国立銀行という私立銀行が153も設立された
この時代のキーマンは渋沢栄一
 明治政府がとった金融政策、試行錯誤が続く。今週は、貨幣を発行することができる「国立銀行」と呼ばれた「民間銀行」を扱う。 今週も多くの銀行の「自分史」である「○○銀行○○年史」から興味を引く文章を引用することにしよう。
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<第一国立銀行操業==渋沢栄一総監役に就任> 明治維新はわが国の近代国家としてのスタートであった。維新政府は、近代国家としての体制をととのえ、西欧先進国に追いつくために、いろいろな政策を早急に実行しなければならなかった。
 国民経済の面においては、まず健全通貨制度と近代銀行制度の確立、殖産興業政策の遂行、株式会社企業の育成ということがその最も重要な、しかも急を要する課題と考えられていた。
 その1つの柱として政府は明治5年11月に、国立銀行条例を公布し、国立銀行(「ナショナル・バンク」の直訳)を興し、これを経済政策の中核としようとした。
 国立銀行条例はさしあたって2つの目的を持っていた。第1は当然のことながら商工業金融の振興であり、第2は明治新政府が歳入を補うため発行した政府発行紙幣の銷却であった。 同条例の目指すところの二重性を端的に反映して、国立銀行は銀行業務とともに、銀行紙幣の発行、官金出納取扱、政府の命令による公債の買入、引換などの特殊な業務を兼営することとなった。 この国立銀行の最初の模範として、政府が積極的に設立をすすめ、そして誕生したのが第一国立銀行であり、その経営の最高責任者は、さきに大蔵省官吏として国立銀行条例の立案者でもあった渋沢栄一であった。
 第一国立銀行の資本金の大半は旧幕時代からの両替商の重鎮として力のあった三井組、小野組の両家から出資された関係で、本来ならばこの両者が経営にあたるべきであったが、政府はこの両家の融和協力は難しいと判断し、所期の国策を遂行させるために、2人の頭取の上に、実質的に主宰していく人をおく必要があるとして、総監役という名で渋沢栄一を置くことにした。 かくして第一国立銀行は明治6年6月11日に東京海運橋兜町の本店において創立総会を開き、同年7月20日、本店および横浜、大阪、神戸の3支店がいっせいに開業した。
 貨幣の単位を両から円にかえたのは明治4年であった。それから2年後、はやくも「流通の枢軸、富殖の根底」(渋沢栄一『第一国立銀行開業祝詞』から)となるべき銀行が設立されたわけで、そのスピーディーなことな驚くばかりである。
 こうして第一国立銀行は設立されたが、その業務は初めから順調にすべり出したわけではなく、先駆者として種々の困難に遭遇しなければならなかった。
 たとえば健全通貨制度の確立ということを国立銀行の使命の1つとし、銀行に金兌換紙幣を発行させ、これによりかつて政府が発行した不兌換紙幣を銷却しようとしたのであるが、すでにかなりの額の不兌換紙幣が発行せれていたばかりでなく、輸入の増加や、海外の金価格の騰貴などによって、紙幣と金(キン)との値打ちの開きが次第に拡大した。 このため銀行紙幣は発行すれがすぐ兌換さを要求されるという状態になり、創立1ヶ年後の明治7年6月以後は、銀行紙幣を発行することが、事実上できなくなってしまった。 (『第一銀行小史』から)
<第一国立銀行 半期実際報告表> 単位千円 
期・年 紙幣流通高 預金 貸付 公債証書 純益 配当金
1/6下 752 9,113 3,250 1,400 93 2.25
2/7上 1,002 9,982 2,373 2,354 130 4.37
3/7下 460 5,949 3,111 2,337 102 4.09
4/8上 190 5,400 1,925 2,282 108 4.19
5/8下 779 4,756 1,787 2,408 138 5.75
6/9上 883 4,556 1,856 2,792 113 5.75
7/9下 1,197 2,515 2,909 1,346 152 7
8/10上 1,184 2,561 2,709 1,618 144 7
9/10下 1,185 3,109 2,693 1,453 148 7
10/11上 1,131 5,508 3,076 1,830 168 7
11/11下 1,195 5,216 4,802 1,370 168 8
12/12上 1,192 4,064 3,909 1,651 181 8
13/12下 1,196 5,193 4,992 1,531 204 8
14/13上 1,196 3,606 3,784 1,636 182 8
15/13下 1,198 3,279 3,356 1,593 195 8
16/14上 1,195 3,650 3,666 1,607 202 8
17/14下 1,196 4,446 4,661 1,582 237 9
18/15上 1,196 3,301 3,366 1,685 204 9
19/15下 1,190 3,942 3,538 1,739 186 9
20/16上 1,200 3,697 3,679 1,890 163 9
(『第一銀行小史』から)
<国立銀行条例の公布> 明治4年末に大蔵省内に銀行条例編纂掛が設けられ、紙幣頭渋沢栄一、同権頭芳川顕正らによって検討がはじまり、5年6月には草案が完成された。 こうして同年11月に「国立銀行条例」が公布され、ついで翌6年3月にな「金札引換公債証書発行条例」の公布となった。
 国立銀行条例は前文28条、161節から成り、その内容は銀行規範の最初のものであったため、世人一般に理解を深めさせるべく、法規条項的な条文に加え、事務取扱要綱的記述も多く、懇切丁寧なものであった。 同条例の要旨は、次ぎのようなものである。
@ 元金(資本金)
 人口10万人以上の都市……………………50万円以上
 人口10万人未満1万人以上の地…………20万円以上
 人口1万人未満3,000人以上の地……  5万円以上
A 紙幣の発行
 A 資本金の10分の6を政府紙幣をもって大蔵省へ上納し、同額の公債証書を受け取る。
 B この公債証書を抵当に同額の銀行紙幣を紙幣寮より受取ってこれを発行する。
 C 資本金の10分の4は、本位貨幣(金貨)をもって兌換準備とする。この準備は、つねに発行紙幣の3分の2を下ってはならない。
B 銀行の業務
 A 為替・両替・預り金・貸出・証券および貨幣地金の売買等を本務とする。
 B 預り金の2割5分は、支払準備金ろしてつねに手許に積立おく。
 C 大蔵卿の命令により国庫金の取扱いを行う。
 このように国立銀行の業務は、今日の普通銀行業務とほぼ同一であるが、兌換銀行券発行の特権が与えられ、さらに官金取扱いが現在以上に重要な業務であるなど、中央銀行的なな性格をも持ち合わせている。 これは国立銀行を語るうえできわめて特徴的な点である。
 「国立銀行条例」の立案者である渋沢栄一は、国立銀行の仕組みを次ぎのように述べている。
 「例えば百万円の銀行をたてるには六十万円の司負紙幣を大蔵省に差し出し、金札引換公債証書を受け取り、他の四十万円は之を金貨として交換の準備に充て、前の金札引換公債証書を再び政府へ納めて、政府より六十万円の銀行紙幣を受け取り、之を其銀行の融通資本とし、 而して其紙幣を所有する人より正金の交換を望なるる時は、前に述べたる準備金を以て之を交換し、其準備金は常に発行紙幣の3分の2を下らざる高を存する制であった。 故に此銀行紙幣にて、試みに年1割の利を得るも、其高六万円なり、又金札引換公債証書にて三万六千円の利息を得て、合計金九万六千円となるにつき、即ち百万円に対して年九歩六厘の利益となるの計算にして、之に其銀行の諸預かり金、又は為替割引等より生ずる利益もあれべ、相当の営業となるべしとの想像であった」 (山梨中央銀行『創業百年史』から)
<正貨兌換の行き詰まり==国立銀行条例の改正> 国立銀行条例は銀行紙幣が正貨と兌換されることを建前としていた。しかし、明治7年ごろから政府紙幣と正貨との間に値打ちの開きを生じたために、政府は同条例にもとづく多くの国立銀行が設立されることを期待したにもかかわらず、条例のしたに設立された国立銀行は第1、第2、第4、第5のわずか4行に過ぎず、その発行」紙幣下付高も142万円にとどまり、1500万円の銀行紙幣を製造、準備していた政府の計画と大きく食い違ったのである。
 明治5,6年ころ、正貨との兌換が明治されていない不兌換政府紙幣の流通高はすでにかなりの巨額に達していたけれども、正貨と紙幣の値打ちが変わらなかったので、条例の趣旨と食い違うような事態がこようとは考え及ばなかった。 ところが、明治7年にいたり様子は一変した。第1に政府紙幣増発の弊害が現れ始めた。第2に輸入の増大により正貨の流出が甚しくこれが紙幣の値打ちの下落に影響した。 第3に世界的な金価格の騰貴が紙幣の値打ちを引き下げた。これらの結果、明治8年6月になって金貨は政府紙幣に対し千円につき17,8円の打歩、つまりプレミアムがついた。
 このような情勢において、国立銀行が条例にしたがい、自行発行の紙幣を顧客の要求のまませいかに替えていけば、金準備がやがて底をつく。そればかりではない。銀行紙幣が長く市場に流通する目的そのものが果たせなくなる。 また各銀行は正貨との交換の多いところほど大きな損失をこうむることになるから、本来ならば流通させるべき紙幣を、空しく金庫の中に積んでおくという状態であった。
 開業して日が浅く確実な預金者や貸付先を見出すことがなかなか困難であり、また民間人の預金額も少なかったので、発行紙幣の流通が不円滑とあっては、その営業は困難をまぬかれない。 資本金の10分の6を公債証書に換え、公債について政府から年6分の利子を受けるだけであるから、発行紙幣を流通させることができなければ、運転資金は、わずかな預金と資本金の10分の4に当たる金額だけにとどまり、年1割の利益をおさめることが望みがたかった。
 やむを得ず4つの国立銀行は連盟で、正貨兌換の制度を改めて、政府紙幣をもって兌換に当てるべきことを申請した。しかしこれは条例に反するから、条例を改正しない限り実行することはできない。 だからといって、政府として国立銀行の困難を放置することもできない関係上、救済策として、8年、9年の両年にわたり、同額の銀行紙幣を抵当にとって、国庫の準備金のうちから政府紙幣を貸し下げ、一時の急を救った。 (『第一銀行小史』から)
