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銀行制度が生まれた明治維新時代を振り返る
江戸から明治へ過渡期の金融制度
<神話が生まれた時代を探ってみる> 「ベースマネーの増加により(原因)、マネーサプライが増加する(結果)、は神話である」とTANAKAは主張する。そして「神話ではなく、その通りの時代もあったかも知れない」がTANAKAの考えだ。ではその時代とは?
 それは、明治時代、貨幣を発行することができる「国立銀行」という名前の「民間銀行」が153もあった頃、日本で銀行制度ができ始めた頃だと思った。どの銀行も十分な資金がなく、預金が増えれば融資も増やせる時代だったに違いない。そうした考えで銀行制度が生まれた明治時代を少し振り返って見ることにした。 ところが、よく調べてみると、色々と面白いことが分かってきて、神話問題がちょっとおろそかになってしまった。  明治時代の銀行制度、教科書では扱っていないこともあって、好奇心を満足させることが沢山ある。あまりにも沢山あるので、1回ではまとめきれない。そこで今回は幕末から明治維新、貨幣を発行できる「国立銀行」という「民間銀行」が設立される直前までを扱うことにする。 まずは、銀行の「自分史」である「○○銀行○○年史」から興味を引く文章を引用することにしよう。
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<非常に複雑な江戸時代の貨幣制度> 江戸時代には鋳貨として金・銀・銭の三貨が使用されていた。金、銀は幕府直轄の大判座、金座、銀座で鋳造され、銭は金座、銀座の配下の銭座で鋳造されるものと、各藩で鋳造されるものがあった。
 江戸時代を通じてこれら三貨の種類は実に複雑であった。まず金貨は大判、五両判、小判、弐分判、壱分判、弐朱判、壱朱判の7種類で、いずれも計数貨幣であった。これに対し、銀貨は秤量貨幣である丁銀、豆板銀が中心で、別に計数貨幣としての五匁銀、弐分銀、弐朱銀もあり、6種類であった。 そのうえ、江戸時代を通じて幕府は前後10回にわたって改鋳を行ない、そのうち8回は量目品位を低下させた。この改鋳による分類を加味すると金、銀貨の種類はのべ67種に達した。したがって、新旧の貨幣何種類かが同時に混用される場合が多く、とくに善次郎(安田善次郎)が活躍する幕末安政以後は、混用が著しい時期で、一層複雑な両替関係が生じていた。 一方、銭貨は計数貨幣で、江戸時代に壱文銭、四文銭、拾文銭、百文銭の4種類が鋳造され、さらに分類として銅、鉄、真鍮の3種に分かれていた。
 貨幣の種類が多いうえ、計算単位も複雑であった。金貨は四朱が一分、四分が壱両というように4進法(両以上は十進法)であるのに対し、銀貨(秤量銀貨)は何貫何百何拾何分何厘(十進法)で、銭貨は何貫何百何十何文(十進法)であった。 さらに、三貨の使用範囲にはそれぞれ特徴があり、金貨は江戸を中心とする関東で主に幕府と麾下の武士団が用い、銀貨は大坂を中心とした関西で商人が使用した。銭貨は庶民一般の日常生活で使用されることが多かった。
 このように、江戸時代における金・銀・銭三貨は、計数貨幣と秤量貨幣に分かれ、しかも互いに本位貨幣と補助貨幣の関係がなく、並行して通用した。 したがって、三貨の間の交換は日常の相場によって行なわれた。しかも、相場は素材価値の変動、江戸・大坂間の為替取組の多少、頻繁な改鋳による品質の変化、製造数量の多少などによってたえず変動した。 金・銀・銭三貨相互の交換を業とする両替商が江戸時代に活躍する経済的背景には、以上の事情がある。 (『『富士銀行百年史』から)  
<江戸時代の貨幣制度> 徳川幕府が慶長6年(1601)金銀貨幣の制度を定めてから、わが国の貨幣制度は一応全国的に統一され、その体系が維新までの約260年間継承された。 すなわち幕府はまず慶長6年ごろ、金座・銀座を設けて金銀貨幣を発行し、さらに寛永13年(1636)には銭貨を発行するなど、次第に幕府鋳造の貨幣を天下に通用させ、各藩共通に通用させることにより、貨幣制度の統一を図ったのである。
 幕府は全国の主要鉱山のすべてを占有し、貨幣の鋳造権も幕府がこれを握った。もっとも防長において毛利藩が、銀幣を一ノ坂銀山(現山口市宮野付近)で、また銅銭・鉄銭を長門国荻銭屋町・同弘法寺(現荻市内)・同美禰赤村(現美東町)・周防国小郡等で鋳造したように、まれには鋳造が特定の藩によって行われることもあったが、 これらは一時的便宜のためにもので、すべて幕府の許可を得てその監督のもとに行われたものである。
 当時の貨幣は大別して金・銀・銭の3種があったが、それは本位・補助といった関係はなく、3貨並立して用いられ、その通用力にも制限がなく、言うなれば金・銀・銭の3本建てによる自由並行複本位制とも言うべき複雑な貨幣制度であった(通常これを「三貨制度」と呼ぶ)。 金・銀・銭貨は次のように分けられていた。すなわち、金貨は両・分・朱の単位があり、1両以上は10進法であったが、両以下は1両が4分、1分が4朱というように4進単位の計数貨幣であった。 銀貨は定位銀貨の他は、秤量して用いる10進単位の秤量貨幣で、1匁をもって単位とし、1匁の10文の1を分、1分の10分の1を厘と呼び、また1,000匁をもって1貫目と称した。これら並立的3貨の相互の交換価値は、その比価や流通数量によって時に相場の上下はあったが、原則的には金1両が銀60匁、銭4貫文となっていた。 また、一般的に大きな取引には金・銀いずれかが用いられ、日常の少額取引には銭が用いられた。しかし、大きな取引の場合、江戸を中心とする関東では金建てが採用され、京都・大坂を中心とする関西では銀建てが採られたのである。
 こうした貨幣制度も幕政開始後100年間はその面目を堅持していた。しかし、幕府財政の窮迫が現れてくる元禄時代以後には貨幣の改悪鋳造が重ねられるようになり、貨幣制度の混乱もようやく出現するようになった。 (T注 元禄時代の貨幣改鋳に関しては <荻原重秀の貨幣改鋳と管理通貨制度>▲ を参照のこと)
 また、旧幕時代にはこのような硬貨と並んで紙幣も発行された。幕末には幕府までが紙幣を発行した。そのうち最も注目されるのは諸藩の発行した国札(こくさつ)であり、一般には「藩札」とよばれるものである。 もちろん、藩札の発行は幕府の許可を受けて行われるものであり、幕府も石高に応じて発行時期の制定とか、発行禁止とかの取締りを度々講じた。 しかし、諸藩の財政が窮乏を加えるにつれて、次第に乱発傾向に陥り、藩の信用低下と通貨膨張のため金紙の開きが大きくなり、領内経済の混乱を導くことも少なくなかったのである。 (『山口銀行史』から)
<福山藩・広島藩の藩札> 貨幣の鋳造・発行権は幕府が独占的に掌握するところであったが、この幕府貨幣の補完的な役割りを果たしたのが領国限り通用の藩札であった。 一般には、寛文元年(1661)に越前福井藩の発行した銀札が最初の藩札とされているが、福山藩では、それより30年前の寛永7年に銀札を発行している。 領国経済が発展し、一藩的規模における統一された領域市場の形成により、札遣い経済の展開が可能となるに至ったのであり、藩札発行の事例は、近畿・中国を中心として、次第に増加していった。
 宝永4年(1707)、貨幣鋳造との関係から幕府は全国諸藩に対して藩札の発行を禁止したが、享保15年(1730)には貨幣の不足を緩和するためにその禁令を解き、藩札は領国通貨として一般化するに至った。
 この禁令解除を契機に、幕府は藩札発行の許可制を採用に、通用年限を20万石以上の藩では25年、それ以下では15年と規定するなど、領国通貨の統制に乗り出した。享保期から幕末までに藩札を発行したところは97藩を数え、江戸時代全期を通じると143藩にのぼった。
 福山藩では、全国諸藩に先がけて、寛永7年(1630)、菊屋太兵衛を札座として銀札を発行している。この銀札は銀貨と並んで流通し、兌換も円滑に行われていた。 水野氏断絶の元禄11年(16987)には発行高3,502貫に及んでいたが、水野氏を継いだ阿部氏も、禁令解除の享保15年、浜口屋源左衛門を札元として5種類(5匁、1匁、3分、2分、5厘)の銀札を発行した。 そして、翌16年には、領内において金銀正貨の使用を禁止し、藩札の通用を強制している。これらの銀札は、幕府の定めた通用年限の到来期に、それぞれ改印札として発行が続けられた。
 広島藩は、宝永元年(1704)、京都の豪商辻次郎右衛門、広島城下の三原屋清三郎、天満屋治兵衛の3人を札元にして、5種類(5匁、1匁、5分、3分、2分)の銀札を発行した。 しかし、ほどなく幕府の禁令が出たため一時廃止され、禁令の解けた享保15年から再び発行された。その後、宝暦9年に中断し、明和元年(1764)に復活して幕末に及んだ。 広島藩の場合も、銀札の発行と共に領内の札遣いが強制され、正貨の使用が禁止された。こうした藩札の流通は、貨幣経済の浸透を促進し、領国経済を発展させる上で重要な役割りを演じたのである。
 ところで、藩札は、元来、兌換紙幣であった。領国通用が強制されたとしても、他国商品の購入や他国旅行には金銀正貨が必要であり、その際には当然兌換されねばならず、当初はそれが実効されていた。 しかし、近世中期以降、藩財政の窮乏化と共に藩札が乱発されるようになり、藩は兌換に応じることができず、藩札は不換紙幣と化していった。 広島藩、福山藩の場合もその例に漏れず、兌換制を失った藩札の信用は著しく低下し、それに伴って札価下落を食い止め、札遣いの安定化を図る方策として、弘化4年(1847)に40分の1、嘉永5年にはさらに500分の1の平価切り下げと言えば、5匁の銀札が古紙同然の1厘となることであり、札遣いを強制された領民にとって、これはまったくの暴挙であった。 こうした藩札の乱発、札価の下落が幕末の幣制紊乱に一層拍車をかけると共に、物価体系を混乱させ、人心の不安をかき立てていくこととなるのである。 (広島銀行『創業百年史』から)
<土佐藩の岩崎弥太郎==四国銀行> 土佐藩では慶応2年、高知の西郊、石立村に鋳銭座を設けて幕府の許可を得ないまま銅銭の私鋳を行った。 土佐藩が、いかに通貨不足に悩んでいたかを物語るものである。鋳銭座は開成館に属して鋳銭局となり、のち原泉局と改称されたが、開業当時は工人が124人もいたというから、かなり大がかりなものであった。
2分金の偽造 幕末の混乱期に銅銭の私鋳をおこなった土佐藩は、明治になった元年早々、大胆にも2分金を偽造した。 これはメキシコ銀貨を改鋳し、それに金メッキして偽の2分金を造ったもので、同年秋から市場に出回った。土佐藩以外にも薩摩、筑前などの西国の藩で2分金の偽造が行われている。 こうしたことは市場を混乱させ、阪神方面の国際貿易にも支障を来たし、外国の公使団から政府へ厳しい抗議が行われた。政府は事態収拾のため、偽造金100両を30両の相場で回収することとし、また、諸藩には1万石につき引替金札300両を交付して回収に強力を求めた。 同時に偽造者の自首を求めたので、高知藩が申し出たが明治3年4月、大政官布告で、お咎めなしとなった。
開成館の設立 土佐藩では前記のように財政の充実を図るため勧業殖産策を進める一方、防衛のための艦船、鉄砲の整備を急ぎ、また欧米先進国の知識の導入を目的として、慶応2年2月、開成館を設立し、後藤象二郎の総括のもとに、つぎの各局を設けて事業を始めた。
 勧業局 従来の国産役所の仕事を引き継ぎ、紙、樟脳、茶、鰹節など20種の藩営専売制を実施し、産業の開発指導を行った。
 貨殖局 上方や長崎への国産品の移出と防衛を担当し、特に紙や樟脳などの国産品の販売と船舶や武器の購入にあたった。物産の売り捌きや対外貿易には長崎と大阪に土佐商会を設け、岩崎弥太郎が貨殖局の役人として手腕を発揮した。
 税課局 物品税や賞品の移出入の課税にあたった。
 その他 山虞(さんぐ)局(山奉公の仕事)、原泉局(銅銭の私鋳)、鉱山局(、捕鯨局、火薬局、軍艦局、訳局(洋書の翻訳)を置いた。
 岩崎弥太郎は貨殖局の役人を一時辞任したが慶応3年、再び土佐商会の長崎駐在員となった。しかし明治元年、上役と意見が合わず、またしても辞任した。藩ではその後、長崎の土佐商会を縮小して大阪に主力を注いだ。 しかし、こうした府県の商会所が物品を買い占めて利益を独占することは民業を圧迫するとして政府が活動を禁止したので、大阪の土佐商会は解散した。藩では明治3年9月、土佐開成社を設立し、同年10月、九十九(つくも)商会と改称したが、表面上は民営の形をとり、岩崎弥太郎は土佐屋善兵衛を名乗って社長に就任した。 この時、今日の三菱のマークである菱形模様を採用した。
 その後、岩崎弥太郎は大阪の長堀の旧藩邸の一部を借りて、藩船で高知と神戸、大阪、東京間の海運業を営み、また、藩札の引き換えを行って藩の財政を助けた。明治5年1月、藩船の払い下げを受け、藩から独立して実業界に入り、九十九商会を三つ川商会と改称し、さらに同年3月三菱商会と改め、三菱王国の礎をつくった。
 土佐藩では、土佐商会のほか明治元年、東京に深川商会を設け、国産品の取次販売などを行ったが、前述のとおり、政府によって藩が直接、商業活動を行うことが禁止されたので、翌2年に東京商法局を設けれ、実際の業務は商人に当たらせた。 そのほか山内家の家老で宿毛を預かる伊賀氏は慶応2年、大阪に蔵屋敷を設けて木材、紙など宿毛の物産の販売を行う一方、運送船を購入して瀬戸内海の海運事業も始めた。伊賀商法は好成績をおさめていたが、明治2年に中止した。 (『四国銀行百年史』から)
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<京都府の成立と勧業施策> 近世の京都は、江戸・大坂とともに「三都」と並び称された。江戸時代に入り、江戸や大坂が政治都市や商業としとして発展したのに対し、京都は王城の地という歴史を背景に、典章儀節の淵源にちなむ美術工芸や織物、京染、陶磁器、金具など多彩な伝統産業が発展し、かつての政治都市から一大産業都市に転換していった。 なかでも、西陣機業地は飛躍的に発展し、享保15年(1730)ごろには保有織機(高機)台数が7,000余機にのぼり、他産地の追随を許さなかった。
 また、丹後でも、享保年間(18世紀はじめ)に西陣織りの技法が峰山地方に伝えられ、丹後ちりめんが農家の副業として発展し、丹後機業地を形成するに至った。そして、このような西陣、丹後の2大機業地に支えられて、京都の商業では織物問屋が優位を占め、なかには、前記三家のように江戸、大坂にも呉服店や両替商を持ち、 「江戸店持(たなもち)京商人」として成功し、また幕府の公金為替を引き受けて専門敵金融機関としての基礎を築くものも現れた。
 明治2年(1869)の東京遷都は、京都の金融のみならず、産業にも大きな影響を及ぼした。 とくに、西陣が受けた痛手は大きかった。これは遷都に伴い公卿、諸侯、官員、豪商など高級品の需要層が東京へ移住したことに加え、維新による礼装など風俗の洋風化から、衣冠束帯などの有職織物がほとんど不要となり、西陣への需要が激減したからである。
 維新前、京都は、江戸の100万人、大坂の50万人に次いで人口35万人を擁したが、遷都後は「かつて7万戸と称された京都の戸数が1万余戸も減少した」(『京都経済の百年』)といわれ、人口も明治7年には約23万人に減少した。
 旧幕時代、京都は幕府の直轄地として、守護職、所司代、町奉行がその行政を取り仕切っていたが、大政奉還に伴い、慶応3年12月13日、新政府は旧東町奉行所、次いで京都市中取締役所とした。 そして、この役所が慶応4年3月3日京都裁判所、次いで同年閏4月29日京都府と改称され、大津裁判所総督長谷信篤が初代知事に就任した。ここに京都府が成立したのである。 (『京都銀行五十年史』から)
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<江戸時代の金融制度> 質および抵当の制度、無尽または頼母子の制度、為替・両替の制度や機関は江戸時代にいたって全面的に発達した。 都市の急速な発展、商業や海運交通の格段の発達に伴いいわゆる商品、貨幣経済が飛躍的に進展したからである。 商品の流通はたとえば松前や関東の水産物が九州のはてまで売り捌かれ、琉球や薩摩の砂糖が東北や松前までも販売せられるほどとなり、その他の商品に関しても流通の範囲は広くなり市場は全国的に拡大せられた。 また貨幣制度は江戸時代のはじめに一応統一され、幕府鋳造の金・銀・銭の3貨がはじめて全国的に通用し、農村にまで行き渡るにいたった。金融の諸制度や機関が大いに発展したのは必然であった。
 江戸時代の両替商は当時の金融機関として最も重要なものであって、いまだ近代的なものではなかったが、銀行業務中の重要なものはほとんどすべてを営むに至っていた。 すなわちその本来的な業務である金銀銭の交換・売買のほかに、幕府や藩庁の公金取扱・為替・預金・貸付・手形の振り出し等の業務をも併せて営んでいた。江戸・大坂・京都の3都のほか大津・堺等の都市において両替商が多く存在した。 なかんずく大坂と江戸のそれがもっとも発達していた。
無尽または頼母子 今日無尽とは同じ意味に用いられているが、本来は相異なる意味をもつものであった。その起源は共に鎌倉時代にあり、後にその差異が失われて全く同じものとなった。 室町時代の無尽の方法は一応完成したもので、江戸時代も大体においてそれを継承したものであったが、単なる共済的のもののみでなく、商工業者の資金取得又は庶民の放資のためにも行われるようになった。そしてその総金高も数十両ないし数百両の多額に上るにいたった。
特殊な金融機関 江戸時代には特殊な金融機関が種々存在した。それらは、「札差」「名目金または名目銀」「座頭金」「鳥金」「百一文」「日なし」などと呼ばれる金融機関、金貸しが主な業務である金融機関があった。 (『第一銀行史』から)
大坂の両替商 大坂の両替商はこれを十人両替・本両替・銭両替・南両替・米方両替の5種に分けるのが普通である。
 十人両替とは寛文元年(1661)大坂町奉行石丸定次が両替商の中から選抜した十軒の大両替商をいい、両替商仲間における首領たり監督者たる資格をもった者である。 十人両替は幕府公金の出納を掌り、本両替商を統括し、金銀売買相場を支配し、また一般両替業務並びに幕府・諸藩への貸付を取り扱った。
 本両替或いは本仲間両替は普通の両替商であって、十人両替の支配を受ける。両替商に仕えて業務を修得し30歳以上に達した者が、一定の手続きを以て十人両替仲間および本両替仲間の許可をえるときは本両替商を開業することができた。 その数には制限はないが、江戸時代の初期においては総数200余軒、享保頃に至っては340余軒であった。
 本両替の業務は金銭の両替・金銀の相場立・諸貸付・預金・手形の振出又はその融通・為替等であって、今日の銀行業務に類似していた。彼らのうち資力の大なるものは幕府や諸藩の金融機関の役割を果たした。掛屋・蔵元これである。
 銭両替すなわち三郷銭屋仲間は銭の両替を業とする者であって、その数は甚だ多く普通米穀雑貨等を販売し、そのかたわらこれを営んでいた。銭両替は淳仁両替の支配の外にあった。
 南両替すなわち南仲間両替は大坂南部の銭両替の仲間であって、前述した三郷銭仲間よりも資力があり、享保17年(1732)には小判銭相場聞合所を建て本両替の相場を移して売買した。 本両替商はこれを脇両替となし仲間規約を以て彼らと取引することを禁じた。仲間の員数は嘉永年間の記録によれば三郷銭屋仲間の617名に対し南両替仲間は544名であった。 
 米方両替は1名遺来(やりくり)両替と言い、堂島米市場にあった両替商であって、堂島町内の豪商がこれを営んだ。その業務は帳合米商内の証拠金および仲買人からの預金を預かり限月売買の差引勘定をなす等であって、米市場商人の取引上の便利のためにできたものであった。 帳合米商内にさいしては米方両替は米仲間から売付(書)または買付(書)を受け取り、同時に歩銀(手数料)と敷銀とを受領した。彼らはこの売付や買付、すなわち差紙を以て、売先や買先に取付に廻り、最後に買先或いは売先にいたって済合となったのである。 (T注 堂島の帳合い取引については <大坂堂島米会所>▲ を参照のこと )  (『第一銀行史』から)
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<江戸時代に無尽講の全盛時代を迎える> 頼母子講と無尽とは本来違った制度であったが、戦国時代末期から江戸時代以降にはほぼ同じ意味として用いられるようになった。
 頼母子講や無尽講は、成立当初から金融の性質を含むものであったが、主たる目的が神社仏閣の参拝や経済的相互扶助であったために共済的な色彩が強く、鎌倉時代から江戸時代までを共済組合的時代と呼んでいる。 その後、江戸時代になってから射倖(しゃこう)的、つまり、投機的、富銭的、賭博的に発達し、無尽講の全盛期を迎える。 (T注 江戸時代の旅と頼母子講については <旅の普及を支えた経済制度>▲ を参照のこと)
 頼母子講や無尽には、親と称する発起人と親が募集した仲間があった。この組が講で、仲間は諸衆または講中と呼ばれた。 講中は規約に従って集会し、懸銭を拠出し、入札または抽選の方法によって落札者を決めたのである。落札によって受け取る金銭は、取足と呼ばれた。落札した後に懸金をしなくなることを取退(とりのき)無尽とか懸捨(かけすて)無尽と呼んだが、取退無尽の流行に直面した幕府は、賭博に類するものとしてしばしば禁止したのである。 この時代を射倖団体時代と呼んでいる。しかし、その一方では、純粋な頼母子講や無尽が、庶民階級に深く浸透していった。
 江戸時代においては、農・工・商の庶民階級はもちろん、下級武士の階層も生活の圧迫から無尽、頼母子講を広く利用した。やがて庶民の生活共済的な目的を超えて農民、商工業者の事業資金調達の目的が加わるようになり、庶民金融機関の性格を持つようになった。 そして、さらに発展し、無尽担保金融を行う者や、無尽講に1人で何口も加入し、これを他の者に売却することを業とする者も現れるようになった。庶民の共済制度として始まった無尽、頼母子講は、こうして商業化の過程をたどっていったのである。 (『第三銀行80年史』から)  
<江戸時代に発達した「無尽」> 共済金融(株)(⇒T4共済無尽(株)⇒S13鳥取無尽(株)⇒S26扶桑相互銀行⇒S64ふそう銀行⇒H3山陰合同銀行)は大正2年12月25日、鳥取県東伯郡倉吉町大字1丁目1031番地1,現在の倉吉市に資本金1万2,000円で設立された。 営業の目的は「一定の会員を募り相互の融通の便利を図り又貸付金営業を為す」となっている。
 「無尽」は鎌倉時代に始まり江戸時代に最も発達したが、明治以降においても依然盛んに行われた庶民的な相互金融組織である。 無尽は本来「尽くることなし」の意味で仏典に由来した言葉であり、インドから中国、朝鮮半島を経てわが国に渡来したものと言われている。
 無尽業は大正4年10月には全国無尽業者2,363(うち鳥取県8、島根県22)を数える盛行を示したが、なかには不健全な経営に陥るものも少なくなかった。 ここに、政府は無尽加入者の権利を保護するため、4年11月「無尽業法」施行(6月公布)に踏みきったのである。
 同社は無尽業法施行に伴い11月、同法による事業方法ならびに無尽契約約款の改正に関する大蔵大臣の認可を受けて、共済無尽株式会社と改称した。そして、5年3月、無尽業法の規定により資本金を最低限の3万円に増資した。
 無尽業法施行により、厳しい免許要件を満たし得ない小業者は整理され消滅した結果、5年末、全国無尽会社の数は136社に減少した。
 しかし、その後増加傾向が続き、昭和8年末には276社を数えるまでになった。11年政府は銀行に対して、いわゆる「1県1行主義」を掲げて合同を奨励していたが、無尽会社についても経営の健全化、低金利政策の実施や国債の消化などを図るため、14年2月にはとりあえず「1県数社主義」を打ち出したが、この方針はその後「1県1社主義」に進展することになる。 (『山陰合同銀行五十年史』から)  
<無尽・質屋など多様な地方金融の担い手> 明治初年、山形県内には国立銀行や銀行類似会社等が相次いで創設され、金融の途もしだいに多様化してきたが、一般の庶民の間でいぜん馴染みの深かったのは質屋や貸金業などの貸金資本であり、庶民間で相互に金銭を融通し合う頼母子講(無尽)であった。
 当時の県内質屋ぼ数は明治19年時点で300軒、同年末現在で貸出総額はおよそ12万3000円、この貸出口数が14万6000口であったので、1口当たりの貸出額は84銭程度と、きわめて零細なものであった。 当時の県内の世帯数はおよそ11万6000世帯で、貸出口数はその1.27倍にあたり、質屋の利用が相当一般化していたことをうかがわせる、このように質屋は庶民の間における小規模金融の担い手の1つであったが、高利であり小口でもあったため庶民層もこれだけに依存していたわけではなかった。 そので頼母子講と称する講集団が組織され、庶民相互間の金銭の融通が盛んに行われていた。ただこれがどの程度普及していたかについての統計資料は見当たらない。
 このほか藩政時代から明治期を通じ、きわめて重要な地方金融の担い手となっていたのは、地主および商人層であった。多くの富商や大地主は貸金業務を営み、その主要な収入源となっていたが、一方ではこれが土地集積の梃子ともなっていた。 県内最大の大地主本間家では、小作米売却金に匹敵する貸金の利息収入をあげていたとされており、また山形の豪商長谷川家や佐藤家などは、藩政時代から各層の事業資金を広く貸し付けていたとされている。時代と共に大地主の間にはこの貸金部門を銀行として分離独立させるものも出た。 明治21年に本間家によって設立された本立銀行、鶴岡の風間家によって大正6年に設立された風間銀行などはその例である。 (『山形銀行百年史』から)
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<太政官札の発行> 明治新政府が成立した際、わが国の通貨制度は極めて混乱していた。金・銀・銅・真鍮・鉄等各種の金属貨幣が流通していたが、徳川時代における改鋳と稚拙な製造技術のため、目方や純分が均一でなく、各種通貨の間の交換比率は非常に複雑であった。 (T注 元禄時代の貨幣改鋳に関しては <荻原重秀の貨幣改鋳と管理通貨制度>▲ を参照のこと)
 そのうえ各藩によって濫発され、その価値が下落した大量の藩札も存在しており、さらに贋造通貨も横行し、円滑な商品流通が通貨面から阻害される状況にあった。
 新政府は徳川時代の遺産の1つとして以上のように不統一で紊乱(ぶんらん)した通貨制度を引き継いだ。このような情勢のなかで、慶応4年(1868)閏4月19日、富国の基礎を建てるため一時の便法として金札(太政官札)を発行する旨の太政官布を公布した。 太政官布発行のねらいは、「広く之を民間に貸下げ、其資本を充実にし、依て以て殖産貿易を振興し、富国の源を涵養するに在」り、新政府による資金創出策の第1歩であった。 それは、各藩や商人等に支配されていた全国の商品流通機構に介入し、上からこれを統制しようという流通主義的な殖産興業政策であったと指摘されている。
