中東和平とダビデ

by Futaro


 アメリカのトランプ大統領がエルサレムをイスラエルの首都と認め、大使館を移転すると発表するや、アラブ諸国のみならず、イギリス、フランス、イタリアといった国々からも、 非難の声が上がっています。
イスラエルはアラブの除く、160カ国近くの国々に承認されているれっきとした独立国であり、その国がどの都市を首都と決めようが他国があれこれという筋合いではなはずですが、事、中東においてはそうはいかないのが現実のようです。
イスラエルが単独で首都を決められないのは、エルサレムが東エルサレムと西エルサレムに分断され、それぞれイスラム教(パレスチナ人)、ユダヤ教徒(ユダヤ人)が住み、お互いにいがみ合っているからです。
このいがみ合いの原因というのが、今一つ、日本人には理解できません。何故なら、一つの解決策ーたとえばオスロ合意ーをすれば、必ず、それに敵対する者がでてくるからです。
1995年11月4日、テルアビブの平和集会に出席したラビン首相が、和平反対派のユダヤ人青年に暗殺された事件は、この問題の根の深さを痛感させる事件でした。
この中東和平が実現すれば、ノーベル賞ものと、言われ続けているくらい、複雑かつ困難な問題ではありますが、クリスチャンであれば、聖書の中に必ずや、その解決策が隠されていると見るべきです。
聖書の中に解決策があると、簡単に言っても、具体的にどこを捜せば、その答えがあるのでしょうか。
 私は聖書画を描くうちに、ダビデこそ、そのヒントを我々に与えてくれる人物だと思いました。
聖書画のN036のベツレヘムの会見で、身重になったマリヤの許嫁ヨセフが、神の声に聞き従い、マリヤの夫となったのも、彼の家系がダビデの直系だった故です。
ダビデが彼の部下であるウリヤの妻であるバテ、シェバを寝取った罪の贖い故、ヨセフは敢て、自分とはまったく関係のない神の子イエスを身ごもったマリヤを、正式な妻として迎えたのです。
つまり、神はダビデをもちいて、ご自身の独り子の誕生にとって、欠かすことのできない養父の役目をヨセフに与えた訳です。
ヨセフも、ダビデの一件を知らなければ、こんな理不尽な神の要求には応じなかったことでしょう。
つまりヨセフの献身的な愛がなければ、この結婚が成立しなかったし、その筋書きをつくられたのは神であったということです。
 さて、前置きが長くなりましたが、この件と、先に申した、パレスチナとイスラエルの和平問題は、やがて来るキリストの再臨の印であり、それとダビデがどう関係してくるのか、聖書を基に順を追って説明してみたいと思います。
まず、順序として、中東和平がキリストの再臨のしるしについては、エゼキエル書38章8節にこうあります。
多くの日が過ぎて、あなたは命令を受け、終りの年に、一つの国に侵入する。その国は剣の災害から立ち直り、その民は多くの国々の中から集められ、久しく廃墟であったイスラエルの山々に住んでいる。その民は国々の民の中から連れ出され、彼らはみな安心して住んでいる。
さらに、14節に、それゆえ、人の子よ、預言してゴグに言え。神である主はこう仰せられる。わたしの民イスラエルが安心して住んでいるとき、実に、その日、あなたは奮い立つのだ。
イスラエル人が安心して住んでいるとき、とあるので、なんらかの和平交渉が行われた後とみることができます。
その後の記述はヨハネの黙示録と同様なことが書かれています。
また、再臨を語る時必ず引用されるダニエル書9章27節に、彼は一週の間、多くの者と堅い契約を結び、とあり、これも和平締結と見ることができます。
つまり、聖書はパレスチナに一時的な和平が訪れると預言しています。
次に、これとダビデがどう関係しているか見て行きたいとおもいます。
 パレスチナ問題は聖書的に考えれば、神の民であるイスラエル人とそれに反抗するサタンの民であるペリシテ人の戦いがその根底にあると言えます。
遙か三千年以上前の出来事が今だに、世界の注目を集めているということに、改めて聖書の普遍性を見る思いがします。
まず、ペリシテ人との闘いで、初めて若きダビデが神に登用されたことは、サムエル記17章にこう書かれています。
32節、ダビデはサウルに言った。「あの男のために、だれも気を落としてはなりません。このしもべが行って、あのペリシテ人と戦いましょう。」
サウルとはイスラエルの初代の王であり、あの男とはそのサウルが戦っているペリシテの勇士で身の丈が286センチもある巨人ゴリアテです。
このゴリアテをダビデは羊飼いが使う投石器のたった一投で倒したことで、サウルに登用されます。
しかし、好事魔多し。18章7節で、女たちは、笑いながら、くりかえしてこう歌った。
「サウルは千を打ち、
ダビデは万を打った。」
8節、サウルはこのことばを聞いて、非常に怒り、不満に思っていった。「ダビデには万を当て、私には千を当てた。彼にないのは王位だけだ。」
9節、その日以来、サウルはダビデを疑いの目で見るようになった。
その後、神の恩寵をも失ったサウルは狂ったようにダビデに敵対心を抱くようになります。
