の聖性・徳性・才の非凡さを示す三つの大きな記事の全てが無根拠であることが判明する。

この他には、推古元年夏四月十日条に簡単にまとめられた太子像があるが、通常は(一部上記した)この記述が太子の聖性・徳性・才の非凡さの例として持ち出されることが多い。

そこには、禁中の厩戸にあたって難なく安産し・生まれてまもなくものを言い・聖人のような知恵をもち・成人後は一度に十人の訴えを聞いて誤りなく・予見力もあった、などと記されている。これらは全て「厩戸豊聡耳」(ウマヤトノトヨトミミ)という名称の由来説明である。むろんこれらの史実性は確定しようがない。



聖徳太子の実在性については大山誠一氏などが否定しているが、法隆寺関連の太子の実在性の証拠とされるもの(法隆寺釈迦三尊像光背銘文・法隆寺金堂薬師像光背銘・法隆寺釈迦三尊像台座内墨書)は、天智九年夏四月三十日条に、「暁に法隆寺に出火があった。一舎も残らず焼けた」とあり、最近の年輪年代測定法によって法隆寺が再建されたことが結果として立証されたため、これらは全て後世の捏造として無視して良いだろう。たとえ無事に焼け残ったとしても、これらの銘文などについては追刻説も存在している。

これは太子の実在性について他にも多くの捏造工作があることを示している。捏造はむろん時代に合わせて擬古的に行われる可能性が大きいので、文章や物品の時代様式をまともに信じてしまうと、判断を大きく狂わせられることになる。とくに持統称制年(686)以降は要注意である。

「中宮寺天寿国繍帳」についてはそこに天武以後に使われた「天皇」の二字があるだけでなく、時代からみて本来「元嘉暦」であるはずが持統朝以後の「儀鳳暦」を使っていて暦法も時代に合わず、これも証拠にはならない。

ところで「繍帳」には推古時代に使われた古韓音系の表記があるということで聖徳太子時代のものだと主張する意見もある。たとえば「等已弥居加斯支移比弥」である。これは「豊御食炊屋姫」(推古天皇)に対する古韓音系の万葉仮名表記であり「トヨミケカシキヤヒメ」と読む。しかし「天皇」の二字や儀鳳暦のことはどうしようもないので、むしろ逆にこの古韓音系表記は、「繍帳」が擬古文を使って捏造されたことを証明している。

また道後湯岡碑銘文・播磨風土記(713~717)にある生石神社石宝殿関連記述・記紀よりも古い伝承を含むとされる平安末期の「上宮聖徳法王帝説」の巻頭系図や記述・『上宮記』・「聖徳皇」の三字を記す法起寺塔露盤銘(706年作)に関する記述などなど、聖徳太子の実在性の証拠とされているものも、それぞれに反論があって、それらがどれほどの証拠能力を持つかは依然として問題であり続けている。

聖徳太子の著作とされる三経義疏(『法華義疏』(伝615年)・『勝鬘経義疏』(伝611年)・『維摩経義疏』(伝613年))についても同様である。とくに『勝鬘経義疏』は敦煌出土の『勝鬘義疏本義』と七割がたが同内容で、『法華義疏』は江南の成実論師である法雲の『法華義記』と多くが同内容、『維摩経義疏』は種本が未発見。

そこで三経義疏は従来6世紀後半の(「隋」建国前の)中国北朝あるいは南朝で作られたものと見られていたが、その後、三経義疏に共通して多くの倭習(古韓音による)のあることが発見された。

つまり三経義疏は中国人の手になるものではない。三経義疏は注釈書としては素朴で素人くさく中国の一流クラスのものには及ばないものらしい。駒澤大学仏教学部の石井公介氏によれば、言えるのは、中国人の手になるものではないということだけで、

「三経義疏は朝鮮成立なのか、朝鮮渡来僧が日本で書いたのか、聖徳太子がそれに少しだけ自分の意見を加えたのか、聖徳太子が自分で書いたのか、別な日本人(たち)が書いたのか、といった問題」が、別の話として残っている、とする。



ところで聖徳太子の幼い時代は仏教伝来初期段階で、寺院らしきものも極めて少なく、仏教の伝統や広がりもない時代。しかしそういう幼い時から仏教教育や漢文教育を受けていなくては「三経義疏」のような注釈書は書けない。

仏教の師は高句麗から来た慧慈、儒教の師は覚哿で、どちらも中国人でない。のちの在唐経験者でさえ倭習(漢文の誤用・奇用)のないしっかりした漢文を書くのが難しかったのに、高句麗人から仏教や儒教を学んで果たして漢文能力が「三経義疏」の水準に達することができるだろうか? 

漢文能力が低ければむろん仏典の理解度も高まらない。しかも読むのと書くのとでは大違いである。「三経義疏」を著すにはしっかりした漢文を書かねばならない。

しかも聖徳太子は19歳で推古天皇の摂政として国政の全てを任せられている。摂政を勤めながら、一流の仏教学者が終生多数の漢文仏典をあれこれ研究してやっと書ける漢文注釈書の著述能力を、いつどのように獲得したのか? 聖徳太子が「三経義疏」を書いたとするのは奇跡や超常現象を信じるに等しく、これはのちの聖徳太子信仰の所産であろう。

本稿では聖徳太子は虚構と見なしているので、三経義疏が朝鮮成立でなければ、朝鮮渡来僧が日本で書いたか、別な日本人(たち)が書いたかであろう、とせざるを得ない。近年発見の百済の金石文の句と三経義疏の類似性が指摘されているので、三経義疏が百済で成立したものである可能性も浮上してきた。

2009年1月に韓国国宝第11号である韓国全羅北道益山の弥勒寺址石塔の一層目の心柱内で多くの舎利荘厳具が発見されたが、そのうちの金板の「舎利奉安記」(193字)中に「上弘正法、下化蒼生」という表現があり、この「上弘~、下化蒼生」という表現は現存文献では三経義疏の『維摩経義疏』にしか(具体的には「上弘仏道 下化蒼生」として三度)見られない。

これは瀬間正之氏によれば法雲の『法華義記』内の記述に基づくものらしく、そこから、江南の成実論師の法雲→百済→三経義疏の流れが浮かび上がってきた。



ところでおおむね大山誠一氏は藤原不比等が日本書紀において、

(1)聖徳太子なる儒仏道の中国的聖天子が100年も前の日本に既にいたことにして、
   外には唐や新羅にその頃からの中国的な律令国家であることを示し、また内には
   皇太子や天皇および臣民に対して模範的な日本的皇帝像としての天皇像を示し、
(2)同時にあれもこれも馬子と太子の共同作業だったとして、この架空の聖徳太子に
   蘇我馬子の功績の半分を転移して、蘇我氏の果たした功績の比重を軽くし、
(3)ひいては蘇我王朝を無化して、乙巳政変を天皇家による悪なる豪族蘇我氏に対する処断となし、
   持統天皇の願う草壁王朝、結局は不比等の娘の子で自身の孫でもある首皇太子(聖武天皇)の
   ための天孫万世一系を構築した

とする。

しかし(1)については、中国的聖天子はあくまでも天子(皇帝)のことでなくてはならず、皇太子のままで死んだ聖徳太子とはすっきりつながらない。聖天子が必要なら、(たとえ不比等が「持統天皇と草壁皇太子・持統天皇と軽皇太子・元明天皇と首皇太子・元正天皇と首皇太子」など、次々に続く「女性天皇とその皇太子」という時代のなかで生きたとしても)、大山氏が架空とした推古天皇と一体化させて厩戸皇子を「聖徳天皇」(男性)として描くべきだった。この「女性天皇とその皇太子」の「皇太子」はのちに天皇に即位しなくてはならない筈の「皇太子」なので、ついに即位できなかった聖徳太子とイメージをダブらせることは適当でないと思われる。

(2)についてはおおむね大山説で良いと思われる。聖徳太子は蘇我馬子の功績の半ばを移し変えるためにも設定された。日本書紀が推古時代(蘇我馬子の存命時代)に聖徳太子を配置したのは、女帝の推古だけではこの仏教国教化の偉大な時代を担わせることができず、どうしてもセットとして大聖大徳大賢なる人物が必要だったから。つまり馬子の業績は推古と聖徳太子と馬子に三分された。推古も太子も馬子を減価させ蘇我王朝を無化するための架空の存在である。

(3)については、首皇太子(聖武天皇)は不比等の生前に即位しておらず、皇太子を天皇の系譜で神代まで万世一系化するのは少し飛躍している。それに架空であることを誰もが知っている万世一系化で、同時代の首皇太子がどれほど権威を受け得るのか甚だ疑問。たとえ万世一系化できないとしても、むしろ蘇我王朝を実在とする方が、それを打倒した今の王朝の優秀さをより際立たせることができる。つまり蘇我王朝を無化して万世一系化するには、大山説とは別の理由がなくてはならない。

筆者は、在日百済としての日本国家の護持祈願や草壁系王朝(持統唯一の血筋)の永久永続の願い、推古天皇の実在化で蘇我王朝を無化して得られる万世一系のなかに百済性を隠すなどの歴史偽造目的で、大聖・大徳・大賢なる聖徳太子が捏造されたと考えている。そこには国家の安寧や万世一系の成否も掛かっているので、これなら捏造の巨大さも納得できる。

そのため遅くとも持統称制時(686)からさまざまな偽作捏造行為が始められていると見ている。少なくとも数十年に及ぶ「日本書紀」編纂と同時進行的にそうした偽作捏造行為がさまざまに行われた筈である。大山氏は聖徳太子の捏造を、16年間の唐留学後718年に帰国した道慈の手によって、つまり日本書紀編纂最終段階の1~2年間でなされたとするが、筆者は太子捏造を持統称制時以来のさまざまな捏造のなかの一つとみている。



ちなみに、大化元年八月八日条には、孝徳天皇が「大寺」(おそらく飛鳥寺か百済大寺)に使いを派遣して僧尼に対して述べる言葉が(遣使於大寺喚聚僧尼而詔曰・・・として)掲載されているが、そこには百済聖明王による倭国への仏教伝来と仏教を倭国に根付かせるための蘇我氏代々の働き、とりわけ「ほとんど滅びそうになっていた仏教」(此典幾亡)を救った馬子の大いなる貢献が述べられ、ついで孝徳朝におけるこれからの仏教政策があれこれ開陳されている。

前半分は「日本仏教略史」ともいうべき記述なのに、ところがどういうわけかそこに厩戸皇子(聖徳太子)の名が全く出てこない。もし聖徳太子が実在したならば、「馬子と厩戸皇子こそ仏教を救い出した」として、馬子だけのこういう記述にはならない筈である。

たしかに上の「大寺」が飛鳥寺だったなら、「これは馬子の建てた寺だから四天王寺を建てた聖徳太子について言及する必要がない」とも言えよう。とはいえ(日本仏教略史やこれからの仏教政策という)一寺院を超えた仏教のことが述べられている以上、そう言うにはやはりどこか無理がある。

それでは大化四年二月条にある四天王寺の記述については、当然のことながら聖徳太子のことが少しでも触れられていてしかるべきなのに、「阿部大臣が四衆を四天王寺に招き、仏像四躯を迎えて塔の内に納めた。・・・・」とあるだけで、そこにも太子の名はない。

日本書紀は一方では厩戸皇子(聖徳太子)を描きながらも、他方ではあたかも嘘のメッキが剥がれたかのように取りこぼしている。

日本書紀は現在のように何万部も印刷できて誰もが手にして読める時代のものではない。そのうえ漢文が読める者も圧倒的に少なく、日本書紀完成後すぐにその講義があったとはいえ、結局、偽史の押し付け講義にすぎなかった。しかもその内容はほんの初歩的なもので、多くは漢字の発音や意味に費やされたにすぎず、大抵のところ記述内容にまで踏み込んだものとはならなかった。それにまた一般にはこの書物に接近できる立場の者も限られていて、いわば「内輪で」偽史の固定化がいくらでもできる環境だった。

筆者は持統朝以後、日本書紀編纂と同時並行的に聖徳太子捏造のための様々な擬古的細工があちらこちらに施されてきたと見ているが、日本書紀編纂時から百年も前の架空人物なら、決心さえすればそれらの細工に合わせて比較的容易にいくらでも捏造ができただろう。

「厩戸皇子」なる百年前の人物なら生前に直接見聞できた人間もいないわけであり、またその時代の事情がどうだったのかしっかり知っている者も少なかった筈。知っている者たちがいても完全に歴史捏造現場の蚊帳の外だった。




架空人物の聖徳太子なるものが日本書紀において一旦作り上げられると、聖徳太子はさまざまに実在性が加工されてその後の日本の歴史に大きな影響を与えていく。しかし(蘇我馬子さえ存在していれば)、太子の時代から太子を取り除いても太子の時代がそれほど大きな影響を受けるわけでもない。言ってみれば聖徳太子は実在しなくても当時の歴史としてはほとんど問題ないわけである。

斑鳩宮における何某という存在も、もし蘇我王朝が実在しているとなれば、おのずと蘇我王朝系の者だということになろう。もしかすると(筆者も数度訪れた)斑鳩は大阪平野と奈良盆地間の要路を押さえる馬子の別邸がある地だったのかもしれない。

都の明日香の小墾田宮や豊浦宮と斑鳩の里は直線距離でほぼ15キロ、実際の道のりはその1.5倍はあるだろう。日本書紀で「東宮」とも表記される皇太子の住居が天皇のいる都からこれだけ離れているのもかなり不思議と言う他ないが、これで果たして推古から「国政の全てを任せられた」(以萬機悉委焉)摂政という国家の最高職が勤まるのだろうか? 

推古元年に皇太子となり同時に摂政となった厩戸皇子は、推古9年に斑鳩宮を建て、推古13年にそこに移り、推古29年にそこで死ぬが、摂政である者がなぜそのような遠いところに住居を築いたのだろう? そもそも「東宮」というのは中心に皇帝や王のいる宮殿複合体の東の宮殿という意味なのだ。東宮は隋唐の長安城では太極殿の東に隣接している。

さて、大聖・大徳・大賢なるいわゆる「聖徳太子」が実在しなかったことはいまや多くの学者の支持するところであるが、それでもなお「これらのあらぬ輝かしい装飾を受けた厩戸皇子その人は斑鳩の里に実在した」として、なにほどか聖徳太子の実在性に固執しようとする人々がいる。しかしそれは無意味な努力としか言いようがない。

たとえばここにAという名の猟師がいて、ある者がその猟師をBという名の農民として描いたとする。するとたとえBがAの改名だとしても猟師と農民とは異なるので真の改名とはならず、端的に「Bは実在しない」ということになるだろう。言い換えれば、「厩戸皇子」という名の猟師をある者が「聖徳太子」という名の農民として描いたなら、「聖徳太子」は「厩戸皇子」の真の改名とはならず、聖徳太子は端的に実在しないことになるわけである。これとほぼ同じことが厩戸皇子と聖徳太子との間で起きている。

それに、百歩譲って、いわゆる非凡でないそうしたそこそこの人物が斑鳩にいたとして、それではなぜ彼が日本書紀という正史においてこれほどの大聖・大徳・大賢とされたのかが大きな謎となる。なぜ日本書紀は、わざわざ歴史を大きく偽ってまで、超例外的に、凡庸な彼を大聖・大徳・大賢化したのだろう? その避けようのない必然的な理由は何か?



ところで蘇我三代の聖者化と「馬子・蝦夷・入鹿」の蔑称化は矛盾する。しかし歴史としては蘇我王朝を裁き無化(蔑称化)して神武以来の架空の天皇家の一系化をはからざるを得ず、他方、怨念・怨霊除去の崇拝対象としては(蘇我三代そのものでなくかれらを招魂した)その別体を聖者化せざるを得ず、それぞれ必要性に駆られてこのように次元を区別し両者を均衡させたと見ることができる。

さて、もし聖徳太子が実在しないとなれば、当然のことながら聖徳太子の外交姿勢だとされている大業三年(推古15年 607年)の遣隋使・小野妹子のときの国書にある「日出處天子致書日没處天子無恙」(「隋書」)も、馬子の外交理念だったということになる。この事情は推古紀の十六年九月十一日条に「東天皇敬白西皇帝」として言及されている。

むろん「天皇」という称号は天武以後のものだから、「天皇」は日本書紀の編纂時に「日出處天子」の代わりに置き換えたものである。日本書紀が隋書にある自称の「天子」をわざわざ「天皇」という語に置き換えたのは、国書の中のその「天子」が(前節で示したように「馬」の実体が「天」であるため)否応なく「馬子」を連想させるからかもしれない。

飛鳥時代の蘇我王朝は「大倭」を国号とした。「大倭」は「大いなる倭」という意味である。これはいわば「大唐」「大周」と同じで、実は漢字一字の「倭」でもある。おそらく蘇我王朝は国号の「大倭」を、伝統的に漢字一字で表現する中国帝国の国号とほぼ同等なものと自負していただろう。「日本」という本質上漢字二字の国名では中国帝国の册封国家並みになってしまうからである。その自負が「日出處天子致書日没處天子無恙」という表現になった。

したがって蘇我氏の倭国には「旧唐書」にあるような、「或はいう。倭国自ら其の名の雅ならざるを悪み,改めて日本となすと」(或曰 倭國自惡其名不雅改爲日本)という感覚はなかった筈である。「旧唐書」のこの句のそもそもの本意は、「倭国は蘇我王朝の国家名でもあった古来の『倭』を嫌い、百済の移転先の『日本』(日の出るところ)に改名した」ということであろう。それを隠し、唐に対しては「倭」という字自体に理由があるかのように説明したということだ。



さて今やなぜ架空の聖徳太子が「皇太子」であり同時に「摂政」でなくてはならなかったのかが解ける。もし聖徳太子が蘇我王朝の大王だった蘇我三代の別体であるとすれば、聖徳太子と蘇我三代の立場は可能な限り近似していなくてはならない。

「皇太子」は大王に次ぐ大王家の者として、大王に最も近似する立場であり、「摂政」は大王の持つ政治権限の全的な執行者として、やはり大王に最も近似する立場である。

つまり大王に最も近似するのが「皇太子」で同時に「摂政」という立場なのだ。だから蘇我三代の別体は「皇太子」で同時に「摂政」でなくてはならなかった。

むろん近似体だからといって別体をそのまま大王にするわけにはいかない。大王にしてしまうと血縁上この大王の後裔になってしまうからである。そこは別に天孫一系の皇統を新たに作り上げて「推古」「舒明」「皇極」としなくてはならない。

以上から、日本書紀においてなぜ聖徳太子の系譜が根絶されなくてはならなかったのかも理解できる。それは架空の者の後裔が存在してはならないというのもむろんあるが、なによりも滅んだ蘇我三代の別体はやはり滅んでいてくれなくてはいけないからである。



ところで聖徳太子の実体が馬子を核とする蘇我三代の(供養目的の)別体だとすると、日本書紀で聖徳太子の作とされている「十七条憲法」の初めにある(儒教の礼記の儒行篇における「礼之以和為貴」に由来する)「和を以って貴しとする」(以和為貴)の「和」が、実は蘇我三代(聖徳太子の別体)の方が天智・持統系王朝に提唱しているという姿に工夫された和解の「和」であった可能性もある。

また蘇我王朝時代(飛鳥時代)の「大倭」の代字である(平城京時代以来の)「大和」の「和」もそうかもしれない。藤原京時代の(天智由来の)国号「日本」を、蘇我三代への供養の意味から蘇我王朝時代の「大倭」の方に向け変え、そこに蘇我王朝との和解の意味を込めて、「大倭」を「大和」とした可能性もないとはいえない。

こうして「和」を求める日本的精神の基底には、今はすっかり忘れ去られた蘇我三代に対する恐れと和解への願いが存在したのかもしれない。



ここで聖徳太子関連の推論を「聖徳太子の謎を解くための連立方程式」と題してまとめてみることにしよう。

第1方程式(聖徳太子は実在したか?)の解

すでに上で詳しく述べたように、大聖・大徳・大賢なる側面は理想化された装飾であり、実在人物のものでない。そもそも推古時代というものもなかったが、また推古時代に皇太子で摂政を務めたこういう大聖・大徳・大賢なる人物も存在しなかった。むろん聖徳太子に高句麗や百済などの外国の師(慧慈・覚哿)を宛がったのは架空性を隠蔽するためである。

第2方程式(なぜ聖徳太子はその実在を捏造されたのか?)の解

(Ⅰ)怨念・怨霊除去のため 

(1)古代日本では滅ぼされたある人物が高く祀られるのはその怨念・怨霊を除去するためである。
(2)むろん「怨念・怨霊という観念が生じるだけの理不尽さがそこに存在する」と、畏れる者の心の中で感覚されている。
(3)そして「その怨念・怨霊による災厄」と考えられた出来事が起きている。
 
むろん聖徳太子は日本書紀の作り上げた架空の聖者だから、その編纂者である持統の創作した人物である。つまり聖徳太子は(「理不尽に亡ぼされた」と持統にも感覚される)ある人物たちの怨念・怨霊に対する彼女の恐怖心の反映である。

●聖徳太子は推古や馬子と同時代人として描かれている。しかも馬子との並行記事が多い。
●持統は馬子の子・孫である蝦夷・入鹿を滅ぼし蘇我家を滅ぼした天智(中大兄皇子)の娘である。遡れば蘇我家を滅ぼした乙巳の政変のおかげで今の自分の皇位もあるわけである。
●すると持統の畏れる怨念・怨霊は、蘇我家を滅ぼした乙巳の政変に対するものである可能性が大きい。
●となれば馬子・蝦夷・入鹿の魂魄の呪い・怨念・怨霊を畏れて架空の聖徳太子を祀り上げたと考えられる。その場合、聖徳太子なる「日本の仏陀」は蘇我三代の供養となる。

さて、一豪族の蘇我家が古くから(たとえば継体から)続く大王家(天皇家)に楯突いて滅ぼされたのであれば、それは支配者が被支配者を正しく裁いたのであって、そこに理不尽さはほとんどなく、怨念を畏れるということにはならない。

つまり聖徳太子なる架空人物は、蘇我家が大王家であって、「天命開別天皇」なる中大兄皇子系の新王朝によって理不尽に滅ぼされたという可能性を示唆する。

この理不尽さの感覚は倭国政権における易姓革命というだけでは起きてこない。新王朝にとって易姓革命は神による裁きだからである。これは倭国政権が事実上他国の者に乗っ取られたという事態を暗示する。つまり「倭国の滅亡」である。

それでは持統にとって恐れの原因となった(事実起きたと考えられた)実際の災厄とは何か? つまり「蘇我王朝を(理不尽に)滅ぼし、倭国を亡ぼした報いで自分たちに降りかかった」と思われた災厄とはなにか? 

それは唐と新羅による百済の滅亡と白村江の大敗および草壁皇子の夭折であろう。つまり持統の心の中で起きたのは「祖国百済が滅びただ一人の子である草壁皇子が夭折したのは(事実上)倭国最後の大王家である蘇我王朝を滅ぼした報いではないか?」という感情である。

倭国に完全移住した在日百済としての新生日本および草壁系王朝が蘇我王朝三代の怨念・怨霊によって滅ばないことを祈願して、日本書紀において、「馬子・蝦夷・入鹿」を招魂した(馬子を核とする)別体を聖徳太子として祀り上げた。むろん世間にも積極的に聖徳太子信仰を広めた。

(Ⅱ)架空の推古を実在とすることで蘇我王朝の存在を無化するため

第2方程式のもう一つの解は、とりあえずは架空の推古を実在の大王だったとするためである。だからこそ大聖・大徳・大賢がどうしても必要だった。大聖・大徳・大賢がどうして大嘘を言えようか? 日本人が聖徳太子を日本の仏陀と崇める限り、推古の架空性は見抜かれない。

それによって「大聖・大徳・大賢が推古に摂政として仕えた時代に蘇我王朝が存在した筈はない」と誤導する。つまり聖徳太子なる大聖・大徳・大賢の超越的な権威によって蘇我王朝の実在を吹き飛ばす。「聖徳太子が存在する」ということはすなわち「蘇我王朝は存在しない」ということになる。

(Ⅲ)馬子の歴史的貢献の半分を架空の聖徳太子に移転するため

第2方程式の第3の解は、内政と外交と仏教における馬子の目覚しい多大な歴史的貢献を認めるわけにはいかないので、それを他者に移転する必要があったこと。女王の推古ではどうしても力量不足なので、男性の大聖大徳大賢を作り出し、馬子の歴史的貢献の半分をその架空の聖徳太子の業績とした。馬子と太子との数多くの共同作業についてはすでに触れておいた。この見地から見れば(Ⅱ)とは逆に推古女帝よりも聖徳太子の方に重点がある。

(Ⅳ)乙巳政変およびそれによる後続王朝の正当化のため

第2方程式の第4の解は、大聖・大徳・大賢なる聖徳太子の子孫(山背大兄皇子)を根絶した蘇我氏を悪とし、その悪を排除した乙巳政変と天智・天武系王朝を善とするためである。

第3方程式(聖徳太子はなぜ皇太子で同時に摂政なのか?)の解 ─ それが蘇我大王たちの立場の最大近似だから。  

第4方程式(聖徳太子はなぜ馬子の同時代人で、馬子の影・分身のような存在なのか?)の解 ─ 聖徳太子は一人の人間としては蘇我三代の核であり蘇我王朝の太祖である馬子大王に対応すべきだったし、また仏教に対する貢献ということで大聖・大徳・大賢化も可能になるから。

第5方程式(なぜ聖徳太子の系譜は途絶えたのか?)の解 ─ 架空人物の後裔が存在してはならず、なによりも滅んだ蘇我三代の別体としては滅んでいてくれなくてはいけないから。

以上である。




第8章  偽史発見の視点



ここで下の図を見てみたい。



古事記が推古(豊御食炊屋比賣命)に終わり、日本書紀の推古紀に革命・革令を偽装したり、隋を唐と意図的に混同する記述があって、すでに「推古」(古きを推し量る)には古代史の謎を解く鍵があると述べたが、この図がそれを証拠立てている。隋書の倭国伝では「王妻號[奚隹]彌、後宮有女六七百人」(王の妻は「ケミ」と号し、後宮に600~700人の女がいる)とあり、この時代の倭王は男王の「阿毎多利思北孤」である。「倭王姓阿毎、字多利思北孤」と、姓と字(あざな)に分けてちゃんと記している。ところが日本書紀では倭王は女王の推古とされている。この「推古」は十二支変換で「午子」になり、これはすなわち「馬子」でもある。つまり「推古」は「馬子」に変換できる。また「阿毎多利思北孤」も「阿毎北孤」を経て「馬子」に音訓変換できる。しかも戸皇(聖徳太子)も「厩」と(戸)「子」で容易に「馬子」に変換できる。

いずれにしろこの時代の3トップの三人がすべて「馬子」に変換できるのはとても偶然とはいえない。これはこの時代が隋書にある阿毎多利思北孤の時代であり、この阿毎多利思北孤が日本書紀で蔑称として「馬子」にされたと判断できる。三人に分体化された阿毎多利思北孤大王がどれほど偉大であったかは大聖大徳大賢(聖徳太子)を一つの分体としていることからも推測できる。しかも隋の煬帝に「日出處天子致書日没處天子無恙」とある国書を送っているほどの人物だった。こうしてやはり「推古」に秘密を解く鍵があったわけである。

考えてみれば、女性が王になるのはそれ自体ひとつの政治的例外、異常あるいは一種の政治病態だから、女性の大王が国書で煬帝に対してみずからを「天子」と称するのは、(筋違いに病人が健常者に威張っているようで)ちょっとやりすぎの違和感がある。しかもなんといわば病人側が健常者に「恙無きや」(病気・煩い・心配はありませんか)と(あたかも女が男の煬帝をからかうかのように)この文を結んでいるような転倒状況だ。そもそも隋の皇帝に対して「天子」を自称するのは男王の時でさえ精一杯で大変なことなのに、わざわざ女王の時に「天子」を自称するとは!??? さらに言えば、女王の場合、「日出處天子」という表現も不自然でちょっとやりにくい。なぜなら「日出づる東方は陽、日没する西方は陰」というのが陰陽説の核心だから、「日出處天子」は、推古の場合、「陽の男座にいる女帝」となり、それ自体が矛盾していて(相手に対して)表現しにくい状況なのだ。普通なら別の表現を選ぶ筈。これでは煬帝の怒りを一種の無理筋で煽り立てる格好になる。

つまり(まともな王でもない)政治異常態の女の王にすぎない者が「天子」を僭称するだけでなく、煬帝に対して「日處天子」と自称し、煬帝を「日處天子」と呼称し、「無恙」と結ぶのは、(隋に戦争を吹っ掛けるつもりならいざ知らず)、女が男を見下し、王が皇帝をからかう姿になり、さらに幾重にも陰陽説に矛盾していて、二重三重にやりすぎなのだ。もし倭王が阿毎多利思北孤なら日出づる東方の男王なので陰陽説にも合致し、なんとか「日出處天子」という表現もありうる。イメージとしては、爪足立ちして片手を上に伸ばしやっと指先が「天子ライン」の1センチ下に届くという姿である。煬帝に対するこの背伸び姿は女王にはできないもの。女の身では本来の男性天子である隋の皇帝と背丈比べは行えない。これは男対男の行動様式である。思うに、倭王が「天子」を自称したのは「阿毎多利思北孤」の姓の部分の「阿毎」(アメ)が「天」だったからに違いない。たぶん「天氏」を「天子」に重ねたのである。とはいえこれでも煬帝は気分を害した。女王の推古に「日出處天子致書日没處天子無恙」とやられたなら、煬帝の気分はあれでは収まらなかった筈。倭国の使節は抑留あるいは死罪になったかもしれない。