<第一国立銀行の紙幣> 国立銀行で発行された紙幣は、政府が国立銀行条例の公布に先だって、明治4年9月アメリカのコンチネンタル・バンクノート社に発注して作らせたもので、券種は20円、10円、5円、2円、1円の5種類。 図柄は日本から送られたものによったが、版下を書いた人はアメリカ人の図工だったので、なんとなくバタくさい監事の奇妙な画になった。 大きさはいずれも縦8センチ、横19センチと今のどる紙幣のように同じ寸法。色もまたみな表が墨色、裏は緑色だから、ガス灯やランプの光で見た当時の人々はさぞ見分け難かったであろう。
 なお大蔵卿印、出納頭印、記録頭印、国立銀行印、大蔵省記番号(アルファベッドとアラビア数字)、国立銀行記番号(十二支と漢数字)などを紙幣寮で印刷押印、頭取および支配人の記名押印は発券銀行で行った。 (『第一銀行小史』から)
<株式会社第一銀行への改組> 第一国立銀行は明治6年6月創立以来23年3カ月余の年月を経て同29年9月をもって営業満期となった。 その満期以前において発行紙幣銷却の義務を果たし、営業満期銀行処分法の規定に従って、東京府知事を経て大蔵大臣に出願し、29年6月26日をもって満期後「私立銀行」として営業継続の認可を得た。 そして同年9月26日から株式会社第一銀行と称し、第一国立銀行の権利義務中消滅したもの以外の一切を継承し、国立銀行時代最後に225万円であった資本金を倍額増資して資本金450万円をもって営業を開始した。 営業開始時の支店は、大阪、神戸、横浜、京都、新潟、名古屋、四日市、釜山、仁川の9ヶ店であった。 (『第一銀行小史』から)
<金本位制の確立> 明治30年3月29日貨幣法が公布され、金本位制が確立した。もともと明治4年両から円に変わるときの新貨条例は金本位制をとったのであるが、1円銀貨をも造ったために、事実上は金銀複本位制だった。 それがたまたま世界の銀価の下落時に当たり、金貨の海外流出を引き起こし、政府は明治11年5月貨幣条例(さきの新貨条例を改称)を改正して金銀復本位制とし、1円銀貨の国内無制限通用を許した。 (『第一銀行小史』から)
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<国立銀行の設立と発展> 明治維新政府は成立後、版籍奉還、廃藩置県、秩禄処分など封建的諸制度をつぎつぎに廃止し、統一国家の建設を急速に推し進めてゆく。 そして、先進列強諸国の重圧に対抗してゆむために、あらゆる面で西欧の進んだ諸制度をできるだけ早く導入し、近代化をはかる政策が採られてくる。 すなわち、文明開化であり、殖産興業であり、富国強兵策等々である。金融面も同様である。幕末以来、幕府の貨幣改悪や、洋銀の流入、藩札の濫発などにより通貨制度は混乱し、インフレは進行していたのであるが、維新後も政府の不換紙幣の濫発などによって乱れは続いた。 この混乱した通貨制度を統一し、あわせて殖産興業の資金を供給するために、先進国の銀行制度の導入がはかられるのである。 そして、アメリカの銀行制度を視察してきた伊藤博文の建白にもとづき、ナショナル・バンク制度を範として制定されたのが明治5年の国立銀行条例である。 第1、,第2、第4、第5国立銀行の4行が政府の指導のものに設立された。
 国立銀行は資金源として銀行券発行の特権が認められていた。しかし、それは金貨兌換の義務を負っていたため、当時のインフレでは、銀行券の発行は当然少額に留まらざるを得ず、国立銀行の経営は困難を極めた。 このような銀行の窮状と、秩禄処分によって公債所有者となった旧武士階級の窮乏化を救済しようとして行われたのが、明治9年(1976)の国立銀行条例の改正である。 改正の要点は、公債を資本として銀行を設立することを認めたことと、兌換の廃止である。この改正で銀行の設立が容易になり、また、政府、地方行政官の積極的指導が行われたこともあり、さらに、西南戦争で資金需要が増大したことなどによって、明治10年代の初めには国立銀行の設立ブームがおこり、 12年末には153行に達した(政府はここで国立銀行の設立を打ち切ったので、その後は私立銀行、銀行類似会社の設立となる)。
 この時期に設立された国立銀行の中には、いろいろ性格を異にする銀行が含まれており、たとえば、すでに商業活動の活発化していた地方では、商業金融の必要から銀行が設立され、また城下町では、士族結社的ないわゆる士族銀行も設立されている。 東北地方における前者の典型が、福島県中通り地方の生糸地帯に設立された銀行である。
 さて、先進国では通常は、ある程度産業が発達し、商業活動も活発となって銀行が必要とされるようになるのであるが、わが国では産業が発達する前の(地域差はあるが)沢山の銀行が設立されたのである。 これがその後わが国の銀行のあり方に、大きく関わってくることになる。 (『東邦銀行小史』から)  
<国立銀行の乱立> 改正条例は国立銀行にとり利便が非常に大きかったので、国立銀行の設立を願い出るものが相次いだ。明治12年12月には実に153の国立銀行の設立をみたが、京都第百五十三国立銀行を最後に、その後の設立は許されなかった。 このいわゆる”ナンバー銀行”のほかに、三井銀行のような私立銀行も各地に設立され、明治15年末には私立銀行はその数において、国立銀行数を26上回る乱立ぶりとなった。 もっとも資本金総額は、国立銀行4,420万6,100円に対し、私立銀行は1,697万7,800円で、国立銀行の優位は動かなかった。
 このように銀行は相次いで設立されたが、一般に近代的銀行・会社に関する知識が乏しかったため、新設の国立銀行の多くは、幹部たるべき行員を第一国立銀行に出向させて銀行の実務を修得させた。 中には第四十国立銀行のごとく第一国立銀行の行員の派遣を請い、自行員の実務練習の教師役を務めてもらう銀行もあった。
 このように後進銀行の指導にあたり、銀行実務の普及に貢献した功績はまことに大きなものであった。 (『第一銀行小史』から)
<特殊銀行の創業> 株式会社第一銀行発足後、特殊銀行が相次いで設立された。
 日本勧業銀行  明治30年8月開業
 農 工 銀 行 明治31年1月 静岡県農工銀行をはじめ同33年8月までに各府県とも開業、その数46行。
 台 湾 銀 行 明治32年9月開業
 北海道拓殖銀行 明治33年4月開業
 日本興業銀行  明治35年4月開業
 農工銀行を除き、これら諸銀行の設立に当たり、渋沢頭取は、内閣から設立委員を命ぜられた。
 このように、日清戦役後には、新たに多数の特殊銀行が設立されたほか、手形交換所も増加し、金融機構は著しく整備される一方、新商法が公布され、国内景況の一進一退のうちに」も、軽工業に近代的機械生産様式が確立し、海運や鉄道事業にも大きな発展がもたらされた。 日露戦役後の企業熱勃興とこれに続く時代になると、さらに、重工業、化学工業、電気事業についても基礎が確立され、それとともに銀行業界も格段の発展を遂げた。なかでもとくに顕著なものは外資導入の発展と特殊銀行の発達であった。 (『第一銀行小史』から
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 全国各地で「第○○国立銀行」という民間銀行が設立されることになる。その様子を少し見てみよう。
<長野県内国立銀行の設立状況> 長野県内では国立銀行が5行設立された。これは全国でも多い方である、全国で5行以上の設立は9府県のみであった。
国立銀行名 開業   明治 所在地 資本金 千円 初代頭取
第十四国立銀行 10. 8. 5 南深志町 100 大池源重
第十九国立銀行 10.11. 8 上田町 100 早川重右衛門
第二十四国立銀行 10.11. 1 飯田町 80 坂本則敏
第六十三国立銀行 11.12. 1 松代町 100 吉池文之助
第百十七国立銀行 12. 1.15 飯田町 50 太田伝蔵
    国立銀行5行の設立地は、いずれも旧藩の城下町であり、地域における経済の中心地であった。 商業をはじめ、製糸業、養蚕業もこれらの地域を中心に営まれており、銀行の利業も蚕糸業を主な対象とした。その中で飯山だけは地元有力産業がなかったため、第二十四国膣銀行は、創業後いち早く長野、上田に出店した。
 金禄公債の安全有利な運用方法として、国立銀行への出資が政府によって奨励されたので、士族の多くが株主として参加した。 なかでも、第六十三国立銀行、第百十七国立銀行は、株主数、持株数とも士族が圧倒的な比率を占めていた。 これに対して、第十四銀行、第十九銀行は、平民である商人地主の出資比率が大きかった。しかし、いずれにせよ士族は禁輸・経済の事情に暗いので、多くは有力な商人、地主が実質的な設立推進者となっていた。 (『八十二銀行50年史』から)  
<弱小資本の山形県下の国立銀行> 山形県下の国立銀行は程度の差はあれ、そのほとんどが設立後間もなく経営難に直面した。これは明治14年からのいわゆる松方デフレ期に、貸出金が回収不能に陥って経営を圧迫したことが直接のきっかけであったが、ものもの本県の国立銀行はいずれも資本金が10万円以下という弱小銀行で、その経営基盤の脆弱性からもたらされたものであった。
 さらに初期の経営者は、近代銀行経営についてはほとんど無知に等しく、これがもとで思わざる失敗をかさね、混乱を増幅していったケースも多かった。 しかもなお、銀行という機能についての一般の理解もいまだ浸透せず、社会的遊休資金をひろく預金として集めるといった銀行本来の役割を果たすにはほど遠い状態で、むしろ自己資本の貸付所的な性格が強かった。 ちなみに明治19年の山形県内国立銀行の預金総額はおよそ20万円、これに対し貸出総額は52万円と預金総額を大幅に上回っているが、これはむしろ自己資本51万円と見合っており、このことを示している。
 しかし、当時の国立銀行が経営の脆弱性と金貸資本的性格をもっていたとしても、明治初期の商品経済の発展に、一定の積極的役割を果たしていたこともまた事実であった。 とくに送金・荷為替・その他手形の取組みなど新しい為替機能を通じ、山形県の商品流通を促進し円滑化する役割を果たした点については、改めて注目すべきである。 (『山形銀行百年史』から)
