「曖昧」な日本人について


金哲顕

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「日本古代史の謎に迫る」(日本書紀の二つの編纂基準について)はここからどうぞ

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「曖昧」が日本人の一つの特性であることは日本人自身も知っている。大江健三郎氏も1994年のノーベル文学賞受賞時に行った『あいまいな日本の私』という講演で言及している。いうまでもなく「曖昧」は「無責任」と通じている。日本人が責任追求で曖昧なのは誰しも知るところだ。政治家や官僚たちの不正に対して最後のところでいつも責任の所在が曖昧模糊となる。そして何事につけ多くの場合、議論が紛糾したあとは玉虫色の決着がなされる。

かつてヒットした植木等の「無責任一代男」の歌もそういう流れのものだ。「無責任」がテーマとなって大手を振って歌われる国も珍しいのではないか。

日本人社会では何事についても明瞭にしないことを良しとする。はっきり自分が目撃した事実についても、「~って感じで・・・・」「・・・みたいな~」と言ったり、「~とかなんとか言っちゃって」と言葉尻を濁すのもそのためだ。

また、自分の心のことなのに「わたしこれ好きかも知んない」と自分の心をどっちつかずに漂わせ、また対象についても「~はいかがでしょうか?」でなく「~のほうはいかがでしょうか?」と焦点をぼやけさせる。また「あなたを愛しています」と言えばいいものを「あなたのことを愛しています」と表現し、「こと」で対象を脱焦点化させてぼんやりとさせる。このように自分の心も対象も、つまりなにもかもすべてを曖昧にしてしまう。

さらに受容と拒否の両義をもつ「結構です」とか「いいです」というのもある。女性が「の」の字を描くのも同じものだろう。最近のレジでの「~でよかったでしょうか?」や「~円になります」も同様だ。なににしろ責任の所在が明らかになるような断定口調は忌避される。

「~でよかったでしょうか?」は「そちらで判断してください。私はごめんです。」ということだし、「~円になります」というのは、「私の計算では~円です」という断定を避けて、「あれこれが集まると、(私の計算や判断とは無関係に)、それみずからで~円になります」という表現法だ。



厄介なのはそういう「曖昧」に基づく表現法があたかも自分の無責任性とは関係なく、むしろ相手(ここでは客)の立場に対する配慮からのものであるかのようにも(同時に)使われることである。

「自分に責任がない」ということは結果として「責任は相手側にある」ということであり相手に対する責任の押し付けなのに、それがあたかも相手の立場に対する配慮(すなわち自己存在の遠慮)からのものででもあるかのように、心のどこかでごまかしてしまう。

「自分の無責任性」と「相手への配慮」という両義性が日本人の特性である「曖昧」を背景とするのは明らかだ。日本人自身もそういうみずからの「曖昧」を知っていて、時にはその利便性を意図的に利用もする。自分を消して相手を立てるとともに自分の責任もなにかしら消してしまう。



こういうことが起きるのも、ひとつは日本では個人と(民族や各種)共同体との境界がはっきりせず、日本人の個人としての独立性が弱いからであろう。日本人は「和を以って貴しとなす」(儒教の礼記の「礼之以和為貴」に由来)の「和」の民族であり、この「和」から発する(民族や各種)共同体への過剰な遠慮や気遣いが、自分と対象に関する全てのことがらを意図的に曖昧にさせる。

これはたとえば英語をネイティブ発音で発音するのも気恥ずかしく感じさせる。自分だけネイティブ発音で突出するのを民族共同体に対する一種の裏切り(和からの逸脱)として済まなく思ってしまうのだ。これでは日本でどんな外国語もあまり上達しない。

日本人はよく「~させていただいた」という表現法を使う。これは「~することができるようにしていただいた」という意味なのだが、(両者の共有部分の「いただいた」を除いた)「させて」と「することができるようにして」は、後者が能動型であるに対して、前者は自己使役の受動型である。自分に利益をもたらしてくれた先輩や友人や組織や支持者たちに対する感謝の気持ちを表す表現法であるが、これらの共同体に対する過剰な「和」の気遣いのために、このような主体的な表現になっている。

日本人は対話するとき自分の意見に自分で「うん、うん」と頷きながらしゃべる。あるいは途中で~? ~?と疑問の抑揚を上げて相手にいちいち確かめながら語る。こういう光景は外国ではまず見られない。これは「和は崩れていませんね」「わたしは和を崩していませんね」「わたしはあなたと同意見ですね」という意味の動作で、「和」に対する過剰な気遣いから生まれる。

日本人はすぐに謝罪する。「この間はどうもすみませんでした」と挨拶にも謝罪を使う。「とりあえず謝っておけ! そうすりゃ丸く収まるから」というのもある。これらは事柄を荒立てず「和」のために自分自身を背後に退かせているわけだ。



この「和」は没個人的・弱個人的で、したがって日本における組織体はどれであれ個々人の立ち位置の定まっている結晶状構造でなく、いわば個人の立ち位置が不定の準流体的なゼリー状構造になっている。

ここでは組織構成員のほとんどが責任を曖昧にするなかで、事態がなし崩し的に進行して、いつの間にか大事なことが決まってしまっている、あるいは大変なことになってしまっている、というゼリー状事態が往々に起きる。

また、「和」→没個人・弱個人的集団主義→「みんなに責任がある」(総懺悔)→「どの個人にも責任はない」→「誰にも責任はない」→「誰にもどこにも責任はない」→「どの部署や組織にも責任はない」となり、結局いつの間にか責任問題は訳の分からないまま雲散霧消して自然消滅する。

こうした没個人的・弱個人的な「和」は、少なくとも神と人との一対一の人格的対峙関係を求める一神教(ユダヤ教・キリスト教・イスラム教)からは生まれない。はっきりした徳目や信条を個々人に求める儒教や仏教のような思想体系や宗教からも生まれにくい。つまり一神教・仏教・儒教文化圏で生起するものではない。

一神教のキリスト教は日本人のほんの一部に見られるものでしかなく、日本人の多くが古代から受け入れている仏教は神仏習合のため「和」に順応してしまい、儒教はそもそも日本人の心の底にしっかり根付いてもいないので、日本は、(一神教・儒教文化圏でないのはむろん)、非常に厳密にみれば仏教文化圏でもない。



没個人的・弱個人的な「和」は八百万の自然神・英雄神・祖先神とかかわる神道のようなものからは生まれやすい。ここでは個人はもともとそれらの神々に溶け込んでいるので、改めてことさらに(個人としての)信仰決断や徳目実行を求められはしない。日本人の「和」は日本の神道と特異的な親和性があり、日本人の神輿担ぎの祭好きに典型的に表れている。

この「和」はいわゆる「空気」の支配する場でもあり、「和」に由来するこの「空気」は非常に根源的で、「法律や規則よりも重い」。したがって窮した時には、独断開戦・無謀突貫・竹槍応戦・桜花玉砕・神風特攻といった非科学的な精神主義にもなる。

「曖昧」はまずこの「和」の「空気」のなかで生み出され、ついでこの「和」の「空気」のなかで「無責任」を産出し、そのあとこの「和」の「空気」のなかで「曖昧」と「無責任」は相互可逆的に作用して強め合う。



この「空気」は「和」の組織体の没個人・弱個人の作り出す集団的共鳴(雰囲気)のことである。ここでは個々人は独立性が弱いので周りの状況に影響されやすく、揺れやすい。リズムのずれた多くのメトロノームは同じ机の上に直接置かれると、机を通した振動相互作用による共鳴の結果、いつしかどれもこれもすっかり同期して、全体が一つのメトロノームのように同じテンポで動くようになる。それと似た現象だ。

集団的共鳴(雰囲気)のなかの弱い個々人はいわば(それぞれのテーマに固有の)共鳴周波数に合わせた画一的な反応をするに至るが、それが「本来の自分」でないことは脳のどこかで自覚している。したがって当然「虚構の自分」を演じているという意識が頭の片隅に存在することになる。

結局「雰囲気」に合わない真理・真実・正義については、誰もが見て見ぬふりをせざるを得ない。「雰囲気」が醸し出し突き動かす「虚構の現実」の中で、トップも末端も誰も彼も、正しいことが言えなくなる。日本人全体がいつも「虚構の現実」(雰囲気)の中で「虚構の自分」を演じながら生きている。





こうした現象は一見ファシズム下の諸国民に見られるものと同じように見えるが、それとは根本的に違う。(1)ファシズムは一時的だが、日本の「空気」「集団的共鳴」「雰囲気」は常時作用している。(2)日本では最高支配者もそれらの作用を受けるが、ファシズム下の他国の最高支配者は独立した個人として超然としている。(3)日本ではレジスタンスは起きないが、ファシズム下の国々ではレジスタンスが生み出される。

つまり日本以外の国々ではファシズム下でも個人の独立性がしっかり存在していて、最高支配者ではそれが突出し、被支配者たちにおいては一時的な暴圧で押し込められているだけなのだ。

「さむらいの国」の「さむらい」たちは個人の独立性が弱い。あれほど剛毅で一途な「さむらい」が個人としての独立性に欠けるとは? 江戸時代に武士道によって儒教的に訓育されたとはいえ、そもそも「さむらい」は理屈なしに主君に仕える兵士である。いくら剛毅で一途であろうと命令一下で動く軍人にすぎない。「さむらい」は「さぶらう」から来た語で、「さぶらう」(侍う)は「侍る」「仕える」という意味。したがって「さむらい」に個人の独立性などそもそもから存在しない。そこから軍隊アリ的に動く恐ろしい侵略国家や天皇制軍国主義も生まれてくる。



日本人の「和」は個人の独立性が弱いところに成立するが、それは「他人の目を気にする」ということ。ここに「恥の倫理」「恥の文化」が成立する。そういうわけで「恥」をかかなくても済む人目(特に知人の目)のないところ、あるいは「和」の外部では、随分平気で悪いこともする。ネットでも実名なら「和」が働いて相手を傷つけないよう同調するが、匿名なら人が変わったように罵詈雑言を浴びせる。つまり「恥の文化」は同時に「旅の恥は掻き捨て」「傍若無人」「恥知らず」の文化でもある。

ここでは誰も見ていないところでも人々の知りえない心の内側でも目を光らせている(神の目あるいは人間性の視点を気にする)「罪の倫理」「罪の文化」は極めて弱く、真理や正義の視点は薄い。誰かに見られていなければ平気でなんでもやれるような性向なのだ。そのため「和」の外部(たとえば他国)で侵略・収奪・殺害・強盗・強姦しても、「罪の倫理」があまり作用しないのでせいぜい「遺憾」ぐらいで終わり、それほど「悪い」とは感じない。

「曖昧」「無責任」も作用するため、かつての被侵略諸国民にその罪を指弾糾弾されても罪意識はさほど生じない。そして一般に、罪・真理・正義・真実よりも「和」に関わる義理・人情が優先する。義理・人情は「曖昧」「無責任」と親和的だ。



「恥」が「表層的で形式的な不具合感情」だとすれば、「罪」は「全人格的で内実的な負い目感情」だとも表現できる。「恥」は頭を搔いて「へへへ」ときまり悪いそぶりをすればそれで済むが、「罪」は良心が痛む。「恥」は「曖昧」「無責任」と共存できるけれども、「罪」はそういうわけにはいかない。

「恥」は表面を見、「罪」は本体を見る。「恥」は体裁や面目に熱心だが、「罪」は心の内部を注視する。「恥」は利己的で自分自身にとらわれているが、「罪」は相手がどうなったかについて慮る。

「和」の日本人は挨拶を重視し、正しく挨拶できることを非常に大事に思う。朝夕の挨拶や初対面の挨拶ばかりでなく、年賀はがきや中元・歳暮などなど挨拶に始まり挨拶に終わるが、これらは全て(内部・本体・実質に立ち入らない)表層だけの「恥の倫理」「恥の文化」の範疇にある。「和」と「挨拶」と「表層主義」と「恥の文化」は繋がっている

日本人は「和」を重視し「和」の中に住まいながらも表層の礼儀や挨拶で互いに距離を取り、くちづけやハグや握手などのスキンシップをしない。「和」のなかにあれば相手をもっと内部に受け入れてもよさそうなのに、余り内側には立ち入らせない。「和」は個々人を繋げているように見えるけれどもそれは表層だけのもので、深層では遠ざけている。遠ざけないと「和」による個人の独立性の(深層にまで及ぶ)さらなる無化・弱化に、人間個人として耐えられなくなるためであろうか?



ところで、メトロノームと机の間に振動を吸収する緩衝層があれば、各メトロノームのリズムのずれ(各メトロノームの独立性)は保たれて、全体が同期するということは起きない。

一神教や仏教や儒教などが個々人に要求する信仰決断や徳目実行は、いわばこの緩衝層を形成させ各個人の独立性を実現させているといえる。ここでは罪・真理・正義・真実が「和」より大事になる。こうなれば個人はなかなか「雰囲気」に飲み込まれず「本来の自分」を失いにくい。むろん「曖昧」「無責任」からも遠ざかることができる。

しかし八百万の神を崇める神道では、個人は自然神としての雑多な神々の世界に集団的に溶け込んでいるため、その独立性もしっかりとは自覚されない。ここでは個人を一人の人間として律する超越的な存在は、神としても理念としても存在しない。神道の神々は高い倫理的理念から個人としての人間を裁くことはなく、単に即物的に「触れば祟る」だけにすぎない。

個人はいまだ何が罪であり真実なのか問わない(いわば)原始の自然状態にあり、人格として十分に自立していない。思想や宗教もあれこれ雑然と外部から取り入れて併用はするが、社会全体としては決して全存在を体系立てる超越的な原理にしない。

つまり仏教国やキリスト教国や儒教国やマルクス主義国にはなりきらない。むろん民族や国家次元での原理的な思想の蓄積も対決も発展もない。根本のところではあれもこれも(八百万の)ごたまぜ状態で、そのぶん「曖昧」「無責任」にもなる。ちなみに仏教国家になりきる機会は蘇我馬子以後に存在していたが、持統天皇監修の記紀の天孫神話による神道の復権によって、その機会も永遠に潰えた。



自然宗教の神道は日本人のみが信じる民族宗教である。そのためもともとその視野は自民族に限られており、本質的に(絶対普遍の人格神・存在の最高理念・全人類・人間性の視座である)普遍性を持たない。神道には人間論の視点がなく、そもそも「罪」概念を伴う「人間道徳」や「人倫」というものがない。 自然や死者に精霊が宿るとするアニミズムの一種として、隔絶した来世観や死後の裁きの思想もない。

神々も招福厄除など人間側の利益実現のための道具にすぎず、ここには神の普遍的な高い理想、その正義や真理のために自分自身を犠牲にするという発想はない。つまり一言でいえば神道は現世ご利益のための利己主義の宗教なのだ。そのため神道文化は他人の目を気にするだけの(自分自身の立場や体裁にとらわれた利己的な)「恥の倫理」「恥の文化」を生み出した。

神道文化は人間や人間性を大事にせず人間愛や人類愛を知らないので、戦争になると、トップ(天皇・司令部・上官)にとって最重要・最大関心事の体面や恥を避けるためなら兵隊を(むろん国民も)湯水のように犠牲にする。それが突貫や玉砕や集団自決強要や各種特攻隊だ。天皇や国や軍部の体面のために十万人以上が一度に死ぬ大空襲の時でも、米軍の空襲予告ビラを所持禁止にして、「逃げずに火を消せ」と、住民に集団避難や集団疎開をさせない。

「恥の文化」「恥の倫理」の日本人社会では、トップも末端も誰も彼もが、罪で苦しむより恥で苦しむのを一層恐れている。自分の体面のためなら他人の運命などは二の次。日本人にとっては(他者に対する)「罪」より(自分の体面のための)「恥」の方がリアルなのだ。



神道に道徳がない結果、日本人は「罪」に対する感性が弱いので、「罪」のことがいま一つ実感できない。それは「他者が遠い」ということであり、結局ひとえに自分のみが大事ということである。日本人が人を助けるのも「(神仏の慈愛や人間の倫理道徳からみて)人間そのものが大事だから」ということより、「同じ人間だから」とか「同じ日本人だから」とかいうなんらかの仲間意識によるのが大きい。それを往々「他人事ではない」「他人事とは思えない」などと表現している。あたかも「他人事なら知らんふりを決め込む」と言わんばかりだ。ここでの「仲間意識」は(「同志意識」でなく)「自分の仲間意識」なので、あくまでも「自分が中心」(自分がいちばん大事)の意識形態である。

事実、イギリスの慈善機関CAFが2019年10月に発表したこの10年間の慈善行為の国別ランクで、日本は「人助け」「寄付」「ボランティア」の三つのテーマの総合順位では世界126カ国中107位(先進国のなかで最下位)であり、「この1ヶ月の間に、見知らぬ人、あるいは、助けを必要としている見知らぬ人を助けたか」のテーマでは、世界最下位の125位である。

また2007年度のアメリカのピューリサーチセンターの「国は貧しい人々の面倒をみるべきか」の調査でも(「完全同意」と「ほぼ同意」を合わせて)日本は47ヶ国中で断然最下位の59%だった。その59%の内訳も「完全同意」がたったの15%、「ほぼ同意」が44%で、この「15%」も断然最下位である。他のほとんどの国々は「完全同意」と「ほぼ同意」を合わせて80%~90%台に位置している。

つまり日本人は他人事なら知らんふりを決め込む。日本人の「和」は外部に対しては度外れてひんやり冷たい。それが拘束ジャーナリスト解放問題などをはじめとするいろいろな場面で異常なほど過酷な「自己責任論」となり、また「アイヌ新法」などなどの社会的最弱者層への当然あるべき優遇施策についてもすぐに「逆差別だ」「悪平等だ」という悪態となって風靡する。

批評家の岡本純子氏は上の英米の調査結果を受けて「弱者を見殺しにする日本」「恐ろしいぐらいに他人に無関心で、冷淡な国民」と表現している。また生物学者の池田清彦氏は、小事には過敏にこだわり国家の重大事でも「上が決めたことなら仕方ない」と無批判に受け入れてしまう日本人には、すべては八百万の神による自然現象で、それで、明治維新でもアメリカによる敗戦や占領でも(果ては仮の話として)中国への属国化でさえも、起きてしまえば「はい、そうですか」と「どんなことでも受け入れてしまうのかもしれない」とし、 「結局、強い相手には口をつぐむけれど、いじめてもよさそうなやつをターゲットにして、みんなで徹底的に叩きまくるんだよね。溺れる犬を棒で叩いたうえで、石まで投げつける。日本人っていうのはそういう国民性なんだ」と述べている。自らの民族に対する凄まじいほどの自己批判だ。

世界経済フォーラムによる2019年12月17日発表の男女格差の点でも、日本は、全世界153ヶ国中で、健康(40位)、教育(91位)、経済的機会(115位)、政治進出(144位)であり、経済と政治における女性進出のこの極端な低迷現象もおそらく「和」と無関係でない。