素直に感じてほしいが、この語は女性大王が記す(あるいは容認する)にしては不自然なほど暴慢すぎる。そもそも「天」を男性、「地」を女性とみる天地陰陽男女説の支配する東アジアにおいては、誰もが「天子」は男性でなくてはならないと考えていた。これは寺社の「女人禁制」のような「絶対に女性は駄目」という禁忌の意味を含んでいた。女性を「天子」と称することはあまりにも不合理なので、当時、「女性天子」(女帝)という概念そのものが存在せず、現在に至る中国の全歴史で女性が天子(皇帝)になれたのは80年ほどのちの武則天(唐の則天武后)ただひとりだけなのだ。その武則天ですら、即位のずっと前から自らを「天后」と呼ばせて長年下準備を行っただけでなく、男尊女卑の儒教的観念を打ち破るために仏教を興隆させ、「以女身當王國土」とある偽経の大雲経や大雲経寺を造作造営して「弥勒菩薩」を名乗り、また「聖神皇帝」を自称するなどして、やっとのこと「天子」の地位を正当化しえたのである。

その武則天よりおよそ80年の推古時代は、むろん女性を天子と称することなど(当時の思考パターン上)誰にも思いつくことさえできない状況だった。それを倭国で誰がどう思いつくことができたのだろう?  到底あり得ないことである。そういう類を思いつくことさえタブーで大罪だった時代なのだ。ちなみに528年、北魏八代孝明帝(19歳没)の幼い娘が即位させられ数日間帝位にあったが女性であることが明るみに出るとすぐさま退位している。中国では数千年来、女性は天子はおろか王にさえ一度もなれなかった。女性には命は下りもせず引き継がれもしないのである。「女性の天子」など「女性の男性」ぐらいの想像を絶する矛盾概念なのだ。

日本書紀は推古紀十六年九月十一日条で隋書の「日出處天子致書日没處天子無恙」を「東天皇敬白西皇帝」と翻訳し、「日出處天子」を「東天皇」として記述し直している。「東天皇」は推古女王のことだから、これは「天皇」称号が女性に初めて使われた持統時代以降の(持統ー〇ー元明ー元正と女性天皇の続いた)状況を前提にした表現だ。つまり日本でも「天子」が女性天皇として存在するようになった80年以上あとの時代環境を受けて、推古時代(593~628)まで遡っても「天子」称号が女性に使えるとごり押ししたわけだ。

「推古」なる架空の女王を設定し、そのうえ隋書の「日出處天子」(男王)と無理やり対応させなくてはならなかったので、上記のような翻訳となった。本当のところ同じ漢文の文献だから(そもそも倭国側国書の自慢の文言だった)「日出處天子致書日没處天子無恙」をそのまま引用すればいいものを、それを隠してわざわざ「東天皇敬白西皇帝」と言い換えて翻訳したのは、推古女王を直接「日出處天子」にすると男性大王だった真相が露見してしまうと恐れたからであろう。隋書の「日出處天子」のことは背後に隠して、日本書紀の推古紀ではそれを「東天皇」と言い換えることで、男性大王だった真相を隠そうとしたのである。むろん隋を唐と混同する地道な細工が実り「隋書」の存在を永遠に隠し通せればこれは成功する。しかしたとえいつか「隋書」の存在に気付かれても「東天皇」という言葉なら、「東天皇」→「女性天皇」→「女性天子」→「日出處天子」という橋渡し効果をなんとか期待できた。

推古紀のこうした操作の結果として、その後もずっと「日出處天子=東天皇=推古女王」という日本書紀の等式が受け入れられてきた。ほとんどの学者は今でも「日出處天子」を推古女王のことだと考えている。しかし日本では「天皇」称号が使われ始めた天武以降に「天皇=天子」として「天子」称号がやっと(むろん対内的にのみ)普通に使えるようになり、持統が690年に天皇に即位するに及んで初めて、女性も「天子」称号が(対内的には)使えるようになったのである。推古時代では女性を「天子」と呼ぶことなど思いつくことさえ全く不可能なことであった。そもそも女性を「天子」と呼ぶことがありえたのも80年ほどのちの武則天の登場があったればこそなのだ。

むろんこの「天子」の概念と用法は隋への国書に記してあるものだから(厳密に)中国におけるものと全く同じ。つまり当時、中国でも倭国でも「天子」は男性しか成れない概念として認識されていたので、隋書の「日出處天子」は明らかに(原理的に)女王の推古のことではありえない。「日出處天子」は(厳格に)倭国の当時の男性の大王を指している。その名は隋書倭国伝にしっかり「倭王姓阿毎、字多利思北孤」と記されていて、「ケミ」という名の妻もおり、後宮に600~700人の女もいる。つまり推古は架空であり、これは以上の全てによって証明されたといえよう。

直感で理解できるように補足して言うと、「日出處天子致書日没處天子無恙」とある国書を倭国の女王から受け取った煬帝からすれば、一人前の王でもない女の王が、女は(陰陽の宇宙原理上)タブーとして天子に成れないと皆が信じてそれを守ってきた時代に、同じくそういう価値観の煬帝に対して「王」はおろか「天子」であるとさえ宣言し、その同じ天子の資格において、「昇り調子の天子である私が、落ち目の天子であるあなたに書を送る。いかがお過ごしか?」と書き送ってきたことになってしまう。「天子」を僭称する(傲慢・不遜・非礼な)女の王からの書信だと、「日出」と「日没」の意味が上のような揶揄にならざるをえない。こういう効果はむろん倭国側にも分かること。これでは戦争になる。何のための隋への国書なのかさっぱり訳が分からない。したがってこの国書は幾重にも幾重にも女王の国からのものではあり得ない。


結局、上記のあれこれの理由から「日出處天子致書日没處天子無恙」という表現は女王には到底できないので、これは推古が存在しなかった証の一つになる。そもそも一体いつ誰が最初に「推古女王でなく摂政の聖徳太子が隋への国書を書いた」というなんの根拠もないデマ風説を撒き散らして全ての日本人の目を眩ませたのか? そのおかげで日本人のほとんどが「日出處天子致書日没處天子無恙」とある文言は聖徳太子の書いたもの、聖徳太子が隋に対して倭国の威信を示したもの、聖徳太子の胸のすくような大きな外交的業績、と堅く信じ込んでしまっている。このデマ風説は、(野心的・挑発的でそのぶん男性的な)「日出處天子致書日没處天子無恙」が女性の王にはとても書けない文言だと気づかれるのを恐れて、「男性の聖徳太子が書いた」と予防線を張ってごまかそうとしたものだろうか? 「男性の聖徳太子が書いた」という予防線は、同時に太子があたかも実在人物だったかのような細工にもなっている。

だがこのなんの根拠もないデマ風説のように、たとえ聖徳太子が推古のことを「日出處天子」として国書に記したとしても、「日出處天子」は太子のことではないので事態は変わらない。それとも摂政としての男性の自分が一心同体でいるから推古を「日出處天子」として表現しても自然だと感じたのか? そんな変則技が煬帝に効くのか? またこんな変則技で煬帝を「日處天子」とすることになんの意味があるだろうか? それに、これでは摂政皇太子が推古と並ぶことで、あるいは推古に存在する不可避的な不足を埋めることで、太子みずから「日出處天子」の推古を軽んじていることになる。加えてもし聖徳太子が女王のためにこの国書を書いたのであれば、その聖性と徳性が疑われるほどいたずらに暴慢無謀であるだけでなく、陰陽説および「天子」の概念とその用法について、信じられないほど無知であるとしか言いようがない。陰陽説は当時の一般思想・基本常識なので、こんなに無知で愚かでは、煬帝に倭国の威信を示すどころか「倭国の知的レベルを示す」として鼻先で嘲笑されてしまう。

それよりもなによりも、そもそも推古が架空であれば必然的に太子も架空なのだ。むろんその逆も真である。推古紀は偉大な大王「阿毎多利思北孤」(馬子)を「馬子・推古・太子」(すなわち豪族大臣・女王・皇太子)として三分化して描いた(一人三役の)架空の歴史物語なのである。推古と太子が架空なら残るのは馬子だけになるので、(方程式の厳密解のように)必然的に「一人三役」になる。あまりの大嘘なので「まさかそこまでは」と誰でも怯んでしまい(そこが偽史編纂者の狙い目で)簡単に推古紀にだまされそうになるが、たとえば、架空の存在である神功皇后の架空の神がかり的な三韓征伐のように、また天智と天武が同父同母の兄弟であり、息子の大友皇子でなく「弟」の天武が天智の皇太子(皇太弟)で、大友皇子は即位しなかったというように、歴史資料の乏しい遠い過去についてはむろん、事情をよく知る生存者の多い近い過去に関しても、「公益」に適う正義・大義としてどんな大嘘も(大本営発表のように)当然のことと思い、破廉恥感なくどんどん行っているのが日本書紀なのだ。

ここでいう「公益」のそもそもの源流を遡れば、まずは百済王子の翹岐を倭人化することで白村江大敗の唐の襲来口実を弱めるということがある。天智が百済王子の翹岐だと唐に知られれば唐にとっては「倭国=百済」となり、そうなると、百済を二度(660年の泗沘城陥落と663年の白村江の戦い)にわたって滅ぼした唐は(面子の上でも残敵の危険性という点でも)どうしても見過ごせず、唐の倭国襲来は避けられそうにない。白村江大敗後に唐に侵攻されては、もはや「万事休す」であろう。それで対唐外交上、百済王子の翹岐を古来からの伝統的な倭人王朝の後裔とする他なかったが、これがその後の万世一系化を基調とする大いなる偽史編纂の発端となった。つまり翹岐を倭人化するのは唐の襲来による「倭国滅亡」という国難回避のための正義・大義の偽史だったのだ。神功皇后三韓征伐や天智天武同父同母説などなどの自余の偽史は、多かれ少なかれ(「公益」に適う万世一系化の連鎖として)すべてこの「翹岐の倭人化」という根源的欺瞞から出た。

むろん神武以来の万世一系化を望む新王朝にとって当然のことながら蘇我王朝の存在など決して許されなかった。馬子・蝦夷・入鹿が大王だったことを許すと「万世一系化」で自らを蘇我氏の後裔として位置付けるほかない。打倒した蘇我氏の人脈に自分を繋げるわけにはいかないので、必然的に蘇我王朝を丸ごと歴史から抹消することになる。王朝を消去するには王朝創始者の太祖を消去する必要がある。太祖がいなければ王朝もない。それを行うのが推古紀なので、推古紀こそが日本書記という大いなる偽史の心柱なのだ。馬子を始祖とする蘇我王朝を歴史から抹消するという(翹岐の倭人化に連鎖する)新王朝の「公益」を実現するための最大の細工が、「推古紀」における「一人三役」のストーリー。これで「太祖」が消せる。

すなわち「阿毎多利思北孤」(馬子)が王だったところが「女王」となり、仏教導入の偉大な業績などのところが「大聖大徳大賢の太子」となり、「阿毎多利思北孤」そのものが一有力豪族にされて「蘇我馬子」という「大臣」になった。とりあえずまず(当人を彷彿させることのないように)「阿毎多利思北孤」なる男王のイメージから最も遠い「女王」が必要だったが、「女王」だけでは馬子の偉大な業績を担いきれないので「大聖大徳大賢の太子」が対(つい)として創作されたのだ。むろん「女王」を立てず誰であれ「男王」を立てると、隋書の「阿毎多利思北孤」に対応するかたちで、事実上、馬子と一致してしまうので、「男王」は立てられない。だから「推古」という女王が立てられた。当然のことながら男を女だったとすれば両者は原理的に永遠に交わることはないわけだ。しかし「推古」の正体が「馬子」(「阿毎多利思北孤」)であることは、十二支変換で「推古」が「馬子」に変換できることで「暗に」ちゃんと指し示しているのである。

以上のことから「日出處天子致書日没處天子無恙」とある国書を煬帝に書き送った隋書倭国伝の倭王「阿毎多利思北孤」は「馬子」のことであり、そこから「馬子→蝦夷→入鹿」と3代続いた蘇我王朝の実在性が疑う余地なく明らかになる。次節で斉明天皇と天智天皇の母子が百済王家の出自であることが数多くの決定的証拠によって証明されるが、実はそこから蘇我王朝の実在性が明らかになる。なぜなら入鹿殺害で倭国の王朝が中大兄皇子(天智)なる外国人の百済王子の手に渡ったのであれば、それは中大兄皇子の母の皇極ではなく入鹿が倭国の大王だったからである。天智の母の斉明(皇極)も天智と同じく百済人だったのだから、そもそも入鹿殺害(乙巳の政変)で天智が実権を握る前の「皇極」なる天皇は架空だったわけだ。こうして日本書紀が「馬子→蝦夷→入鹿」の蘇我王朝3代を「推古紀→舒明紀→皇極紀」なる偽史で置き換えたことも判明する。


さて、一旦、80年以上前の馬子大王時代に架空の推古や聖徳太子を立てたからには、肝心要の工作として、その実在を証拠立てるあれこれの擬古的な物証も、後世のために根気よく精緻に捏造しなくてはならない。王朝の命運を担った大いなる偽史を創作しておいてその物証を捏造しないということなど100%ありえない。「推古紀」において隋と唐を意図的に混同し隋を歴史から消去してまで「隋書」の存在を隠す努力をしてみたものの、数百年後、誰かが隋書を発見し、男王の「阿毎多利思北孤」の記述に目を止めるかも知れず、それを権力で隠蔽できなくなった時でも、そうした状況に打ち勝つぐらいの物証群はなんとしても捏造しておかねばならない。

識字率がゼロに近く漢文が読める者が非常に稀な時代に、もはや生存者のいない80年以上前の過去を漢文の正史で捏造するのは比較的容易だったのではないか。歴史を学ぶ機会など全くないので、「へえ~、明治時代にそんなにすごい偉人がいたとはね!」ぐらいの感覚で人々は消化してくれるに違いない。持統称制年(686)以降、推古と太子が実在した「証拠」がいろんなかたちで工夫工作されたおかげで、案の定、それらが現在、彼らが実在した証拠になっている。しかし(本稿でも広範囲にすでに行ったように)非常に丹念に精査すれば、すべての物証の捏造性が明らかになる筈である。犯人が分かればいかに精緻であっても全てのアリバイが捏造であるように、推古と太子が架空という真相が、上述の蘇我王朝の実在証明と次節で後述の「天智=翹岐」証明によって完全証明できるからには、いかに巧妙精緻であっても、全ての物証は捏造なのだ。もはや物証の捏造性を一つ一つ暴く必要性さえない。

捏造を暴くには三つの方法がある。(1)全ての偽の物証を虱潰しに一つひとつ暴く方法、(2)真偽をコツコツ積み上げて一つの反論不可能な暴露体系にする方法、(3)一件(あるいは一セット)の必要十分案件で一挙に暴く方法である。本節では隋への国書にある文言(日出處天子致書日没處天子無恙)で(3)を行った。次節では百済人の斉明・天智の母子を倭人化する偽史根幹の捏造を(2)(3)併用で完全完璧に多重に暴く。なお本稿では「日本書紀発端編纂基準年に関する1320年説」や「天智=翹岐説」などなど、天智関連の諸章において(2)を目指したが、推古と聖徳太子関連の諸章では(1)も目指した。これらについてはそれぞれの当該章節をご覧いただきたい。

誰にも明らかなように隋書が倭国伝の記述においてわざわざ虚偽を書く理由がない。そこに記されている事柄には客観性があると考えていいのである。古事記や日本書紀は当の王朝自身が編纂したものなので、(これまで様々に見てきたように)、どうしても客観性に欠けることになる。隋書倭国伝と日本書紀のどちらに客観性があるかは自明であろう。したがって日本古代史の真相に至るには、隋書倭国伝に立脚し、そこから出発するのがとりあえずの最短最良のルート。日本人の全てが認める「日出處天子致書日没處天子無恙」という倭国からの国書の文言もそこに記述されているのだ。この文言は中国側の威信を甚だ損ねるものであるが、それでも掲載しているところに隋書の客観性がある。

そもそも日本書紀が大聖大徳大賢なる聖徳太子を登場させ、いかに精緻で大掛かりな偽史を展開していようとも、隋書倭国伝を重視していれば、この大いなる偽史にこれほど騙されることもなかった。万世一系は聖徳太子を一つの要石とする。聖徳太子の「聖性」「徳性」が架空の真実性を醸し出し、それで太子が偽史防衛の堅固な防塁防壁になる。その要石の架空性が暴かれた瞬間に万世一系なる空中楼閣は瓦解し雲散消滅する。この要石を守ってきたのが皇国史観であり、皇国史観の(非学問的で)宗教政治力学的支配力の流れが、(逆らうと非国民のように見做して教授職から追放し学会からも締め出すなどの脅迫的圧力として)、隋書倭国伝を軽視・無視・タブー視させてきたのだ。この圧力は慣性のように今も様々な様態で続いている。たとえば自分自身も気づかないままそう見る習性になっているという様態もある。これを打ち破るには「隋書倭国伝に立つか、日本書紀に立つか」決心するしかない。

学者も含めて多くの日本人は聖徳太子が絡むとどうやら理性が若干マヒしてしまうようだ。日本人にとって聖徳太子は大自慢の人物なので、架空とされたり価値を貶められたりすることを良しとしない。特に仏教系学者や仏教シンパにこの傾向が強い。彼らは聖徳太子架空論が論議されると直情的に「議論に値しない」と反発して、一考だにしない。そのようにして直接間接に結局は非科学的な誤った万世一系の皇国史観を支えている。そもそもあれほどの奇跡的な大聖・大徳・大賢を実在人物だと思う方がちょっと非常識であるが、さらにそれが皇太子であるのでは「余りにも都合がよすぎる」と疑問視するのが常識。これで万世一系の天孫王朝が聖化・義化・賢化され、奇跡の後光で光り輝くことになるからである。

存在もしない聖徳太子への崇拝や信仰が古代史の科学的真相究明を大きく阻害している。この聖徳太子信仰は実は太子が「日本の仏陀」「大聖大徳大賢」であるところが学問的障碍の原因となっているのでなく、太子つまり皇室の一員とされてあるところが、現行の天皇制や皇室への遠慮や学問的タブーとなって、古代史の科学的真相究明を阻害しているのである。もし仮に聖徳太子が皇室とつながらない人物なら、いかに「日本の仏陀」「大聖大徳大賢」であろうとも過去の一人物にとどまってタブーは生じず、このような科学的真相究明の阻害因にはなりようもない筈だ。

聖徳太子の架空性を正面から証明するのは精緻で大掛かりな捏造工作と聖徳太子信仰のためにいささか骨の折れる作業(当該章節ご参照)になるけれども、幸い、上記の「日出處天子致書日没處天子無恙」を用いた必要十分案件法による側面(推古の架空性証明)からの証明なら、思いのほか容易となる。推古の架空性はすなわち聖徳太子の架空性、聖徳太子の架空性はすなわち推古の架空性に他ならないからである。むろん聖徳太子の架空性は次節の「斉明・天智母子の百済人証明」からも容易に証明できる。斉明(皇極)と天智の母子が百済人なら「皇極」は架空となり、「蘇我入鹿こそが倭国の大王だった」となるので馬子を太祖とする蘇我王朝が実在し、それはすぐさま推古も聖徳太子も架空である証明になるからである。これは聖徳太子の架空性の後面からの証明と言えよう。





ところで、日本書紀の推古紀が鄭玄の革命辛酉年説の「革命・革令」を偽装しているのは明らかだが、推古紀が ─ 革命関係記事を省き ─ 革令関係記事(甲子年である604年の冠位十二階の実施や十七条憲法の発表)だけ記していて偽装が中途半端に終わっていることも明白である。それは在日百済王朝を神武以来の天孫一系の中に溶解してうまく隠しはしたものの、全く出自が失われてしまっても、言い換えれば子孫たちが自分たちの真の系譜を全く知らずにいるのも絶対に困るので、日本書紀の中に偽史の謎を解く鍵をあちこちに「中途半端なかたち」で埋め込んだわけだ。真相解明の鍵を中途半端なかたちにしないと真相が直接明示されてしまい、それも困る。「中途半端」が鍵に与えられた宿命なのだ。

日本書紀の推古紀が革命・革令を偽装しているということは、真の革命・革令を隠して革命年(日本書紀発端編纂基準年)を推古時代の601年(辛酉年)に誤導しようということ。現にこの誤導によって現在も多くの研究者が1260年説を採って革命年を推古時代の601年だと主張している。つまり「601年を基準としその1260年前に神武紀元を設定した」とするわけだ。しかしそれが誤導だと分かれば、結局、天智称制年(661年 辛酉年)が真の革命年(日本書紀発端編纂基準年)であるという結論になる。これは一意に決まる。つまり1260年説ではなく三善清行の『革命勘文』における1320年説が正しいということ。すなわち「661年を基準としその1320年前に神武紀元を置いた」というのが真実である。天智称制年が日本書紀発端編纂基準年とされたということは、天智の出自が百済王家である一つの証になる。たかだか称制年にすぎない百済滅亡(660)直後の年が神武紀元を決める基準年になっている意味はそういうこと。称制年がたまたま辛酉年であって鄭玄の革命辛酉年説と合致していたので、神武紀元年を決める原理として鄭玄説が採択された。でなければ鄭玄説でなく他の原理が採択され、神武紀元も今とは違った年になっていたことだろう。

661年(辛酉年)の天智称制年が日本書紀発端編纂基準年とされたということは、その3年後の664年(甲子年)における冠位二十六階発布という記述によって、鄭玄説における「辛酉年の革命と甲子年の革令」がここではセットとなって(片方が欠けることなく)完成しているところから、判明する。「天皇大皇弟 宣増換冠倍位階名・・・其冠位有廿六階」とあるように、664年(天智三年)の甲子年に天智に命じられて新冠位を発布しているのは天武。これが日本書紀における行動者としての天武の初出記事である。実は日本書紀の秘密の基礎構造に、「天智」「天武」 / / 「天智称制」「新冠位発布」 / / 「革命」「革令」 / / 「辛酉年」「甲子年」、という隠れた平行性があり、これも1320年説が正しいことを示している。むろん鄭玄説の論理に基づく「661年が(神武即位と同じ)革命の辛酉年である」という仕組みで、実は日本書記は(「万世一系」を描出している表面の文脈からは容易に見えない深層で)天智称制という661年の出来事を(B.C.660年の神武即位と同じ)「革命の出来事」とみなしているわけである。

母の斉明が死んで大王位を皇太子が称制したにすぎない出来事がわざわざ「革命」と見なされるわけは何だろう? これは天智称制が「新しい王朝の創建」を意味しているということなのだ。しかもこの「新しい王朝」は扶余氏でない母には不可能なこと、つまり天智なる扶余氏の翹岐による「在日百済」としての「日本」以外のものではありえない。天智の「天命開別天皇」(天命でこれまでとは全く別の王朝を開いた天皇)という(万世一系と根本的に矛盾する)和風諡号も、「日本」という(西の百済から見ての昇る根に移転した新百済という意味の)国号も、天智が倭人でなく百済の出自であるところから生まれた。

そもそも日本書記は「日本」が「百済」であることを隠すため、すなわち天智・持統の出自を隠すために万世一系化を図った偽史の書なので、それらを明るみに出すのは非常に困難な作業になる。どこを読んでも天智と持統は万世一系の純粋な倭人として登場する。だが証拠はいろいろな姿で日本書紀の中に隠れている。事実は歪んだ形でも残るのだ。天智の出自が百済王家であることは、(すでに関連章節でいろいろと根拠を挙げたが)、なかでもすでに敗亡した百済とその王家の再建のために、斉明を筆頭に倭国史上唯一例外的に天皇家総出で北九州へ出征したことや、遠く旧百済の地や白村江までわざわざ大軍を出兵させた大いなる愚挙からも分かる。これらは「自家王家救援」という家族的な動機がなければ決して起こりえない。

この「天皇家総出」は誰が見ても「家族一丸」という家族行為以外の何物でもない。頭をどうこね繰り返しても他に説明できる理由は絶無である。家族行為は家族問題が起きないと行われない。したがって(解が一意に決まる1変数方程式のように)このことだけで「斉明と天智の母子は百済人」と断定して良い。天皇家が百済滅亡に際し家族一丸となって北九州の辺鄙で不便な甘木の朝倉宮に出征したのは、朝鮮半島でまさしく百済王家の滅亡という自らの家族の一大事が起きたからである。「天皇家総出」は「家族」としての反応であって、それ以外のケースは100%あり得ない。これは本家が危急存亡の危機に瀕した時に取る分家一丸の行動なのだ。でなければいつものように天皇家は都にあって将軍かせいぜい皇子を総大将として派遣するだけでいいわけである。天皇が女性なら、(しかも67歳の老齢であればいつ自分が死亡するかもしれず唐を相手の長期戦略構築は不可能なので)、なおさらそうであろう。老齢の女性天皇がわざわざ自ら北九州の辺境へ一家を挙げて出征したという状況は、斉明が敗亡した百済における自らの王家の運命を「なんとかしたい」と必死に願っていたことを如実に示している。斉明が必死の覚悟だったことは都から出て7か月ほど後にこの北九州の朝倉宮で死んでいるのを見ても分かる。それほどの決心を、既に滅んだ単なる旧友邦再建のためにするだろうか? 皇国史観で曇っていない眼には自明なように、百済が他王家の国家であればたとえ滅亡でも「天皇家総出」などあり得ないし、滅亡ならなおのこと「天皇家総出」は人間現象として絶対にありえない。女性が天皇なら、しかも67歳の老齢ならなお一層そう言える。つまり他の証拠は全く不要で、この「天皇家総出」だけで必要十分に「斉明と天智は百済人」と断定できる

さらに、すでに百済は敗亡しているのにその再建をかけて大唐帝国と白村江などで戦うのは、その勝敗に関わらず、将来、唐の大軍を倭国に呼び込む常軌を逸した大いなる愚策で、これも「百済と一蓮托生」という自暴自棄的な家族的行為である。誰が考えても敗亡した単なる旧友邦のために、ここまではやらない。戦争遂行にふさわしい能動的で積極的な男性でなく危険な冒険をできるだけ避けたい筈の女性が天皇なら、なおさらである。出兵の決定はそもそも戦争遂行者が女性の時代ではやはり不利になる。しかし百済王家が斉明の家族あれば、逆に女性だからこそ理性的になれず「なんとかしたい」と出兵を決断することになる。百済が単なる友邦だったのであれば(滅ぶ前ならともかく)すでに滅んだのだから倭国は新しい国際情勢に即して唐と協商すればいいだけの話だった。百済と唐は敵対関係だったとしてももし斉明と天智が百済人でなければ倭国が唐と敵対する必然性はない。友邦滅亡は不本意だっただろうが、唐との戦争はその協商経過を見てからでもよかった。にも拘らず盲目的にすぐさま百済復興救援軍を派遣した。

当時世界における最大最強帝国の唐軍が本腰を入れて倭国侵攻に臨めば、倭国が百済の二の舞になるのは十分すぎるほど明瞭に想像できた筈。したがって、「天皇家総出」も「白村江出兵」なども、それらを決定した斉明と天智の母子が百済王家の出自である以外に説明のしようがない。その上に、天智称制年が鄭玄説における「革命」すなわち「新王朝樹立」の年として、神武紀元を決める日本書紀発端編纂基準年とされたことや、万世一系を否定する「天命開別天皇」という和風諡号や天智の母の「皇祖母尊」なる尊号のこともある。非学問的な皇国史観の信奉者でなければ、誰にとってもこれらだけで天智が百済人である十分確かな断定証拠になる。

筆者は先入観と偏見で歪んだ皇国史観を克服する一つの方法として、是非とも「記紀心理解析学」を提唱したい。先入観と偏見は人間心理によるものなので心理解析学はその是正に有効であろう。記紀の記述に捉われず心理学からみて「必然」と判断できることを史実の確定手段として取り入れるわけである。記紀のある記述内容について心理学が原理的に人間心理として許さなければ、それは人間現象でなく、すなわち史実でないということになる。偽史構築による無理が心理学的人間破綻記述をもたらしているのだ。たとえば天武が天智の娘を4人も妻に迎えていることを心理学でみれば(「万世一系」を主張する日本書紀の記述とは違って)両者に血縁はあり得ないとか、それが双方向でなく、地位も高い「兄」の天智から「弟」の天武への一方通行のいわば娘の「献呈・奉納」現象なのでなおさらだ、とかいう具合に確定してゆく。

記紀にある様々な人間関係や大事件の記述について、こうした心理学的方法をどんどん適用する。こうして偽史構築者の心理状態に踏み込み、偽史構築の真相に迫ろうとするわけだ。むろん女性大王の斉明による天皇家挙げての(結局斉明が7か月後そこで死ぬことになった)辺鄙な北九州への出征と、(結局世界最強帝国「唐」と新羅の連合軍に大敗することになった)朝鮮半島出兵にも適用する。果たして日本書紀の「斉明紀」にあるようにすでに敗亡した単なる旧友邦再建のためそういう倭国存亡を掛けた一連の究極行動が、いつ死ぬともしれない67歳の老齢の女性大王として心理学的にあり得るかどうか、あり得なければこれらがどういう本質のものだったのか突き詰めてゆき、確定してゆく。できれば読者の方々にもそれぞれに行っていただきたいが、上記の段落では筆者自らこれを実行した。偽りの古代天皇家史の見たくない真相を見ることを恐れ、ともすると自分を偽ってまで知らぬことにしてしまう一般的傾向をこの「記紀心理解析学」が抑止する。