 上記太政官札は慶応4年5月25日から発行された。これより先、閏4月25日に「大に商業を振起し政府の為に間接税の収入を増加せしめる」ことを目的として会計官中に設けられた商法司と、その下部機関である商法会所が太政官札の貸付を担当した。 しかしその流通は困難を極め、その価値は非常に下落した。政府の政治的権威が確立しない段階で発行され、しかも兌換の用意が特にあったわけではなく、発行額にも厳しい制限のなかった政府紙幣が広く通用するはずがなかった。 また太政官札の発行は、確固たる財政的基盤をいまだ有していなかった新政府の財政的理由から、「一は以て国庫の窮乏を補充」することを主旨としていたことも見逃すことができない。 慶応4年5月から翌明治2年6月までの太政官札発行総額4,800万両の6割以上が、財政資金の不足補填に充当されたと推測される。それが太政官札の価値下落を一層激しくしたことは否定できない。
 政府は太政官札の円滑な流通と価値の維持を図るため、金札(太政官札)の相場取引取締りやその通用を阻害する者の処罰など、さまざまな強権を発動したが効果のあろうなずがなかった。 太政官札の流通難と価値下落から財政難に悩まされた政府は、ついに2分銀、1分銀の改鋳吹増しを余儀なくされるに至ったが、これが幕藩期以来の幣制混乱に一段と拍車をかけた。 これに伴い、先進国からは円滑な貿易取引への大きな障害としてわが国通貨制度の混乱に対する抗議が続き、重大な外交問題となった。太政官札の貸付を軸とする流通主義的殖産興業政策は失敗に帰し、明治2年(1869)3月15日、商法司は廃止された。
 商法司廃止後半月を経た3月30日に会計官副知事を兼任することになった大隈重信は、2年5月28日の布告で太政官札の製造を中止し、その発行高を制限する一方、明治5年までに太政官札を政府が新に鋳造する貨幣と交換することにし、その後交換未了分に対しては月5%の利息を付することにした。 しかし、一片の布告で解決のつくような問題ではなかった。 (『日本銀行百年史』から)
<太政官札という不換紙幣> 江戸高輪の薩摩藩邸で史上名高い西郷・勝会談が行われたのは、慶応4年(1868)3月13,14日の両日であった。 その13日に、東山道軍はようやく武州蕨宿(現・埼玉県蕨市)に到着している。これに従軍してきた三井組の手代堀江清六は、兵糧米大量調達の特命を受けて江戸に潜入、夜、駿河町の店に入った。 三井高喜(たかよし)ら江戸の首脳は、この時、堀江から多大の情報を得たものと推測される。
 この慶応4年は旧暦の閏年で、4月の次は閏4月であった。その6日朝、上州(群馬県)の山間を流れる烏川の水沼河原で一人の元幕府高官が、東山道軍の隊士の手により、従者らとともに斬に処せられた。 前月来追捕令の発せられた小栗上野介忠順である。倒壊直前の幕府にあって製鉄所建設や兵庫商社設立、幕府紙幣発行など才腕を発揮した小栗は、こうして数え年42歳の生涯を閉じた。 辛くも身を逃れたその妻子を、後日三野村利左衛門は長く自邸内に迎え入れて旧主に報いている。
 閏4月19日、政府は紙幣発行の布告を発した。「王制開始にあたり富国の基礎を建て、世上の国窮を救助するため、皇国一円通用の金札を製造し、諸藩や商家農家に貸し付けることとした」というのがその布告の趣旨である。 この太政官札発行を立案、推進したのは、当時実質的な財政担当官であった三岡八郎(由比公正)で、三岡の主たる意図は、全国各地の産業振興のための資本供給にあったと考えられる。 しかしこの金札には、目前の国庫の不足を補うという役割も与えられており、政府全体としてはむしろこの面を推し進めてゆくことになる。
 政府にはもちろん正貨の準備はないので、この金札は不換紙幣である。金種は十両、五両、一両、一分(4分の一両)、一朱(16分の一両)の5種で、これを3千両発行し、諸藩には1万石につき1万両の割合で興業資金として貸し出すほか、京阪近郷の有力商家には金札役所を通じて貸し付けることとされた。
 太政官札製造に際し、三井次郎右衛門(高朗=たかあき)や大阪両替店の名代役吹田四郎兵衛は、銅販の製版師や印刷業者を斡旋するなど、「五ヶ国通用銀札」の経験を生かして政府に協力した。
 金穀出納所は2月に会計事務所と改称されていたが、閏4月21日にはさらに会計官と改められた。同25日、政府は商業振興機関として会計官の中に商法司という部署を設置した。 商法司の事務所を商法会所と言い、京都では、三井、小野、島田の為替方3組が会計基立(もとだて)金収納業務のために共同で建てていた為替御用所をその会所にあてることにした。 (『物語三井両替店』から)
<太政官札と三井と渋沢栄一> 太政官札は前述のように政府から諸藩に貸し付けられたが、この借入紙幣を使用して企業活動を始めたのが、静岡藩にいた渋沢栄一である。慶応3年、幕府のパリ万国博覧会使節団の一員として渡仏した渋沢は、明治元年11月帰国後、徳川慶喜の退隠していた静岡に居を定めた。 静岡藩の借り受けた太政官札は53万両に上がったが、渋沢は藩役人に説いてその中の30数万両に民間出資金も加え、「商法会所」を設立し、一種の商社活動を開始した。
 しかし、全国各地で実際に肥料などの物産を買い付けようとすると、太政官札はなかなか通用しなかった。そこで渋沢は明治2年2月、東京へ出て三野村を訪ね、この紙幣をまとめて正金に換えたいと相談した。三野村は快くこの両替に応じている。この時、太政官札の交換レートは、額面金額の2割引ほどであった。
 渋沢はこの明治2年の暮れに、大隈重信に説得されて大蔵省に入る。静岡から東京に移って来た渋沢に対して、三野村は何かと好意を示し、三井入りを勧めたことも再三であったといいう。
 明治2年7月までに結局4千8百万両も大量発行された太政官札は、三岡の意図はともかく、その過半が歳入不足の補填に充当されてしまった。 そして氾濫する不換紙幣は、政府が金融制度を整理、確立してゆく過程で大きな難題と化してしまう。しかしこの不換紙幣と会計基立金とによって、明治政府は発足時の危機を切り抜けたのであり、この時期に三井は、政府にとって不可欠の支柱になっていたのである。 (『物語三井両替店』から)
<明治政府の貨幣制度改革> 維新直後の幣制は、しばらく旧幕時代の幣制をそのまま引きついでいった。江戸時代の貨幣制度は、非常に入り組んでおり、時代を経るほど金銀貨幣の品質が低下し、その計算は複雑をきわめた。
 その大要は表のようであった。
 <<江戸時代の貨幣>> 
────────┬──────────────────────────── 
金貨      │大判   5両判  1両判  2分判  2朱判
銀貨      │1分銀  2朱銀  1朱銀  5匁銀  丁銀  豆板銀
銅・真鍮・鉄銭 │当百銭  4文銭  1文銭
藩札      │諸藩および旗本が発行したもの
────────┴──────────────────────────── 
 また、明治元年末の旧貨幣の流通高は明治2年5月制定の新貨に換算すると次の通りであった。
 金貨   8,761万円
 銀貨   5,266万円
 銭貨     603万円
 藩札   2,464万円
 合計 1億7,094万円
 明治政府は、明治2年(1869)2月には造幣局を設置し、銀貨を本位貨幣、金貨を補助貨幣と定め、名称も両・分・朱・文を廃し、円・銭・厘と改め、十進法を採用した。 形状も円形に統一し、同年12月、藩札の流通を禁じ、4年7月の廃藩置県と同時に、その時の相場で藩札を回収することとした。 さらに4年5月、「新貨条例」を公布し、金本位制に改め、5年12月には、ドイツに依頼して近代的な紙幣を製造して、それまで発行されていた太政官札その他の政府紙幣を、順次引き換えたので、11年以後は新紙幣に統一された。この紙幣は俗にドイツ紙幣と言われた。 (『埼玉銀行史』から)
<「新貨条例」の制定> 明治初年において流通していた貨幣は、種々雑多で不統一を極め、品質も粗悪であった。そのうえ、地方には1,694種にものぼる藩札が流通しているという有様で、貨幣制度は混乱の極にあって収拾できないような状態にあった。 そのため、政府は明治4年5月、「新貨条例」を公布して近代国家に要請される幣制の統一を進めることにした。同条例では純金1,500mgを1円とし、これを基準として、その100分の1を銭、銭の10分の1を厘とすること、新貨幣1円と旧貨幣1両を等価とすること── などが定められた。この新貨条例によって、わが国も法制上で一応、西欧先進国と共通の貨幣制度をもつに至ったのである。 (『秋田銀行百年史』から)
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<政府紙幣の発行> 明治新政府は発足当初、大政奉還後ではあっても幕府諸侯の領地からの歳入は少なく、維新の各地転戦の資金は三井、鴻池などの富豪から調達、借用する有様で、著しい財政難にあった。 政府は慶応4年5月から太政官札と呼ばれる5種類(10両、5両、1両、1朱、1分)の金札を発行した、太政官札の発行の建前は、一般社会の困窮を救済することとされたが、実際には大半が新政府の財政に窮状から国庫の欠乏を補填することに充てられた。 太政官札は明治2年6月までに4,800万両が発行されたが、不換紙幣であったため通貨価値が安定せず、最初の1年間は流通が不円滑で、地方にあってはほとんど通用しなかった。 そこで政府は、明治2年5月の布告で明治5年末までに太政官札を新貨幣と交換することにし、その後交換未了分に対しては年5%の利子を付けることとした。これによって太政官札はようやくその信用を増し、流通は次第に円滑となったが、当時少額紙幣が少なく取引上不便であったため、明治2年9月、太政官札と引き替えに民部省札(2分、1分、2朱、1朱)を750万両発行した。 その後、廃藩置県後の赤字財政補填のため明治4年10月に大蔵省兌換証券を600万円、北海道開拓費捻出のため明治5年1月から開拓使兌換証券250万円を発行した。 これら4種の紙幣は総称して政府紙幣と称され、次第に広く流通していった。
 しかし、正貨の裏付けのないこれらの不換紙幣が雑多に流通するにつけ、偽造札も多くなり始め、加えて各種紙幣の不統一による流通不便もみられるようになった。 また、政府紙幣は金兌換をうたっていたが、事実上これらの政府紙幣と交換すべき金貨、銀貨などの正貨を政府は保有していなかった。 そこで、政府は太政官札などの金札を新紙幣(正貨)に交換する当初の構想を断念し、新紙幣を発行する方針により政府紙幣の統一を図ることとした。 新紙幣は明治5年4月から発行され、順次政府紙幣との交換が行われた。この紙幣はドイツで印刷され、従来に比して精巧なもので、額面は100円、50円、10円、5円、2円、1円、半円、20銭、10銭の9種類であった。
<政府新紙幣発行数量> (単位 円)
種別  発  行  事  由   金 額  円
第1種 官省札回収のため発行 52,897,165
第2種 旧藩札回収のため発行 22,618,245
第3種 開拓使経費補填のため発行 1,100,000
第4種 大蔵省兌換証券回収のため発行 6,784,333
第5種 開拓使兌換証券回収のため発行 2,463,520
第6種 出納費へ繰替貸のため発行 8,000,000
第7種 西京・大阪・神戸為替会社へ貸付のため発行 525,444
第8種 西南征伐費支弁のため発行 27,000,000
合 計   121,388,707
 『明治前期財政経済史料集成』第13巻『明治貨政考要』から (『百十四銀行百二十五年誌』から)
    
新貨条例の制定 明治政府が成立した際、わが国の通貨制度は極めて混乱していた。江戸時代における度重なる改鋳と稚拙な製造技術のため、目方や分量が均一でなく、各種通貨の間の交換比率も非常に複雑であった。 (T注 元禄時代の貨幣改鋳に関しては <荻原重秀の貨幣改鋳と管理通貨制度>▲ を参照のこと)
 さらに贋造通貨も横行し、円滑な商品流通が通貨面から阻害される状況にあった。このため、政府は慶応4年4月純正画一な貨幣を製造する方針を決定し、明治3年大阪造幣寮を建設、同年11月には「新貨幣品位及重量表」を発表し、1円銀貨を本位貨とする銀本位制の採用を内定した。 しかし、渡米中の大蔵少輔伊藤博文の強い主張により、欧米列強と同様の金本位制を採用することに方向転換し、明治4年5月10日、わが国最初の貨幣法である新貨条例を公布した。この新貨条例によって従来の両は円に改められ、1円金を原資とする円・銭・厘による10進法の貨幣単位が定められた。
 また、純金2分(1.5グラム)を1円とする金本位制が採用された。当時アジアでの貿易決済通貨であったメキシコドル銀貨とほぼ同一の品位・量目の貿易用1円銀貨にもほとんど無制限の通用力を認めたため、実質的には金銀複本位制となった。 新貨条例は、その後再三の改正を経て貨幣条例、貨幣法へと発展していった。そしてこれがわが国における近代的な統一的貨幣制度確立への出発点となる画期的な制度の発足であった。 (『百十四銀行百二十五年誌』から)
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<為替会社の設立> 新政府は殖産興業政策を推進するに当たって、民間での近代産業を育成するため、近代的な金融機関の発達を図った。
 明治4年、商業の振興を目的として、商法司という役所を設けたが、翌2年2月にはこれを通商司に改組した。この通商司の指導、監督のもとに、旧幕時代の御用為替方であった三井、小野、島田などの豪商から資本を募り、東京、大阪、京都、横浜、神戸、大津、新潟、敦賀の主要商業都市8ヶ所に通商会社と為替会社が設立された。 通商会社は内外商業、特に外国貿易の振興に携わり、為替会社は通商会社に資金を供給するとともに、民間の商業、生産、金融を円滑にすることを目的としていた。 為替会社は、政府から貸し下げられた太政官札や自らが発行した紙幣をもって、預金、貸出、為替などの業務を取扱い、政府の手厚い保護と多くの特権をもって経営された。 それにもかかわらず、横浜を除く各社は巨額の負債を抱えて著しい経営困難をきたし、明治6年から7年にかけて次々と解散してしまった。 その原因としては、制度が実情にそわなかったこと、会社経営に適当な人が得られなかったことなどが挙げられるが、この為替会社の失敗は新しい銀行誕生への布石となったもので、大きな歴史的な意義をもっていたと言えよう。 (『秋田銀行百年史』から)
<為替会社の設立と失敗> 「明治御一新」の下における新政府の財政はいくばくも租税収入にたよることができず、他面、貿易は連年輸入超過を続け、極度の窮乏状態に陥っていた。そこで政府は、会計基金300万円の募債と紙幣発行によってこの難局を打開しようとし、まず京阪の富豪に会計基金の募集をはかると共に、紙幣発行を全国に布告した。 これがいわゆる太政官札、あるいは金札と呼ばれる不換紙幣の発行であった。太政官札は殖産資金の供給を目的とし、農商工等殖産を志すものに貸し付け、その育成をはかろうとしたもので、毎年末に借用総額の1割を返済し、13カ月をもって完済すべきこと、返済の紙幣はただちに償却し、再び発行しないことになっていた。
 しかし、この流通は円滑にいかず、東京・大阪・京都においてさえ正貨に対して6割あまりも下落し、地方ではほとんど通用することはなかった。政府は太政官札の貸付を円滑にするための金融機関の設立をはかった。 これが為替会社であった。これより先、政府は明治元年に観商のために商法司という機関を設け太政官札の貸付をなじめたが翌年にはこれを廃し、その後身として通商司なる機関を設置した。この通商司は内外の商業を振興し政府の歳入を豊にすることを目的としたもので、その下には諸商人を連合させ、外国貿易にあたらせるための通商会社と、通商会社の資金供給機関としての為替会社を設けた。
 為替会社は銀行の性質をそなえた紙幣発行の特権をもつ金融機関で、東京・横浜・新潟・京都・大阪・大津・敦賀の8ヶ所に設立され、政府の手厚い保護をうけて、預金・貸付・為替・紙幣発行などの業務にあたった。当初、為替会社の貸付は通商会社と協力して行われ、利息も月1分5厘と低利で順調に普及するかのように見えたが、その資金源としては預金が少なく、貸付金は主に政府の貸下金(かしさげきん)と発行紙幣および株主の身元金によるという状態で、 経営はしだいに行き詰まりを見せてきた。この原因は、当時の実情からしてこれらの制度があまりにも急進的であったこと、会社経営に人材が得られなかったこと、半官半民のため政府の過度の干渉があったことなどによるとされるが、結局、多額の債務を残して明治5年にはほとんどその機能を失うに至った。 (『山形銀行百年史』から)
<北陸地方における為替会社> 北陸地方において銀行業の先駆をなしたのは、明治2年に設立された敦賀為替会社である。同じ頃、金沢に金沢為替会社、大聖寺に融通会社が設立され、藩の公金を取り扱い併せて一般の銀行業務を行ったが、両社ともに、敦賀為替会社と違って藩営であった。 また、越中の国で新川県が誕生した明治4年ごろ、魚津町(当時の同県庁所在地)の資産家であった寺崎与一郎が中心になって、魚津為替会社の設立を願い出ている(富山県関係文書)。
 このように、北陸地方の主要地(特に物資の集散地)において明治初年に早くも現在の主要銀行業務を行う金融機関が誕生し、また、その設立の動きがあったことは注目される。 (北陸銀行『創業百年史』から)
<敦賀に為替会社設立と三井組出張所の進出> 質屋、金貸し業、頼母子講さらには地主や問屋の前貸制度などははやくから行われていたが、現在の銀行の性格を備えたものとして本県(福井県)で初めて誕生したのは、明治2年に敦賀に設立された敦賀為替会社である。
 全国で8社の為替会社のうち1社が敦賀に設立された背景として、敦賀は天然の良港をもち、旧幕時代には諸藩の倉庫が立ち並び、中国や韓国との交通は無論のこと、畿内へ通ずる要港として繁栄し、地元の海運業者のほか江州商人や御用商人の島田組、三井組の支店などがあり、為替会社設立の要請が強かったことが挙げられる。
 設立者は敦賀財界の有力者18名で構成され、大蔵省役人二等出伺紙幣寮の神崎正威の監督下に誕生した。 構成員は海運業14名、醸造業、地主が各2名であった。これらの社中(社員)が拠出した身元金(出資金)は2万1,550両で、3年2月に準備金として4万1,000両の紙幣(金券)が発行された。 しかし、同社は当時設立された全国8つの為替会社の中では最も小規模であった。
 同社は社外預かり金(一般預金)の不足から勢い営業資金を紙幣の発行に頼らざるを得なかったが、明治4年以降は政府の方針で紙幣発行の規制が厳しく営業資金は減少の一途をたどり、規模の縮小を余儀なくされた。 貸出金は明治6年3月現在で、諸方貸出金と商社貸付金合わせて、6万3,882両2歩であった。主要貸出先は、西京為替会社、開商会社のほか同社役員を主体とした貸出が多かった。
 明治4年7月に通商司制度が廃止され、5年11月国立銀行条例が公布されたのに伴い、同社は7年3月に解散した。 (『福井銀行80年史』から)
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<江戸時代、金を借りて利息を払うのは当然であった> 「明治維新後、日本は西欧の資本主義経済を取り入れた。このため江戸時代とは違った経済体制になった」と言うと、「なるほどな」と思うかも知れない。 江戸時代は資本主義経済ではなかった、と思っている人も多いかも知れない。けれども、江戸時代は資本主義的な面も多く、同じ時代の西欧と比べてもひけを取らないほど、資本主義の進んでいた面もある。 このため『資本主義は江戸で生まれた』と言う人もいる。(『資本主義は江戸で生まれた』鈴木浩三 日本経済新聞社 2002. 5. 1)
 その1つは、貨幣制度で、金・銀複本位制度でありながら、銀を金の補助貨幣のように扱い、まるで管理通貨制度のように扱っていた。 その管理通貨制度的な考えは、元禄時代の荻原重秀にまでさかのぼり、幕末の金の大量の流出も、日本と西欧との金融制度の違いから生まれたものだった。TANAKAの考えは、「当時は日本の金融制度の方が進んでいた」となるのだが、それだけに西欧人に理解されずに大量の金が流出することになった。 これに関しては<グローバリゼーションによって社会は進化する> 幕末、金貨の大量流出▲を参照のこと。
 江戸時代の金融制度を調べてみると、金を貸す機関が多いことに気づく。人々は、大名も武士も商人も農民も、「金を借りたら利息を払う」ということは当然のこととなっていた。しかし、「金を預けて利息を稼ぐ」という金融機関はなかった。 これが明治になってからに銀行制度の発達に大きな影響があったと思う。つまり、銀行ができて「そこから利息を払って金を借りる」ということには抵抗がなかったが、「預金して利息を稼ぐ」ことには慣れていなかった。このため銀行の預金が余り伸びなかったのだと思う。 バーナンキやサムエルソンのモデルに当てはまらないのは、預金が集まらなくて、トランスミッションメカニズムが働かなかったのだと思う。 もちろん「エコマネー」「地域通貨」信奉者の言う、「貨幣は交換のためだけに使うべきで、貯蓄や金融商品の売買などのマネーゲームに使うべきでない」 とか「利子の存在は富める者をより豊かに、貧しい者をより貧しくさせるだけでなく、企業にとっても負担であるため、常に経営を成長させなければ負けてしまうという競争を強いる社会ができあがります」 よりも資本主義的であった。 江戸時代には幕府も町年寄りを使って町人への融資活動を行っていた。これに関しては 幕府の財テクは年利1割の町人向け金融▲ を参照のこと。 地域通貨に関しては 地域通貨は金融経済学の最適教材か?▲ を参照のこと。 バーナンキの「アグリコーラの例」は マネーサプライ決定の原理▲ を参照のこと。 サムエルソンのデルは 銀行はどのようにして金細工業から発展したか▲ を参照のこと。
 幕末から明治初期にかけての日本の金融制度、銀行制度を扱うのは、バーナンキやサムエルソンのモデルがあまりにも単純で、日本の銀行制度発達とは違うように思えてきたからだ。 抽象的なモデルとしてのバーナンキやサムエルソンのモデルは否定すべきとは思わないが、実際はまるで違っていた。そこで日本の銀行について、明治初期のことを調べることにした。 幸い、銀行の「自分史」である「○○銀行○○年史」という資料がとてもまとめきれないほど沢山あった。経済学の教科書で扱っていない、現場のニュアンスが伝わってくる、貴重な資料だと感じた。次週以降もこれらの資料を基に話を続けることにする。
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<主な参考文献・引用文献>
『富士銀行百年史』     富士銀行調査部百年史編さん室 富士銀行        1982. 3. 1
『山口銀行史』                編纂・発行 山口銀行        1968. 9.25
『創業百年史』           創業百年史編纂事務局 広島銀行        1979. 8. 6
『四国銀行百年史』         四国銀行百年史編纂室 四国銀行        1980. 7. 1
『京都銀行五十年史』             編集・発行 京都銀行        1992. 3.31
『第一銀行史』                編纂・発行 第一銀行80年史編纂室 1957.12. 1
『第三銀行80年史』     第三銀行80年史編纂委員会 第三銀行        2003. 6
『山陰合同銀行五十年史』   山陰合同銀行五十年史編纂室 山陰合同銀行      1992. 6. 1
『山形銀行百年史』        山形銀行百年史編纂部会 山形銀行        1997. 9.30
『日本銀行百年史』       日本銀行百年史編纂委員会 日本銀行        1982.10.10
『物語三井両替店』三井銀行300年の原点 三井銀行調査部 東洋経済新報社     1984. 6.14
『埼玉銀行史』           埼玉銀行史編集委員室 埼玉銀行        1968.10. 1
『秋田銀行百年史』       秋田銀行100年史編纂室 秋田銀行        1979.12. 1
『百十四銀行百二十五年誌』          編纂・発行 百十四銀行       2005. 8.31
『創業百年史』        北陸銀行調査部百年史編纂室 北陸銀行        1978. 3.15
『福井銀行80年史』     福井銀行80年史編纂委員会 福井銀行        1981. 3. 5
( 2006年5月15日 TANAKA1942b )
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国立銀行という私立銀行が153も設立された
この時代のキーマンは渋沢栄一
 明治政府がとった金融政策、試行錯誤が続く。今週は、貨幣を発行することができる「国立銀行」と呼ばれた「民間銀行」を扱う。 今週も多くの銀行の「自分史」である「○○銀行○○年史」から興味を引く文章を引用することにしよう。
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<第一国立銀行操業==渋沢栄一総監役に就任> 明治維新はわが国の近代国家としてのスタートであった。維新政府は、近代国家としての体制をととのえ、西欧先進国に追いつくために、いろいろな政策を早急に実行しなければならなかった。
 国民経済の面においては、まず健全通貨制度と近代銀行制度の確立、殖産興業政策の遂行、株式会社企業の育成ということがその最も重要な、しかも急を要する課題と考えられていた。
 その1つの柱として政府は明治5年11月に、国立銀行条例を公布し、国立銀行(「ナショナル・バンク」の直訳)を興し、これを経済政策の中核としようとした。
 国立銀行条例はさしあたって2つの目的を持っていた。第1は当然のことながら商工業金融の振興であり、第2は明治新政府が歳入を補うため発行した政府発行紙幣の銷却であった。 同条例の目指すところの二重性を端的に反映して、国立銀行は銀行業務とともに、銀行紙幣の発行、官金出納取扱、政府の命令による公債の買入、引換などの特殊な業務を兼営することとなった。 この国立銀行の最初の模範として、政府が積極的に設立をすすめ、そして誕生したのが第一国立銀行であり、その経営の最高責任者は、さきに大蔵省官吏として国立銀行条例の立案者でもあった渋沢栄一であった。
 第一国立銀行の資本金の大半は旧幕時代からの両替商の重鎮として力のあった三井組、小野組の両家から出資された関係で、本来ならばこの両者が経営にあたるべきであったが、政府はこの両家の融和協力は難しいと判断し、所期の国策を遂行させるために、2人の頭取の上に、実質的に主宰していく人をおく必要があるとして、総監役という名で渋沢栄一を置くことにした。 かくして第一国立銀行は明治6年6月11日に東京海運橋兜町の本店において創立総会を開き、同年7月20日、本店および横浜、大阪、神戸の3支店がいっせいに開業した。
 貨幣の単位を両から円にかえたのは明治4年であった。それから2年後、はやくも「流通の枢軸、富殖の根底」(渋沢栄一『第一国立銀行開業祝詞』から)となるべき銀行が設立されたわけで、そのスピーディーなことな驚くばかりである。
 こうして第一国立銀行は設立されたが、その業務は初めから順調にすべり出したわけではなく、先駆者として種々の困難に遭遇しなければならなかった。
 たとえば健全通貨制度の確立ということを国立銀行の使命の1つとし、銀行に金兌換紙幣を発行させ、これによりかつて政府が発行した不兌換紙幣を銷却しようとしたのであるが、すでにかなりの額の不兌換紙幣が発行せれていたばかりでなく、輸入の増加や、海外の金価格の騰貴などによって、紙幣と金(キン)との値打ちの開きが次第に拡大した。 このため銀行紙幣は発行すれがすぐ兌換さを要求されるという状態になり、創立1ヶ年後の明治7年6月以後は、銀行紙幣を発行することが、事実上できなくなってしまった。 (『第一銀行小史』から)