むろん「和」の外部は何も外国のことを意味するのではない。「和」は家族・村・地方 / 職種・企業規模・階級などなど各級共同体によるマトリョーシカ風重層構造をなしていてそれぞれの単位で外部を持つので、結果として対内的にもひんやり冷たいわけである。それが死刑制度にも表れている。

現在、ほとんどの先進諸国は死刑制度を廃止するか制度はあっても死刑の執行はしない。しかし日本では戦後ずっと平和で治安も非常に良いにもかかわらず死刑制度を国民の80.3%(2015年)が支持し毎年のように死刑が執行されている。日本はOECD(経済協力開発機構)38加盟国のなかで唯一死刑執行を続けている。これも人間愛や人類愛を知らない「和」と神道文化に由来する。

日本における死刑執行は法による罪の裁きというより「和」の根幹に違反した甚大な恥・汚点・不面目の究極の禊・浄め・解消であり、いわば「和」からの神道的な永久追放なのだ。「和」が日本民族のエトス(持続的特性)である限り、死刑制度に絡む人権問題は容易には語られ得ず、こうした浄めや禊や追放としての死刑執行はこれからも避けられそうにない。

また自ら潔く散る自死の「桜の美学」も「和」の産物として存在するけれども、他死にしろ自死にしろ、これでは「死」に関わる人類愛や人権意識などなかなか育たない。このままではいずれ遠からず「和」の日本は世界で最も人権意識の低い国家として取り残される恐れがある。



神道民族の日本人は(遠海の島国であることで諸民族との交流経験が稀となったためそもそも対他能力が未熟で外国人を域外人視や異人視し忌避敬遠してしまうなど)幼児のように自分しか知らず、全人類や人間性の視野に立った発想や行動ができない。それができるのは仏教や儒教やキリスト教などなどから外来精神の感化を受けた非神道的な日本人のみである。これらから影響を受けた分だけ日本人は大人になり普遍的になることができる。ちなみに「などなど」には各種の哲学・科学・社会思想・進化論・宇宙論なども含まれる。

ただし神仏習合(神道+仏教)や教育勅語(天皇制+儒教)や戦前型日本基督教団(天皇制+キリスト教)や戦前戦後のちょっとナンセンスな「日ユ同祖論」などのような「和魂洋才」型の併存態だと、こうした外来宗教・外来思想・哲学・科学からの影響もほとんど意味をなさなくなる。

残念ながら強弱はあれ意外に多くの現代日本人にこの併存型がみられる。たとえば教育勅語については儒教の普遍性が天皇制イデオロギーの特殊な目的に利用される面が見逃されて、民主教育の担い手であるべき学校教師が教育勅語を扇動したり、せっかくの高僧が神仏習合で仏教的世界性を失ったり、優れた学者・科学者・技術者が和魂洋才型の保守民族主義者になったりしている例が多く見受けられる。

一部の論者が主張するように、「和」による個人の独立性の弱さを、フロイト流の汎性論(個人史・社会史・文明史を全て精神分析学的な性的諸概念で説明する)の言葉で「幼児性」と表現することもできる。それによって彼らは「日本人は幼児的である」と規定する。原始的な自然状態の母子関係が超越的な父権による去勢(母胎的環境からの乖離独立)によって十分克服されず、母胎回帰的な「甘え」が残っているという視点だ。

この「日本人は幼児的である」は戦前の「赤子」(せきし)思想にも通じている。日本人全体がかつてみずからを「赤子」として受け入れたのは、日本人がそもそも幼児的だからであろう。だからこそ日本人はいつまで経ってもお上や権威に弱い。いまだに「天の声」という言葉があって機能する。

日本財団による2019年度「18才意識調査」における(17歳18歳19歳男女)各国都合千人に対する「第20回 社会や国に対する意識調査」の結果によると、日本はインド・インドネシア・韓国・ベトナム・中国・イギリス・アメリカ・ドイツを含む9か国のなかで、6つのテーマ全てにおいて最下位だったが、そのうちの「自分を大人と思う」のテーマで断然最下位の29.1%、「自分は責任ある社会の一員だと思う」のテーマでも断然最下位の44.8%、「自分で国や社会を変えられると思う」のテーマではひときわ断然最下位の18.3%だった。

むろん幼児が「曖昧」「無責任」なのは仕方がない。しかし大人が幼児的であるのは、愚昧・曖昧・無責任であるばかりでなく、卑怯で狡くもあるし、場合によっては犯罪的ですらある。



ちなみに日本人の「曖昧」「無責任」は日本語の文法構造とそれほど大きな関係はない。一部の和系語彙や慣用表現などに多少の曖昧さは見られるが、いまや日本語に内在同化した漢単語を駆使すれば、日本語で学術論文が立派に書ける。

「日本語は主語がなくても良く、述語動詞も一番最後に来る。単複形の区別もない。それらは没主体性や問題の先送りを帰結し、『曖昧』『無責任』をもたらす」とする考え方もある。しかし主語がなくても良い、述語動詞が最後に来る、単複形の区別がないというのは同じマクロ・アルタイ語系の朝鮮語も全く同じなので、日本語のこうした文法構造が日本人の「曖昧」「無責任」と直ちに対応しているとまでは言えない。

日本人のこの「曖昧」「無責任」は、(「和」の成立するずっと以前、最近の学説ではおそらく縄文時代にすでに存在していた)日本語そのものというよりは、日本語の使い方から生み出される。その使い方を決めているのは日本人の心情であり、「和」の心情が働くことで、日本語の使い方つまり表現が「曖昧」「無責任」になるのだ。

むろんそうした使い方をしてきた長い歴史がさまざまな影響を日本語に与えたことは間違いないが、それらも日本語そのものにとっては付加的で副次的なものにすぎない。

極端な話ではあるが、仮に日本人が古来、英語を話してきたとしても、もし「和」の心情が働いていれば、この英語の使い方や表現もかなり「曖昧」「無責任」なものになったに違いない。おそらく吃音や対人恐怖などを取り扱う英語圏の言語病理学ではいくつかのそうした例もある筈である。

たしかに欧州諸語のように名詞や形容詞や動詞に性・数・格の変化がある方が、ないより曖昧さは生まれにくいとはいえる。しかし英語では他の欧州諸語と比べて性・数・格の変化が著しく減少したが、それで英米人の曖昧さや無責任さが他の欧州人より増えたわけではない。

日本語や朝鮮語に性・数・格の変化がないとか、主語がなくても良く述語動詞も一番最後に来るとかで、論文や契約文書が書けないわけではない。たとえ曖昧化のポテンシャル(可能性)は欧米諸語より大きいとしても、厳密にやればいくらでもしっかり書ける。

ただ感情の影響を強く受ける日常の言語表現では、日本人は「和」の心情のために曖昧さが生じやすいが、朝鮮人にはそうした「和」が存在しないので曖昧化はポテンシャルの段階にとどまって現実化せず、日本人のようには活性化しないというのはある。つまり「曖昧」「無責任」の発現は文法構造よりも主に「和」の有無が関わっているということ。



ところで、「曖昧」「無責任」が性善説を要求するのは必然である。性善説があってこそ無責任なことができる無監視体制が生じるし、また責任追及を免れることができる。だから「曖昧」「無責任」な日本人が性善説に傾くのはとても自然なことで、日本人はみんなしておのずと性善説を醸し出しているわけだ。

もっと正確に言えば、「曖昧」「無責任」を生み出す日本的な「和」は「和合する全ての人々が正しい」という性善説があってこそ成立するので、そもそも決して性悪説の上では成り立たないものなのだ。そこに「なれ合い」も発生する。

築地市場の豊洲移転に伴うあの盛り土問題も、「曖昧」「無責任」が生み出したもので、結局、だれが盛り土をなくす最終決定を行ったのか、責任者たちの集団的な「曖昧」「無責任」「なれ合い」のため突き止めるのもなかなか難しい。

「曖昧」「無責任」な日本人はその「曖昧」「無責任」のゆえに本能的に性善説に傾くが、「曖昧」「無責任」だからこそ日本人には(とくに政治家や公務員に対しては)なににつけても細かく監視してチェックする性悪説(「誰でも隙あらば不正をする」説 ─ 古賀茂明氏の「性弱説」という表現の方が実用面で良いかも)が必要だ。しかし日本人は、「和」のため、さらには「曖昧」「無責任」なため、今後も決して性悪説に立つことはないだろう。





日本人を規定する性質はそれこそ無数にあるだろう。むろん切り口やディメンションごとに様相は異なる。だがある切り口やディメンションで見れば、「曖昧」と「無責任」が本質的部分の一部を占めている。この視点から日本人を強いて動物にたとえれば、(悪い意味で言っているのではない)、いわば絶海のガラパゴス諸島で特殊進化した一種の甲殻類的構造の存在ではないか。

上記の切り口やディメンションで見れば、日本人の内実は「曖昧」と「無責任」であり、そのままでは軟体動物のように骨格がなく社会生物としては成り立たない。社会はその内部にシステムとしてのしっかりした骨格を要求するからである。「曖昧」「無責任」だけではカオスしかない。

したがって日本人の内実の外側に「曖昧」と「無責任」を補完するようなしっかりした構造が必要になる。「曖昧」に対しては「丁寧」が、「無責任」に対しては「親切」が、それぞれ補完しなくては、秩序ある社会生物としては成り立たない。そういうわけで、内部にあるべき骨格の代わりに外部にしっかりした外殻である「親切」「丁寧」が、「曖昧」「無責任」とともに生じた。

いわば「曖昧」「無責任」という肉体を「親切」「丁寧」という衣服で包んだ格好である。フロイト流の言葉でいえば概ね「曖昧」「無責任」が原始母胎回帰的な幼児性、「親切」「丁寧」が父権去勢期を経た成人性とでもいえよう。



外殻である「親切」と「丁寧」は外側にあるので見えやすい部分だ。外国人が日本に来てまず感動するのは日本人が非常に「親切」で「丁寧」なことである。いま話題の「おもてなし」もそこから生まれた。日本人の「礼儀正しさ」「几帳面」「正直」「真面目」「職人気質」「勤勉」「清潔(きれい)好き」もそうである。最初はこの外殻しか見えない。しかし数年日本に住み続けていると日本人のもっと深い部分が見えてくる。その深層の一部が意外にも外観と全く矛盾する「曖昧」と「無責任」なのだ。

内部の「曖昧」と「無責任」が外部にゆっくり滲み出す場合は、外殻の「親切」「丁寧」と混ざりながら「空気を読む」「阿吽の呼吸」「言わぬが花」「なあなあ」「なれ合い」「断定口調忌避」「玉虫色の決着」「三三七拍子」「一億総懺悔」などの妥協した姿になるが、

勢いよく外殻をぶち破り「親切」と「丁寧」を踏みにじって表出すると、「赤信号みんなで渡れば怖くない」「旅の恥は掻き捨て」「付和雷同」「ええじゃないか、ええじゃないか、ええじゃないか」「傍若無人」「独断専行」「師を投げ飛ばして恩返し」「間引き姨捨て」「背恩忘徳」「廃仏毀釈」などの姿になる。

前出のCAFランキングにおける「助けを必要とする見知らぬ人を助けたか」やピューリサーチセンターの「国は貧しい人々の面倒をみるべきか」の調査における世界に抜きんでた最低比率もそうだろう。日本人は表層では「和」のつながりがあって親切で丁寧で理性的だが、深層では「和」のつながりも強くなく、薄情で自分勝手で罪の感性も弱く非理性的・情動的だということかもしれない。



「助けを必要とする」ということはコスト(相手のために自己犠牲的に自分が失うもの)が生じるということ。日本人の多くはそういう場合は「見知らぬ人を助けない」ということになる。したがってコストがかからない時には表層論理が働いて「親切」「丁寧」になるが、コストがかかる時には深層の「曖昧」「無責任」「罪の感性の弱さ」が機能して、薄情で自分勝手で非理性的・情動的になるのではないだろうか。

結局のところ日本人にとってある問題が表層問題か深層問題かの境界線は、一つにはなんらかの自己犠牲を意味する「コストがかかるかどうか」なのかもしれない。多くの国々は人間愛・人類愛の観点から多少のコストが掛かっても(たとえば多少の社会混乱が生じても)難民を受け入れようと決断するが、「和」の領域にのみ関心を注ぐ利己的な日本人は、コストをかけてまで難民を受け入れることなど決してしない。難民に極めて薄情な日本の国柄はその問題が日本人の心の深層領域に触れているからであろう。

ところで、忠孝を尊ぶ中国や朝鮮では「師を投げ飛ばして恩返し」などはない。親を超え師を超えるのは親も師も内心望むところではあるが、表で取りざたされて祝われるものではない。敢えてそれを口に出したり意識しようとしたりもしない。どこまでも親は親、子は子、師は師、弟子は弟子。親の恩、師の恩は永遠に乗り越えられないものなのだ。「師を投げ飛ばして恩返し」はどうみても恩知らずの異業。自分が師のおかげで成長し師を超える力を得たとしても、それを師を打ち負かすことで示す必要はない。師より強い師の敵対者の誰かを打ち負かすことでもそういう恩返しができる。師に対してはむしろ負けてあげるのが恩返しというものであろう。

「廃仏毀釈」は明治維新政府の神仏分離令(1868)による公権力を背景に、民衆が、かつて檀家となり、法事の大事を任せ、さまざまな人生の指針を数百年にわたって受け続けた仏寺や仏像を破壊する全国的な民衆暴動であった。公権力に付和雷同し、国学者や神官たちの扇動のもと民衆が突然一変して暴徒と化し恩を仇で返す「廃仏毀釈」の動きは、さまざまな社会的原因があるとはいえ常識を超えた不可解な現象である。民衆はある日突然衣服を脱ぎ捨てるように身と心に染み付いたはずの仏教を放り捨てた。



しかしそもそもどうして日本人は「曖昧」で「無責任」という内実を進化させるに至ったのか? それは日常的な抗いようのない(だれの責任とも言えない)台風・地震・津波・火山爆発などの巨大自然災害や、緑あふれる豊饒な自然や、侘び寂文化を育んだ苔むす多湿の風土の影響もあるだろうし、支配者(摂関家や幕府)の上に名目的な支配者(天皇家)がいるという権力と権威の二重構造や、八百万の神を敬う自前の(雑価値的な)神道の存在、およびそれと外来の仏教との二重構造の長い歴史による作用もあるだろうが、非常に大きく見れば日本がガラパゴス諸島のような遠海の島国だからだろう。

人種構成をY染色体遺伝子(父系)やミトコンドリア遺伝子(母系)の系統樹から見れば、日本人は他の民族よりも雑種性が大きい。ほとんどの民族に存在するその民族の核を構成する主要系統(抜きん出た最大構成要素)も日本民族には存在しない。

しかし孤立した遠海の列島で複数の中小系統が混じりあい純粋培養されて、いつしか同じ言語を話す同一心情の(以心伝心できる)一つの同族集団となった。そしてこの千数百年来、(古事記や日本書紀における架空の天孫神話に彩られた)天皇制という一種の恒久的な制度の下で歴史を築いてきた。

つまり主として日本人は同じ言語を持つことで「一人の(天孫系)家長のもとにある一つの家族」のようなものになった。「和の民族」の成立である。これは「曖昧」「無責任」な民族の成立でもある。神道や天孫神話に基づく天皇制と「曖昧」「無責任」は本質的に結びついている

そもそも神道の上に天孫神話があり天孫神話に基づいて記紀以来の天皇制があるので、天孫神話や天皇制のもたらす「曖昧」「無責任」も、結局は神道の雑価値性に由来するところが大きい。

日本人は神社に出くわして参拝するとき、その神社の神がどんな神かに余り頓着しないばかりでなく、神社では神頼みをしながらも「神なんて信じない。自分は無宗教だ」とする者が多数派で、神主の中にさえ神を信じない無宗教者がいるほどだ。さらに「朝は神社に参拝し、昼は仏檀の前で祈り、夕方はクリスマスを祝う」といったことも苦もなくこなす。こうした神道由来の雑価値的な無原則・無節操が「曖昧」「無責任」を生み出し、また「和」とも繋がっている。



さらにそうした神道に基づく古代天孫神話由来のいわゆる「神々の子孫」である天皇はどこか掴みどころがなく、また人間に対すると同じように責任を問うわけにはいかない。天皇はあらゆる社会的責任を超越した「曖昧」「無責任」な存在となり、そこから、天皇という最高権威が責任から自由である以上、その下の誰もしっかりした責任意識を持たなくてもいいという風になる。

したがって「神々の子孫」なる天皇というものが存在せず、社会成員の全てが掴みどころもあり責任も問える通常の人間である場合は、このような「曖昧」「無責任」なる空洞は生じず、全成員に対する例外のない明確でしっかりした責任追及体制が生まれることになる。

つまり地上に人間を超えた「神々の子孫」が社会システムの頂点にいると思ってきたからこそ、「曖昧」「無責任」な日本社会が生まれたともいえる。このたった一人の責任を追及できない、あるいはしたくないために、国家社会全体が空洞化して、曖昧無責任になっている。これは日本だけの特異現象なのだ。

戦後すぐの「天皇人間宣言」を経た今も、多くの日本人の心のどこかでそうした「思い」がいびつに続いている。これは依然として天皇が伝統的な各種神事を行い続けているためだと思われる。

こうして「曖昧」「無責任」は、(信仰決断や徳目実行を要求されない)神道なる一種の自然宗教の上に築かれた(架空の天孫系)超長期天皇制の下で、「和の民族」の成立とともに完成した。



その結果、江戸時代のような社会においてもそれは機能して、権利意識についてもとことんの規約まで要求しないようになった。むしろ何もかもはっきり細部まで規定すると「和」の家族的関係が壊れてしまう恐れがあるということで、「他人行儀」の細部規定は忌避されることになった。

空気を読み適当なところで分かり合って三三七拍子、というわけだ。こじれた責任関係はあまり追求せず、あれもこれも「水に流して」済ましてしまえる。そしてついには極悪人もA級戦犯も百年の敵も、死んでしまえばまるで親戚だったかのように、それ以上責任追及しない。

日本人はこれを「死ねばだれでもみんな仏」という表現をするが、すると責任の内容がなんであったのかも放置される。むろんこういう曖昧無責任な思想はそもそも仏罰や地獄の思想を含む仏教とは無関係だ。これはあくまで仏教思想にかこつけた「日本的なもの」なのだ。



この日本的な「和」は(誰とでも和すという意味の和ではなく)非常に排他的で輪のように閉じており、基本的には輪に連なる共同体の構成員にしか適用されず、下級者・隷属者は「和」の中に入れない。共同体とは村であり藩(クニ)であり各種組織であり階級であり国家であり民族などなどであるが、共同体が功績などによって同格と認めた部外者は例外的に「和」に加えられ得る。

たとえば今を時めくハーフの大坂なおみ氏やダルビッシュ有氏やケンブリッジ飛鳥氏やその他数々のハーフの方々それに該当するが、功績がすっかり過去のものになれば、(上記の各氏は例外かもしれないけれども)、おそらくその多くは輪から排除されることだろう。