<仙台に生まれた第七十七国立銀行> 明治4(1871)年の廃藩置県により仙台藩は仙台県となり、5年には宮城県と改められた。その後数次にわたる郡の合併・分離が行われて、ようやく9年に至って現在の宮城県が形成された。
 宮城県の県庁所在地である仙台は、仙台藩の城下町として栄え、藩の手厚い保護のもとで商工業も発達し、優れた工芸品なども産出していた。 しかし、明治維新の変革によって藩という保護者を失うと大きな打撃を受けて衰退の道をたどり、武士が人工の半分を占める城下町であっただけに、無職者というべき禄生活者が溢れていた。
 宮城県全体で見ると、産業は米を主とする農業が中心で、商工業は遅れていたため、藩では明治3年ごろから勧業に力を注ぎ、特に士族の授産と輸出生糸の増産を狙いとして養蚕を奨励した。 その他、農業についても技術や農具の輸入を図り、士族の授産と絡めて開拓地の拡大に努めた。
 一方、仙台の金融機関としては、明治初年には三井組や小野組などが活躍し、政府の公金事務を取り扱っていた。9年になって第1国立銀行が石巻と仙台に出張所を開設し、最初の私立銀行である三井銀行も、この年に宮城出張所を設置した。
 この間、9年の禄制廃止により、有禄武士に対して金禄公債が交付され、公債所有者となった士族の生活を安定させるため、いくつかの試みをなそうとする動きが見られた。
 その1つが国立銀行設立計画であり、10年8月には、宮城県の士族・遠藤温ほか士族5名と商人1名が発起人となって改正国立銀行条例に基づく国立銀行の創立願書を提出した。 発起人となった士族は、いずれも一般士族とは異なり財産家で、そかも金貸業を営んでいたところから、その経験を生かしての銀行設立計画であったと思われる。 設立の許可は同年12月27日付で下り、翌11年1月12日付で「第46国立銀行」の称号が下付された。また、10年6月には、東京・深川の国立銀行創設協同社から宮城県内の士族に対して、所有する公債をもって銀行設立に賛歌するよう呼びかけがあった。 この銀行は11年3月に許可が下り、第60戸口立銀行として設立されたが、宮城県の士族308名が金禄公債を提供して株主となった。なお、同行は31年8月に満期解散した。
 禄制改革にあたって、士族は自らその授産方法について衆議して決すべきであるとして、宮城時亮県権令は明治10(1877)年11月に県内士族による士族会議を開催した。 会議は前出の遠藤温が議長、副議長の氏家厚時がなった。席上、蓮田繁幸等が「金禄公債を保存しなければ士族の物楽は必至であり、全士族は結社して打開策を立てるべきである」と発言し、まず士族結社をつくることを可決、次いで打開策の1つとして銀行設立案がまとまった。
 11年1月、士族会議が開催され、士族結社の社長に増田繁幸、副社長に氏家厚時をそれぞれ選挙したのち、銀行創立委員として菅克復ほか20名を選出し、銀行設立の出願が具体的に進められた。
 同年2月20日、増田繁幸、亘理隆胤、松前広致、中島信成、後藤充康、氏家厚時ら6名が発起人となり、資本金20万円の銀行の創立願を大蔵省に提出した。 この間、発起人の代表として河田安照る、渡辺幸兵衛が状況し、第1国立銀行の渋沢栄一頭取に会って銀行設立に関して懇切な教示を得、その具体案を練った。
 大蔵省から国立銀行として77番目に許可され、明治11(1878)年4月26日付で「第77国立銀行」の名称が下付された。
 その後、先に設立許可を得ていた第46国立銀行との間で、ともに士族を主体としていたことから両発起人は合併が得策であるとして同9月に合併願書を提出し、許可されて資本金25万円で第77国立銀行として発足することとなった。
 やがて株式の募集も予定通り完了し、株主の多くは現金でなく金禄公債をもって充当した。同年10月17日、創立総会を開催して創立消暑と定款を議決した。翌18日には役員の選出を行い、頭取には氏家厚時、取締役には増田繁幸、中島信成、亘理隆胤、佐藤信義(第46国立銀行の発起人の1人)がそれぞれ選出され、中島が支配人を兼任した。 本店は仙台区大町1丁目40番地の豪商・日野屋仁兵衛の住居跡に置かれた。
 開業準備が整ったろころで、創立証書、定款、誓詞書などを県を通じて大蔵省に提出した。やがて大蔵省の命による県の調査などの手続きも完了して、11年11月7日付で開業免状が下付され、同12月9日、営業を開始した。 (『七十七銀行120年史』から)
<新潟県の国立銀行> 政府は、旧士族の秩禄を廃止するため、明治6年12月、太政官布告第425号ならびに第426号をもって士族以下禄高100石未満のものに家禄・賞典禄奉還の出願を許し、翌7年3月に布告第39号で「秩禄引換公債証書発行条令」を公布して同公債証書を支給した。 超えて11月、布告第118号によって100石以上にも奉還を許し、同時に、第119号で「資金被下方規則」第1・2号を改めたが、第2条では「禄高百石ヨリ以上ハ、五捨石ハ現金、其餘ハ都テ公債証書ヲ以テ相渡スヘク」 となった。つまり、奉還の高が150石であれば、50石は現金、残りの100石は公債証書を渡し、他はこれに準ずる、というのである。
 新潟県では、8年1月13日付県庁布告第10号をもって、7年10月までに許可済みのものは、8年1月15日から25日までの間に秩禄公債証書および同年の利子を公布する旨を通達した。 かくて、華・士族の秩禄処分のため1億7,400万円にのぼる巨額の金禄公債(禄券)が発行されることになり、新潟県だけでも禄券高240万1,415円、ほかに利子1年分16万7088円余に達している。
 しかし、一時に巨額な公債を発行すれば公債価格の急落は必至であり、士族の困窮っを救うためにはなんらかの対応策が必要であった。そこで政府は「正貨兌換ノ制度ヲ改メ通貨即チ政府紙幣ヲ以テ兌換スルノ制トナサレンコト」という先の国立銀行の請願を入れて、 金禄公債を銀行紙幣発行の抵当とすることを認め(これには大蔵省紙幣寮付属書記官・イギリス銀行学士アーラン・シャンドがインフレを懸念してkりこくした)、明治9年8月1日、太政官布第106号で「国立銀行条令」を改正した。 政府としては、国内における40万人に及ぶ士族の動揺を抑え、さらには、多額の金禄公債を資本として国立銀行を設立させることによって、同時に民間金融の疎通を促進するという一石二鳥の効果をあげることに狙いがあった。(中略)
 明治9年8月の「国立銀行条令」改正後、全国的に国立銀行の設立ブームが訪れた。このブームは新潟県にも波及し、11年11月以降12年7月までわずか8カ月間に、当行──北越銀行の前身である第69国立銀行のほか3行が開業した。
 新潟の第4国立銀行を除いた国立銀行4行の本店所在地はいずれも旧藩の城下町で、経済の中心地でもあった。その資本も旧士族の金禄公債が主体であり、株主に占める士族の割合は圧倒的であったが、持ち株は3株以下がほとんどであった。 金禄公債を安全・有利に運用するため、国立銀行への出資金とすることが政府によって奨励されたが、士族は金融経済事情にうといから、有力な地主や商人が設立に実質的な推進者となり、多くの士族は、零細な株主として設立に賛歌するにすぎなかった。
 しかし、なかには士族の主導権の強いものもあったが、設立数年後にしてその性格を変え、士族の役員がその地位を失って地主や商人がこれに代わっている。 また、士族の株主も増資が行われるごとに著しく後退している。
 なお、この国立銀行条例の改正により、既設の国立銀行もあらためて開業免状の交付を受けなければならなかったため、第4国立銀行は、資本金を10万円増額し30万円として9年8月に営業継続を出願し、同年12月に開業免状を下付された。 (北越銀行『創業百年史』から)
<第四国立銀行創立の背景> 当行は、明治5年11月に制定された国立銀行条例に基づいて設立された。その開業免状下付は6年12月24日、営業開始は翌7年3月1日である。 日本の銀行としては第3番目の銀行であり、日本の銀行の草分けともいうべき存在である。
 当行の設立は、明治維新政府の銀行政策や、それを実施に移そうとした当時の新潟県令楠本正隆の努力に負うところが多い。そこでまず、明治初年の品行政策、さらにはひろく当時の日本経済の状況についての考察から始めたい。 それとともに、当行の位置する新潟地方の歴史的、経済的特色をも、当行設立の背景をなすものとして、あわせて考察しておこう。(中略)
県内銀行の生成と系譜 株式会社第四銀行は、昭和48年11月2日、創立100周年を迎えた。明治6年のその日、第四国立銀行の創立総会が開かれ、以来、新潟県における一地方銀行として発展を続けた。 明治20年に普通銀行に転換してsに鋳型銀行と商号を変更し、さらに大正6年に第四銀行と改めて今日に至っている。
 その間、当行は、県内銀行の中軸としての役割を担い、県内銀行29行、県外銀行の2支店を併合してきた。さらに、これら被合併銀行に併合されてきた銀行を含めると、その数は62行にものぼっている。 したがって、当行の歴史を見るとき、支流をなす被合併銀行との諸関係や、その歴史をも併せて考察されなければならない。そこで、本論の理解に資するため、まず県内銀行の生成とその系譜について略述することにしよう。
 新潟県における銀行の始まりは、明治2年に設立を許可された新潟為替会社である。この会社は銀行の性質を備え、金札5万円を発行したが、やがて経営不振に陥り消滅した。
 第四国立銀行が設立されたのは、新潟為替会社がまったく衰徴してしまった明治6年のことであった。その設立を首唱したのは、当時の県令楠本正隆である。 新潟かわせ会社が、殖産興業のための資金供給の役割を果たし得なくなったので、これに代えて新たな資金会社を興そうとする楠本の構想が、国立銀行条例の発布を機に、条例に基づく銀行設立へと発展したのであった。