<第一国立銀行 半期実際報告表> 単位千円 
期・年 紙幣流通高 預金 貸付 公債証書 純益 配当金
1/6下 752 9,113 3,250 1,400 93 2.25
2/7上 1,002 9,982 2,373 2,354 130 4.37
3/7下 460 5,949 3,111 2,337 102 4.09
4/8上 190 5,400 1,925 2,282 108 4.19
5/8下 779 4,756 1,787 2,408 138 5.75
6/9上 883 4,556 1,856 2,792 113 5.75
7/9下 1,197 2,515 2,909 1,346 152 7
8/10上 1,184 2,561 2,709 1,618 144 7
9/10下 1,185 3,109 2,693 1,453 148 7
10/11上 1,131 5,508 3,076 1,830 168 7
11/11下 1,195 5,216 4,802 1,370 168 8
12/12上 1,192 4,064 3,909 1,651 181 8
13/12下 1,196 5,193 4,992 1,531 204 8
14/13上 1,196 3,606 3,784 1,636 182 8
15/13下 1,198 3,279 3,356 1,593 195 8
16/14上 1,195 3,650 3,666 1,607 202 8
17/14下 1,196 4,446 4,661 1,582 237 9
18/15上 1,196 3,301 3,366 1,685 204 9
19/15下 1,190 3,942 3,538 1,739 186 9
20/16上 1,200 3,697 3,679 1,890 163 9
(『第一銀行小史』から)
<国立銀行条例の公布> 明治4年末に大蔵省内に銀行条例編纂掛が設けられ、紙幣頭渋沢栄一、同権頭芳川顕正らによって検討がはじまり、5年6月には草案が完成された。 こうして同年11月に「国立銀行条例」が公布され、ついで翌6年3月にな「金札引換公債証書発行条例」の公布となった。
 国立銀行条例は前文28条、161節から成り、その内容は銀行規範の最初のものであったため、世人一般に理解を深めさせるべく、法規条項的な条文に加え、事務取扱要綱的記述も多く、懇切丁寧なものであった。 同条例の要旨は、次ぎのようなものである。
@ 元金(資本金)
 人口10万人以上の都市……………………50万円以上
 人口10万人未満1万人以上の地…………20万円以上
 人口1万人未満3,000人以上の地……  5万円以上
A 紙幣の発行
 A 資本金の10分の6を政府紙幣をもって大蔵省へ上納し、同額の公債証書を受け取る。
 B この公債証書を抵当に同額の銀行紙幣を紙幣寮より受取ってこれを発行する。
 C 資本金の10分の4は、本位貨幣(金貨)をもって兌換準備とする。この準備は、つねに発行紙幣の3分の2を下ってはならない。
B 銀行の業務
 A 為替・両替・預り金・貸出・証券および貨幣地金の売買等を本務とする。
 B 預り金の2割5分は、支払準備金ろしてつねに手許に積立おく。
 C 大蔵卿の命令により国庫金の取扱いを行う。
 このように国立銀行の業務は、今日の普通銀行業務とほぼ同一であるが、兌換銀行券発行の特権が与えられ、さらに官金取扱いが現在以上に重要な業務であるなど、中央銀行的なな性格をも持ち合わせている。 これは国立銀行を語るうえできわめて特徴的な点である。
 「国立銀行条例」の立案者である渋沢栄一は、国立銀行の仕組みを次ぎのように述べている。
 「例えば百万円の銀行をたてるには六十万円の司負紙幣を大蔵省に差し出し、金札引換公債証書を受け取り、他の四十万円は之を金貨として交換の準備に充て、前の金札引換公債証書を再び政府へ納めて、政府より六十万円の銀行紙幣を受け取り、之を其銀行の融通資本とし、 而して其紙幣を所有する人より正金の交換を望なるる時は、前に述べたる準備金を以て之を交換し、其準備金は常に発行紙幣の3分の2を下らざる高を存する制であった。 故に此銀行紙幣にて、試みに年1割の利を得るも、其高六万円なり、又金札引換公債証書にて三万六千円の利息を得て、合計金九万六千円となるにつき、即ち百万円に対して年九歩六厘の利益となるの計算にして、之に其銀行の諸預かり金、又は為替割引等より生ずる利益もあれべ、相当の営業となるべしとの想像であった」 (山梨中央銀行『創業百年史』から)
<正貨兌換の行き詰まり==国立銀行条例の改正> 国立銀行条例は銀行紙幣が正貨と兌換されることを建前としていた。しかし、明治7年ごろから政府紙幣と正貨との間に値打ちの開きを生じたために、政府は同条例にもとづく多くの国立銀行が設立されることを期待したにもかかわらず、条例のしたに設立された国立銀行は第1、第2、第4、第5のわずか4行に過ぎず、その発行」紙幣下付高も142万円にとどまり、1500万円の銀行紙幣を製造、準備していた政府の計画と大きく食い違ったのである。
 明治5,6年ころ、正貨との兌換が明治されていない不兌換政府紙幣の流通高はすでにかなりの巨額に達していたけれども、正貨と紙幣の値打ちが変わらなかったので、条例の趣旨と食い違うような事態がこようとは考え及ばなかった。 ところが、明治7年にいたり様子は一変した。第1に政府紙幣増発の弊害が現れ始めた。第2に輸入の増大により正貨の流出が甚しくこれが紙幣の値打ちの下落に影響した。 第3に世界的な金価格の騰貴が紙幣の値打ちを引き下げた。これらの結果、明治8年6月になって金貨は政府紙幣に対し千円につき17,8円の打歩、つまりプレミアムがついた。
 このような情勢において、国立銀行が条例にしたがい、自行発行の紙幣を顧客の要求のまませいかに替えていけば、金準備がやがて底をつく。そればかりではない。銀行紙幣が長く市場に流通する目的そのものが果たせなくなる。 また各銀行は正貨との交換の多いところほど大きな損失をこうむることになるから、本来ならば流通させるべき紙幣を、空しく金庫の中に積んでおくという状態であった。
 開業して日が浅く確実な預金者や貸付先を見出すことがなかなか困難であり、また民間人の預金額も少なかったので、発行紙幣の流通が不円滑とあっては、その営業は困難をまぬかれない。 資本金の10分の6を公債証書に換え、公債について政府から年6分の利子を受けるだけであるから、発行紙幣を流通させることができなければ、運転資金は、わずかな預金と資本金の10分の4に当たる金額だけにとどまり、年1割の利益をおさめることが望みがたかった。
 やむを得ず4つの国立銀行は連盟で、正貨兌換の制度を改めて、政府紙幣をもって兌換に当てるべきことを申請した。しかしこれは条例に反するから、条例を改正しない限り実行することはできない。 だからといって、政府として国立銀行の困難を放置することもできない関係上、救済策として、8年、9年の両年にわたり、同額の銀行紙幣を抵当にとって、国庫の準備金のうちから政府紙幣を貸し下げ、一時の急を救った。 (『第一銀行小史』から)
<第一国立銀行の紙幣> 国立銀行で発行された紙幣は、政府が国立銀行条例の公布に先だって、明治4年9月アメリカのコンチネンタル・バンクノート社に発注して作らせたもので、券種は20円、10円、5円、2円、1円の5種類。 図柄は日本から送られたものによったが、版下を書いた人はアメリカ人の図工だったので、なんとなくバタくさい監事の奇妙な画になった。 大きさはいずれも縦8センチ、横19センチと今のどる紙幣のように同じ寸法。色もまたみな表が墨色、裏は緑色だから、ガス灯やランプの光で見た当時の人々はさぞ見分け難かったであろう。
 なお大蔵卿印、出納頭印、記録頭印、国立銀行印、大蔵省記番号(アルファベッドとアラビア数字)、国立銀行記番号(十二支と漢数字)などを紙幣寮で印刷押印、頭取および支配人の記名押印は発券銀行で行った。 (『第一銀行小史』から)
<株式会社第一銀行への改組> 第一国立銀行は明治6年6月創立以来23年3カ月余の年月を経て同29年9月をもって営業満期となった。 その満期以前において発行紙幣銷却の義務を果たし、営業満期銀行処分法の規定に従って、東京府知事を経て大蔵大臣に出願し、29年6月26日をもって満期後「私立銀行」として営業継続の認可を得た。 そして同年9月26日から株式会社第一銀行と称し、第一国立銀行の権利義務中消滅したもの以外の一切を継承し、国立銀行時代最後に225万円であった資本金を倍額増資して資本金450万円をもって営業を開始した。 営業開始時の支店は、大阪、神戸、横浜、京都、新潟、名古屋、四日市、釜山、仁川の9ヶ店であった。 (『第一銀行小史』から)
<金本位制の確立> 明治30年3月29日貨幣法が公布され、金本位制が確立した。もともと明治4年両から円に変わるときの新貨条例は金本位制をとったのであるが、1円銀貨をも造ったために、事実上は金銀複本位制だった。 それがたまたま世界の銀価の下落時に当たり、金貨の海外流出を引き起こし、政府は明治11年5月貨幣条例(さきの新貨条例を改称)を改正して金銀復本位制とし、1円銀貨の国内無制限通用を許した。 (『第一銀行小史』から)
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<国立銀行の設立と発展> 明治維新政府は成立後、版籍奉還、廃藩置県、秩禄処分など封建的諸制度をつぎつぎに廃止し、統一国家の建設を急速に推し進めてゆく。 そして、先進列強諸国の重圧に対抗してゆむために、あらゆる面で西欧の進んだ諸制度をできるだけ早く導入し、近代化をはかる政策が採られてくる。 すなわち、文明開化であり、殖産興業であり、富国強兵策等々である。金融面も同様である。幕末以来、幕府の貨幣改悪や、洋銀の流入、藩札の濫発などにより通貨制度は混乱し、インフレは進行していたのであるが、維新後も政府の不換紙幣の濫発などによって乱れは続いた。 この混乱した通貨制度を統一し、あわせて殖産興業の資金を供給するために、先進国の銀行制度の導入がはかられるのである。 そして、アメリカの銀行制度を視察してきた伊藤博文の建白にもとづき、ナショナル・バンク制度を範として制定されたのが明治5年の国立銀行条例である。 第1、,第2、第4、第5国立銀行の4行が政府の指導のものに設立された。
 国立銀行は資金源として銀行券発行の特権が認められていた。しかし、それは金貨兌換の義務を負っていたため、当時のインフレでは、銀行券の発行は当然少額に留まらざるを得ず、国立銀行の経営は困難を極めた。 このような銀行の窮状と、秩禄処分によって公債所有者となった旧武士階級の窮乏化を救済しようとして行われたのが、明治9年(1976)の国立銀行条例の改正である。 改正の要点は、公債を資本として銀行を設立することを認めたことと、兌換の廃止である。この改正で銀行の設立が容易になり、また、政府、地方行政官の積極的指導が行われたこともあり、さらに、西南戦争で資金需要が増大したことなどによって、明治10年代の初めには国立銀行の設立ブームがおこり、 12年末には153行に達した(政府はここで国立銀行の設立を打ち切ったので、その後は私立銀行、銀行類似会社の設立となる)。
 この時期に設立された国立銀行の中には、いろいろ性格を異にする銀行が含まれており、たとえば、すでに商業活動の活発化していた地方では、商業金融の必要から銀行が設立され、また城下町では、士族結社的ないわゆる士族銀行も設立されている。 東北地方における前者の典型が、福島県中通り地方の生糸地帯に設立された銀行である。
 さて、先進国では通常は、ある程度産業が発達し、商業活動も活発となって銀行が必要とされるようになるのであるが、わが国では産業が発達する前の(地域差はあるが)沢山の銀行が設立されたのである。 これがその後わが国の銀行のあり方に、大きく関わってくることになる。 (『東邦銀行小史』から)  
<国立銀行の乱立> 改正条例は国立銀行にとり利便が非常に大きかったので、国立銀行の設立を願い出るものが相次いだ。明治12年12月には実に153の国立銀行の設立をみたが、京都第百五十三国立銀行を最後に、その後の設立は許されなかった。 このいわゆる”ナンバー銀行”のほかに、三井銀行のような私立銀行も各地に設立され、明治15年末には私立銀行はその数において、国立銀行数を26上回る乱立ぶりとなった。 もっとも資本金総額は、国立銀行4,420万6,100円に対し、私立銀行は1,697万7,800円で、国立銀行の優位は動かなかった。
 このように銀行は相次いで設立されたが、一般に近代的銀行・会社に関する知識が乏しかったため、新設の国立銀行の多くは、幹部たるべき行員を第一国立銀行に出向させて銀行の実務を修得させた。 中には第四十国立銀行のごとく第一国立銀行の行員の派遣を請い、自行員の実務練習の教師役を務めてもらう銀行もあった。
 このように後進銀行の指導にあたり、銀行実務の普及に貢献した功績はまことに大きなものであった。 (『第一銀行小史』から)
<特殊銀行の創業> 株式会社第一銀行発足後、特殊銀行が相次いで設立された。
 日本勧業銀行  明治30年8月開業
 農 工 銀 行 明治31年1月 静岡県農工銀行をはじめ同33年8月までに各府県とも開業、その数46行。
 台 湾 銀 行 明治32年9月開業
 北海道拓殖銀行 明治33年4月開業
 日本興業銀行  明治35年4月開業
 農工銀行を除き、これら諸銀行の設立に当たり、渋沢頭取は、内閣から設立委員を命ぜられた。
 このように、日清戦役後には、新たに多数の特殊銀行が設立されたほか、手形交換所も増加し、金融機構は著しく整備される一方、新商法が公布され、国内景況の一進一退のうちに」も、軽工業に近代的機械生産様式が確立し、海運や鉄道事業にも大きな発展がもたらされた。 日露戦役後の企業熱勃興とこれに続く時代になると、さらに、重工業、化学工業、電気事業についても基礎が確立され、それとともに銀行業界も格段の発展を遂げた。なかでもとくに顕著なものは外資導入の発展と特殊銀行の発達であった。 (『第一銀行小史』から
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 全国各地で「第○○国立銀行」という民間銀行が設立されることになる。その様子を少し見てみよう。
<長野県内国立銀行の設立状況> 長野県内では国立銀行が5行設立された。これは全国でも多い方である、全国で5行以上の設立は9府県のみであった。
国立銀行名 開業   明治 所在地 資本金 千円 初代頭取
第十四国立銀行 10. 8. 5 南深志町 100 大池源重
第十九国立銀行 10.11. 8 上田町 100 早川重右衛門
第二十四国立銀行 10.11. 1 飯田町 80 坂本則敏
第六十三国立銀行 11.12. 1 松代町 100 吉池文之助
第百十七国立銀行 12. 1.15 飯田町 50 太田伝蔵
    国立銀行5行の設立地は、いずれも旧藩の城下町であり、地域における経済の中心地であった。 商業をはじめ、製糸業、養蚕業もこれらの地域を中心に営まれており、銀行の利業も蚕糸業を主な対象とした。その中で飯山だけは地元有力産業がなかったため、第二十四国膣銀行は、創業後いち早く長野、上田に出店した。
 金禄公債の安全有利な運用方法として、国立銀行への出資が政府によって奨励されたので、士族の多くが株主として参加した。 なかでも、第六十三国立銀行、第百十七国立銀行は、株主数、持株数とも士族が圧倒的な比率を占めていた。 これに対して、第十四銀行、第十九銀行は、平民である商人地主の出資比率が大きかった。しかし、いずれにせよ士族は禁輸・経済の事情に暗いので、多くは有力な商人、地主が実質的な設立推進者となっていた。 (『八十二銀行50年史』から)  
<弱小資本の山形県下の国立銀行> 山形県下の国立銀行は程度の差はあれ、そのほとんどが設立後間もなく経営難に直面した。これは明治14年からのいわゆる松方デフレ期に、貸出金が回収不能に陥って経営を圧迫したことが直接のきっかけであったが、ものもの本県の国立銀行はいずれも資本金が10万円以下という弱小銀行で、その経営基盤の脆弱性からもたらされたものであった。
 さらに初期の経営者は、近代銀行経営についてはほとんど無知に等しく、これがもとで思わざる失敗をかさね、混乱を増幅していったケースも多かった。 しかもなお、銀行という機能についての一般の理解もいまだ浸透せず、社会的遊休資金をひろく預金として集めるといった銀行本来の役割を果たすにはほど遠い状態で、むしろ自己資本の貸付所的な性格が強かった。 ちなみに明治19年の山形県内国立銀行の預金総額はおよそ20万円、これに対し貸出総額は52万円と預金総額を大幅に上回っているが、これはむしろ自己資本51万円と見合っており、このことを示している。
 しかし、当時の国立銀行が経営の脆弱性と金貸資本的性格をもっていたとしても、明治初期の商品経済の発展に、一定の積極的役割を果たしていたこともまた事実であった。 とくに送金・荷為替・その他手形の取組みなど新しい為替機能を通じ、山形県の商品流通を促進し円滑化する役割を果たした点については、改めて注目すべきである。 (『山形銀行百年史』から)
<仙台に生まれた第七十七国立銀行> 明治4(1871)年の廃藩置県により仙台藩は仙台県となり、5年には宮城県と改められた。その後数次にわたる郡の合併・分離が行われて、ようやく9年に至って現在の宮城県が形成された。
 宮城県の県庁所在地である仙台は、仙台藩の城下町として栄え、藩の手厚い保護のもとで商工業も発達し、優れた工芸品なども産出していた。 しかし、明治維新の変革によって藩という保護者を失うと大きな打撃を受けて衰退の道をたどり、武士が人工の半分を占める城下町であっただけに、無職者というべき禄生活者が溢れていた。
 宮城県全体で見ると、産業は米を主とする農業が中心で、商工業は遅れていたため、藩では明治3年ごろから勧業に力を注ぎ、特に士族の授産と輸出生糸の増産を狙いとして養蚕を奨励した。 その他、農業についても技術や農具の輸入を図り、士族の授産と絡めて開拓地の拡大に努めた。
 一方、仙台の金融機関としては、明治初年には三井組や小野組などが活躍し、政府の公金事務を取り扱っていた。9年になって第1国立銀行が石巻と仙台に出張所を開設し、最初の私立銀行である三井銀行も、この年に宮城出張所を設置した。
 この間、9年の禄制廃止により、有禄武士に対して金禄公債が交付され、公債所有者となった士族の生活を安定させるため、いくつかの試みをなそうとする動きが見られた。
 その1つが国立銀行設立計画であり、10年8月には、宮城県の士族・遠藤温ほか士族5名と商人1名が発起人となって改正国立銀行条例に基づく国立銀行の創立願書を提出した。 発起人となった士族は、いずれも一般士族とは異なり財産家で、そかも金貸業を営んでいたところから、その経験を生かしての銀行設立計画であったと思われる。 設立の許可は同年12月27日付で下り、翌11年1月12日付で「第46国立銀行」の称号が下付された。また、10年6月には、東京・深川の国立銀行創設協同社から宮城県内の士族に対して、所有する公債をもって銀行設立に賛歌するよう呼びかけがあった。 この銀行は11年3月に許可が下り、第60戸口立銀行として設立されたが、宮城県の士族308名が金禄公債を提供して株主となった。なお、同行は31年8月に満期解散した。
 禄制改革にあたって、士族は自らその授産方法について衆議して決すべきであるとして、宮城時亮県権令は明治10(1877)年11月に県内士族による士族会議を開催した。 会議は前出の遠藤温が議長、副議長の氏家厚時がなった。席上、蓮田繁幸等が「金禄公債を保存しなければ士族の物楽は必至であり、全士族は結社して打開策を立てるべきである」と発言し、まず士族結社をつくることを可決、次いで打開策の1つとして銀行設立案がまとまった。
 11年1月、士族会議が開催され、士族結社の社長に増田繁幸、副社長に氏家厚時をそれぞれ選挙したのち、銀行創立委員として菅克復ほか20名を選出し、銀行設立の出願が具体的に進められた。
 同年2月20日、増田繁幸、亘理隆胤、松前広致、中島信成、後藤充康、氏家厚時ら6名が発起人となり、資本金20万円の銀行の創立願を大蔵省に提出した。 この間、発起人の代表として河田安照る、渡辺幸兵衛が状況し、第1国立銀行の渋沢栄一頭取に会って銀行設立に関して懇切な教示を得、その具体案を練った。
 大蔵省から国立銀行として77番目に許可され、明治11(1878)年4月26日付で「第77国立銀行」の名称が下付された。
 その後、先に設立許可を得ていた第46国立銀行との間で、ともに士族を主体としていたことから両発起人は合併が得策であるとして同9月に合併願書を提出し、許可されて資本金25万円で第77国立銀行として発足することとなった。
 やがて株式の募集も予定通り完了し、株主の多くは現金でなく金禄公債をもって充当した。同年10月17日、創立総会を開催して創立消暑と定款を議決した。翌18日には役員の選出を行い、頭取には氏家厚時、取締役には増田繁幸、中島信成、亘理隆胤、佐藤信義(第46国立銀行の発起人の1人)がそれぞれ選出され、中島が支配人を兼任した。 本店は仙台区大町1丁目40番地の豪商・日野屋仁兵衛の住居跡に置かれた。
 開業準備が整ったろころで、創立証書、定款、誓詞書などを県を通じて大蔵省に提出した。やがて大蔵省の命による県の調査などの手続きも完了して、11年11月7日付で開業免状が下付され、同12月9日、営業を開始した。 (『七十七銀行120年史』から)
<新潟県の国立銀行> 政府は、旧士族の秩禄を廃止するため、明治6年12月、太政官布告第425号ならびに第426号をもって士族以下禄高100石未満のものに家禄・賞典禄奉還の出願を許し、翌7年3月に布告第39号で「秩禄引換公債証書発行条令」を公布して同公債証書を支給した。 超えて11月、布告第118号によって100石以上にも奉還を許し、同時に、第119号で「資金被下方規則」第1・2号を改めたが、第2条では「禄高百石ヨリ以上ハ、五捨石ハ現金、其餘ハ都テ公債証書ヲ以テ相渡スヘク」 となった。つまり、奉還の高が150石であれば、50石は現金、残りの100石は公債証書を渡し、他はこれに準ずる、というのである。
 新潟県では、8年1月13日付県庁布告第10号をもって、7年10月までに許可済みのものは、8年1月15日から25日までの間に秩禄公債証書および同年の利子を公布する旨を通達した。 かくて、華・士族の秩禄処分のため1億7,400万円にのぼる巨額の金禄公債(禄券)が発行されることになり、新潟県だけでも禄券高240万1,415円、ほかに利子1年分16万7088円余に達している。
 しかし、一時に巨額な公債を発行すれば公債価格の急落は必至であり、士族の困窮っを救うためにはなんらかの対応策が必要であった。そこで政府は「正貨兌換ノ制度ヲ改メ通貨即チ政府紙幣ヲ以テ兌換スルノ制トナサレンコト」という先の国立銀行の請願を入れて、 金禄公債を銀行紙幣発行の抵当とすることを認め(これには大蔵省紙幣寮付属書記官・イギリス銀行学士アーラン・シャンドがインフレを懸念してkりこくした)、明治9年8月1日、太政官布第106号で「国立銀行条令」を改正した。 政府としては、国内における40万人に及ぶ士族の動揺を抑え、さらには、多額の金禄公債を資本として国立銀行を設立させることによって、同時に民間金融の疎通を促進するという一石二鳥の効果をあげることに狙いがあった。(中略)
 明治9年8月の「国立銀行条令」改正後、全国的に国立銀行の設立ブームが訪れた。このブームは新潟県にも波及し、11年11月以降12年7月までわずか8カ月間に、当行──北越銀行の前身である第69国立銀行のほか3行が開業した。
 新潟の第4国立銀行を除いた国立銀行4行の本店所在地はいずれも旧藩の城下町で、経済の中心地でもあった。その資本も旧士族の金禄公債が主体であり、株主に占める士族の割合は圧倒的であったが、持ち株は3株以下がほとんどであった。 金禄公債を安全・有利に運用するため、国立銀行への出資金とすることが政府によって奨励されたが、士族は金融経済事情にうといから、有力な地主や商人が設立に実質的な推進者となり、多くの士族は、零細な株主として設立に賛歌するにすぎなかった。
 しかし、なかには士族の主導権の強いものもあったが、設立数年後にしてその性格を変え、士族の役員がその地位を失って地主や商人がこれに代わっている。 また、士族の株主も増資が行われるごとに著しく後退している。
 なお、この国立銀行条例の改正により、既設の国立銀行もあらためて開業免状の交付を受けなければならなかったため、第4国立銀行は、資本金を10万円増額し30万円として9年8月に営業継続を出願し、同年12月に開業免状を下付された。 (北越銀行『創業百年史』から)
<第四国立銀行創立の背景> 当行は、明治5年11月に制定された国立銀行条例に基づいて設立された。その開業免状下付は6年12月24日、営業開始は翌7年3月1日である。 日本の銀行としては第3番目の銀行であり、日本の銀行の草分けともいうべき存在である。
 当行の設立は、明治維新政府の銀行政策や、それを実施に移そうとした当時の新潟県令楠本正隆の努力に負うところが多い。そこでまず、明治初年の品行政策、さらにはひろく当時の日本経済の状況についての考察から始めたい。 それとともに、当行の位置する新潟地方の歴史的、経済的特色をも、当行設立の背景をなすものとして、あわせて考察しておこう。(中略)
県内銀行の生成と系譜 株式会社第四銀行は、昭和48年11月2日、創立100周年を迎えた。明治6年のその日、第四国立銀行の創立総会が開かれ、以来、新潟県における一地方銀行として発展を続けた。 明治20年に普通銀行に転換してsに鋳型銀行と商号を変更し、さらに大正6年に第四銀行と改めて今日に至っている。
 その間、当行は、県内銀行の中軸としての役割を担い、県内銀行29行、県外銀行の2支店を併合してきた。さらに、これら被合併銀行に併合されてきた銀行を含めると、その数は62行にものぼっている。 したがって、当行の歴史を見るとき、支流をなす被合併銀行との諸関係や、その歴史をも併せて考察されなければならない。そこで、本論の理解に資するため、まず県内銀行の生成とその系譜について略述することにしよう。
 新潟県における銀行の始まりは、明治2年に設立を許可された新潟為替会社である。この会社は銀行の性質を備え、金札5万円を発行したが、やがて経営不振に陥り消滅した。
 第四国立銀行が設立されたのは、新潟為替会社がまったく衰徴してしまった明治6年のことであった。その設立を首唱したのは、当時の県令楠本正隆である。 新潟かわせ会社が、殖産興業のための資金供給の役割を果たし得なくなったので、これに代えて新たな資金会社を興そうとする楠本の構想が、国立銀行条例の発布を機に、条例に基づく銀行設立へと発展したのであった。