日本的な「和」の排他性は日本人に帰化したブラジル人やパキスタン人などに対して「日系ブラジル人」「在日パキスタン人」という表現をして決して「ブラジル系日本人」「パキスタン系日本人」と表現しないところにも見られる。つまり帰化しようとなにしようと外国人はどこまでも外国人として取り扱い「日本人」にはしない。そこから脱するには大坂なおみ氏などのような日本人全体に対する特別の大いなる功績が要る。でないと「和」の輪から弾き出されてしまう。

戦後の日本人を勇気づけテレビの普及にも大きな功績のあったプロレスラーの力道山(金信洛)は、朝鮮人であることを隠し続けることでこの輪の中にいることを許され、また日本と世界に大きな功績のあった即席ラーメン開発者の安藤百福(呉百福)は、台湾人であることを隠され続けることで輪の中にいることを許されて、NHKの「まんぷく」の主人公として登場している。

つまりなんであれ植民地支配者だった日本人が「劣等の」植民地被支配者だった者たちのあからさまな広域被益者となっては絶対にいけないわけである。国土規模の広域において日本人があからさまに彼らの被益者となれば日本民族としてのメンツや立場が潰れるだけでなく「日本にとって恩ある良き人々を植民地奴隷のような被支配者に貶めた」ということで、かつての植民地支配の犯罪性が浮き彫りになってしまう。

この「和」は本来の部外者や下級者・隷属者に対して厳しい差別因(よそ者視や村八分などなど)として働くことが多い。

「和」の日本人は雰囲気の中に溶け込み、空気を読み、の吹く方向に乗って流され、いわば気体のように周りの仲間と混ざりながら、正体なく振る舞うなんであれ、みんながやっていることをやらないと不安になり、よく分からないままでも、また全く根拠がないと分かっていながらも、安心を求めてまわりの流れに加わる。このようにして日本人は本質的に「曖昧」で「無責任」になった。



同じ島国でも英国の場合は全く違う。ここでは大陸との距離が近く、海峡はいわば広い河のようなものにすぎない。だから理解できない言語を話す異民族の侵入や異民族の支配や異民族による王朝交代が大陸と同じように何度となく起きて、条約や契約や権利意識において、しっかりした規約・条項が必要になった。

ここでは「以心伝心」など機能することもなく、曖昧な要素はできるだけ除かれ、どこまでが権利でありどこからが責任であるかについても、しっかり規定されるようになった。

言語や文化が異なると誤訳や誤解も生まれやすく、そのためことさらに厳密化が要求されることになる。マグナ・カルタ(大憲章)を生んだ英国は日本のようにガラパゴス的特殊進化を遂げることはなく、基本的には大陸と同じような進化・進歩を遂げてきた。

地球上の文明国家としては日本は唯一特異な進化を遂げた。日本以外の遠海の島国は文明国家にまで発展せずほとんどが非開明的な水準にとどまった。だが日本は適宜に大陸から遠かったために、古代では主に朝鮮を経由して、中国大陸の文明の恩恵に与ることができた。また朝鮮が独立維持のため中国大陸に勃興する大帝国と戦うことが、結果として日本のための防波堤ともなった。

朝鮮半島が大陸の大帝国にまるごと飲み込まれて国家を失ったことは一度もない。どの大帝国も半島全域に亘っては朝鮮の国家としての立場は奪えなかった。そのため日本は中国大陸の大帝国に飲み込まれる脅威を(元寇を除いて)一度も味わうことなく、ずっと間接的に守られてきた。ところが(歴史上たった一度)この朝鮮をまるごと併合し国家としての存在を奪ったのが誰あろう日本であったことは、歴史の大いなる皮肉である。



それはともかく、とどのつまり朝鮮半島が存在しかつ遠海の島国として適宜な距離で中国大陸から離れていたことが主な原因となって、異民族の侵入・支配のない、同一言語の下で純粋培養された、以心伝心できる、対他能力の未熟な、雑価値的な神道に基づく民族文化と異民族による王朝交代のない(架空の天孫系)超長期天皇制が実現し、外部は「親切」「丁寧」で内部は「曖昧」「無責任」な日本という民族国家を生み出した。

これをまずは、

日本島国閉鎖系平衡系自然や他者に敏感神道以心伝心超長期(天孫一系)天皇制として制度的に具現

という風になんとか図式化できる。

閉鎖平衡系であれば内部で何かが少し動いて乱れるとすぐに周囲に伝わり、特異共鳴的に敏感に感じ取られることになる。この「特異共鳴的」というのは自分たちだけに共通して存在する心の共鳴板(たとえば神道)に共鳴するということであり、この心の共鳴版は意識以前のものとして本能的に作用するため、なにやら自分たちとしてもよくは分からないがそう感じ取れるということでもあり、そこに「曖昧」と「無責任」も醸し出される。

むろん閉鎖系はマトリョーシカ風に幾重もの閉鎖平衡系の排他的な「和」として重層的に作り出される。平衡系に目を止めるとそれは「日本人の変わりにくさ」でもあり、日本人は黒船や敗戦という外力がなければ、なかなか変われない。組織内では平衡停滞的な年功序列型が支配し、個人はみずから波風を立てるのを恐れ、不合理や理不尽に目をつぶってでも、おのずと周囲に順応しようとする。そこから個人としての突出やリスクや失敗を過度に恐れる日本人が生まれ、また過度の完璧主義も生み出される。そして曖昧化することで責任回避できるよう個人でなく関係者全員による利害調整型意思決定も生じる。





「曖昧」と「無責任」は同じものの裏表とも言える。なにごとにつけどれだけの責任があるかは日本人が曖昧な程度だけ曖昧なものになる。その結果、救いようのない無責任さがここに現出する。

古代に中国や朝鮮から文明の全領域にわたって巨大な恩恵を一方的に受けておきながら、その恩に報いるどころか、ただ一方的に侵略を繰り返して大恩を大仇で蹴り返しても、それについてどれだけの責任が自分たちにあるのかが「曖昧」なままで済んでしまう。だからこの民族は周辺国家の不幸の根源となった。

漢字・思想・制度・無数の技術を中国や朝鮮から受け取りその大恩に浴しながら、しかも自身としては一度として害を加えたり侵略もしてこなかった大恩ある中国と朝鮮に対して、なぜ日本人は数々の侵略行為を繰り返してきたのだろうか? どうして日本人はそのことについてちゃんとした責任を感じないのか? 

それは日本人社会では「罪の倫理」より「恥の倫理」が勝っていて、日本人が本質的に「曖昧」で「無責任」だからである。そしてそのことを誰がどういくら言っても、「罪の倫理」が希薄な日本人は「曖昧」で「無責任」なために悟ることが出来ない。いわば日本人はそのための「感覚器官」が十分に発達していない。



たとえば長州萩の松下村塾の吉田松陰は『幽囚録』や『獄是帖』で、

「朝鮮と満州は相連なりて神州の西北にあり。又海を隔てて近きものなり。しこうして朝鮮の如きは古時、我に臣属せしも、今や即ち、やや奢る。」

「師(戦争)をおこして三韓の無礼を討ちしこと、国威の海外に震う。何ぞこれ壮なる哉」と記し、

また『丙辰幽室文稿』では、

「すきに乗じて蝦夷を墾き、朝鮮を取り、満州をくじき、支那を圧し、印度に臨み、以って進取の勢を張り、・・・・・神功(皇后)の未だ遂げざりし所を遂げ、豊国(秀吉)の未だ果たさざりし所を果たすに如かず」と書いている。(括弧内は筆者による)

なんと邪悪で身勝手な侵略思想であろう。こうした侵略によって、無数の命が失われ、父や母や子供たちが死に、人々は家を失って路頭で死に、寒さで死に、飢えて死に、病で死に、都市は燃え、ふるさとの町も山河も無残に破壊されてしまう。日本がこのようにやられたならどうなのか? 自分は困るが他人はいいのか? これが人間の取るべき行為であろうか? しかも大恩ある朝鮮や中国に対して! なぜ古代以来、暖かく優しく様々に教え導いてくれた中国・朝鮮と手に手を取って、共に平和と繁栄の道を歩もうという選択をしないのか? 

吉田松陰は古代日本の盛世が韓半島からの先進文化受容によると認めていたから、この侵略思想はまさに「背恩忘徳」の極みである。最近、吉田松陰の再評価が広く行われ始めているが、これに不穏なものを感じざるをえない。
  



周知のように、ほんの29歳2か月で死んだ吉田松陰のこの無知・誤解・不徳・非礼に基づく「背恩忘徳」の侵略思想を、明治維新後、まるで偉大な指針や予言だったかのように実行に移したのが、その後の薩長系天皇制軍国主義日本の歴史である。


吉田松陰は強国の欧米露には逆らわず不平等条約であっても忠実に守って信頼を得、それで失った分は朝鮮・満州・中国などアジア侵略で補填すれば良いという思想だった。自分自身も属する恩あるアジア蔑視の(強きに媚び弱きを撃つ甚だ卑劣で卑怯な)この侵略思想は、後の福沢諭吉の「脱亜(入欧)論」にもつながっている。

福沢諭吉は「朝鮮人の上流は腐敗した儒学者の巣窟で、下流は奴隷の群集である」と暴言し、未開で野蛮な朝鮮を開明するには植民地にして近代化してやらねばならないと主張した。あたかも植民地化によって朝鮮民族に近代化の恩恵が訪れるかのように述べているわけだ。

「近代化のために植民地にする」というだけでも余計なお世話の大問題だが、しかしこれの本音は、「今、日本島を守ることにおいて最も近い防御線を構築しなければならない地は、間違いなく朝鮮地方」であるという安全保障上の侵略的主張だった。つまり相手のためのように装いながら実は相手を滅ぼそうとしているわけである。

現代日本人が「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」の福沢諭吉に対して持つソフトな「平等イメージ」は真実でない。次の文脈で福沢諭吉は、天はそうだが人間は学問の在る無しで上下を造るというふうに『学問のすすめ』を展開していく。学問→開明→植民地化という福沢諭吉のベクトルは、アジアに対する侵略ベクトルにおいて吉田松陰と全く同じなのだ。

吉田松陰の侵略思想の背景には、古事記や日本書紀における架空の神功皇后による架空の三韓支配と、その架空の子の応神天皇への架空の三韓神授説による架空の三韓永久臣属説がある。そのため「三韓無礼討ち」とか「朝鮮の如きが今や奢る」とか「神功の、あるいは豊国の未だ遂げざりし所、果たさざりし所を果たす」とかいう類の言葉が出てくるわけだ。



吉田松陰は秀吉がはやくに死んで朝鮮を取れなかったことを非常に残念に思い、「テロリスト」あるいは「民族抹殺主義者」の烙印を押されても仕方がないような言葉も吐いている。

「豊関白起るや、三韓を鏖(みなごろし)にし、・・・・勢(いきおい)将に古の略に復せんとす。不幸にして豊公早く薨じ、大業継かざりしは惜しむべきかな。」(栗原良三に復する書)

だからこそ1910年の日韓併合に際して、旧長州藩士で初代朝鮮総督の寺内正毅は、「小早川加藤小西が世にあらば今宵の月をいかに見るらむ」と詠ったわけである。

これは「秀吉軍の小早川隆景・加藤清正・小西行長はついに朝鮮を取れなかったが今やその無念を晴らしたぞ」という歌である。部下の小松緑はその返歌として、「太閤を地下より起こし見せばやな高麗(こま)やま高くのぼる日の丸」と詠んだ。



こうして徳川幕府を倒した薩長の明治維新が関ケ原西軍の再起および近代型の豊臣系政権の再現でもあることが分かる。そのことは豊臣秀吉の家紋だった「五七桐」が明治政府によって政府紋章として採用され、現在の政府でも使われているのを見ても分かる。

幼いころから自分と同じ農民出身で位人臣を極めた豊臣秀吉を崇めてきた長州藩士の伊藤博文が、帝国日本の初代総理大臣として日本最初の憲法(明治憲法)を制定施行し日本初の帝国議会を開会(1890)したのも、国家体制におけるそういう流れの実現である。

さらに東京駅(1914年完工)の南と北の二つの八角ドーム屋根(2012年復元)の内側にある八角各辺中央のアーチレリーフのキーストーンが、秀吉の兜(馬蘭後立付兜)を象ったものであるのを見ても分かる。ドーム内には十二支や鷲や鳳凰などの像もあるが人間を象徴するレリーフはこの秀吉の兜だけである。

アーチはその頂上石をはめ込んで完成する。それがキーストーンであり、そのキーストーンがそのまま秀吉の兜のレリーフとなっている。西洋建築においてキーストーンはアーチ装飾美の要だ。それが秀吉の兜であることで、秀吉という存在の決定的な重要度が示されている。

秀吉の兜は八角の各辺中央に位置するアーチに一つずつあるので、南北二つのドーム屋根を併せると、東京駅には都合16個もの秀吉の兜があるわけだ。皇居正面に位置した東京駅という帝国日本の中央駅に秀吉の兜が南北ドーム屋根それぞれの八方(全方向)に合わせて16個もあるのは、明治維新国家が近代型豊臣系政権である強力な証拠である。太平洋戦争で焼け落ちたドーム屋根が2012年にそのまま復元されたことで、その流れも継承された。



日本の敗戦によって現在の国民主権の平和憲法体制が成立したとはいえ、戦前の明治維新体制は様々な姿で綿々と続いているわけである。それは天皇の戦争責任が問われずにそのまま見過ごされてしまったことと、A級戦犯が釈放されて政界を支配してしまったことで実現した。つまり関ケ原西軍(薩長とくに長州勢)による近代型の豊臣系政権は平和な戦後も姿を変えて(好戦勢力として)連綿と続いているのである。

明治維新後、2019・11・20現在まで、戦前5人(伊藤博文・山縣有朋・桂太郎・寺内正毅・田中義一)、戦後3人(岸信介・佐藤栄作・安倍晋三)、都合8人の長州(山口県)出身の首相が輩出した。これら8人の総任期日数は初代内閣から現内閣に至る全内閣の31・2%を占め、しかも首相任期日数トップ4(1安倍・2桂・3佐藤・4伊藤)がその中に入っている。つまり長州勢は明治維新以来の日本政治において中心的な流れをなしているわけである。彼らは全て吉田松陰の強い影響を受けている。

明治維新体制は300年ちかく日本とアジアに平和と繁栄をもたらしてきた徳川体制に挑戦しそれを打ち倒すことで実現した。それは関ケ原敗戦によって外様とされあらゆる差別と脅迫を受けながら生き抜いてきた薩長の、徳川体制に対する反逆と挑戦の完成である。薩長が明治維新によって平和主義の徳川体制を倒したことが、戊辰戦争から太平洋戦争までの新たな戦争時代を生み出した。

徳川体制(平和システム)によって抑圧されてきた薩長の異端者・反逆者たちはその恨みや辛みのゆえにテロリストや破壊者となり、必然的に平和への挑戦者となってゆく。彼らの成功はそのまま新たな戦争時代の幕開けとなる。この動きは関ケ原合戦時に組し臣従した豊臣政権の(秀吉に由来する)領土拡張のための侵略戦争好きと結びつくことによって、一層平和から遠ざかりますます好戦的になった。

かつての関ケ原では秀頼を立てて敗北したが、今度は当時新興だった豊臣家でなく古来からの権威である天皇を押し立てることで勝利を目指し、ついに成功を収めた。それが明治維新の王政復古(具体的には京都から政治中枢地の東京への天皇の移住による大権行使)である。

そして王政復古と共に、天皇家の偽史(本稿末尾で詳述)である記紀の主張する天孫万世一系の「倭人優越史観」も、神功皇后三韓征伐による「応神三韓永久神授思想」も、著しく活性化した。その結果、未完に終わった秀吉の朝鮮侵略が、今度は近代型豊臣体制(王政復古)である明治維新体制下で繰り返され、ついに完成することになった。そのいきさつの象徴的表現が寺内正毅と小松緑の上記の和歌である。



ところで、「中国・朝鮮が日本を軍事侵攻したことは一度もない」に対して日本人のある者は言うかもしれない。「蒙古が攻めてきたことがあるじゃないか!」と。だが中国が一時期蒙古に侵略され支配されたから元寇が起きたにすぎない。

これは決して漢民族(中国人)の侵略行為でない。むろん朝鮮民族の侵略行為でもない。蒙古の支配によって漢民族と朝鮮民族が嫌々ながら強制動員されたものなのだ。つまり中国人も朝鮮人も日本人同様、元寇の犠牲者なのである。間違えてはならない。

しかも高麗では元寇前年まで高麗朝廷から離反した三別抄軍が江華島→珍島→済州島と後退しながら海戦に弱い元と戦った。また二度の元寇はほとんど日本の内陸に進出できないまま大嵐などの中で潰え、元寇による実害も日本には大してなかった。元寇の実害は漢民族や朝鮮民族の方が断然大きかった。

したがって中国も朝鮮も日本にとって大恩はあってもみずからの単独意思で害一つ加えたこともないわけである。にも拘らず日本人は古代以来、和寇や中国支配を目指した秀吉の朝鮮侵略や近代の朝鮮植民地支配や満州支配や中国軍事侵略を行い続け、大恩に大仇を以って報いた。しかも自分たちがどんなに巨大な「無責任」行為をしたのか、「曖昧」で「罪の倫理」の希薄な日本人はついぞ知ることがない。

その「曖昧」と「無責任」と「罪の倫理」の薄さのため、なぜいつまでも朝鮮人や中国人が過去にこだわって日本を責め立てるのか理解できないでいる。発展途上国という経済的な相手の弱みに付け込んで驚くほど安価(韓国の場合─1965年の韓日請求権協定)あるいは無償(中国の場合─1972年の日中共同声明)で賠償問題を法的に「解決」し、それで相手に納得してもらえたと錯覚している。





一国を滅ぼし、永くその全国民を隷属化し、内鮮一体化や皇民化政策によって、朝鮮語の使用を禁止し、創氏改名を強要し、強制労働や強制徴用を行い、京城の南山に植民地朝鮮総鎮守の「朝鮮神宮」を設置し、朝鮮各地の道庁所在地に国幣小社を立て、各都市・各村に神社や神祠を、各家庭に神棚を祀らせ、各級学校にいわゆる「御真影」(昭和天皇と皇后の写真)を奉安設置させ、天皇を神として東方遥拝させつつ強行した(日本への隷属吸収による)「民族抹消行為」が、どれだけの加害であり罪なのか悟ることも出来ない。

朝鮮民族の歴史が続く限り朝鮮人全体が苦しみ続ける屈辱の歴史事実であることを全く理解もできない。たとえばほんの一例として、将来にわたって韓国朝鮮人版の歴史大河ドラマを見るたびに、朝鮮人の心の中に怒りがこみ上げてくることになる。

これはおそらく強盗に肉親を殺された殺人事件のケースに似ている。この場合、肉親を殺された親族は金銭では解決できない被害に遭ったわけだ。本当は謝罪と補償などよりも死んだ肉親を生きて戻してもらえるのが一番だが、それは不可能。

それでしかたなく「金銭解決」や「裁判」などになる。むろんこれらは本当の解決でないので恨みは残る。つまりこの殺人者に対しては永久に好きになれない。そういうケースと本質的に似ていると思われる。ちなみに「裁判」については日本帝国主義の最大の被害国だった朝鮮は戦後の極東軍事裁判に参与すら出来なかった。したがって結局金銭解決の道しか残らなかった。



とはいえ、そもそも「民族抹消行為」であった朝鮮の植民地支配は金銭で解決できる性質のものだろうか? 心の底から謝罪しても及ばないものではないか。しかも賠償金を信じられないほど安く買い叩いている。

韓日協定(1965)における有償2億ドル無償3億ドル(現在の数兆円)の賠償金が、一国を滅ぼし、永くその全国民を隷属化し、その言語を奪い、創氏改名を強要し、強制労働や強制徴用を行い、天皇を神として東方遥拝させた「民族抹消行為」の正当な代金の額だろうか? 