 次いで明治9年の条例改正に伴い、新に国立銀行4行が誕生した。一方、条例に基づかない「人民相互ノ結約営業」にまかされていた「私立銀行会社」が、県内各地に設立され、これらは一般に銀行類似会社と呼ばれ、明治10年代なかばに急増した。 明治26年の銀行条例、貯蓄銀行条例の施行によって、銀行類似会社の大部分は普通銀行に転換し、国立銀行も営業満期により、明治29年〜31年に普通銀行に転換した。 このころ、県内では銀行の新設が相次ぎ、その数は42年に92行にのぼりピークにたっした。45年以降、減少向かった。全国の銀行数のピークが34年であったのに比べ、本県の銀行業の展開は、やや遅れた足どりを示している。(中略)
 多くの系譜をもって誕生してきた普通銀行、貯蓄銀行、信託会社の間では、相次ぐ恐慌による破綻や、政府の合同政策により淘汰整理され、昭和20年には、当行と長岡六十九銀行(昭和23年、北越銀行と改称)の2行のみとなった。 無尽会社も合併が進み、大光無尽と恣意型無尽の2社に統合され、戦後、相互銀行となった。また、市街地信用組合から信用協同組合を経て、昭和26年の信用金庫法に伴い、信用金庫となったものも見受けられる。
 こうして、県内のトップ銀行である当行をはじめ、これらの主要金融機関が、戦後の県内金融を担当していくことになるのである。 (『第四銀行百年史』から)
<資金調達の推移=第66国立銀行⇒広島銀行> 一般に国立銀行開業当初の営業資金の大宋は、こんにちのような預金ではなく、資本金と国立銀行紙幣の発行であった。第六十六国立銀行もその例外ではなく、同行の明治12年末における預金は2万5,334円で、資本金(18万円)、紙幣発行高(14万4,000円)などを含めた営業資金全体の中に占める割合は7.2%にすぎなかった。 しかし、その後預金の30年上期末には65.7%に達して資金調達の主要な源泉となったのである。一方、開業当初主要な営業資金源であった国立銀行紙幣は、16年の日本銀行の開業に伴い、17年以降消却されることとなり、14万4,000円を発行していた第六十六国立銀行紙幣の額は漸減して30年上期末には全く消滅した。 また資本金も開業当初の18万円から2度にわたる増資を行なって、15年下期末には36万円に増大し主要な営業資金源となっていたが、20年上期から18万円に減資したため、営業資金全体に占める比率も、15年末の51.8%から20年末には21.8%に低下した。 その後も預金の増加によって資本金の占める構成比は相対的に縮小し、30年上期末には12.5%に低下した。積立金は開業当初はまだ微々たるものであったが、着実な積立によって漸増し、25年以降営業資金全体に占める比率は10%内外で推移した。 また借入金は資金需要の繁閑に応じて増減したが、26年以降山陽鉄道の敷設あるいは日清戦争による資金需要の増大に伴い、営業資金全体に占める割合も29年下期20.4%に上昇した。
預金の推移 預金には公金預金と一般預金とがあったが、明治10年代から20年代初頭にかぇて、公金預金の占める割合は高く、14年末には85.6%にも達していた。 公金預金は残高の異動が激しく、預金総額の推移は公金預金の多寡によって大きく左右されたが、23年以降、公金預金の残高は減少し、その構成比も縮小して30年上期には5.4%となった。 一方、一般預金は開業以来着実な増加を続けて23年末には20万円を超え、預金全体の75.5%を占めた。その後、一般預金は日清戦争を契機として激増し、30年上期には89万4,000円となり、戦前の26年末に比べ2.3倍余りに増大した。 一般預金の増大によって預金総額も伸長し、30年上期には100万円近くに迫り、営業資金の大宋を占めるようになったのである。 (広島銀行『創業百年史』から)
<うぶ声あげた第百五国立銀行> 第百五国立銀行は、明治12年3月11日、資本金8万円、藤堂高泰を初代糖度衛として、総員11名で、津沢ノ上町1番地において営業を開始いたしました。
 創業当初は、銀行業務および銀行紙幣の発行などを主な業務としており、銀行紙幣の発行については、資本金8万円の8割にあたる紙幣を発行していました。
 銀行業務については、当初銀行に対する一般の理解が得られず、苦労の連続でした。しかし、銀行業務の機能が整えられるに従って、世間の認識や理解も深まり、取引きは次第に増加し、業績も上昇の一途をたどりました。
 その後、官金出納事務について、相次いで取扱いを広げてゆき、明治12年9月、多気・度会・志摩・南年婁・北牟婁の各郡の国税、地方税の取扱いを始めました。
 明治17年、第四十五国立銀行津支店の閉鎖により、当時の県金庫事務を引き継ぎ、29年には、全県下の県金事務を一手に扱うに至りました。
 また、明治15年、日本銀行の設立によって国庫金取扱いの代理契約を結びました。
 これらの業務の拡大にともない、山田・相可・鳥羽に営業所を開設いたしました。
 第百五国立銀行は、明治9年の国立銀行条例改正によって、全国で百五番目に生まれた国利つぃ銀行であります。
 その頃、三重県下では、第八十三国立銀行が伊賀上野に、第百十五国立銀行が亀山に、第百二十二国立銀行が桑名に相次いで設立されました。(中略)
 第百五国立銀行の営業満期により、株式会社百五銀行は、明治30年7月1日、資本金24万円で新発足し、地元銀行としての新しい第1歩を踏み出しました。 (『百五銀行百年のあゆみ』から)
<八街第百四十三銀行⇒東京第三十国立銀行⇒株式会社三十銀行⇒三十四銀行(大阪)⇒三和銀行⇒UFJ銀行⇒三菱東京UFJ銀行・『佐賀銀行百年史』から> 佐賀の乱に中立党を結成して官軍に加わった前山清一郎とその党員は、鎮定後、政府から行賞を受けた。しかし地元民からは敗斥され、県内に居住することが極めて難しくなり、鍋島家東京本邸家令深川亮藏の推挙で千葉県印旛郡八街村字小間子牧(あびこまき)にあった鍋島家の農場へ党員多数を引き連れて移住し、農業に従事した。
 明治12年6月、前山清一郎は同行した党員の水町久兵衛、香田信伊、小代靖、諸隈宣義らとともに、金禄公債を資本に同地に八街第百四十三国立銀行を設立した。
 設立に際し、東京第三十国立銀行の指導と援助を受け、設立後も、運営・資金関係ともすべて東京第三十国立銀行に依存した。そうしたこともあって翌13年3月10日、同行は東京第三十国立銀行に合併され、以後東京第三十国立銀行の八街村支店として継続し、前山清一郎は取締役兼支店長となった。発行した紙幣も東京第三十国立銀行へ引き継がれ、従来どおり通用した。
 東京第三十国立銀行は30年12月に私立銀行に転換して株式会社三十銀行となり、昭和4年7月、大阪の三十四銀行(のち三和銀行)に吸収合併された。 (『佐賀銀行百年史』から)
佐賀の乱(さがのらん)は、1874年(明治7)2月に江藤新平・島義勇らをリーダーとして佐賀で起こった明治政府に対する士族反乱の一つである。佐賀の役、佐賀戦争とも。不平士族による初の大規模反乱であったが、政府の素早い対応によってあっけなく鎮圧した。 『ウィキペディア(Wikipedia)』から
<国立銀行の業務> 国立銀行は、貸付、預金、為替などの普通銀行業務を営むことを本務とし(国立銀行条例52条)、併せて銀行紙幣の発行(同前文)および官公金の取扱い(同81条)ができることとされていた。 その中でも、草創期の国立銀行にとって、紙幣発行や官公金の取扱いは、その存亡にかかわる非常に重要な業務であった。民間資本が未発達の状態では、紙幣発行による運転資金調達は必要不可欠であったが、第百十四国立銀行は、総額4万円の銀行紙幣を発行することにより営業資金を調達した。 同様に、官公金預金の取扱いも、当行にとって有力な資金源かつ収益源であった。
 銀行に対する一般の認識が乏しく、民間資本も少ない時代において、官公金を取り扱えるかどうかは、銀行営業の根幹にかかわる重大事であった。当行は経営者の並々ならぬ努力により、国庫金をほとんど独占して取り扱うことができた。 当行の国庫金取扱いは、明治12年7月に大蔵省為替方として讃岐12郡(現在の香川県)の収税取扱を拝命したことに始まる。 (『百十四銀行百二十五年誌』から)
 (T注 江戸時代、人々は、大名も武士も商人も農民も、「金を借りたら利息を払う」ということは当然のこととなっていた。しかし、「金を預けて利息を稼ぐ」という金融機関はなかった。これが明治になってからに銀行制度の発達に大きな影響があったと思う。 つまり、銀行ができて「そこから利息を払って金を借りる」ということには抵抗がなかったが、「預金して利息を稼ぐ」ことには慣れていなかった。このため銀行の預金が余り伸びなかった。つまりトランスミッション・メカニズムが働いていなかったのだと思う)
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<国立銀行の変遷> 国立銀行は明治12年12月設立の京都第153国立銀行を最後に設立は許可されないことになった。では、その153の国立銀行のその後はどうなったのか? その変遷をまとめてみよう。引用した文献では、その後変更もあるので、⇒で最新の情報に改めた。
国立銀行名所在地,設立年・月/継承した年・月,継承した普通銀行/現存継承銀行/