 次いで明治9年の条例改正に伴い、新に国立銀行4行が誕生した。一方、条例に基づかない「人民相互ノ結約営業」にまかされていた「私立銀行会社」が、県内各地に設立され、これらは一般に銀行類似会社と呼ばれ、明治10年代なかばに急増した。 明治26年の銀行条例、貯蓄銀行条例の施行によって、銀行類似会社の大部分は普通銀行に転換し、国立銀行も営業満期により、明治29年〜31年に普通銀行に転換した。 このころ、県内では銀行の新設が相次ぎ、その数は42年に92行にのぼりピークにたっした。45年以降、減少向かった。全国の銀行数のピークが34年であったのに比べ、本県の銀行業の展開は、やや遅れた足どりを示している。(中略)
 多くの系譜をもって誕生してきた普通銀行、貯蓄銀行、信託会社の間では、相次ぐ恐慌による破綻や、政府の合同政策により淘汰整理され、昭和20年には、当行と長岡六十九銀行(昭和23年、北越銀行と改称)の2行のみとなった。 無尽会社も合併が進み、大光無尽と恣意型無尽の2社に統合され、戦後、相互銀行となった。また、市街地信用組合から信用協同組合を経て、昭和26年の信用金庫法に伴い、信用金庫となったものも見受けられる。
 こうして、県内のトップ銀行である当行をはじめ、これらの主要金融機関が、戦後の県内金融を担当していくことになるのである。 (『第四銀行百年史』から)
<資金調達の推移=第66国立銀行⇒広島銀行> 一般に国立銀行開業当初の営業資金の大宋は、こんにちのような預金ではなく、資本金と国立銀行紙幣の発行であった。第六十六国立銀行もその例外ではなく、同行の明治12年末における預金は2万5,334円で、資本金(18万円)、紙幣発行高(14万4,000円)などを含めた営業資金全体の中に占める割合は7.2%にすぎなかった。 しかし、その後預金の30年上期末には65.7%に達して資金調達の主要な源泉となったのである。一方、開業当初主要な営業資金源であった国立銀行紙幣は、16年の日本銀行の開業に伴い、17年以降消却されることとなり、14万4,000円を発行していた第六十六国立銀行紙幣の額は漸減して30年上期末には全く消滅した。 また資本金も開業当初の18万円から2度にわたる増資を行なって、15年下期末には36万円に増大し主要な営業資金源となっていたが、20年上期から18万円に減資したため、営業資金全体に占める比率も、15年末の51.8%から20年末には21.8%に低下した。 その後も預金の増加によって資本金の占める構成比は相対的に縮小し、30年上期末には12.5%に低下した。積立金は開業当初はまだ微々たるものであったが、着実な積立によって漸増し、25年以降営業資金全体に占める比率は10%内外で推移した。 また借入金は資金需要の繁閑に応じて増減したが、26年以降山陽鉄道の敷設あるいは日清戦争による資金需要の増大に伴い、営業資金全体に占める割合も29年下期20.4%に上昇した。
預金の推移 預金には公金預金と一般預金とがあったが、明治10年代から20年代初頭にかぇて、公金預金の占める割合は高く、14年末には85.6%にも達していた。 公金預金は残高の異動が激しく、預金総額の推移は公金預金の多寡によって大きく左右されたが、23年以降、公金預金の残高は減少し、その構成比も縮小して30年上期には5.4%となった。 一方、一般預金は開業以来着実な増加を続けて23年末には20万円を超え、預金全体の75.5%を占めた。その後、一般預金は日清戦争を契機として激増し、30年上期には89万4,000円となり、戦前の26年末に比べ2.3倍余りに増大した。 一般預金の増大によって預金総額も伸長し、30年上期には100万円近くに迫り、営業資金の大宋を占めるようになったのである。 (広島銀行『創業百年史』から)
<うぶ声あげた第百五国立銀行> 第百五国立銀行は、明治12年3月11日、資本金8万円、藤堂高泰を初代糖度衛として、総員11名で、津沢ノ上町1番地において営業を開始いたしました。
 創業当初は、銀行業務および銀行紙幣の発行などを主な業務としており、銀行紙幣の発行については、資本金8万円の8割にあたる紙幣を発行していました。
 銀行業務については、当初銀行に対する一般の理解が得られず、苦労の連続でした。しかし、銀行業務の機能が整えられるに従って、世間の認識や理解も深まり、取引きは次第に増加し、業績も上昇の一途をたどりました。
 その後、官金出納事務について、相次いで取扱いを広げてゆき、明治12年9月、多気・度会・志摩・南年婁・北牟婁の各郡の国税、地方税の取扱いを始めました。
 明治17年、第四十五国立銀行津支店の閉鎖により、当時の県金庫事務を引き継ぎ、29年には、全県下の県金事務を一手に扱うに至りました。
 また、明治15年、日本銀行の設立によって国庫金取扱いの代理契約を結びました。
 これらの業務の拡大にともない、山田・相可・鳥羽に営業所を開設いたしました。
 第百五国立銀行は、明治9年の国立銀行条例改正によって、全国で百五番目に生まれた国利つぃ銀行であります。
 その頃、三重県下では、第八十三国立銀行が伊賀上野に、第百十五国立銀行が亀山に、第百二十二国立銀行が桑名に相次いで設立されました。(中略)
 第百五国立銀行の営業満期により、株式会社百五銀行は、明治30年7月1日、資本金24万円で新発足し、地元銀行としての新しい第1歩を踏み出しました。 (『百五銀行百年のあゆみ』から)
<八街第百四十三銀行⇒東京第三十国立銀行⇒株式会社三十銀行⇒三十四銀行(大阪)⇒三和銀行⇒UFJ銀行⇒三菱東京UFJ銀行・『佐賀銀行百年史』から> 佐賀の乱に中立党を結成して官軍に加わった前山清一郎とその党員は、鎮定後、政府から行賞を受けた。しかし地元民からは敗斥され、県内に居住することが極めて難しくなり、鍋島家東京本邸家令深川亮藏の推挙で千葉県印旛郡八街村字小間子牧(あびこまき)にあった鍋島家の農場へ党員多数を引き連れて移住し、農業に従事した。
 明治12年6月、前山清一郎は同行した党員の水町久兵衛、香田信伊、小代靖、諸隈宣義らとともに、金禄公債を資本に同地に八街第百四十三国立銀行を設立した。
 設立に際し、東京第三十国立銀行の指導と援助を受け、設立後も、運営・資金関係ともすべて東京第三十国立銀行に依存した。そうしたこともあって翌13年3月10日、同行は東京第三十国立銀行に合併され、以後東京第三十国立銀行の八街村支店として継続し、前山清一郎は取締役兼支店長となった。発行した紙幣も東京第三十国立銀行へ引き継がれ、従来どおり通用した。
 東京第三十国立銀行は30年12月に私立銀行に転換して株式会社三十銀行となり、昭和4年7月、大阪の三十四銀行(のち三和銀行)に吸収合併された。 (『佐賀銀行百年史』から)
佐賀の乱(さがのらん)は、1874年(明治7)2月に江藤新平・島義勇らをリーダーとして佐賀で起こった明治政府に対する士族反乱の一つである。佐賀の役、佐賀戦争とも。不平士族による初の大規模反乱であったが、政府の素早い対応によってあっけなく鎮圧した。 『ウィキペディア(Wikipedia)』から
<国立銀行の業務> 国立銀行は、貸付、預金、為替などの普通銀行業務を営むことを本務とし(国立銀行条例52条)、併せて銀行紙幣の発行(同前文)および官公金の取扱い(同81条)ができることとされていた。 その中でも、草創期の国立銀行にとって、紙幣発行や官公金の取扱いは、その存亡にかかわる非常に重要な業務であった。民間資本が未発達の状態では、紙幣発行による運転資金調達は必要不可欠であったが、第百十四国立銀行は、総額4万円の銀行紙幣を発行することにより営業資金を調達した。 同様に、官公金預金の取扱いも、当行にとって有力な資金源かつ収益源であった。
 銀行に対する一般の認識が乏しく、民間資本も少ない時代において、官公金を取り扱えるかどうかは、銀行営業の根幹にかかわる重大事であった。当行は経営者の並々ならぬ努力により、国庫金をほとんど独占して取り扱うことができた。 当行の国庫金取扱いは、明治12年7月に大蔵省為替方として讃岐12郡(現在の香川県)の収税取扱を拝命したことに始まる。 (『百十四銀行百二十五年誌』から)
 (T注 江戸時代、人々は、大名も武士も商人も農民も、「金を借りたら利息を払う」ということは当然のこととなっていた。しかし、「金を預けて利息を稼ぐ」という金融機関はなかった。これが明治になってからに銀行制度の発達に大きな影響があったと思う。 つまり、銀行ができて「そこから利息を払って金を借りる」ということには抵抗がなかったが、「預金して利息を稼ぐ」ことには慣れていなかった。このため銀行の預金が余り伸びなかった。つまりトランスミッション・メカニズムが働いていなかったのだと思う)
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<国立銀行の変遷> 国立銀行は明治12年12月設立の京都第153国立銀行を最後に設立は許可されないことになった。では、その153の国立銀行のその後はどうなったのか? その変遷をまとめてみよう。引用した文献では、その後変更もあるので、⇒で最新の情報に改めた。
国立銀行名所在地,設立年・月/継承した年・月,継承した普通銀行/現存継承銀行/
第1東京・東京,M6.7/M29.9,第1/第1⇒第一勧業⇒みずほ  第2神奈川・横浜,M7.7/M29.-,第2/横浜 第3東京・東京,M9.12/M29.11,第3/富士⇒みずほ/  第4新潟・新潟,M6.12/M29.11,新潟/第4 第5東京・東京,M6.9/M29.12,第5/三井⇒三井住友 第6福島・福島,M10.2/M30.2,肥後/富士⇒みずほ  第7高知・高知,M10.2/M29.11,第7/四国 第8愛知・豊橋,M10.2/M19.7,第134/東海⇒UFJ⇒三菱東京UFJ 第9熊本・熊本,M10.11/M30.11,第9/富士⇒みずほ 第10山梨・甲府,M10.3/M30.1,第10/山梨中央 第11愛知・名古屋,M10.5/M30.3,第11/東海⇒UFJ⇒三菱東京UFJ 第12石川・金沢,M10.7/M30.7,12/北陸  第13大阪・大阪,M10.5/M30.3,鴻池/三和⇒UFJ⇒三菱東京UFJ 第14長野・松本,M10.7/M30.5,第14/- 第15東京・東京,M10.5/M30.5,15/三井⇒太陽神戸三井⇒さくら⇒三井住友 第16岐阜・岐阜,M10.8/M29.11,16/16  第17福岡・福岡,M10.9/M30.9,17/福岡 第18長崎・長崎,M10.11/M30.7,18/18 第19長野・上田,M10.10/M30.3,第19/82 第20東京・東京,M10.7/M30.7,20/第1⇒第1勧業⇒みずほ 第21滋賀・長浜,M10.11/M30.11,21/滋賀 第22岡山・岡山,M10.10/M30.1,22/富士⇒みずほ 第23大分・大分,M10.10/M30.5,23/大分  第24長野・飯山,M10.10/M15.8,閉店/- 第25福井・小名浜,M10.12/M30.12,25/福井⇒三和⇒UFJ⇒三菱東京UFJ 第26大阪・大阪,M11.2/M16.11,閉店/- 第27東京・東京,M10.12/M30.12,第27/-  第28静岡・浜松,M10.12/M22.1,第35/静岡 第29愛媛・川之石浦,M11.1/M30.3,第29/伊予 第30東京・東京,M10.12/M30.12,30/三和⇒UFJ⇒三菱東京UFJ 第31福島・若松,M11.30/M21.5,第148/三和⇒UFJ⇒三菱東京UFJ 第32大阪・大阪,M11.1/M31.1,浪速/三井⇒三井住友 第33東京・東京,M11.1/M25.3,営業停止/- 第34大阪・大阪,M11.3/M30.9,34/三和⇒UFJ⇒三菱東京UFJ 第35静岡・静岡,M11.5/M30.7,35/静岡  第36東京・八王子,M11.2/M31.2,第36/富士⇒みずほ 第37高知・高知,M11.10/M30.3,高知/四国 第38兵庫・姫路,M11.10/M31.7,38/神戸⇒太陽神戸⇒太陽神戸三井⇒さくら⇒三井住友 第39群馬・前橋,M11.9/M31.7,39/群馬 第40群馬・館林,M11.9/M31.7,40/第1⇒第1勧業⇒みずほ 第41栃木・栃木,M11.9/M31.7,41/第1⇒第1勧業⇒みずほ 第42大阪・大阪,M11.10/M31.10,北浜/三和⇒UFJ⇒三菱東京UFJ  第43和歌山・和歌山,M11.10/M30.3,43/三和⇒UFJ⇒三菱東京UFJ 第44東京・東京,M11.7/M15.9,第3/富士⇒みずほ 第45東京・東京,M11.10/M31.10,満期解散/-  第46岐阜・多治見,M12.2/M31.7,愛知実業/- 第47千葉・八幡,M11.10/M31.1,第47/北陸 第48秋田・秋田,M11.12/M31.1,48/秋田 第49京都・京都,M11.5/M30.8,第49/第1⇒第1勧業⇒みずほ 第50茨城・土浦,M11.8/M30.7,土浦50/常陽 
第51大阪・岸和田,M11.9/M31.1,51/住友⇒三井住友 第52愛媛・松山,M11.9/M30.7,52/伊予  第53島根・津和野,M11.12/M31.7,第53/山陰合同 第54静岡・沼津,M11.9/M15.12,第35/静岡 第55兵庫・出石,M11.9/M31.1,55/神戸⇒太陽神戸⇒太陽神戸三井⇒さくら⇒三井住友  第56兵庫・明石,M11.6/M31.6,56/神戸⇒太陽神戸⇒太陽神戸三井⇒さくら⇒三井住友 第57福井・武生,M11.10/M30.7,第57/北陸 第58大阪・大阪,M11.10/M30.1,第58/富士⇒みずほ 第59青森・弘前,M11.12/M30.9,第59/青森 第60東京・東京,M11.8/M31.8,満期解散/- 第61福岡・久留米,M11.11/M30.4,61/住友⇒三井住友 第62茨城・水戸.M11.10/M31.10,水戸62/常陽  第63長野・松代,M11.10/M30.7,63/82 第64滋賀・大津,M11.6/M31.6,大津/- 第65鳥取・鳥取,M11.11/M31.1,第65/神戸⇒太陽神戸⇒太陽神戸三井⇒さくら⇒三井住友  第66広島・尾道,M11.11/M30.7,第66/広島 第67山形・鶴岡,M11.9/M31.9,67/庄内 第68奈良・郡山,M11.10/M30.12,68/南部 第69新潟・長岡,M11.11/M31.1,69/北越 第70京都・淀,M11.11/M30.4,第70/- 第71新潟・村上,M11.10/M31.10,村上/第4 第72山形・酒田,M11.9/M31.9,佐賀/- 第73兵庫・神戸,M11.10/M30.8,第73/-  第74神奈川・横浜,M11.7/M31.4,第74/横浜 第75石川・金沢,M11.11/M19.7,第45/- 第76岐阜・高須,M11.10/M31.1,76/大垣共立 第77宮城・仙台,M11.11/M31.3,77/77 第78大分・中津,M11.10/M31.10,第78/- 第79鳥取・松江,M11.10/M31.1,第79/- 第80高知・高知,M11.10/M29.11,第80/四国 第81山形・山形,M11.11/M30.6,両羽/両羽/ 第82鳥取・鳥取,M11.11/M29.11,82/富士⇒みずほ 第83三重・伊賀上野,M11.9/M30.8,83/105 第84石川・大聖寺,M11.11/M30.9,84/富士⇒みずほ 第85埼玉・川越,M11.11/M31.1,第85/埼玉⇒協和埼玉⇒あさひ⇒りそな  第86岡山・高梁,M11.12/M30.7,86/中国 第87福岡・大橋,M11.11/M30.7,87/富士⇒みずほ 第88岩手・一ノ瀬,M11.11/M29.10,第88/岩手 第89徳島・徳島,M11.12/M30.1,第89/- 第90岩手・盛岡,M11.11/M30.8,第90/岩手 第91福井・福井,M11.10/M30.7,第91/北陸 第92福井・福井,M11.10/M30.7,第92/- 第93福島・三春,M11.10/M30.7,三春/東邦  第94兵庫・竜野,M11.10/M31.1,94/神戸⇒太陽神戸⇒太陽神戸三井⇒さくら⇒三井住友 第95東京・東京,M11.9/M30.5,第95/-  第96福岡・柳河,M11.11/M30.4,柳河/福岡 第97佐賀・小城,M12.2/M32.2,満期解散/- 第98千葉・千葉,M11.11/M30.9,第98/千葉 第99長崎・平戸,M12.1/M31.1,第98/親和 第100東京・東京,M11.8/M31.8,第100/三菱⇒東京三菱⇒三菱東京UFJ 
第101福島・柳川,M11.9/M31.9,101/- 第102長崎・巌原,M11.11/M30.7,第102/- 第103北海道・函館,M11.11/M30.7,113/北海道拓殖⇒北海道  第104茨城・水戸,M11.9/M30.10,水戸104/常陽 第105三重・津,M11.12/M30.7,105/105  第106佐賀・佐賀,M125.2/M31.4,佐賀大06/住友・佐賀 第107福島・福島,M11.9/M30.2,第107/- 第108福島・須賀川,M11.9/M16.4,閉店/- 第109大分・佐伯,M11.11/M31.11,109/大分 第110山口・山口,M11.11/M31.11,110/山口  第111京都・京都,M11.11/M31.12,官命閉鎖/- 第112東京・東京,M11.9/M31.9,第112/- 第113北海道・函館,M11.11/M30.7,第113/北海道拓殖⇒北海道 第114香川・高松,M11.10/M31.10,高松第114/114 第115三重・亀山,M11.12/M30.7,湖南/-  第116新潟・新発田,M11.12/M31.2,新発田/第4 第117長野・飯田,11.12/M30.7,第117/82 第118東京・東京,M11.11/M13.11,第136/富士⇒みずほ 第119東京・東京,M11.12/M31.12,三菱(資)銀行部/三菱⇒東京三菱⇒三菱東京UFJ 第120茨城・古河,M11.9/M31.1,古河第120/- 第121大阪・大阪,M12.1/M30.9,第121/三和⇒UFJ⇒三菱東京UFJ 第122三重・桑名,M11.12/M31.1,第122/-  第123富山・富山,M11.12/M17.1,第112/北陸 第124静岡・見付,M11.10/M15.7,第135/静岡 第125山形・米沢,M11.12/M30.8,第125/-  第126大阪・大阪,M11.12/M15.11,閉店/ 第127香川・丸亀,M11.12/M29.10,第137/四国 第128岐阜・八幡,M11.12/M31.1,第128/16 第129岐阜・大垣,M11.12/M29.3,大垣共立/大垣共立 第130大阪・大阪,M11.12/M31.7,第130/富士⇒みずほ 第131岐阜・大庭,M12.1/M14.7,第132/三井⇒太陽神戸三井⇒さくら⇒三井住友 第132神奈川・程ヶ谷,M12.4/M30.10,第132/- 第133滋賀・彦根,M12.2/M32.2,133/滋賀  第134愛知・名古屋,M11.12/M30.4,第134/東海⇒三和⇒UFJ⇒三菱東京UFJ 第135熊本・宇土,M12.1/M29.9,九州商業/肥後 第136愛知・半田,M12.2/M31.7,第136/富士⇒みずほ 第137兵庫・篠山,M12.4/M30.7,第137/神戸⇒太陽神戸⇒太陽神戸三井⇒さくら⇒三井住友 第138静岡・二俣,M12.2/M31,1,第138/静岡  第139新潟・高田M12.2/M31.1,第139/第4 第140山形・山形,M12.3/M14.1,第67/庄内 第141愛媛・西条,M12.4/M30.1,西条/広島 第142千葉・銚子,M12.3/M14.11,第32/三井⇒太陽神戸三井⇒さくら⇒三井住友 第143千葉・八街,M12.3/M13.4,第30/三和⇒UFJ⇒三菱東京UFJ 第144宮崎・飫肥,M12.5/M32.1,飫肥/- 第145宮崎・延岡,M12.4/M32,1,延岡/宮崎 第146広島・広島,M12.4/M30,1,広島/広島  第147鹿児島・鹿児島,M12.8/M30.1,第147/鹿児島 第148大阪・大阪,M12.3/M31.7,山口/三和⇒UFJ⇒三菱東京UFJ 第149北海道・函館,M12.8/M18.5,第119/三菱⇒東京三菱⇒三菱東京UFJ 第150青森・八戸,M12.5/M31.9,第150/東邦 
第151熊本・熊本,M12.8/M31.7,第151/- 第152沖縄・那覇,M12.12/M30.7,第152/- 第153京都・京都,M12.11/M19.1,第111/-  (『埼玉銀行史』『千葉銀行史』から)
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<日米修好通商条約批准使節団> 日米修好通商条約(1858年=安政5年)の批准書交換のため、わが国から渡米した最初の外交使節一行は、1860年5月17日ホワイトハウスでブキャナン大統領へ国書を奉呈した。 この日の連邦議会議事録を調べると、午前11時に開会した下院は、国書奉呈式へ列席するため直ちに3時間の休憩を決議したことが確認できる。 上院は開会したところ5名の議員しか現れず、やはり休憩手続きを取ったが、わが国外交使節はたいへんな人気を呼んだらしい。 チョンマゲ髪に鳥帽子を戴き、狩衣をまとって帯刀した正使と副使が、公式訪問で往来する道路の両側や、一行が宿泊したホテルの周辺は、彼らを見ようとする群集で埋まり、警察官が出動して見物人を整理する有様であった。
 使節団は正使新見豊前守のほか、副使村垣淡路守、監察小栗豊後守の3名が代表で、随員や従者などを加えると77名へ膨れ上がり、万事に格式張らないアメリカ人たちを不思議がらせた。 また一行の荷物がきわめて多かったことも評判で、米、味噌、干し魚から草鞋にいたるまで総量50トン持参したのであるから、アメリカ側が驚いたのも無理もない。 実はこれでも、幕府側は使節団の規模を予定より縮小したのであって、初めは大名の格式を考えていたから、金紋先箱に奴の毛槍も繰り出す行列を、正式に仕立てるつもりであった。
 トロイの木馬まで引き合いに出されて、わが国最初の遣米使節が2年後になってさえ比喩に使われたのは、見掛けによらず中身が大がかりであるとの意味からであった。 国威を汚さぬようにと、文化の高さと礼儀の正しさを示しはしたが、結局は大袈裟な振る舞いと受け取られたようである。ここでロスコウ=カンクリング議員が攻撃した新制度が、本章で扱う「国法銀行制度 (National Banking System) 」で、これが明治5年わが国へ移入されて国立銀行条例による近代的な銀行制度となった。 (『アメリカの金融制度』から) (T注 「ナショナル・バンク」を「国立銀行」と訳さず「国民銀行」と訳すと分かりやすかった。多くの国立銀行を作り、紙幣を発行する、手本としたアメリカの金融制度については、高木仁著『アメリカの金融制度』に詳しい。)
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<通貨流通量のコントロール> 松方正義の諸政策の結果、明治14年末には1億1,891万円に達していた政府紙幣流通高は、18年末には8,835万円へと14年末比25.7%縮小し、ピーク時の11年末に比べれば36.6%の減少を示した。 一方、政府の正貨保有高は14年末の1,270万円から18年末には4,227万円へと3.3倍に激増し、政府紙幣流通高に対するその比率も同時期に10.7%から47.8%に急上昇している(表を参照のこと)。 これに伴い、銀貨1円に対する紙幣の相場は、明治14年には平均1円69銭6厘とほぼ70銭の開きがあったのが、15年・1円57銭1厘、16年・1円26銭4厘、17年・1円8銭9厘、18年・1円5銭5厘と著しい速度で格差を縮め、19年にはついに銀紙の開きは消滅した。
 また物価も顕著な低落を示し、農産物庭先価格指数は明治15〜17年の3年間に42.6%の大幅下落となり、ほぼ明治10年の水準に戻った。工業製品価格指数も15年から19年まで落勢をたどり、この5年間に40.5%低落した。 ちなみに、東京における玄米1石の平均相場は、明治14年の10円48銭5厘から17年には5円37銭へとほぼ半値(51.2%)に低下したあと、若干戻したものの20年には5円41銭6厘となった。 このような情勢のもと「世上一般ハ甚シキ不景気ノ状態ニ陥ヰ」ったことはよく知られているが、松方がそれを予期していたことは既に述べた。 松方は紙幣整理の不可欠の前提として「健全財政」主義を貫いたのである。
 しかし、松方は紙幣消却・その価値回復と正貨の蓄積をもって紙幣整理のすべてと考えていたわけではなかった。松方は「本来、紙幣整理の目的といふものは不換紙幣を変じて兌換紙幣とするにある、……而して同時に紙幣の統一を行って全国画一のものとし、其時の経済の状況に応じて屈伸自由なるものにするにある」、 そのためには「英国其他の欧州諸国のように中央銀行を作って之に兌換券発行の特権を与えて貨幣の統一をするといふのが一番宜しい」と考えていた。 したがって、松方が紙幣の消却と正貨準備の蓄積を推進すると同時に、中央銀行設立の具体的準備を進めていたことは言うまでもない。 (『日本銀行百年史』から)
政府紙幣流通高・政府正貨保有高   (単位:千円)
明治・年末 政府紙幣 予備政府紙幣 合計(A) 正貨保有高(B) B/A(%)
10 93,836 11,961 105,797(100.0) 15,115 14.3
11 119,800 19,618 139,418(131.8) 17,838 12.8
12 114,191 16,118 130,309(123.2) 9,968 7.6
13 108,412 16,528 124,940(118.1) 7,167 5.7
14 105,905 13,000 118,905(112.4) 12,700 10.7
15 105,369 4,000 109,369(103.4) 16,730 15.3
16 97,999 0 97,999(92.6) 25,876 26.4
17 93,380 0 93,380(88.3) 33,569 35.9
18 88,345 0 88,345(83.5) 42,266 47.8
(注) かっこ内は明治10年末流通高を100とした指数
物価指数
明治 農産物庭先価格指数 工業製品価格指数
10 25.3( 15.0) 31.3(  1.6)
11 28.6( 13.0) 33.8(  8.0)
12 35.8( 25.2) 37.7( 11.5)
13 39.9( 11.5) 45.3( 20.2)
14 44.4( 11.3) 55.1( 21.6)
15 37.0(△16.7) 49.7(△ 9.8)
16 29.1(△21.4) 39.4(△20.7)
17 25.5(△12.4) 35.1(△10.9)
18 28.0(  9.8) 34.0(△ 3.1)
19 28.5(  1.8) 32.8(△ 3.5)
20 26.9(△ 5.6) 34.7(  5.8)
(注) かっこ内は前年比変化率(%)。△印は下落を示す。昭和9〜11年=100
(『日本銀行百年史』から)
<わが国屈伸制限発行制度の成立> 日本銀行は創立後ほぼ2ヶ年を経過したのち明治18年5月にいたってはじめて銀行券の発行を行った。 このときその発行を規定したのは日本銀行条例第14条で定められていた「別段ノ規則」に当たるところの兌換銀行券条例であったが、その第1条は銀行券を銀貨をもって兌換することを規定し、第2条は銀行券に対する引替準備を定めたものであった。 その第2条の条文は「日本銀行ハ兌換銀行券発行高ニ対シ相当ノ銀貨ヲ置キ其引換準備ニ充ツヘシ」とある。