しかし、軍人としての彼はダビデの才能を見抜き、彼を千人隊長に抜擢します。
その後もダビデは戦果を上げ続け、とうとうサウルは彼の娘ミカルを妻としてダビデに与えます。
これには、軍人としてのダビデを利用したいというサウルの下心があってのことで、彼をペリシテ人との闘いに仕向けて彼を戦死させようとします。
しかし、神と共にいるいるダビデはここでも勝続け、サウルが心配した通りになります。
29節に、それでサウルは、ますますダビデを恐れた。サウルはいつまでもダビデの敵となった。
30節、ペリシテ人の首長たちが出てくるときは、そのたびごとに、ダビデはサウルの家来たちのすべてにまさる戦果を挙げた。それで彼の名は非常に尊ばれた。
ところが、これを機にダビデの果てしのない逃亡劇が始まります。
19章1節に、サウルは、ダビデを殺すことを、息子ヨナタンや家来の全部に告げた。しかし、サウルの子ヨナタンはダビデを非常に愛していた。
この逃亡劇は同時にダビデとヨナタンの友情のドラマでもあります。また、妻のミカルもダビデを助けるあたり、ダビデの持つ人を魅了せずにはいられない不思議な賜物を感じることができます。
この時、イスラエルの王であるサウルもまた宿敵ペリシテ人との闘いに明け暮れていました。
ここからが、このテーマの本筋になります。
サウルから執拗に命の狙われたダビデはユダの荒野を逃げ惑います。それでも、時には600人余りの遊牧民が民兵となってダビデと行動を共にするわけですから、この辺りからダビデが王としての度量を着々とつけていくことになります。
しかし、一時は万策つきて、祭司のところに助けを求めることもありました。21章3節にこうあります。「ところで、今、お手元に何かあったら、五つのパンでも、何か、あるものを私に下さい。」
4節、祭司はダビデに答えて言った。「普通のパンはてもとにありません。ですが、もし若い者たちが女から遠ざかっているなら、聖別されたパンがあります。」
ダビデはそれをもらって帰りました。本来なら聖別されたパンはたべられないのですから、よほど困っていたし、祭司も見るに見かねたのでしょう。
この挿話は、後にマタイの福音書12章3節のこう書かれています。
しかし、イエスは言われた。「ダビデとその連れの者たちが、ひもじかったときに、ダビデが何をしたか、読まなかったのですか。
4節、神の家に入って、祭司のほかは自分も共の者たちも食べてはならない供えのパンを食べました。」
つまり、イエスはこのダビデの行動を良く知っていたのです。福音書には読まなかったのですか?と疑問符がついていますが、おそらく神であるイエスはこの有様を直接見ていたと私は思います。
さらに、10節にこうあります。
ダビデはその日、すぐにサウルからのがれ、ガテの王アキシェのところへ行った。
11節、するとアキシェの家来たちが、アキシェに言った。
「この人は、あの国の王ダビデではありませんか。皆が踊りながら、
サウルは千を打ち
ダビデは万を打った
と言って歌っていたのは、この人のことではありませんか。
サウルの部下であることがバレそうになったダビデは咄嗟に気ちがいのふりをしてその場をのがれます。
その後、ダビデは二度、サウルを打つ機会に巡り会いますがその都度、「主に油そそがれたものに危害は加えない。」と言って見逃します。
このダビデの主への忠誠とペリシテ人への無差別とも思われる殺戮が現代の我々の感覚では今一つ理解しがたいことです。
さて、結論を急ぎたいと思います。
27章1節にこうあります。
ダビデは心の中で言った。「私はいつか、いまに、サウルの手によって滅ぼされるだろう。べりシテ人の地に逃れるよりほかに道はない。」
そこで、ダビデは600人の仲間をつれて再び、ガテの王アキシェの所へ行きます。
ダビデとしては、決死の覚悟で行った訳ですが、その前に、ダビデとサウルはジフの荒野で敵対していたので、それがアキシェの耳に入っていたのでしょう。
前回とは打って変わって、3節ではいとも簡単に、ダビデとその部下たちは、それぞれ自分の家族とともに、ガテでアキシェのもとに住み着いた。とあります。
サウルもこのことが分かると二度とダビデを追わなかった、と急転直下、ダビデのペリシテ行きは成功に終わります。
一見、不可解ですが、戦国時代の武将の生き方を見ると、明日どうなるやもしれぬ戦況の中で、敵の敵は味方、という解釈が成り立つと思います。
ガテの王アキシェにしてみれば、ユダの荒野を知り尽くしたダビデが味方につけば戦況は一気に有利になると見たのでしょう。
サウルが執拗にダビデの命をねらっていたという事実も部下から聞いていたことでしょう。何よりも600人というダビデの民兵は魅力です。
そして、この時も、サウルの子ヨナタンや、妻ミカルを魅了したダビデに人間としての魅力を、このアキシェは感じていたに違いありません。
私は中東和平の一つの雛型をこのダビデとガテの王アキシェに見ることが出来ると思います。
つまり、敵の敵は味方、という至って単純な方程式です。