以上に加えてさらに乙巳の政変(645)における古人大兄皇子のよく知られた謎の言葉「韓人殺鞍作臣」(韓人が鞍作臣を殺した)という大いなるヒント(鍵)がある。この言葉は天智(中大兄皇子)がこの「韓人」(百済人)であることを、入鹿大王(鞍作臣)暗殺現場の描写によって明瞭に示している。誰もが知るように乙巳の政変で入鹿を殺した首謀者はその暗殺実行者でもある中大兄皇子なので、いうまでもなく彼こそがこの「韓人殺鞍作臣」「韓人」に該当する。これはむろん天智が百済人(韓人)であることを証明するあの「天皇家総出」や「白村江出兵」などとも完全に符合する。

加えて、中臣鎌足との綿密な事前計画が必要だった経緯はこの暗殺計画実行の困難さを表すものであるが、それは警護システムが自分の手に入りやすい中大兄皇子の母(皇極=斉明)の座所でなく、本当は警護の厳しい入鹿大王の座所で暗殺が行われたことを指し示しているのである。入鹿が大王だと、その座所まで行かなくては対面できず暗殺は必然的に座所で行われることになる。しかし母が大王なら、座所でなくその途中の廊下や回廊でも刺し殺せるのである。そうなれば母に凄惨な暗殺現場を見せてショックを与えなくて済む。にも拘らず暗殺が母の座所で行われたとされてあるのは、本当は入鹿大王の座所で暗殺が行われた事実の残映なのだ。

つまり「皇極」なる大王は架空人物であって、その大王の座所には入鹿が座っており、その入鹿の座所で入鹿の暗殺が行われ、入鹿大王暗殺者の中大兄皇子は「韓人」(百済人)、というのが歴史の真相である。隋書倭国伝の「日出處天子致書日没處天子無恙」や「阿毎多利思北孤」の記述からすでに明らかになった「馬子→蝦夷→入鹿」と3代続いた蘇我王朝の実在性や、先の「天皇家総出」「白村江出兵」「天智称制発端基準年」「天命開別天皇」「皇祖母尊」もこれを証している。


ここで朝鮮総督府が1939年6月15日に百済の旧王宮跡である(忠清南道扶余の)扶蘇山麓一帯の広大な土地に、予算も敷地規模も京城の朝鮮神宮(朝鮮植民地総鎮守)を凌ぐ(朝鮮半島で最大の神社である)「扶余神宮」を創立した事実を指摘しておきたい。結局敗戦のために鎮座に至らず基礎工事の完成だけで終わってしまったが、この神宮は朝鮮の各道庁所在地に建てられた国幣小社とは違い、橿原神宮や朝鮮神宮と同じ最高位格の官幣大社である。「扶余神宮」創建は朝鮮総督府による「扶余神都計画」の一環であった。

「神都」の法律概念規定がないので「扶余神都計画」は翌年(1940)の日本本土における「宇治山田市(現伊勢市)神都計画」と同様に公文書表現でなく公認一般用語だが、内容はやはり「神都」の計画である。五島 寧(やすし)氏は「『神都』計画と扶余神宮に関する研究」で、この「神都」計画は産業基盤とは直接無縁な地域で、しかも例外的に経済効果としては低い既成市街地での区画整理が展開しており、(朝鮮総督府の朝鮮全土における)「従来の市街地計画とは異質な事例であった」と記し、また、明治以降の新規統治地の官幣大社のなかで「扶余神宮以外は、統治上の中心都市に設置されている」と指摘し、「『神都』計画が、扶余神宮建設を与条件とした特異な市街地計画であった」と結論付けている。

国生みの大地である「大八洲」のどこかならいざ知らず、いわゆる「下等な」民族の植民地に「神都」の建設とは? 百済の王都であった辺境都市の扶余に朝鮮半島最大の神社を立てそこを朝鮮半島唯一の(伊勢のような)神都の中心地とする一種の「総本社宗教都市新建設構想」は、百済が他王家の血筋の国家であったならば、到底生まれ得ないもの。「神都とする」ということは、百済人の都である扶余を「神の地」とすることで、これはそこを都とした百済王家の神格化である。日本人にとって神格化されるべき王家はこの世で天皇家だけなので、これはすなわち百済王家が天皇家と同一家族だという間接的な宣言となる。すなわち天皇家は百済人なのだ。だからこそ「天皇家総出」も「白村江出兵」なども(家族行為として)万難を排して強行したのである。

いわゆる「神都計画」と呼ばれた計画はまず最初に1920年代の宮崎神宮を中心とした「宮崎市神都計画」があり、次に1930年代の橿原神宮を中心とした「畝傍町など三町の神都計画」があり、さらに1939年の扶余神宮を中心とした「扶余神都計画」があり、1940年の伊勢神宮を中心とした「宇治山田市神都計画」がある。これらを見ると各神宮の祭神が皇祖の神武や皇祖母神の天照大神という「皇祖レベル」だからこそ、その都市が「神都」と呼ばれ、その都市計画が「神都計画」と呼ばれていることが分かる。つまり「神都」とは「皇祖の都」という意味なのだ。伊勢は天照大神降臨地、宮崎は神武東征出発地、橿原は神武即位地。すると「神都」の扶余の地もまた「皇祖レベル」でなにか究極的な出来事が起きた地である筈なのだ。

注目すべきは「扶余神宮」の祭神が、百済復興軍派遣や白村江の戦いと関わった斉明天皇と天智天皇だという点である。他には記紀で三韓支配の象徴とされている神功皇后と応神天皇も祭神だが、扶余の地と関連するのは斉明と天智なので、神功と応神は祭神としては付録のようなものであることが分かる。それに神功皇后が架空人物であること、神功の胎内皇子としては応神も架空人物であることは、扶余神都計画を立てた(昭和天皇を中心とする)最高責任者たちの十分に知るところである。むろん「天智=翹岐」という究極の秘密に唯一通じている彼らは「万世一系」も架空であると知っているので、天皇家と何の血のつながりもない架空の神功と応神が祭神であるのは真相隠蔽のための目眩ましでもあり、結局「扶余神宮」はまさしくその旧王宮の地で生まれ育ちあるいは過ごした斉明(百済武王妃)と天智(翹岐)を祀る施設にほかならない。扶余の地は「日本」の祖である天智が斉明(極=祖母尊)から生まれたという「祖レベル」の出来事が起きた地なのだ。

もし日本書記の記述のように二人が倭人なら、一度も土を踏んだことがなく、なんの縁故もない海外の地のここに、なにも白村江大敗の責任者である彼らのためにその敗北地で官幣大社の神宮まで作って祀る必要はない。日本のどこか(生誕地か即位地)にせいぜい大きめの神社一つ作れば済む。現に天智には翌年の1940年11月7日鎮座の「近江神宮」(祭神は天智天皇 官幣大社 滋賀県大津市)が存在している。にも拘らず百済人の王宮跡地にこだわり同時期にわざわざ「扶余神宮」を立てた。

他王家の王宮跡地に神宮を建てるのはこれが唯一。もともと万世一系の「神聖」な皇室の血を汚さないためにも、原則としてこういう「疑似混血」のようなことは行わないが、それでも行っているのはこれが皇室の「神聖」な血を汚す行為にはならないからである。天皇家と百済王家が同一家族、つまり斉明と天智が百済王家の出自なら、百済王宮跡地に斉明と天智を祀っても、天皇家の血の「神聖性」に及ぼす影響は全くない。

王宮は王家の住まいなので百済王宮跡地の扶余神宮で斉明と天智を祀ると扶余神宮がいわば斉明と天智の住む王宮と化し、必然的に「かつて彼らが住んでいたのでここで祀っている」という連想を引き起こす。神武東征出発地も神武即位地も、「そこが神武の宮殿の地でありかつて神武が生活していた」とされたからこそ、それぞれの地に「宮崎神宮」と「橿原神宮」が建てられた。つまり「かつてその人が住んだその地にその人の魂魄が今も宿っている」という判断の下で、その地にその人を祀る神宮が建てられている。

斉明と天智を祀る百済王宮跡地の「扶余神宮」についても、むろんそういえる。でないと斉明と天智の魂魄は、そこで660年に無残に敗亡したため成仏できずに彷徨っているかもしれない他王家の家族の魂魄に取り囲まれて悩まされるかもしれず、また宮殿跡地北端の「落下岩」から白村江に身を投じたと伝わる三千人の宮女の魂魄にも取り憑かれるかもしれないではないか。つまり部外者からみれば百済王宮跡地は(揺籃の地でも青春の地でも愛する家族の地でもない)国家敗亡の呪われた縁起の悪い死屍累々の亡霊さ迷う「凶地」なのだ。斉明と天智が部外者の倭人なら、その「凶地」に祀られてもなにも良いことはない。そうした視点からも、扶余神宮で祀られている斉明と天智が百済王家の人物であると推察できるわけである。そして天智と斉明が扶余氏とその関連者であるのが理由で「扶余神宮」と名付けられたことも判明する。そもそも「扶余」という地名も百済王家の「扶余氏」から来ている。珍しいことに扶余神宮は朝鮮式社殿様式(青瓦台風)の設計だったが、これは「斉明天皇と天智天皇は百済の朝鮮人だから朝鮮式社殿で憩っていただきたい」という意味なのだろう。


ところで官幣大社の「神宮」は植民地旧国家当たり一つしか創建されないほどの国家単位レベルのもの。白村江大敗責任者の倭人の天智にそれに見合う何の大手柄があるというので国内外に二つも神宮を創立したのだろうか? そもそも白村江大敗地の「扶余神宮」はなんらかの「大手柄」によるものだろうか、それとも白村江大敗の壮大な敗戦記念建造物なのだろうか? 植民地に宗主国のそういう不名誉な記念物などありそうにないが、ともかく日本書紀の記述のままでは天智を内外の二神宮で(新王朝太祖の神武や応神あるいはそれ以上に)大々的に祀り上げる理由は全くつかめない。

ここで「乙巳の政変」を挙げる者がいるかもしれない。しかしかつて過大に評価されて「大化の改新」と呼ばれていた「乙巳の政変」も、日本書紀の皇極紀においては、横暴な一豪族の専制政治を打ち倒したいわば一種の「中興」のような出来事にすぎない。天皇の権威や権力を無視するのは、平安時代の藤原摂関家や平家、源頼朝以来の武家幕府政権もそうだったわけで、これが明治維新までの日本における天皇家の常態だったといえよう。したがって結果としてはただの「中興」のようなものにすぎない「乙巳の政変」を二神宮創立に見合う大手柄だったとするわけにはいかない。むしろ(有史以来ただ一度倭人国家存亡の危機を招いた外国軍による白村江大敗の失点は、王朝の危機にすぎなかった「乙巳の政変」における得点をはるかに上回る。いくらなんでも中興の「乙巳の政変」が白村江大敗地に官幣大社の神宮を立てる理由とはなりえない。

それに(史実とは真逆の)「『乙巳の政変』がなければ豪族の蘇我氏に王朝が簒奪されていた」というのは日本書紀の勝手な押しつけ判断にすぎず、それだけの危機だったかどうかは本来分からないのもの。しかしその危機の度合いを高めるほど天智による「乙巳の政変」の歴史上の意味が単なる「中興」の域を超えてさらに高まるので、危機状況を極大に描写した。そもそもかつて「乙巳の政変」を「大化の改新」という名であたかも神武即位に次ぐ古代史最大の大事件であるかのように皇国史観派が誘導してきたのも、(彼らのトップ最上層しか知らない究極次元では)これが本質的には天智による蘇我王朝打倒による事実上の「日本」建国の出来事だからである。だからこそ日本書紀の記述上、表向きはただの「中興」にすぎない事件を、新王朝樹立という「革命」の真実により一層近づけようという意図で「大化の改新」と呼んで過度に大騒ぎしてきた。つまり「大化の改新」という言葉に天智による「日本建国」という秘密を滲ませたかったのだ。

天智の他に官幣大社の神宮を二つも有する天皇は(「宇佐神宮」にも祀られている付録の応神を除けば)宮崎神宮(1886)と橿原神宮(1890)の主祭神である神武だけだ。宮崎神宮の方は(一応「東征出発宮殿跡地」と想定された)一地方神社を明治の王政復古を受けて格上げしたものにすぎず、橿原神宮のような明治体制における新規正式のものでない。ところで官幣大社の神宮に祀られている天皇は(明治神宮:関東神宮・朝鮮神宮の)明治天皇を入れてもほんの十数名にすぎず、しかもその多くは同じ神宮で(平安神宮の桓武・孝明や水無瀬神宮の後鳥羽・土御門・順徳のように)二三人ずつ併祀されている。明治体制における明治天皇の三神宮の例外を除けば一人の天皇に神宮一つあるだけでも過分なのだ。「敗亡した旧友邦を再建する」という倭国自身の生存に直接関わらない目的で、歴史上ただ一度、倭人国家存亡の危機を招いた白村江出兵と大敗の「大いなる責任あるいは罪状」を考えれば、これは国史上唯一最大の「永遠の恥さらし」なので、本来なら(つまり日本書記の記述通りなら)そもそも「天智は責任を取ってみずから退位すべきだった」とするぐらいが順当であって、(一神社ならいざ知らず)天智を祀る神宮が存在すること自体、異常なほど過分だといえる。

そういうわけで、天智が倭人なら日本に近江神宮があればそれだけでも十分すぎるほど過分であり、なにも海外の他人の、しかも大敗の地に(全く新規に、しかもほぼ同時進行で)もう一つ神宮を建てる必要などはないのに、本当はそこが「日本」の太祖なる天智の生まれ故郷なのだから、仕方がない。となれば当然のことながら百済王宮跡地に天智と斉明を祀る神宮を立てる際には「白村江大敗問題など無きに等しい」ということになる。つまり白村江大敗という目も当てられない大失態があるにも拘らず天智に「近江神宮」があるばかりでなく朝鮮半島の敗北地にも「扶余神宮」があるのは、「日本」が「天智」なる扶余翹岐の創建した「在日百済」であり、その百済王宮跡地の場所で「日本」(在日百済)の太祖なる天智(扶余翹岐)が生まれ育ったからにほかならない。天智による「在日百済」なる「日本」の建国。実はこれこそが内外二神宮創立の秘密であり、二神宮創立の原因となった隠された本当の「大手柄」なのである。結局、いわば素顔の「翹岐」と仮面の「天智」それぞれのために故郷と日本の地に一つずつ建立したわけである。これらを見ると太平洋戦争直前の「扶余神宮」創立責任者たちは斉明・天智の母子が百済人であることを知っていたわけだ。

上で「神功と応神」は付録のようなものであるとしたが、実は「母と子」という点で「神功と応神」「斉明と天智」は一致している。「神功皇后は神懸かりな三韓征伐を行ない神の定めによって胎内の応神天皇に三韓永久支配権が与えられた」というのが記紀の主張であるが、これは記紀を監督指導した持統の(女性的な)妄念が産み出した物語で、この妄念は唐と組んで母国百済を亡ぼしその旧百済の地を占有支配している統一新羅に対する復讐心を淵源とする。660年に母国百済が滅ぼされて出征先の北九州で悶々としてついに死亡した祖母の斉明と、663年に白村江で大敗を喫した父の天智、この二人の恨みを晴らしたいという切なる思いの妄念が募り募って過去に投影され、「日本書記」なる偽史において百済武王妃だった祖母の斉明が「神功皇后」となり、扶余翹岐を本名とする父の天智が「応神天皇」(三韓永久神授者)となった。このとき河内王朝太祖である史実の東征王「応神」を前半史と後半史に分け、その前半史部分を架空の神功皇后に割り当てて「三韓征伐と胎内の応神への三韓永久神授」という内容の神功紀としたのである。

つまり三韓征伐の「神功皇后」と三韓永久神授者の「応神天皇」は、百済滅亡と白村江大敗に対する(持統の妄念→妄想における)報復完成態なのだ。持統は架空の物語であっても、(あたかも史実のように正史に記すことで)、祖母と父の恨みを晴らしてやりたかった。そういう女性ならではの方法で自分の恨みも晴らしたかった。神功皇后は斉明の化身であるだけでなく、なによりも皇后時代の持統自身の化身でもあるのだ。しかしそれだけではない。こうした架空報復だった「神功皇后三韓征伐」による「応神の三韓永久神授権」はまた万世一系化によって後代の天皇にも永遠に受け継がれていくものとされ、「いつかは三韓を永久に日本皇室のものにせよ」という持統の遺訓遺命とされたものでもあった。つまり単に過去に投影された架空報復に終わらず、同時にそれを根拠とする未来に向けた報復指示でもあった。それが「神功紀」と「応神紀」である。そしてその持統の妄念を実際に歴史事実として実現したのが、明治政府による1910年の朝鮮併合であり、朝鮮総督府政治であり、扶余神都計画であり、「扶余神宮」なのである。こうして「扶余神宮」において斉明天皇と天智天皇に並んで神功皇后と応神天皇が祭神となっているのは「これ以外にない」というほど必然であることが分かる。


ところで植民地朝鮮における神宮や神社や神祠の祭神はほぼ例外なく天照大神を主祭神として含む。天照大神を主祭神としなければ合法的な神社や神祠とは認められなかった。宗派神道各派が監視・制約・弾圧され軍と国家神道が一体だった戦前では、歴代9人の朝鮮総督がみな元帥や大将だったこともあり、この原則は軍の威力で厳しく執行された。朝鮮神宮では天照大神と明治天皇が、各道庁所在地の国幣小社では天照大神と国魂大神が、総督府の認めた各地の神社や神祠では天照大神と(のちには)明治天皇が、主な祭神となっている。ちなみに官幣大社である台北の「台湾神宮」でも、旅順の「関東神宮」でも、さらに(官幣大社ではないが)満州国の伊勢神宮たることを目指した新京の「建国神廟」でも、主祭神は天照大神である。「建国神廟」の祭祀府総裁は元日本陸軍中将だった。日本帝国は朝鮮・満州・関東州・中国で、多くの場合、支配地域の重要都市に一つずつ都合100以上の神社を建てたが、それらの主祭神はほぼ例外なく天照大神である。すなわち帝国の軍事的拡大は天照大神の支配領域の拡大でもあった。天照大神はまさに勝利の植民地征服神なのだ。

ところがどういうわけか「扶余神宮」の祭神の中にはその肝心の天照大神が存在しない!!! これは驚くべき超絶的例外である。本来なら(他はともかく)この「扶余神宮」においてこそ、かつての白村江大敗の屈辱を乗り越えた証として何が何でもまさしく勝利の植民地征服神である至高最高の皇祖神なる天照大神を祀るべきであろうが、意外にもそうはならなかった。これは奇妙なことに朝鮮半島では扶余の地においてだけいわば白村江大敗組の斉明と天智によって植民地征服勝利神の天照大神が「神社の外に押し出された恰好」、つまり「負け組」が「勝利の女神」を打ち負かした形となっている。上記極東支配地域の100を超えるほとんどの神社で主祭神だったにも拘らず、海外のしかも官幣大社の神宮(朝鮮神宮・関東神宮・台湾神宮・扶余神宮)で天照大神が祭神の中にないのは「扶余神宮」だけなのだ。

台湾神宮(1944)の例を見ても分かるように、海外で「神宮」に格上げされるのは天照大神が新たに増祀された場合だけ、つまり海外の神宮と天照大神は相即不離なのに、扶余神宮に天照大神はない。「扶余神宮」は事実上その規模と「神都」関連のゆえに天照大神を主祭神とする京城の「朝鮮神宮」よりも格上になるので、「扶余神宮」の祭神の斉明や天智は(ある意味で)「朝鮮神宮」の天照大神よりも格上扱いになる。これはつまり天照大神を祀る神宮や神社一般、すなわち日本の全神社のトップである日本総鎮守の伊勢神宮をも凌駕する計算なのだ。こうなった秘密は果たして何か? 

すでに柿本人麻呂が「草壁挽歌」において持統を「天照らす日女(ひるめ)の命」と表現したことや、記紀中で唯一の「祖母から男孫」への生前支配権譲渡の平行性(「持統→文武」と「天照大神→ニニギ」)や、持統の和風諡号である「高天原廣野姫天皇」および「大倭根子天之廣野日女尊」などを通して本稿が明らかにしたように、これは天照大神を天智の次女の持統を神格化したもの、つまり天照大神の実体を持統天皇とみれば、十分に納得がいく。現に少なくない研究者が神代紀における「天照大神→ニニギ」を、「持統→文武」の神話的表現とみている。皇祖神の天照大神が祭神の中に含まれていると、他の祭神はどうしても格下にならざるを得ない。特に天皇は誰も彼もみな皇祖神の後裔つまり格下になるので、斉明も天智も天照大神の子孫として遥かに格下になってしまう。それを避けるために(朝鮮半島における唯一の脱原則的な超法規的例外として)天照大神を祭神から外した。娘の持統(天照大神)が祖母(斉明)や父(天智)の祖先として彼らの上に(最高神として)祀られてはいけないわけである。これはまた天照大神の実体がまさしく持統である確かな証明でもある。

そして朝鮮半島全域でこの地においてだけ天照大神を祭神から外すという「千倍万倍甚だ畏れ多きこと」まで敢行して、この百済王宮跡地になんとしても斉明天智を祀る神宮を作りたかったのは、この地がそれほどにまで掛け替えのない究極の場所だということであり、それはまさしくこの地で「日本」の太祖である天智斉明から生まれて成長成人したためであり、だからこそ日本の「近江神宮」とは別に「扶余神宮」が要り、この白村江大敗の扶余の地が神都構想の対象つまり「神の地」とみなされたのだ。すなわち百済王宮跡地の「ここ」こそが「日本」の原点の地なのである。朝鮮総督府による「扶余神都計画」は当然・必然・不可避のことだったと言えよう。太平洋戦争直前の「扶余神宮」創立責任者たちは百済王家に由来するこういう事情も全て知っていたわけである。

むろん百済は扶余氏の王国なので、扶余氏でない天智の母の斉明大王では百済は成り立たない。斉明が死に扶余氏の天智が王位を称制し即位して初めて、滅んだ旧百済を継ぐ在日の新百済つまり「日本」が成立する。天智称制の辛酉年が神武紀元を決める「革命」(新王朝樹立)の辛酉年とされたのもそのためだ。結局やはり1320年説が正しかったわけで、そこからも天智の「日本」は「在日百済」だということが分かる。すると国号「日本」が「西の百済から見ての昇る根に移転した新百済」の意味であることにも納得がいく。もともと日本列島にいる者たちにはさらに東から日が昇るので、自らの国名を「日本」とは為し得ない。ちなみに煬帝への国書にある「日出處」についても、倭国の阿毎多利思北孤大王は、相手の煬帝から見てこちらは「日出處」に位置している、という視点で書いている。決して自分の位置そのものから「日出處天子」と自称しているわけではない。日は倭国のさらに東から昇るためである。そして「日本」が「在日百済」であればこそ、天智の和風諡号が「天命開別天皇」(天命でこれまでとは全く別の王朝を開いた天皇)とされたことにも、十分に納得がいく。したがって「天命開別天皇」のそもそもの真意は「天命でこれまでの倭人の王朝とはの、百済人の王朝をいた天皇」ということになる。


ここで視点を変えて王朝交代のタイプについて考えてみる。
(1)まず外国軍が侵入制圧して新王朝を樹立する場合は、旧王朝と新王朝は異民族同士のヘテロ状態になる。
(2)自国の内部で革命を起こして新王朝を樹立する場合は、旧王朝と新王朝は同民族同士のホモ状態だ。
(3)ある民族の内部で異民族の勢力が急速に伸長しついにその民族を支配して新王朝を樹立する場合は、いわば「ヘテロ状態」+「ホモ状態」になる。このとき新王朝は王朝支配の安定を求めて「ヘテロ状態」と「ホモ状態」のどちらを前面に押し出すか決めなくてはならない。(a)「ヘテロ状態」を前面に押し出せば、少数支配層が異民族である王朝が成立し、(b)「ホモ状態」を前面に押し出せば、異民族の少数支配層が旧王朝の民族に帰化同化した王朝になる。乙巳の政変後に倭国で起きたのは明らかに(a)ではない。

蘇我王朝の実在性が証明されたことで、その王朝を中大兄皇子の勢力が乙巳の政変で打倒し、新王朝の流れが成立したことも証明された。この新王朝は自らの出自を隠すために(蘇我王朝を歴史から抹消することで)万世一系の王朝史を捏造し、蘇我三代(馬子・蝦夷・入鹿)の時代を推古紀・舒明紀・皇極紀で偽史化した。この流れは明らかに王朝交代(1)のタイプではない。すると(2)か(3)の(b)のどちらかになる。(2)か(3)の(b)かは中大兄皇子の出自が倭人か百済人かで決定できる。つまり古代史の秘密を解く鍵はひとえに天智の正体、その出自にある。天智の正体(出自)は記紀を編纂指導した次女の持統の正体(出自)でもある。これが解けてこそ日本書紀の本質にかかわる謎、日本古代史最大の根本問題が解ける。したがってこれを未解決のままにした古代史研究は全て多かれ少なかれ一種の「砂上の楼閣」になる記紀編纂者の出自に由来する基本偏向(バイアス)が分からないままでは、正しいルートで真の歴史事実に到達できないからである。天智が「韓人殺鞍作臣」の「韓人」なら、(必然的に百済人となり、母とともに在日しているなど様々な証拠から百済王子の「翹岐」となって)、(3)の(b)が正しいとなる。そして天智が「韓人」であることが示されることで(3)の(b)が正しいことが、本稿で証明されたといえるだろう。

斉明と天智が百済人で天智(中大兄皇子)が百済王子の翹岐であると判明したことから、今度は乙巳の政変で翹岐によって暗殺された蘇我入鹿が倭国の大王だったことが明らかになる。入鹿を殺すことによって倭国の王朝が中大兄皇子なる百済人の手に渡ったというのは、入鹿が倭国の大王だったからに他ならない。天智と斉明(皇極)の母子は百済人と判明したので、そもそも天智による入鹿殺害(乙巳の政変)以前の「皇極」なる天皇は存在しなかったわけだ。こうして天智と斉明が百済人で天智が百済王子の翹岐であることが、「馬子→蝦夷→入鹿」と三代続いた蘇我王朝の実在証明になる。「蘇我王朝の実在性」と「天智=翹岐説」はそのどちらからも他方の証明ができる。むろん「蘇我王朝の実在性」と「推古・太子の架空性」は論理上、同値である。

さて、帰化同化王朝が万世一系の偽史で「もとから倭人だった」と同化をさらに徹底するのは、十分にあり得ることである。しかしその偽史によって旧百済王族の亡国の恨みが(何の根拠もなく横滑りして)倭人全体のものともなり、以後1300年間にわたる朝鮮人に対する全倭人の憎悪・侮蔑・加害・侵略を生み出す礎となった。倭人は誰も彼も持統による万世一系の偽史に騙されて、1300年ものあいだ、百済滅亡に関する百済王家の統一新羅(その後の朝鮮半島国家)に対する恨みを、百済人の代わりに、倭寇・秀吉の侵略・朝鮮併合などとして、巧みに実行させられてきたわけである。倭寇・秀吉の侵略・朝鮮併合の背後には、持統の報復史観による偽史(神功皇后三韓征伐による三韓永久神授説や任那日本府経営説などなど)があった。

神功紀の三韓征伐と三韓永久神授説は日本人の優越性を示すものとして好んで積極的に史実視され、日本が軍事的膨張時代に入るといつも「三韓を取り戻す天来の必然的な使命」となり、朝鮮半島への侵略口実として作動することになった。宿敵の統一新羅が高麗に滅ぼされた後も倭人がなおこうした数々の侵略行為を行ない続けたのは、旧百済の地を引き続き占有支配している朝鮮半島後継国家(高麗→朝鮮)に対する持統からの憎悪遺産にもよるが、何よりも持統の妄念が産んだ神功皇后三韓征伐という偽史を根拠に「神が永久に三韓を応神に与えた」と信じ続けたためである。もともと万世一系化は、(1)「日本」が「在日百済」である事実を隠すこと、すなわち天智と持統が百済人である事実を隠蔽するのが第一の目的であるが、(2)万世一系の同一王朝として、神功皇后三韓征伐の遺産である応神の三韓永久神授権を引き継ぐというのが第二の目的である。(1)の「出自隠し」はパッシブな目的であり、(2)の「三韓永久神授」はポジティブな目的である。むろん持統の創作による神功皇后三韓征伐や万世一系が偽史であり虚妄である真相が露見すると、こうした論理の三韓永久神授説も直ちに崩壊する。


筆者はかつて日本書紀を持統の妄念(唐と同盟して百済を亡ぼし旧百済の地を占有している統一新羅への復讐心に由来)が生み出した偽史の書として「持統日本紀」と呼びたいと記した。ここでそれと併せて、持統を皇祖神の天照大神として祀る伊勢神宮を「持統神宮」と呼びたい。持統の父の天智が建国した百済人の国家「日本」は、巡り巡って、①「持統日本紀」と②「持統神宮」の2つに基礎づけられた(在日百済人二世である)持統の国家となって、現在に至る。天智と持統の父娘によって倭国は百済に乗っ取られて「日本」となったわけだが、(本源である天皇家・皇族・宮内庁某関係筋・伊勢神宮・泉湧寺・明治維新と朝鮮総督府の一部関連名家などなどを除けば)、すっかり偽りの万世一系の皇国史観に上手く騙されて、そのことに気付いている日本人はほとんどいない。