 この条文における「相当ノ銀貨」というのは、その意味するところが明確ではないが、これについては元老院会議において番外岩崎小二郎が答えている。 それによってみると政府はこの条文により日本銀行をして銀行券発行高と同額の引替準備を持たしめるよう監督する意図であったと解される。そしてそのことは、兌換銀行券条例の起草者であった大蔵卿松方正義の文書などからも確かめられるところである。(中略)
 しかし日本銀行にせっかくその銀行券発行を行わせるにしても、発行高と同額の引替準備を持つことを同行に強制するのであれば、そのことは同行設立の目的を達成するには不都合である。けだし、そのような強制は銀行券発行によって日本銀行の資力が育成されることを妨げるものであるし、 他方では準備金の蓄積に制約されて銀行券発行高の拡大がすみやかには実現できぬようにするからである。したがってこの兌換銀行券条例第2条については、それが同額準備を強いるものであるかぎり起草者自体がもともとこれを永続的な規定として施行する考えを持っていなかったとしても、それもあえて理解しがたいことではない。(中略)
 日本銀行の創設者であり、かつまた兌換銀行券条例の草案者である松方正義がもともと予定していたところの銀行券発行制度は、いわゆる3分の1比例準備制度であった。(中略)
大蔵卿松方は準備金に対する3倍の銀行券発行を日本銀行に認可しようと意図したのであって、ただし当分の間準備の比率を大蔵卿が指定すると条文に書いたとしても、それは割合を高くするとの趣意であって、やはり松方としては比例準備制以外のものを考えていたわけではなかったと察せられる。 (『明治前期の銀行制度』から)
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<通貨流通量と準備率> 金融経済学の教科書は「貨幣乗数」「ハイパワード・マネー」「トランスミッションメカニズム」などの言葉を使って、通貨流通量の増減を説明しようとする。 金融の現場、銀行では「預金高」と「貸出高」のバランスで考える。つまり「貸出高」が「預金高」を越えないように、「オーバーローン」にならないようにする。そこには「貨幣乗数」「ハイパワード・マネー」「トランスミッションメカニズム」などの言葉は登場しない。 中央銀行ではどうか、と言うと、金本位制を採用していた明治時代には、「通貨流通量」と「正貨保有高」を問題にする。つまり上の表で言えば「B/A(%)」だ。 ここにおいて学校で教える金融経済学は、現場である銀行や中央銀行では役に立たない空論であることがハッキリする。金融の現場では 「ベースマネーの増減により(原因)、マネーサプライが増減する(結果)」との「神話」は信じられていない。
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<主な参考文献・引用文献>
『第一銀行小史』                編纂・発行 第一勧業銀行資料展示室 1973. 6.11
『創業百年史』           山梨中央銀行行史編纂室 山梨中央銀行      1981. 3
『東邦銀行小史』                宮島宏志郎 日本経済評論社     1979. 8.20
『八十二銀行50年史』             編纂・発行 八十二銀行       1983. 6.20
『山形銀行百年史』         山形銀行百年史編纂部会 山形銀行        1997. 9.30
『七十七銀行120年史』            編纂・発行 七十七銀行       1999. 3
『創業百年史』             北越銀行行史編纂室 北越銀行        1980. 9.10
『第四銀行百年史』        第四銀行企画部行史編集室 第四銀行        1974. 5.20
『創業百年史』            創業百年史編纂事務局 広島銀行        1979. 8. 6
『百五銀行百年のあゆみ』            編集・発行 百五銀行企画調査部   1978. 7.10
『佐賀銀行百年史』               総合企画部 佐賀銀行        1982.12.25
『百十四銀行百二十五年誌』           編纂・発行 百十四銀行       2005. 8.31
『埼玉銀行史』            埼玉銀行史編集委員室 埼玉銀行        1968.10. 1
『千葉銀行史』                 編集・発行 千葉銀行        1975. 3.31
『アメリカの金融制度』               高木仁 東洋経済新報社     1986. 5. 8
『日本銀行百年史』        日本銀行百年史編纂委員会 日本銀行        1982.10.10
『明治前期の銀行制度』日本金融市場発達史T 金融経済研究所 東洋経済新報社     1960.12.25
( 2006年5月22日 TANAKA1942b )
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私立銀行という現在の大手都市銀行が誕生
三井・安田・住友・三菱──ほか
 明治政府主導で、為替会社ができ、国立銀行ができる。しかしこれで金融制度が完成するのではない。こうした金融制度の派点を見守っていた、民間人が動き出す。 今週は現在日本の主要な銀行である「都市銀行」(当時は「国立銀行」に対して「私立銀行」と言われた)を扱うことにする。
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<日本最大規模の銀行==三井銀行設立> 江戸時代における信用機構は、両替商を中心として高度な発達を見せていたが、幕末維新期の動乱と変革によって、その多くが崩壊したため、明治政府は改めて欧米の銀行制度を導入し、信用機構の再構築につとめたとされてきた。 確かに1868年(明治元年)の銀目廃止措置を契機に大阪の両替商の多くが倒産したが、両替商による金融が全面的に崩壊したわけではない。 とくに幕末の横浜開港以降の貿易品の流通を金融的に支えてきたシステムは、外国商人の内地侵入を阻止し、日本商人の資本蓄積を可能にした点で、重大な意義をもっていた。
 明治政府は、1871年の廃藩置県によって全国の租税を集中管理しなければならなくなったが、中央銀行はもとより民間銀行もなかった当時、頼りにしたのが三井・小野・島田のいわゆる為替方御三家の信用ネットワークであった。 しかし、小野・島田両組は、1874年(明治7年)の官金抵当増額令によって破綻を余儀なくされ、三井組だけが存続し、76年には当時日本最大規模の三井銀行を設立する。 (『近代日本金融史序説』から)
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<三井両替店の創業> 店前売りや切り売りをはじめとして、越後屋の商法は本町の呉服屋たちから見れば、横紙破りのものばかりであった。 そのために同業者から取引を停止されたり、「無法の商ひ」をすると訴えられたり、店員の引き抜きを策されるなど、さまざまの妨害を受けながらも、 三井の新店は着々と業績を伸ばしていった。そして、たまたま、開店後10年目の天和2年(1682)12月28日の大火に、本町の町並みは一夜にして灰尽に帰したのである。
 三井高利は、この機会に店舗を隣町の両替屋街である駿河町に移して、翌天和3年5月に、有名な「現金安売掛売なし」の看板を掲げて、はなばなしく開店した。 店の位置はちょうど現在の三越本店のあるところである。
 当行の前身である三井両替店が創業したのは、まさにこの時であった。それは西暦1683年、今年、昭和31年から数えて実に273年の昔である。 店は表口3間1尺6寸、奥行8間、呉服店の西隣であった。やはり現在の三越のビルの一部にふくまれるた位置である。(中略)
 このようにして三井両替店は、越後屋のための補助的な機関として、ここに発足した。そして、これこそが当行の起源であった。 (『三井銀行八十年史』から)
<三井銀行の創立> 江戸時代に巨大な富を築き上げた大商人の中には、幕末維新の激動にあたって昔日の面影を失う者も少なくなかった。そのなかにあって、三井が威信政府の為替方として活躍し得たのは、大商人の中で朝廷方に加担する態度を最初に鮮明にした功績によると言われる。 しかし、その三井にしても江戸時代には幕府御用をつとめ、成長してきたことは前述のとおりであり、文久3年(1863)年11月ごろまでは幕府方との連携を強化にて、経営危機を乗り切ろうとする気運の強かった。 一方、京都の大元方は勤皇派の情報収集につとめ、大坂両替店は慶応元年(1865)薩摩藩のため、琉球通宝の引替御用を新に引き受けた。いわば三井は、幕府・朝廷双方の動きを慎重に見守っていたのである。 三井が最終的決断を迫られたのは、慶応3年(1867)12月の王制復古の発令、維新政府成立のときであった。
 すなわち、新政府が最初に直面した緊急問題は財政問題であって、ただちに大蔵省の前身となる金穀出納所を設置して、三井三郎助(高喜=たかよし)・小野善助・島田八郎左衛門にその御用達を命じたのに対し、三井は率先してこれを受諾したのである。 ついで慶応4年正月、三井三郎助は出納所為替御用達となり、2月には金穀出納所の改称にともない会計事務局御為替方に任命された。そしれ、これと同時に御為替方三井組を称するようになった。(中略)
 維新以来、三井は為替方として政府の金融事務を担当、あるいは為替会社の総頭取の地位につき、着実に近代的銀行業者としての体験を重ねたが、さらに明治4年(1871)6月、政府の新貨鋳造事業の一翼を担うことになった。 地金回収と新旧貨幣交換の御用を命ぜられたのがそれである。政府は、幕末以来の極度に混乱した貨幣制度を整理統一するために、明治2年7月慈雨閉局を設ける一方、大蔵少輔(しょうゆう)伊藤博文の献策に基づいて金本位制を決定し、4年5月「新貨条例」を発布、鋳造すべき新貨幣の品位・量目・種類を定めた。(中略)
 第一国立銀行が設立された後も、三井組は単独で銀行設立の準備を進めた。明治8年(1875)3月、三井組を三井バンクと改称し、部内に対し三井バンクをもって全三井の中枢とする旨を通達した。ここにおいて、宝永7年(1710)以来の大元方の役割は否定され、三井バンク大元締役場がこれを引き継いだのである。(中略)
 明治8年7月、三井八郎右衛門(高福)らを発起人とし、三井組総取締三野村利左衛門の名をもって、銀行設立願書を東京府知事あてに提出した。 この三井銀行創立願書に対して、政府はどのような態度をとったか。国立銀行条例は、国立銀行以外に「銀行」と称する異を禁止していた。したがって、三井銀行の創立出願についても当然この点が問題になった。 しかし国立銀行の設立は、政府の予期に反して第1・第2・第4・第5の4行にとどまり、しかもこれらの国立銀行も内外の経済環境の変化により、明治7年ごろから兌換銀行券を発行しても、ただちに正貨に兌換されるありさまであった。
 このような情勢のなかにあって、大蔵省は明治8年3月31日、ようやく東京府に対し条件付認可の指令を与えた。
 三井組の修正に対し、政府は明治9年5月23日付をもって許可の指令を与え、ついで6月30日、三井組大元方代表の三井三郎助(高喜)と三井銀行代表の今井友五郎との間に事務引継ぎが行われ、翌明治9年7月1日を期して三井銀行は開業した。 (『三井銀行100年のあゆみ』から)
<三井銀行の貸出金と預金額> 単位千円 
年月末 貸出金 預金額
10.12 7,607 7,623
11.12 5,796 6,416
12.12 4,220 5,234
13.12 4,283 5,342
14.12 5,124 6,157
15.12 8,291 14,344
16. 6 8,076 14,788
17. 6 7,382 10,590
24. 6 17,974 16,390
26.12 10,938 16,775
30.12 20,406 25,064
34.12 18,469 29,048
38.12 35,232 49,388
42. 6 64,872 78,319
 これによってみると、明治10年代における当行の貸出金額は、官金取扱制度の改正による資金量の減退に伴って、停滞状態を続けていたことが知られる。 特に10年代の初期には、創立当初に比して相当の減少傾向を示し、その後次第に回復したあとが認められる。
 明治26年12月期の合名会社としての当行最初の決算において、1,090万円であった貸出金は、その後、日清・日露の両戦争を経た明治42年6月には6,400万円巨額にまで累増を見たのである。 これは、もっぱら当時の日本経済の急速な発展に負うところであって、預金の場合と同じく、同業者間に一般に見られた現象である、 試みに同期間における主要な同業者の貸出金の動勢をみても、その増加はいずれも顕著なものがあり、当行の増加は必ずしも特異な現象ではない。特に増加率の点では住友・安田両銀行の進出が著しく、金額では第一銀行が当行とほとんど肩を並べるに至っている。 (『三井銀行八十年史』から)
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<安田銀行の創業者=安田善次郎> 当行の創業者安田善次郎は富山の出身である。安田家は江戸中期の宝永2年(1705)に備後国福山から越中国婦負(ねい)郡安田村に移り、農業を営んだ。 この地は現在の富山市の中心部から約5キロメートルを隔てた婦負郡婦中(ふちゅう)町安田である。元文2年(1737)に一家の三男楠三郎が、富山藩の城下婦負郡富山の新町という場所に分家し、「安田屋」という屋号を用いて商業に従事した。 楠三郎から4代のちの善悦は、新町から婦負郡富山の鍋屋小路に居を移し、ここで天保9年(1838)10月9日に善次郎(幼名岩次郎)が誕生した。そのころの一家は半農半商の生活を営んでいた。(中略)
 善次郎は16歳のときに、郷里から江戸への出奔を企てた。当時、富山から神通川をさかのぼり飛騨に入り、飛騨から野麦峠越えなどの方法で信州に至る交通路があった。 この第1回目の出奔では、飛騨の山中で一夜の宿を借りた家の主人から無断で家出をした点を諄々と諭され、両親の元に引き返した。しかし都会に出たいという善次郎の気持ちは強く、18歳のときに再び江戸を目指し、いったんは江戸に到着したが父の依頼で追ってきた叔父に引き戻されてしまった。 父は富山藩士の地位を善次郎に継がせたかったのである。
 善次郎がようやく父の許しを得て江戸に出たのは安政5年(1858)、19歳のときであった。安政5年といえば、ペリーが軍艦4隻を率いて浦賀に来航してから5年後であり、日米修好通商条約が調印され、次いで他の列強諸国とも同様の条約が結ばれて、日本の鎖国政策が完全に終わりを告げた年であった。これから10年のちに、日本は明治維新を迎えることになる。
奉公時代 江戸に出た善次郎は、江戸の地理人情を飲み込む必要があると考え、江戸中の至る所にあった玩具屋に卸売する玩具問屋に奉公人として2年あまり住み込み、さらに海苔屋兼両替屋に3年勤めた。
 海苔屋兼両替屋では、金銀鑑定眼を身につけ、両替業務の手代に昇進した。このころ、鰹節屋に勤めていた大倉喜八郎(のちの大倉財閥の創始者)と知り合っている。
 江戸に出て5年余の奉公ののち、善次郎は元治元年(1864)に25両の資本で独立し、人形町通り乗物町(現在の中央区日本橋掘留町)に家を借りて、銭両替と海苔、鰹節、砂糖の小売を営むことにした。 間口2間、奥行5間余りの家で、安田屋と称した。善次郎はこのとき25歳であった。銭両替は一般に日用品の小売業を兼営したが、これは小売りによるたまり銭を金銀貨の両替に用いることができるという利点があったからである。
 のちに江戸町奉行所から東京府に引き継がれた『諸問屋名前帳』によると、善次郎が元治元年3月18日、三組両替の組合員の権利を取得したと記されている。 また、立会所単位の組合組織のなかでは、善次郎は両替町組に加入していたと『富の礎』で述べている。
 善次郎は得意先(商家や武家)を巡回して、金銀貨と銭貨を交換して手数料を得、また同業者との銭貨の売買によって差益を得た。 「江戸では湯屋の客が随分朝早くから来る、だから客の来ない暇に湯屋を回り、小銭を集めるとすれば、殆ど夜の明けぬ暗い間にせねばならなかった。ところが善次郎は根気よくこれを続けた」(保善社内伝記編纂所『安田善次郎全伝』昭和2年刊)。 やがて善次郎は早朝から両国、浅草、芝の両替屋仲間を巡回し、交換の用に応ずるようになった。「仲間の方でも至極これを便利とし、私を歓迎するので、段々利益を得た」(『富の礎』)と述べている。 安田屋開業の翌年、慶応元年(1865)には、善次郎は仲間から両替町組の肝煎(きもいり=幹事)に選ばれていた。
 元治元年3月に開店したとき、店員は1名であったが、1ヶ月後に2名となり、11月に善次郎は結婚した。店は繁盛して、年末までの9ヶ月間に68両の純益を挙げたといわれる。
幕末の商機=安田商店の発足 安田屋開業から3年目の慶応2年(1866)4月に、善次郎はかねて目をつけていた小舟町3丁目(のち昭和7年9月の町丁名整理により1丁目となる)に家を買って、店を移転した。 土蔵付きの家で、店は間口2間半、奥行3間半、広さ約9坪(30平方メートル)という規模であった。当時の地図を見ると、すぐ前の、てりふり町の通りは商店街であったばかりでなく、荒布(あらめ)橋を渡ると魚河岸、その先は日本橋であり、また荒布橋の下を流れる西掘留川の岸には米屋が多く、商用の人たちがてりふり町を往来して、賑やかな通りであった。
為替方と官金預金 明治政府が、為替会社や国立銀行制度の導入をはかっている間、善次郎は着々と安田商店の基礎を築いていった。最大の課題は資金源である預金の増加であった。
 安田商店の預金高は、慶応3年末、8口、1,751両から3年後の明治3年末に11口、2万1,659両となり、さらに3年後の6年末には31口、6万710円(4年の新貨条例で1両は1円となった)に増加した。
 明治初期の金融機関は官庁などの為替方としての役割を果たした。為替方というのは「国庫ニ収納スル金銭ノ鑑定収入逓送若クハ支出ノ事務ヲ掌ルモノ」(『明治財政史』第4巻)である。為替方の指定を受けた金融機関には、結果として多額の官金預金が滞留した。
 新政府ができたころの、当初の会計事務所の為替方には、三井組、小野組、島田組といった歴史のある本両替屋が任命された。為替会社や国立銀行制度の導入にあたり、官金出納取扱いの特典が与えられた。 国庫金を総括する大蔵省の官金出納は6年7月、第1国立銀行の開業とともに同行に委託された。大蔵省以外の各省、各府県は、それまで随意に民間の商会または豪商に現金収支事務を委ねてきたが、このときから為替方の任命には大蔵省の許可を要し、かつ第1国立銀行の契約に準じ契約を締結することが必要になった。
 次いで同年12月、経費出納方法が定められ、省については常額経費の年額を12に分割し、毎月初めに大蔵省から交付するという方法がとられ、府県については申請によって半年分を交付することとした。これらの資金は民間の為替方を通じて受払いが行われた。
 官金の取扱いには、預金高の3分の1に相当する担保(公債証書または不動産)を要したが、7年10月、規則が厳重になり、預金高の全額に担保を要することになった。 この結果、有力な為替方であった小野組、島田の両組は、増し担保の提供が不可能となったため、同年12月までに相次いで廃業に至った。 8年1月、大蔵省は小野、島田両組に為替方を命じていた府県に対し、第1国立銀行に委託先を帰ることを令示した。一方、大蔵省事態の官金出納については、9年3月から第1国立銀行の取扱いを廃し、大蔵省出納局が自ら管掌することになった。
 このように官金取扱いの厳正化がはかられている時期に、善次郎は司法省為替方(7年10月)、東京裁判所為替方(翌8年8月)、栃木県為替方(同12月)に相次いで指名された。
為替業務の開始 江戸時代には、物資の集散地であった大坂を中心として為替業務が著しい発達を遂げた。大坂と江戸との間では、@諸藩が自国の物資を大坂で売り捌いた代金、あるいは大坂で金策した資金を江戸の藩邸に送金する。 A江戸の商人が大坂から積送された商品代金を大坂に送金する、といった目的の為替のほか、B幕府の御用金を江戸に送金する公金為替が行われた。 公金為替も一般為替も、その取扱いは本両替屋が主で、銭両替屋には「為替といふものは僅かしかなかった」(『富の礎』)。しかし明治維新前後の動乱期を経て、大坂、江戸双方の両替商に盛衰があり、従来、為替を取り仕切ってきた組織が崩れたために、為替業務の分野でも善次郎の実力が発揮されるようになった。
 安田商店が初めて隔地間の為替業務を手がけたのは、明治8年となっている。
第三国立銀行の開業 当初の国立銀行制度について事態の経過を見守っていた善次郎は、国立銀行条例の改正で金禄公債を資本に銀行券が発行でき、しかも銀行券の金貨との兌換が免ぜられるという新制度の利点に着目、改正条例が布告される前日の9年7月31日に、主な出資者となる人たちと出願の手筈を決め、8月2日にいち早く国立銀行創立願を提出した。
 認可は明治9年9月6日付で下りたが、東京国立銀行という名称は許可されなかったので、改めて第三国立銀行を願い出て9月14日に決定をみた。国立銀行はすべて願書受付の番号を名称としており、第三の名称は、5年に大阪の鴻池家に許可済であったが、都合によって設立が中止されていた。善次郎は安田家の祖先が三善姓を名乗っていたという来歴から、三の数次に特別の愛着をもっていたといわれる。
 第三国立銀行は明治9年12月5日、安田商店と道路をはさんだ向かい側、西掘留川沿いに開業した。当初の建物は善次郎所有の土蔵を改造したものであった。
国立銀行設立指導 明治10年以降国立銀行が各地に誕生したが、地方における国立銀行設立当事者の大多数は銀行についての知識がなく、事情に精通する国立銀行設立経験者に意見や助言を求める向きが多かった。 したがって、第三国立銀行設立の体験を積んだ善次郎に対し、設立指導を請う国立銀行が後を絶たなかった。
安田商店の近代化 善次郎は第三国立銀行頭取に就任することによって名実ともに銀行家としての第1歩を踏み出した。 しかし、第三国立銀行への出資金は、安田商店が蓄積した資金の中から投下されたものであり、安田商店が母体であつ点に変わりはない。善次郎は第三国立銀行を設立する一方で、安田商店の近代化に取り組んだ。
 善次郎が第三国立銀行を設立した明治10年には、国立銀行の数は20行となり、このうち京浜地区に本店または支店のある銀行は10行で、9年7月に開業した私立三井銀行を加えると敬11行が営業していた。 同一区域内に多数の銀行が開設されるにつれ、同業者間の強調と親睦が必要となり、指導的立場にあった第一国立銀行頭取渋沢栄一は、銀行業者の団体組織の結成を提唱した。 このとき善次郎(第三国立銀行頭取)は、原善三郎(第二国立銀行頭取)、三野村利助(三井銀行副長、副頭取にあたる)と供にただちに賛意を表明、その他の同業者も全員が賛同して、10年7月、京浜地区銀行家の団体として択善会が発足した。
合本安田銀行の設立 明治12年4月に設立願を出した共立銀行(同年6月認可、資本金15万円、開業後間もなく閉店)を発端として、13年6月までに共立銀行を含めて24行の私立銀行が設立を認可され、以後私立銀行の設立が急増した。
 こうした私立銀行設立の気運が高まるなかで、明治12年11月11日、善次郎は安田商店を改組することとし、「合本安田銀行設立願」を東京府知事に提出した。
 合本安田銀行の設立認可は、明治12年12月」26日、東京府知事から認可が下りた。私立銀行としては三井銀行から数えて5番目であった。 設立資本金については安田商店から引き継いだ資本金15万円、積立金1万円に善次郎の拠出4万円を加えて20万円とした。頭取には善次郎の養子、安田卯之吉(明治14年善四郎と改名)が就任、善次郎は監事に就いた。善次郎は当時第三国立銀行頭取の地位にあり、国立銀行条例の精神に基づいて、私立銀行との兼務を避けたものと考えられる。 (『富士銀行百年史』から)
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<合本安田銀行の誕生> 明治13年1月1日、合本安田銀行は輝かしく開業の門出を迎えた。
 開業時の大略を述べると、まず本店を日本橋小舟町3丁目10番地の旧安田商店店舗に定め栃木、宇都宮の2店を安田商店から継承して銀行の支店とし、資本金は20万円、株主は安田一族のみであった。 こそ株主公正からみれば、安田銀行は安田一族の私利追求銀行として設立された観があるが、善次郎の真の意図は、あくまでも大衆一般の商業銀行を目的とし、安田商店の精神を新しい視野に立って刷新し、 社会的銀行としての使命を全うすることを念願としたものだった。つまり、運用利益をもって安田一門将来の資本充実に備えたのであって、このことは、株主全員が無限責任者として全責任を負い、利益をうるの余地を与えざる態勢とし、 また純益の40%を社内留保とし、50%の株主配当も現実には分配せず、銀行の別段預金として内部資本の蓄積に努めたことによっても知られる。
 役員は選挙の結果、頭取に安田卯之吉(明治14年善四郎と改名)、監事に善次郎、取締役には安田忠兵衛が就任し、使用人は支配人、手代、見習役(注、当時はこれらも役員と称した)の3段階に分け、旧安田商店店員31名全員がそのまま銀行に移行した。 善次郎があえて頭取に就任しなかった理由は、当時第三国立銀行頭取として同行の業務執行責任者であり、「国立銀行条例」成規により他銀行との兼職禁止を規制されていたからであった。 後年(注、明治20年7月)保善社規則制定の際に、保善社総長は安田銀行頭取を兼職し得ない条項を規定し、安田銀行の事務については、すべて頭取の責任に委せ、監事の地位にとどまったのも、その延長なのであった。 (『安田保善社とその関係事業史』から)
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<銀行設立への助走──並合業から始まった住友銀行> 住友銀行が設立されたのは明治28年(1895)だが、その発端はそれより20年ほど前の住友家が並合業(なみあいぎょう)を始めた明治6年か7年にまでさかのぼることができる。
 両替屋が行う町人貸しには、信用のみの「素貸(すがし)」と担保をとる「並合(なみあい)」があった。明治2年に江戸出店を閉鎖して金融から完全に手を引いていた住友家は、この「並合」をひとつの業として金融を再開した。
 明治6年に住友家は富島に出店を設置した。この出店はやがて住友の門点となるところだ。富島は現在の大阪市西区川口にあたり安治川に面した水運の要地だ。そこには多くの雑穀問屋や回船問屋が集まり長州藩の蔵屋敷もあった。 また税関と税務署と外交をかねた機能をもつ役所である運上所も設置されていた。
 富島の住友家には、別子銅山および神戸支店送りの貨物を藏置きするための土蔵があったが、それはごく一部が利用されるにとどまっていた。 富島の問屋たちはこれに目をつけ、その空いた土蔵の利用を申し出て商品を寄託するとともに、そこに寄託した商品を担保に金融を求めるようになった。
