( 2001年12月31日 TANAKA1942b )
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新春初夢、30年後の日本経済(後)
江戸時代の先覚者に学び、封建制を捨てる農業
<教育の民営化が進む>
授業の内容も変わった。「学生は勉強すべきだし、授業についてこられない学生は中退してもらって結構」という理論は通らない。
先生の給料を出してくれる学生に向かって、そんなことは言えない。メーカーが「我が社の製品が気に入らないなら、買ってくれなくても結構」等とは言わない。自社製品を買ってくれたお客様は大切にして、これからもお得意さまであるように、知恵を絞る。神様はどの大学がいいか?どの先生が分かりやすく教えてくれるか?当然評価する。評価する神様は学生だけではない。
卒業生を受け入れる企業も採点評価する。その評価を報道するメディアも幾種類かでき、それぞれが売り上げを競っている。
英会話教室は懇切丁寧に教え、力をつけさす。教え方の悪い教室は不人気になり、生徒が減り、先生の給料が出せなくなる。大学も金を払ってくれる学生を大切にする。授業についていけない学生がいる、ということは教え方が悪いからであり、大学の恥だ、となってきた。
そうした傾向の現れの一つが、英会話教室の短大化だ。
通訳・同時通訳・翻訳の養成、それも政治・経済・文学・物理・科学など専門用語に堪能な卒業生を送り出している。また、大学受験予備校の中からも、新しい大学ができた。こちらは教え方が抜群にいい。
学生の評判が良くなれば教授の給料はドンドン上がる。名物教授を集め受験生の人気を集めようとする。大学の学生獲得競争が激しくなっているようだ。
入試とは成績のいい生徒を選ぶことだ、となっている。この常識に挑戦した大学が出た。成績の悪い、どこの大学にも入れないような生徒を受け入れる、と表明している。
教育を特殊なサービスと考えていると理解しにくい。「年若い未熟者を矯正して半人前、または一人前に治療する」と考えると医療と同じになる。日本ではできない治療も、アメリカでは高い費用を払えばできるものがある。
それと同じように「小・中・高と勉強をさぼっていた生徒をとことん面倒見て、大学卒として社会に出してそれほど恥ずかしくない人間に育てます。そのかわり費用はいっぱいかかります。」こんな大学も出てきた。
その兆候は20世紀後半からあった。いわゆる不登校生の面倒を見る学校だ。授業の進行についていけない生徒のための学校は昔からあったし、いじめなどで学校へ行きたがらない生徒のための教室もあった。
小・中・高生だけでなく、大学生用のがなかったのが不思議なくらいだ。高い入学金と授業料を取って「この大学はお金持ちのための大学です」というのもできた。
ただしこれには、嫉妬心とやっかみからいろいろ理由を付けて非難するグループもいる。
多くの常識人はそのグループを軽蔑の眼差しで見ながら、関わり合いになるのは面倒と、無視している。
大学受験には高校卒でなくても検定に合格すればいい。これは20世紀からそうだった。その検定を受けるのに年齢制限がなくなった。これが少し前のこと。これで年若い大学生がいっぱい出てきた。その検定試験が民営化されることになった。予備校がいくつか名乗りをあげている。
いずれこうした民営化の波は高等学校・中学・小学校と進んでいき、教育がサービス産業として多様化していく、そのきっかけになるだろう。
学級破壊・不登校・登校拒否・いじめ・授業についていけない、などは社会の責任ではなく学校・教師の責任だ、との当たり前のことが「当たり前」として通用するようになった。
それを社会のせいに責任逃れする学校・教師は生徒・父兄・上級学校から見放され、いずれ淘汰されて行くだろう。
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<先進国型産業へ変身する農業>
きっかけは農地の売買自由化だった。農地の売買が自由化されて、農家・農村・農業が変わり始めた。
農家の中には農地を売り、都会に出て行く人、観光地の近くに土地を買いペンションのオーナーになったり、職業選択の自由が広まった。農地を買った中に、農業学校を出たばかりの若者が中心になって、株式会社を作り、十分衣食足りた人がエンジェルとして、出資者になった例もある。
大手食品会社が買った土地もある。近所の農家が協同で株式会社を設立し、大手食品会社の関連会社として発足した例もある。
ハウス栽培で年間通して定価格での安定供給を目指す農業会社や、都市部近くで新鮮さを売り物にする農家など。あるいは低農薬をウリにしたり、消費者に「顔の見える生産者」として売り込んだりと、商売の仕方も多様化してきた。