第1東京・東京,M6.7/M29.9,第1/第1⇒第一勧業⇒みずほ  第2神奈川・横浜,M7.7/M29.-,第2/横浜 第3東京・東京,M9.12/M29.11,第3/富士⇒みずほ/  第4新潟・新潟,M6.12/M29.11,新潟/第4 第5東京・東京,M6.9/M29.12,第5/三井⇒三井住友 第6福島・福島,M10.2/M30.2,肥後/富士⇒みずほ  第7高知・高知,M10.2/M29.11,第7/四国 第8愛知・豊橋,M10.2/M19.7,第134/東海⇒UFJ⇒三菱東京UFJ 第9熊本・熊本,M10.11/M30.11,第9/富士⇒みずほ 第10山梨・甲府,M10.3/M30.1,第10/山梨中央 第11愛知・名古屋,M10.5/M30.3,第11/東海⇒UFJ⇒三菱東京UFJ 第12石川・金沢,M10.7/M30.7,12/北陸  第13大阪・大阪,M10.5/M30.3,鴻池/三和⇒UFJ⇒三菱東京UFJ 第14長野・松本,M10.7/M30.5,第14/- 第15東京・東京,M10.5/M30.5,15/三井⇒太陽神戸三井⇒さくら⇒三井住友 第16岐阜・岐阜,M10.8/M29.11,16/16  第17福岡・福岡,M10.9/M30.9,17/福岡 第18長崎・長崎,M10.11/M30.7,18/18 第19長野・上田,M10.10/M30.3,第19/82 第20東京・東京,M10.7/M30.7,20/第1⇒第1勧業⇒みずほ 第21滋賀・長浜,M10.11/M30.11,21/滋賀 第22岡山・岡山,M10.10/M30.1,22/富士⇒みずほ 第23大分・大分,M10.10/M30.5,23/大分  第24長野・飯山,M10.10/M15.8,閉店/- 第25福井・小名浜,M10.12/M30.12,25/福井⇒三和⇒UFJ⇒三菱東京UFJ 第26大阪・大阪,M11.2/M16.11,閉店/- 第27東京・東京,M10.12/M30.12,第27/-  第28静岡・浜松,M10.12/M22.1,第35/静岡 第29愛媛・川之石浦,M11.1/M30.3,第29/伊予 第30東京・東京,M10.12/M30.12,30/三和⇒UFJ⇒三菱東京UFJ 第31福島・若松,M11.30/M21.5,第148/三和⇒UFJ⇒三菱東京UFJ 第32大阪・大阪,M11.1/M31.1,浪速/三井⇒三井住友 第33東京・東京,M11.1/M25.3,営業停止/- 第34大阪・大阪,M11.3/M30.9,34/三和⇒UFJ⇒三菱東京UFJ 第35静岡・静岡,M11.5/M30.7,35/静岡  第36東京・八王子,M11.2/M31.2,第36/富士⇒みずほ 第37高知・高知,M11.10/M30.3,高知/四国 第38兵庫・姫路,M11.10/M31.7,38/神戸⇒太陽神戸⇒太陽神戸三井⇒さくら⇒三井住友 第39群馬・前橋,M11.9/M31.7,39/群馬 第40群馬・館林,M11.9/M31.7,40/第1⇒第1勧業⇒みずほ 第41栃木・栃木,M11.9/M31.7,41/第1⇒第1勧業⇒みずほ 第42大阪・大阪,M11.10/M31.10,北浜/三和⇒UFJ⇒三菱東京UFJ  第43和歌山・和歌山,M11.10/M30.3,43/三和⇒UFJ⇒三菱東京UFJ 第44東京・東京,M11.7/M15.9,第3/富士⇒みずほ 第45東京・東京,M11.10/M31.10,満期解散/-  第46岐阜・多治見,M12.2/M31.7,愛知実業/- 第47千葉・八幡,M11.10/M31.1,第47/北陸 第48秋田・秋田,M11.12/M31.1,48/秋田 第49京都・京都,M11.5/M30.8,第49/第1⇒第1勧業⇒みずほ 第50茨城・土浦,M11.8/M30.7,土浦50/常陽 
第51大阪・岸和田,M11.9/M31.1,51/住友⇒三井住友 第52愛媛・松山,M11.9/M30.7,52/伊予  第53島根・津和野,M11.12/M31.7,第53/山陰合同 第54静岡・沼津,M11.9/M15.12,第35/静岡 第55兵庫・出石,M11.9/M31.1,55/神戸⇒太陽神戸⇒太陽神戸三井⇒さくら⇒三井住友  第56兵庫・明石,M11.6/M31.6,56/神戸⇒太陽神戸⇒太陽神戸三井⇒さくら⇒三井住友 第57福井・武生,M11.10/M30.7,第57/北陸 第58大阪・大阪,M11.10/M30.1,第58/富士⇒みずほ 第59青森・弘前,M11.12/M30.9,第59/青森 第60東京・東京,M11.8/M31.8,満期解散/- 第61福岡・久留米,M11.11/M30.4,61/住友⇒三井住友 第62茨城・水戸.M11.10/M31.10,水戸62/常陽  第63長野・松代,M11.10/M30.7,63/82 第64滋賀・大津,M11.6/M31.6,大津/- 第65鳥取・鳥取,M11.11/M31.1,第65/神戸⇒太陽神戸⇒太陽神戸三井⇒さくら⇒三井住友  第66広島・尾道,M11.11/M30.7,第66/広島 第67山形・鶴岡,M11.9/M31.9,67/庄内 第68奈良・郡山,M11.10/M30.12,68/南部 第69新潟・長岡,M11.11/M31.1,69/北越 第70京都・淀,M11.11/M30.4,第70/- 第71新潟・村上,M11.10/M31.10,村上/第4 第72山形・酒田,M11.9/M31.9,佐賀/- 第73兵庫・神戸,M11.10/M30.8,第73/-  第74神奈川・横浜,M11.7/M31.4,第74/横浜 第75石川・金沢,M11.11/M19.7,第45/- 第76岐阜・高須,M11.10/M31.1,76/大垣共立 第77宮城・仙台,M11.11/M31.3,77/77 第78大分・中津,M11.10/M31.10,第78/- 第79鳥取・松江,M11.10/M31.1,第79/- 第80高知・高知,M11.10/M29.11,第80/四国 第81山形・山形,M11.11/M30.6,両羽/両羽/ 第82鳥取・鳥取,M11.11/M29.11,82/富士⇒みずほ 第83三重・伊賀上野,M11.9/M30.8,83/105 第84石川・大聖寺,M11.11/M30.9,84/富士⇒みずほ 第85埼玉・川越,M11.11/M31.1,第85/埼玉⇒協和埼玉⇒あさひ⇒りそな  第86岡山・高梁,M11.12/M30.7,86/中国 第87福岡・大橋,M11.11/M30.7,87/富士⇒みずほ 第88岩手・一ノ瀬,M11.11/M29.10,第88/岩手 第89徳島・徳島,M11.12/M30.1,第89/- 第90岩手・盛岡,M11.11/M30.8,第90/岩手 第91福井・福井,M11.10/M30.7,第91/北陸 第92福井・福井,M11.10/M30.7,第92/- 第93福島・三春,M11.10/M30.7,三春/東邦  第94兵庫・竜野,M11.10/M31.1,94/神戸⇒太陽神戸⇒太陽神戸三井⇒さくら⇒三井住友 第95東京・東京,M11.9/M30.5,第95/-  第96福岡・柳河,M11.11/M30.4,柳河/福岡 第97佐賀・小城,M12.2/M32.2,満期解散/- 第98千葉・千葉,M11.11/M30.9,第98/千葉 第99長崎・平戸,M12.1/M31.1,第98/親和 第100東京・東京,M11.8/M31.8,第100/三菱⇒東京三菱⇒三菱東京UFJ 
第101福島・柳川,M11.9/M31.9,101/- 第102長崎・巌原,M11.11/M30.7,第102/- 第103北海道・函館,M11.11/M30.7,113/北海道拓殖⇒北海道  第104茨城・水戸,M11.9/M30.10,水戸104/常陽 第105三重・津,M11.12/M30.7,105/105  第106佐賀・佐賀,M125.2/M31.4,佐賀大06/住友・佐賀 第107福島・福島,M11.9/M30.2,第107/- 第108福島・須賀川,M11.9/M16.4,閉店/- 第109大分・佐伯,M11.11/M31.11,109/大分 第110山口・山口,M11.11/M31.11,110/山口  第111京都・京都,M11.11/M31.12,官命閉鎖/- 第112東京・東京,M11.9/M31.9,第112/- 第113北海道・函館,M11.11/M30.7,第113/北海道拓殖⇒北海道 第114香川・高松,M11.10/M31.10,高松第114/114 第115三重・亀山,M11.12/M30.7,湖南/-  第116新潟・新発田,M11.12/M31.2,新発田/第4 第117長野・飯田,11.12/M30.7,第117/82 第118東京・東京,M11.11/M13.11,第136/富士⇒みずほ 第119東京・東京,M11.12/M31.12,三菱(資)銀行部/三菱⇒東京三菱⇒三菱東京UFJ 第120茨城・古河,M11.9/M31.1,古河第120/- 第121大阪・大阪,M12.1/M30.9,第121/三和⇒UFJ⇒三菱東京UFJ 第122三重・桑名,M11.12/M31.1,第122/-  第123富山・富山,M11.12/M17.1,第112/北陸 第124静岡・見付,M11.10/M15.7,第135/静岡 第125山形・米沢,M11.12/M30.8,第125/-  第126大阪・大阪,M11.12/M15.11,閉店/ 第127香川・丸亀,M11.12/M29.10,第137/四国 第128岐阜・八幡,M11.12/M31.1,第128/16 第129岐阜・大垣,M11.12/M29.3,大垣共立/大垣共立 第130大阪・大阪,M11.12/M31.7,第130/富士⇒みずほ 第131岐阜・大庭,M12.1/M14.7,第132/三井⇒太陽神戸三井⇒さくら⇒三井住友 第132神奈川・程ヶ谷,M12.4/M30.10,第132/- 第133滋賀・彦根,M12.2/M32.2,133/滋賀  第134愛知・名古屋,M11.12/M30.4,第134/東海⇒三和⇒UFJ⇒三菱東京UFJ 第135熊本・宇土,M12.1/M29.9,九州商業/肥後 第136愛知・半田,M12.2/M31.7,第136/富士⇒みずほ 第137兵庫・篠山,M12.4/M30.7,第137/神戸⇒太陽神戸⇒太陽神戸三井⇒さくら⇒三井住友 第138静岡・二俣,M12.2/M31,1,第138/静岡  第139新潟・高田M12.2/M31.1,第139/第4 第140山形・山形,M12.3/M14.1,第67/庄内 第141愛媛・西条,M12.4/M30.1,西条/広島 第142千葉・銚子,M12.3/M14.11,第32/三井⇒太陽神戸三井⇒さくら⇒三井住友 第143千葉・八街,M12.3/M13.4,第30/三和⇒UFJ⇒三菱東京UFJ 第144宮崎・飫肥,M12.5/M32.1,飫肥/- 第145宮崎・延岡,M12.4/M32,1,延岡/宮崎 第146広島・広島,M12.4/M30,1,広島/広島  第147鹿児島・鹿児島,M12.8/M30.1,第147/鹿児島 第148大阪・大阪,M12.3/M31.7,山口/三和⇒UFJ⇒三菱東京UFJ 第149北海道・函館,M12.8/M18.5,第119/三菱⇒東京三菱⇒三菱東京UFJ 第150青森・八戸,M12.5/M31.9,第150/東邦 