天智と持統が倭人でなく百済人であること、「天照大神」が持統の神格化であること、「日本」は天智の更号した国名であること、天智は「在日百済」としての「日本」の太祖であること、推古と聖徳太子は日本書記が捏造した架空人物であること、馬子・蝦夷・入鹿と三代続く蘇我王朝が実在しそれを天智(中大兄皇子)なる百済の王子の扶余翹岐が乙巳の政変で転覆したこと、天皇家が神代からのものでなく蘇我王朝を倒してからのものであること、推古紀・舒明紀・皇極紀は馬子・蝦夷・入鹿大王時代の偽史であること、天智と天武は全くの赤の他人であること、天智の皇太子は大友皇子であって即位していること、百済王宮跡地の「扶余神宮」は百済王家出身の斉明と天智の母子を祀るものであること、任那と百済はそれぞれ応神と天智の祖国として倭国と日本の「君父の国」であること、神功皇后三韓征伐譚は百済滅亡に対する持統による架空の報復物語であること、それに基づいた応神三韓永久神授権は未来の天皇たちへの統一新羅(三韓の地)に対する報復・占拠・永久統治指示であること、変形された鄭玄の革命辛酉年説に基づき(共に王朝創始の同じ革命の出来事として)661年の「天智称制」が「神武紀元」を紀元前660年に決める基準とされたこと、こうしたことなども、一切、日本国民には隠されていた。これらの事実を知っていたのは本源の天皇家と皇族・宮内庁某関係筋・伊勢神宮・泉湧寺・明治維新と朝鮮総督府の一部関連名家などなどだけだった。そして何の根拠もなく偽史によって神代以来の「現人神」とされた(天孫でも万世一系でもない)百済人の後裔である天皇のために、数百万人の日本人が(すっかりだまされて)「天皇陛下万歳!」を叫んで虚しく戦場で死んでいった。そのあおりを受けて数千万人のアジア人も犠牲となった。むろん騙されている一般の日本国民は、昔も今も、その秘密を操る者たちの目に否応なく愚かに見えているに違いない。

そして「日本が百済(朝鮮)である」という秘密の下でこそ、かつての朝鮮植民地統治時代に「日鮮同祖論」が叫ばれ「内鮮一体化」や「皇国臣民化」などが策定され、「創氏改名」や「朝鮮語禁止」も強行された。常識的には植民地支配民族が被支配民族を同祖・一体視することはない。つまり「日鮮同祖」「内鮮一体」の秘密の本源は「天智=翹岐」なのだ。植民地時代に日本トップ支配層が「朝鮮人を日本人に同化させることができる」と思ったのも、そもそも「日本が百済」(「天智が翹岐」)であることを彼らが熟知していたからなのだ。これは古代に倭人となった百済人の天皇家が、近代になって今度は統一新羅の後裔たる全朝鮮人を一段格下の存在として強制的に日本人(倭化百済人)に隷属融合させようと図ったものなのである。すなわち明治維新後の世界植民地争奪戦の流れに沿いながら富国強兵とアジア侵略を推し進めつつ、(ある意味では)全朝鮮を得て一種の「統一百済」ともなし、朝鮮半島における古代百済の敗北形態である「統一新羅」とその後の流れ(→高麗→朝鮮)を完全に消滅させようと企図したものなのだ。朝鮮人には幸いにも日本帝国の敗戦によって水泡に帰したものの、もし天智と斉明および神功と応神を祀る扶余神宮が完工・落成・鎮座していれば、それは内々には「統一百済」なる「三韓永久神授の成就」を祝う感謝奉納神事となる筈のものだった。

ちなみに朝鮮総督府による扶余神都構想と扶余神宮創建はこれまで分析した通り天智の百済性をかなり露出させる危険性のあるものだった。見る者が見れば「丸見え状態だった」とも言える。それでも天皇家は何らかの形の本貫回復(百済扶余氏の回復)という潜在的誘惑に勝てなかったわけである。南京陥落(1937年12月)後の日本帝国は絶頂期にあり、創氏改名や朝鮮語禁止などを推進できるほど朝鮮民族の皇国臣民化も峠を越えていて、「誰も疑えない記紀の皇国史観の権威もあり、検閲や弾圧や誘導もできるので、この程度の露出なら危険性はない」と判断して、扶余神都構想と扶余神宮創建を敢行したものと思われる。まさか日米開戦で全てが挫折するなど予想すらできなかった。

このように「推古」(古きを推し量れ)という鍵は日本書紀の究極の真相まで解くことのできる鍵だったのだ。つまり虚構の推古紀は日本書紀なる虚構全体の心柱とされていたわけである。


上に述べた斉明と天智が百済人である13の主な証拠を表にしたので、ご参考いただきたい。右列の数字(%)は筆者の判断による当該単独項目での証明確率。単独でも完全証明できる100%の項目、すなわち斉明と天智が百済人でなければ決してあり得ない項目が9つもあるが、全ての項目を互いに相関させて鳥瞰すると誰の目にも証明の完全性がより一層明瞭・明確になり、斉明と天智が(したがって持統も)百済王家の出自だと100%確実に断定できる


 1  白村江  67歳の老齢女性天皇による辺鄙で不便な北九州への天皇家総出は「家族一丸」の家族行動  100
 2 白村江の戦いなど百済復興支援軍派遣は「旧友邦再建」という目的を遥かに超えた一蓮托生の大決断  100
 3  和風諡号 「皇祖母尊」と「天命開別天皇」は万世一系の否定であり「天命開別天皇」は新王朝の太祖を意味する   100
 4  称制年 神武紀元を決める基準「革命年」を百済滅亡翌年の「天智称制年」に設定(天智称制=革命=新王朝)   90
 5   乙巳政変 中大兄皇子が入鹿暗殺当人なので「韓人殺鞍作臣」の「韓人」は中大兄皇子のこと   100
 6 乙巳政変の困難さは中大兄の母(皇極)でなく入鹿大王の座所で入鹿殺害が行われたことを示す  60
 7    扶余神宮  「扶余神都計画」は百済王都を「神の地」とすることで天皇家並みに百済王家を神格化している   100
 8 わざわざ血の異なる他王家の王宮跡地に「神聖不可侵」な天皇家の斉明と天智を祀っている  100
 9  王族や宮女たちの死霊が彷徨っているかもしれない百済敗亡の「凶地」に斉明と天智を祀っている   100
10 百済王宮跡地に神宮を建て斉明と天智を祀ると「彼らがかつてそこに住んでいた」という形態に繋がる   100 
11 「大敗記念殿」のようになるのもやむなく白村江大敗組の斉明と天智をその敗北地で祀っている   90
12 近江神宮と同時並行して築くことで過分にも天智を祀る神宮が内外で二つになった(天智+翹岐)   80
13 天照大神が全神社で祭神から唯一除かれるほど百済王宮跡地が斉明と天智にとって究極的で本質的  100


これに加えて、[14]「国号変更と遷都」(証明確率 95%)の項目もある。天智は、(A)この数百年来、様々な倭人王朝においても維持された伝統的国号の「倭」を百済と同じ漢字二字の「日本」に変え、(B)倭人国家が伝統的に都を置いていた大和盆地を捨てて完全新規に(倭人の手垢のついていない)琵琶湖畔の近江京に遷都している。これらはともに古くからの倭人の貴重な伝統を無視し放棄するもので、こうした国号変更と遷都が天智によってほぼ同時に行われていることも、天智が倭人でない証拠となる。同一王朝で遷都は時折あり得るが、遷都と国号変更が共に起こることはない。この二つが共に起きるのは王朝交代の時だけである。この王朝交代は倭人の伝統を無視している点からみて倭人によるものではない。天智が倭人でなければ様々な証拠から百済人である。読者には以上の14個条の項目を相関させ全体を鳥瞰して判断してほしい。



ここでこの節の「まとめ」の意味で三句を添えておきたい。



         隋書にて 推古と太子 泡と消え


         日本書記 百済を倭へと 衣替え


         伊勢の宮 持統祀って 天照らす







さて話は変わるが、蘇我王朝が実在し聖徳太子が架空である以上、皇極二年十一月一日、入鹿が巨勢徳太と土師娑婆に(聖徳太子の子だとされている)斑鳩の山背大兄を撃たせた出来事は、斑鳩がもし馬子の別邸のあったところだとすれば、そこは馬子の親族である筈の誰かの住居となっていたというのが自然なので、入鹿が叔父か大叔父の誰かを撃ったということになりはしないだろうか? 

また乙巳政変の五ヵ月半後(大化元年11月30日)に謀反を企てたとして中大兄皇子に殺された(兄とされている)古人大兄皇子は、本当は馬子の娘(法堤郎女)との間にできた舒明の長子でなく、蘇我氏でない女性との間にできた蝦夷の子だったのではないだろうか?

というのも、舒明の実体は蝦夷だからである。「馬子の息子と馬子の娘の間に生まれた子」というのはほとんどありえない。「古人」とは蘇我王朝なる「い王朝の」という意味かもしれない。

そういうわけで、結局、馬子・蝦夷・入鹿の蘇我王朝時代に起きた推古・舒明・皇極の関係するあれこれの内紛・政争は、推古・舒明・皇極が馬子・蝦夷・入鹿の別体なので、結局、蘇我大王家内部の争いということになる。

その蘇我家の内紛を(架空の神代以来の天孫一系の)天皇家と蘇我家の両家に絡む複雑な内紛・政変として描いたのが、(どうしても蘇我王朝を歴史から抹消したい思いで書かれた)日本書紀であろう。

持統と不比等は自らの出自を隠すため、また三韓神授説を唱えるため、神代からの皇統や藤原氏の族譜を創作し、かつ蘇我氏を藤原氏並みに一豪族化することによって、蘇我王朝の存在を歴史から抹消しようとした。こういう視点から歴史の実態を再構築する必要があるだろう。



日本書紀の歪曲・偽史性はむろん天智の娘である最高編纂者・持統の意図・妄念によるが、根本的には天智による在日百済王朝なる「日本」の樹立にその原因がある。

在日百済王朝の樹立という出来事によって、朝鮮(統一新羅)に対する無視・軽蔑・敵意 / 天孫皇統一系化 / 蘇我王朝の否定が生じ、これらがそれぞれ対外国・対朝廷・対豪族などなどの編纂目的となって、無数の粉飾と創作が全編的に行われた。

むろん架空の神功皇后による架空の三韓征伐やその後の長大な架空の任那日本府経営などは、唐と図って百済と自家の王家を亡ぼした統一新羅に対する持統の劣等感と復讐心の生み出した、架空の倭人優越史なのだ。

しかし日本書紀歪曲の究極の原因は在日百済王朝の樹立そのものでなく、結果として在日百済王朝を生み出すことになった中大兄皇子による645年の乙巳の政変である。乙巳の政変こそ、その後めぐりめぐって在日百済王朝を生み出した究極の原因だからである。

日本書紀の偽史性は全て(百済王家系権力の登場した)乙巳の政変を淵源とする。そういうわけで日本書紀は乙巳の政変そのものを歪めただけでなく、さらにその前史と後史を根本的に歪めることになった。



前史の歪曲としては、倭国大王家の蘇我氏を架空の天孫皇統一系の天皇家を取り巻く一豪族として描き、乙巳の政変を、入鹿が皇位を簒奪しようとしたことに対する天孫天皇家による裁きとして描くことになった。

このとき蘇我蝦夷や入鹿が大王として行った様々な行為(やつらの舞・雨乞い・冠位や氏姓の下賜・「宮門」「王子」「陵」「廟」などの命名・陵墓築造における部民動員・「天皇記」「国記」「珍宝」などの保有などなど)を天孫一系天皇家に対する挑戦行為として描き、本当は百済人の天智(扶余翹岐)の方こそ大王位の簒奪者だったのに、事実を逆転して、「無法にも一豪族の蘇我氏が簒奪を目論んだ」とした。

そもそも百済武王の王子だった天智による易姓革命・王朝交代は、一般唐人に対しても、(将来の)倭人に対しても、隠蔽されねばならないものだった。そのためどうしても天智を過去の大王家の系譜の中に潜ませねばならなかった。

むろん討ち亡ぼした蘇我王朝の系譜の中に天智を潜り込ませるわけにはいかない。それで倭国大王家の蘇我氏とは別に、伝承された途切れ途切れの諸王朝を無理やり繋いで新たに神武開闢による天孫皇統万世一系の天皇家なるものを捏造し、蘇我氏をその天皇家の一豪族とし、天智はその天孫天皇家の舒明と皇極の長男だということにせざるをえなかった。

神武以来続いているという「万世一系」は古代史学では否定されている。もともと万世一系だからこそ「神武による王朝開始が同じ大王家の開闢物語として子孫代々伝えられてきた」という理屈になるが、万世一系が事実でないのであれば、いかなる王朝も自分に無関係な他の王朝の(神々の時代までさかのぼる)開闢物語を後代に伝える意味がない。伝えた瞬間にその王朝の方が神格化されて自らの王朝の立場がなくなる。

つまり神々の時代までさかのぼる万世一系化は歴代最終王朝(記紀を編纂した王朝)でのみ構想可能な捏造作業なのだ。一番最後に現れた王朝が自らの先祖を中心的な神々とする架空の神代紀を描き出し、それらの神々の流れとしてその後の歴史を歪曲・編集・統一し、万世一系化できるのである。



大王家の系譜捏造は、おそらく白村江大敗後、唐の襲来に対処するための砦・城・水城などの築造や都の内陸移転などと前後して外交的な立場から着想されたと想像される。白村江大敗翌年の664年に唐軍の郭務悰が倭国に遣わされ7か月間も滞在している。

倭国側はたぶんその時に百済救援軍の派遣を詰問され天智と百済王家との関係を尋ねられた筈だが、むろん「天智は倭人で百済王家とは一切無関係だ」と主張したに違いない。でないと唐軍の倭国侵攻を阻止できなくなる。唐側も天智が百済の王子だったということになれば「倭国すなわち百済」となるわけで、侵攻しない名目も立たず、体面上、嫌でも倭国侵攻に赴かざるを得ない。

唐軍側は天智が百済人であることを様々な情報筋から知っていた筈。しかしそれが倭国王家側の自認したものとして公に高宗や則天武后の耳に達すると、唐としても倭国遠征を避けられず大いに困ることになるので、内心は嘘でも「天智は倭人である」と倭国側に言明してほしい。狭い島国の倭国に大船団で侵攻し支配しても遠海の領土なので結局得られるものは少なく、統治を続けるのも困難。費用対効果が小さすぎるからである。

他方、唐側のそういう立場について確信の持てない倭国側としては、郭務悰側に天智が扶余翹岐である事実を知られないよう環境を整備する必要が生じ、それが唐とのその後の長い折衝の中で態勢化してゆく。つまり倭国王朝側では「天智は百済人でなく倭人である」という偽史受容の様態が発生し、その後それが成長してゆく。むろんその過程で天智を倭人化する様々なアイデアが生まれて精妙化するわけである。

天智が百済王子の翹岐なら、以上の展開には不可避的な必然性があり、大筋こうならない筈はない。こうして天智の系譜に関する偽史構築が唐軍の侵攻による「倭国滅亡」という国難回避に必須の正義・大義となった。そもそもこういう事態になったのも、乙巳の政変で外国人の百済王子が倭国の蘇我王朝を倒して実権を得、称制を経てついに倭国の大王になったためである。

こうした系譜捏造の作業は(倭人に対する在日百済の純日本化という目的を実現させるためにも)その後さまざまに工夫洗練されて720年の日本書紀で完成した。その完成態が蘇我王朝を抹消した「万世一系化」なのだ。打倒した蘇我王朝に自らを繋ぐわけにはいかないので、そうなった。



この「倭人に対する在日百済の純日本化」についていえば、まず天智称制(661)から天智即位(668)まで7年も掛かったのは、扶余氏の翹岐が倭国の大王に即位すると倭国が百済に乗っ取られた姿になるので倭国側が強く抵抗したことによる。むろんそこには白村江敗戦の責任問題もあっただろう。

この即位問題が克服できたのは、翹岐側の勢力が(百済からの避難民を大量に受け入れるなどによって)ある程度育ったことも一因だが、もう一つは翹岐が倭国側に妥協し(百済性を後退縮小させて)帰化王朝となることを受諾したためだろう。

しかし白村江大敗後の唐の侵攻を予防するために対外的・形式的には「古来からの倭人だった」としたが、自身としてはそこまでの譲歩はしなかった。それをのちに、娘の持統が帰化→同化をさらに推し進め、日本書紀における万世一系化工作で「もとから倭人だった」として「純日本化」を完成したのだ。

それによって天皇家は倭人の中に溶け込むことができ、1300年後の現在まで存続しえた。もし倭人の間で広く天智と持統が百済人である真相が知られ続けていれば、天皇家は短命に終わったことであろう。

このとき百済王家の姓氏である「扶余」は捨てられ、隠され、同時にこの新たな天孫一系の天皇家の姓氏も、神代以来ずっと存在しないものとされた。その際、「外来政権ではなく倭国古来の大王家の血筋である」と大王(天皇)みずから提唱主張することは、露骨に外来政権が倭国人を支配しているという姿に比べて受け入れやすいものだった。

こうして蘇我王朝は歴史から消去され、馬子・蝦夷・入鹿に代わって架空の推古・舒明・皇極を倭国の大王として描くことになった。つまり推古紀・舒明紀・皇極紀は、それぞれ概ね馬子・蝦夷・入鹿の各大王時代の偽史なのだ。

また在日百済が本国百済のように滅ぼされることのないように、蘇我氏三代の供養として、それらの別体(招魂体)である架空の聖徳太子を描出・祭祀した。さらに架空の聖徳太子の超絶した聖性・徳性・賢性によって推古朝を事実化し、また馬子の偉大な業績の半ばを聖徳太子に帰着させ、それによる蘇我王朝の消去を通して万世一系化の一つの土台を築き上げた。



これが乙巳の政変に直接する前史の改変・偽史化である。むろん架空の聖徳太子の父とされる用明もほぼ架空人物になるが、架空女王の推古の父とされる欽明も史実をどれほど反映しているか分からない。

この欽明は任那(金官伽倻国)が新羅に滅ぼされた欽明二十三年(562年)正月条で、「・・・・君父の仇を報いることが出来なかったら、死んでも臣子としての道を尽くせなかったことを恨むことになろう」(報君父之仇讎。則死有恨臣之子道不成)と詔を結んでいるが、これはつまり任那が欽明にとって「君父のいたところ」という意味の文である。こういうところにちらっと歴史の真相が露出している。

馬子の父の蘇我稲目が仕えた欽明はおそらく蘇我王朝直前に存在した王朝の末期の王であり、どうやら任那王と君臣父子の関係にあったようだが、そんなことは架空の倭人優越史を展開する日本書記からは読み取れない。むろん「君臣父子の関係」といっても単に由来による権威関係にすぎず、実力は倭国側にある。倭国は新羅や百済の侵略から弱小の「君父の国」の任那を救い出す救援軍をたびたび派遣したに違いない。

継体紀の冒頭で応神の五世孫とされている継体(在位507~531)はおそらく任那王家の王子で、かつて任那王だった東征王の応神(河内王朝太祖)の系譜が途絶えた結果、倭国に招請されて、任那王家から「入り婿」形式の継承者としてやって来た者ではないだろうか。

だからこそ507年の葛葉宮での即位後なんと19年も経った526年まで各地を転々として大和に入ることができなかったのだろう。そう考えないと在位期間のおよそ8割に及ぶ「19年」は余りにも異常すぎる。だが倭人から見て「異質」と感じられたとすれば、この「19年」も何とか説明が付く。欽明はその継体王朝系列の王だったので「君父の仇を報いる・・・」の詔が出されたと思われる。でなければ詔の意味が通じない

応神は任那人→応神の「五世孫」とされているから継体も任那人→継体の子孫の欽明は任那人の後裔→任那王家は欽明の君父筋→「君父の仇を報いる・・・」の詔、と繋げば詔の意味は通じる。

事実「任那」は日本語で「ミマナ」と読むが、これは「御・真・那」であって「尊ぶべき本当の国」すなわち「祖先の国」という意味。「任那」を朝鮮語で読めば「im-na」であり、im は「主君」「王」、 na は「国」を表すので、「任那」すなわち「主君の国」という意味となる。

また「任」は nim とも発音される。例えば手紙の宛先個人名(漢名)の下に「任」を付けて nim と読み、日本の手紙の「殿」や「様」として用いることがある。これについてはかつて白鳥倉吉が、「ミマナ」は nimra の転訛で、王または君主を表す nim に ra という助詞が加わったものだろうと推測している。

さらに金達寿氏は『日本古代史と朝鮮』(講談社学術文庫 288ページ)のなかで、日本書紀そのものが一方では任那を『屯倉』(みやけ)つまり植民地のように記述しながら、他方で任那を同じ発音の「官家」(みやけ)とし、それを「内官家(うちつみやけ)=日本国之官家」(日本国の君主の国)と表現している、と指摘している。



ちなみに「官家」には「天子・朝廷・国家」の意味と「屯倉」の意味があり、日本書記は両者を意図して両義的に混用している。敏達紀十二年七月一日条には、「先代天皇(欽明)の世に新羅が内官家之國を滅ぼしたが、先代天皇は任那の復興を謀るも崩れてその志を成せず、それで自分はその神謀を助け奉って任那を復興するつもりである」という詔がある。

ここの「内官家之國」は欽明二十三年の詔の流れでいえば「倭国王家の君父の国」という意味になるが、神功摂政前紀・雄略紀・継体紀・欽明紀・崇峻紀・推古紀・孝徳紀などでは「官家」「内官家」は例外なく「植民地」「天皇家直轄地」の意味で使われている。雄略紀二十年冬の「日本國之官家」も(表向きは)「天皇家直轄地」の意味である。

しかし日本書記が「官家」や「内官家」という語を使う場合、「本当は倭国王家の君父の国」という意味を裏に含ませながら、表面では偽史操作で「直轄地」「植民地」として表現している。つまり「官家」の両義性を利用した意図的な混用をしているわけである。「屯倉」というはっきり区別できる言葉を使用するなどでこの両義的な曖昧さを避けられたにも拘らず、そうしなかった。

たとえば孝徳紀の大化元年七月十日条に、「始め遠い我が皇祖の世に百済国を内官家にした…」という百済使への詔があるけれども、すでに乙巳の政変で中大兄皇子なる百済王子の扶余翹岐が倭国の実権を握っている状況下では、この「内官家にした」を「植民地にした」という意味だけで捉えてはいけないことが分かる。そこには時代背景を超えて(百済王子の翹岐による蘇我倭国王朝の転覆によって)「倭国の大王が百済国を君父の国にした」という意味が潜んでいる。

もともと天智や持統にとっても応神や継体にとっても朝鮮本土におのれの王国である祖国が存在していたわけである。むしろそこが「君父の国」(官家 ─ 内官家之國 ─ 日本國之官家)であり、見ようによっては倭国側が植民地(屯倉)だったともいえる。持統が倭人優越の偽史によって母国百済を含む朝鮮本土の方をやむなく植民地として歪曲表現するに当たっても、両義的な「官家」という語を使って、裏側では「任那も百済も本当は倭国王家の君父の国ですよ」というふうに滲ませたかったのだ。むろん読者に真相開示の「鍵」を提供するという意味もある。



ここから真実の任那は「任那日本府」が置かれた植民地であるどころか、むしろ倭国王家の君父の地だったことが推察される。任那復興への願いはもともと植民地回復でなく、白村江の戦いにおける百済復興への願いと同じく、そもそもが「君父の国の旧祖国を復興したい」という意味だったわけである。統一新羅に対する持統の報復史観が生み出した「倭人優越の偽史」によって、倭国と朝鮮半島との関係史のうち朝鮮半島優越部分のほとんど全てが、「日本書記」において事実を逆転して描かれてしまっているのだ。

現にそもそも天智・持統の王朝自体が百済人の優越した百済人の王朝ではないか。それを「万世一系」の偽史で「もとから倭人だった」として、百済人の持統自ら「倭人優越史」へと逆転させてしまっている。

 (注)ちなみにこの河内王朝太祖の応神は実在するそもそもの東征王のこと。このとき任那王
    だった応神は軍を引き連れて倭に渡り、東征して倭の大王になったのかもしれない。そ
    うであればこそ応神の後裔である「倭の五王」が中国南朝の皇帝に対して(たとえ実勢を
    伴わない名目だけのものだとしても)「使持節都督・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸
    軍事安東大将軍倭国王」などを称したと思われる。持統は日本書紀で、河内王朝太祖であ
    るたぶん南韓任那出身の実在の応神を、万世一系における架空の神功皇后と架空の「応
    神」天皇の母と子の二時代、すなわち神功紀と応神紀に分けることで、神功皇后三韓征
    伐譚と三韓永久神授説に利用した。

    実在の応神の侵攻ベクトルは「朝鮮半島→日本列島」だったが、持統はそれを、倭人優越
    の報復史観で、神功皇后三韓征伐の「日本列島→朝鮮半島」の侵攻ベクトルに逆転させ
    た。応神も任那の朝鮮人、その血脈が途切れて呼び寄せた継体も任那の朝鮮人、筑紫の
    磐井の乱(527年 継体21年)で磐井の背後にいたのは新羅、すると磐井の乱は任那と
    新羅の日本における代理戦争の様相を帯びることになる。また先祖が満智→子→高麗
    →稲目→馬子と続く蘇我王朝も朝鮮人系王朝であることは明白(おそらく百済から渡来した)。
    さらに斉明も天智も持統も百済の朝鮮人だったわけで、このようにして古代日本史は朝鮮半
    島系諸勢力間のせめぎ合いの歴史だったことが分かる。持統はそれを「万世一系化工作」で
    すべてひっくり返して、天孫由来の倭人優越の歴史に作り替えた。

    すると真の日本古代史は、概ね(1)奈良のヤマト王朝→(2)河内王朝→(3)継体王朝→
    (4)蘇我王朝→(5)扶余王朝と歩んできたことになる。むろん細部まで見れば(4)と
    (5)の間に孝徳朝と斉明朝があるといった具合に、各王朝や王朝間にも日本書記で言及
    されていない王朝交代の複雑な紆余曲折がある筈である。(2)と(3)は伽耶系、(4)と
    (5)は百済系。(1)のヤマト王朝とそれ以前についてはやはり判然としない。とはいえそこ
    でも、渡来勢力の渡来時期に時代的により近いとか、北九州の諸勢力や出雲などについて
    は地理的に朝鮮半島の祖地・祖国により近接しているとかで、古代日本史は一層、朝鮮半
    島系諸勢力間のせめぎ合いの歴史だった筈である。

そういうわけで推古紀に先んじる欽明紀・敏達紀・用明紀・崇峻紀も(そこに架空の推古や太子などの生まれ育つ記述もあるので)ほぼ史実を巧妙にすり替えた偽史と考えてよい。

推古時代を中心にその前後も含めほぼ100年分は事実関係を巧妙に歪めた偽史と言わざるを得ないが、架空の任那日本府回復に邁進する欽明以前の記述も信用ならない。むろん神代紀・神武天皇以降の皇統譜・神功皇后三韓征伐・任那日本府経営などなども偽史であり、遠い前史の改変・偽史化も必要に応じて大々的に行われている。



後史の改変・偽史化は、(おそらく実際は蘇我王朝直前王朝の直系だった可能性の高い)孝徳をこの架空の天孫天皇家の系譜に位置づけて描き、また斉明を皇極の重祚とし、さらに舒明と皇極/斉明の長男・次男として天智と天武を描くことである。

乙巳の政変で蘇我王朝を転覆したものの、来日して数年しか経たない外国人である百済王子の扶余翹岐がそのまま日本の大王になるのは全く不可能なので、一時的な「つなぎ」として必然的に蘇我王朝直前の倭人王朝の直系末裔との提携が要求される。それが孝徳。

斉明を皇極の重祚としたのは、入鹿が蘇我王朝三代目の大王であるという史実を隠蔽し、蘇我王朝の存在しない万世一系化を実現するため。乙巳の政変は実質的に「倭人王権→百済人王権」となった古代史上最大の切れ目の一つなので、そこになるべく「万世一系化」のための連続性が求められた。それが重祚であり、重祚によって難なくその切れ目が繋がるのである。

天智と天武は血の繋がる兄弟ではなかったが、持統の父と夫であったために血縁的に繋げられて兄弟とされた。天智に大友皇子という立派な息子が存在している条件下では、少なくとも「同父同母の兄弟」という風に造作しなければ、大友皇子を差し置いて、天武を天智の皇太子(皇太弟)として描ける筈もない。

こうして壬申の乱の真相もまた歪められ、天智の死の真相や天智を継いだ筈の(真相は皇太子だった)大友皇子の即位も隠された。大友皇子は明治三年に「弘文天皇」(672)として諡号を追贈されているが、天皇に即位したかどうかは王朝の最高重大事。こんなことは史実から離れて勝手には決められない。

つまりこれは皇室やその菩提寺である泉湧寺など特定の筋に伝わっている歴史の真相によって史実が回復された、ということを示す。同時に(あまり注目されないが)これは天武が天智の同父同母の皇太子(皇太弟)であるように記した壬申の乱を含む日本書記の記述を根本的に否定するものなのだ。