ちなみに協定締結時、日本は朝鮮の植民地統治について謝罪していないので、厳密にはこの有償無償5億ドルは賠償金でなく、賠償金のように見せかけたため多くの人々が誤解して賠償金とも解釈している単なる「経済協力金」(独立祝賀金も含む)である。

むろん韓国大法院判決に起因する最近の徴用工訴訟に対する日本側の態度を見ればわかるように、日本側は「朝鮮半島南部の植民地統治を有償無償5億ドルで贖った。そのことで韓国人に文句は言わせない」という腹積もりなので、有償無償5億ドルは賠償金の機能も兼ねている。

本当を言えば、植民地統治の謝罪を絶対にしたくない日本は「見かけ上の謝罪」で済ますため、謝罪の賠償金を「経済協力金」としたということ。実際は「安手の謝罪賠償金」なのにそれを名目上「経済協力金」とした有償無償5億ドルの僅少さは、論点のすり替えであるとともに、日本側の謝罪の意思が毛頭ないことを表現しているわけだ。それを受け入れた韓国の朴正熙軍事独裁政権は国民の反対を押し切って(つまり国民の同意なく)韓日協定を独裁締結した。

協定締結に当たって、朴正熙大統領が戦前、天皇に忠誠を誓った日本皇軍中尉だったことも韓国国民は危惧したかもしれない。したがって韓国国民は今もこの韓日協定に納得していないわけだ。

ところでソフトバンクの孫正義氏の2015年度個人総資産は1.7兆円(141億ドル)なので、この「有償無償5億ドル」はそれに毛が少し生えた程度の賠償金でしかないわけだ。数千万人の朝鮮民族全体が韓国統監府時代(1905~)以来およそ40年のあいだ受け続けた総被害の賠償額が、大富豪たった一人の総資産程度でしかないとは!

そもそもこれは金銭解決など不可能なものだが、たとえ金銭で解決するとしても、桁が二桁三桁違うだろう。日本人ならこの程度の金額で(いやこの千倍の金額でも)祖国を植民地として売り渡せるのだろうか? つまり日本が植民地支配された場合の賠償金は韓日協定の千倍(現在の数千兆円)ぐらいだろうか? それはないだろう。「植民地支配などその千倍の100京円でもご免こうむる!」と叫ぶに違いない。



日本の一部の論者は「日本が植民地朝鮮に築いて残してきたものがあるじゃないか。個人資産の他に、たとえば道路・鉄道・橋梁・港湾・発電所・鉱山・工場・学校・病院・公園・行政庁舎などなどもある」と詭弁を弄している。これらは植民地経営の永久化や大陸侵攻のための近代的な橋頭堡構築を目的としたものであって、そもそも同化抹消して存在しなくなる筈の「朝鮮人のため」のものでは決してなかった。

これは「強盗が、警察官が来たので、盗んだものを全て放り捨てて逃げ去った」というのと全く同じ現象なのだ。在鮮日本人はそのことを一番よく知っていた。だからこそ、敗戦後、日本に逃げ帰るとき、朝鮮人の誰かに「いつか取りに戻って来るからちょっとのあいだ預かってください」とは決して頼めなかった。なにもかもが朝鮮人から収奪した「不法財産」だと知っていたからである。

日本帝国は朝鮮が本格的に近代化する前に朝鮮を滅ぼし植民地統治を行ったので、朝鮮総督府自ら、永久植民地化や大陸侵攻橋頭堡化のために、朝鮮の近代化を進めるほかなかった。そこにはいずれ消滅する筈の「朝鮮人のため」という動機はどこにもなかった。

しかも道路・鉄道・橋梁・港湾・発電所・鉱山・工場・学校・病院・公園・行政庁舎などなどのほとんどは、朝鮮人から直接間接に収奪した税金などの資金と日本人企業体における朝鮮人の血と涙の労働によって建築・建造・維持・運営されたもので、どれもこれもそもそもが朝鮮人の膏血なのだ。日本から直接搬入し日本に逃げ帰るときに置いて行ったものは、全体からみればほとんど無視できるほどの資産でしかない。

それに、法理上、BがAの工場を盗んでいくら巧みに経営しどれだけ企業財産を増やしたとしても、何一つBのものにはならない。全ての財産は本来の所有者であるAのものであって、決して泥棒のBのものにはならない。つまり日本国が朝鮮国を盗んでいくら近代化し富を増やしても、何一つ日本のものにはならないわけである。むろんBも日本国もその盗みの罪を償わなくてはならない。

なぜならAにとっては「盗まれた自分の工場で当の泥棒のBに奴隷のようにこき使われた」という無限大の理不尽な苦痛があるばかりでなく、事件が解決しなければ工場は永久に泥棒のBのものになっていたかもしれないわけである。むろんこれは日本国に強奪された朝鮮国の直喩である。




植民地支配。これは民族が存続する限り味わわなくてはならない永遠の屈辱であり、そもそも金銭で解決できない民族とその言語・文化・歴史、つまり民族の生存・自主・尊厳そのものの問題である。これらが奪われ踏みにじられたことが果たして金銭で解決できるものだろうか? 

げんに日本人はかつて植民地支配者だったことでいまだに朝鮮人を劣等視し、差別しているではないか。江戸時代までは数百年間にわたって当時の最高学問だった儒学などにおいて日本より先進国だった朝鮮なのに、近代の数十年間、たった一度植民地支配されると、かつて古代以来、朝鮮人からさまざまに教えを受けたことも忘れた日本人に「元来愚かな劣等民族」とされて、延々とこんな目に遭い続けることになる。これはとても金銭で換算などできない。

立場を変えて、もし日本があるアジアの隣国に40年間も植民地統治された過去を抱えているとしたら、日本人はどれほどの屈辱に悶え苦しむことだろう! そのことで延々と劣等視されあらゆる局面で差別されながら、もし賠償金が数十兆円ぐらいに安く買い叩かれた場合、日本人の感情はどうなるのだろう?





賠償金を安く買い叩いた日本の不誠実の延長線上で生じている従軍慰安婦の問題も同じだ。軍事力で植民地とされ隷属化した民族の女性が陰に陽に法律以上に強力な様々な環境強制力で従軍慰安婦にされたことが日本人には分からず、従軍慰安婦に関する法律や法令などがあったかどうかだけを見、表面的・形式的な部分だけを見ている。

むしろ日本帝国軍の威光のもと、法の背後で行われる無法ほど強力なものはないではないか? 明治維新以来の浪人革命家の伝統による日本軍部の独断専行は夙に有名だが、このように日本軍部はみずからの法さえ踏みにじって無法を働く傾向があった。そのことも勘案しなければならない。

軍部はむろん表でも動いていたが、そうでない場合でも決定力として動いていたのだ。従軍慰安婦の存在はそもそも軍部の要求なのであって、業者が運営している場合でも軍部の要求に業者が応じているにすぎない。最終的な責任の所在は誰の目にも明白であろう。



げんに戦時中、海軍主計中尉としてバリクパパン(インドネシア)で従軍慰安所を設定した中曽根康弘元首相の証拠資料(海軍航空基地第2設営班資料)が防衛省の防衛研究所戦史研究センターに保管されていることが判明した。そこには「主計長(中曽根康弘のこと)の取計で土人女を集め慰安所を開設気持の緩和に非常に効果ありたり」とある。(ネットで検索可)

2015年7月25日放送の毎日テレビのニュース番組(報道特集)は直接慰安婦当人にインタビューしている。放映されたこのインタビューによると、このとき銃剣を持った兵士たちが、なにをすることになるか知らせもせず、天井裏に隠れている姉二人と(のちには)13歳の当人を強制的に慰安所に連れ込み、強姦した。つまり中曽根康弘は軍として直接慰安所を設置し慰安婦を強制的に集めて兵士の「慰安」を行っている。そして軍は慰安所で直接性病の管理もやっていた。

こうした状況では「軍は銃剣を突きつけて慰安婦たちを強制連行した」という表現は的を得ている。現実に銃剣を突きつけたか、それとも兵士たちが銃剣を肩にかけていただけかは問題ではない。強制連行される女性たちの立場から見れば同じことなのである。

抵抗すればそれこそ「もしかすると撃ち殺されるかも」と恐れた筈だからだ。そして実際に銃剣を突きつけた場合も射殺した場合も占領地のどこかで必ず起きたことだろう。「土人女」と表現するぐらいだから、そもそも人間扱いなどする気もない。年端のいかない少女たちを慰安婦として連行したのは、処女なら性病のおそれがないからだった。当の慰安婦は今も思い出しては泣いている。



むろんこれと同じようなことが東アジア各地の占領地や植民地だった朝鮮でも何度となく行われた筈で、そういう現地インタビュー報道も数多く存在する。つまりこうした強制連行式の従軍慰安所設置は中曽根康弘という一介の海軍主計中尉の独創でなく、そういう体質の軍隊であったということである。

たとえば2017年8月11日、韓国の国家機関の「国史編纂委員会」は、米国公文書記録管理局(NARA)で証拠となるいくつかの文書を発見したことを公表した。一つは連合軍翻訳通訳部(ATIS)の報告書で、パプアニューギニア全域で逮捕された日本軍捕虜は「慰安所が軍の管理下にあった」(第91番報告書)と陳述し、インドネシアのマラン地域で逮捕された日本軍捕虜は「軍の司法管轄下に7つの慰安所が設立され、朝鮮人と日本人、インドネシア人など総数150余名の女性がいた」(第470番報告書)と陳述し、フィリピン地域の日本軍捕虜も「日本軍軍医官たちが性病予防のために女性たちを毎週検診した」(第652番報告書)と陳述した。

もう一つの発見文書は連合軍東南アジア翻訳尋問センターの関連文書(1945年7月6日発刊 第182号)で、そこには「強姦と略奪は前線兵士や戦闘地域においてきわめて普通であった。これは中国でずっとそうだったもので、中国で戦った兵士の間では強姦と略奪は戦争の切り離せない部分だった。軍は強姦を防ぐために占領するやすぐに許可制で公の慰安所(licensed public comfort houses )を設置した。・・・・」とある。これらは上記の中曽根康弘海軍主計中尉がバリクパパンで行った慰安所設立の経緯と大きくは同じ流れである。つまり日本軍は東アジアのどこでも同じように軍の慰安所をこのように設立し運営していたということである。

ところが日本政府と関係筋は軍が慰安所を開設し運営した事実さえ全く認めない。自分たちは逐一みんな知っているのに、しらばっくれて「証拠を見せろ」と開き直る。筆者自身も十数年前、関西のとある飲み屋でかつて朝鮮で下級軍人だった老人から「朝鮮のピーは良かったよ」などと聞き、少しその内容に触れたことがある。「ピーってなんですか?」に「朝鮮人の従軍慰安婦をピーって言うんだ」と返答していた。老人は「実はピーを何人か囲っていたんだよ」などその口ぶりからして慰安所関係の旧軍人のようで、むろん私が在日だとは知らないで口を滑らしたわけだ。

こんな下っ端の旧軍人でさえ真相を知っているのに、これに関与した責任ある年配の日本人の誰も彼もが(中曽根康弘元首相と同様に)頬かむりして卑怯にも知らんふりを決め込んで隠している。「和」による集団的共鳴として、みなが一致して無関係・無責任を演じている。



ところが軍は慰安所を開設し運営しただけでなく、慰安婦たちを拉致して徴集した新たな証拠も出てきている。2017年8月13日、韓国文化研究所のキム・ムンギル所長は、昭和13年(1938)2月7日に和歌山県警察部長が内務部警保局長に送った「時局利用婦女誘拐被疑事件に関する件」という文書を公開した。

そこには和歌山県内の商店街に現れた三人の不審人物に対する尋問内容が記されている。彼らは「(自分たちは)疑わしい者ではない。軍部からの命令により上海皇軍慰安所に送る酌婦を募集しにきた。3000人連れてこいというが、これまで70人だけ昭和13年1月3日に長崎港から陸軍の徴用船に乗せ憲兵の保護の下で上海に送った」と陳述している。

また「情報係巡査が調査したところ、接待婦を上海に送る時の募集方法は、無知な婦女子に、賃金も良く軍人を慰問するもので衣食住は軍が支給するなど誘拐する方法で募集した」ともある(赤文字は筆者)。この3人の不審人物(男性)の名前や身分も記されている。

キム所長はまた長崎警察署外事警察課長が和歌山県刑事課長に宛てた文書も公開したが、そこには「酌婦募集のために本邦内地並び朝鮮方面に旅行中のものあり。今後も同様要務にて旅行するものだろう。彼らに領事館で発給の身分証明書を携帯させるので乗船の便宜を与えるようにしなさい」とある。

以上からいえることは、
(1)日本の警察は、のちに軍が派遣したと判明した者たちが無知な婦女子をだまして拉致し慰安婦にしていると判断して捜査したこと
(2)結局、日本の警察は上部の指示で軍の拉致徴集行為に便宜を与えたこと
(3)拉致された無知な婦女子は、日本内地の日本女性たちだけでなく朝鮮の地の朝鮮女性たちも含まれていたこと
などである。日本における日本女性に対してさえこのありさまだから、植民地の朝鮮で朝鮮女性たちをどう拉致徴集していたかは推して知るべしだ。

このように軍は、(バリクパパンにおける中曽根康弘海軍主計中尉と同じく)、自ら直接、拉致を含むあらゆる方法で従軍慰安婦たちを徴集して軍の慰安所を開設し運営していたわけである。「上海皇軍慰安所」、これは「上海に、皇軍のための、皇軍による、皇軍の慰安所があった」ということである。

ところがこうしたみずからの恥ずべき行為についてひたすら謝罪すべきところを、官であれ民であれどこをどう見てもかつての日本人が犯したものであるにもかかわらず、「曖昧」「無責任」「罪の倫理の希薄さ」のために事実を曲げていたずらに隠し通し、河野談話の見直しのなんのかんのと開き直ったりもしている。

また朝日新聞が報道した「済州島の工場から数十人の女性を無理やり連行して慰安婦にした」という内容の吉田清治証言が虚偽と判明したことを以て、その他の拉致や強制が一切なかったかのように捻じ曲げている。

そしてもし日本人が近隣国の侵略によって数々の同じこういう目に遭えば自分がどういう心境になるかも、「曖昧」と「無責任」と「罪の倫理の希薄さ」のため全く想像できない。つまり自分がどういうとんでもないことをしでかしたのかが、いつまで経っても分らない。

(追記) 
2019年12月6日の報道(KYODO)によれば、河野談話を補強する新たな資料の存在が日本の内閣官房の調査で判明した。外務大臣あての「機密」とある1938年の在青島日本総領事館の報告書に、「陸軍側は兵員70人に対し1名位の酌婦を要する意向」「軍用車に便乗南下したる特殊婦女」という記述があった。「酌婦」「特殊婦女」は別の報告書で「娼妓と同様」と説明されている。これは軍と外務省が業者と謀って国家ぐるみで慰安婦を送り込んでいた誰にも否定できない証拠文書である。

原文の一部を次に記す。

「一方當地海軍側ハ陸戦隊並第四艦隊乗組兵員數ヲ考慮シ藝酌婦合計百五十名位増加ヲ希望シ居リ陸軍側ハ兵員七十名ニ對シ一名位ノ酌婦ヲ要スル意嚮ナルカ當地ハ警備軍ノ移動頻繁ニシテ所要特殊婦女數ノ算定困難ナリトノコトナルモ當業者等ノ希望ヲ参酌シテ今後更ニ藝妓四十名酌婦五十名(内妓十五名)位・・・・」(赤文字は筆者)

これで軍部と従軍慰安婦の関係が全て明らかになったわけである。従軍慰安婦問題に対する日本軍部の主導的責任は免れない。



2016年6月10日の毎日新聞によれば、今年(2016)、浅田豊美慶大教授と毎日新聞が、米国立公文書館で、終戦前の1945年4月11日に米国カリフォルニアの秘密尋問センターにおいて行われた朝鮮人捕虜に対する尋問調書を発見した。この調書は朝鮮人捕虜100人の中から3人を選び30項目で尋問し記録したもので、3人は「太平洋で目撃した朝鮮人慰安婦は、志願とか親に売られた者たちだった。(軍による)直接的な徴集があれば暴挙とみなされ、老若を問わず朝鮮人は蜂起をするだろう」と陳述している。

たしかにバリクパパンのような戦争占領地と、総督府政治を数十年も受けている朝鮮のような地とでは、慰安婦の徴集方法も大筋では違ったものになるだろう。軍の要求によって慰安婦を得ようとするとき、軍や業者や警察や役所などがありとあらゆる手練手管でうごめいたが、その場合、いくつかのケースが当然ありうる。たとえば、

①戦況悪化にともなう植民地統治で生じた極度の貧困のため親が娘を売った
②親兄弟姉妹の苦労をなんとかしようと娘自身が自らの身を売った
③犯罪を犯した朝鮮人に対し無罪あるいは軽い処分の代価として娘を売らせた。犯罪者が娘の場合は
  娘当人に対して慰安婦の道を強制した。むろんこの犯罪が官憲側によるでっち上げの場合もありうる。
④日本人地主や日本人債権者が借金の肩代わりに朝鮮人の娘を慰安婦として出させた。
  債権者の中には日本軍人や総督府側の朝鮮人も存在する。
⑤軍の意向や業者の判断で「いい儲け先がある」と偽って慰安婦に仕立て上げた(就業詐欺)
⑥軍の意向を受けて日本人あるいは朝鮮人暴力輩が拉致して慰安婦として売り飛ばした
⑦軍が威圧して連れ去り慰安婦とした

⑦が中曽根康弘のバリクパパンのケースであり、総督府政治下の朝鮮でこれをあからさまに公然と行うと、かつての「三一万歳運動」のような全朝鮮人蜂起もありえるので、むろん不可能だったが、上記のキム・ムンギル所長公開の和歌山での婦女誘拐被疑案件関連文書を見れば、個々のケース(海外も含む。例えば在日朝鮮人女性など)で多数生じていたことまで否定できるものではない。