第151熊本・熊本,M12.8/M31.7,第151/- 第152沖縄・那覇,M12.12/M30.7,第152/- 第153京都・京都,M12.11/M19.1,第111/-  (『埼玉銀行史』『千葉銀行史』から)
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<日米修好通商条約批准使節団> 日米修好通商条約(1858年=安政5年)の批准書交換のため、わが国から渡米した最初の外交使節一行は、1860年5月17日ホワイトハウスでブキャナン大統領へ国書を奉呈した。 この日の連邦議会議事録を調べると、午前11時に開会した下院は、国書奉呈式へ列席するため直ちに3時間の休憩を決議したことが確認できる。 上院は開会したところ5名の議員しか現れず、やはり休憩手続きを取ったが、わが国外交使節はたいへんな人気を呼んだらしい。 チョンマゲ髪に鳥帽子を戴き、狩衣をまとって帯刀した正使と副使が、公式訪問で往来する道路の両側や、一行が宿泊したホテルの周辺は、彼らを見ようとする群集で埋まり、警察官が出動して見物人を整理する有様であった。
 使節団は正使新見豊前守のほか、副使村垣淡路守、監察小栗豊後守の3名が代表で、随員や従者などを加えると77名へ膨れ上がり、万事に格式張らないアメリカ人たちを不思議がらせた。 また一行の荷物がきわめて多かったことも評判で、米、味噌、干し魚から草鞋にいたるまで総量50トン持参したのであるから、アメリカ側が驚いたのも無理もない。 実はこれでも、幕府側は使節団の規模を予定より縮小したのであって、初めは大名の格式を考えていたから、金紋先箱に奴の毛槍も繰り出す行列を、正式に仕立てるつもりであった。
 トロイの木馬まで引き合いに出されて、わが国最初の遣米使節が2年後になってさえ比喩に使われたのは、見掛けによらず中身が大がかりであるとの意味からであった。 国威を汚さぬようにと、文化の高さと礼儀の正しさを示しはしたが、結局は大袈裟な振る舞いと受け取られたようである。ここでロスコウ=カンクリング議員が攻撃した新制度が、本章で扱う「国法銀行制度 (National Banking System) 」で、これが明治5年わが国へ移入されて国立銀行条例による近代的な銀行制度となった。 (『アメリカの金融制度』から) (T注 「ナショナル・バンク」を「国立銀行」と訳さず「国民銀行」と訳すと分かりやすかった。多くの国立銀行を作り、紙幣を発行する、手本としたアメリカの金融制度については、高木仁著『アメリカの金融制度』に詳しい。)
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<通貨流通量のコントロール> 松方正義の諸政策の結果、明治14年末には1億1,891万円に達していた政府紙幣流通高は、18年末には8,835万円へと14年末比25.7%縮小し、ピーク時の11年末に比べれば36.6%の減少を示した。 一方、政府の正貨保有高は14年末の1,270万円から18年末には4,227万円へと3.3倍に激増し、政府紙幣流通高に対するその比率も同時期に10.7%から47.8%に急上昇している(表を参照のこと)。 これに伴い、銀貨1円に対する紙幣の相場は、明治14年には平均1円69銭6厘とほぼ70銭の開きがあったのが、15年・1円57銭1厘、16年・1円26銭4厘、17年・1円8銭9厘、18年・1円5銭5厘と著しい速度で格差を縮め、19年にはついに銀紙の開きは消滅した。
 また物価も顕著な低落を示し、農産物庭先価格指数は明治15〜17年の3年間に42.6%の大幅下落となり、ほぼ明治10年の水準に戻った。工業製品価格指数も15年から19年まで落勢をたどり、この5年間に40.5%低落した。 ちなみに、東京における玄米1石の平均相場は、明治14年の10円48銭5厘から17年には5円37銭へとほぼ半値(51.2%)に低下したあと、若干戻したものの20年には5円41銭6厘となった。 このような情勢のもと「世上一般ハ甚シキ不景気ノ状態ニ陥ヰ」ったことはよく知られているが、松方がそれを予期していたことは既に述べた。 松方は紙幣整理の不可欠の前提として「健全財政」主義を貫いたのである。
 しかし、松方は紙幣消却・その価値回復と正貨の蓄積をもって紙幣整理のすべてと考えていたわけではなかった。松方は「本来、紙幣整理の目的といふものは不換紙幣を変じて兌換紙幣とするにある、……而して同時に紙幣の統一を行って全国画一のものとし、其時の経済の状況に応じて屈伸自由なるものにするにある」、 そのためには「英国其他の欧州諸国のように中央銀行を作って之に兌換券発行の特権を与えて貨幣の統一をするといふのが一番宜しい」と考えていた。 したがって、松方が紙幣の消却と正貨準備の蓄積を推進すると同時に、中央銀行設立の具体的準備を進めていたことは言うまでもない。 (『日本銀行百年史』から)
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<通貨流通量と準備率> 金融経済学の教科書は「貨幣乗数」「ハイパワード・マネー」「トランスミッションメカニズム」などの言葉を使って、通貨流通量の増減を説明しようとする。 金融の現場、銀行では「預金高」と「貸出高」のバランスで考える。つまり「貸出高」が「預金高」を越えないように、「オーバーローン」にならないようにする。そこには「貨幣乗数」「ハイパワード・マネー」「トランスミッションメカニズム」などの言葉は登場しない。 中央銀行ではどうか、と言うと、金本位制を採用していた明治時代には、「通貨流通量」と「正貨保有高」を問題にする。つまり上の表で言えば「B/A(%)」だ。 ここにおいて学校で教える金融経済学は、現場である銀行や中央銀行では役に立たない空論であることがハッキリする。金融の現場では 「ベースマネーの増減により(原因)、マネーサプライが増減する(結果)」との「神話」は信じられていない。
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<主な参考文献・引用文献>
『第一銀行小史』                編纂・発行 第一勧業銀行資料展示室 1973. 6.11
『創業百年史』           山梨中央銀行行史編纂室 山梨中央銀行      1981. 3
『東邦銀行小史』                宮島宏志郎 日本経済評論社     1979. 8.20
『八十二銀行50年史』             編纂・発行 八十二銀行       1983. 6.20
『山形銀行百年史』         山形銀行百年史編纂部会 山形銀行        1997. 9.30
『七十七銀行120年史』            編纂・発行 七十七銀行       1999. 3
『創業百年史』             北越銀行行史編纂室 北越銀行        1980. 9.10
『第四銀行百年史』        第四銀行企画部行史編集室 第四銀行        1974. 5.20
『創業百年史』            創業百年史編纂事務局 広島銀行        1979. 8. 6
『百五銀行百年のあゆみ』            編集・発行 百五銀行企画調査部   1978. 7.10
『佐賀銀行百年史』               総合企画部 佐賀銀行        1982.12.25
『百十四銀行百二十五年誌』           編纂・発行 百十四銀行       2005. 8.31
『埼玉銀行史』            埼玉銀行史編集委員室 埼玉銀行        1968.10. 1
『千葉銀行史』                 編集・発行 千葉銀行        1975. 3.31
『アメリカの金融制度』               高木仁 東洋経済新報社     1986. 5. 8
『日本銀行百年史』        日本銀行百年史編纂委員会 日本銀行        1982.10.10
『明治前期の銀行制度』日本金融市場発達史T 金融経済研究所 東洋経済新報社     1960.12.25
( 2006年5月22日 TANAKA1942b )
私立銀行という現在の大手都市銀行が誕生
三井・安田・住友・三菱──ほか
 明治政府主導で、為替会社ができ、国立銀行ができる。しかしこれで金融制度が完成するのではない。こうした金融制度の派点を見守っていた、民間人が動き出す。 今週は現在日本の主要な銀行である「都市銀行」(当時は「国立銀行」に対して「私立銀行」と言われた)を扱うことにする。
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<日本最大規模の銀行==三井銀行設立> 江戸時代における信用機構は、両替商を中心として高度な発達を見せていたが、幕末維新期の動乱と変革によって、その多くが崩壊したため、明治政府は改めて欧米の銀行制度を導入し、信用機構の再構築につとめたとされてきた。 確かに1868年(明治元年)の銀目廃止措置を契機に大阪の両替商の多くが倒産したが、両替商による金融が全面的に崩壊したわけではない。 とくに幕末の横浜開港以降の貿易品の流通を金融的に支えてきたシステムは、外国商人の内地侵入を阻止し、日本商人の資本蓄積を可能にした点で、重大な意義をもっていた。
 明治政府は、1871年の廃藩置県によって全国の租税を集中管理しなければならなくなったが、中央銀行はもとより民間銀行もなかった当時、頼りにしたのが三井・小野・島田のいわゆる為替方御三家の信用ネットワークであった。 しかし、小野・島田両組は、1874年(明治7年)の官金抵当増額令によって破綻を余儀なくされ、三井組だけが存続し、76年には当時日本最大規模の三井銀行を設立する。 (『近代日本金融史序説』から)
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<三井両替店の創業> 店前売りや切り売りをはじめとして、越後屋の商法は本町の呉服屋たちから見れば、横紙破りのものばかりであった。 そのために同業者から取引を停止されたり、「無法の商ひ」をすると訴えられたり、店員の引き抜きを策されるなど、さまざまの妨害を受けながらも、 三井の新店は着々と業績を伸ばしていった。そして、たまたま、開店後10年目の天和2年(1682)12月28日の大火に、本町の町並みは一夜にして灰尽に帰したのである。