 本店にはかつて江戸詰で両替商の任にあたっていた香村(こむら)分之助が在籍していたので、商人の申し出にこたえて商品担保金融へ進出するのは容易だった。こうして始めた並合業の主任に香村があたった。これが住友銀行の発端である。
 当時大阪では、維新後衰退していた大阪経済を復興させるため、同業者が団結して大阪商法会議所をつくり、そこで同業者組合設置運動が行われていた。ところが「並合業」という独立した業種はもちろんそれに類似のものもなく、並合業はしかたなく質屋商仲間組合に編入されることになった。 当時の法令では、この業務をいとなむのに質屋ろしての許可が必要だった。そのため住友家はやむなく質屋商営業の鑑札を受けたが、「並合業」は小口の庶民金融を行ういわゆる質屋とは大きく異なり、おもに問屋を相手にした大口の商業金融だった。
 明治8年の記録の中に、米並合と炭並合の前年度未回収金の繰り越しがあるので、7年には並合取引が若干行われていたことははっきりしている。 このことから富島に出店を出した6年にもおそらく並合業は行われていたものと考えられる。8年の記録に「3月6日 米並合、東嶋孝兵衛 2000円」、「4月7日 中国米1882俵並合、井上治郎兵衛・那須長蔵 4450円」などの記録が見られる。 そのあと並合業務は次第に増えて、13年末には融資残高が4万9075円となり、ほかの勘定と区別されて記録されるようになった。翌14年末には11万6879円と1年間で2倍以上に増加している。(中略)
 明治18年末の銀行の規模を見ると、国立銀行139行の1行あたり平均貸出額が46万7000円であったかた、住友の並合業はその4分の3に相当した。 個別に見ても、三井など一部を除けば当時の銀行は零細なものが多かったので、住友の並合は当時の中堅クラスの銀行に比肩する規模にまでなっており、これが全額自己資金によることを考えると、住友の並合は相当規模の金融業務を行っていたことになる。
 住友家は願書どおり明治28年11月1日、資本金百万円を用意するとともに住友本店にあった貸付債権115万7247円余を移管して、銀行業務を個人経営として開始した。資本金と貸付債権との差額は住友本店が別段預金として預けた。  (『住友銀行百年史』から)
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<三菱各事業の独立─三菱合資会社からの独立> 第1次大戦中におけるわが国経済の興隆に呼応して、三菱合資会社各事業の発展は目覚ましいものがあり、そのため前述の通り合資会社は漸次組織を分化して各事業に独立性を付与しつつあった。 そして遂に一大英断に出て、各事業を合資会社から分離して、独立の会社となし、あわせて外部資本導入の道をひらくこととなった。 すなわち先ず大正6年10月造船部門および朝鮮兼二浦の製鉄業を夫々三菱造船株式会社、三菱製鉄株式会社とし、続いて7年4月鉱山、炭鉱部門および営業部門を夫々三菱鉱業株式会社、三菱商事株式会社として独立させた。 他方合資会社自体も7年5月資本金1,500万円から3,000万円に増加し、従来の総合事業会社から有価証券および不動産の保有、運用を主とする持株会社に転向を開始した。
 斯くて銀行部門も三菱合資会社から独立することに決定し、翌8年8月株式会社三菱銀行の創立をみた。 これに就いてはこのような合資会社の全事業独立の方針の他に、次ぎのような、当時の銀行界と合資会社首脳が抱いて居た銀行事業の積極的拡充の意図とを見逃すことができない。
 当時一般に銀行の規模は各種企業の勃興、拡張に即応して漸次拡大し、増資、合同並びに改組が盛んに行われた。 即ち銀行拡張計画資本は6年以降大幅に増加して大正8年には6億4,000万円となり、また銀行合同も盛んに行われ、合同参加銀行は8年には104行に達し、且つこれ等増資、合同の結果として、1行当たり資本金も倍増した。 また銀行業にあっても他の事業におけると同様従来の合資、合名組織を株式会社に変更するもの多く、新に設立する場合は原則として株式会社を採用する傾向がみられた。
 このような情勢の下にあって三菱合資会社首脳部は銀行部の画期的な拡充を意図した。
 銀行部は明治28年創設以来その業績著しく躍進し、大正8年6月末には預金2億2,800万円、貸出金1億9,500万円、所有有価証券2,000万円となり繰越金も実に1,459万余円に達した。
 然るに資本金は発足当時の100万円に変化なく、店舗数は第1次大戦中の増設店舗を併せても僅かに本店他9店に過ぎず、従って大戦の経過と共に現れた三菱関係諸事業並びに一般諸事業の膨張発展に対応し、且つ将来の発展を図るためにはその資本金を大幅に増加し、一層広く一般の信用を獲得する必要があった。
 而して資本金の増加は銀行部が独立せず合資会社の1部門としてでも可能であり、寧ろこれが銀行部の発展を期する所以であるとする意見もあったが、銀行業の国民経済に占める役割が増大し、その公共的使命が加重されたことに鑑み、個人的色彩の強い合資会社の1部門として利業することはもはや一般の信用を得る上に適当でないと判断され、 茲に大正6年以来三菱各事業に就いて実施されてきた分離独立の方針に従い大正8年8月株式会社三菱銀行の創立となるに至ったのである。 (『三菱銀行史』から)
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<100の銀行が合併してできた銀行==三和銀行> 現在ある銀行の過去を調べてみると、実に多くの銀行を合併・吸収してできたことに驚く。 ほんの少し前まで「三和銀行」があった。その後「東海銀行」と合併し、「UFJ銀行」となり、さらに「東京三菱銀行」と合併し、「三菱東京UFJ」となった。 この「三和銀行」は3つの銀行が合併して「三和銀行」となった。その3つの銀行とは、「34銀行」(設立時は「第34国立銀行」)、「山口銀行(大阪)」(設立時は「第148国立銀行」)、「鴻池銀行」(設立時は「第13国立銀行」)。 さて、この3つの銀行が合併して「三和銀行」ができたのだが、その前後に実に多くの銀行を合併・吸収している。それらの銀行の名前を列挙してみよう。途中名前が変わった銀行は変更前後の両方の名前をあげてみた。 カッコの中は、前が設立年、後が合併年と新銀行名。数が多いので順不同で列挙する。
 三和信託(S16⇒S20三和)、関西信託(T12⇒S16三和信託)、大阪信託(M40⇒T12関西信託)、名古屋信託(T12⇒S7関西信託)、共同信託(S2⇒S16三和信託)、摂津信託(T12⇒T15鴻池信託)、鴻池信託(T15⇒S16三和信託)、第一信託(T13⇒S2鴻池信託)、虎屋信託(T12⇒S16三和信託)、北摂信託(T12⇒S16三和信託)、 南海信託(T13⇒S16三和信託)、奈良信託(T15⇒S16三和信託)、讃岐信託(T15⇒S16三和信託)、仙台信託(T14⇒S20三和信託)、北山銀行(M27⇒T14大同銀行)、山口銀行(奈良県M27⇒T14大同銀行)、那智銀行(M30⇒T14大同銀行)、大同銀行(T14⇒S20三和銀行)、新宮尾崎銀行(M32⇒T15尾崎銀行)、上田銀行(M32⇒T15大同銀行)、 熊野銀行(M30⇒T15大同銀行)、木場銀行(M26⇒S2大同銀行)、潮岬銀行(M22⇒S3大同銀行)、熊野共同銀行(M26⇒S4大同銀行)、四十三銀行(?⇒S5大同銀行)、新宮銀行(M29⇒T13新宮合同銀行)、中谷銀行(M32⇒T13新宮合同銀行)、新宮合同銀行(T13⇒T15南海銀行)、占座銀行(M31⇒T15南海銀行)、 高芝銀行(M33⇒T15南海銀行)、鼎立銀行(M15⇒T15高芝銀行)、色川銀行(M22⇒T15高芝銀行)、高芝銀行(T15⇒南海銀行)、田並株式共隆会社(M26⇒T14田並銀行)、農商銀行(M31⇒T14田並農商銀行)、田並農商銀行(T14⇒T15南海銀行)、保有銀行(M31⇒T15南海銀行)、丙申銀行(M29⇒S2南海銀行)、牟婁銀行(M34⇒S2南海銀行)、
第34国立銀行(M11⇒M3034銀行)、34銀行(M30⇒S8三和銀行) 第21国立銀行(M12⇒M3034銀行)、中立銀行(M27⇒M29日本中立銀行)、日本中立銀行(M29⇒M32銀行)、日本共同銀行(M28⇒M3234銀行)、有魚銀行(M15⇒M3434銀行)、尼崎銀行(M22⇒T634銀行)、大西銀行(M14⇒T1234銀行)、葛城銀行(M27⇒T1234銀行)、第42国立銀行(M11⇒M30北浜銀行)、北浜銀行(M30⇒T8摂陽銀行)、 摂陽銀行(T8⇒T1534銀行)、西六銀行(M28⇒S234銀行)、尾三商業銀行(M27⇒S334銀行)、藤田銀行(?⇒S334銀行)、昭和銀行(?⇒S434銀行)、第30国立銀行(M10⇒M3030銀行)、30銀行(M30⇒S434銀行)、43銀行(?⇒S534銀行)、
第148国立銀行(M12⇒M31(個人)山口銀行)、(個人)山口銀行(M31⇒T6(株)山口銀行)、(株)山口銀行(T6⇒S8三和銀行)、第31国立銀行(M11⇒M21第148国立銀行)、(名)虎屋銀行(M14⇒T7(株)虎屋銀行)、(株)虎屋銀行(T7⇒T11山口銀行)、 児山銀行(M44⇒T14山口銀行)、紀阪貯蓄銀行(M11⇒T14山口銀行)、摂池銀行(M28⇒S2山口銀行)、田口銀行(M30⇒S3山口銀行)、八坂銀行(M33⇒S3山口銀行)、尼崎共立銀行(M26⇒S4山口銀行)、加島銀行(?⇒S4山口銀行)、
第13国立銀行(M10⇒M30(個人)鴻池銀行)、(個人)鴻池銀行(M30⇒M33(名)鴻池銀行)、(名)鴻池銀行(M33⇒T8(株)鴻池銀行)、(株)鴻池銀行(T8⇒S8三和銀行) 泉屋銀行(M18⇒M33鴻池銀行)、藤田銀行(?⇒S3鴻池銀行)、呉商工銀行(M22⇒S4鴻池銀行)、加島銀行(?⇒S4鴻池銀行)、
更池銀行(M29⇒S17三和銀行)、長野銀行(M323⇒S7更池銀行)、辻林銀行(?⇒S17三和銀行)、河泉銀行(?⇒S17三和銀行)、乙訓銀行(M33⇒S17三和銀行)、山崎銀行(M31⇒T15乙訓銀行)、山城八幡銀行(M31⇒S17三和銀行)、尾州銀行(?⇒S18三和銀行)、阪南銀行(?⇒S19三和銀行)、 大和田銀行(M26⇒S20三和銀行)、敦賀銀行(M27⇒S3敦賀25銀行)、敦賀25銀行(S3⇒S11大和田銀行)、第25国立銀行(M10⇒M3025銀行)、25銀行(M30⇒S3敦賀25銀行)、小浜銀行(M19⇒T1525銀行)、本郷銀行(T9⇒S4敦賀25銀行)、 三方銀行(M29⇒S16大和田銀行)、若狭銀行(M31⇒S5三方銀行)、三宅銀行(M29⇒S4若州銀行)、若州銀行(S4⇒S10三方銀行)、悠久銀行(M23⇒S4若州銀行)、久二貯金銀行(M27⇒T10大和田貯金銀行)、大和田貯金銀行(T10⇒S18大和田銀行) (『三和銀行史』から)
 三和銀行は2002(平成14)年1月、東海銀行と合併してUFJ銀行となった。その東海銀行は1941(昭和16)6月、愛知銀行、名古屋銀行、伊藤銀行が合併してできた銀行。 そしてこのUFJ銀行は2006(平成18)年1月、東京三菱銀行と合併し、三菱東京UFJ銀行となった。 そしてその東京三菱銀行は、1996(平成8)年、東京銀行と三菱銀行が合併してできた銀行。そしてその東京銀行は……そしてその三菱銀行は……。現在の三菱東京UFJ銀行とは一体いくつの銀行が合併してできたのでしょうか?好奇心の有る方、調べてみませんか?  
<愛知県の銀行==東海銀行> 愛知県には明治このかた延べ百十余の本店銀行があった。だがこの数多い銀行も、あるものは明治・大正・昭和3代にわたる財界動乱によって解散し、大銀行に吸収され、あるいはまた時の当局の方針によって合同が促進されるなどして、そのあらかたは消滅していった。 そして愛知銀行・名古屋銀行・伊藤銀行の3行を母体として設立された当行が(1941,S16)、県下唯一の本店銀行として残った。前史を国立銀行創業の昔にまで遡って見れば、当行には84年の歴史があり、46の銀行(営業の一部譲り受けを除いて)の血が流れている。 (『東海銀行史』から)
<地方銀行の沿革例==滋賀銀行> 三和銀行、東海銀行、三菱銀行、東京銀行は普通銀行の中でも「都市銀行」に分類される。一方「地方銀行」に分類される銀行もある。こちらは全国展開ではなくて特定の地方を中心に展開している銀行だ。 そこでこの「地方銀行」の沿革も調べてみた。ここで滋賀銀行の例を紹介しよう。こちらも多くの銀行が合併して現在に至っている。
滋賀合同貯蓄銀行(T10,S9滋賀貯蓄銀行)、滋賀貯蓄銀行(S9S18滋賀銀行)、近江貯蓄銀行(M28,S9滋賀貯蓄銀行)、柏原銀行(M34,S18滋賀銀行)、 蒲生倉庫(M16,M39蒲生銀行)、蒲生銀行(M39,S8滋賀銀行)、江頭農産銀行(M16,S3八幡銀行)、八幡銀行(M14,S8滋賀銀行)、淡海銀行(M32,S4第133銀行)、 高島銀行(M30,S2第133銀行)、彦根商業銀行(M29,M34第133銀行)、第133国立銀行(M12,M32第133銀行)、寺庄銀行(M30,S3第133銀行)、 江北銀行(M21,S4湖北銀行)、第21国立銀行(M10,M30第21銀行)、第21銀行(M30,S4湖北銀行)、湖北銀行(S4,S17滋賀銀行)、伊香銀行(M32,S4湖北銀行)、 長浜貯金銀行(M28,S12湖北銀行)、近江信託銀行(S2,S20滋賀銀行)(『滋賀銀行小史』から)
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<主な参考文献・引用文献>
『近代日本金融史序説』              石井寛治 東京大学出版会     1999. 6.24
『三井銀行八十年史』      三井銀行八十年史編纂委員会 三井銀行        1957.11.25
『三井銀行100年のあゆみ』       日本経営史研究所 三井銀行        1976. 7. 1 
『富士銀行百年史』      富士銀行調査部百年史編さん室 富士銀行        1962. 3. 1
『安田保善社とその関係事業史』編修・発行 「安田保善社とその関係事業史」編修委員会 1974. 6.28 
『住友銀行百年史』          住友銀行史編纂委員会 住友銀行        1998. 8.10 
『三菱銀行史』                 編纂・発行 三菱銀行史編纂委員会  1954. 8.15 
『三和銀行史』                 編集・発行 三和銀行史刊行委員会  1954. 3.20 
『東海銀行史』                 編集・発行 東海銀行史編纂委員会  1962.10. 1 
『滋賀銀行小史』                  傳田功 日本経済評論社文庫   1979. 4.25  
( 2006年5月29日 TANAKA1942b )
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全国各地で国立・私立銀行が誕生する
金融ベンチャー時代の始まり
 明治時代は銀行の設立ラッシュであった。「ベンチャービジネス」という言葉は最近使われるようになったので、 新しい企業ができて産業構造が大きく変わったり、あるいは新しい企業のリーダーが生まれたり、新規企業立ち上げにチャレンジするのは現代の特徴であつかのように錯覚してしまう。 ところが、明治時代の銀行制度を調べてみると、明治時代こそベンチャービジネスの時代であったと思うようになる。全国各地で銀行・銀行類似会社が設立された。今週はこうした銀行設立ラッシュを扱う。
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<私立銀行の認可> 前述の為替会社の失敗は、銀行についての一般の関心と認識を深め、その後、銀行設立の出願が相次ぐようになった。 政府はこれに対し、法律と公益に反しない限りその営業を認めてきたが、「国立銀行条例」によって「銀行」の呼称が許されなかったので、それぞれ独自の名称を用い、一般に銀行類似会社と呼ばれた。 そのなかには、後に都市銀行に発展した三井組や安田焦点などのように、経営規模の大きいものもあったが、大部分が中小規模であった。 秋田県では秋田改良社と五業会社がこれに該当する。
 明治9年の「国立銀行条例」改正により、銀行類似会社も銀行の呼称を用いることができるようになり、同年7月三井組が三井銀行と改称した。これが「銀行」を称する私立銀行の始まりであった。その後、インフレの影響や国立銀行の設立禁止などにより、明治12年以降、私立銀行は急激にその数を増やし、15年にはには170行を超えるほどになった。 (『秋田銀行百年史』から)
<庶民の間に広がる貨幣経済> 政府は、明治16年に国立銀行条例を改正し、国立銀行の紙幣発行を停止するとともに、銀行券の消却を指示した。そして、紙幣の回収消却、正貨の蓄積が功を奏するのを見定めたうえで、17年5月に兌換銀行券条例を公布し、翌年5月日本銀行による銀本位制の兌換銀行券発行に踏み切った。なお、金本位制の移行は30年であった。
 こうして、貨幣制度、銀行制度が確立されていったが、庶民の貯蓄や金融はただちにこれに呼応するという状況ではなかった。
 しかし、封建制度を支えていた諸制度が改廃され、とくに@租税物納が廃止され金納になったこと、A生糸等輸出花形商品の盛況により換金農産物が増えたこと、B科学肥料など販売肥料を使用するようになったこと、などから農村にも貨幣経済が急速に浸透するようになった。 一方、都市住民の日常生活に貨幣は欠かせないものであったが、産業の近代化が進み賃金労働者が生まれるに及んで、庶民生活における貨幣経済は一段と活発になった。 (『信用金庫50年の歴史』から)
<銀行条例の精神> わが国の普通銀行は資本主義の急速な発展を促進する手段として、政府によって輸入・移植された。すなわち、明治2年政府は「各国バンク法に倣ひて金銀融通自在ならしむる」ために、為替会社(バンクの訳語)を設立した。 為替会社は「銀行の性質を具え紙幣発行の特権を有する金融機関」であったが、明治2年5月からわずか3年近く存在したのみで解散のやむなきにいたった。そこで、アメリカの国法銀行制度にならって、「一は不兌換紙幣の銷却、 他は一般金融の疎通という極めて都合のよい一石二鳥の高価を期待」して、政府は明治5年11月「国立銀行条例」(明治5年11月15日太政官布告第349号)を制定して、銀行紙幣発行の特権を有するほか普通銀行業務をも営む国立銀行を設立することとした。 本条例によって国立銀行設立の途が開かれたにもかかわらず、私立銀行の「設立を請願するもの年を遂ふて増加し其数殆ど一百」にのぼった。当時これを取り締まり監督する法規がなかったので、政府は社則を調査のうえ、公益を害しないかぎり「願意聞届」けて許可することとした。 こうした許可が公衆に会社を盲信せしめることをおそれた政府は、明治7年4月以降「追て一般の会社条例制定相成候迄人民相対に任せ」ることとした。 (『日本の銀行制度確立史』から)
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<明治初期における長野県の産業・金融情勢> 長野県(信濃国=信州)は、日本の屋根と言われる山岳県で、平野部は狭小、総面積は岩手、福島についで広大であるが、農家1戸当たりの耕地面積は善行平均を大きく下回る。しかも、気候は内陸型で寒暑の差が大きく、年間の3分の1は農耕が不能である。 このような自然条件の制約により、稲作だけに頼る農業経営は困難であった。そこで、江戸時代から副業として、傾斜地あるいは河川敷を利用して畑作物が工夫された。ことに養蚕は、最も風土に適した換金作物として信州全体に普及し、江戸末期には稲作に次ぐ重要産業となった。
 養蚕関連産業としての蚕種業も歴史が古く、上田周辺の蚕種生産は、天保期(1830〜44)までに独自の地位を築くまでに成長した。
 また、このような自然環境は、早くから加工生産への関心を高め、酒、味噌、綿織物などのほか、生糸の生産も多かった。
このような素地があったので、安政6年(1859)の横浜開港によって信州の蚕糸業は大きな刺激を受け、これから急速な発展を促されることになった。開国後、生糸が日本の輸出産業として登場し、明治政府も外貨獲得のため大いに奨励したそで、製糸業はにわかに拡大発展を遂げ、生糸は、明治から昭和初期に至るまで、わが国の最も重要な輸出商品となった。 そのなかにあって信州生糸は輸出向けに生産が急増し、明治22年には長野県は諏訪地方を中心にして全国一の生産県の座を占め、製糸王国と称されるほどの発展を示したのである。
 産業の発達と金融業の発達とは形影相伴うが、明治期に長野県内に設立された銀行は、多かれ少なかれ蚕糸業と関連があったとみられるのである。 (『八十二銀行50年史』から)
維新後の県内金融事情 明治初期、長野県の産業金融のうえに、まず、大きな足跡を残したのは小野組である。小野組は京都を本拠とし、幕府の御用為替方十人組の1つであったが、維新後、新政府の為替方(当時官庁の出納機関を「為替方」と称した)となり、国庫金を無担保、無利子で預かり、それを運用して、三井組、島田組と共に巨大な金融商となった。 さらに小野組は、1府28県の為替方も務め、巨額の資金を擁して、生糸・米穀の取引に手を広げ、また、鉱山業や製糸業にも進出した。 長野県内には明治5年ごろから進出し、長野、松本、上田に支店を設け、長野・筑摩両県の為替方(のちの県金庫にあたる)を務めた。そして明治5年8月、諏訪郡に管内最初の器械製糸場となった深山田(みやまだ)製糸所を建設したのをはじめ、高井、筑摩、伊那、小県の各郡に器械製糸所を次々と建設し、あるいは、地元製糸業者に資金を貸し付け、経営の指導を行い、 また、製糸商に荷為替取組を扱うなど、金融、技術導入の両面において長野県製糸業の発達に大きく貢献した。
 ところが、明治7年10月、政府は為替方規則を改正し、公金預かり高に対する担保差入れ額を、それまでの3分の1から全額とするよう命じたが、規則の改正が急だったため小野組は増担保を間に合わせることができず、翌11月、閉店に追い込まれた。 そのため、同組の資金に頼っていた県内製糸業者は窮地に陥り、「小児ノ母ニ離レシ如ク資金方法相立難ク」休業するものが続出した。 当時は輸出生糸の生産意欲が高まってきた情勢下で、資金蓄積の乏しい地方製糸家では、同組の資金に専ら依存するものが多かったのである。 (『八十二銀行50年史』から)
<新潟県の銀行設立ブーム> 明治25年末に34社を数えた県内の銀行類似会社は、銀行条例施行後、25社が普通銀行に転換し、他業種へ転換したもの3社、解散その他6社となり、26年以降、統計面から姿を消した。 一方、26年7月以降28年までに5行(上能生金融会社、秋成合資会社、小出荷為替合資会社、雷土銀行、三島農商銀行)の普通銀行が新設され、 28年6月には県内貯蓄銀行の嚆矢となった直江津積塵銀行、同年9月には新潟貯蓄銀行が新設されて、28年末の県内銀行数は、国立銀行5行、普通銀行32行、貯蓄銀行2行、敬9行に達した。
 日清戦争ご、景気が回復し企業熱が勃興したため、銀行の業績は好転し、再び銀行の設立が増加して34年末には1,867行を数えた。この間、国立銀行のうち122行が普通銀行に転換した。 また、特殊銀行も相次いで設立され(明治30年日本勧業銀行、31年農工銀行、33年北海道拓殖銀行、35年日本興業銀行)、30年の金本位制採用と相まって、わが国の貨幣金融制度はいちだんと整備された。
 県内においても、日清戦争後の好況と企業熱の勃興、油田開発、北越鉄道の開通を背景として、29年以降、銀行の設立ブームが続いた。すなわち、29年に11行(普通銀行9行<うち国立銀行からの転換1行>、 貯蓄2行)、30年に18行(普通13行、貯蓄5行)、31年に12行(普通9行<うち国立銀行かえあの転換4行>、貯蓄3行)、32年に7行(普通5行、特殊1行、貯蓄1行)、33年には13行(普通10行<うち貯蓄銀行からの転換1行>、貯蓄3行)が新設され、 33年末の銀行数は91行(普通75行、特殊1行、貯蓄15行)に激増した。 (北越銀行『創業百年史』から)
<県内国立銀行設立状況>
銀行名 本店所在地 開業免状下付日 明治 開業日   明治 資本金 万円
第四国立銀行 新潟  6.12.24  7. 3. 1 20
第六十九国立銀行 長岡 11.11. 2 11.12.20 10
第七十一国立銀行 村上 11.10. 7 11.11.15
第百六国立銀行 新発田 11.12.10 12. 2. 5
第百三十九国立銀行 高田 12. 2.26 12. 7. 3 10
(北越銀行『創業百年史』から)
<愛媛県の国立銀行> 愛媛県での最初の国立銀行は、明治11年1月、旧宇和島藩内の西宇和郡川之石浦(現・保内町)に設立された第29国立銀行である。 設立の動きは、第2代大蔵卿となった旧宇和島藩主伊達宗城(むねなり)が、10年7月、第20国立銀行(資本金25万円)を東京に設立したことにより、旧宇和島藩と第20国立銀行が密接な関係にあったところから、第20国立銀行の今岡好謙、宇都宮綱條が、宗城の命を受けて川之石の矢野小十郎を訪れ軍功設立を勧めたことに始まったものである。(中略)
 第29国立銀行の設立が計画されていた頃、松山でも同じ動きがみられた。旧松山藩の旧士族加藤彰(あきら)は、国立銀行設立の志をもって東京から松山に来たが、たまたま同郷の旧士族伊藤奚疑(けいぎ)も同様の計画を持っていることを知った。 両名は、相携えて士族仲間に同志を募ると共に、資金の獲得のため旧松山藩主久松家に株主となることを懇願するなど奔走したが、なかなか思惑通りには進まなかった。 こうしたなかで、当時の岩村高俊愛媛県権令は、加藤らに対し「士族は理屈は言っても資力乏しく商売も下手ならん。商人は熟練はあれども規則の事などは不得手なり。依ってこれを合併せば宜しからん」として、当時県下で最大規模を誇っていた興産会社(銀行類似会社)と共同出資して国立銀行を設立するよう話を持ちかけた。 しかし、商人との協調を潔しとしない士族間の反対が強く、この計画は挫折し、結局士族だけで計画を進めることになった。
 明治10年12月8日、東京在住の池内久親と小林信近、加藤彰、伊藤奚疑、奥平貞幹(さだとも)の旧松山藩士族5人および永木甚五平は、金禄公債の出資により資本金を7万円とする国立銀行の設立を大蔵省に請願した。 大蔵省は11年2月7日に第五十二国立言行として設立を認可、同年9月14日に開業免許を下付、9月25日に開業の運びとなった。四国では4番目に国立銀行である。(中略)
 愛媛県南予に第29国立銀行、中予に第52国立銀行が設立されたのに続いて、明治12年には東予にも四国における9番目の国立銀行として第141国立銀行が誕生した。
<四国地方の国立銀行>
銀 行 名 所 在 地 免許下付年月日 資本金・円 発行紙幣・円 頭 取 名
第七国立銀行 高知県土佐郡種崎町184番地 10. 2.20 100,000 80,000 由比直枝
第二十九国立銀行 愛媛県西宇和郡川之石浦 11. 1.29 100,000 80,000 清水一朗
第三十七国立銀行 高知県土佐郡本丁56番地 11.10.17 150,000 120,000 三浦萬衛
第五十二国立銀行 愛媛県温泉郡紙屋町 11. 9.14 70,000 56,000 小林信近
第八十国立銀行 高知県土佐郡下知村農民町11番邸 11.10. 8 100,000 80,000 西野友保
第百十四国立銀行 高知県下讃岐国香川郡高松丸亀町22番邸 11.10. 7 50,000 40,000 松本貫四郎