①と②が上記尋問調書のケースで非常に多かったと思われるが、毎日新聞の同記事によると朝鮮では⑤の就業詐欺のケースも多かったという。就業詐欺で慰安婦を徴集するのはインドネシアでもみられる。

より詳しくは「女たちの戦争と平和資料館」(wam) http://wam-peace.org/ianjo/ をご参照いただきたい。その23か国・地域をカバーする「日本軍慰安所マップ」から、慰安所ごとの数千のデータにアクセスできる。



しかしこうした様々な慰安婦の徴集方法よりもっと重大なのは、徴集した慰安婦たちに対するその後の処遇である。朝鮮半島各地から北方や南方の前線に強制的に移送され、そこで性奴隷として想像を絶する過酷な性奉仕を強要された。

たとえば一晩で30名以上の兵士の相手をさせられたり、妊娠すると堕胎を強制されて結局子宮を潰されたり、逃亡して処刑されたり、果てはその死体の煮汁を飲まされたり、ということが、フォトジャーナリストの伊藤孝司氏の『無窮花(ムグンファ)の哀しみ―「証言」性奴隷にされた韓国・朝鮮人女性たち』 ( 2014 風媒社 )で報告されている。

慰安婦150余名が虐殺された慰安所からやっと脱出して生き延びた慰安婦のことも記されており、なかには将校に性病を移したという理由で、熱した鉄棒を突き入れられ拷問の果てに殺された慰安婦のことも報告されている。

皇軍は人間論や人間愛を知らない神道の上に築かれた「恥の文化」の軍隊なので、しばしば日本刀による捕虜や住民の斬首などなど人倫無視の残酷非道なことを躊躇なく行った。自軍に対してさえトップの体面のためなら突貫・玉砕・集団自決強要・各種特攻隊などなどで兵隊を湯水のように犠牲にする。

したがって自民族でない慰安婦に対するこうした虐待・拷問・殺害は、(とくに敗戦が濃厚になり、追い詰められていくにしたがって)、多かれ少なかれ日本軍のいる多くの場所で様々に行われたとみていいだろう。

自明なように玉砕状況では軍情報秘匿のためにも銃殺など様々な方法で朝鮮人慰安婦全員を殺害したに違いない。たとえば1944年9月13日夜、中国雲南省の騰衡で30名の朝鮮人慰安婦が翌日の玉砕を覚悟した日本軍の手によって城外で銃殺され掘られた窪地に無残に「廃棄」された。その動画映像が米国立公文書記録管理局(NARA)で発見され、ソウル大学人権センターのカンソンヒョン教授によって2018年2月27日、「韓・中・日日本軍慰安婦カンファレンス」の会場で報告されている。

『無窮花(ムグンファ)の哀しみ』の次の<証言目次>から、各地で行われた朝鮮人従軍慰安婦たちへの虐待内容が読み取れる。

〈証言〉 
「私自身が強制連行の最も確かな証拠ではありませんか。」盧 清子 24
「朝鮮人の特攻兵と一緒に歌って泣いたこともあります。」李 貴粉 34
「朝鮮語を使っただけで「トキ子」は首をはねられたんです。」金 英実 46
「「処女供出」の名目で私たち3人が連行されました。」李 相玉 53
「16歳の時、警察で拷問され気がついたら福岡の「慰安所」でした。」沈 美子 59
「朝鮮と中国の女性150人を並べ首切りを始めたんです。」金 大日 76
「空襲が激しくなっても「慰安所」には兵隊が並びました。」姜 順愛 84
「反抗した裸の女は性器を拳銃で撃たれて殺されました。」黄 錦周 95
「殺された「慰安婦」たちは地下室へ捨てられました。」郭 金女 104
「ひとりで1日30~70人もの相手をさせられたんです。」文 玉珠 112
「「妊娠して役に立たないから殺す」と言って、お腹を軍刀で切ったんです。」李 桂月 123
「勤労挺身隊として行った日本で「慰安婦」をさせられました。」姜 徳景 132
「兵隊は彼女の首を切り、その煮汁を飲めと強要しました。」 李 福汝 147
「日本や韓国の若者に事実を教えなければなりません。」 金 学順 153





こうした数々の理不尽な徴集と言語を絶する非道な処遇、これらはどれもこれも軍国日本の植民地統治によるわけである。全てに軍の意向が働いていた。ところが日本人は「曖昧」「無責任」「罪の倫理の希薄さ」のためみずから犯した大なる犯罪の本質に思い至ることがない。なかには全く根拠のない逆恨みでヘイトスピーチを行う者たちさえ出てきた。また「有名人の誰それは在日韓国人朝鮮人だ」というネットでの悪意の暴露が横行するようになった。

しかし遺伝子でみれば朝鮮人と日本人の間に遺伝的距離はなく(元は同族で)、鳥取県沿岸部の青谷上寺地遺跡(1991年確認)で発掘された100体以上の人骨などから判明したように、弥生人の主体は朝鮮半島からの渡来系であることが科学的に分かっている。

ミトコンドリアDNA(母系)の系譜によって、北部インドシナや中国全土に分在していた8つの系統が朝鮮半島に集まったうえで混血し、紀元2世紀ごろ青谷上寺地地域に渡来して大集落を形成していたことが分かった。

100体以上の人骨のうちミトコンドリアDNAが判別可能だったのは32体だけで、そのうちの31体が朝鮮半島由来の弥生系、1体が縄文系だった。むろん異郷へ移動する場合、女性は男性に伴われてやってくるので朝鮮半島由来の弥生系男性の比率も母系と同じように高かった筈である。

より損傷の激しいY染色体(父系)が判別できたのは母系が朝鮮半島由来の31体のうちの4体だけで、そのうちの3体が縄文系、残り1体が朝鮮半島由来の弥生系だった。母系の場合と矛盾する奇妙な逆転現象である。しかしこの4体のみがたまたま土地の低酸性度などのせいで保存状態が良かっただけなのかもしれない。4体だけでは確かなことはなにも言えない。

常識的に考えれば母系が圧倒的に朝鮮半島由来であれば、父系もそうだったと見るべきだろう。それに、この縄文系がはたして朝鮮半島の縄文系か日本列島のそれかはまだ判別できていないという。

他の地域を含めたより広範な各系統の遺伝子分布図に基づいて、弥生時代~古墳時代に朝鮮半島からの大小のこういう渡来が主に日本海側の各地で断続的に起きていただろうことも判明した。



(付記) 【上記の青谷上寺地遺跡の分析のように日本人のルーツ論はこれまで縄文人と弥生人の混血説が支配的だったが、上記稿後の2021・9・18に金沢大学の覚張隆史氏などによって縄文人・弥生人・「古墳人」の三ルーツ論が発表された。この「古墳人」は古墳時代(3世紀~7世紀)に渡来してきた中国全土に広がる東アジア系が主体の人々のことで、その遺伝子構造を見ると、縄文系:弥生系:東アジア系の混血比率がおよそ15%:22%:63%であって、東アジア系が4割強あるいは5割弱の現代本州日本人の遺伝子構造に近いという。

ただし「古墳人」の遺伝子におけるこの混血自体はそれぞれの系統の祖先による大陸での混血であり、日本渡来後の混血でないので、「古墳人」のイメージとしては、「多数派の中国人グループが間欠的に幾度となく朝鮮半島を含む北東アジアに移動して、そこの(すでに一万年前頃までに縄文系と混血した後の)弥生系住民と多少混血したあと、朝鮮半島から日本に渡った」という姿になる。これは上記した青谷上寺地遺跡の場合とほぼ同じ構図だ。いずれにしても東北アジア系(いわゆる弥生系)だけが朝鮮半島からの渡来系だというわけではないことは明らかである。】


たとえば福島県喜多方市の5世紀ごろの灰塚山古墳(前方後円墳)第二主体石棺墓から発掘された頭蓋骨による容貌の復元については、被葬者が「比較的面長で、鼻の付け根が平らな、渡来系の顔つきだ」と報告されている。

2019年6月4日の河北新報によると、発掘責任者である東北学院大学の辻秀人教授は「会津地方は能登半島などを経由してきた渡来系集団が、大和朝廷の政治的な後ろ盾を得ながら支配していたとみられる」としている。

また2012年11月に発見された群馬県の榛名山爆発(6世紀初め)によるポンペイ型埋没の金井東裏遺跡からは、ソウルの百済遺跡(夢村土城遺跡)でのみ出土している(鹿の骨を磨いて作ったうろこ鎧を上に重ねた仕様の)鉄製うろこ鎧が発見されたが、その埋もれた武者の頭蓋骨を復元するとやはり朝鮮半島渡来系の扁平な弥生人の顔つきだった。

海部陽介氏の『日本人はどこから来たのか?』(2016 文芸春秋)によれば、縄文人の渡来でさえ朝鮮半島経由が最古だった。すなわち、朝鮮半島対馬渡海ルートが約3万8千年前、中国大陸台湾沖縄海上ルートが約3万年以上前、アムール川樺太ルート(陸続き)が約2万6千年前となっている。



しかしどういうわけか海部氏は列島中央部を占め続けた最古の朝鮮半島対馬渡海ルートについてはその後あまり触れず、もっぱら葦船や丸木舟や竹筏による台湾と与那国島間の黒潮越えの渡海実証実験つまり中国大陸沖縄海上ルートに注力していて、そのプロジェクトを見るとあたかも日本人の先祖の縄文人は「主に」そこから来たかのように錯覚してしまう。

朝鮮半島経由の縄文人は沖縄や樺太の南・北ルートとは違いそのまま列島中央部に到着し定住したことで、後の朝鮮半島からの弥生系や古墳系渡来人とも重なってくる。朝鮮半島由来の縄文人遺跡は南九州から東海・中部地方で440以上発見されている。

日本列島中央部は伝統的に朝鮮半島系の縄文人や弥生人や古墳人によって占められ続けてきたということ。これは朝鮮半島と日本列島の地理関係からみて必然の結果といえる。ここでは黒潮越えの苦労も要らない。釜山から対馬が見えており対馬海流に乗れば自然に裏日本のどこかに漂着する。このルートは日本列島への幹線道路なのだ。

つまり血の濃さや遺伝子の比率や由来地でみれば半ば以上は、どの日本人の父も母も祖先をたどれば元々は朝鮮半島から渡ってきた(縄文人や弥生人や古墳人)の朝鮮半島人なのである。むろんそんなことは彼らのなかの「本来の自分」は、頭の片隅でとっくに承知している。「・・・・いくらなんでも3割か4割はありそうだな・・・・かりに3割か4割でも近い近い親戚・親族じゃないか!」とうっすら感じている。

「和」の「空気」に冒されてヘイトスピーチや悪意の本名暴露を行いながら、自分が「虚構の自分」を演じていることを、脳のどこかで感じている。それを振り払うためになお一層嫌韓的に行動する。



日本人は「朝鮮人蔑視」という共鳴周波数で集団的共鳴をしている。非常な例外(配偶者や幼友達や親友や恩を受けた人や帰国子女や帰化者やキリスト者や社会派人権主義者など)を除き、日本人である限り誰も彼もが「朝鮮人蔑視」という「空気」「雰囲気」に包まれ、それに支配されている。

ある意味、これは「近親憎悪」なのだ。親戚・親族である事実をあくまで否定し切ることで、かつてそうした事情を知らずに偽史の記紀にだまされ惑わされて「朝鮮人蔑視と憎悪」で集団的に共鳴し先祖の国、いわば自分たちの父や母、兄や姉を下等民として劣等視し、襲撃・殺害・抑圧・隷属・搾取・強奪・強姦したおのれのびっくりするほど大きな罪の存在を認めたくない、そういうことなのだ。

それはあたかも(母の階級が子供の階級になる李朝の韓国時代劇ドラマのように)、父は両班だが奴婢の母から生まれた男が、正妻に子がないため嫡男として育てられて、成長したあと自分の出自に気づき、ひたすらその真のルーツを否定するために、自分の家の奴婢や下男たちを苛め抜く、というのにどこか似ている。

望楼から遠くの牧場の様子を見るにはそのための「高さ」と「方角(角度)」がともに必要だ。いくら視座が高くても誤った方角を望み見ると、牧場は見えない。ここでいう「高さ」とは情報量であり「方角(角度)」とは情報の質である。情報の質が偏見や思い込みで劣化していれば溢れるばかりの情報量も正しい結論には導いてくれない。



日本人は自分の主なルーツの一つである朝鮮人を蔑視しているため、古代史の真相についてほとんどが盲人になってしまっている。古代史学者もアマチュア研究者や好事家も一般人も、例外なく誰もがそのためほぼ全盲状態だ。決して見たくないところに真実があるのに、どうしてその真実が見えるだろうか。旧植民地のいわゆる「劣等民族」である朝鮮人が、(王朝についても国民についても)列島民族の真のルーツの一つであるとは死んでも認めたくない。そのようなことは一秒たりといえども考えたくないし、聴きたくも関わりたくもない。

意識的にも無意識的にも朝鮮に関わる古代史は何でもかでも全く別の脈絡で解釈してしまう。自分の真のルーツをなんとしても見たくないために、今だに(例えば稲作は中国経由だ、言語は南方スンダランドから来た、倭人の祖先は縄文人だなどなど)様々な「天上ルーツ」の近代的形態で、偽りの天上ルーツを設定し虚偽の古代史を構築してしまった記紀の史観(天孫倭人優越史観)の奴隷になっている。そしてそこから、なにほどかぼんやりと真相に気付いている自分の無意識の作用によって、様々な「嫌韓ヒステリー症候群」が発生する。

朝鮮半島経由を否定できない場合は、朝鮮半島で熟成して日本列島にやってきたもろもろの中国系文化を、まるで中国大陸の文化が朝鮮半島を特急列車で素通りして日本列島にやって来たかのように歪めてしまう。そうやって朝鮮民族の存在とその独自の役割を無視する。

文化だけではない。たとえば現在、日本で猫は外来種として登録されているが、それは平安時代以前(最近は須恵器片に付いた猫の肉球跡から紀元前後とされつつある)に朝鮮半島から入ってきたからである。ところがそれを日本人はいとも自然に「朝鮮半島を経由して入ってきた」と表現する。すると朝鮮種化した猫の搬入のことは無視され、朝鮮半島は猫の単なる経由地であったかのようになる。これは古墳時代に入ってきた馬についても全く同じだ。日本人の朝鮮無視は習性化していて、すべてがこんな具合である。

全く明らかな場合でも「朝鮮半島から来た」とは言わず意図的に「大陸から来た」という表現で置き換える。テレビの古代史解説などではこの用法が多く見受けられるが、「大陸」のなかにその一部としての朝鮮半島を引き込んで、朝鮮民族の独自の存在を無化してしまうわけである。



なるほど朝鮮半島も大陸の一部ではあるので朝鮮半島から来たことを大陸から来たと表現しても言葉の上では誤りでない。しかしそもそも朝鮮半島から来たかどうかは日本人のアイデンティティーにとって本質的な問題なので、これを曖昧にして朝鮮半島から来たことを「大陸から来た」と表現しては余りにも意図的な自己欺瞞の偏向であり、学術的には不適切で、誤解や偏見も助長する。「渡来」という言葉を使う場合、例外なくどこからの渡来か明瞭に区別して使用すべきだ。

公私に関わらず新聞でも雑誌でもテレビでもラジオでも、実は圧倒的に朝鮮半島から渡ってきた古代朝鮮人を意味しているのに、「渡来人」という表現を使うことによって、どこから渡来してきたかには触れないまま、大陸のどこかから「渡来してきた人々」であるかのように胡麻化している。上記の灰塚山古墳報道なども同様だ。ほとんどがこのように「曖昧」なまま「無責任」に報道している。

識者もマスコミも具体的に「朝鮮半島からの渡来人です」とはなかなか言おうとしないし、また「朝鮮半島からの渡来人ですよ」と言われない限り、自分を偽って、知っているのに見て見ぬふり、知らんふりをするわけだ。これをどういうわけか(報道関係者や古代史学者も含む)ほぼ全ての日本人が意識的無意識的にやっている。

人であれ物であれ文化であれ9割が朝鮮半島から、残り1割が中国大陸から来たという場合も「大陸や朝鮮半島などから来た」という表現をして、9割をなす朝鮮半島からの人や文化や物をまるで付録のように扱って誤魔化す。ときには朝鮮民族からは何の裨益もないと主張する意味で、「人が来るとき文化も来る」という事実を無視しあたかも文化抜きで人だけが朝鮮半島からやって来たかのように見なしたりもする。



遠くたどれば自分自身も5割以上(いわばへそから上全部)元朝鮮半島人なのだから、「古来」(ふるき─過去に到来した朝鮮人)の自分が「今来」(いまき─新しく到来した朝鮮人)に対していまさら「あの人は在日韓国人だ朝鮮人だハーフだなんだかんだ」とその出自を悪意で暴いてみても、自分の出自おのれの先祖みずからの血を貶める行為にしかならない。ヘイトスピーチなどはまさしく自分を汚す行為そのものなのだ。

そもそも在日韓国朝鮮人が存在するのは過去の軍国日本の植民地支配のためだが、「今来」の在日韓国朝鮮人が日本名を持つのも、植民地統治時代に「古来」の日本人によって強制された創氏改名と、就職結婚その他における激しい民族差別で韓国朝鮮人として生きてゆけないようにしている戦後の日本社会の度外れた差別構造のためではないか。全ては日本側に責任がある。にもかかわらず本名の暴露やヘイトスピーチなど、なんという本末転倒の邪悪な行為であることか。

いちど敗戦直後を仮想設定して、日本人の自分が、米国進駐軍に「姓も名前も米国風に変えろ」「日本語は話すな。英語を話せ」と法律や様々な生命線設定や銃剣で強制されたとしたらどのように感じるか想像してほしいものだ。「名は体を現わす」。創氏改名がどれほどの人間否定か、心を澄まして自分がやられた場合を想像してみなくてはならない。



創氏改名(1940)が届出制だったことは弁解にならない。9代の朝鮮総督の全てが元帥や大将で、村の日本人教師まで帯刀していた強圧な雰囲気は、いわば「10万気圧の環境」だった。マクロな10万気圧の中で個々の分子は流動性を失い、ミクロに見れば自分の自由な意思で唯々諾々と結晶化してゆくように見える

マクロな気圧は見えないがミクロな個々の分子の動きは見えるので、個々の分子の動態だけ見ていると、それらは自分の自由な選択で結晶化していったかのようにみえるだろう。つまり逆らえば異民族の軍警による非情な弾圧が襲ってくるという絶対的恐怖の雰囲気が完全に支配している中での届出制なのだ。