 三井高利は、この機会に店舗を隣町の両替屋街である駿河町に移して、翌天和3年5月に、有名な「現金安売掛売なし」の看板を掲げて、はなばなしく開店した。 店の位置はちょうど現在の三越本店のあるところである。
 当行の前身である三井両替店が創業したのは、まさにこの時であった。それは西暦1683年、今年、昭和31年から数えて実に273年の昔である。 店は表口3間1尺6寸、奥行8間、呉服店の西隣であった。やはり現在の三越のビルの一部にふくまれるた位置である。(中略)
 このようにして三井両替店は、越後屋のための補助的な機関として、ここに発足した。そして、これこそが当行の起源であった。 (『三井銀行八十年史』から)
<三井銀行の創立> 江戸時代に巨大な富を築き上げた大商人の中には、幕末維新の激動にあたって昔日の面影を失う者も少なくなかった。そのなかにあって、三井が威信政府の為替方として活躍し得たのは、大商人の中で朝廷方に加担する態度を最初に鮮明にした功績によると言われる。 しかし、その三井にしても江戸時代には幕府御用をつとめ、成長してきたことは前述のとおりであり、文久3年(1863)年11月ごろまでは幕府方との連携を強化にて、経営危機を乗り切ろうとする気運の強かった。 一方、京都の大元方は勤皇派の情報収集につとめ、大坂両替店は慶応元年(1865)薩摩藩のため、琉球通宝の引替御用を新に引き受けた。いわば三井は、幕府・朝廷双方の動きを慎重に見守っていたのである。 三井が最終的決断を迫られたのは、慶応3年(1867)12月の王制復古の発令、維新政府成立のときであった。
 すなわち、新政府が最初に直面した緊急問題は財政問題であって、ただちに大蔵省の前身となる金穀出納所を設置して、三井三郎助(高喜=たかよし)・小野善助・島田八郎左衛門にその御用達を命じたのに対し、三井は率先してこれを受諾したのである。 ついで慶応4年正月、三井三郎助は出納所為替御用達となり、2月には金穀出納所の改称にともない会計事務局御為替方に任命された。そしれ、これと同時に御為替方三井組を称するようになった。(中略)
 維新以来、三井は為替方として政府の金融事務を担当、あるいは為替会社の総頭取の地位につき、着実に近代的銀行業者としての体験を重ねたが、さらに明治4年(1871)6月、政府の新貨鋳造事業の一翼を担うことになった。 地金回収と新旧貨幣交換の御用を命ぜられたのがそれである。政府は、幕末以来の極度に混乱した貨幣制度を整理統一するために、明治2年7月慈雨閉局を設ける一方、大蔵少輔(しょうゆう)伊藤博文の献策に基づいて金本位制を決定し、4年5月「新貨条例」を発布、鋳造すべき新貨幣の品位・量目・種類を定めた。(中略)
 第一国立銀行が設立された後も、三井組は単独で銀行設立の準備を進めた。明治8年(1875)3月、三井組を三井バンクと改称し、部内に対し三井バンクをもって全三井の中枢とする旨を通達した。ここにおいて、宝永7年(1710)以来の大元方の役割は否定され、三井バンク大元締役場がこれを引き継いだのである。(中略)
 明治8年7月、三井八郎右衛門(高福)らを発起人とし、三井組総取締三野村利左衛門の名をもって、銀行設立願書を東京府知事あてに提出した。 この三井銀行創立願書に対して、政府はどのような態度をとったか。国立銀行条例は、国立銀行以外に「銀行」と称する異を禁止していた。したがって、三井銀行の創立出願についても当然この点が問題になった。 しかし国立銀行の設立は、政府の予期に反して第1・第2・第4・第5の4行にとどまり、しかもこれらの国立銀行も内外の経済環境の変化により、明治7年ごろから兌換銀行券を発行しても、ただちに正貨に兌換されるありさまであった。
 このような情勢のなかにあって、大蔵省は明治8年3月31日、ようやく東京府に対し条件付認可の指令を与えた。
 三井組の修正に対し、政府は明治9年5月23日付をもって許可の指令を与え、ついで6月30日、三井組大元方代表の三井三郎助(高喜)と三井銀行代表の今井友五郎との間に事務引継ぎが行われ、翌明治9年7月1日を期して三井銀行は開業した。 (『三井銀行100年のあゆみ』から)
<三井銀行の貸出金と預金額> 単位千円 
年月末 貸出金 預金額
10.12 7,607 7,623
11.12 5,796 6,416
12.12 4,220 5,234
13.12 4,283 5,342
14.12 5,124 6,157
15.12 8,291 14,344
16. 6 8,076 14,788
17. 6 7,382 10,590
24. 6 17,974 16,390
26.12 10,938 16,775
30.12 20,406 25,064
34.12 18,469 29,048
38.12 35,232 49,388
42. 6 64,872 78,319
 これによってみると、明治10年代における当行の貸出金額は、官金取扱制度の改正による資金量の減退に伴って、停滞状態を続けていたことが知られる。 特に10年代の初期には、創立当初に比して相当の減少傾向を示し、その後次第に回復したあとが認められる。
 明治26年12月期の合名会社としての当行最初の決算において、1,090万円であった貸出金は、その後、日清・日露の両戦争を経た明治42年6月には6,400万円巨額にまで累増を見たのである。 これは、もっぱら当時の日本経済の急速な発展に負うところであって、預金の場合と同じく、同業者間に一般に見られた現象である、 試みに同期間における主要な同業者の貸出金の動勢をみても、その増加はいずれも顕著なものがあり、当行の増加は必ずしも特異な現象ではない。特に増加率の点では住友・安田両銀行の進出が著しく、金額では第一銀行が当行とほとんど肩を並べるに至っている。 (『三井銀行八十年史』から)
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<安田銀行の創業者=安田善次郎> 当行の創業者安田善次郎は富山の出身である。安田家は江戸中期の宝永2年(1705)に備後国福山から越中国婦負(ねい)郡安田村に移り、農業を営んだ。 この地は現在の富山市の中心部から約5キロメートルを隔てた婦負郡婦中(ふちゅう)町安田である。元文2年(1737)に一家の三男楠三郎が、富山藩の城下婦負郡富山の新町という場所に分家し、「安田屋」という屋号を用いて商業に従事した。 楠三郎から4代のちの善悦は、新町から婦負郡富山の鍋屋小路に居を移し、ここで天保9年(1838)10月9日に善次郎(幼名岩次郎)が誕生した。そのころの一家は半農半商の生活を営んでいた。(中略)
 善次郎は16歳のときに、郷里から江戸への出奔を企てた。当時、富山から神通川をさかのぼり飛騨に入り、飛騨から野麦峠越えなどの方法で信州に至る交通路があった。 この第1回目の出奔では、飛騨の山中で一夜の宿を借りた家の主人から無断で家出をした点を諄々と諭され、両親の元に引き返した。しかし都会に出たいという善次郎の気持ちは強く、18歳のときに再び江戸を目指し、いったんは江戸に到着したが父の依頼で追ってきた叔父に引き戻されてしまった。 父は富山藩士の地位を善次郎に継がせたかったのである。
 善次郎がようやく父の許しを得て江戸に出たのは安政5年(1858)、19歳のときであった。安政5年といえば、ペリーが軍艦4隻を率いて浦賀に来航してから5年後であり、日米修好通商条約が調印され、次いで他の列強諸国とも同様の条約が結ばれて、日本の鎖国政策が完全に終わりを告げた年であった。これから10年のちに、日本は明治維新を迎えることになる。
奉公時代 江戸に出た善次郎は、江戸の地理人情を飲み込む必要があると考え、江戸中の至る所にあった玩具屋に卸売する玩具問屋に奉公人として2年あまり住み込み、さらに海苔屋兼両替屋に3年勤めた。
 海苔屋兼両替屋では、金銀鑑定眼を身につけ、両替業務の手代に昇進した。このころ、鰹節屋に勤めていた大倉喜八郎(のちの大倉財閥の創始者)と知り合っている。
 江戸に出て5年余の奉公ののち、善次郎は元治元年(1864)に25両の資本で独立し、人形町通り乗物町(現在の中央区日本橋掘留町)に家を借りて、銭両替と海苔、鰹節、砂糖の小売を営むことにした。 間口2間、奥行5間余りの家で、安田屋と称した。善次郎はこのとき25歳であった。銭両替は一般に日用品の小売業を兼営したが、これは小売りによるたまり銭を金銀貨の両替に用いることができるという利点があったからである。
 のちに江戸町奉行所から東京府に引き継がれた『諸問屋名前帳』によると、善次郎が元治元年3月18日、三組両替の組合員の権利を取得したと記されている。 また、立会所単位の組合組織のなかでは、善次郎は両替町組に加入していたと『富の礎』で述べている。
 善次郎は得意先(商家や武家)を巡回して、金銀貨と銭貨を交換して手数料を得、また同業者との銭貨の売買によって差益を得た。 「江戸では湯屋の客が随分朝早くから来る、だから客の来ない暇に湯屋を回り、小銭を集めるとすれば、殆ど夜の明けぬ暗い間にせねばならなかった。ところが善次郎は根気よくこれを続けた」(保善社内伝記編纂所『安田善次郎全伝』昭和2年刊)。 やがて善次郎は早朝から両国、浅草、芝の両替屋仲間を巡回し、交換の用に応ずるようになった。「仲間の方でも至極これを便利とし、私を歓迎するので、段々利益を得た」(『富の礎』)と述べている。 安田屋開業の翌年、慶応元年(1865)には、善次郎は仲間から両替町組の肝煎(きもいり=幹事)に選ばれていた。
 元治元年3月に開店したとき、店員は1名であったが、1ヶ月後に2名となり、11月に善次郎は結婚した。店は繁盛して、年末までの9ヶ月間に68両の純益を挙げたといわれる。