第百二十七国立銀行 愛媛県下讃岐国那珂郡丸亀通町18番邸 11.12.17 150,000 120,000 岩崎長武
第百四十一国立銀行 愛媛県新居東町 12. 4.12 50,000 40,000 木村幾久太郎
(『伊予銀行五十年史』から)
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<前身銀行の概要=北越銀行> 当行の前身である六十九銀行と長岡銀行は、大正11年から昭和9年にかけて、13行に及ぶ諸銀行を合併あるいは買収した。 そして、両銀行合併後も昭和18年12月には長岡貯蓄銀行を合併し、軽視規模の拡大を実現していった。
 これら被合併銀行における設立の事情は、それぞれ別々であったが、20〜30年の歴史を有し、その所在する地域の金融を担当しつつ地場産業・地域産業の開発・発展に貢献していた。 そして、これら被合併銀行が築き上げてきた業績を当行は受け継ぎ、地域社会とより密接な結び付きを保ちつつ、地元の一員として深く根をおろし、今日に至っている。
<合併銀行一覧> (金額単位:千円)
銀行名 本店所在地 設立年月日 資本金 払込資本金 合併年月日 備 考
東京栄銀行 東京市京橋区 M.42. 9.12 1,000 750 T.11. 1. 1 長岡銀行と合併
見附銀行 南蒲原郡見附町 14. 2. 6 1,000 550 11.11. 1 長岡銀行と合併
越見銀行 南蒲原郡見附町 31. 5. 7 500 450 12.12. 1 六十九銀行と合併
脇野町銀行 三島郡脇野町村 28.12. 9 300 200 S. 2. 4. 1 六十九銀行と合併
六日町銀行 南魚沼郡六日町 31. 2. 1 500 500 2.10. 1 六十九銀行と合併
寺泊銀行 三島郡寺泊町 29. 8.31 1,100 875 4. 4. 1 六十九銀行と合併
(地蔵堂銀行) 西蒲原郡地蔵堂町 14.10. 6 500 425 (T.15. 1.24) 寺泊銀行と新立合併
長岡商業銀行 長岡市表町 T. 7. 2.26 1,200 825 S. 4. 4. 1 六十九銀行と合併
関原銀行 三島郡関原村 M.31. 9.27 100 100 6.12. 1 六十九銀行と合併
今井銀行 西蒲原郡吉田町 33. 2.24 500 125 7. 1.26 六十九銀行と合併
小出銀行 北魚沼郡小出町 16. 8.24 560 490 8.12. 9 六十九銀行と合併
(雷土銀行) 南魚沼郡東村 28. 1.25 150 131 (S. 3. 6. 1) 小出銀行と合併
十日町銀行 中魚沼郡十日町 33. 1.22 1,800 1,200 9. 4. 1 六十九銀行と合併
(水沢銀行) 中魚沼郡水沢村 14. 7.25 200 200 (S. 2. 4. 1) 十日町銀行と合併
神谷銀行 三島郡来迎寺村 T. 5.10.25 500 250 9. 4. 1 六十九銀行と合併
栃尾銀行 古志郡栃尾町 M.16. 5. 1 1,000 1,000 9.11. 1 六十九銀行と合併
長岡貯蓄銀行 長岡市坂ノ上町 T.10.11.10 1,000 250 18.12.31 長岡六十九銀行と合併
( 北越銀行『120年のあゆみ』から)
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<午後8時まで営業の「昼夜銀行」> 浅野昼夜銀行の沿革は、明治31年9月、神奈川県足柄下郡吉浜村に資本金10万円をもって設立された吉浜銀行に始まる。同行は、小田原支店と湯ヶ原出張所を有する地方小銀行として推移してきたが、大正2年3月、債券債務の一切と2店舗を駿河銀行に譲渡し、東京市京橋区に移転して日東銀行と改称のうえ再発足することとなった。 この間の事情は明らかでないが、同年5月には経営者が交替し第五銀行と改称し、6月から普通、貯蓄両業務兼営のもとに営業を開始した。 その後、同行の専務取締役橋本梅太郎は知己の浅野総一郎に経営援助を求め、4年4月浅野総一郎が役員に就任したが、翌5年4月に資本金100万円に増加する際に、浅野総一郎が経営の実験を握り、行名を日本昼夜銀行と改称、翌5月、浅野総一郎の女婿白石元治郎が頭取に就任、以後は浅野系銀行として経営されることになった。
 当時、浅野総一郎は別に貯蓄、普通両業務兼営の日本昼夜貯蓄銀行(明治16年神奈川に設立の相陽銀行が大正元年11月東京に移転し商号変更、大正2年白石元次郎が社長就任)を経営していたが、5年10月両行の普通、貯蓄両業務をそれぞれ相互に移譲し、日本昼夜銀行は行名が示す昼夜営業制(営業時間午前9時〜午後8時)の普通銀行として発足した。 この昼夜営業の構想は、米国フィラデルフィア市におけるハリマン夫人が創始した "Through Night's Bank" を範としたもので、前記の日本昼夜貯蓄銀行がまず採用し、普通銀行としては日本昼夜銀行が本邦最初の試みとして採用した。6年9月に資本金を500万円に増加、翌7年3月には浅野昼夜銀行と改称(同時に傍系の日本昼夜貯蓄銀行も浅野昼夜銀行と改称、大正11年8月安田貯蓄銀行に合併)し、 本店を京橋区尾張町から日本橋区通1丁目に移転、越えて9年1月には1,000万円に増資して浅野総一郎自ら頭取に就任した。 (『富士銀行百年史』から)
 その後経営不振に陥り、大正11年8月に安田善四郎が頭取になり、安田系の銀行として、行名を日本昼夜銀行と改め再出発した。大正15年12月に本店を京橋区西紺屋町(現数寄屋橋支店の所在地)に移した。
 安田系となった日本昼夜銀行の特色は、その名称が示すように夜間営業にあり、都市の中小商工業を主たる取引基盤に発展してきた。昭和17年6月に第三十六銀行と武陽銀行(昭和2年に東京府下の青梅、青梅商業、多摩農業、多摩、氷川、羽村、成木の7銀行が合同した銀行で、その後、東京殖産銀行、調布銀行、田無銀行等の東京府下の小銀行を買収した)の営業を譲り受けた。 こうして東京府下などに営業地盤を拡大し昭和18年3月末の預金は6億5,200万円に達した。これは同時点の安田銀行の預金34億1,000万円の2割に相当する。
 昭和17年12月28日、第一銀行と三井銀行、三菱銀行と第百銀行の合併が発表された。合併にあたっての声明書では、「従来の伝統に泥(なず)まず金融機関整備の国策に順応し普通銀行の使命を達成するため新発足」(第一、三井両行)および「金融の円滑なる運営に資するため、こゝに両行は合併し純然たる国家公共の機関として新たなる発足」(三菱、第百両行)と述べられている。
 当行でもこれら4行の動きに対応して、まず同系の日本昼夜銀行との合併を行うことにし、12月31日の重役会で決定した。合併は、当行が日本昼夜銀行を吸収合併する形式をとり、条件としては、当行が1,000万円増資(増資後資本金1億6,000万円)として日本貯蓄銀行の株主に1対1の割合で同額払込の当行株式を交付することとした。 また、日本昼夜銀行の店舗はそのまま当行が継承し、行員も原則として全員新規採用の形式で当行が引き継ぐこととした。 合併契約は18年1月14日調印され、同月30日開催の定時株主総会で合併ならびに資本増加を可決、当局の認可を得て、4月1日合併を実行した。
 日本昼夜銀行系営業店の夜間営業については、合併後暫定的に従来どおり継続されたが、その間存廃の検討が行われた。当行との合併前から同行内には夜間営業の存続について議論があった。 毎日、午前9時から午後8時まで営業するためには、2部交代制が必要であったが、戦時下、人手不足から2部制の維持が困難になったのである。しかし、18年2月の実態調査では、午後4時以降の取扱量はかんりあり、一挙に夜間営業を廃止することは顧客サービス上問題があった。 そこで、1部制の前提で6時まで営業する方針を立て、大蔵省の承認を得て、18年8月23日から変更した。しかし、その後、空襲に備えた灯火管制下で6時までの営業も困難になり、一方、顧客の夜間営業に対する需要も減少したので、同年12月1日から一般店なみの午後4時(18年1月から銀行の平日営業時限は午後4時)までに短縮した。 (『富士銀行百年史』から)
 東京都文京区千駄木にある、「みずほ銀行動坂支店」も以前は日本昼夜銀行の支店であった。昭和18年4月から安田銀行になり戦後の昭和21年3月から24年5月までは田中勝が支店長を務めた。
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<横浜正金銀行創立の事情> 横濱正金銀行の創業は明治13年(1880)2月28日のことであった。設立の当初は特別の条例によらず、アメリカの制度にならって公布されていた国立銀行条例(明治9年改正)に準拠し、資本金300万円をもって横浜に発足した(横濱正金銀行条例が発布されたのは明治20年7月)。
 当時の貿易は、輸出は生糸、茶、そして輸入は諸官庁のいわゆる「御用品」たる機械その他の設備品を主とし、合計わずか5,000〜6,000万円程度で、累年入超(明治1〜14年、第1次入超時代)であった。 取引は邦商と外国商館の間に銀貨で行われ、外国銀行の介在を待つもかなく、邦商の不便は少なくなかった。その上、銀紙の差価に悩まされたこれら邦商に対して正金による堅実な金融の途を開き、取引の円滑と貿易の増進を促すことが本行設立の目的であり、その名も「正金銀行」とした。
 その設立の背後には福沢諭吉と大隈重信卿の援助があった。また、当時の状況下では、政府の援助と監督なくしては到底経営し得るものではなかった。 まず、資本金の3分の1に当たる100万円は「御差加金」すなわち、政府出資を受け、監督のため管理官が任命された。さらに政府預金を資金として「御用外国荷為替」に対する融通を委託されるなど、輸出奨励・現貨吸収の線に沿って発足した。 (『横浜正金銀行全史』第1巻から)
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<十二銀行史> 當銀行の起源は、前身たる第百二十三國立銀行に初まるものにして、同行は明治九年八月発布の改正国立銀行條例に基き、同十二年二月資本金僅に八萬円を以て、當富山に於て設立さらる。 偶々金澤の第十二國立銀行と合同増資の議起り、同十七年一月合同成立して、名称は第十二國立銀行を存続し、本店を富山と致し支店を金澤に置くことゝなれり。 而して其営業満期即ち明治三十年に至り、営業満期國立銀行処分法により、株式会社十に銀行として之を継承し、同年十月其目的を以て設立さられたる株式会社北陸商業銀行を合併して、二百萬圓に増資し、爾来数次の増資により一千萬圓となりしが、 昭和二年七月は恰も第十二國立銀行創立満五十周年に相當し、其機會に於て更に資本金を倍額の二千萬圓に増資せり。
 次で昭和三年三月富山商業銀行を合併して、現在の資本金二千萬圓となり、同年八月には福井の第九十一銀行を合併して、同縣内に支店を増設し、進んで昭和十二年二月以降満四ヶ月間に、本縣に於ける滑川、井波、神澤、荻生、坂海、魚津、第四十七、水橋の八銀行を合併して、 業績は時勢の進展と共に長足の進歩をなし、営業地域は東京、大阪、北陸三縣及北海道に亘り、営業所実に九十六箇所、預金総額二億八千萬圓を算するの盛況を呈し、地方銀行の雄として、一途金融報國に精進するに至れり。 往時を回想し真に隔世の感なき能はず。
 今や皇國振古未曾有の國難に際會し、國家の要請に応へ、本縣下高岡、中越、富山の三銀行と共に、北陸銀行を新設して、渾然一体益々報國に邁進する気運に到達し、當行は昭和十八年七月三十日を以て、其使命を全ふし発展的解散をなすことゝなれり。
 抑も當行今日の隆昌を見るに至れるは、其間固より行路坦々たる能はず、財界の変遷に伴ひ、幾多の屈曲を凌ぎ、風雪に堪へ、凡ゆる経験を積み来たりし結果にして、履み来れる既往六十有七年の跡は、是れ皆先人努力の歴史なり。 (『十二銀行史』から)(T注 初代顧問には安田善次郎が就任している)
<十七銀行六十年史> 第十七國立銀行は、明治維新後廃藩置縣に際し、政府より舊藩士に交付された秩禄、金禄公債の保護管理のため、政府の慫慂に依り、舊藩主黒田家を中心とし、黒田一雄外十四名の発起に依り、當時藩士の受けた秩禄、金禄公債の大部分を資本化し、併せて地方商工業者の金融機関たる使命を達成すべく創立されたものである。 その當初の資本金は十一萬五千圓で、明治十年九月二十二日を以て開業免状を下附さられ、同年十一月十一日、福岡縣下第一第区一小区福岡橋口町八十六番地に於いて業務を開始した。 即ち國立銀行として九州に於いて第一番目、全国を通じて第十五番目の免許で、熊本第九國立銀行に先だつこと一ヶ月、東京第十五國立銀行に先だつぃこと五日である。 (『十七銀行六十年史』から)
<第八十五銀行史> 當行創立は、前編に記した通り明治新政府の諸政その緒についてばかりの時であり、國内にても西南戦争などのあったあとでもあった。従って経済界も全く揺籃期といふべき折柄であったが、着々内外の諸準備を整え、川越町百七十七番地に小さな営業所を作り明治十一年十二月十七日に開業の運びとなった。 何分第一期は開店匆々のことであり、期末まで僅か十数日に過ぎないので決算を省略して翌十二年に入ったが遂日業務は増加する一方三月には政府から國立銀行紙幣の下附があった。 この額は拾六萬圓で内訳壱圓券四萬八千圓五圓券拾壱萬弐千圓で三月十四日から一般民間に発行流通させ、四月七日迄には全部の発行を終わり期末迄一枚も引替交換を申出るものがなかった。
 而して開業以来六月三十日に至る営業日数は百六拾壱日であって、この間の入金総額は七十八萬六千二百余圓、出金額七十三萬六千余圓一日受払額は九千四百余圓に過ぎなかったが、 貸付金は二十五萬六千圓に達し内返金高十三萬千八百圓、差引十二萬四千余圓の期末残高があり、決算純益一萬三千三百六十六圓を計上約壱割弐分の初配當をすることが出来た。 (『第八十五銀行史』から)
<南都銀ができるまで> 昭和9年6月1日、奈良県下にあった六十八、吉野、八木、御所の4銀行が合併して南都銀行が設立された。 この4銀行のうち御所銀行以外の3行は、多くの銀行を合同しながら企業規模を拡大し、合併に参加した。
 六十八銀行は、奈良、高田、玉水、松田の各銀行を手中にした産業銀行(郡山銀行改称)をはじめ、丹波市、西和、四十三の各銀行を、吸収合併、営業権譲受、店舗買収など何らかの形で合同してきた。 吉野銀行も、大和(やまと=松山共立、松山銀行改称)、吉野材木、吉野小川、畝傍、榛原、山中、島本の7銀行を、その系譜に数えることができる。 八木銀行は、田原本、桜井、樫根、中和の4銀行を次々と買収してきた。
 このように、南都銀行が設立されるまでには23に及ぶ銀行の合同劇が繰返されてきたわけである。
 これらの南都銀行の前身銀行23行の中には、県外に本店を置く銀行や個人銀行もあった。玉水銀行、島本銀行は京都府の銀行であり、四十三銀行は和歌山市に本店があった。 初期の島本銀行や山中銀行、樫根銀行、松田銀行はいわゆる個人銀行で、中には合名会社や合資会社組織のところもあった。これらの前身のほとんどは、明治26年から33、4年にかけて設立されたが、ただ、六十八銀行と四十三銀行は、いずれも、明治11,2年に誕生した第六十八国立銀行、第四十三国立銀行を、それぞれの前身としている。 しかし、このうち四十三銀行は、昭和5年に6つの銀行に分割買収されたため、正統派の歴史をもつ前身銀行としては、六十八銀行が最も古いことになる。
 明治12年1月11日、大和郡山で第六十八国立銀行が開業した。南都銀行の前史は、まさにここから始まるわけである。昭和9年6月までの約半世紀の間に、前身銀行23銀行が、日本経済の流れの中で、浮き沈みしながら、徐々に減少し、最後まで残った4銀行が南都銀行1行となってしまった。 放漫経営により自ら窮地に陥った銀行、小資本のため資金需要の増加に追いつけず合併の道を選んだ銀行、金融恐慌の波をかぶって破綻した銀行。堅実経営を守って苦境を乗り切ってきた銀行など様々なドラマが展開された。 (『南都銀行小史』から)
<817行もあった銀行が、今では83行しかない> 一口に80年と言うが、悠久の歴史の中では一瞬の「時」にすぎないかも知れない。しかし、明治、大正、昭和、3代に亙るこの80年は我々にとっては永い大変な「時」の連続であった。
 日清、日露、第1次、第2次世界大戦と4つの大きな戦争を体験し、幾多の経済恐慌も起こった。
 本行が発足した明治28年には817行あった銀行も、今は83行しかない。しかも出発の時点に於いて国立銀行や財閥銀行であった現存の多くの銀行と違い、村民の飢餓と困窮を救うのが目的で出発した本行は、この変動の嵐の中を我々の先輩によって立派に切りぬけて引き継がれ、今日記念すべき80周年を迎えることができる。 (『駿河銀行80年史』から)
<日本最小の銀行誕生> 明治20年1月4日、満22歳の岡野喜太郎は、自身が責任者(取締)となり、静岡県駿東郡鷹根村青野(現沼津市青野)に、当初、組合員12名によって貯蓄組合「共同社」を設立した。(中略)
 共同社は組合員の努力によって満3年の積立期間を終え、据置き期間に入ったところ、順調な業績をみて参加希望者が増加した。そこで喜太郎は、発展的に共同社を解散し、明治24年2月12日、新に37人の参加による「資蓄会」(貯蓄会)を設立した。
 資蓄会の業績も順調で、翌25年3月に規約を作成した時点で会員は141人となり、明治28年を迎えたころには積立金総額が1万円ほどになった。そのころ当局から、資蓄会の営業行為が銀行類似事業であること、したがって組織を改め銀行に昇格すべきであること、したがって組織を改め銀行に昇格すべきである、との通告を受けた。 岡野喜太郎は会員総会を開き、新事業として銀行創設を説得決定し、さらに貯蓄専門の「根方貯蓄組合」の結成を決議した。
 喜太郎を中心とする銀行設立委員会では、銀行名を「根方銀行」とすること、資本金は1万円で総計400株の株式会社にすること、株主は資蓄会員に限ることなどを決定した。 こうして明治28年(1895)10月19日、創立総会が開かれて喜太郎が頭取に選ばれ、駿河銀行の前身・根方銀行が誕生した。
 事務所は岡野家の茶部屋を改造して使用し、事務員1人、喜太郎頭取自ら事務、雑用も兼ねた。当時日本で最小の銀行であった。
 ちなみに、このころ日本全国の銀行数は817行、払込資本金総額が5,216万円ぢ、1行の平均資本金は6万円弱であった。 (『するが90年の歩み』から)
風雪百年 スルガ銀行にとって1995年(平成7)10月19日は創立100年にあたる。母胎であった貯蓄組合「共同社」から数えると108年目である。
 1895年(明治28)、資本金1万円で出発した日本最小の銀行であった。同じ年に大阪で資本金100万円以上で発足した銀行がある。100年たった今日、その銀行の預金残高は発足当時の本行の資本金の倍数である100倍はない。 現在の本行の預金のせいぜい12倍ほどである。経済原論にいう「逓減の法則」が強く働いているのは面白い現象である。
 第2次大戦前、静岡県には約20行の銀行があった。殆どの府県では、戦時中の1県1行主義という強い官僚統制で1行に合併させられたが、静岡県だけは3行が残った。
 これは初代頭取岡野喜太郎が、1県1行では適正な競争が失われ利用者にとって不利益であるという確固たる信念を譲らなかったためである。 金融自由化の進展に伴い、相互銀行が普通銀行に転換した結果、1県複数行があたり前となったことを考えると、まことに今昔の感に堪えない。 本行経営の憲法である「行規」の第1頁、「経営方針」の「創業の精神」の中に、次のような一節がある。「営業資金は資本金および預金とし、非常やむを得ない時義を除き、原則として借入をしない」、借入金をもって経営してはならないという鉄則はここに明記されている。
 自分が苦心して集めた預金で営業するのが民間銀行の経営の鉄則である。常時、借入金で経営するようになると、行員も弛緩し、役員・支店長も易きに馴れ、経営に鋭さが失われる。さらに銀行経営の鉄則である流動性が阻害される。
 本行の歴代頭取は最高の流動性保持を経営の鉄則としている。悪性インフレ等で如何に経済界が動揺しても、この鉄則を保持してきた。独立自尊の経営であることを誇りとしている。
 後継者が心掛けねばならぬことは「温故知新」あるいは「初心忘るべからず」である。銀行の経営といっても別に難しい理論は必要ではない。要は「入るを計って出ずるを制す」ることである。それは平凡に徹することでもある。
 守成の秘訣は、時世の動向を知り、旧套(きゅうとう)を固守せず、衆智を集め衆和を計り、駘蕩(たいとう)たるを極致と考える。 (『百年航路』スルガ銀行創立100周年記念誌 から)
<野村證券の兄弟会社=大和銀行の設立> 大和銀行の前身である「大阪野村銀行」(昭和2年に「野村銀行」に改称)は、野村徳七(「野村證券」の創業者)によって大正7年5月15日に設立され、同年8月1日に商都大阪の一角で営業を開始した。
 当時、野村徳七は大阪で証券業(野村證券)を営んでいたが、多くの銀行が基幹産業中心の貸出しを行っているのを見て、「手が届いていない中小の事業経営者に産業資金を提供する銀行が必要である」と考え、銀行の設立を決意した。
 しかし、全国には2,000以上の銀行が乱立し、大阪に本店のある銀行だけでも当時11行を数え、設立認可申請に対して大蔵省は強い難色を示したが、野村徳七の熱意と粘りで開業に至った。
 銀行設立当初は、商号を「株式会社野村銀行」とする意向であったが、たまたま青森県下に「合資会社野村銀行」というのがあったため、大蔵省の認可が得られず、やむなく「大阪」の2字を冠することにした。 その後、青森県の野村銀行が「合資会社立五一銀行」と改称することになり、当行(大阪野村銀行)は昭和2年1月から「野村銀行」に改称した。
 創業時の経営方針として、中小工業者への資金供給と証券業務の推進に力を注いだ。証券部門は順調に拡大したが、他業兼営の問題などから大正15年に証券部門を分離し、独立の会社(現在の野村證券株式会社)とした。 (『大和銀行80年史』から)
<山形県酒田市の米商会所> 明治19年に創立の酒田米商会所は、不振を続けていたが、25年に取引所法案が国会に上程されると、同法の公布に備えて会所を酒田町秋田町40番地に新築した。 翌26年3月、同法が公布され、10月に施行と同時に株式会社酒田米穀取引所として発足した。資本金4万円、理事長は加藤景重、理事は地主政次、成沢高景、岡田宣寿の3人、監事は細井旧服、大淵吉政の2人で、仲買人は鐙谷惣太郎、荒木彦助、阿部久作ら13人であった。 役員は米商会所と同じく旧藩の士族であり、職員も旧藩士の子弟を多く採用した。
 新取引法によって、受け渡し物件の保管倉庫が設置できるようになったので、酒田に隣接して舟運の便利な鵜渡川原村山居に、倉庫7棟を新設し、11月から倉庫業を始めた。 これが山居倉庫の起こりであり、酒井家が当初から宿願であった産米の改良と、農村の振興をはかることが目的であった。山居倉庫も米券を発行し、新井田、山居の両倉庫の米券は、受け渡しにも同格で通用した。
 27年には鶴岡町室町の倉庫を購入し、鶴岡支店としたが、翌年、鶴岡米穀取引所の発足にともない、同倉庫を鶴岡側に譲渡した。ところが同じ27年の大地震で、新井田倉庫も焼け落ちたので、米券発行は山居倉庫だけとなった。
 山居倉庫はその後増築して15棟になり、20万俵の収容力を持つに至った。そして米の品質を維持するための保管技術の改善にたいへんな努力を重ね、倉温、湿度の調節のために、職人は昼夜の別なく働いたといわれる。 このような苦労が実って、山居米の名声は高まり、やがて東京・深川や大阪・堂島にまで知られるようになった。 (荘内銀行『創業百年史』から)
(T注) 荘内銀行『創業百年史』には、鶴岡にも明治28年12月に米穀取引所ができたこと、この2か所の米穀取引所の他にも、山形米穀生糸取引所、米沢蚕糸絹織物米穀取引所、酒田三品取引所、山形二品取引所が開設されたことが書かれている。 『○○銀行○○年史』は地元産業の歴史を知る上で貴重な資料なので、地方産業史に興味を持つ人にはお勧めの資料です。
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<創業時の郵便貯金> 国立銀行の創設と並行して政府は、自らの手で資金の集中・供給を図ろうとする制度の研究を行なっていた。郵便貯金制度がこれである。 この制度は、一般国民に貯蓄思想を普及し、貯蓄を実行することで生活の安定をはからしめようとする社会政策的意義を第一義としつつも、同時に小資金を集めて産業資金化しようとするもので、いわば一石二鳥を狙う趣旨から始められたのであった。
 明治6年から政府は、イギリスを参考に郵便貯金制度の研究を行なってきたが、明治7年3月、「貯金預リ規則」について意見の一致をみたので実施に踏み切ることにし、諸般の準備をすすめた上明治8年4月、内務省通達をもって「貯金預リ規則」を公布し、同年5月2日、東京府下の郵便局において郵便貯金の取扱を開始した。
 当時、貯蓄に対する国民一般の考え方は、全然なかったに等しいのみか、貯蓄することを恥とさえするような風潮もあったので、開業早々の政府の苦労は、並大抵のものではなかった。 そこで政府は、地域社会の指導的存在であった僧侶や神社の応援を求め貯金の預入を呼びかけたが、余り効果が上がらず、当初は預かり金皆無という状態であった。
 しかし其の衝にあたる政府職員は、各自自発的に幾ばくかの資金をだしあい10銭乃至30銭を一般庶民1千名に与え、これを発端金として直ちに預入させるという苦肉の策を講じてみたり、一方庶民のなかで貯金の預入を勧誘したものには発端金として金を与えるなど、文字どおり開拓者精神を発揮した。
 この必死の努力が実を結び、明治8年末取扱局22局で預入人員1千8百人余り、預入残金1万5千円、1人平均8円あまりという成果を上げた。 (『本邦貯蓄銀行史』から)
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<原六郎と東京貯蔵銀行の設立> 東京貯蓄銀行創設の中心人物であった原六郎は、若くして倒幕運動に従事し、その後明治4年から10年にかけてアメリカおよびイギリスに留学して経済学や銀行経営論について研究した。 帰国後は、第百国立銀行(明治11年開業)の創立に参加し、明治13年当時同行頭取であった。そして、彼の銀行営々者としての手腕・能力は高く評価されていた。 それ故新しい分野である専業貯蓄銀行を創設するには、当時最もふさわしい人物であったと考えられる。しかし原は、東京貯蓄銀行を設立するに際して専業貯蓄銀行というものが未だかつてわが国に試みられなかった事業であるだけに、果たして再三がとれるものであるか否か、非常に危惧し再三ためらった。 しかし彼は、当時のわが経済社会の実情は一刻の躊躇も許さないとして、断固貯蓄銀行を設立すべく決意したのであった。
 政府は、貯蓄銀行条例制定前にはその設立申請に対して「人民相対ノ営業ニ任セ……」る、との方針をとっていたので、原らの出願を認可した。このような経過をたどって設立された銀行が東京貯蔵銀行であり、わが国における最初の専業貯蓄銀行であった。 同行は設立認可されて2カ月後、明治13年6月東京市日本橋区万町1番地第百国立銀行本店の一部を借り受け営業を開始した(後本店移転)。
 かくて、わが国の専業貯蔵銀行はここにその歴史の第1頁を開くことになったのである。