絶対的な恐怖や威圧の下では怯える者たちの心の中に、意識レベルの虚偽の従順性だけでなく、無意識レベルの虚偽の自発的従順性も発生する。「私は強制されたから従うのでなく、本当に自由な意思と判断で本心から従うのです」と自分の心まで無意識に欺くことが起きるのだ。

つまり本当は恐怖に駆られて従順になったのにいつの間にか自分も知らないうちに「恐怖によるのではなく自発的に従順になったのだ」と思い込むわけである。強制者はそういう者たちの大量出現を画策し、それを利用して「相手の絶対多数は自由意思で従ったのだ」と声高に宣伝するわけだ。絶対的畏怖の下ではこういうことが起きる。

むろんこういう雰囲気の中では届出制であるにも拘らず創氏改名に逡巡する者たちに対して、それを強制する様々な圧力が至るところで加えられたことは言うまでもない。

世代を超えて延々と続くかに見えた永い巧妙な植民地統治によって朝鮮人からその魂を抜き取ったうえで可能となった(強制的で様々な疑似餌付きの)届出制を「朝鮮人の自由選択だった」というのは、朝鮮侵略と植民地統治を正当化する詭弁に他ならない。創氏改名も朝鮮語使用禁止も朝鮮人のためのものであるわけがなく、日本民族のために朝鮮民族を消滅させようとした民族抹消政策だった。

1940年に紀元2600年祭を迎えて天智天皇(正体は後述)のために百済王宮跡地に扶余神宮を建て大津に近江神宮を建てたりしながら朝鮮民族の消滅を完成させようと執行していた様々な政策を、まるで朝鮮人側から頼まれた「朝鮮人のためのもの」だったかのように誤魔化している。



日中戦争勃発(1937)後は、ほぼ朝鮮の全戸をおよそ40万の愛国斑に分け、月に一度(のちには週に一度)、主として神社の前で、戸主を集めて愛国日行事を挙行し、①神社・神祠参拝、②皇居遥拝、③国旗掲揚、④国歌斉唱、⑤講話、⑥皇国臣民の誓詞斉唱、⑦天皇陛下万歳三唱の順序で、皇国臣民化の錬成が強行された。

むろん錬成事業は朝鮮総督府の最高政策として愛国日行事の他にも多岐にわたり、学生・青年・労働者・農民・女性・官公吏を対象に、学校・職場・町洞会・各種団体でも様々に行われた。朝鮮人を忠良な内鮮一体の皇国臣民に錬成する(南総督時代)だけでなく、今や窮迫する「大東亜聖戦」のため天皇に全てを捧げる皇国臣民に錬成して徴兵する(小磯総督時代)、というわけだった。

国を奪われ、朝鮮人であることも禁じられ、そのうえ強奪圧制者の他国の王を神として崇拝させられ、「一切の私利私欲なく、ただひたすら天孫万世一系の天皇に仕え奉るその臣民として、心も命も誠を以て捧げ尽くさなければならない」と錬成強要された。

世界の歴史で国家を奪われることは、たびたびある。しかし差別的な同化吸収で民族性を抹消され、姓名や言語まで奪われることは、滅多にない。そのうえ強奪圧制者の他国の王を神としてありがたくも崇拝し生命までよろこんで捧げなくてはならないとは! このようなことがかつて地球上であっただろうか? 朝鮮民族はそれほどのことを被った。しかも日本人のほとんどは、それを大したこととも思っていない。

 

誰が好き好んで先祖代々伝わる自分の姓と自分固有のアイデンティティーである名を捨てたいと思うだろうか? 「疑似餌が利かねば剣があるのみ」の植民地軍事支配下(歴代朝鮮総督は元帥や大将)でなされる政策は、直接的にも間接的にも、全てが強制なのだ。

軍と神社が一体になっていたので、神道を通して朝鮮人の心の中にも侵入し、思想・信条・信仰に対して特異的な抑圧的強制が行われた。植民地は他人に大脳を乗っ取られた肉体のようなもので、そこに本来の自由はどこにもない。特に神社が絡むと目も当てられない。

また「言語は人間活動そのもの」。朝鮮人に対する朝鮮語の使用禁止がどれほどの人間性蹂躙の暴虐か、襟を正しておのれが日本語の使用を禁止され英語を強制された場合を思いめぐらせ想像をたくましくして考えてみなくてはならない。それができればどれだけ非道で信じがたいほど大きな犯罪を犯したかが分かる。とはいっても「罪の倫理」の希薄で「曖昧」「無責任」な日本人には、その想像すらとてもできない。

だが日本人も同じような体験をすると、それが悟れるようだ。たとえば日本の敗戦で自由になった植民地朝鮮の村人たちがその村で朝鮮語の使用を禁じてきた日本人教師に対し「日本語をしゃべるな!」と命じたことがあった。日本人教師は色を作して「日本語をしゃべるのが日本人だろう! 日本人が日本語をしゃべって何がいけないのか!」と咄嗟に反発したその瞬間に、はじめて朝鮮人に朝鮮語を禁じてきた自分たちの計り知れない大きな罪と誤りに気付いた、という話がある。

これは「民族と言語の間のそういう理屈や関係にいまやっと気付くことができた」ということでなく、「日本の敗戦によって朝鮮が独立した結果、やっと朝鮮人が奴隷や半奴隷でなく自分と同じ人間に見えた」ということなのだ。「日本人の自分が人間として日本語を話す権利があるように、朝鮮人にも人間として朝鮮語を話す権利があったのだ!」と、(馬鹿馬鹿しくも)今更のように気付いたわけである。





ここで次のように大きく想像してみる必要があるだろう。

もし日本人が近隣国に国を奪われ、日本式の姓名も日本語も禁止され、日々相手の国の王を神として礼拝させられ、その忠良な臣民として職場や戦場で命も心も有り難く差し出せ、と強要されたら! これはやはり日本人としては一日たりとも一秒たりとも到底耐えられない。だから朝鮮人も日々刻々耐えられなかったのだ! 

朝鮮人はどれほど傷ついたのか? どうすればそれを癒してあげられるのだろう? 物や金銭では不十分だ。韓日協定はあるがそもそも相手の足元を見たもので満足してもらえるものでもない。それは今までの両国関係から分かる。やはり心の底からの謝罪と本当の賠償が要るのだ。

でなければ、いつか日本が朝鮮の植民地にされて、日本式の姓名も日本語も禁止され、日々、朝鮮の檀君を神として礼拝させられ、その忠良な臣民として命も心も有り難く差し出せ、と錬成強要されても、文句は言えない。

自分がやったことは、当然、相手にもやり返す権利がある。自分だけにやる権利があるわけではない。したがって、そういうことが起きないようにするためにも、心の底からの謝罪と本当の賠償は自ら率先してやらねばならない。ごり押ししても本当の解決でないので、いつも蒸し返されるだけなのだ。



日本人には、自分と日本民族がこれと同じ目に遭ったら、相手にどれほど謝ってもらえば許すことができるか、一人ひとりシミュレーションするように具体的に考えてもらいたい。そうすれば有償無償5億ドルの韓日協定が日本側の姑息な何の最終解決でもない一時しのぎだったことが分かる。

少なくとも「日本がいくら謝っても韓国人は許してくれない」と反発することはなくなる。なぜならよくよく考えてみればいつも目先の国益や民族自尊心が先に立ってしまい、自分が謝ったのは常に形だけで、今まで本当の意味で心から謝罪したことがなかったと気付き、「日韓協定で最終解決したではないか」と主張すること自体、謝罪拒否の態度だと分かるからである。

つまり日本人がいつまで経っても心底謝罪しないから朝鮮人も日本人を延々と許すことができないだけなのだ。あれほどのことを足元を見た安っぽい賠償額や口先だけの謝罪や遺憾表明で許せるものではない。

韓日協定の有償無償五億ドルは厳密には経済協力金(独立祝賀金も含む)であって、本当は賠償金でない。いや実質は賠償金なのに形式的には経済協力金とされて法的な謝罪と賠償を避けたものである。だから有償無償五億ドルは法的には経済協力金であって、補償金ではあっても賠償金とはならない。

補償金は合法的なものに対する金銭的補填であり、賠償金は不法なものに対する金銭的補填である。ところがどうやら日本側が本来は不法な植民地統治とその結果に対して賠償すべきところを、その不法性を認めず経済協力金名目にしてしまい賠償を補償に歪めてしまったために、(言い換えれば本当は安手の賠償金なのにそれを無理やり補償金とした結果)、韓日協定は賠償と補償とがすっきり区別できない混乱したものとなった。



この点、(最近の徴用工問題についての日本政府の立場から)多くの人々は法的な賠償金だと誤解しているようだ。つまり日本はこれまでまだ一度も朝鮮植民地統治に対する法に則った正式の(法律や法令の制定などによる)謝罪と賠償をしていない。

すると韓日協定の有無に関わらず南北朝鮮には朝鮮植民地統治に対する法的な報復権がまだほぼ丸ごと残っているということになる。かつての侵略行為を正当化する極右政権が日本を支配している現在では、ことさらそう強調して言わねばならない状況だ。

ある日本人政治経済学者が概ね次のようにいみじくも示唆したように「あのとき韓国人が将来文句も言えないほどたっぷり経済協力してあげていればよかった」というのが(まだ謝罪心は欠けているとしても)今よりは正しい見方なのである。

日本人には自分たちの侵略的な言動や政策が原因で生じた「相手の痛み」に寄り沿う罪意識や人間感情の視点が必要だが、「曖昧」「無責任」なうえ罪の意識も希薄なため、それも全く期待できない。今起きている徴用工訴訟の問題などについてもそうである。

徴用工賠償問題に関して日本の最高裁は、「個人請求権は消滅しておらず、裁判所での訴訟の道はないとしても、当該企業と被害者との間の問題解決の道は閉ざされていない」としている。つまり「徴用工問題でこじれるようなことがあれば、企業と被害者との間で問題解決してください」というのが日本の最高裁の立場である。



この問題では、三菱は米国人には謝罪し、中国人には賠償金を払っている。2015年7月、三菱マテリアルの岡本行夫社外取締役は木村光常務執行役員とともにロサンゼルスで一万二千人余りの被害者代表ジェームズ・マーフィー氏に対して、「我々は戦争捕虜をもっとも激しく搾取した企業の一つ」とし、「米国の戦争捕虜とその家族に心からお詫びする」と話している。

さらに三菱は中国人に対して、2016年6月、北京で3765人に達する被害者とその家族に謝罪し、一人当たり10万中国元(約157万円)の賠償金を出すとし、中国人強制労役被害者代表3人との合意書に署名している。ところが背後にかつての植民地支配や戦争犯罪を肯定する極右政府の思惑があって、日本の戦犯企業群は韓国に対して決して謝罪しようとはしない。

理由はどうやら「朝鮮併合は合法的に行われ、朝鮮植民地時代には朝鮮人は存在せず、みんな日本人だったため」ということらしい。すると植民地統治下の朝鮮人は日本人と全く同権利・同地位・同尊厳だったとでもいうのか? このような暴論論理が通るのは日本の侵略主義的な保守層だけであろう。

そもそも朝鮮人のほとんど誰も全く望んでもいなかったのに外国勢力が勝手に入り込み、日清戦争や日露戦争という朝鮮争奪を目的としたかつての列強間の熾烈な戦争の結果、朝鮮は強制的に軍事力で日本帝国に(不法に)併合された。

要するに、日本帝国は熾烈な戦争で清国やロシアと朝鮮の奪い合いをして勝利し、国際的にもはや寄る辺のない朝鮮王を威嚇し、その王妃を殺し、臣下を篭絡し、朝鮮国民を欺瞞し、抗日軍民を大量虐殺して、朝鮮併合を成し遂げた。こうでもしないと国家が他国の手に渡ることはない。

争奪戦争による外交的孤立・呵責ない大量虐殺・激しい脅迫・狡猾な欺瞞を受けることなしに、いったいこの世の誰が自分の国をむざむざと他国に奪われるだろうか? 国家はそもそも「リバイアサン」であり暴力組織の猛獣であって、そもそも暴力によってのみ他国に飲み込まれるものなのである。そこに合法性などあり得ない。例えれば「狼に犬が襲われて食べられた」のだ。



したがって当然のことながら朝鮮は日本の「所有物」扱いとなり、植民地統治下の朝鮮人は日本人と同格に扱われない一種の奴隷状態だったわけである。現在でさえこれほど蔑視・劣等視・差別視しているのだから、銃剣でもろに支配を行った植民地統治時代は推して知るべしだ。

創氏改名や朝鮮語禁止などによって(自分の本名も名乗れず自分の民族言語も使えず)日本名や日本語を強制され他国の侵略神である天照大神やあれこれの天皇を拝まされる身分が、まともな人間の身分だろうか? これらは全て朝鮮人の否定であり、朝鮮人としてしか存在しえない人間に対する究極の人間否定である。むろん奴隷や半奴隷扱いだと言って良い。

朝鮮人が国を奪われたことに対し様々に抵抗すると、「不逞鮮人らが根拠もなく不義不法を働いて騒いでいる! 即刻、軍を派遣して仮借なく鎮圧せよ!」となる。「不逞」(ふてい)は「道義に従わず勝手に振舞うこと」で、植民地統治時代に日本人は「不逞鮮人」という言葉を普通に使っていた。「不逞鮮人」は新聞紙面頻出の見出し文字でもあった。

これはつまり植民地統治は合法であり、その秩序を乱すことはなんであれ不義・不法・不逞であるというわけだ。しかし他民族の国家を強奪した者たちがこうした言葉を吐き実行するのは、まさしく「賊反荷杖」(盗人が猛々しく返って鞭を取る)というものである。「強盗の居直り」と言っても良い。

そもそも朝鮮併合もその植民地統治もどこまでも不法な強制的暴力によるものであって、合法的なものではなかった。たとえば抵抗する者を殺しまくった強盗が誰かの手を掴んで無理やり文書を書かせ署名押印させた場合「署名押印文書があるから文書内容は合法である」と言えるだろうか? 日本人はこれを合法だと言い張っている。

犯罪人が処罰や謝罪や賠償を逃れようと無罪を主張し根拠なく勝手に「違法でない」「合法だった」とあれこれ弁明するのと同じように、「朝鮮併合も植民地統治も合法だった」というのは加害者である日本人だけ勝手な主張なのだ。被害者の朝鮮人はその主張を誰ひとり認めていない。それを忘れてはならない。



たしかに「植民地時代に朝鮮人はいなかった」が、それは朝鮮人が日本帝国主義の暴力によって、国を奪われ、言語を奪われ、姓名を奪われて、人間以下の奴隷や半奴隷にされたからである。

いわゆる「奴隷」に対しては謝罪は要らない。主人が「奴隷」に謝罪する必要はない。そのため今になっても日本の主人意識の朝鮮植民地侵略肯定主義者たちにとって朝鮮人は謝罪の対象とはみなされないわけだ。これは「皇国臣民化によって朝鮮人は形だけの日本人として骨抜きにされ実体を失った下等民の奴隷のようなものだったから、配慮や謝罪は要らない」ということなのだ。

「みんな日本人だった」は「みんな日本人として平等に扱った」ということでなく「みんな額に『日本人』のラベルが張られた奴隷や半奴隷だった」という意味なのだ。

他民族国家の人間を皇国臣民化(植民地支配に都合のいい「形だけの日本人化」)によって奴隷や半奴隷にしておいて、「『日本人』だったから謝罪しなくていい」というような論理は、人間として到底許せるものでない。彼らにとってはかつての植民地統治に対して南北朝鮮人が日本に謝罪を求めることそのものが「不逞」であり、そういう朝鮮人は全ていまなお「不逞鮮人」にすぎない。



徴用工賠償問題に関して(米中に対してとは別の態度をとる)ダブルスタンダードの日本の現極右政権は「1965年の日韓協定で完全に最終解決した」として上記の自国の最高裁判決を全く無視してしまっている。しかもかつての日本の政府見解とも矛盾している。1991年に当時の外務省条約局長(柳井俊二)は、日韓協定によって「いわゆる個人の請求権そのものを国内法的な意味で消滅させたというものではない」と答えているのだ。

過去を振り返ってみると、1997年9月、新日本製鉄は強制動員被害者遺族11人に対し、法廷では「旧日本製鉄とは関係ない」としながらも、法廷外で交渉し、一人当たり200万円の慰労金を支払ったうえ、遺族を日本に招いて慰霊祭さえ行った。

また日本鋼管は十代後半に過酷行為を受けてついに障害者となったキム・ギョンソク氏の賠償訴訟(1991年3月)を受けて、1999年に(新日鉄同様に法的責任を拒否しつつも)東京高裁で法廷和解し、キム・ギョンソク氏が障害者として長く過ごしてきたことに対し「真摯な気持ちを表す」として慰労金410万円を渡した。不二越も1992年に起こされた韓国女子勤労挺身隊員訴訟において、2000年7月、被害者らに約三千万円を支払って和解した。

かつて日本の関連企業体は有償無償5億ドルの「日韓協定」があろうとも、こうした(法的責任外での)「慰労金」名目の道義的賠償を様々に行っていたのだ。にもかかわらず植民地統治の法的道義的責任を認めない長州A級戦犯系の極右的な日本政府は、(1991年の政府見解があたかも存在しなかったかのように)頑なに「日韓協定で最終解決した」としてこうした流れを断固途絶させている。



この問題は(最近の他の様々な対韓国問題も含めて)この「長州A級戦犯系」という特異な性格の安倍晋三が指導する政府だったからこそ生み出されたもの。日韓協定はこの安倍晋三の大叔父である同じ「長州A級戦犯系」の佐藤栄作内閣によって締結されたものなので、安倍晋三のこだわりもそれだけ深かったわけだ。韓国に対するホワイト国除外の措置もこの「長州A級戦犯系」の侵略的性格から出ている。日本の首相が他の人物なら、こうした様々な問題の多くは起きなかったし、ここまでこじれるようなことにはならなかった。これらの問題は特異的に「安倍晋三問題」なのだ。

そういうわけで、韓国ではいくつかのケースで旧戦犯企業に対して賠償判決が出たが、そもそも当該日本企業は(かつての日本鋼管や新日鉄や不二越のように)韓国でこうした賠償判決が出る前に、日本の最高裁判決の趣旨に従って、率先して徴用工被害者たちとの間で問題解決をしていくのが(日本側としての)本筋なのだ。日本政府もそれを後押しする義務がある。

しかし極右化した政権にその意思は毛頭ない。大半の日本国民も、様々な圧力で委縮し偏向し始めたマスコミや政府系の歪曲報道に惑わされ、「いつか来た道」よろしく、恐ろしいまでに無節操に民族ポピュリズムに流されて、前後の事情もよく知らずに「そうだ、そうだ」と追随している。

常日ごろ落ち着いた批判精神で数々の出来事を広い視野から冷静に論評してきた多くのテレビコメンテイターたちも、「これが同じ人間か」と目を疑うほど狭い民族ポピュリズムに感情的に取りつかれて不寛容になり、あたかも挙国一致のように変貌してしまった。満州事変以後の戦前のマスコミも、このように他愛もなく変貌して戦争へと日本人を宣伝扇動していったのだ。

すでに見たように池田清彦氏は、「結局、強い相手には口をつぐむけれど、いじめてもよさそうなやつをターゲットにして、みんなで徹底的に叩きまくるんだよね。溺れる犬を棒で叩いたうえで、石まで投げつける。日本人っていうのはそういう国民性なんだ」と述べたが、ここでターゲットにする「いじめてもよさそうなやつ」に「朝鮮人・韓国人」を代入すれば、話はぴったり当てはまる。



一千万人もの中国人を死に至らしめた中国大陸への軍事侵略についても日本が謝罪して済むような性質のものではないが、南京大虐殺についても「中国の主張する何十万単位でなくもっと桁が小さい」と言って抗っている。

たとえ何十万でなく何万の単位であっても決して人類の赦しえない大虐殺であるには違いないことが分らない。これは日本人がひたすら謝るべき巨大戦争犯罪であり、そもそも日本が虐殺された者の多寡で言い開きできる性質のものではない。日本はいわば「我々は100億円強奪したんじゃなく10億円しか強奪していない! 我々は大強盗ではなく小強盗なのだ!」と開き直って抗っているようなものなのだ。

「虐殺は数万人だった」とする一部の日本の論者は、「中国敗残兵が私服に偽装したから」とか「中国兵捕虜に食わせる食料がなく、また敵兵に戻るので釈放もできなかったから」とか弁明している。しかしそもそも日本が無法に中国大陸を侵略したことによって、こうした事態にも遭遇したわけである。自分自身が作り出した状況なのに、それを理由にして大虐殺を正当化するとは!