幕末の商機=安田商店の発足 安田屋開業から3年目の慶応2年(1866)4月に、善次郎はかねて目をつけていた小舟町3丁目(のち昭和7年9月の町丁名整理により1丁目となる)に家を買って、店を移転した。 土蔵付きの家で、店は間口2間半、奥行3間半、広さ約9坪(30平方メートル)という規模であった。当時の地図を見ると、すぐ前の、てりふり町の通りは商店街であったばかりでなく、荒布(あらめ)橋を渡ると魚河岸、その先は日本橋であり、また荒布橋の下を流れる西掘留川の岸には米屋が多く、商用の人たちがてりふり町を往来して、賑やかな通りであった。
為替方と官金預金 明治政府が、為替会社や国立銀行制度の導入をはかっている間、善次郎は着々と安田商店の基礎を築いていった。最大の課題は資金源である預金の増加であった。
 安田商店の預金高は、慶応3年末、8口、1,751両から3年後の明治3年末に11口、2万1,659両となり、さらに3年後の6年末には31口、6万710円(4年の新貨条例で1両は1円となった)に増加した。
 明治初期の金融機関は官庁などの為替方としての役割を果たした。為替方というのは「国庫ニ収納スル金銭ノ鑑定収入逓送若クハ支出ノ事務ヲ掌ルモノ」(『明治財政史』第4巻)である。為替方の指定を受けた金融機関には、結果として多額の官金預金が滞留した。
 新政府ができたころの、当初の会計事務所の為替方には、三井組、小野組、島田組といった歴史のある本両替屋が任命された。為替会社や国立銀行制度の導入にあたり、官金出納取扱いの特典が与えられた。 国庫金を総括する大蔵省の官金出納は6年7月、第1国立銀行の開業とともに同行に委託された。大蔵省以外の各省、各府県は、それまで随意に民間の商会または豪商に現金収支事務を委ねてきたが、このときから為替方の任命には大蔵省の許可を要し、かつ第1国立銀行の契約に準じ契約を締結することが必要になった。
 次いで同年12月、経費出納方法が定められ、省については常額経費の年額を12に分割し、毎月初めに大蔵省から交付するという方法がとられ、府県については申請によって半年分を交付することとした。これらの資金は民間の為替方を通じて受払いが行われた。
 官金の取扱いには、預金高の3分の1に相当する担保(公債証書または不動産)を要したが、7年10月、規則が厳重になり、預金高の全額に担保を要することになった。 この結果、有力な為替方であった小野組、島田の両組は、増し担保の提供が不可能となったため、同年12月までに相次いで廃業に至った。 8年1月、大蔵省は小野、島田両組に為替方を命じていた府県に対し、第1国立銀行に委託先を帰ることを令示した。一方、大蔵省事態の官金出納については、9年3月から第1国立銀行の取扱いを廃し、大蔵省出納局が自ら管掌することになった。
 このように官金取扱いの厳正化がはかられている時期に、善次郎は司法省為替方(7年10月)、東京裁判所為替方(翌8年8月)、栃木県為替方(同12月)に相次いで指名された。
為替業務の開始 江戸時代には、物資の集散地であった大坂を中心として為替業務が著しい発達を遂げた。大坂と江戸との間では、@諸藩が自国の物資を大坂で売り捌いた代金、あるいは大坂で金策した資金を江戸の藩邸に送金する。 A江戸の商人が大坂から積送された商品代金を大坂に送金する、といった目的の為替のほか、B幕府の御用金を江戸に送金する公金為替が行われた。 公金為替も一般為替も、その取扱いは本両替屋が主で、銭両替屋には「為替といふものは僅かしかなかった」(『富の礎』)。しかし明治維新前後の動乱期を経て、大坂、江戸双方の両替商に盛衰があり、従来、為替を取り仕切ってきた組織が崩れたために、為替業務の分野でも善次郎の実力が発揮されるようになった。
 安田商店が初めて隔地間の為替業務を手がけたのは、明治8年となっている。
第三国立銀行の開業 当初の国立銀行制度について事態の経過を見守っていた善次郎は、国立銀行条例の改正で金禄公債を資本に銀行券が発行でき、しかも銀行券の金貨との兌換が免ぜられるという新制度の利点に着目、改正条例が布告される前日の9年7月31日に、主な出資者となる人たちと出願の手筈を決め、8月2日にいち早く国立銀行創立願を提出した。
 認可は明治9年9月6日付で下りたが、東京国立銀行という名称は許可されなかったので、改めて第三国立銀行を願い出て9月14日に決定をみた。国立銀行はすべて願書受付の番号を名称としており、第三の名称は、5年に大阪の鴻池家に許可済であったが、都合によって設立が中止されていた。善次郎は安田家の祖先が三善姓を名乗っていたという来歴から、三の数次に特別の愛着をもっていたといわれる。
 第三国立銀行は明治9年12月5日、安田商店と道路をはさんだ向かい側、西掘留川沿いに開業した。当初の建物は善次郎所有の土蔵を改造したものであった。
国立銀行設立指導 明治10年以降国立銀行が各地に誕生したが、地方における国立銀行設立当事者の大多数は銀行についての知識がなく、事情に精通する国立銀行設立経験者に意見や助言を求める向きが多かった。 したがって、第三国立銀行設立の体験を積んだ善次郎に対し、設立指導を請う国立銀行が後を絶たなかった。
安田商店の近代化 善次郎は第三国立銀行頭取に就任することによって名実ともに銀行家としての第1歩を踏み出した。 しかし、第三国立銀行への出資金は、安田商店が蓄積した資金の中から投下されたものであり、安田商店が母体であつ点に変わりはない。善次郎は第三国立銀行を設立する一方で、安田商店の近代化に取り組んだ。
 善次郎が第三国立銀行を設立した明治10年には、国立銀行の数は20行となり、このうち京浜地区に本店または支店のある銀行は10行で、9年7月に開業した私立三井銀行を加えると敬11行が営業していた。 同一区域内に多数の銀行が開設されるにつれ、同業者間の強調と親睦が必要となり、指導的立場にあった第一国立銀行頭取渋沢栄一は、銀行業者の団体組織の結成を提唱した。 このとき善次郎(第三国立銀行頭取)は、原善三郎(第二国立銀行頭取)、三野村利助(三井銀行副長、副頭取にあたる)と供にただちに賛意を表明、その他の同業者も全員が賛同して、10年7月、京浜地区銀行家の団体として択善会が発足した。
合本安田銀行の設立 明治12年4月に設立願を出した共立銀行(同年6月認可、資本金15万円、開業後間もなく閉店)を発端として、13年6月までに共立銀行を含めて24行の私立銀行が設立を認可され、以後私立銀行の設立が急増した。
 こうした私立銀行設立の気運が高まるなかで、明治12年11月11日、善次郎は安田商店を改組することとし、「合本安田銀行設立願」を東京府知事に提出した。
 合本安田銀行の設立認可は、明治12年12月」26日、東京府知事から認可が下りた。私立銀行としては三井銀行から数えて5番目であった。 設立資本金については安田商店から引き継いだ資本金15万円、積立金1万円に善次郎の拠出4万円を加えて20万円とした。頭取には善次郎の養子、安田卯之吉(明治14年善四郎と改名)が就任、善次郎は監事に就いた。善次郎は当時第三国立銀行頭取の地位にあり、国立銀行条例の精神に基づいて、私立銀行との兼務を避けたものと考えられる。 (『富士銀行百年史』から)
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<合本安田銀行の誕生> 明治13年1月1日、合本安田銀行は輝かしく開業の門出を迎えた。
 開業時の大略を述べると、まず本店を日本橋小舟町3丁目10番地の旧安田商店店舗に定め栃木、宇都宮の2店を安田商店から継承して銀行の支店とし、資本金は20万円、株主は安田一族のみであった。 こそ株主公正からみれば、安田銀行は安田一族の私利追求銀行として設立された観があるが、善次郎の真の意図は、あくまでも大衆一般の商業銀行を目的とし、安田商店の精神を新しい視野に立って刷新し、 社会的銀行としての使命を全うすることを念願としたものだった。つまり、運用利益をもって安田一門将来の資本充実に備えたのであって、このことは、株主全員が無限責任者として全責任を負い、利益をうるの余地を与えざる態勢とし、 また純益の40%を社内留保とし、50%の株主配当も現実には分配せず、銀行の別段預金として内部資本の蓄積に努めたことによっても知られる。
 役員は選挙の結果、頭取に安田卯之吉(明治14年善四郎と改名)、監事に善次郎、取締役には安田忠兵衛が就任し、使用人は支配人、手代、見習役(注、当時はこれらも役員と称した)の3段階に分け、旧安田商店店員31名全員がそのまま銀行に移行した。 善次郎があえて頭取に就任しなかった理由は、当時第三国立銀行頭取として同行の業務執行責任者であり、「国立銀行条例」成規により他銀行との兼職禁止を規制されていたからであった。 後年(注、明治20年7月)保善社規則制定の際に、保善社総長は安田銀行頭取を兼職し得ない条項を規定し、安田銀行の事務については、すべて頭取の責任に委せ、監事の地位にとどまったのも、その延長なのであった。 (『安田保善社とその関係事業史』から)
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<主な参考文献・引用文献>
『近代日本金融史序説』              石井寛治 東京大学出版会     1999. 6.24
『三井銀行八十年史』      三井銀行八十年史編纂委員会 三井銀行        1957.11.25
『三井銀行100年のあゆみ』       日本経営史研究所 三井銀行        1976. 7. 1 
『富士銀行百年史』      富士銀行調査部百年史編さん室 富士銀行        1962. 3. 1
『安田保善社とその関係事業史』編修・発行 「安田保善社とその関係事業史」編修委員会 1974. 6.28 
『住友銀行百年史』          住友銀行史編纂委員会 住友銀行        1998. 8.10 
『三菱銀行史』                 編纂・発行 三菱銀行史編纂委員会  1954. 8.15 
『三和銀行史』                 編集・発行 三和銀行史刊行委員会  1954. 3.20 
『東海銀行史』                 編集・発行 東海銀行史編纂委員会  1962.10. 1 
『滋賀銀行小史』                  傳田功 日本経済評論社文庫   1979. 4.25  
( 2006年5月29日 TANAKA1942b )