また(否応なく易姓革命・王朝交代を連想させる)天智による国号「日本」への改号について、日本書紀では何も語らないようにされた。「天皇」という称号の起源についても日本書紀は何も触れず、初めから「神武天皇」という表記をしていて、そもそも「日本」も「天皇」も皇統の最初期から存在したかのように記述した。

これは「日本」を国号とした天智朝や「天皇」を初めて称した天武朝やこれらの時代を受け継いだ持統朝の思想、すなわち持統天皇の思惑が日本書紀の最過去まで強く反映していることを証している。つまり日本の歴史はそれだけ根本的に構造的な歪曲を受けた。



ところで、アカデミズムは日本書紀の記述から遠く離れることを極度に恐れる。推古後について日本書紀はほとんど唯一の文書史料なので、これには仕方のない面もある。しかしそれではどうやってアカデミズムは日本書紀の虚偽から自由になれるのであろうか? これでは結局だまされる以外に道はない。

アカデミズムのこの弱点は、蘇我王朝の存在を示す外部史料の隋書倭国伝の内容(男王の阿毎多利思北孤と国書の「日出處天子致書日没處天子無恙」)を古代史研究の原点に据えることで解決できる。

さらに(日本書紀のあらゆる歪曲の原点である)乙巳の政変における古人大兄皇子の謎の言葉(「韓人殺鞍作臣」)、および天智の「天命開別天皇」という和風諡号、そして天智称制年である661年日本書紀発端編纂基準年説が正しい方向に導いてくれる。

敗亡した百済再建のための北九州への天皇家総出の出征や白村江への出兵などに見られる否定しようもない「家族的動機」もむろん決定的な道標になる。さらに朝鮮総督府による扶余神都計画や「扶余神宮」創建のこともある。

天智が百済王子の扶余翹岐なら、翹岐が百済人でなく倭人であるように偽るのは、白村江大敗後の唐の倭国侵攻を回避するために倭人の誰もが認容する正義大義の必然的な外交政策になるので、倭人はその系譜捏造にいささかの羞恥心もなかったであろう。

そしていったん翹岐を古来からの倭人王朝の系譜に位置づけるとなれば、打倒した蘇我王朝の人脈のあとに続けるわけにはいかないので、蘇我王朝を抹消した太古以来の壮大な偽史が要求されることになる。

それが分かればアカデミズムもやっと日本書紀の大嘘を受け入れることができる。したがってアカデミズムは何よりもまず天智が百済人かどうか判断しなくてはならない。すべてはそれからである。



日本書紀の偽史問題は基本的には前節の『偽史発見の視点』ですでに解決済みであるが、隋書倭国伝や「扶余神宮」とは別に日本書紀などの国内材料から古代史の真相(蘇我王朝の消去 / 万世一系化 / 天智・天武・持統の出自)に至るには、まず多かれ少なかれどの日本人の心の中にもある「万世一系」の呪縛を自ら解くことが必須で、その手っ取り早い切り口の一つが天智・天武兄弟説を疑うことである。疑うに足る証拠は、

●天武が(一方通行的に)天智の娘を四人も嫁としているという決定的な事実以外にも、
●日本書紀が天武の生年を隠し通して天智との本当の長幼関係を隠蔽している
●天智が息子の大友皇子を差し置いて「弟」の天武を皇太子にしている日本書紀における無理筋の存在 ─ ( これはそもそも天智と天武が赤の他人なので、ともかく少なくとも同父同母の兄弟というふうに工夫しないと天智が天武を皇太子にできないところから生じている。しかしよくよく考えるとそれでも無理がある。息子がいるのに「弟」に国家の大権を譲り渡しては、息子の命などなにも保証できない。つまり息子がいるなら、決して「弟」に大権を譲り渡せるものではない。げんに壬申の乱で息子は「弟」に殺されている)
●大友皇子は明治三年に「弘文天皇」(672)として諡号を追贈されている─ ( これは天武が天智の同父同母の皇太子(皇太弟)であるように記した日本書記の記述を根本的に否定する)
●天武系の陵墓である高松塚古墳やキトラ古墳が高句麗系の壁画を持つ─特に「太陽の中の三足烏」の図
●延喜式で天武系陵墓が遠陵扱いになっている
●天皇家の菩提寺である泉湧寺では天智系だけが供養されている

などなどが存在する。人間の読む正史の日本書紀では嘘でごまかすことができても、「神仏はごまかせない、ごまかしても意味がない、ごまかすとむしろ成仏できなくなる」という意識が当然のことながら存在するから、天智・天武が赤の他人なら、天武系陵墓を遠陵扱いせざるをえないし、泉涌寺でどうしても天武系を供養できないわけである。つまりこの遠陵扱いや泉涌寺での不供養は、天智・天武が兄弟でなく全くの赤の他人であるという事実の(ごまかしのきかない宗教心層に発する)強力な絶対的証拠なのだ。

筆者も数度訪れた京都の泉湧寺については、もし天武系の途絶した直後の光仁天皇以降の天皇とその皇族たちだけが供養されているなら、話は通じる。だが天智以降なら、天智のあとに(藤原京時代および奈良時代として)天武系が一世紀ばかり続くので、それを全て排除するのでは話は通じない。それでは日本書紀で表現されている万世一系論を覆すものになる。

万世一系が現に日本書紀として主張されているのに、途中のある系譜だけを供養するというのは、非常におかしい。たとえばもし舒明以降を供養するというのであれば、ともに舒明の息子である天智も天武も等しく供養されることになる。天武系だけが排除されるということはない。これは供養対象を舒明以降から神武以降までどんどん遡っていっても同じであり、本来これが万世一系のときの供養方式であろう。

しかし天智と天武が赤の他人である場合、万世一系はそこで崩壊しており、当然のことながら日本書紀で彼らの共通の父とされている舒明なる天皇は架空の天皇となる。そうした真相を知っていたとするならば、泉湧寺は舒明を供養したくてもできないわけである。むろん(伊勢神宮が「天照大神=持統の神格化」であると知っているように)、泉湧寺も天智だけでなくその赤の他人の天武の正体さえ知っている。知っていないと確信を持って正しく供養できないからだ。

泉湧寺が天武系を排除したまま天智系のみを供養しているのは、天武が天智の娘を四人も嫁としている事実を含めて常識的に判断すれば、天智と天武の間に血のつながりが全くないことを示している。これは彼らの共通の父母である舒明天皇と皇極天皇も実在しなかったという意味でもある。

そこに至ると誰もが「万世一系」というこれまで自分の心を強く縛っていた皇国史観の呪縛から解放され、誰の目にも古代史の有様が新しい視角で現れてきて、白村江の戦いの真実だけでなく蘇我王朝の実在性や聖徳太子と推古の架空性も視界の中に入ってくる。まず何よりも必要なのは日本書紀の虚偽構造の根底を成す「万世一系」という持統の呪縛から自分の心を解き放つこと。そのための手っ取り早い一つの切り口が「天智・天武兄弟説を疑うこと」なのだ。本稿もそこから始めた。



前章の『偽史発見の視点』では、①隋書倭国伝によって推古の架空性とそのことによる聖徳太子の架空性が確定し、②また「白村江の戦い」や「扶余神宮」などなどの視角から斉明と天智の母子が百済王家の出自であることも確定した。①からはさらに阿毎多利思北孤が推古時代の本当の大王で、彼が「馬子」であることが明らかになって、そこから「馬子→蝦夷→入鹿」と三代続く蘇我王朝が実在したことが明白になった。

すると否応なく乙巳の政変は百済王子の扶余翹岐が倭国蘇我王朝三代目の入鹿大王を暗殺した王朝転覆事件となる。したがって天智の次女の持統は日本書紀という日本最初の正史で、こうした史実を「万世一系化」という偽史操作によって、全て徹底的に覆い隠したわけである。

このとき持統は朝鮮半島人二世でありながら「万世一系」によって「もとから倭人だった」としたため、母国百済を滅亡させその地を占有支配している統一新羅(朝鮮半島国家)に対する憎しみから、日本書紀を「倭人優越の報復史観」で叙述させ、倭国と朝鮮半島国家との太古からの優劣関係を都合のいいように全て逆転させて、日本古代史全体を虚偽で埋め尽くした。

祖先が朝鮮半島から渡ってきたのを「天から降臨してきた」として神代紀で叙述したのもそのためである。これが記紀の「天孫降臨神話」となった。祖先(つまり持統の父の翹岐と祖母の斉明)が朝鮮半島(百済)から渡ってきた史実をそのまま記述してしまっては「倭人優越史観」もそういう観点からの「報復史観」も成り立たなくなる。



結局、天智(中大兄皇子)が扶余翹岐であれば「皇極」は架空で蘇我王朝は実在したのであり、蘇我王朝が実在したのであれば、聖徳太子と推古は架空の人物となる。①天智イコール扶余翹岐  ② 蘇我王朝の実在性  ③ 聖徳太子と推古の架空性、この三つは一組の真実なのだ。事実、このうちのどの一つからでも他の二つが導出できる。③については推古が架空なら太子も架空なので、したがって推古の架空性が証明できれば実は①②③の全てが証明できたことになる。

②と③は論理的には同値なので、①→②と②→①が証明できればいいわけだが、①→②の証明は済んでいるのでここでは②→①の証明をしたい。つまり蘇我王朝の実在性から斉明天皇と天智天皇の母子が百済人であることが証明できる。というのも蘇我王朝の実在によって「皇極でなく入鹿が大王だった」となる。すると乙巳の政変の時の古人大兄皇子のあの「韓人殺鞍作臣」の「鞍作臣」とは入鹿大王のことであり、したがって「中大兄皇子」は倭国大王家の皇子ではない。そして皇極紀における情景描写から入鹿大王殺害者の「韓人」は殺害首謀者で実行者の中大兄(天智)のことになるので、「韓人」すなわち天智ということになる。天智が「韓人」となると、斉明と天智が百済人である13の主な証拠を並べた上記の表や亡命百済人の大量受け入れなどから、この「韓人」が百済人であることは100%確実。すなわち天智と斉明の母子は百済人であると判明する。

以上によって上流から下ることでも(③→①)、下流から遡上することでも(①→③)、同じ真相が証明できたわけで、証明が円環のように(③→②→①  ①→②→③)と自己完結して「絶対の科学的証明ができた」と言えるだろう。むろんこの円環上のどの①②③から、前後どの方向に進んでも、同じ証明ができる。

ついでにいえば、乙巳の政変直後の孝徳天皇即位前紀皇極四年に天智の母とされる皇極は「皇祖母尊」という称号を受けたとあるが、これは「皇祖の母上さま」という意味なので「天智」を「皇祖」と見なしている言葉である。記紀は一方では神武以来の万世一系を主張しながらも、肝心なところではそれらをすべて放り捨てて自らの王朝の独自な開闢をこのように暗示している

倭国の王朝が古来様々に継起したことは万世一系化を行った記紀編纂者の最もよく知るところである。それらを全部まとめて「倭人王朝」とするなら、日本書紀は「皇祖」という言葉でこれまでの倭人王朝の全てを捨てて「日本の本当の大王家・天皇家の祖は天智なんだぞ」と暗示しているのだ。これは倭人の諸王朝全体の外部に「皇祖」を対峙させることで「天皇家は倭人でない」と暗に示すものなのである。つまり「皇祖母尊」の「皇祖」という言葉からも天智が外国人→「韓人」→百済人であることが導き出せる。

ちなみに天照大神を「皇祖母神」ともいうが、これは天照大神の実体である持統天皇の「皇祖系性」すなわち百済人性を示すもの。「皇祖」という語は皇極の「皇祖母尊」の他に皇極の母にも「吉備嶋皇祖母命」として、祖母にも「嶋皇祖母命」として使われているが、さらにその祖母の夫で舒明の父である押坂彦人大兄皇子(天智の祖父)にも「皇祖大兄」として使われている。「皇祖」の語は特異的に主に「日本」(在日百済)の太祖である天智の系に使用されていて、ついには「皇祖母神」なるアマテラスにつながっている。

「皇祖」のこうした尊称での使われ方は上記のものしかない。これらの「皇祖」系尊称人物の全時代は、上手いことにちょうど蘇我王朝時代をぴったりと埋めている。つまりこれらの尊称は蘇我王朝を無化消去する機能を与えられている。これらは全て日本書紀編纂時に作られた名前であり、天智が真の「皇祖」であるからこそ、万世一系化工作による埋没を補填するため、その架空の父系・母系の直前系譜に「皇祖」が付けられたと見て良い。持統は一方では神武以来の万世一系化を工作しながら同時にそれとは異なる自分の独自な百済系の出自について陰に言及しているのだ。

こうして日本書紀がどれほど桁外れの偽史なのかが判明する。これは歴史書の体裁をした官製御用歴史小説だということが分かる。なにしろ蘇我王朝時代の推古紀・舒明紀・皇極紀の記述は全て事実関係を巧妙に歪めた歴史小説的創作なのだ。そしてそこから、遠い時代の神功三韓征伐や、さして遠くない任那日本府経営に関する膨大な記述もまた、単なる歴史小説だということに納得がいくようになる。



大きな嘘は見破りにくい。「えっ、推古紀がみんな嘘なの? それじゃその前後も含めると100年ほどが全部嘘になるじゃない! なんといっても一国の正史なんだからそれはちょっと信じられないね」というようになる。見え見えすぎる嘘も、「男王を推古という女王にすり替えた? それじゃ不自然さが丸見えじゃないか? きっともともと女王だから推古紀でも女王なんだよ!」と見破るのが難しい。時代が経つとなおさらである。

アカデミズムは「これほど見え見えの破廉恥な大嘘は人間には不可能だ」という性善説に立つことで、ついにこの大嘘に負けてしまうことになる。しかし、人間の性はむろん善ではあるが、それでも必要なら人間は大嘘をつくものなのだ。大本営発表のように大嘘も「公益に適う」と判断される場合、破廉恥感は全く生じない。公益に適うなら大嘘も正義・大義なのだ。

天智と天武が兄弟でないこと、天智の皇太子は天武でなく天智の子の大友皇子だったことは当時の誰でも知っている事実だったが、日本書紀はそれでものうのうと天智と天武を兄弟とし、天智の皇太子を天武として記述している。これで壬申の乱の根本がすっかり偽史化されてしまった。同時代の誰もが知る真っ赤な大嘘でも必要ならこのように大々的に実行している。

とりわけ百済再建のためにわざわざ半島に出兵して蒙った白村江大敗後という状況の中で、日本が在日百済であることを一般人唐に知られることだけは絶対に避けなくてはならない。そのためなら、たとえ見え見えのあからさまな大嘘であっても、日本人は誰であれ、日本書紀のこの偽史を甘受する他なかった筈である。同時に在日百済の純日本化という百済残存永久化のための動機も作用した。外来政権自体がみずから倭国古来の大王家の血筋であると主張するのは、帰化・同化政権であるため受け入れやすいものでもあった。

むろんこの偽史はそういう意味でいわば「公益」に適う大義の大嘘だったから、そこには見え見えの大嘘に付き物の破廉恥感はなかった。そして世代が代わり時が経過するにつれて偽史が偽史であることも次第に忘れ去られていくことを、編纂者たちは当然熟知していた。



俯瞰してみれば、『日本書記』はその実体が持統である女性神アマテラスの神代紀上(第一巻)に始まり、アマテラスとして神格化された女性天皇の持統紀(第三十巻)で終わっている。『日本書紀』は「持統日本紀」と呼ぶのがふさわしいものなのだ。

そのため『日本書記』は女性的な性格や構成を持つ。皇祖神がアマテラスという女性神であるに加えて、イザナギとイザナミの出会い→相思相愛→性交→出産という国生み神話自体も女性的なものであるが、母と子の絡まる神功皇后三韓征伐時における胎内皇子なる応神天皇への三韓神授という思想も女性的発想であり、さらに推古や皇極といった架空の女性天皇の挿入もそうである。持統による女性的な性格はその後、女性天皇の元明→元正の下で編纂が続けられ完成することによって、しっかり守られた。

一般に男性が理知的であるのに比して女性は感情的であり、男性が真理や真実を大事に思うのに比して女性はむしろ愛憎の世界に住む。持統がこのように架空の倭人優越の報復史劇を描き出し、正史を次々と大いなる偽史で埋め尽くすというのは、おそらくそれ自体が女性的な作業であろう。これは男性の敢えてしたくないところである。



ついでに言えば、日本書紀に見られる数々のヒントは、一つには偽史を書かされた史官たちのせめてもの知的抵抗という側面ももしかするとあるかもしれないが、また数々の理由のため日本書紀がなした望まぬ大義の大嘘が原因で後世に本当の史実(天智と持統の真の出自)が伝わらなくなるのを(持統自身が)避けたかったということもあるようだ。

最大最高のヒントである「韓人殺鞍作臣」はむろん、「天命開別天皇」についても、そう言えるかも知れない。「推古」などあれこれの鍵やヒントとなる漢風諡号群も(知的抵抗によるものでなく)のちの時代の漢風諡号撰進者が持統の意思を慮って撰進したのであろう。

これまで多くの研究者は日本書紀の中にその偽史をみずから暴く鍵が大小さまざまな形で数多くあるのを不思議に思い、それを主に史官たちの知的抵抗と解釈してきたが、むしろ「持統や不比等が自らなした」とすれば一層納得がいく。なぜなら持統や不比等がそれら数多くの鍵の存在に気付かない筈はないからだ。

中大兄皇子(天智天皇)が百済王子の翹岐だという本体が全く隠れてしまうのも、実質的に日本書紀の記述内容の大枠や方向を決めたその娘なる持統天皇にしてみれば、(父の出自 ─ したがって自分の出自も ─ 出鱈目になってしまうので)、実に悲しい話ではあるに違いない。



ちなみに、日本の最高神の皇祖神が男性神でなく「天照大神」という女性神であるのは、すでに見たように天照大神の実体が女性の持統天皇であるためだが、これは百済人女性の持統が実体である最高神の「天照大神」「皇祖母神」から皇統が始まるようにすることで、夫の天武に始まる高句麗系皇統を無理にも疎外し天智由来の百済系国家を確立しようとするものである。王統はもともと男系であるが、それを無理やり女系に変更するために最高神の「天照大神」を女神にしたわけだ。そこから天武と持統の夫婦関係が推測できる。

もし妻の持統が普通に妻としての自分の立場を考慮したならば、夫の天武を押し退けてまで日本の最高神にはならなかったに違いない。自分が皇祖神になれば夫の天武は必然的に遥かに格下となり、天武は妻の足元にひれ伏さなくてはならなくなる。本当であれば初代天皇も男性の神武なので、夫の天武を神格化して男性の「天照大神」にすれば良いものを、持統はそうはしなかった。

天武は壬申の乱の前におそらく持統の父の天智を拉致殺害しただけでなく、壬申の乱の結果、(母は違うとはいえ)三歳年下の弟である大友皇子まで殺害した。むろん高句麗出自の天武と百済人の持統とはそもそもそりが合わない。息子の草壁皇子に皇位を継がせず自ら称制し、4年後、27歳の草壁皇子が死ぬのを待って天皇に即位したのも、高句麗系の皇統を疎外しその血筋をなるべく希薄にすることで倭国を天智由来の百済系国家「日本」にするためである。翹岐の次女としては扶余氏である持統が即位することで、改めて「日本」は女帝を戴く「百済」となった。

つまり持統にとって夫の天武はいわば仇敵のような存在だった。日本国家の最高神が女性神になったのは、究極的には百済人の持統が高句麗人の夫の天武を仇敵として憎んでいたからなのだ。天武持統合葬陵は(そこから日本書記の虚偽構造が漏れ出る恐れのある)こうした夫婦関係の真実を隠すための工作だったと言えよう。持統が出自や国籍を超えて真に天武を愛し心から合葬を望んだのなら、天武を抑えて自分を最高神にする筈がない。

筆者はアマテラスを様々に困らせたスサノオの実体はもしかすると高句麗系新羅派の天武かもしれないとも一応考えている。つまり持統は神代紀で自分をアマテラスとして登場させるとき、夫の天武をスサノオとして描いた可能性もありうる。

夫婦仲が良ければ、持統は夫の天武を神格化して男性神の「天照大神」としたかもしれない。そうなればそもそも伊勢沖合の夫婦岩の神社版であった伊勢神宮も男女一対の祭神を持つことになったと思われる。もともとこの神社の祭神だった太陽神アマテルは男性神だったので、持統より天武が入る方が収まりが良かったのだ。世界中のどこでも「太陽は男性、月は女性」として受容されてきた。太陽神が女性神であって一対の祭神がどちらも女性というのは異常というほかない。夫婦岩の存在を考えれば、なおさらそうである。




第9章  発端編纂基準論の要約および日本書紀における偽史構築の手順



発端編纂基準論の要約



ここで発端基準関連のこれまでの立論をまとめよう。

日本書紀は鄭玄の1260年説を知っていて本当はそれに従って(編纂基準年である661年から数えて1260年前の)紀元前600年を神武紀元にしたかったが、それでは661年が編纂基準年だと露見して天智の正体が判明し、日本が在日百済である真相が明るみに出る危険性が増す。

それで神武紀元をさらに干支一運(60年)遡らせて紀元前660年とし、日本書紀の発端基準年を求めようとする誰の眼にも、推古時代の601年が日本書紀の編纂発端基準に見えるように装った。

しかしそのかわり661年条には「革命」の辛酉年にふさわしい出来事(天智称制)を記しながらも、推古紀における「革命」の辛酉年にあたる601年条にはそれにふさわしい出来事を何も記さなかった。とはいえ擬装用としてあたかも「革令」に見えるように冠位十二階や十七条憲法の発布・発表の記事は「革令」の甲子年にあたる604年条に載せた。

三善清行の『革命勘文』引用文における「1320年」の記述は、「本当は鄭玄の1260年説はみせかけで、日本書紀は661年の真の発端基準から1320年前に神武紀元を置いたのだよ」と真相を暴露しているとみることができる。

こうして鄭玄説では1260年だったとしても、これまで見てきた「天智」「天武」 // 「革命」「革令」 // 「天智称制」「新冠位発布」 // 「辛酉」「甲子」という平行性からみて、結局、日本書紀でのその実際の適用は1320年が正しい。



さて、「日本」を「列島に移住・移転した百済」と判断するには、こうした鄭玄の革命・革令論の変形適用による1320年説が大きい。たしかに神武紀元を決める発端基準年は、神武紀元のような新機軸の王朝が出現した年とするのが自然な判断で、「日本=在日百済」はこの1320年説でほぼ決定できる。

鄭玄の説で主張されているのは(日本書記では)1320年説で決まる革命・革令の年、なかでも革命の年である。つまり神武紀元は「革命」という概念をもとに決められているわけである。日本書紀が応用する鄭玄説に従えば天智称制年の661年が「革命」の年で、冠位二十六階発布の664年が「革令」の年。ということは661年の天智称制という出来事が「革命」の出来事だという判断なのだ。

鄭玄説に従って辛酉年のこの天智称制という「革命」の出来事から1320年遡った同じ辛酉年の「革命」の年に神武紀元が設定されたわけだが、これは神武即位も天智称制もともに等しく革命の出来事だということなのである。つまり日本書紀は神武紀元を決めるために鄭玄説を採用したとき「天智称制によって革命がおこり新王朝が開かれた」とみなしたのだ。

そのことは天智の和風諡号(天命開別天皇)でも確認できる。日本書紀の万世一系に矛盾するこの和風諡号の存在は重大だ。明らかに「天命」は新王朝の太祖に与えられるものである。代々の皇帝や王はそれを受け継ぐに過ぎない。しかもその「天命」という二字に「別のものを開く」という意味の「開別」という二字まで加えられている。

これは明らかに天智が新王朝を開いたという意味である。天命を受けてまでくものは王朝しかない。そもそも「天命開別」は「革命」の別の漢字表現であり、「革命」は「(天)命を革(あらた)める」すなわち「天命で新しいの王朝をく」いわゆる「王朝交代」を意味するからだ。そこには(大山誠一説のような)蘇我王朝以前の旧王朝(押坂ー舒明系)に復したという意味はない。旧王朝に復したということならば「天命」も「開別」も和風諡号に使われる筈がない。天智も母の斉明も百済人であるという証明は前章で済んでいる。

和風諡号でわざわざ「開別」という語が使われているのは「別」の字に力点があるという意図であり、「天命開別天皇」は「天命でこれまでとは流れの全く異なる別の王朝を開いた天皇」と解釈するのが正しい。その真意は「天命でこれまでの倭人の王朝とはの、百済人の王朝をいた天皇」ということになる。

さらに天智が数百年も続いた「倭」から「百済」と同じ漢字二字の「日本」へ改めて国名を変更したことも、この国号変更に関して「旧唐書」の「日本伝」に見える「日本舊小國,併倭國之地」(旧小国なる日本は、倭国の地を併せたり)の句や、この句を含む遣唐使(おそらく河内鯨)の曖昧な言葉の記述も、それを証拠立てている。

したがってやはり神武紀元を決める発端基準年は神武紀元のような新機軸の王朝が出現した年だったわけである。それが翹岐による「在日百済」としての「日本」の建国であることを、本稿はたとえば乙巳の政変の真相や天皇家総出の百済救援出征や白村江の戦いや朝鮮総督府による「扶余神宮」の創建などなどを通じて疑う余地なくしっかり示してきた。



発端基準関連の推論は次のように行われた。

(1)まず乙巳政変の直後、古人大兄皇子が口にした「韓人殺鞍作臣」の「韓人」とは情景描写から中大兄皇子のことである。斉明と天智が韓人の百済人である13の主な決定的証拠を並べた前章の表もある。

(2)中大兄皇子の天智朝は母の斉明朝を継いでいるので、この「韓人」は母らとともに日本に亡命して来た翹岐である。皇極元年(642)二月二日条に「翹岐及其母妹女子四人・・・被放於嶋」(翹岐とその母妹ら女性四人・・・が島流しになった)とある。そして皇極二年(643)四月二十一日条に「百済国王の子、翹岐弟王子が、調使と共に到着しました」となっている。百済王子で母と共に来日しうるのは、母や妹と共に流刑に処された翹岐しかいない。以上から翹岐は中大兄皇子の天智、その母は斉明である。

(3)百済武王の死(641)後、義慈王に済州島へ流罪にされた翹岐とその母らが倭国に亡命したのは皇極元年(642)から皇極二年の間で、すでに皇極時代に入っている。日本書紀において皇極と斉明は同一人物とされているので皇極は架空人物となり、その時代の大王ではない。したがって皇極/斉明の重祚というのは王朝交代という真相を隠蔽するための捏造である。そのため皇極は乙巳政変直後に「皇祖母尊」なる尊号を得たことにされた。

(4)そうすると乙巳政変の時の大王は入鹿ということになる。(天皇記・国記・珍宝の所有や宮門・王子の命名や邸宅立地や「やつらの舞」や大陵・小陵などなどがその証拠)

(5)したがって、馬子を太祖とする蘇我王朝が実在し、「馬子・蝦夷・入鹿」は三代続いた蘇我王朝の大王だった。これは「推古」が「馬子」に十二支変換でき、また「隋書」における推古の時代の大王名が男王名の「阿毎多利思北孤」で、彼には「ケミ」という名の妻もおり、後宮に600~700人の女も存在し、この「阿毎多利思北孤」が「阿毎北孤」(アメホコ)を経て「馬子」に音訓変換できることから100%確定する。(ちなみに「多利思」(タリシ)は「足」「垂」などのように王家関連の付加的な語なので、本名推測において省くことができる。そしてそもそも「馬子」は当て付けの蔑称だから、この場合は本名の「阿毎北孤」に発音が近ければ、それで十分良い。)当時、陰陽原理上、「天子」は女性のなれるものでなく「日出處天子致書日没處天子無恙」が女王の立場の文言でないことも蘇我王朝の実在性を示している。したがって「馬子・蝦夷・入鹿」は蔑称であり、これらの名は「史記」の「李斯列傳」における宦官趙高の馬と鹿の故事をもとに付けられた。すなわち始皇帝死後に権力を得た趙高が権臣居並ぶ宮廷に鹿を献じて引き入れ馬と言わしめたという故事に基づいて、蘇我王朝三代全体が「鹿を入れて馬と言わしめた野蛮人」の意味になるように、「馬子・蝦夷・入鹿」を蘇我の各大王の蔑称としてそれぞれに当て付けた。

(6)乙巳政変後、孝徳朝が成立したのは、翹岐とその母の倭国滞在期間がまだ短く、大王位に就くほどの支持基盤が整っていなかったので、一度(おそらく蘇我王朝直前の欽明朝の直系であろう)孝徳に戻された。これは一種のつなぎ工作である。孝徳朝は半ば傀儡だったが、中大兄皇子なる翹岐による再度の政変によって打ち倒され、まず百済武王の妻の斉明朝が成立する。彼女は扶余氏でなかったので倭国側も受け入れやすかった。斉明を大王として受け入れても倭国が百済に乗っ取られたことにはならないからである。斉明が女性だったことも有意に作用した。おそらく翹岐は乙巳の政変で一気には(本国百済と並ぶ)在日百済を打ち立てることができないので、「欽明系の孝徳→母の斉明→扶余氏の自分」という三段階構想のもとで蘇我入鹿大王を殺したと思われる。