「私服に偽装した」とか「中国捕虜に食わせる食料がなかった」とかは罪深い卑怯な言い訳に過ぎない。日本軍の司令官たちに人間性のかけらでもあればこれらの問題はどうにかなったのであって、大量虐殺はあり得なかった。



南京大虐殺は4か月ほど前の北京東方の通州事件(1937・7・29)に対する報復ではないかという一部の見方によると、上海派遣軍と中支那方面軍の兼任参謀だった長勇中佐が、通州事件への報復心から軍司令官に無断で中国投降兵に対する殺害命令を出したことになっているが、数万~数十万に及ぶ大量殺害を軍司令官たちが知らずにいたことはあり得ない。

しかも通州事件の現場を見たわけでもない長勇中佐が東京日日新聞(大阪毎日新聞)や朝日新聞の扇動扇情記事などなどにあおられて報復心を呼び起こしたという通州事件も、事実は日本軍機が味方の中国人保安隊基地への誤爆を止めなかったのが原因でその中国人保安隊の叛乱を誘起したものなのだ。味方だと知らせる隊旗を振っても日本軍上官に報告しても誤爆は止まなかった。

実はこの中国人保安隊の叛乱による200名を超える日本人民間犠牲者のなかには多くの朝鮮人も含まれていた。誤爆という日本軍側の過ちが原因で発生した通州事件に対する(何の根拠もない)報復のために数万~数十万の南京大虐殺を命令したとは!?



そもそも日本はどういう人類普遍の権利があって朝鮮を植民地とし、満州に傀儡国家を作り、さらには中国本土に軍事侵攻したのか? 誰かが自分の家に押し入って占拠し、家族を殺害し、兄や妹を奴隷にし、家具を破壊し、金品を強奪しても、なんでもないことなのだろうか。これと全く同じ恐るべき大犯罪を犯したのに、「曖昧」で「無責任」で「罪の倫理の希薄」な日本人にはそのことが分からない。

「罪の倫理」より「恥の倫理」が勝る日本人は、「和」の領域外で行った暴虐に対する罪意識が極めて薄く、アジア諸国に対するかつての植民地支配や侵略侵攻についてあまり責任を感じていない。

そのためドイツが戦争犯罪を深く謝罪して成し遂げた周辺諸国との和解が、極東では全くなされることがなく、日本はいつもいわば敵国に囲まれた悪環境のなかに身を置かざるを得なくなっている。自分の周辺環境が敵だらけというのでは、明るい未来はあり得ない。むろん遠くに友を作ってみても頼り切れるものでもない。これも「脱亜入歐」の宿命なのであろうか。

ちなみに【AFP=時事】によると、ドイツは2019年9月1日、80年前に行われた第二次大戦最初の空襲だったポーランドのビエルンへの空襲に対しても、そのビエルンで行われた式典で、大統領(フランクワルター・シュタインマイヤー)が謝罪表明を行っている。

彼は、「ビエルンに対する攻撃の犠牲となった方々、そしてドイツの残虐行為の犠牲となったポーランド人の方々の前で私は頭を下げ、許しを請う」「ポーランドで人道に対する罪を犯したのはドイツだ。・・・・私たちは決して忘れない。記憶にとどめたいと願っており、そうしていく」と述べている。

世代が変わり時代が変わっても他民族国家に対して行った侵略の罪は罪。このように80年前の出来事でもなお自分たちの罪を記憶し謝罪を続けてゆくというのが、真の謝罪の姿である。それで初めて被害者も相手を心底許せるし、両者の真の友好も実現できる。

謝罪は謝罪される側が、「もういいです。もう充分です。もう迷惑です。謝罪など、もうやめていただけませんか」と吐露する時にはじめて真に完成する。謝罪がなされたかどうかは、謝罪される側が判断するもので、加害者が勝手に「謝罪は済ませた」とする性質のものではない。相手が許してくれなければ、謝罪にはなっていないのだ。日本人にはそのことが分からない。





ところが、いまや日本人の「曖昧」「無責任」「罪の倫理の希薄さ」のため事態がなし崩し的に進行して、いつの間にかあれこれの大事なことが決まってしまい、大変なことになろうとしている。この数年、公権力のもと、戦前体制に戻って一致団結し自国を防衛しようという極右的な動きがあらゆる局面でだんだん活発になってきているのだ。

戦前体制の再構築には戦前の皇国史観とその天孫神話が要る。「天孫」などいまどきちょっと考えれば非科学的ナンセンスだと分かるのに、理性を無視した一種の宗教的盲目によって、頑なに信じられている。

皇国史観の根幹となっている「天照大神」という太陽神は記紀の編纂された古代では大いなる神でありえたが、科学時代の現代では太陽はなんの神秘もない一物体であり、内部で核融合してエネルギーを放出しているありふれたG型の一恒星にすぎない。「御来光」と称して今も高山での日の出を神秘視する風潮があるけれども、それは単なる宗教遺産的慣習であって、よくよく考えればそこに期待されるべき何の神秘もない。

神化した太陽である「天照大神」も(したがって)そこから生まれた「天孫」も古代神話にすぎない全くの非科学的ナンセンスなのに、そのようなものが今更何の神秘な助けになるというのだろう? 今時、誰が太陽を神として崇め得るのか? このような信仰が現代のグローバルな世界のあらゆる試練に耐えて戦前のように少しでも長持ちするものだろうか? そんなナンセンスに日本民族の未来を託して良いのだろうか? 



神代紀にあるアマテラス・タカミムスヒ・ニニギ・ホホデミ・ウガヤフキアエズなどの物語が神武時代以来あらゆる戦乱や王朝交代にも拘らず1000年以上ずっと正確に伝えられてきてついに8世紀初頭の記紀で詳しく書き記されるに至ったというのは、誰が考えても荒唐無稽。神代紀の物語を史実とみる古代史学者は存在せず、せいぜい「いくらかは史実が反映されているのではないか」と考える程度である。

そもそも神武紀元は、三国志時代の中国の讖緯(しんい)暦運思想家である鄭玄の1260年周期辛酉(しんゆう)革命論に基づいて、辛酉年の紀元前660年に設定された。しかし1260年は真相誤導用の見かけだけで利用されたにすぎず、実際には日本書紀の根幹構造をなす秘密のカラクリ(後述する天智の正体)を隠すため1260年に干支一運を加えた1320年が適用されたが、これはつまり神武紀元は史実に依らず占いや予言のたぐいの讖緯暦運説に基づいて決められたということ。

おかげで紀元前後からの手持ちの史料だけでは1320年間の前半分が空白時代になり、それを埋めるために「欠史八代」などが挿入され、在位期間だけで最長が101年(孝安)や100年(垂仁)という超長寿天皇たちが多数造作される始末になった。

奈良ヤマト王権創始のいわゆる「神武」の時代(仮に紀元一世紀頃とする)には唯一の記録手段だった漢字もほとんど導入されていなかったため偽史を構築した者にとっても史料は存在せず多くは未知だった筈なので、占いや予言の枠組みに組み込まれた神武紀における詳細な記述はほぼ創作と言って良いだろう。その後の「欠史八代」などについても「架空」と言える。そういうわけで神武以来続いているという「万世一系」も古代史学では否定されている。



「万世一系」だからこそ「同じ大王家の開闢物語として子孫代々伝えられてきた」という理屈になるが、万世一系が事実でないのであれば、いかなる王朝も自分に無関係な他の王朝の(神々の時代までさかのぼる)開闢物語を後代に伝える意味がない。伝えた瞬間にその王朝の方が神格化されて自らの王朝の立場がなくなる。

つまり神々の時代までさかのぼる万世一系化は歴代最終王朝(記紀を編纂した王朝)でのみ構想可能な捏造作業なのだ。一番最後に現れた王朝が自らの先祖を中心的な神々とする架空の神代紀を描き出し、それらの神々の流れとしてその後の歴史を歪曲・編集・統一し、万世一系化できるのである。

そもそも日本の天皇家の神格化は非常に新しく、中国から道教由来の「天皇」称号を取り入れた天武天皇の時代(673~686)に始まっている。唐の則天武后が自分を「后」と呼ばせる目的で夫の高宗を「皇」と呼ばせたものを、道教信奉者の天武が輸入したのだ。仏教主義国家路線からは遠のく天皇家の神格化は、唐から輸入したこの「天皇」称号が発端となった。それまでの「大王」が「の皇」と称されるに至って、神格化の刺激を受けたわけである。

日本の王朝が、(実際はもっと複雑に紆余曲折しているが)、概ね、ヤマト王朝→応神王朝→継体王朝→蘇我王朝→扶余王朝と目まぐるしく交代してきたなかでは、初代が誰の目にも見える短命な大王家をまともに神格化する機会など各王朝期には存在しなかった。

中大兄皇子(天智 ─ 正体は後述)がこれまで「大化の改新」と呼ばれてきた「乙巳の政変」(645)で蘇我王朝を倒した後、7世紀末から8世紀初頭に「万世一系の天孫王朝」という神話が記紀で構築されて初めて、大王家をしっかり神格化することができたのだ。その最初のきっかけが天武時代(673~686)の「天皇」称号の輸入なのである。



日本で天皇が神格化されたのは、「大君は 神にしませば 赤駒の はらばふ田井を 都となしつ」(大伴御行)と歌われた天武のときが最初であり、その神格化を天武の皇后だった持統天皇が、自ら「万世一系化」を案出あるいは採用し編纂指導した記紀の天孫神話で、自分の家系全体に拡大させた。

つまり天武の道教と持統の天孫神話(神道復権)が仏教主義国家を相対化させた結果、天皇の神格化が可能になった。多くの日本人は記紀の神代紀に感化されて「紀元前の太古以来ずっと続いている」と勘違いしているが、「天皇が神になった」のは本当は日本書記完成(720年)のほんの40年ほど前のことにすぎない。

しかも「天照大神」は、柿本人麻呂が「草壁挽歌」において持統天皇を「天照らす日女(ひるめ)の命」と表現したことや、記紀唯一の「祖母から男孫」への生前支配権譲渡の平行性(「持統→文武」と「天照大神→ニニギ」)などなどから、天智天皇の次女で天武天皇の皇后だったこの持統天皇の神格化であることが明らかになりつつある。

持統→文武」に見られる「祖母から男孫」への生前支配権譲渡のケースは非常に珍しく(日本史だけでなく世界の歴史においても)他にはほぼ存在しないので、少なからぬ研究者が「天照大神→ニニギ」を「持統→文武」の神話的表現とみている。つまり天照大神の正体は持統であり、ニニギの正体は文武であるということ。持統天皇の和風諡号である「高天原廣野姫天皇」および「大倭根子天之廣野日女尊」も正しく天照大神が持統天皇の神格化であることを示している。



さらに、1939年6月15日に朝鮮総督府が「扶余神都構想」のもとで扶余の百済王宮跡地に創立した「扶余神宮」がそれを実証している。「扶余神宮」の祭神はそれぞれが母子である「神功と応神」および「斉明と天智」であるが、扶余の地と関連するのは百済への出兵を決定した「斉明と天智」なので、(そもそもが架空の存在で血縁上でも全く無関係の「神功と応神」は、「斉明と天智」と同じ「母子」であるところを応用した付録あるいは真相隠蔽のためのダミーであり)、扶余神宮は実は「斉明と天智を祀るための神宮だった」というのが真相である。

ところでこの扶余神宮には軍事征服下にあった朝鮮・満州・関東州・一部中国の各重要都市にほぼ一つずつ存在した百を超える神社で例外なく主祭神だった征服地勝利神としての天照大神が、唯一存在していない。白村江大敗のこともあるのでその大敗地においてこそ征服地勝利神なる天照大神が祀られてしかるべきなのに、肝心のここだけ唯一そうはなっていない。

天照大神は神代に瑞穂の国の支配権を男孫のニニギ(神武の曽祖父)に譲渡した皇祖母神とされているので、持統の神格化である天照大神を祀るとむろん必然的に斉明と天智をずっと格下でずっと後代の子孫として祀らざるを得ず、結果的に持統の祖母(斉明)と父(天智)を、持統より遥かに下段の、持統の遥かなる後裔として扱わざるを得ない。

このようなことは知っていて到底やれるものではない。だからこそ上記大陸アジア唯一の例外として「扶余神宮」に天照大神が存在しない。つまり斉明と天智を祀る「扶余神宮」は天照大神が持統の神格化である決定的証拠なのだ。

中国では「后」だった則天武后が690年に皇帝に即位して(来の)「弥勒菩薩」を名乗ったように、同じ年に日本では「后」(「天皇の后)だった持統が天皇に即位して、ついには(古来よりの男性太陽神アマテルに取って代って女性の持統を太陽神とする)「伊勢神宮」発足の秘密の儀式を通して、極秘裏に(来の)「天照大神」になった。
中国でも日本でも「天皇」の妻なる「天后」が夫の死後に即位し、「天皇」なる夫の神格を引き継いでさらに発展させ、それぞれついに弥勒菩薩や天照大神となったわけである。これらはいわばこのとき限りの「則天武后」現象であると言えよう。





ちなみに百済王宮跡地に扶余神宮を立て扶余の地を「神都構想」の地とすることは百済王都を神都とすることで、扶余氏の百済王家を神格化するもの。日本人にとって神格化されるべき王家は天皇家だけなので、これは天皇家と「扶余氏」の百済王家を同一視しているわけである。そうでなければ、どこであれ「劣等の異民族の地」を神格化して、そこに「都」を建設するようなことは決してあり得ない。

「神都計画」はほかには宮崎神宮を中心とした宮崎市神都計画(1920年代)や橿原神宮を中心とした畝傍町など三町の神都計画(1930年代)や伊勢神宮を中心とした宇治山田市(現伊勢市)神都計画(1940)があるのみなのだ。これらは「皇祖母神」の天照大神や「皇祖」の神武天皇を中心とした都市計画である。したがって「神都」とは「皇祖の都」のことなのだ。

つまり朝鮮総督府は扶余の地の百済王宮跡地に扶余神宮を建てそこを中心とする「神都」を構想することで、百済王都に「皇祖の都」レベルの「神都」を計画していたということである。天皇家を「扶余氏」の百済王家と同一視していなければそもそもこのような「神都計画」など成立しえない。そして「扶余神都計画」は天皇家の真の「皇祖」が誰なのかを雄弁に物語ってもいる。



加えて、王宮は王家の住まいなので百済王宮跡地の扶余神宮で斉明と天智を祀ると扶余神宮がいわば斉明と天智の住む王宮と化し、必然的に「かつて彼らが住んでいたのでここで祀っている」という連想を引き起こす。神武東征出発地の宮崎神宮も神武即位地の橿原神宮も、「神武がかつてそこの宮殿に住んでいた」ということで、その地に建てられ祀られている。扶余神宮の斉明・天智の場合も全く同じであろう。

もし日本書紀の記述のように斉明と天智が倭人なら、彼らの魂魄はそこで660年に無残に敗亡したため成仏できずに彷徨っているかもしれない他王家の魂魄に取り囲まれて悩まされるかもしれず、また宮殿跡地北端の「落下岩」から白村江に身を投じたと伝わる三千人の宮女の魂魄にも取り憑かれるかもしれない。

つまり部外者の倭人からみれば百済王宮跡地は(揺籃の地でも青春の地でも愛する家族の地でもない)国家敗亡の呪われた縁起の悪い死屍累々の亡霊さ迷う「凶地」にすぎない。斉明と天智が倭人ならわざわざその「凶地」に祀ったことになるわけだが、それはありえないことだろう。

それに、他王家の王宮跡地に神宮を建てたのはここが唯一である。血筋の違う他王家の王宮跡地に天皇家の斉明と天智を祀ると一種の文化的混血現象が起きて天孫万世一系の天皇家の「神聖性」が損なわれるので、原則としてこうしたことは行えない。斉明と天智が百済王家の出自である場合にのみ、こうしたことは許される。



斉明と天智が百済王家の人物である証拠は他にも、乙巳の政変(645)時に古人大兄皇子の叫んだ言葉(「韓人殺鞍作臣」・・・「鞍作臣」は蘇我入鹿のこと、意味は「韓人が入鹿を殺した」)や、神武紀元(紀元前660年)を決める基準年が百済滅亡翌年の天智称制年(661年)であることや、天智の和風諡号が「天命開別天皇」(天命で別の王朝を開いた天皇)であることなどあれこれと少なくないが、なかでも百済再建のための斉明と天智の出兵行動が決定的である。

百済滅亡の報に接して斉明をはじめ天皇総出で北九州(甘木朝倉宮)へ出征したのも(百済とその王家の滅亡という自らの家族の大問題に対する)家族行為であり、また、白村江などへの出兵も「敗亡した旧友邦の再建」というレベルを遥かに超えた家族的行為である。これらはともに天皇家が百済王家であることを証明している。

記紀の皇国史観で曇っていない眼には自明なように、百済が他王家の国家であればたとえ滅亡でも「天皇家総出」などあり得ないし、滅亡ならなおのこと「天皇家総出」は人間現象として絶対にありえない



「一家総出」は家族行為であり、家族行為は家族問題が起きないと行われない。朝鮮半島で「百済滅亡」という家族の大問題が起きたので、家族を挙げて一家総出で北九州に出征しているわけである。でないと都にあるべき天皇(しかも女性で67歳の老齢天皇)がすでに滅んだ単なる友邦再建のために住み慣れた優雅で便利で親しみのある都を離れ一家を挙げて(必死の覚悟で)何もかも不便で疎遠な北九州の辺境に居を移す筈がない。古代の67歳は現代の80歳ぐらいになるだろうから、あちらこちらに体の不調も恒常的にあり、これはそれこそ「生死を掛けた一大決心だった」と言える。