<農地売買制限は豊臣秀吉的発想>
農地の売買が自由化されたのは、ある農村の若者が「農地の売買を制限するのは、豊臣秀吉的発想だ」と言い出したことによる。
豊臣秀吉は1591(天正19)年「身分統制令」をだして、近世身分制社会の基礎を築きあげた。この「身分統制令」というのは天正19年8月21日付でだされた法令で、全3ヶ条からなっている。
第1条では、奉公人・侍・中間・小者・あらし子など武家および武家奉公人が、百姓・町人になることを禁じ、第2条では農村にいる百姓が田畑を捨てて商人になることを禁じている。第3条は侍・小者をはじめとする奉公人が、その主人の許可なしに他の主人に仕えることを禁じたもので、主人の奉公人にたいする支配の絶対性を保障したものだ。
この若者の主張は「農地の売買に規制を多くして売りにくくするのは、農家をその土地から離れにくくすることになる。農民をその土地に縛り付けておくのは、豊臣秀吉や徳川家康の発想だ」とのことだった。さらに若者の主張は続く「江戸時代金を貸すのに3つのパターンがあった。(1)担保なしの大名貸し。
(2)担保をとっての町人貸し。(3)農地を担保に農民貸し。しかし(3)は農地を自由に売れないから、つまり担保価値が少ないので利子が高くなる。
これと同じことが21世紀の現代に起きている。農地が自由に売れないから、金融機関から担保価値として高く評価してもらえない。現代でも農民は土地に釘付けされている。秀吉・家康を喜ばす必要は全くない」と。
<松平定信の「出稼奉公制限令」と現代>
若者の主張に刺激されてある村の古老が似たことを言い出した。
「天明8年(1788)に老中松平定信が「出稼奉公制限令」を出した。これは農民は勝手に農村を離れるな、農民は農村で農業をやるべきだ。との考えだ」
「こういう考えが今でも残っている」「高度成長期、若者が都会へ働きに出たのは、産業資本が人件費の安い若者を農村部から引っ張って行ったからで、このため日本の農業がダメになったように言う」
「本当はわしらが若者の気持ちを理解して、魅力的な産業を育てられなかったからだ。」「わしら農村に骨を埋める者が、封建的な考えを捨てなきゃならんのだ。」
20世紀末、言論の自由は保障されていた。にもかかわらず政策担当者が「コメ自由化すべし」とは言えなかった。もしかしたら「田沼意次の時代」よりも不自由であったかも知れない。
<封建時代から一気に21世紀へ>
戦後日本経済は飛躍的な成長を遂げた。
これは目標を定め、「追いつき、追い越せ」を合い言葉に突き進んでいったからだ。つまり遅れていたからこそ、成長率が高かったのだ。農業が今その段階にある。他の産業に比べ近代化が遅れていた。
秀吉・家康・松平定信の発想が生きていたのだから。それだけにこれから解き放されると成長が早い。人材・知識・資本が都市部から投入される。
農村部に来る人・出ていく人、動きが激しくなる。生き生きしてきた。何か新しい可能性が生まれそうだ。多くの人がそう感じ始めた。その「期待」が人々の心を動かしている。
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<それでも現代に生かせる江戸先覚者の知恵>
農業の近代化が図られているのだが、その過程で江戸時代の知恵者の考えが見直されている。それは海保清陵・山片蟠桃・本多利明だ。
海保清陵1755-1817(宝暦5-文化14)主著「稽古談」「天王談」「万屋談」「論民談」「升小談」「海保青陵平書並或問」。旅学者。
「東海道を往来にては十ぺん通れり。木曽を二へん、北陸道を一ぺん通れり。滞りてあそべるところは三、四十ヶ所。山に登りて見たること大小数百なり」という旅学者。
青陵の経済観はこうだ。「一国(藩)が収入以上に消費すれば借金が多くなる。といって津留め(藩外貿易禁止)をすれば、大きな藩は一応はやっていけるが、いかに働いても買う物が限定されるから、民は働かずに怠惰になる。
では出津(輸出)するが入津(輸入)を禁ずれば、物価が高くなるから民はみな他国へ出て金を使うようになる。」だから自由貿易(出津・入津の自由)をせよ、と言う。
また「士大夫は江戸にては、やはり民を勧むる仕方にて、働く者は多く金を取り、働かぬものは少のう金を取る。理に合わせる仕方なり。民は手足を働かせ、士大夫は智を働かする違いはありても、働きて金を多く取るは同じことなり」つまり「同一労働、同一賃金」との考えではない。
青陵は1805-1806(文化2-文化3)、加賀藩に滞在し、講演・執筆などで精力的に活動した。その青陵が加賀藩での経験を元に藩の財政改革について言っていることを見てみよう。