ちなみに天智称制(661)から天智即位(668)まで7年もかかっているのは、扶余氏の天智が大王になると倭国が百済に乗っ取られることになるので、その分抵抗が激しかったということ。そこには白村江敗戦の責任問題もあっただろう。この時たぶん天智は倭国側との妥協で「百済」を後退縮小させ帰化王朝となることを受容したと思われる。白村江大敗後の唐の侵攻を予防するために対外的・形式的には古来からの倭人だったとしたが、むろん百済性の色濃い「日本」という国名や「天命開別天皇」という和風諡号などなどから判断して、自身としては持統のように同化をさらに推し進めて「もとから倭人だった」とまでは譲歩しなかった。

ところで白村江大敗直後から、具体的には白村江大敗翌年に倭国を訪れ7か月も滞在した唐軍の郭務悰との折衝以降、唐に倭国侵攻の名目を与えないため倭国王朝公認の外交政策として「天智は百済人でなく古来からの倭人である」と唐側に説明せざるを得なくなった。もし天智が百済の王子だったことが唐に公然化すると「倭国=百済」となるので、唐は名目上、嫌でも倭国に侵攻しなくてはならなくなるからである。これがその後の記紀における偽史構築の発端となる。むろん万世一系化のもとで天智を「古来からの倭人」として偽史化するに際しては、打倒した王朝の蘇我氏の人脈に続くわけにはいかず、それで蘇我王朝の存在をまるごと抹消することになった。

さて、乙巳政変(645)は新羅では善徳女王時代で、この善徳女王(632~647)を眞徳女王(647~654)が継いだ。数百年来女王のいなかった倭国で655年、韓人(百済人)女性の斉明が即位できた背景には、たぶん同じ韓人女王即位に関わるこうした国際状況もあったのだろう。また女帝の先例のない中国で則天武后が聖神皇帝の武則天(690~705)として即位するとき、当然、周辺国に先例を求めたであろうから、おそらく武則天の即位に際しても、新羅の善徳・眞徳両女王の存在は考慮されたに違いない。

もし翹岐より10年ほど早く日本に来ている扶余豊璋が乙巳政変を成し遂げていたなら、すでに相当の支持基盤があっただろうから、孝徳朝というものはなかったかもしれない。また翹岐が乙巳政変に成功するのは、おそらくこの扶余豊璋の長年の存在によって倭国政権内に百済王家の勢力が相当育っていたからであろう。とりわけ韓子─高麗─稲目→馬子→蝦夷→入鹿と続く蘇我氏の出自がおそらく百済なので、馬子の時代から40年以上も王位にあった百済武王の妻が翹岐とともに倭国に来たとなると、蝦夷も入鹿もその権威を認める他なかった筈である。天智はそこに付け込んだ。それに大王位はそもそもそれ自体が神聖なものでも長期的なものでもなく、百済・新羅・高句麗・伽耶系の遠いあるいは近い出自を持つ大豪族間で可換なものだったので、乙巳政変のような出来事もまた容易にありえた。なにか神代以来の長期的な・不変の・神聖で、冒し難い王朝が存在していたという感覚は、日本書紀が作り上げた天孫系の神武に始まる架空の万世一系の皇統譜によるものであって、これは「天皇」称号を唐から取り入れたことで始まった神話化により神と詠われるに至った天武・持統以後に芽吹き、日本書紀の成立によって育ち始めた新しい感覚である。

ちなみに2014年に、馬子の墓(石舞台古墳 ─ およそ一辺50メートルの方墳)から近い都塚古墳が、国内に例のない一辺40メートル以上ある階段式ピラミッド型方墳であることが分かり、稲目の墓と推測され、高句麗ー百済系の積石塚古墳であることが判明した。古墳は半壊状態であり、盗掘を受けた石室には土砂や風雨や苔で風化した家型石棺がある。これは蘇我氏が・・・満智─韓子─高麗─稲目─馬子と続く系譜であることを参考にすれば、満智あたりが百済から倭に渡り、その子や孫を意図して「韓子」や「高麗」と名付けて出自を示し、馬子に至って大王になったと推測できる。となると蘇我氏は遠くたどればそもそもがせいぜい百済王家の一豪族か一貴族にすぎなかった筈。だから血筋を絶対視する古代的環境にあっても、なんの怯みもなく、いとも自然に、周囲の納得も受けながら、百済王家の血筋の持統が監修する日本書紀内で倭国大王家の蘇我家を一豪族化できた。

 (ついでに言えば、飛鳥甘樫丘南端の菖蒲池遺跡に露出して見える墓室の中の二つの家型石棺がそれぞれ蝦夷(手前)と入鹿(奥)のものであることがほぼ明らかとなった。この菖蒲池遺跡は一辺が30メートルほどの方墳でもともと入鹿のための墳墓(小陵)であったが、当時そこから東方ほぼ百メートル(現在の明日香養護学校敷地内)に平行して存在していた一辺がおよそ70メートルの蝦夷の方墳(大陵)から蝦夷の石棺を取り出し入鹿の墓室に押し込んだものである。大陵はほぼ完全に破壊され、小陵は墓室が馬子の陵墓のように丸裸になっている。この「大陵」「小陵」については皇極元年十二月条に「蘇我大臣蝦夷・・・・・預造雙墓於今來 一曰大陵 為大臣墓 一曰小陵 為入鹿墓」とあり、蝦夷が生前に造った「雙墓」(ならびのはか)として見える。一直線上ではないが東から西へと世代順に配置された稲目の都塚古墳も馬子の石舞台古墳も蝦夷の大陵も入鹿の小陵も全て家型石棺の方墳なので、この陵墓系が蘇我王朝のものであることが分かる。但し石舞台古墳の石棺はその凝灰岩の破片しか残っていなかった。

石舞台古墳と小陵が同じように丸裸にされているのをみれば、ほぼ全壊の大陵ともども同じ者 ─ おそらく偽史を書かせた持統 ─ の手で破壊されたことが推察できる。偽史の真相を覆い隠すために蘇我王朝の全ての大王の陵墓がこのように破壊された。稲目は大王でなかったのでその陵墓は蘇我王朝の存在を示すものとはならず、むしろその反証材料として半壊放置されただけで、全壊は免れた。ところで、菖蒲池古墳の二つの石棺は南北に縦に並んでおり、北(奥)の石棺の内側は赤、南(手前)の石棺の内側は黒に漆が全面に塗られている。本来、「玄武」「朱雀」のように北は「黒」、南は「朱」が陰陽五行の方向色なので、それがここでは真逆に転倒しており、したがって菖蒲池古墳が一種の「呪い」で封印されていることが分かる。おそらく漆の下にはもとの大王関連の壁画が残されているだろうから、現代の修復技術で漆を取り除けば蘇我王朝の実在を示す明かな証拠を実見できる筈だ。それが同時に不当に蘇我王家に掛けられた「呪い」の封印を解くことにもなる。

さらに言えば、持統は「応神三韓永久神授権」のために捏造した(最重要架空人物の一人である)神功皇后を卑弥呼と同一人物とすることで卑弥呼を偽史に巻き込んだので、おそらく(地理的場所あるいは墳墓の様式や壁画や埋蔵内容物などにおいて)その偽史に合わないかもしくは合わないかもしれない卑弥呼の陵墓も、その楼閣ともども根こそぎ破壊したと思われる。神功皇后の架空性が卑弥呼の陵墓や楼閣から露見してしまうと、記紀編纂の最大目的の一つである応神三韓永久神授説が崩壊するだけでなく「日本書紀」という正史全体の致命傷になり得るからである。常識的に考えれば卑弥呼の陵墓や楼閣がどこにあるかはその三~四百年後の蘇我王朝~持統の時代にはそれなりに連綿と知られていた筈で、(本当のところ周辺地域での言い伝えや石碑その他のモニュメントの存在などなどで現在でも分かるほどのものを)、それが外国である中国の魏志倭人伝にしか見られず(「北九州にあった」「大和にあった」というほど)現代に全く伝わらないのは、偽史に合わないものは墓であれ何であれ損壊・抹消・消去した持統の破壊によるものとしか考えられない。

邪馬台国がどこにあったかについてはすでに第5章の卑弥呼に関する「註」で述べたように「北九州説」でほぼ決着がついたようである。もし卑弥呼の邪馬台国が大和にあったのであれば持統は卑弥呼の楼閣や陵墓を偽史構築に利用できたであろう。しかし北九州にあったのであれば、邪馬台国のいかなる痕跡も徹底的に無くさなくてはならなくなる。日本書紀編纂の究極目的は神功皇后三韓征伐による「応神三韓永久神授説」の確立であり、その確立のためには史実性が要求され、神功皇后三韓征伐の史実性を持統は三国志魏志倭人伝を利用した「神功皇后は卑弥呼である」という細工に求めたので、「神功皇后卑弥呼論」はいわば日本書紀編纂の最大のカラクリ、究極のトリックとなった。したがってこのカラクリ、このトリックが万が一でも暴露されることがないようにするため、そこに持統による文字通りの「徹底的な改変」がない筈は絶対にない。そういうわけで「卑弥呼の邪馬台国がどこにあるかさっぱり分からなくなったのは持統によってその痕跡が完全に抹消されたからだ」というのは、事柄の本質から演繹される必然的な帰結と言える。むろん邪馬台国への行程記述が魏志倭人伝で曖昧なことを確認したうえでの持統の大いなる細工である。もし魏志倭人伝で邪馬台国が北九州に存在していることが明示されていたなら、持統のこのトリック・細工・カラクリはあり得なかった。)

(7)こうして蘇我王朝に対する乙巳政変と孝徳朝へのクーデターは翹岐の手になるものであるが、斉明が百済武王の妻で翹岐が百済王子であるため、660年、唐と新羅の連合軍によって百済が滅んだと知らされると、661年、67歳の老齢女性なのに自ら率先して自家の再建のため北九州にまで大王家総出で出向いている。斉明は遠征軍第一派(先遣隊)を派遣し、その年の内に死んで天智が称制する。天智は翌662年、第二派(主力軍)を派遣。

ところで本来なら百済は存亡の危機に際してそれをいち早く倭国に知らせ救援を求めるべきところを、どういうわけかそうしなかった。百済王子が複数倭国に滞在しているにもかかわらず、倭国に唐と新羅の動きや戦況を伝えないどころか滅ぶまで援軍の要請もせず、その結果、倭国は百済が滅んだとの突然の知らせに仰天するしかなかった。こういう非常に不自然なことが起きたのも、何かにつけて強気の義慈王が自分の面目にかけて、かつて済州島に配流した斉明と天智にいまさら救援要請などたとえ死んでもできなかったためだろう。

(8)663年の白村江の戦いで大敗を喫し百済の再建が完全に水泡に帰すと、朝鮮半島における百済は消滅し、斉明死後に称制して大王になった扶余氏の翹岐である天智は、論理的必然として倭国日本に完全移転した百済国の大王になった。それが天智の「天命開別天皇」(天命で倭国に完全移転して「日本」という名の別の百済国を開いた天皇)という和風諡号を生み出した。天智の母なる皇極(斉明)の「皇祖母尊」という称号もそうである。旧唐書の「日本舊小國,併倭國之地」の真相はそういうことである。

(9)白村江の大敗による百済の完全滅亡は天智称制の二年後のことであったが、(おそらく遡って660年の百済滅亡の方を真の滅亡と再判断したからであろう)日本書紀編纂のときその天智称制年(661 辛酉年)が、倭国に完全移転した別の百済国の創建年=倭国における完全新系列王朝の革命的開闢年として評価された。そしてそれが基準となって、鄭玄の讖緯暦運説に基づいて、(編纂基準年が露見しないよう干支一運が加えられ)、そのちょうど1320年前の同じ辛酉年に、同様の完全新機軸の王朝創始として「革命」の神武紀元が設定された。さらに天智称制の三年後の甲子年(664)に、鄭玄の「革命」「革令」論に従って(天智称制年が「革命」年であることを補足するために、また天武の手で発布されることで天武の立場を確保するために)「革令」の年として冠位二十六階という新冠位の発布が造作捏造された。

以上である。



日本書紀における偽史構築の手順


最後に「日本書記」における偽史構築の手順を粗描しておきたい。むろん虚構の皇統譜と架空の神功三韓征伐譚などにおいて一致する「古事記」と「日本書記」は偽史構築の共犯者であり、それぞれ訓文史書と漢文史書で支え合いながら偽史の信憑性を目論んだ。何度も述べたように推古紀こそ偽史構築の心柱だから、古事記がたった数行の推古(豊御食炊屋比賣命)の記述部分で終わることで(さりげなく)日本書紀の大部の推古紀につなげているのも共犯行為に他ならない。古事記はその最大の目的が日本書紀における推古紀への導線なのだ。

何度も言及したように偽史の目的は大きくは、

(A)百済王子の翹岐を万世一系化した倭人王朝の血筋の中に嵌め込むこと
(B)万世一系の同一王朝だからこそ主張できる架空の神功皇后三韓征伐による胎内皇子なる応神への三韓永久神授権の主張

以上の二つである。(A)が「日本書紀」の発端編纂基準年に関係し、(B)が割り振り基準(時の中心軸)に関係している。むろん「日本書記」の編纂目的はすでに第二章冒頭で羅列して述べたように多様であるが、この(A)(B)の二つが編纂目的群の中心をなす。(A)は斉明と天智に関係し、(B)は神功と応神に関係する。この二組の母子を祭神としたのが百済の旧王宮跡に建てられた「扶余神宮」なので、「扶余神宮」はまさに日本書紀の真髄を表現したこの世に二つとない(伊勢神宮と並び得る)核心神社といえる。

むろん(A)は天智を百済王子でなく倭人王朝の末であるとして、将来の日本が万が一でも唐に対して恨みを抱き百済滅亡の報復をすることにならないようにするのが目的なので、そもそも唐側の意向であり、だからこそ国家の正史の巨大な偽史構築の現場に外国人の続守言と薩弘恪という二人の唐人がいて監督している。日本書紀が偽史でなければ外国人の幾人かが監督者としてそこにいてもそれほど問題はないが、国家の巨大な偽史構築の現場に外国の唐人たちが監督者あるいは筆記者として活動している意味は「偽史の共犯行為」しかない。そして白村江後の両国の力関係からその共犯行為の主犯が唐側であることを示している。つまり(A)は「天智が倭人でなく百済王子のままだといつ日本が唐に対して報復戦争を企てるか分からないので、そうなるぐらいならすぐにも侵攻制圧するしかない」という唐側の侵攻圧力によって強制されたものである。むろん本国の百済が滅びた後の現状では倭人化しないと倭国で生き延びられないという百済王子の天智ー持統側の思いも唐側要求の受け入れ動機として機能している。とはいえ(A)ではなく(B)こそが日本書紀編纂における日本本来の目的である。つまり日本書紀は「応神三韓永久神授権」を究極目的として編纂されたと言える。

したがって日本書紀の土台には、

(A)発端編纂基準   ─ 百済王子の倭人化  ─ 唐側要求 ─ α 群 ─ 鄭玄説(辛酉革命・甲子革令論)─偽史の心柱は「推古紀」
(B)割り振り編纂基準 ─ 応神三韓神授権構築 ─ 日本側要求─ β 群 ─ 魏志倭人伝(神功卑弥呼論) ─ 偽史の支柱は「神功紀」

という大きな区分けが存在している。α 群における続守言と薩弘恪の偽史構築での立ち位置と役割については末尾の「森博達説に対する二三の疑問」で触れているのでそこをご参考に。

まず偽史の目的の(A)から始める。


偽史の目的 (A)・・・万世一系化による百済王子の倭人化 (翹岐→天智)

これについては神代からの万世一系の方が天皇家の姓を隠すことができると同時に神聖化も絶対化もでき、いろんな意味で断然良い。それが「天孫万世一系」という着想となった。これに成功すると、偽史の最大のねらい目が神功皇后三韓征伐による応神への三韓永久神授である。天智の素性を倭人の中に隠すのはパッシブな目的であり、神功三韓征伐による三韓永久神授はアクティブな目的だと言っていい。

(A)で用いられる日本書記の秘密の基礎構造が、鄭玄説に基づいた、

  「持統の父・持統の夫 // 天智・天武 // 革命・革令 // 天智称制・新冠位発布 // 辛酉年・甲子年」

という平行構造である。一般に根本となる秘密の基礎構造は表の文面からは見えない仕組みになっている。基礎の秘密が文面に出るのは「韓人殺鞍作臣」「天命開別天皇」「皇祖母尊」「母妹」「官家」やあれこれの漢風諡号や明らかな叙述矛盾(死人の筈が生きているとか日本にまだ到着していないのにすでに在日しているとか)などなどのように意図的に開示される様々な鍵(ヒント)だけで、それらは全て両義的で曖昧な姿にされている。


{Ⅰ}偽史構築の第一手順として、とりあえずまずは「始め」と「終わり」の時の設定が要る。

(a) 「終わり」は「持統日本紀」と呼べる内容の偽史の書なので必然的に「持統紀」となる。つまり697年の文武への生前譲位まで。日本書記が本質的に「持統日本紀」であることは、とりわけその秘密の基礎構造である上の平行構造(天智と天武の二重基準)において天智と天武をつなぐ共通項がまさに持統であるところに見えている。つまり天智と天武が「持統の父・持統の夫」だからこそ、天智と天武の上の平行構造が日本書紀の根本構造として設定された。結局、日本書紀はその構造も目的も持統に収斂する。したがって日本書紀は「持統日本紀」と呼んで良い。むろん持統に絡む天智と天武のこの二重基準的平行性があるからこそ、その「智」「武」という漢風諡号にともに「天」の一字が入っている。しかも漢風諡号に「天」の字を持つのはこの二人だけなのだ。ちなみにこの二人には和風諡号の「命開別天皇」「渟中原瀛真人天皇」のなかにもそれぞれ「天」の一字があり、唯一この二人のみが漢風諡号にも和風諡号にも「天」の一字をもっている。


(b) 「始め」は、そもそも「日本書記」は天智によって建国された「日本」のためのものなので、天智による「日本建国」が基準とならなくてはならない。実質的にはそれが661年の天智称制年。その「天智称制年」がたまたま辛酉年だったので、1260年周期の辛酉革命論を唱える鄭玄の讖緯暦運説が採択され、天智称制年から1260年前の辛酉年に神武紀元を設定しようとするが、それでは天智が百済人だという真相が露見する危険があったので、干支一運(60年)を加えて1320年前の紀元前660年とした。すなわち鄭玄の1260年説に依拠する誰の目にも推古時代の601年の辛酉年が発端基準年として見えるように推古紀を書いた。それが「革令」を偽装誘導する604年(甲子年)の「冠位十二階」と「十八条憲法」。これで時の設定は、紀元前660年の神武即位から紀元697年の文武への生前譲位まで、となった。

全体を俯瞰すると、「神武即位による天孫万世一系の開始」(「始め」紀元前660年)→「神功三韓征伐による応神三韓永久神授権の成立」→「持統から文武への生前譲位による応神三韓永久神授権の万世一系的譲渡」(「終わり」紀元697年)という基幹の流れが存在する。つまり日本書記はひたすら「持統から文武への応神三韓永久神授権の万世一系的譲渡」というアクティブな最終目的に向けて記述・編纂されている。ところで「持統→文武」に見られる「祖母から男孫」への生前支配権譲渡のケースは世界史でもほとんど見られず、少なからぬ研究者が「天照大神→ニニギ」を「持統→文武」の神話的表現とみている。すなわち天照大神の正体は持統であり、ニニギの正体は文武であるということ。「天照大神→ニニギ」は「三種の神器」譲渡の神話と結びついているので、(「三」の秘数について述べる次節で詳しく触れるが)、「持統→文武」の生前譲位で終わる日本書紀は、実は持統が神代紀の「天照大神→ニニギ」神話で創作した「三種の神器」の実体である「応神三韓永久神授権」の譲渡で終わっているとも言え、その永代譲渡を究極目的として編纂されているとも言える。

(c) 時の「始め」と「終わり」は決まったが、史実に基づかず鄭玄の讖緯占術思想によっていわば神学イデオロギー的に神武紀元が紀元前660年に決まってしまったおかげで、1320年間のおよそ半ばが空白時代となり、紀元前後からの手持ちの史料による大王たちだけではその空白を埋められないことになった。そのために取った方法が、(1)「欠史八代」などの架空の大王たちの挿入であり、(2)各大王たちの2倍以上の長寿化である。「欠史八代」の一人の孝安は在位期間だけで101年、「欠史八代」後2代目の垂仁は同じく100年というのが最長組のケースだ。応神(在位40年 寿命110歳)でようやく空白時代の埋め合わせがほぼ追いついた。神功紀と応神紀は人皇紀を前後に分けるいわゆる「時の中心軸」を為す。ここは日本書紀の割り振り編纂基準と三韓永久神授説に関わる最重要の結節点として設定された。

長寿の前半期は「武・崇功・応」のいわば「半半人」時代。空白時代の埋め合わせは最後の長寿者である仁徳(在位86年 寿命142歳)で完全に追いついたが既に「半神半人」時代も応神で終わっており、仁徳以降の後半期がいわば本来の「人皇紀」時代。古事記は上・中・下巻に分かれており、上巻は神代紀、中巻は神武から応神まで、下巻は仁徳から推古までとなっており、日本書記もそれに準じた。この「半神半人」時代に人皇紀時代に成長する重大な出来事の「種」が植え込まれる。神武開闢による「万世一系」や神功三韓征伐と応神「三韓神授権」に基づいた「任那日本府経営」などなどもそうである。ところで2倍3倍も長寿化すると史書としての信憑性が疑われそうだが日本書紀自体が冒頭に史実性もなく年月日指定もない神代紀を置いており、古い時代なので(たとえば「神代に近い昔ほど長寿だった」という迷信もあり)なんとでもなったのだろう。ただし二倍暦などの説が成立しないことは「序」の(註3)ですでに触れた。


{Ⅱ}偽史構築の第二手順として、設定された時の全期間にわたる「万世一系化」が要る。

(d) 万世一系化は過去にさかのぼるほど史料も少なく記憶もだんだん曖昧になるのでやりやすく、多くは実在したかあるいは実在したかもしれない諸王朝間を都合のいいようにデフォルメしながら繋ぐだけで済む。必要なら架空の大王たちもうまく繰り入れる。しかし万世一系化するに際しては打倒した蘇我王朝に自分をつなぐわけにはゆかず、直前王朝だった蘇我王朝を抹消しなければならない。ここには実在王朝を利用できず逆にそれを抹消しなくてはならない困難さと、その抹消作業を直近直前の王朝に施さねばならない困難さがある。

蘇我王朝の抹消はなによりもその王朝を創始した太祖の馬子を消去することでなされる。太祖が存在しなければ王朝もない。その消去を行うのが推古紀なので、推古紀は万世一系化という偽史操作の肝心要の心柱なのである。その結果、そこに実に多くの重大な工作と細工が施された。たとえばまず根本の作業として鄭玄説の革命・革令を推古時代に誤導する、男王の馬子時代を女王の時代にする、隋を唐と混同する細工で隋書の存在を隠す、聖徳太子という架空人物の聖性と徳性であたかも偽りの歴史ではないかのように誤導する、馬子の業績を聖徳太子の功績に転嫁して太祖としての馬子の偉大さを削ぐ、「天を男性、地を女性」とみる陰陽説によって女性が天子になれない理屈と伝統からこの時代の大王が女王でなかったこと(即ち男王だったこと)を悟られまいと隋書の「日出處天子」を「東天皇」でごまかす、隋書にある「阿毎多利思北孤」が馬子の本名であることを隠し、阿毎多利思北孤大王を推古・太子・馬子に三分化して「大いなる偽史(嘘は大きいほど効く)」を展開する、隋からの国書を「遣唐使」の小野妹子が紛失したことにして蘇我王朝の実在を証明する文面の正史への転載義務から逃れる、などなどである。

(e) 蘇我王朝を抹消したあとはその蘇我王朝時代を埋める納得のいく天孫一系の系譜を作り出さなくてはならない。つまりそこをうまく天智を組み込める形に変造しなければならない。これに成功すれば万世一系化はほぼ完成であろう。

(f) 天智を万世一系に組み込むには同じ百済人の母とともに組み込まざるを得ない。母が斉明大王になったからには「斉明と天智」をセットで上手に組み込むことが要求される。

(g) むろん天智の実父である百済武王の肩代わりも要る。それが舒明であり、そのため舒明は百済武王と同じ年に死んだことにされた。舒明天皇の十一年(639年)条に、舒明は百済川のほとりを宮の地とし、そこに百済宮を作り、また百済大寺もつくりはじめ、舒明十三年(642年)条に、舒明は百済宮で死に、その宮の北に殯宮を設けて「百済の大殯」と呼んでいる、と百済尽くしなのはそれを示す。百済における武王から義慈王への切り替わりが日本では同じ年の舒明から皇極への切り替わりとして代置され、日本の王統が皇極(斉明)から天智へと続くことで、「武王」→「義慈王」で滅んだ百済の王統が日本において「舒明」(武王)→「皇極 / 斉明」→「天智」として続いていることを示している。こうして天智の父は舒明、母は皇極(=斉明)となり、蘇我王朝の馬子・蝦夷・入鹿の各大王時代はそれぞれ架空の推古・舒明・皇極によって偽史化された。

(h) また天智にとっては赤の他人の天武も万世一系化のためには同じ血筋としなければならず、舒明と皇極を同父同母とする天智の弟とされた。天智に大友皇子という立派な息子がいる条件下では、少なくとも天智の「同父同母」の弟とするほかに天武を天智朝の皇太子(皇太弟)とする手立てがない。「同父異母」でも「異父同母」でも、手立てとしては成立しない。「同父同母の兄(天智)の娘を四人も弟(天武)が妻とする」というのには、(兄から弟への一方通行の娘の提供という不自然な面もあり)、さすがに大きな無理があったが、「同父同母」の兄弟とする以外に手立てがないので、しようがない。むろん天武が天智の娘四人を妻にしたことは、その後彼女たちの生んだ皇子皇女たちによる皇統関係が絡んでくるので、そこに改変の手を加えることはできなかった。当然のことながら、天武が正当に即位したように見せかけるために、大友皇子こそが天智朝の皇太子だった事実や大友皇子が即位していた史実については触れずにおくほかない。

(i) さらに、実質的に「倭人王朝→百済人王朝」となった「乙巳の政変」という古代史最大の切れ目すなわち万世一系化の最大の難関を、皇極と斉明の重祚でつないでクリアーした。そういう意味でも入鹿大王の代わりに架空の皇極を置いた。

(j) 最後に、万世一系化のためにはルーツである百済を隠さざるを得ず、「日本」独自の起源論として、国生み神話と天孫降臨が神代紀で創作された。これは天上起源論で朝鮮半島起源論を無化・否定するものである。(A)の流れの百済系王朝起源論を隠蔽するために百済系神話は非常に込み入った目立たないものとなり、神代紀の王朝起源神話は、その隠蔽目的で伽耶系の(B)の流れがいっそう強調された結果、伽耶系が高濃度で混合したものとなった。神武の父の「ウガヤフキアエズ」の「ウガヤ」が「上伽耶」(朝鮮語読みで「ウカヤ」)だと解釈されたり「高天原」が「加羅伽耶」(高霊)や「阿羅伽耶」(咸安)ではないかとされるのもそのためだ。さらにそこに高句麗系の八咫烏(三足烏)を担った神武や天照大神に敵対的な新羅系のスサノオも絡んでくるので、神代紀の王朝起源神話はもはや何人にも解き難いまでに非常に複雑な構成となっている。ただし「兄の沸流は海辺に出て国を建てたが衰亡して自殺し、弟の温祚が山に行って建てた国は、その後栄えて百済となった」という百済建国に関わる兄弟物語が、記紀の海幸彦と山幸彦の兄弟物語の原型であった可能性は高い。天智(扶余翹岐)は温祚百済の子孫なので、それが「海幸彦と山幸彦」の形で表現されているのだろう。


偽史の目的 (B)・・・神功皇后三韓征伐による三韓永久神授権

(B)で用いられる日本書紀の秘密の基礎構造は、

    「三」の秘数構造

である。むろんこの「三」の淵源するところは三韓神授の「三」つまり「三韓」の「三」であるが、その「三」の秘数構造の全貌は以下で明らかになる。(A)では朝鮮半島が国生みや天孫降臨などの天上ルーツの設定によってルーツの座から駆逐され、この(B)では朝鮮半島が三韓永久神授の征服植民地となるべき存在として設定される。

まずは万世一系化の「時の一本線」が(A)でしっかり引けたので、(B)ではそれに平行する傍線を一本、崇神~垂仁~神功皇后の頃から引いて、そこにツヌガアラシト物語における垂仁による「ミマナ」の命名や神功皇后三韓征伐とその後の任那日本府の流れを任那滅亡後の頃まで創作するだけでいい。

(k) 最初に把握しておくべきことは持統創作の記紀における「三韓永久神授」の動機である。この三韓永久神授を導き出すために神功皇后三韓征伐という架空の物語が工夫され、三韓征伐の折、応神が神功の胎内にいたということにされた。胎内にいたことで神功とともに三韓を討った功績があるとするわけだ。応神天皇即位前紀に「初天皇在孕 天神地祇授三韓」とある。「神授」はむろん「永久に授ける」という意味でもある。その論理で応神の三韓永久神授権がいわば「正当化」できる。しかしこれは応神が「三韓の胎内から出た者」であることを暗示している。ある土地が何者かの永久所有物であるというのは、その者がその土地生まれの所有者かその直近の子孫であることを前提として成り立つ発想である。誰かが一度征服したからといってその地がその者の永久所有物にはなりえないことは誰にもわかる。つまりこうした考えの発想者は(むろん被想者も)明らかに三韓出身者なのだ。