これを現在の中東情勢に当てはめるとこういうことになります。
イスラエルとパレスチナは戦闘状態にありますが、かつてのカナンの地という同じ地域にいます。
もしここへ、彼らを脅かす共通の敵が現れたらどうでしょうか。
両国は狭い地域で接していますから、巨大な敵に攻撃されたら、まとまって対応せざるを得なくなります。
一時的な休戦、講和が必要となります。
エゼキエル書をみるかぎり、イスラエルを攻めるのはゴグとありますから、ゴグはロシアのことです。
38章18節にこうあります。
ゴグがイスラエルの地を攻めるその日、ー神である主の御告げーわたしは怒りを燃え上がらせる。
19節、ーその日には必ずイスラエルの地に大きな地震が起こる。
これが何故イエスの再臨の日となるのかは、黙示録11章15節にこうあります。
第七の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、天に大きな声々が起こって言った。
「この世の国は私たちの主およびそのキリストのものとなった。主は永遠に支配される。」
18節に、諸国の民は怒りました。しかし、あなたの御怒りの日が来ました。 19節に、〜また、いなずま、声、雷鳴、地震が起こり、大きな雹が降った。
ここに「わたしの怒り、地震」とエゼキエル書と合致する言葉があるので、この日が携挙の日と解釈できますし、何より、「この世の国は私たちの主およびそのキリストのものとなった。主は永遠に支配される。」の言葉はなんとも携挙の日にふさわしい気が私にはします。
第七のラッパが何故携挙になるかというと、10章7節にこうあります。
第七の御使いが吹き鳴らそうとしているラッパの音が響くその日には、神の奥義は、神がご自身のしもべである預言者たちに告げられた通りに成就する。」
とあり、この項目は、第一テサロニケ4章16節に、
主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下ってこられます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、
17節、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。
とありますから、この第七のラッパが携挙の合図と考えられます。
携挙とはキリストを信じる者が一人として滅びることのないように、神が特別の計らいで天に引き上げてくれることです。
そのための条件とは、絶対的な神への忠誠です。神はこのご自身への忠誠のアイコンとしてダビデを用いているように、私には思えます。
黙示録3章では、携挙の条件にあてはまる教会として、7節にフィラデルフィアの教会を示してこう言っています。
「聖なる方、真実な方、ダビデのかぎをもっている方、彼が開くとだれも閉じる者がなく、彼が閉じると誰も開く者がない、その方がこう言われる。
(中略)なぜなら、あなたにはすこしばかり力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである。」
この、頑固ともいえるほどの神への忠誠を示した人物はダビデの他誰もいません。わずかばかりの力、というのも、ダビデの謙虚さを見事にいい当てていると思います。
神がダビデをいかに重用しているかは、7章3節に、「私たちが神のしもべたちの額に印を押してしまうまで、地にも海にも木にも害を与えてはいけない。」とあり、
最初の民がユダ部族で、最後はベニヤミンとなっています。
ここで、興味深いのは、神は北イスラエルの10部族を再び、この時において用いていることです。あくまで、選民としてのユダヤ人に手厚い神の御心を感じます。
現代のパレスチナ紛争は、あきらかに、イスラエルが1948年に建国されてから、人為的に造られたものです。
建国当時の出版物には、パレスチナ人という言葉はなく、すべてアラブ人であったと、言われています。
また、建国当時、パレスチナと呼ばれた地域は上記のように、ダビデの時代のペリシテ人からきているものですが、現在住んでいるアラブ人は彼らの子孫ではありません。
建国当時のパレスチナは、エゼキエル書38章8節に、その国は剣の災害から立ち直り、その民は多くの国々の民の中から集められ、久しく廃墟であったイスラエルの山々に住んでいる。
とあるとおり、殆どが不毛の荒野でした。
この事実は19世紀末、当時のガリラヤを旅行した、アメリカの作家マークトゥエンが、ガリラヤを三日探索したが、ほとんど人と会うことがなかったと書き記している程の荒野であったようです。
今でこそ世界宗教の三大聖地ともてはやされる、エルサレムも、イスラエル建国前は、さびれたただの都であったようです。
こう見ると、パレスチナ問題は、すべて、イスラエル建国後のことで、それが、聖書の預言の成就であることが、最大の争点とみて間違いないと私は思います。
ですから、その解決策も、聖書の中のみに見出せるのではないでしょうか。
2017年12月23日 ☆

ホームへ戻る