自分をごまかさなければ、この一事だけでも、「斉明と天智は百済人だ」ということが完全に納得できる。斉明が必死の覚悟だったことは都から出て7か月ほど後にこの北九州の朝倉宮で死んでいるのを見ても分かる。それほどの決心を、既に滅んだ単なる旧友邦再建のためにする訳がない。これは心理学以前の人間常識である。

さらに、新羅とだけならいざ知らず、百済再建をかけて(現代の米国のような)大帝国の唐と白村江などで戦うのは、その一時的な勝敗に関わらず、将来、唐の大軍を倭国に呼び込む常軌を逸した大いに愚劣な軍事政策で、これも「百済と一蓮托生」という自暴自棄的な家族的行為である。誰が考えてもすでに敗亡した単なる旧友邦のために、ここまでは(つまり国家存亡を
かけてまでは)やらない。これは絶対に断言できる。

能動的で積極的な男性でなく危険な冒険をできるだけ避けたい筈の女性が天皇なら、(しかも67歳の老齢なら)、なおさらである。出兵の決定はそもそも戦争遂行者が女性の時代ではやはり不利になる。67歳の老齢ならいつ何時死亡するかもしれず、唐を相手に長期の戦略構築はできない。しかし百済王家が斉明の家族あれば、逆に女性だからこそ理性的になれず「なんとかしたい」と出兵を決断することになる。

上記の数々のことどもは、彼らが百済人でなければどれ一つとして決して起きない。それらのうちのどれでも斉明と天智が百済人だと証明できる力がある。そういうものが10項目余り存在する。偽史の日本書紀は天孫万世一系化で史実を歪めまさしくその真実を覆い隠そうとしているが、扶余神宮の諸事項も含め以上の各項目の全てを鳥瞰して総合判断すれば、誰の目にも(否応なく)斉明と天智が百済人だとはっきりわかる。『日本古代史の謎に迫る』の第8章「偽史発見の視点」に斉明と天智が百済人である根拠を示した13項目の表を掲載したのでご参考いただきたい。



そもそも百済王子の天智を倭人であるとしたのは、「白村江大敗後に圧倒的勝勢の唐軍に侵攻されれば倭国の滅亡は避けられそうにない」と予想されたからである。天智が百済王子であることが唐に知られると「倭国=百済」と判断されるので、泗沘城陥落(660)と白村江の戦い(663)で二度も滅ぼした百済が日本で生き延びていることになり、唐は面子の上でも残敵の危険性という点でも倭国に侵攻せざるを得なくなる。

そこで倭国は対唐外交上、「中大兄皇子(天智)は古来からの倭人王朝の後裔である」ということにした。具体的には白村江大敗翌年に倭国に派遣され7か月間も滞在した唐軍の郭務悰との折衝があった。

このとき郭務悰は天智の立場や白村江出兵などについて倭国側に詰問したに違いないが、白村江後の圧倒的劣勢の中では倭国側は天智を百済王子だとはとても主張できない。主張してしまえば唐の倭国侵攻と倭国滅亡はどうにも避けられそうにない。天智にしてみれば祖国の百済は失ったけれども自分の支配する倭国まで失うわけにはいかない。

他方、様々な情報筋から天智が百済王子だと知っていた筈の唐も、費用対効果から倭国への侵攻はなるべくならやりたくない。大船団で侵攻し制圧しても遠い島国なので持ち帰る実益はそれほど望めず統治を維持するのも難しい。そこで「天智は倭人であって百済王子でない」という倭国王朝側の外交的言質を受けて倭国侵攻をとりあえずは見送るということにした。

天智は百済人の王子なので以上の展開はほぼ必然。「中らずと雖も遠からず」であろう。史実は多かれ少なかれこのようなものだったと確実に言える。こういう事情が斉明・天智の倭人化の流れを生み出し、蘇我王朝を抹消したその後の膨大な偽史構築の端緒となった。さらに、百済が滅んで朝鮮半島における力の背景を失い今や倭人に同化し倭人化しないと生き延びていけない百済王子の天智の個人的な状況も作用した。

このような大掛かりな偽史を構築せざるを得なかったのも、もとはといえば、「日本書記」の皇極元年(642)二月二日条に「翹岐及其母妹女子四人・・・被放於嶋」(翹岐とその母妹ら女性四人・・・が島流しになった)とあるように、百済武王の死後、義慈王によって母子ともに済州島に島流しにされ、皇極二年四月二十一日条に「百済国王(武王のこと)の子、翹岐弟王子が、調使と共に到着しました」とあるように母と共に倭国に亡命してきた百済王子の扶余翹岐(ぎょうき)が、その後、乙巳の政変(645)で倭国の入鹿大王を殺害して蘇我王朝を滅ぼし、母の斉明大王の死後に称制して、ついに大王になったためである。

乙巳の政変(百済王子による倭国の乗っ取り)がなく蘇我入鹿が大王のままだったのであれば、百済再建のための出兵も、唐との戦争も、白村江大敗もなく、したがって唐の倭国襲来の危険性もあり得ず、百済王子を古来からの倭人だとして偽る大いなる偽史を捏造する羽目にもならなかった。



百済王子の天智を倭人王朝の後裔だとするこの偽史が肥大化し洗練されて、最後には(蘇我王朝を歴史から抹消した)「天孫万世一系」を基調とする「古事記」や「日本書記」という大いなる偽史となった。蘇我王朝を抹消したのは「万世一系化」を行う際に、打倒した敵性王朝の人脈に続くわけにはいかなかったからである。そのため「馬子・蝦夷・入鹿」の蘇我王朝三代を虚構の「推古紀・舒明紀・皇極紀」で偽史化するなど、「日本書記」は大小の欺瞞に満ちた巨大な偽史となった。

日本人の知りたくない以上の真相は、いくら日本人が(天皇家タブーに痺れて)学問的追及を歪めても、いずれそのためのしっかりした(その実力が証明された)古典解析ソフトができれば、古事記と日本書紀に対するAIの自動分析で明かされる日が来るだろう。AIに「天皇家タブー」は効かない。

そういうわけで扶余神宮に関して『日本古代史の謎に迫る』(日本書記の二つの編纂基準について)から引用すれば、

「朝鮮半島全域でこの地においてだけ天照大神を祭神から外すという「千倍万倍甚だ畏れ多きこと」まで敢行して、この百済王宮跡地になんとしても斉明天智を祀る神宮を作りたかったのは、この地がそれほどにまで掛け替えのない究極の場所だということであり、それはまさしくこの地で「日本」の太祖である天智斉明から生まれて成長成人したためであり、だからこそ日本の「近江神宮」とは別に「扶余神宮」が要り、この白村江大敗の扶余の地が神都構想の対象つまり「神の地」とみなされたのだ。すなわち百済王宮跡地の「ここ」こそが「日本」の原点の地なのである。朝鮮総督府による「扶余神都計画」は当然・必然・不可避のことだったと言えよう。太平洋戦争直前の「扶余神宮」創立責任者たちは百済王家に由来するこういう事情も全て知っていたわけである。」(『日本古代史の謎に迫る』(日本書記の二つの編纂基準について)」ご参照)






この扶余神宮の祭神だった天智(中大兄皇子)は百済王子の扶余翹岐(ぎょうき)がその正体であり、彼こそが現在まで続く扶余王朝「日本」の太祖、すなわち日本国の真の皇祖である。そのことは日本書紀に天智の母の皇極(斉明)を「皇祖母尊」(皇祖の母上)と号していることからも分かる。乙巳の政変直後の孝徳天皇即位前紀皇極四年(645)六月十四日条に「皇極天皇を奉って皇祖母尊と号した」とある。

また天智の「天命開別天皇」という和風諡号からも分かる。天命を受けてまでくものは王朝しかないので、「天命開別」とはその字の通り「革命」すなわち「新王朝樹立」を意味するからである。(ちなみに「天智天皇」は漢風諡号)

鄭玄の「辛酉革命(甲子革令)論」に基づいて、辛酉年の天智称制年(661年)から1320年前の辛酉年(紀元前660年)に神武紀元を置いた日本書紀の仕組みもそれを証言している。これは「革命の辛酉年に起きた神武即位と天智称制は、ともに等しく革命(新王朝樹立)の出来事だ」ということなのである。事実、日本書紀は革命の辛酉年(661)に「天智称制」を、革令の甲子年(664)に「冠位二十六階」を配置している。つまり日本書紀は(表向きはとことん万世一系を描いているものの)実は神武紀元を決めるために鄭玄説を採用したとき(ひそかに)「天智称制によって革命がおこり新王朝が開かれた」という前提で編纂されたわけである。その新王朝が扶余王朝「日本」なのだ。その新王朝「日本」樹立を1320年以前に投影して創作されたものが、神武紀元だということである。日本書紀の表面は万世一系ですっかり覆われているものの、(百済王子の天智が扶余王朝「日本」の皇祖であるという)本音は、「韓人殺鞍作臣」「皇祖母尊」「天命開別天皇」「鄭玄の辛酉年(天智称制・神武紀元)革命論」などの姿でちゃっかり主張されている。

その天智の次女の持統天皇は、唐と組んで百済を亡ぼしその地を併合した統一新羅(朝鮮半島国家)に対する病的な報復史観に基づいて、「古事記」「日本書記」の編纂に臨んだ。ありもしない神功皇后の神懸かりの三韓征伐や任那日本府経営などなどの架空の歴史は、持統天皇の報復史観の産物である。この持統天皇の報復史観が記紀の「天孫倭人優越史観」を生み出した。

偽史の記紀(ここをご参照)に具体化された持統天皇のこの異常な百済王族としての統一新羅(朝鮮半島国家)に対する復讐心が、(百済王家から何の根拠もなく「万世一系」という偽史を通して全倭人に横滑りして)、現在に至る日本人の朝鮮人に対する憎悪・偏見・差別・加虐・侵略意欲の源となった。吉田松陰のあの「三韓無礼討ち」や「朝鮮の如きが今や奢る」や「神功の、あるいは豊国の未だ遂げざりし所、果たさざりし所を果たす」もそうである。「朝鮮人蔑視」という日本人の集団的共鳴は、全て(天照大神となった)持統天皇のこの病的復讐心に淵源する。

持統天皇のこの復讐心を天皇制軍国主義日本は1910年の朝鮮併合で実現し、その後、(扶余神宮を除き)朝鮮全土におけるほぼ全ての神宮・神社・神祠に天照大神(持統天皇)を主祭神として祀らせた。持統天皇の報復史観の生み出した架空の神功皇后三韓征伐による(全く根拠のない)応神三韓神授説を信じた結果、こうなった。木戸孝允・西郷隆盛・板垣退助などの明治初期の征韓論も同じ脈絡のものである。



持統の天孫倭人優越史観は、明治維新後の日本帝国が朝鮮半島へそして満州へと侵略域を広げると、あたかもかつて「天孫民族」が朝鮮半島におり、その前には満州にいて、今度はそれらの故郷を回復するのだという侵略イデオロギーとなった。

たしかに天孫降臨の「天から降りてきた」は学術的には通らない。実際は朝鮮半島から渡って来たこと、その前には(扶余族として)満州からやって来たことは日本の学者たちも分かっている。

したがってこの侵略イデオロギーは、優越文化の「天孫民族」は周囲の劣等な諸民族とは一線を画し純粋さを保ったまま満州にいて、そのあと朝鮮半島にいて、それから日本列島にやってきたというような馬鹿馬鹿しい学術論理(東京大学人類学教室の鳥居龍蔵のドルメン論など)になった。戦前のこういう邪悪な侵略論理は全てそもそもが持統の報復心から出た記紀の「天孫倭人優越史観」の生み出したものなのだ。



そうした戦前体制の再構築は、それによって蹂躙されたアジア諸国の敵意を極度に煽り、相手の戦意を最高度に高め、軍事力を可能な限り強化させる藪蛇行為となる。国家神道で団結する戦前のような靖国体制はむろん世界の国々も受け入れないので、結局日本は孤立化し、とりわけ熾烈な太平洋戦争で多くの血を流してやっとそれを打ち倒した米国は、戦後レジームを否定する行為だとしていずれ反発するしかない。

現在は東アジアのどこでもいつでも皇軍を繰り出して制圧できた「日本アジア一強時代」ではない。軍事超大国の米国でさえどの国に対しても軍事力で自由にならない時代なのだ。しかも日本と敵対するアジア諸国の軍事力・経済力もかなり強化された。政治面・経済面におけるさまざまな指標でこれらの国々が日本を凌駕する現象も数多く見られ始めている。

なかでも人類の未来を支配するとされるAIについて日本は(2019年現在)この数年ですっかり周回遅れの後進国になった。確実に進行していく少子高齢化と年々膨れ上がっていく膨大な国家債務のために展望は暗澹として開けず、絶対多数の国民の間からはやる気も上昇志向性も消滅した。

日本財団の2019年度の「18歳意識調査」における「自分の国の将来について」のテーマでは、日本は「良くなる」が二桁台に至らず断然最下位の9.6%、「悪くなる」が37.9%。このように日本の将来を担う若者たちの意識も驚くほど萎えている。先の敗戦で神風信仰もすっかり崩壊しているので、国民に突貫も玉砕も特攻も強制できず、日本国民も最後まで付いていくことはない。

このように戦前体制を再構築しても、結局たかだかぎりぎりの自国防衛行動しかできないが、非科学的ナンセンスの古代神話や偽史に自ら毒され、年々強大になっていく敵国民の敵意を煽り、世界で孤立し、米国という強力な同盟国さえ失うことで、自国防衛どころかむしろ自国を亡ぼすことになってしまう。



日本人の「曖昧」「無責任」「罪の倫理の希薄」がもたらす軍事的欠陥(曖昧な作戦計画・兵站無視・情報軽視・命令の無意味で死屍累々の機械的反復実行などなど)による損害は、彼我の力の差が大きかった「日本アジア一強時代」では、アジア諸国に対するその圧倒的な力のゆえにそれほど表に出なかった。むしろ「傍若無人」「独断専行」などその無謀さや暴走力が局面打開をもたらすこともあった。

だが強力な敵が現れて強く抵抗し反撃を開始すると、つまりアジア太平洋戦争のように窮すると、神道文化に人間愛や人類愛の観念が欠けているため、独断開戦・無謀突貫・竹槍応戦・桜花玉砕・神風特攻などなどの姿で表に出てくる。いつものように「大和魂」が声高に叫ばれて科学的判断が押しつぶされる。しっかりした反対や建議も「お前らはそれでも日本人か!」の一喝で吹き飛んでしまう。

この「大和魂」や「それでも日本人か!」の背後には、むろん記紀の神代紀由来の「現人神」なる天皇がいる。そうした記紀神話によって、窮すると日本人の戦争営為は全て非科学的な神頼みとなる。



かつての天皇制軍国主義日本は軍(国家)と神社(神道)が一体化した「軍事神道国家」であったため、絶えず神道からの(他者を大切にせず人間の命を大事に思わない)「曖昧」「無責任」「罪の倫理の希薄」を呼び込む「神風信仰」が介入する。

「適当な作戦でも多少の犠牲があれば神風が吹くから大丈夫」という多くの兵士の犠牲を折込み済みの神頼みが陰に陽にいつも働いて曖昧無責任に開戦し、ノモンハン・インパール、ガダルカナル・サイパン・硫黄島・バシー海峡などなどにおけるように、結局、自軍の兵士を(人間でなくあたかも銃弾や弾受けや使い捨ての備品であるかの如く)湯水のように犠牲にする全く同じ悲惨な過ちを繰り返すことになる。

軍歌の「海行かば」(海行かば 水漬く屍 山行かば 草生す屍 大君の 辺りにこそ死なめ かへり見は せじ)のように、人間が藻屑や野草のように死に果てるのを天皇制軍国主義の神道文化は何とも思わないばかりか、美化し賞賛し奨励さえする。これでは日本国民は助からない。

しかし先の敗戦で突貫や特攻や玉砕などの無意味さをはっきり日本国民は体験し学習できているので、もはやこうした極端な精神主義は決して繰り返されることはない。神風信仰は崩壊して存在しない。皇軍不敗神話も同じである。神話は一度崩れると活力を失い永遠に無力になる。神話の核である「絶対性」のメッキが剥がれ落ちてしまうからだ。

絶対的なものは絶対であることで一度でも崩れると永遠に相対化する。一度完敗した戦前体制は頑張りが効かず、その再建過程や苛烈な戦闘の途中で、たやすく中折れしてしまうことになる。むろん日本人の誰も、百済人の子孫と判明した(天孫でも万世一系でもない)天皇のために藻屑や屍にされたくない。「軍事神道国家」への道に未来はない。皆を破滅させ不幸にするだけである。

とはいえ「曖昧」「無責任」「罪の倫理の希薄」な日本人は、事態がなし崩し的に大変なことになろうとする今の状況についても、「曖昧」「無責任」に放置することだろう。この事態がどこで止まるかは知りようもないが、結局、環境の許す限り、行くところまで行ってしまうかもしれない。



極東アジアに数々の災厄をもたらしてきた日本人の「曖昧」「無責任」「罪の倫理の希薄」。これはこのままではさらに永く続くであろう。むろんグローバル時代の中で世界はどんどん狭くなり海峡は大河のように細くなって、異質文化や異言語文化の相互浸透が繰り返され深まるにつれ、日本人も変化していくに違いない。だが、日本人の内実から「曖昧」「無責任」「罪の倫理の希薄」が大挙して抜け出てゆくには、まだまだ多くの時間と時代が必要と思われる。

とはいえ一部の先駆的な日本人は(例えば上田正昭氏や林えいだい氏や水野直樹氏などのように)事柄の本質に気づいていて、アジア諸国とりわけ朝鮮と中国に為してきた侵略・戦争の一方的な犯罪行為に深く深く頭を垂れている。私はここに極東アジアの希望を見たい。

全くの夢物語ではあるが、個人的には、今に続く明治維新以来の好戦的侵略的な(王政復古の)「近代型豊臣系体制」の日本から、平和愛好的な(王政復古以前の)「現代型徳川系体制」(すなわち天皇は日本国太祖の天智天皇が百済王子だったことを明らかにし、かつ京都に居住して一切国事に関わらず、さらに東京で国政を担当する大統領が任期ごとに国民の直接投票によって選ばれる制度)の日本に変わってほしいと願っている。

日本のためにも朝鮮のためにも、アジアのためにも世界のためにも、これが一番で最善と思う。天皇の言葉によって全ての日本国民が「日本の王朝も国民の半ばも古代朝鮮民族から出た」と知ることは、日本と朝鮮(南北)の間に、根本的な和解と真の友情と永久の信愛をもたらすことだろう。