いうまでもなく記紀は持統の思惑による偽史であり、「日本書記」は本質的に「持統日本紀」なので、そこからこの「三韓永久神授」の考えのそもそもの発想者が持統本人であると分かる。天智の次女の百済人である持統には、無論その発想の止み難いまでの煮えたぎる動機がある。唐新羅連合軍による白村江大敗で最終的に母国の百済は滅び、そのあと唐軍が半島から排除され、結局、三韓(朝鮮半島)は新羅のものとなった。持統にすれば、三韓は本来、新羅でなく百済の所有であるべきものだった。祖父の百済武王はそのために終生戦い続けたのだった。むろん白村江大敗における祖母(斉明)と父(天智)の恨みもなんとか晴らしたい。そこで本来は百済のものであるべき三韓を「もともと百済のものだった」とする女性らしい架空報復劇を記紀で展開した。すでに百済は「在日百済」として「日本」となっているので、結局「三韓はもともと日本のものだった」という物語にすればいい。それが神功皇后三韓征伐とそれによる胎内皇子・応神への三韓永久神授という物語となった。万世一系による同一王朝化によってのちの大王たちも応神の三韓神授権を代々永久に受け継いでいくことができる。架空の任那日本府経営論はその継続態である。この「神功皇后三韓征伐」は妄念に基づく女性らしい架空報復であるが、同時に「応神三韓永久神授説」の根拠でもあり、すなわち「いつかは三韓を日本に取り戻せ」という持統の遺命でもある。

(l) さて「持統が三韓永久神授権を持つのは先祖の応神が持つからである」という論理の組み立てになっているが、神功皇后三韓征伐が架空の物語であるうえに、持統と応神の間に全くなんの血縁関係もないので、上記したようにそれは実は「持統こそが三韓永久神授権を主張している」ということを示すもの。発想者の持統も被想者の応神も三韓出身の旧領有者かその直近の子孫だからこそ、持統の女性らしい発想で「内皇子の三韓永久神授」という発想が生まれた。応神が倭国の「君父の国」(官家)である任那の王だったことについてはすでに触れた。記紀の偽史化を監督指導した持統はむろん(記紀後は伝わらないが持統の時代までは伝わっていた筈の)そういう真相を知っていた。持統による「応神三韓永久神授権」という応神固有の永久権発想それ自体が、その有力な証拠ともなっているわけだ。朝鮮半島の「百済」は斉明・天智・持統の「君父の国」であり、同様に朝鮮半島の「任那」は応神・継体・欽明の「君父の国」だったのだ。それを三韓永久神授の観点から日本書紀では日本の植民地の「官家」「内官家」と表現し、任那を「任那日本府」としたが、任那も百済も「君父の国」だった真実を両義的な「官家」という言葉に託して歴史の真相に触れる鍵あるいはヒントとした。

応神はおそらく任那王であったが、ヤマト王権末の混乱期に中国地方の同胞勢力や近畿における協賛勢力などの案内と応援を受けて東征し、ヤマト王権を打ち破って河内王朝を創始したと考えられる。つまり任那と倭は始めのうち一種の共同国家のようなものとなり、一時期は朝鮮半島の盟主ともなりえた勢力を持っていた筈である。むろん倭の方が任那より国土も人口も断然大きく後に勢力(権力)としては倭が主導権を得て「君父の国」の任那を遥かに凌駕したであろうが、敬意を払うべき権威としてはやはり任那が祖国であり「君父の国」であり続けたことは明らかで、任那が新羅や百済の侵攻によって危機に見舞われた時にはたびたび応援軍も出していたに違いない。むろん持統はそのときの「君父の国」応援軍派遣時の記録を積極的に偽史構築目的で逆用している。そういうわけで植民地の「任那日本府」なるものは持統の倭人優越史観の産物である。そもそも「日本」という国名ですらずっと後に天智が作り出し持統が確定したものなので、任那にしろどこにしろそれ以前に「日本府」など存在する筈もない。しかしこうしたいきさつから日本書紀では神功皇后三韓征伐に続くものとして「任那日本府」関連の記述が延々と続くことになる。

ところで日本書紀は中国南朝に都督として臣従した応神王朝の「倭の五王」について一切触れないが、むろん知らなかったわけではない。持統が応神の三韓永久神授説を考案したのも、実は応神王朝の「倭の五王」が中国南朝の皇帝たちに対して主張した「使持節都督・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王」の称号のことがあると思われる。おそらくこれを神功皇后三韓征伐による応神の三韓永久神授説に利用した。

(m) 架空の神功皇后は応神の母という設定なので応神時代に直前するわけだが、応神は明らかに紀元4世紀の人物。ところが日本書記は神功を三国志魏志倭人伝にある二世紀末から三世紀前半の卑弥呼と同一人物としたので、神功皇后は実年代より干支二運(120年)も過去の人物として描かれるに至った。これを見ても神功皇后なる人物が架空であることがわかる。ではなぜ持統はこれほどの無理を冒してでも神功を卑弥呼に見立てたのだろうか? 

むろん中国史書の権威を借りて神功皇后三韓征伐を史実化しようとするためである。日本書紀における中国史書からの潤色(影響)箇所は数多いが、表立っての引用は卑弥呼記事のか所(神功摂政三九年・四十年・四十三年)だけだ。ある意味で、この三つの引用に日本書紀全体の重心・命運・目的成就をかけたともいえる。三か所といえば各天皇紀に一度きりの、即位年か天皇元年か称制年を締めくくる特別な句である「是年也太歳☆△」(☆△は干支)が神功紀に度(摂政元年・摂政三九年・摂政六九年)もある。あたかも神功が三つの国で三度即位したかのようだ。神功皇后が三韓征伐に向かう前に占いをして三韓征伐を神意と確認するのも度(釣り針・水溝・髪分れ)だが、これはおそらく三韓各国について一度ずつ占ったという意味であろう。三韓征伐に向かうのも「軍」(三韓征伐時の神功自らの二度・それ以外の武内宿禰が二度)で、「三軍」は全軍(左軍・中軍・右軍)の意味だが、この語の使用は日本書紀では神功紀のこの四度しかない。出征日も十月日。航行を導くのは風神・波神・大魚のつ、海路の安全を支えてくれる神々も住吉神(表筒男・中筒男・底筒男)。そして歳の応神の立太子日が神功摂政年一月日。持統がこれほど希求した三韓永久神授者の応神即位が「応神元年正月丁亥朔」。「元年」は「第一年」、「正月」は「一月」、「朔」は「一日」(ついたち)なので、「応神元年正月丁亥朔」には「一」が三つあり、実は「」が隠れている。即位年は必然的に「第一年」の「元年」となり、そこに応神に始まる「三韓永久神授権」の秘数である「三」を埋め込むには、(始めを意味する)「一」を三つ、年・月・日で並べて「完全新規開始」の意味となるように、「元年正月丁亥朔」と表現したわけだ。応神二年日、応神は三韓永久神授権を譲り渡すべき次代天皇(仁徳)を産む皇后を娶る。上記のように「三日」が「一月」と「十月」の「三日」なのは、「一」と「十」が「始まり」や「終わり」や「全て」を指すからであろう。

(n) 以上の「三」の洪水は全て「三韓征伐」の「三韓」の「三」に淵源する。「三韓」の語の初出は神功紀(神功摂政前紀仲哀九年日条)なのだ。その初出の箇所で「三韓」を定義して、新羅・高麗・百済の王たちが神功皇后に敗北し臣下として朝貢してくるようになった。「故にこれを以て内官家と定めた。これがいわゆる三韓なのである」(「故因以定内官家 是所謂之三韓也」)としている。つまり「三韓」は日本書紀でそもそもが「神功皇后三韓征伐による内官家(植民地)」として定義されているものなのである。ちなみにあの魏志倭人伝(『三国志』全65巻中の「魏書」全30巻の最終巻である第巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条の略称)の卑弥呼関連記述も「国志」にある。神功紀にある上記した度の中国史書からの引用も、むろんこの「三国志」の魏志倭人伝からである。つまり持統は記紀で架空の神功皇后三韓征伐を造作するとき「三」を根源的な秘数として使用した。「三」は架空人物の神功の秘数だが、実はその架空人物を創作した持統本人の秘数なのである。「三のあるところに持統あり」と言っても過言でない

持統が神功を無理にも卑弥呼に見立てたさらなる理由は、(むろん「卑弥呼」が三文字・三音であることも多分含まれようが)、「三国志」の「三国」にある。この「三国」は「三」を秘数視する持統の頭脳の中では「三韓」と重なっているのである。魏・・呉の地理的位置関係が高句麗・百済・新羅のそれに酷似しているだけでなく、百済が最初に滅んだ点も同じで、また「三国志」著者の陳寿が蜀の人であることもあり、これらから持統が「三韓」を三国志の「三国」に重ねた理由もなかば分かる。さて、すでに神功のモデルとして三韓を席巻した唐の則天武后を挙げたが、むろん神功は祖母の斉明と持統本人の仮託人物でもある。実は神功皇后は「則天武后・斉明・持統」の合体物かも知れない。不思議なことにこの三名は、(そしてこの三名だけが)、全て皇后や王妃を経験した後に皇帝や天皇・大王に即位している。だからこそ日本書紀における神功紀が天皇扱いとなっている。神功が天皇でなく皇后である理由についてはすでに第5章末尾で詳しく触れた。

(o) 「三」は(持統監修の上中下三巻の古事記と同様)日本書紀の構成にも使われている。日本書紀は全十巻。その人皇紀は第巻の「神武紀」に始まり、第十巻の「持統紀」で終わる。「持統紀」が「三」が十度繰り返した「三十番目」の最終巻になっているのは「三」と「全て」を意味する「十」という秘数のせいである。つまり「三」の機能は「十」とでその「全て」が満たされる、というわけだ。むろん「第巻」の「神武」と「第巻」の「応神」とで、神武以来の「万世一系」とそれに基づいた応神以来の「三韓永久神授権」が(「」と「」の合体した)「第巻」の持統紀において全て満たされるという意味である。また神代紀が上下二巻になっているのは第三巻を人皇紀の「はじめ」とするためだろう。ちなみによく言われるように人皇紀最初の神武はその「武」において天武のいくばくかの投影人物であり、言うまでもなく人皇紀最後の持統はその天武の妻である。「三」(陽数=奇数)の夫で始まり、「三十」(陰数=偶数)の妻が締めくくるという構造で、日本書紀の人皇紀は天武・持統夫婦で最初と最後が仕切られている。

(p) さて、すでに明らかになったように天照大神は持統の神格化なので、天照大神に関わる記述にも「三」がある。持統が大臣の反対を押し切って伊勢神宮に赴くのは持統六年三月六日だが、これはもともと持統が決めた「日」が大臣たちの反対で延びたもの。伊勢の阿胡行宮で持統は魚介を献じた兄弟戸に調役を免じ、浦郡で捕らえた赤烏の雛二羽を献じたことで三浦郡に二年間の調役を免じる。また持統七年月一日と翌年の月一日に「日食があった」(日有蝕之)としているが、日食が次の年の同月同日に起きることはおよそあり得ない。「日食」は神代紀の天照神話では「天岩戸隠れ」のことなので、これはそれと無関係ではないだろう。ちなみに、そもそも記紀以前に日食に関する「天岩戸隠れ」神話が存在していて、記紀はその神話における太陽神を男神から女神に仕立て直したもの。なぜなら、できるだけ早く不吉な日食が終わってほしいという人々の願望が天岩戸前での胸をはだけたアメノウズメによるホト踊りとなり、それを見たいがための太陽神による天岩戸開き(日食の終了)なので、この男性的動機から記紀以前の本来の神話では太陽神が男神だったと判明する。世界のどの神話でも太陽は男性、月は女性であり、夫婦岩に起源するとされる伊勢神宮でも本来はそうだったものが、女性の持統が無理やり太陽神の天照大神と化すことで、記紀以前の天岩戸神話も一部変形されたということである。ここから(男神を女神にする、馬子なる男性大王の「阿毎多利思北孤」を女性大王の推古に変える、蘇我大王家を大臣家とするなどなど)天地逆転・男女変換・因果逆順・本末転倒もなんのその、偽史構築と自己絶対的神格化のためならなんでも歪める理不尽な持統の性格が読み取れる。

(q) そして最後に、天照大神がニニギに贈った種の神器(三種の宝物)がある。これは「八咫鏡・八尺瓊勾玉・草薙の剣」で、皇室の正当な後継者の印として天皇践祚に際して引き継がれる。天照大神は瑞穂の国の支配権を男孫のニニギ(瓊瓊杵)に生前譲与するが、これは誰もが知るように持統が男孫の文武に天皇位を生前譲与した史実の神話的表現である。つまり持統(天照大神)は文武(ニニギ)に生前譲位とともに「三種の神器」を生前譲与することでそれの意味する「何かの宝物」を贈ったのだが、それが何であるかは「三」がヒントになる。なぜなら持統にとって「三」はそもそも「三韓」のことだからである。「三韓を獲得し永遠に所有したい」というのが持統終生の夢(妄念)なのだ。すると天皇が代替わりするごとに贈られる「三種の神器」あるいは「三種の宝物」とは持統が心血を注いで創作した(天皇家が代々永遠に伝え譲るべき)応神の三韓永久神授権のことと考えていい。「八咫鏡・八尺瓊勾玉・草薙の剣」だけではただの物体にすぎず、それ自体としては大きな意味や価値を持たない。それらが何かの象徴である時に初めて決定的な意味や価値を持つ。したがって持統(天照大神)が天皇位の引継ぎの時に次代天皇の文武に贈るものがあるとすれば、それは「八咫鏡・八尺瓊勾玉・草薙の剣」という単なる物体でなく、それらが象徴する応神の三韓永久神授権しかない。

折角苦労して万世一系化工作で応神以来「三韓永久神授権」が代々譲り伝えられてきたように仕組んだのだから、後代に譲り伝えるべきものがあるとすれば、まずこれしかない。これは「いつかは永久に三韓を日本皇室のものにせよ」という後代の天皇たちへの持統の遺言なのだ。秀吉の朝鮮侵略はその試図であり、明治日本の朝鮮併合はその実現である。おそらく、新羅と縁のあるスサノオが八岐大蛇の尾から取り出したとされる草薙の剣が新羅、ニニギ(瓊瓊杵)の祖母の天照大神の実体が百済人の持統なので、瓊瓊杵尊と八尺勾玉の共通の「」から判断して、八尺瓊勾玉が百済、高句麗は三足烏の棲む太陽の民族なので、太陽を映す八咫鏡が高句麗、という相関関係で、「三韓」のそれぞれを象徴していると想像される。持統は道教信奉者の夫の天武から道教における「剣」と「鏡」の二種の神器の情報を得、(主要副葬品の「刀・鏡・勾玉」の伝統的観念からも影響を受けて)、それらに「玉」を加えて「三韓永久神授権」を象徴する「三種の神器」としたのだろう。


第10章  結語



日本書紀の編纂は(古事記とともに)天武の発案だが、持統天皇のときに実質的に始まり、持統の妄念を反映した概要が作られ、元明天皇(天智の皇女)を経て、元正天皇(天武の息子草壁皇子の娘)のときに完成した。

だからそこに持統の父と夫である天智と天武の二重基準が入り込み、それが「革命」「革令」という、歴史の「発端」を与える一つの編纂基準となった。また同時に持統を投影した神功皇后の三韓遠征譚が「時の中心軸」として歴史の「割り振り」を与える今ひとつの編纂基準になったわけである。

したがって日本書紀の実質的な編纂基準は「天智・天武」と「神功」ではなく、「天智・天武」と「持統」の二つだといえよう。そして「天智・天武」も最高編纂軸の持統の「父・夫」なのだから、言ってみれば持統天皇こそが編纂基準なのだ。

たしかに一般唐人の目からまた将来の倭人の目から在日百済としての「日本」の起源を隠そうとする「公益」に適う「大義の大嘘」という側面もありはしたが、本質的には「日本書記とは持統の妄念による偽りの日本古代史・天皇史・皇統譜」と言えるものなのである。したがって筆者は日本書紀を「持統日本紀」と呼びたい。

持統のこの妄念は、主に、唐と結んで祖国百済および自家百済王家を亡ぼした統一新羅に対する劣等感と報復心から産まれたものであり、この劣等感と報復心が日本書紀や古事記において、神功皇后三韓征伐や任那日本府経営という架空の「倭人優越史」となって、古代日本史を根本的に歪めさせた。

そして藤原不比等が藤原氏豪族最高位の歴史的正当性を説明する立場から、さらに偽史を重ねて歴史事実を歪曲しつつ、「藤原式天皇制日本」という構造を確立するために「日本書記」を完成した。

結局、一言で言えば、持統の妄念を藤原氏のフィルターを通して表現した架空の天皇家史が「日本書紀」である。702年に持統が死んだ後、不比等は日本書紀が完成した720年まで生き、持統の意思・妄念・遺志を日本最初の正史として完成させた。

日本書記は鄭玄の讖緯暦運説や持統の「三の秘数」によって全体が構造づけられた(推古紀を心柱とする)大いなる偽史書であり、内容としては「イデオロギーによって潤色された歴史書」であって「事実の書」ではない。またそもそも「事実の書」を目指したものでもない。

これは、「新しい時代の日本人はこれからこのように(応神三韓神授説が正しいように、蘇我王朝はなく、皇統は一系であったかのように)日本や天皇家の過去の歴史を見ることにしよう」という態度で書かれた一指針書であり、本文でしっかり論証された通り、天智が百済王子でなく伝統的な倭人王家の末であることを強制するα 群の唐側と、架空の応神三韓神授説を基礎づけたいβ 群の日本側との合作の偽史書であり、当時、強制通用力を持たされた、反論や批判の許されなかった官製の歴史書なのだ。むろん偽りの皇統や神功三韓征伐譚で一致する「古事記」もその偽史の積極的な共犯者である。事実を偽る二文書の内容が基本的にことごとく一致するというこの事態は、共犯以外では起こりえない。

げんに『続日本紀』元明紀の和銅元年(708)正月条には、和銅改元のいきさつを述べながら大赦令を出すことに言及し、ついでに高天原以来のことについて少し触れ、「山沢に逃げ、禁書をしまい隠して、百日経っても自首しないものは、本来のように罰する」と強く威嚇する記述がある。

「禁書」とは編纂中の日本書紀と異なる伝承などを記したものであろう。おそらく日本書紀の編纂中、それと平行して何度もいろいろと禁書令の出されたことが想像できる。これは同時に日本書紀の捏造記事に合わせて、書籍や物品などに様々な捏造工作が行われたことも意味する。むろん卑弥呼と蘇我王朝三代の陵墓の破壊や架空女王の推古の陵墓の捏造なども敢行している。

ここで思い起こされるのは天武系最後の天皇となった女帝の称徳天皇(孝謙天皇の重祚)が弓削の道鏡に皇位を譲り渡そうとした道鏡事件(769)である。すでに720年に完成した日本書紀に、皇統が神武以来のものであり、その神武が天孫の後裔であるということが記されている。

日本書紀完成後ほぼ半世紀にして、皇位が河内の中堅豪族出身の道鏡に譲られても良いという判断が称徳天皇に可能であったのは、皇統が天孫でも神武以来のものでもなく、ずいぶん歴史の浅いことを示すものだろう。道鏡事件は日本書紀の皇統一系が捏造であることを雄弁に物語っている。


日本書紀は偽史の素材に史実が多く援用されているという視点で見れば「その50%は史実である」と言っても良い。しかしそれらが曲用されている点を厳しく評価すれば、「その60%~70%が虚偽の書である」と言っても過言ではない。これは平均値の話であって、部分的にはたとえば架空人物の神功紀については「ほぼ100%虚偽」と言える。

むろん近い過去については時代が新しいほど事実は多くなるが、人物や事件の相関関係の大事な部分に(編纂者の利害にかかわる)多くの偽りがある。遠い過去については唯一の記録手段としての漢字の導入がまだないか、あってもごく一部だけなので、時代が古いほど事実は少なく、人物や事件もその多くが不確かな記録や伝承に基づいた創作か、完全な創作である。仮に個々の出来事が事実であっても、それらの時系列は創作であるというのも多いと思われる。

むろん創作部分には編纂者の利害が反映される。したがって日本書紀を史料とする日本古代史研究は、編纂時のイデオロギー的偏向をバイアスとして計算に入れ、ダイアモンド鉱山でダイヤモンドを探すように、多くはガラクタ(虚偽・創作)である日本書紀の記述の中から貴重な真実を追い求めるしかない。むろん虚偽の手法や創作の仕方、つまりガラクタの中にも、真実発見のヒントはある。

たとえば架空の物語である神功紀や蘇我王朝三代(馬子・蝦夷・入鹿)の偽史である「推古紀」「舒明紀」「皇極紀」に対する緻密な研究によって偽史構築の手法や技法を詳細にあぶり出し、日本古代史解明のよすがとしなくてはならない。

明らかに神功紀と推古紀・舒明紀・皇極紀とでは偽史構築の手法が異なっている。前者は(神代紀と同様に)空想創作手法が基本であるが、後者は史実置換歪曲手法が基本である。これは時代が古い前者には記録や記憶が無いか少なく、時代が新しい後者にはそれらが多く残っているからであろう。

推古紀・舒明紀・皇極紀を読んでいると余りに生き生きとした具体的な展開に「これ本当に嘘なんだろうか?」とその都度惑わされてしまう。しかし蘇我王朝が実在したことが証明されたので、「馬子・蝦夷・入鹿が大王でない推古紀・舒明紀・皇極紀の記述は全て虚偽」と判明したわけである。

たとえば皇極紀における入鹿暗殺の情景描写がいくら本当らしく見えても、真相を知ればやはり虚偽だったわけである。史実を巧妙に利用して虚偽を展開しているので真実らしく見えるのだ。その生き生きとした具体的な展開の巧妙さに惑わされてはならない。

日本書記は歴史記述の土台である暦法も元嘉暦と儀鳳暦の二つがあって統一されておらず、立派な正格漢文の α 群と初歩的誤謬の多い和化漢文の β 群が共にあり、さらにあちこちにあたかも最終監修時の見落としによるような初歩的な矛盾描写もあって、一見細工で細工にみえるが、それは外見だけのものであり、本当はそういう風に何十年もかけて緻密に練り上げられた巧妙な偽史なのだ。

付記して強調したいのは、多くが虚偽である日本書紀の記述のなかに虚偽を信じさせるために埋め込んだあれこれの史実を発見しては、それを「万世一系の日本書紀が史実の書である証拠」と強弁するのは止めようということである。それではまんまと騙されてしまう。記紀は実在した縁もゆかりもないさまざまな王朝群を都合のいいようにデフォルメしてつないで万世一系に利用したわけだから、むろん史実も多くあるわけだ。

日本人としては日本書紀をまず信じてみたい。でないとルーツが失われてしまい根無し草になって甚だ不安になる。しかしそれでは戦前流の皇国史観の受容となり、科学的態度とは言えない。真の科学的態度は「実証された部分以外はとりあえず全て疑う」というものである。すると差し当たりは日本書紀の大事な部分の多くが史実として残らないが、それでもそこから出発すべきなのである。

いずれにせよ本稿が明かした日本古代史の真相は、そのためのしっかりした(実力の証明された)古典解析ソフトができれば、遠からず古事記と日本書紀に対するAIの自動分析で証明される日が来る筈である。



最後に大事な視点として、もし天智が百済王子の翹岐なら、どうして朝鮮の古代史書や高麗時代の三国史記・三国遺事などにその記述がないのかという反論があるだろう。それについては、朝鮮では中国や日本からの打ち続く侵略によるく戦乱の中でほぼ全ての古代史書が失われたことに加え、唐史(旧唐書・新唐書)にも日本書紀にもそれについて全く言及がなく、むしろその真実を隠す目的で編纂された日本書紀の万世一系の偽史のため、折角残存していた「天智は百済王子の翹岐」記述の信憑性が代々の史家によって疑われて削除された可能性が高い、というほかない。

仮にたとえそういう記述が現代に残されていたとしても、当然のことながら唐側が意図的に隠したため旧唐書や新唐書に言及がないうえに、唐と日本の合作である日本書紀において完璧な万世一系の偽史が確立されているので、現代でさえおそらく誰も真面目には信じないのではないか。たとえば隋書には当時の日本の大王として「阿毎多利思北孤」という男王の名や「ケミ」という妻の名も記されており、後宮に600~700人の女がいると記述されてあるにもかかわらず、現在、学会でも世間でも当時の大王は推古女王で、摂政は厩戸皇子(聖徳太子)だとして通っている。

したがって本稿がなしたように日本書紀の分析によって天智が百済王子の翹岐であることが100%証明されたからには、朝鮮の古代史関連史書に天智が百済王子の翹岐だという記述が見られないのは、信憑性の欠落による削除や史料の単なる紛失や不備などなど、結局、「様々な要因によって、たまたまそうなった」ということになる。



終わりに『続日本紀』の聖武天皇神亀五年(728年)正月十七日条にある渤海王(大武芸 ・・・渤海を建国した大祚栄の子)からの書状について触れておきたい。そこには、

    武藝啓。山河異域、國土不同。延聽風猷、但増傾仰。伏惟大王天朝受命、
  日本開基、奕葉重光、
本枝百世。武藝忝當列國濫惣諸蕃、復高麗之舊居、
  有扶餘之遺俗。但以天涯路阻、海漢悠悠音耗未通、吉凶絶問、親仁結援。
  庶叶前經、通使聘隣、始乎今日。謹遣寧遠將軍郎將高仁義・游將軍果毅
  都尉將徳周・別將舍那婁等廿四人、賚状、并附貂皮三百張、奉送。

  土宜雖賤用表獻芹之誠、皮幣非珍、還慚掩口之誚、主理有限、披膳未期。
  時嗣音徽、永敦隣好。


とある。ちなみに「旧唐書」で大祚栄は、もとは高句麗の別種とされ(「本高麗別種也」)、「新唐書」では「粟末靺鞨」とあるが、「旧唐書」の方が正しいだろう。一般に「旧唐書」と「新唐書」の間で違いがあるとき多くは「旧唐書」の方が正しいとされている。

翻訳すると、

武芸が啓(もう)します。それぞれの山河の領域は異なり、国土は同じではありませんが、遠く政道の風聞を聴いて、ただ傾仰を増すばかりです。伏して惟(おも)いますに、大王の天朝は天命を受け、日本国の基を開き、ますます栄えますます輝き、本枝百世です。武芸は忝(かたじけ)なくも列国に当たって濫(すべ)ての諸国を支配して高句麗の旧地を回復し、夫余の遺俗を有しています。ただし遠く路は阻(へだ)たり、海は漢(ひろ)く悠々としていて、音信は未だ通じず、慶弔を問うこともありませんでした。しかしこれからは親しく助け合って、庶(ねが)わくば前経に叶うように、使者を通じて隣国としての交わりを今日から始めたいと思います。謹んで寧遠將軍郎將の高仁義・游將軍果毅都尉將の徳周・別將の舍那婁ら二十四人を派遣して、書状を進め、并(あわせ)て貂皮三百張を持たせて送り奉ります。土地の産物はたいした物ではありませんが、お口汚しの誠を表したいと思います。皮革は珍しいものではなく、却って咎めのあることを恥じるばかりです。手紙では限りがあり期するところを十分に伝えることはできませんが、時あるごとに音信を続けて永く隣国の好を篤くしたいと思います。

この「本枝百世」は、百世と言っても良いほどの永きにわたる繁栄、という意味もあるが、「百世前のあなたの祖先()はここにいましたよ。あなたはその祖先からのように伸びて繁栄した百世です」という含みもある。

また「扶余の遺俗を有している」(有扶餘之遺俗)という語が意味を持つのは、むろんどちらの先祖も扶余の場合だけである。でなければこの語に何の意味があるのだろう。先祖が異なるなら渤海王が日本の天皇にわざわざこれを伝える意味がない。渤海が扶余の遺俗を有しているかいないかなど、日本の天皇には何の興味もあろうはずがないからである。

この「遺俗」の「遺」はなんらかの遺産を受け継いだ共通の後裔の存在を前提とする語であろう。でなければ何かが伝承しているという「遺」の語になんの意味があるのだろう。つまり「遺俗」という語でなく「有扶餘之習俗」(扶余の習俗を有しています)のように、単に「習俗」「風俗」「民俗」などなどの語で十分であろう。にもかかわらず「遺俗」という語を使う意味は何か?