青陵が言うには「藩内の高く売れるコメを大阪堂島で売り(大阪登米)、安いコメを他藩から買う(入津)」豊作のとき大阪で白米一石が銀52-53匁、悪米で銀40匁。加賀藩での白米を堂島で売り、悪米を買ってくれば、藩の財政再建になる。
凶作になると 230匁にもなるので、いち早く豊作の地から40匁ぐらいで仕入れ、大阪へ 230匁で売ればいい、と言う。それには輸出入(出津・入津)を禁止する藩内自給自足意識が災いしている、と見る。青陵はコメを商品、コメ作りを産業と考えていた。
コメ作りを産業と考えると、コメよりも高く売れるなら、それを売り物にしてもいい、となる。他藩の例として、多葉粉(煙草)・菜種・松茸・青物などをあげている。農本主義の誤りを指摘し、重商主義を主張している。
山片蟠桃1748-1821(寛延1-文化4)主著「夢の代」。升屋の番頭で、コメの仲買商から大名貸へ発展させた。
大阪堂島の米会所(帳合取引所)を高く評価し、全国的に会所をつくり、日本をおおう流通網を作るべきだと考えた。これさえ整備されていれば「どこどこが飢饉らしい」という情報だけでそこへコメが集まる。
堂島の米会所が情報でどう動くかを記している。さらに蟠桃は「浮き米」がそのまま備蓄になると説いた。
単なる備蓄は「財の死蔵」であり、民の負担になる。しかし会所で米切手の売買が行われると、資金の必要な者は米切手を現金化する。余裕ある者はこれを購入する。
現物のコメを動かさず売買できるから資金かが可能である。それが「浮き米」でいざというときの「備蓄」になると同時に「米切手」という形で資金として活用できる。全国的に会所をつくれば、天明の大飢饉のときの南部・津軽両藩のような小判を持ちながら餓死するといった状態は起こらないと言っている。
大阪堂島の米会所の機能を通して論じた「市場経済論」はアダム・スミスを思わすアジアの先駆的な発想である。(山本七平)
本多利明1743-1820(寛保3-文化3)主著「経世秘策」「西域物語」「経済方言」。江戸の数学塾の塾長。天明の大飢饉は「人災」と見た。「日本は南西の隅から北東の隅へ,凡十度余り、里程五、六百里の細長い国なので、ひでりがあっても国中ということはない。
豊作の国から凶作の国へ渡海・運送・交易すれば、万民の飢えと寒さを救える」利明は流通経路確保のため火薬を使って、道路を開き港を作れと言っている。それには各藩の自己防衛的・自給自足的な戦国の遺制が邪魔している、と主張する。
利明が活躍したのは田沼意次の時代で、意次のブレーンであったらしい。平賀源内と田沼屋敷で蝦夷開発・西洋文化・鎖国から開国へ、などを論じ楽しんでいたのだろう。しかし意次失脚・定信の登場以後は、「市中の隠」として沈黙し専ら弟子の養成につとめた。
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<熟年が盛り場を闊歩する>
あれから30年。年代構成が変わり、熟年層が多くなった。しかしいつまでも現役である熟年が多くなった。インターネットの普及で、自宅でできる仕事が多くなった。熟年・主婦がマイペースで活用している。
リタイアして自然豊かな地方へ引っ越す人もいるが、むしろ「都会の喧噪のなかで常に新鮮な刺激が欲しい」と言う熟年が多くなった。渋谷・銀座・六本木などを90才の熟年夫婦が闊歩している。
かつて「いずれ日本は年寄り社会になり、衰退していく」との悲観的な見方もあったが、あれは取り越し苦労であった。今日本は若者も・中年も・年寄りも、それぞれのペースで働いている。老・中・青のバランスが取れている。
日本の社会、これを経済学すれば、30年前に人々が予想していたより健全な社会のようだ。20世紀末から痛みを伴いながら進めた、「構造改革」の成果が出始めた。これからもときに応じて、構造改革は進められるだろう。
日本の社会が変化に強い「柔構造」になりつつあるのは確かなようだ。こうした国民の自信に支えられて、日本の社会は今明るく輝いている。
( 2002年1月7日 TANAKA1942b ) ▲top
▲ 趣味の経済学 Index
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趣味の経済学 Index
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FX、合法のみ行為であることを隠す人たち
金融庁・日経新聞・産経新聞・ダイヤモンド社他
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2%インフレ目標政策失敗への途
量的緩和政策は ひびの入った骨董品
(2013年5月8日)
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