そもそももし天皇が扶余の後裔でなければ、扶余のなにがしが伝承しているかどうかなんぞ、それがなんであれ日本の天皇にとって何の興味もない筈のものである。したがって渤海国王が「親善交流を始めたい」という趣旨の短い手紙の中で、そのような自国の特殊地域伝承情報を日本の天皇に伝える理由はない。

しかし親善交流を始めたい渤海国王の立場からすれば、なんであれ両者に共通のものが存在するなら、いかに特殊な自国情報でも、それを必ず相手に知って欲しいもの。もし日本の天皇が扶余の後裔だと渤海国王が知っているとすれば、それについて一筆でも二筆でも書き入れないわけにはいかなくなる。それが「本枝百世」や「有扶餘之遺俗」という句である。

さらに、「それぞれの山河の領域は異なり、国土は同じではありませんが」(山河異域、國土不同)という表現には、「今は生活地域は違っても、私たちの内的なものは同じですよ」という意味合いが含まれている。両者が内的に同じだからこそ、生活地域の違いが最初に記されているのである。

でなければ遠い外国の山河の領域が自国の領域と(地理空間的に)異なるのは当たり前だから、わざわざ手紙の冒頭に改めてそんなことを書く必要はない。この語句の本当のニュアンスは、「私たちは本来、同じ扶余の者として、同じ山河の領域、同じ国土のこの扶余の地に住んでいなくてはならない筈ですのに、今はそれぞれの山河の領域は異なり、国土は同じではありません・・・」というものであろう。

また、両者にこれまで交流はなかったわけだから、「前経に叶うように」(叶前經)の「前経」は、過去の交流経歴のことではない。すると社会的前歴ではなく自然的前歴、すなわち同族・同氏族といった血のつながりの前歴しかない。この「前経」(過去の経歴・経緯)は両者が同じ扶余出身である過去経歴のことを言っている。

したがって「前経に叶うように」とは「同じ扶余の後裔経歴に叶うように」という意味であろう。武芸は終生唐との戦争を繰り返していて、背後を確かなものとする目的で日本との友好関係を築き上げたいのだが、その場合、共通祖先の後裔という情報伝達ほど大きいものはないだろう。「唐は異民族だが、自分たちは同族だ」という情報ほど効き目のある情報はない。

ところが渤海国王の書面からはどのような「前経」なのか具体的にはさっぱり分からない。これが最初の交流書信なので、両者にどのような「前経」があるかまず説明しておかないと、渤海国王は「前経」という語を使えない筈。

したがって『続日本紀』は、「前経」という語の前方に存在していた筈の両者共通の前歴に触れた(致命的な)句をいくつか削除したことが明白である。そしてよくよく見つめないと真相のつかめない「本枝百世」「有扶餘之遺俗」「山河異域、國土不同」「叶前經」などの曖昧な句だけを残した。

以上から、渤海王の大武芸が聖武天皇を自分と同じ扶余系とみなしていることがわかる。つまり大武芸は聖武天皇の祖先である天武を扶余ー高句麗系としているわけである。天武が高句麗系の人物であることは、(息子たちの墓である高松塚古墳やキトラ古墳の高句麗風壁画からだけでなく)、聖武天皇宛の大武芸のこの書状からも分かるということ。高松塚古墳にもキトラ古墳にも石棺の上方に被葬者が高句麗系であることを示す「太陽の中の三足烏」の図があった。




森博達説に対する二三の疑問




森氏の説については本稿冒頭で触れたが、以下に「吾妹」に関する説その他について少し触れておきたい。反論というよりはちょっとした問題提起である。

森氏は雄略即位前紀の「吾妹」に関する分注「称妻為妹 蓋古之俗乎」(妻を称ひて妹とするは、蓋し古の俗か)を理由に、 α 群の筆記者を中国人だと推定した。妻を「吾妹」(わぎも)と呼ぶのは上代でも一般的な慣習なのに、それを不思議に思っているのは、外国人とりわけ正格漢文を書くところからすれば中国人に違いないとするわけだ。その場合、中国人の α 群筆記者は読者として外国人、主として中国人を想定していることになる。

ところで日本書紀に「吾妹」という語は四例ある。

①神代紀上第五段一書第六(イザナミに対するイザナギの呼びかけ「愛也吾妹」)
②神武即位前紀(長髄彦が「この人が我が妹の三炊屋媛だ」と説明する語)
③安康元年二月一日条(大草香皇子が「どうして我が妹を差し出せましょうか」と言った語)
④雄略即位前紀(安康天皇が「我が妻よ」と皇后に呼びかける語)



森氏は井上亘氏が「雄略紀以外はみな実の妹を指している。反対に言えば、妻を指して「吾妹」と言った例は雄略紀だけなのであるから、ここにこういう注記があっても何もおかしくはない」とするのを虚偽だと批判し、①は「吾夫君」と「吾妹」とが文章上の対比関係にあり、そこから「吾妹」が妻の意味でのみ使われていると主張する。

たしかに対比から見れば①の「吾妹」は「妻」の意味だ。しかし文章は方程式のように対称性が厳密なものでない。もしかすると β 群の筆記者からすれば対比でないかもしれない。イザナミはイザナギの妹なので、かたや『わが夫よ』と呼んでいるのに、それに答えて非対称的に『わが妹よ』という場合もありうる。あるいは『わが妻よ』と答えつつ同時にそこに『わが妹よ』という意味も含ませたかもしれない。となれば森氏が嘘呼ばわりしたのは行き過ぎだということになる。

ところでもし井上氏が「妻を指して『吾妹』と言った例は雄略紀だけ」とせず、「実の妹でない妻を指して『吾妹』と言った例は雄略紀だけ」としていたならば、森氏の虚偽批判には遭わなかったのではなかろうか? とはいえ井上氏は直前で「雄略紀以外はみな実の妹を指している」と記しているわけだから、森氏はそこまで読み取る義務があった。森氏の嘘批判はこの点でも行き過ぎだと言える。

今問題になっているのは「妹」を「妻」の意味に使うことへの分注である。もともと「妹」は実の妹のことを言う。しかし実の妹でないのに「妹」を使って「妻」と称しているということが奇妙だとして、いま問題になっているわけだ。分注の意味は本来これであろう。

だから井上氏は厳密に「実の妹でない妻を指して『吾妹』と言った例は雄略紀だけ」と書くべきだった。これなら雄略紀にしかなく、井上氏の言うとおりこういう注記が雄略紀にあっても何もおかしくないだろう。

たとえば雄略紀の筆記者が仮に神代紀の「吾妹」のことを知っていたとしても、「あれはイザナミがイザナギの実の妹なのだから、『吾妹』はその字の通りの「我が妹よ」とも、また「我が妻よ」とも取れるケース。しかし実の妹でもない者に『妹』の字を使い、『吾妹』と呼んで『我が妻よ』という意味になるのは、この雄略紀のこの場面が最初だから、やはりここは分注を一筆入れておこう」と考えて、「称妻為妹 蓋古之俗乎」を書き入れた、とすることも可能だ。



それにしても α 群の筆記者は自分の時代に日本で一般的な慣習になっているこうした「妹」の用法を夙に知っていたのか知らないでいたのか? 森氏はどうやら知らないでいたと考えている。これがおかしい。

森氏の言う通り α 群である「雄略紀」の筆記者を続守言だとするなら、彼が661年に捕虜として日本に来てからもはや三十年近くになる。妻も日本で得て、おそらく息子や娘も生んで家庭も築いたことだろう。

彼の妻子はむろん「妹」を「妻」の意味で使うのを知っていただろうし、続守言は自分の妻子が「妹」をそういう用法で使っているのを傍らで見聞きしたことさえあるかもしれない。しかも続守言は当代一流の文章家。言語現象にはなにかと興味をそそられた筈。日頃たびたび日本語について妻子に教えを請うたかもしれない。

もしかすると文章家の妻子意識から「日本では『妹』のこんな用法もあるのよ」と妻子に示された、ということもありうる。「」の語が関係しているので彼のが言及していたということは十分あり得るだろう。続守言は日々の生活語でもあり研究対象語でもある日本語の勉強もとことんしたに違いない。

そういうわけで彼が日本で普通に「妹」を「妻」の意味で使うのを三十年近くも知らなかったとは到底思えない。むろん続守言はとっくに知っていた筈。そういう彼が α 群を記す時点で改めて「妹」を「妻」という意味で使うのを奇異に思うわけがない。雄略紀の分注では、「妹」を「妻」の意味で使うのが余りにも奇異に感じられた(来日して間もない)頃の自分の過去を追想して記しているとすると納得がいく。



ところで、筆者は森氏が日本書紀(持統紀を除く)を正格漢文と和化漢文に二分したのを90%以上正しいと思う。こうした二分法は森氏以前にもあったが、森氏が独自に音韻論を駆使して確立した。しかし森氏がそれらを前後立てて「 α 群と β 群」と呼んだことについては、信頼度は40%程度しかない。とはいえ α 群 β 群などの筆記者や加筆者の特定についての信頼度は大きい。

本文で導かれた結論からみれば α 群が唐人の手によるものである可能性は90%以上だといわなければならない。「天智は百済王子でなく伝統的な倭人である」という主張は、そもそも白村江大敗後の唐軍侵攻を免れるための倭国側の虚偽外交政策であったが、それは同時に費用対効果の点から遠海の島国である倭国への侵攻をできるだけ避けたかった筈の唐側の秘した期待や要求でもあったからである。

もともと唐は天智が倭人王家の末であろうと白村江まで出張ってきた倭国を許せず白村江大勝後の勢いで倭国に侵攻するべき立場ではあったが、天智が百済王子であれば倭国はすなわち百済となり、そうなれば百済は滅んでおらず、なおのこと白村江大勝後の唐は倭国侵攻を避けられない。しかし、もし「天智は伝統的倭人である」と倭国側が主張するのであれば、倭国侵攻は(唐国家の体面上)避けることができるものとなる。そして結局そういう理由で倭国侵攻は中断→中止→放棄された。したがって(秘密裏であれば)唐人が偽史構築に関わっても特に問題はない。

唐としてはいつの日か日本が「祖国の百済を滅ぼした」として唐を敵視するようになるのも非常に心配だ。白村江まで大軍を送って唐軍と戦った日本なのだ。そういうわけで、倭人の間で未来永劫「天智は倭人王家の末である」と考えるように、そういう内容の国家公認の歴史書を残してもらいたいと思うのも自然の流れになる。

それまで正史のなかった日本ではそれが非常にやりやすい。つまり唐側はそういう偽史を日本に要求しやすかった。天智としても「祖国の百済がすっかり滅んだあとでは、倭国でいつまでも百済人のままではやっていけないな」と危惧しただろうから、「倭人王家の末だとしろ」という唐側の要求に対して全くの不満というわけでもない。つまり受け入れる理由が天智側にもある。そして天智を倭人王家の末だとする日本最初の正史を書くのを指導し監視・監督するために、薩弘恪が唐から極秘裏に送り込まれたのではないか? 彼について文献上どこからどうやって日本に来たのか全く知れないのはそのためということになる。そして薩弘恪はすでに白村江の戦いの折の捕虜として日本にいた続守言とともにそういう偽史構築の指導と監視・監督に当たったと考えてもいいようだ。

おそらく日本最初の正史において「天智は倭人王家の末」とされてありさえすれば、「天孫」であろうと、「万世一系」であろうと、「天皇」称号を使おうと、「神功三韓征伐」であろうと、「任那日本府」であろうと、他は自由にして良いということだったのであろう。そしてある程度そういう偽史構築の目途が立ったので、持統時代に唐側の裁可もあって再び遣唐使の派遣が始まり国交正常化に至ったと考えられる。



したがってα 群は唐側要求の「天智は倭人王家の末であるべし」という点で日本書紀の発端編纂基準に関係し、β 群は日本側要求の「天孫万世一系」や「応神三韓神授説」という点で日本書紀の「割り振り編纂基準」(時の中心軸)に関係していることになる。

森博達氏はα 群が唐人の続守言と薩弘恪の手になるとし、巻十四(雄略紀)~巻二十一(崇峻紀)を続守言が、巻二十四(皇極紀)~巻二十七(天智紀)を薩弘恪がそれぞれ分担したと判定したが、そうだとすれば、そこから偽史構築のいきさつが透けて見えてくる。「天智は倭人王家の末であるべし」というのが唐側の要求で、これは(皇極→孝徳→斉明→天智)という流れで天智の母の皇極から天智までを担当している薩弘恪に属しており、偽史構築において彼の方が続守言より核心的な仕事をしていることになる。続守言担当の雄略紀から崇峻紀までの歴史の流れは薩弘恪の仕事の前段にすぎず唐側要求と直接つながっていない。つまり来日のいきさつが全く分からない薩弘恪が唐から秘密裏に派遣された偽史構築唐側責任者である可能性は大きい。

筆者は本文で、そもそも彼らの分担とされていたにもかかわらず、結果的に偽史構築の心柱・要石である「推古紀」を書くのをこの二人の唐人が避けたのは、余りの偽史に後世の不名誉を想像し恐れをなしたのかも?・・・としたが、本当はそうではなく、そもそも偽史構築の心柱が、聖徳太子を登場させて蘇我王朝の太祖としての馬子を消去する「推古紀」であるかぎり、そこはやはり日本側にしかできないところだったわけである。だからこそ「推古紀」は「天孫万世一系」や「応神三韓神授説」を狙ったβ 群に委ねられた。

いうまでもなく偽史構築の要石である「推古紀」を権威づけるのは「聖性」と「徳性」と数々の奇跡の「後光」に満ちた聖徳太子の存在であり、しかもその「聖性」と「徳性」は「推古紀」が偽史でないように読者を誤導する用意周到なカラクリでもある。そのような「聖性」と「徳性」と「後光」に満ちた聖徳太子の描写を唐人に委ねても、うまくいくわけがない。倭人の神聖化あるいは聖なる倭人の行跡描写など唐人たちも、やりたくない筈である。つまりα 群である続守言の分担部分と薩弘恪の分担部分の交替引継ぎ点にβ 群の「推古紀」と「舒明紀」が挟まれているのは、そこが偽史構築において日本側の最も重要な聖徳太子の登場部分となっているからである。神々しい神話的な聖徳太子は神代紀などで登場すべき役柄の存在であり、神代紀を担当しているβ 群に委ねるのがふさわしく、唐側としてはなるべくならそのような日本内部の心情世界に立ち入りたくもなく、結果として「天智が倭人王家の末」でありさえすれば、とりあえず他はどうでもよかったと言えよう。

偽史構築における「推古紀」の「心柱」としての重要性は、それがα 群の二つの部分(続守言の部分と薩弘恪の部分)の間に入り、この二つの部分を支えて繋ぐ「棟木の架け橋」となっているところにもみられる。「日本書記」という大いなる偽史の心柱が「推古紀」で築かれ、その心柱を支えに、薩弘恪の唐側要求(百済王子を倭人化)の偽史の部分が続く。したがって続守言の部分は偽史性が小さく、薩弘恪の部分こそが唐側要求偽史の本体と言える。



日本書紀は偽りの歴史書であり、その根本が大いなる偽史である。その偽史構築の現場に二人の唐人がいる。すると偽史の日本書記は唐と日本との合作であり、これらの唐人は偽史構築の共犯者であるわけだ。白村江後の唐と日本の力関係から唐人の方が主犯、つまり唐側の要求で偽史構築がなされていると推測できる。私としては日本書紀編纂の根本原理の一つである鄭玄説(辛酉革命・甲子革令論)は、これが日本書紀のα 群と密接な発端編纂基準と関係しているゆえに、この唐人たちから出た提案ではないかと推理している。

α 群は以上のようだがβ 群にも「応神三韓永久神授権」を偽史として構築するための支柱があり、それが「神功紀」である。こうしてたどり着いたのが下の図式だ。これは日本書紀編纂の極秘の土台とされたものであり、したがって日本書紀を分析し総合し解明するためのいわば「基礎方程式」ともなる。

(A)発端編纂基準   ─ 百済王子の倭人化  ─ 唐側要求 ─ α 群 ─ 鄭玄説(辛酉革命・甲子革令論)─偽史の心柱は「推古紀」
(B)割り振り編纂基準 ─ 応神三韓神授権構築 ─ 日本側要求─ β 群 ─ 魏志倭人伝(神功卑弥呼論) ─ 偽史の支柱は「神功紀」


むろんこういう土台の上での偽史構築作業はどこまでも秘密になされなくてはならない。でないと偽史であることが暴露されて両国の目論みが崩壊してしまう。したがって唐史でも日本史でもそれを明かす資料は何も残されなかった筈である。上で述べた秘密裏に唐人が偽史構築に関わった可能性とは、以上のことを言う。



ところで筆記者同定論とともに α 群 β 群説( α 群が先に書かれ、 β 群はその後で書かれた)は森説の核心部分だが、 α 群 β 群説はそれなりの問題を抱えているように見える。

たとえば森氏は α 群 β 群説を立証するためにばらばらに四つの論拠を挙げている。

①安康紀の安康三年秋八月九日の分注(「辭具在大泊瀬天皇紀」・・「雄略天皇紀に詳しく述べてある」の意)
②元嘉暦と儀鳳暦
③「吾妹」
④「知天下」と「御宇」

『日本書紀の謎を解く』のなかの「 α 群と β 群の編集順序」(207)では①しか挙げていないが、②に関する「元嘉暦と儀鳳暦」(215)の項ではそれらの前後関係で α 群と β 群の前後関係を示している。

また、③について、森氏は、雄略紀の「吾妹」に分注が付いているのは、この雄略紀の例が β 群の神代紀の例に先立つからだとする。 β 群に分注がないのは α 群にすでに分注があるから、というわけだ。

④は天皇に対する呼称である。702年の大宝令前は「知天下」、大宝令後は「御宇」が使われたとし、 α 群は「知天下」を、 β 群は「御宇」を用いているとする。森氏によれば「『大宝令』の『公式令』で『御宇』を使用するよう指示された」(221)。

しかしもし「御宇」が令で指示されたのなら、他の同系統の「馭天下」「馭~国」「馭万機」などの存在や表記の揺れが問題になる。



実際、筆者にとって①②③は決定打にならなかった。④が正しければ決定打になる。しかし表記の揺れがあって、まだ判断が揺れている。もし金石文や他の文書によって使用時代がはっきり画せるものなら④は決定打になるが、どうだろう? 

では①はなぜ決定打になれないのか? それは「詳しくはどこそこに書かれてある」という論法で、詳しい方が先に書かれたとするのは、 β 群の「推古紀」と α 群の「用明紀」との間で逆になっていて、成立しないからである。

「用明紀」元年一月一日条には本文に「そのことは推古天皇紀に見える」(「語見豊御食炊屋姫天皇紀」)とある。つまり森氏の論法では聖徳太子の描写に詳しい「推古紀」( β 群)が先に書かれ、「推古紀に見える」という簡単な記述の「用明紀」( α 群)が後に書かれたことになる。

森氏は『日本書紀の謎を解く』の「 α 群と β 群の編集順序」(207)の項で、安康三年八月九日条の簡単な一言の分注(「辭具在大泊瀬天皇紀」)は、安康天皇暗殺事件については雄略紀に詳しく述べられている、という意味であって、したがって β 群の「安康紀」より α 群の「雄略紀」が先に書かれたとする。

さらに、もし「安康紀」が先に書かれたのであれば、安康天皇暗殺事件は当人のことを記す安康紀にこそ詳しく書かれた筈で、雄略紀に詳しく書かれた筈はないとする。

しかしもし森氏の言うように雄略紀が α 群の冒頭であれば、安康暗殺事件を雄略紀で詳しく書いておかないと、雄略の登場をうまく描写できなくなるだろう。だからこそ雄略紀に安康暗殺事件が詳しく書かれた、とも言えるので、安康暗殺事件がどちらに詳しく書かれたかだけでは、 α 群と β 群の前後関係は決定できない。



また実は「雄略紀」の「吾妹」の直前に「語在穴穂天皇紀也」(安康天皇紀に記述がある)という分注があり、安康紀の「辭具在大泊瀬天皇紀」(雄略天皇紀に詳しく述べてある)と相互参照になっていて、これを見てもどちらが先に書かれたか決定できない。

それに他にもなにやら訳の分らないちょっとした問題もある。なんと森氏は「 α 群内の分担」(210)の項で、小川清彦氏の「日本書紀の暦日について」(1946)を紹介し、「巻三『神武紀』から巻一三『安康紀』までが新しい『儀鳳暦』によって推算されている。そして巻一四『雄略紀』の前史となる安康元年以降は、古い『元嘉暦』を用いている。」と記している。(赤字は筆者)

これを見ると先ほどの安康三年の分注は安康元年以降だから元嘉暦に属していることになる。「雄略紀」も元嘉暦で記されている。言うまでもなく α 群は元嘉暦で書かれており、 β 群は儀鳳暦で書かれている。

すると結局、 α 群内の前後関係だけで α 群と β 群の前後関係を決めたことになる。もし小川清彦氏からの準引用が誤植でなければ、森氏が分注で前後関係を決めていた方法が誤っていたということになるだろう。つまりあれこれあって①は採れない。



②については元嘉暦と儀鳳暦の併用時代(持統6年~文武2年)が6年あって、その時代であれば α 群と β 群は同時並行的に記述できるということがある。つまり α 群の筆記者は元嘉暦を使っていた雄略以後の時代を同じ元嘉暦で記し、 β 群の筆記者は将来、新しい暦法である儀鳳暦が単独使用されることを見越して、併用中の儀鳳暦の方で記したとも言える。

両群の筆記者が書き始めの時に選択した暦法がその後もずっと使われた筈で、彼らが書き始めた時が併用時代でさえあれば、この説は成り立つ。したがって②は十分でない。

③の「吾妹」については既に触れたが、井上亘氏の言葉に「実の妹でない」を付け加えて、「実の妹でない妻を指して『吾妹』と言った例は雄略紀だけ」とすれば、井上説も成り立つ。

これは α 群の筆記者が中国人かどうかの問題だったが、同時に α 群と β 群の前後関係の問題でもある。つまり「吾妹」に関する分注が雄略紀にあって神代紀にないからという理由では両者の前後関係は決まらない。神代紀は実の妹が妻と呼ばれているケースで、雄略紀のケースとは異なるからである。

以上からしたがって編集順序を決めるには①②③とは違う何か別のものがなくてはならないが、それが④の「知天下」と「御宇」の使い分けだ。これがはっきり証明されないと森氏の「 α 群 β 群説」はしっかりとは成立しない。



筆者としては、雄略紀以降の α 群が先で神代紀や神武紀以降の β 群が後だとすると、過去(原因)なしに未来(結果)を記述せざるを得ないアクロバットを要求されるので、少し不自然な気がする。

たとえば明らかに過去の結果なのに、過去が β 群に属していてまだ書かれておらず、 α 群ではそれとの相関関係で正しく出来事を記述することが出来なくなる、という問題が生じる。こういう歴史記述は本道ではない。とはいえそれを要求する必然的な理由があって選択された可能性も否定できない。その場合、その必然的な理由はなんであろうか?

すでに本稿で詳しく見てきた通り、日本書紀の偽史構成においてα 群とβ 群にはその役割が相関するそれぞれの分担部分があって、互いに密接不離の関係にある。百歩譲ってかりにα 群とβ 群の間に記述の前後や時間差があるとしても、日本書紀は(α 群の唐側の要求とβ 群の日本側の要求を合わせた)全体が一貫した合作の偽史なので、それぞれが書かれる前に全体の設計図すなわち「偽史の全体像」はまず確立されている

したがってかりにα 群とβ 群の記述時期に前後があろうと本質的にはどちらが先とも言えないのではないか。α 群とβ 群は偽史を組み上げていくうえで互いに細かくすり合わせなくてはならないので、たぶん部分的にはあちこちで先になったり後になったりしているものと思われる。たとえば偽史構築の心柱である「推古紀」(β 群)における架空人物の推古女王や厩戸皇子(聖徳太子)の前史(誕生成長期)は、α 群の「用明紀」や「崇峻紀」にあるので、α 群とβ 群間の相互の記述調整が不可避的に必要となる。



ところで森氏は雄略が古代の画期でそのためそこから日本書紀すなわち α 群が書き始められたとするが、すでに本文で詳しく見たように日本書紀における古代の画期は、偽史としてはむしろ割り振り基準や応神三韓永久神授権にかかわる神功紀や応神紀にある。実史としては一つの王朝交代期である応神紀や継体紀にある。

したがって日本書記が鄭玄の讖緯暦運説や持統の「三の秘数」によって全体が構造づけられた(推古紀を心柱とする)大いなる偽史書であることを考慮すれば、 α 群が雄略紀から始まっているのは、大事な結節点をよく見えないようにする真相隠蔽のための煙幕だった一面もあると思われる。

そもそも正格漢文で書かれた元嘉暦の α 群と和化漢文で書かれた儀鳳暦の β 群が混在するといった統一性のない日本書紀の有様自体が作為的なものであって、「全体が偽史として統一的に緻密に構造づけられている」という真相を隠す目的のものである可能性は大きい。

日本書紀は歴史書なのに土台である暦法さえ統一されていないというのは非常に不自然であり、また中国人が読めば誤りに満ちた漢文とすぐに分かる β 群の存在も不自然極まる。これは建物の半分を尺貫法、残りをメートル法で建て、屋根の南側を瓦葺き、北側をトタン葺きにしているようなもの。

掘っ立て小屋ならいざ知らず何十年もかけて建築した国家のちゃんとした館でこんなことはあり得ない。暦法の不統一や漢文の未熟という点は、日本書記が全体として緻密に計算された構造的な偽史書であることが分かると、それらの作為性が浮かび上がってくる。



森氏への疑問はもう一つある。森氏は厩戸皇子(聖徳太子)の実在性はどうやら認めているようである。しかし十七条憲法はその和習(漢文の誤用・奇用)から天武朝以降のもので聖徳太子時代のものでないとし、また崇峻紀の蘇我・物部戦争の話は三宅臣藤麻呂が714年以降に α 群に対して加筆挿入したものの一つで「厩戸皇子の聖人化を企図したものである」(「日本書紀の成立の真実」58ページ)とする。

これらは厩戸皇子を大聖大徳大賢化してついに聖徳太子崇拝をもたらした最大の二つで、これ以外には(大きくは)三教義疏があるのみ。三教義疏については森氏も厩戸皇子の手になるとは無暗に断定しないはず。(私としては音韻研究の手法で三教義疏を誰がどこで書いたか森氏に突き止めてほしいと思っている)

となれば厩戸皇子はたとえ実在したとしても偽史的に大聖大徳大賢化された加工人物だということになる。つまりそこそこの人物だった者を日本最初の正史においてわざわざ偽史化し、超例外および唯一的に、大聖大徳大賢化したわけである。これは普通の塾講師を日本でただ一人のノーベル賞受賞者の大学教授(例えばかつての湯川秀樹)として描いたのとほぼ同じと言っていいだろう。昔風にいえば、茶坊主を大僧正として描いておいて同一人物だと強弁するようなものである。

それでもなお厩戸皇子なるいわゆる「聖徳太子」は実在したと言えるのだろうか? またこの大いなる偽史である大聖大徳大賢化の避けられない理由はなにか? なぜ天武朝以降の十七条憲法が厩戸皇子の手になるものとされて冠位十二階と並んであのように(甲子年である紀元604年の出来事として)推古紀にあるのか? ぜひ問うてみたい。

また一般に聖徳太子が隋の煬帝に送ったとされている国書中の「日出處天子」の「天子」の意味と用法についても、この「天子」が推古女王に当てはまり得るものかどうか問いたい。

当時の基本哲学でも一般常識でもある(「天は男性、地は女性」と説く)陰陽説によって「天子」は男性のみがなれるものだった。そのため中国では古来、女性の天子は存在せず、女性が天子と呼ばれたのは推古女王から80年ほどもの周の武則天(唐の則天武后)ただ一人だけなので、武則天より80年の推古時代には「女性天子」の概念さえ存立しえないものだった。

すなわち「日出處天子致書日没處天子無恙」の「天子」は男性にしか使えない概念なのだ。むろんこの「天子」の意味と用法は隋への国書にあるものなので、隋でのそれと全く同じ。したがって「日出處天子」は当時の倭国の大王が男性であることを示しているため、推古女王は架空の存在となり、同時に聖徳太子も架空の存在となる。こう考えるのが正しいのではないか。

一般に森氏は日本書記が「持統日本紀」と呼べるような「大いなる偽史」であることに気付かず、おそらく枝葉末節以外のところは偽史でないと考えていて、事実上、偽史と実史を混乱させたまま議論を進めているように見える。森氏には天智が百済人であるかどうか確かめたうえで日本書紀を改めて眺めてほしいと思う。




草壁挽歌




日並皇子(ひなみのみこ)の尊の殯宮(あらきのみや)の時、柿本朝臣人麿がよめる歌一首、また短歌

  天地(あめつち)の 初めの時し 久かたの 天河原(あまのがはら)に
  八百万(やほよろづ) 千万神の 神集(かむつど)ひ 集ひ座(いま)して
  神分(かむあが)ち 分(あが)ちし時に 天照らす 日女(ひるめ)の命
  天(あめ)をば 知ろしめすと 葦原の 瑞穂の国を
  天地の 寄り合ひの極み 知ろしめす 神の命と
  天雲の 八重掻き別(わ)けて 神下(かむくだ)り 座(いま)せまつりし
  高光る 日の皇子は 飛鳥の 清御(きよみ)の宮に
  神(かむ)ながら 太敷きまして 天皇(すめろき)の 敷きます国と
  天の原 石門(いはと)を開き 神上(かむのぼ)り 上り座(いま)しぬ
  我が王(おほきみ) 皇子の命の 天(あめ)の下 知ろしめしせば
  春花の 貴からむと 望月の 満(たた)はしけむと
  天の下 四方(よも)の人の 大船の 思ひ頼みて
  天つ水 仰ぎて待つに いかさまに 思ほしめせか
  由縁(つれ)もなき 真弓の岡に 宮柱 太敷き座(いま)し
  御殿(みあらか)を 高知りまして 朝ごとに 御言問はさず
  日月 数多(まね)くなりぬれ そこ故に 皇子の宮人 行方知らずも