 同行の経営方針は「預り金規則」に明瞭に述べられている。すなわち、@通常の銀行と異なり、零細の貯蓄預金業務を専業とする。 A営業は、株主が自己の利益を追求することは第2義とし多数の人々の便利をはかることを第1義とする非営利精神で行うものとする。B預金支払い保証担保のため公債を供託する。 C貯蓄預金の取扱細目は、預金限度5銭以上、複利、利息計算方法は半月計算とする、などと規定しており、のちの専業貯蓄銀行の原型を示すものであった。 (『本邦貯蓄銀行史』から)
東京貯蔵銀行の内容
貯蓄銀行の内容はどのようなものであったのか、『本邦貯蓄銀行史』から主要な項目を抜き出してみよう。これは明治16年6月30日現在のもの。
資本金2万円 預金利率7分2厘 貸出金利9分〜1割5分 支払準備預金の3割  預金高15万8,300円 支払準備の形態金禄公債 26,500円 
 支払準備に関しては、各銀行まちまち。預金の10分の1から4分の1程度。預金利率1割の貸出金利1割2分〜1割8分が平均といったところか。
<欧州中央銀行法による最低準備制度> 欧州中央銀行法(押収中央銀行制度定款)第19条によると、ECBはユーロ圏の金融機関に対して、参加国中央銀行への最低準備の積み立てを求める権利を有している。 なお、最低準備規制の期間と条件は、ユーロ圏内では一律である。
 個別の金融機関の最低準備額は、バランスシートの債務ポジション項目によって決定されている。その際、ECBは、準備ベース全体に対して統一的準備率を適用するか、もしくは適格資産のカテゴリーや満期に応じて異なった準備率を適用する。 準備率は短期市場金利の安定化を実現するために、1ヶ月間の平均で保有される。 (羽森直子『欧州中央銀行の金融政策』から)
<最低準備預金> 欧州中央銀行は銀行に対して各国中央銀行の口座に強制預金を置くことを要求している。この預金が「最低」ないし「所要」準備と呼ばれるものである。 各機関が保有すべき所要準備の額は、準備ベース(準備対象債務)によって決まる。各金融機関の準備ベースは、バランスシート項目と関連づけて定義されている。 ここに準備ベースに含まれる主な負債項目を示しておく。
準備ベースに含まれる銀行債務 (A)プラスの準備率が適用される負債 (2000年12月末残高:10億ユーロ)
 預金(オーバーナイト預金、満期2年以内の預金、通知期間3ヶ月以内の通知預金を含む)==5.711
 満期2年以内の債券==137
 マネーマーケット・ペーパー==187
 合計(A)==6,035
(B)準備率ゼロの負債
 預金(満期2年超および通知期間3ヶ月超の通知預金)==1,274
 満期2年超の債券==2,234
 リバーチェス・アグリーメント==528
 合計(B)==4,036
 総準備ベース=(A)+(B)==10,071
 ここで強調しておくべきことは、ユーロシステムの最低準備預金制度下にある金融機関リストに含まれる他の銀行に対する債務と欧州中央銀行および各国中央銀行に対する債務は準備ベースに含まれない点である。
 所要準備は準備ベースに準備率を乗じて求められる。欧州中央銀行は、準備ベースに含まれる大部分の項目にプラスの同一準備率を適用している。 経済通貨統合の第3段階開始時点では準備率は2%に設定された。銀行のバランスシートの短期債務の大部分はプラスの準備率の対象である。 上の例からわかるように、長期債務とリバーチェス・アグリーメントはプラスの準備率の対象外である。 (欧州中央銀行著『欧州中央銀行の金融政策』から)
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<営業無尽の発展> 明治時代に入ると、欧米から新しい金融制度が導入された結果、各地に新しい形態を持つ金融機関が設立された。 しかし、一般庶民には馴染みにくい面もあり、庶民の間では依然として質屋、無尽、頼母子講など在来の金融機関が強く支持されていた。 これらの金融機関は、わが国が近代国家へと急速な脱皮を図るなか、消滅するどころか、ますます発展を遂げたのである。
 政府は殖産興業を進め、企業を起こすことを奨励したため、官営、民間を問わず企業の資本投資が盛んになり、金融界も大きな影響を受けた。 こうしたなかで、無尽も在来の組合的なものから、これを世話し管理する者が現れるようになり、やがてそれを専業とする者が登場することになった。 無尽、頼母子講は永続的、営利的なものへと脱皮し、新しい金融機関として会社組織の貯金会社、信託会社などに発展したのである。 そして、このように無尽、頼母子講を営業的に行うものを営業無尽と言うようになった。
 営業無尽発生の時期については様々な説があるが、江戸時代には津山藩主が始めた津山無尽が登場しており、藩営無尽を商業資本化したものの典型として注目される。 しかし、当時はまだ無尽、頼母子講が地縁・血縁関係者で組織されることが多く、相互扶助的な性格が強かったため、営利追求の企業として成立するのは難しかったと思われる。
 明治期に入ると、山口県に「頼若会社」と称するものが設立されたり、西南戦役後に横行したいわゆる「4人講式」が登場するなど、営業無尽の原型とみられるものが形成されるようになった。 その後、営業化は徐々に進み、明治12年には岡山の恵忠金融通講が開設されたほか、20年には東京の中山道遠が無尽の管理業を開設した。 営業無尽の始まりと言われているのは、34年3月に東京で小林寅吉が「大和界」の名称で開始した組織である。この大和会は39年に大和合資会社となり、無尽業法の免許を得て本格的な営業を開始したが、それが東京式無尽の始まりとされている。 なお、大和合資会社は後に解散している。
 一方、大阪では明治34年7月に山口伸蔵らが「共栄合資会社」を設立し、大阪式無尽が誕生した。この共栄合資会社は、39年に「共栄貯金株式会社」となり、大正3年には貯蓄銀行の免許を受けて無尽会社でなくなっている。 (『第三銀行80年史』から)
<東京式無尽、大阪式無尽、折衷式無尽> 無尽掛金表(無尽予定収支計算表)は大別して東京式、大阪式、折衷式の3種類に分類される。 これは最終回に給付を受ける口の掛込金額を基準とした分類であり、次のような内容になっていた。
●東京式 掛込金額が最終回に給付を受ける給付金額を超過するものを言う。 契約者は早く給付を受けて利用する方が掛込金額と給付金額との関係から有利で、やや射倖的要素を持つ。会社側は主として一定割合の手数料的な利益を得、管理無尽的色彩が濃い方式である。
●大阪式 掛込金額が最終回に給付を受ける給付金額に満たないものを言う。契約者は貯蓄目的の方に妙味があり、金利の観念を貸付、預金の両面に取り入れている。 会社側は給付資金の余剰金を貸付金として運用するなど、より近代的な金融方式となっている。
●折衷式 掛込金額と最終回に給付を受ける給付金額が同一のものを言う。東京式および大阪式のそれぞれの特色をとって、当時の経済事情、または会社自体の収益に応じて採用されるようになったものである。 (『第三銀行80年史』から)
<愛媛無尽の創立> わが国古来の庶民金融として親しまれてきた無尽という文字の古文書によるルーツは、建長7年(1255)の御教書である。
 無尽は仏教を背景とし、インドから中国、朝鮮を経てわが国に渡来したもので、世間で言う頼母子講とは源流が異なる。 しかし後に頼母子と混同され、同一のものと解釈されるようになった。また鎌倉時代の土倉と称した質屋の出現にも関連して用いられた。
 土倉は営業者が質物を火災などの災害から守るため、土の塗り込めの倉庫を設けたことが名の由来ろされている。土倉の典物を受けて貸与する利息つき金銭が無尽蔵と言われ、こうした担保つき、利息つき金銭の融通を無尽と言い、また質屋営業を無尽銭土倉と言った。
 いずれにせよ無尽、頼母子はわが国独特のもので、庶民金融制度として自然発生的に定着したものと思われる。
 愛媛県の場合、その草創期は文政13年(1803)の頃、宇和島藩で財政逼迫により財政立て直しに禄高の減俸が行われた際に、下級武士は生活苦から逃れる手段として農民に頼母子講を依頼して糊口をしのいだと、伊達家文書に記録されている。
 さて営業無尽の草分けは、明治34年に東京に設立された共栄合資会社と言われる。その後、同趣旨の会社が続出したが、会社の基礎が不確実なものや放漫経営業者もかなり多く、無尽業法が大正4年11月1日に施行された後の翌5年12月には、営業免許申請をしたものは200余りで、このうち営業免許を受けたものはわずか136業者であった。 (株式会社86、株式合資会社1、合資会社23、合名会社5、個人営業21)
 愛媛県の無尽業法施行当時の無尽業者数は16で、6年5月15日発行の大蔵省銀行局編「庶民銀行概観」によると、営業免許申請数8、このうち既設免許3、新設1、不備調査中1、不免許および取り下げ3となっている。 (『ふるさととともに』愛媛銀行の50年 から)
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<資本金10万円でスタート==高知無尽の設立> 高知無尽株式会社の設立総会は、昭和5年1月20日、高知市種崎町14番地の2の本社において開催され、資本金10万円で誕生しました。 本社の位置は、はりまや橋のたもとから高知駅寄りに約40メートルの西側(名産センターの付近と推定される)で、「やぶ(藪)」というそば屋の南隣に位置し、間口はわずか3間半(6.36メートル)、奥行き6間(10.9メートル)ばかりの借家でした。
 昭和5年3月25日には、大蔵大臣井上準之助より3月19日付の無尽営業の免許書を受け、翌26日には高知区裁判所に会社設立の登記を完了。 そして営業開始の届け出を行ったのは昭和5年3月27日。
 役員のうち、常勤役員は大石社長と下村専務の2人で、従業員は内勤者3人、外勤者7人という、まことにささやかな出発でした。 (『高知銀行60年の歩み』から)
<豊国(とよのくに)==当行発祥の地> 豊和銀行。当行は平成元年(1989)2月1日、普通銀行としてスタートした。大分市王子中町4番10号に本店がある。 さかのぼること、ここに至るまでに昭和28年(1953)1月以来の相互銀行としての道がある。さらに前身会社の大豊殖産無尽株式会社が設立されたのは「戦後」間もなくの昭和24年であった。 (『豊和銀行史』から)(T注) 豊和銀行は2006年3月期決算において自己資本比率が健全行の基準である4%を下回る見通しとなり、金融庁から早期是正措置命令を受けた。 このため、福岡県に本店のある西日本シティ銀行へ増資を要請したほか、公的資金の導入も検討している。
<豊岡無尽合資会社誕生⇒徳島無尽株式会社⇒徳島相互銀行⇒徳島銀行> 徳島銀行80年の長い歴史は幾多の変遷を経て今日に至っている。呼称も業容も変わってきた。それをたどると、徳島銀行の前身は徳島相互銀行であり、さらに昭和26年6月の相互銀行法によって徳島相互銀行が誕生するまでは、徳島無尽株式会社であった。 なおも遡ると徳島銀行のルーツである大正7年3月3日、発起人13人によって設立された豊岡無尽合資会社に行き着く。
 合資会社はさらに源流へ向かうと、小さな力を出し合い、庶民が助け合ってきた「無尽」や「頼母子」を起源とすることになる。全国的にも多くの相互銀行がそのルーツを無尽とするように、当行もまたその起源を無尽とするものである。
 庶民の相互扶助的な仕組みである無尽や頼母子は、元来それぞれが別の意味を持つものであったが、目的、方法が同じであることから後世「頼母子講」と呼ばれて同一の意味に使われるようになったといわれる。
 江戸時代に入って貨幣経済の発達とともに頼母子講はますます大衆化し全盛時代に入っていった。この時代の金融の主な担い手は一般に江戸の札差と呼ばれるものや、堺の豪商たちであったが、それらは上流武士階層や問屋、商人などを対象とするこので、下級武士や農民、職人などいわゆる庶民はこれらの対象とはならなかった。 従って庶民にとって頼母子講は、質屋とともに当時の重要な金融の機能を果たしたのである。
 一方、こうした純粋な意味の相互扶助の頼母子講のほかに射倖的なものが現れ、幕府から禁令が出されたこともあった。江戸末期には、はっきりと金融の目的にも利用されるようになり講元(請の世話人)に対する謝礼の手数料も徴せられるようになった。 この講元が後に職業化することとなり「営業無尽」の発生をみることになった。
 明治時代になって、政府は強力に産業振興政策を推進したが、このころも庶民金融は依然、頼母子講が中心になっていた。しかし従来の個人的講元から次第に総合的、企業的な形式を持つ講元が多くなってきた。 そして会社組織による営業無尽へと発展していったのである。 (『徳島銀行80年史』から)
<呉無尽株式会社⇒せとうち銀行> 当行は、昭和16年(1941)11月11日、呉無尽株式会社と呉洋無尽株式会社の両社がそれぞれ解散し、新に呉無尽株式会社を設立し、この日を創立とした。
 広島県下の無尽会社6社の中で、広島、芸備、双益、山陽の4者は、昭和16年4月22日解散合併して、広島無尽株式会社(現広島総合銀行)を設立、第1次の企業合同をなした。
 この合同に参加しなかった呉市内の2社は、それぞれ経営内容もすぐれ、ともに県下最高の年8%の株主配当を続けてきた。 呉洋、呉無尽両社に対する合併勧告は、大蔵省の指導の下、とくに広島県知事からの合併促進の強い要請によるものであった。
 その主旨は、合同による企業内容の充実と、国策遂行のための貯蓄増強、国債消化にあわせて、庶民金融の円滑化をはかることが目的であった。
 地方銀行における「1県1行という理想的形態」に近づくための整理合同と同じように、無尽会社も時代の流れに沿って合同がすすめられた。 (『「せとぎん」創立五十周年記念特集号』から)
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<山梨県内銀行設立状況一覧> 山梨中央銀行『創業百年史』に「県内銀行設立状況一覧表」があり、「銀行名・設立年月日・開業年月日・本店所在地・資本金・頭取または社長名・最終年月日・事由・備考」が記載された表がある。 その内の「銀行名・設立年月日・開業年月日」だけを抜き出してみた。銀行名設立年月日/開業年月日
第十国立M7.5.9/M10.4.15 富士M11.6.21/M13.5.5  甲府M9.9.20/M15.5.21 巨摩M15.4.18/M16.7.1 M24.6.12/M24.10.11 新田株式会社M24.4.13/M25.1.11 富河M25.10.24/M25.11.15 万沢M26.2.14/M26.4.10 山梨貯金M26.5.23/M26.6.1  (個人)若尾M26.5.16/M26.6.1 饒益M14.3.29/M26.6.26 (個人)富士井M26.6.―/M26.7.1 (個人)秋山M26.―.―/M26.11.1 甲斐株式成業会社M13.10.27/M26.11.― 株式補融会社M12.4.21/M26.12.18 漸進M14.10.15/M26.12.19 興商M11.11.11/M26.12.― 釜右株式会社M13.11.11/M26.12.―  積隆株式会社M16.3.7/M26.12.― 株式成業会社M13.10.19/M26.―.― 明見M15.1.11/M26.―.― 真栄M15.2.22/M26.―.― 積宝M15.2.28/M26.―.―  南部M16.1.25/M26.―.― 豊融M16.3.16/M26.―.― (名)堀内M17.5.16/M26.―.― 諏訪M21.5.3/M26.―.― 吉田M23.1.31/M26.―.―  納税合資会社M15.12.9/M27.1.1. 盛産合資会社M11.10.23/M27.1.10 甲合資会社M26.12.15/M27.1.31 上野納税合資会社M21.2.― (個人)菅原M27.1.―  有信貯金M28.6.10/M28.7.17 (個人)大森M28.12.― (個人)緑M29.7.― 小淵M29.9.3/M29.10.1 鳳嶺M30.6.30/M30.8.1  市川貯金M30.6.30/M30.8.16 韮崎貯金M30.7.20M30.8.23 韮崎M30.9.14/M30.11.4 熱見M30.12.14/M31.1.29 七里M30.12.16/M31.2.15  興商合資会社M30.9.―/M31.2.― 岩間M31.1.26/M31.3.5 山梨農工M31.2.18/M31.4.15 桂株式会社M31.4.―/M31.4.23 藤井M31.6.23/M31.7.25  上野貯金M31.6.7/M31.8.1 甲府商業M31.6.6./M31.9.4   (個人)松浦M31.8.31/M31.10.1  (個人)中丸M31.11.15/M31.12.― (個人)網野M31.12.―/M32.1.2 (個人)若松M32.1.21./M32.2.1. (個人)雨宮M32.1.4./M32.2.20 (個人)石丸M32.1.21/M32.―.―  (個人)野中M32.5.3/M32.6.1 (名)小宮山M32.8.3/M32.10.20 奥野田M32.10.11/M32.―.― 笹尾M32.10.19/M32.11.12 鏡中条M32.2.16/M33.1.―  冨士井貯金M32.11.15/M33.1.2 (個人)志村M32.12.―/M33.1.2 農蚕M32.12.1/M33.1.― 石和成業合資会社M32.12.28/M33.2.11 (個人)大柏M33.3.―/M33.4.8  谷村商業M32.7.15/M33.5.22 石和M33.6.6/M33.6.15 山梨M33.5.15/M33.6.22 興産貯蓄M33.7.19/M33.8.6 辺見M33.7.30/M33.―.―  M33.9.19/M33.10.4 切石M33.3.27/M34.1.5 十日市M34.1.9/M34.―.― 甲陽M34.2.23/M34.3.16 上野原M34.3.8/M34.―.―  (個人)伊藤M34.4.―/M34.―.― 矢崎M39.2.25/M39.9.21 富士勧業T7.12.4/T7.12.― 山梨田中T9.10.5/T9.11.5 峡西T9.11.14/T10.1.25  山梨貯蓄T10.11.26/T11.1.4 富士勧業S2.11.21/S2.11.26 甲州S6.11.17/S6.11.17 山梨殖産S11.6.10/S11.7.1 山梨中央S16.11.15/S16.12.1  (山梨中央銀行『創業百年史』から)
<静岡県内設立の銀行および銀行類似会社> 『静岡銀行史』に「静岡県内設立の銀行および銀行類似会社一覧表」があり、「銀行名・設立場所・設立年月・消滅年月・備考」が記載された表がある。 その内の「銀行名・設立年月」だけを抜き出してみた。
 ★印は静岡銀行の前身の銀行および銀行類似会社
 東部:神奈川県境から富士川まで
 中部:富士川から榛原郡まで
 西部:盤田・周智・小笠郡および掛川市以西から愛知県境まで
静岡県中部
 商法会所M2.1 荀美館M3.3 常平倉M2.8 ★交融社M14頃 ★豊融社M14頃 ★盟生社M14頃 ★静波銀行M15.3 ★細江銀行M15.9 ★野崎銀行M15.7 ★大富永盛社M26.2 ★金谷共栄社M26.6 協同一銭社M26.6 豊田資産(株)M27.12 ★住吉魚塩社M17.7 ★静岡第三十五銀行M10.12  静岡資産貸付会社M21.12 川尻会社M21.4 ★西駿委託(株)M21.12 牧之原(資)M32.10 細江物産会社M27.5 ★静岡貯蓄銀行M25.11 焼津商業業銀行M27.12 清水商業銀行M31.3 ★江尻倉庫銀行M30.5 安達(資)M32.9 ★西駿委託銀行M33.7 ★神谷城共盛社M26.2 萩間銀行M25.4  牧之原銀行M24.7 ★片岡銀行M27.6 上泉銀行M30.2 木栄銀行M26.5 安達銀行M42.1 ★偕栄M22.4 ★東遠銀行M17.12 ★駿府銀行MT不詳 ★益津銀行M16.12 焼津銀行M15.9 小川実業銀行M30.7 江尻貯蓄銀行M32.9 島田貯蓄銀行M31.6 ★長田貯蓄銀行M31.10 静岡農工銀行M30.11  ★勝間田銀行M24.1 ★遠陽銀行M28.7 静岡実業銀行M28.12 ★金谷銀行M21.5 ★金谷共栄銀行M27.7 ★金谷商業銀行M33.5 豊田銀行M28.1 ★興津銀行T4.11 ★共盛銀行M18.10 ★旭会社T5.1 ★近藤銀行T3.5 駿南銀行M33.8 ★静岡商業銀行M33.1 壬辰銀行M25.10 富士川銀行M26.12  由比銀行M28.12 蒲原銀行M30.7 庚子銀行M33.3 岩淵銀行M33.5 江尻銀行T10.9 岡部銀行M33.12 ★高松商業銀行M32.12 静岡共済銀行T5.3 志太銀行T11.6 藤枝銀行M14.4 地頭方銀行M27.6 伊久美銀行M20.1 ★長田銀行T11.6 ★静岡商工銀行T5.6 焼津水産銀行T9.7  稲瀬銀行28.9 ★阿倍銀行M29.6 ★大富銀行M26.12 ★金谷商栄銀行T14.9 ★相良銀行M15.3 ★坂部銀行M26.11 ★住吉銀行M29.6 ★五和銀行M32.8 清水銀行(1)M14.11 榛原商業銀行M35.7 丸十銀行T3.11 青島実業銀行M30.7 六合銀行M27.12 高洲銀行M32.9 ★島田銀行M19.2  ★西駿銀行M42.1 ★静岡銀行(1)M16.8 ★三十五銀行M30.7 ★静岡銀行(2)S10.10 ★島田銀行(2)S9.2 ★静岡三十五銀行S12.3 ★榛原銀行S7.1 ★静岡貯蓄銀行(2)T10.12 駿州銀行(2)S3.7 ★静岡銀行(3)S18.3 
静岡県東部
 商社会所M2.1 岳東軒M明治初期 ★融通会社M6.9 開産社M7.9 ★韮山生産会社M6.7 ★大場治水社M6.9 ★福寿会社M11.9 ★沼津第五十四国立銀行M11.9 宇佐美殖産会社M7.9 江間殖産会社M7.9 大仁殖産会社M7.9 大見殖産会社M7.9 古奈殖産会社M7.9 大庭大成社M7.9  鷹根殖産会社M7.9 ★三島銀行M15.4 西豆銀行M16.12 共同社M20.1 ★通信社M13.4 桂谷貯蓄会社M10.11 資畜会M23.3 根方銀行M28.10 ★産業(株)M27.3 ★整品会社M11.3 ★富士精業会社M22.10 ★積栄社(2)M32.10 東浦銀行M21.4 永昌会社M18.8 ★原町銀行M28.6  駿東実業銀行M29.12 駿東貯蓄銀行M32.3 開成銀行M21.6 片浜銀行M30.3 ★三島商業銀行M33.2 岳南銀行M34.3 ★東駿銀行M45.4 ★産業銀行M32.7 ★熱海銀行M33.5 ★稲生沢銀行M34.3 伊東町銀行T6.7 芹沢銀行T元10 ★精業銀行M33.9 ★御厨銀行M16.9 ★駿豆銀行M33.7  永続会社M17.12 ★松崎銀行M26.12 ★神山銀行M34.1 ★大宮銀行M16.3 富士銀行T7.10 ★駿豆肥料(株)銀行部M28.6 永昌銀行M36.4 ★吉原銀行M16.4 成大銀行T9.7 加島銀行M33.11 興業銀行M14.8 永続銀行T5.7 御殿場銀行M32.7 ★下田銀行M21.4 ★沼津銀行M24.3  ★伊豆相互貯蓄銀行T11.4 ★伊豆銀行M14.1 駿河貯蓄銀行T元.9 ★伊豆貯蓄銀行S16.7 駿河銀行M45.7(現在の駿河銀行)
静岡県西部
 浜松掘留会社M3.3 ★見付第百二十四国立銀行M11.10 ★龍西社M15.12 ★西遠商会M13.9 山名銀行M15.12 犬居銀行M16.12 ★涓海社M15.12 ★浜松第二十八国立銀行M10.10 向笠銀行M15.5 荷質会社M12.9 ★資産金貸附所M6.11  ★遠江保全社M14.3 山梨銀行M15.5 ★確明社M15.9 会信社M14.11 ★拡産会社M14.11 ★積栄会社M17.5 ★共栄社M16.3 積志社M22.9 ★曳馬(資)M26.6 ★鎌田積隆社M15.2 ★池田銀行M15.9 ★二俣第百三十八国立銀行M12.2 ★笠井銀行(1)M14.2  ★掛塚銀行M14.9 ★和田銀行M27.9 ★隆栄会社M11.1 ★川井銀行M26.7 南山銀行M23.7 西渡(資)M30.6 積立(資)M26.11 ★井通銀行M16.1 平田貯蓄銀行M32.1 小松学栄社M36.12 中村貯蓄銀行M32.1 ★ ★永世社M16.1 ★二六(資)M33.5 堀之内貯蓄銀行M30.8 ★遠江貯蓄銀行M22.5 中村銀行M22.5 中村産業銀行M36.12 浜松信用銀行M30.1 椎谷銀行M36.9 城東銀行M27.6 比木銀行M31.11 笠井商業銀行M33.10  西方銀行M34.2 会信貯蓄銀行M33.11 二俣貯蓄銀行M31.2 西郷信用銀行M34.3 横須賀銀行M15.9 大地銀行M32.4 ★浜松銀行(1)M16.6 ★積富(株)M33.9 ★天竜(株)M33.12 堀之内銀行M23.2 ★仁王辻銀行M26.5 ★盤田銀行(1)M35.7  小笠銀行M17.7 ★土盛銀行M17.7 ★中野町銀行M17.8 ★中遠銀行(1)M25.7 ★倉松銀行M32.6 ★芳川銀行M28.7 小島銀行M15.7 ★西遠銀行(1)M18.2 ★資産銀行M26.2 ★盤田貯蓄銀行M32.2 ★中泉貯蓄銀行M30.5  ★百三十八銀行M31.1 ★明光銀行M33.4 ★天竜川銀行M33.4 浜松委託(株)銀行部M32.5 ★西川銀行M32.3 ★下平山銀行M33.7 ★福田貯蓄銀行 中遠殖産銀行T9.3 ★曳馬銀行M28.10 ★笠井銀行(2)M34.11  浜松商業銀行T11.4 ★盤田銀行(2)T10.7 ★永世銀行M37.2 ★福田銀行M14.6 ★気賀銀行M26.10 駿遠銀行T12.6 ★金指銀行M15.2 ★遠江銀行M38.10 ★積栄銀行M15.2 ★山梨実業銀行M31.6  ★南遠銀行M33.1 ★遠州金融(株)T15.3 ★鎌田積隆銀行M28.12 遠江合同貯蓄銀行T10.12 ★龍禅寺銀行M27.9 ★教育社M23.4 川野銀行M23.11 日坂銀行M31.3 岡崎銀行M16.3 ★大阪銀行M23.2  ★加茂銀行M24.10 ★千浜銀行M26.2 ★西大淵銀行M26.3 ★協育銀行S2.10 積志銀行M28.6 ★白須賀銀行T元10 ★市野銀行M20.8 ★浜名銀行M29.11 ★朝日銀行M32.9 ★新津銀行M33.3  ★中遠銀行(2)T10.9 南山信用銀行M23.12 ★遠江共同銀行M33.4 ★熊村銀行M30.6 ★二六信用銀行M38.3 鎮玉銀行M31.2 ★浜浦銀行M44.4 ★山之内銀行M26.4 ★阿多古銀行M18.9 ★土方銀行M26.4  ★上内田銀行M33.8 伊平銀行M28.3 ★気多銀行M33.7 ★中泉銀行M13.10 ★袋井銀行M14.7 ★森町銀行M15.12 ★飯田銀行M17.6 宮口銀行M15.4 佐東銀行M25.11 ★中瀬銀行M34.2 良純社M34.2 掛川商業銀行M30.9  会信銀行M26.12 中泉金融(株)S7.1 ★掛川銀行M13.9 城下銀行M16.3 池新田銀行M24.3 ★協和銀行S3.7 ★横山銀行M15.3 ★二俣銀行T10.10 ★内田銀行M32.6 ★北遠銀行T11.8 ★天宮銀行M30.4 ★遠州銀行M30.8  ★浜松銀行(2)T8.12 都田銀行M31.2 ★浜松貯蓄銀行M30.3 ★浦川銀行M27.4  (『静岡銀行史』から)
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<貴金属貨幣制度・金本位制度・管理通貨制度> 幕末から明治時代、現代へと金融制度を見ていくとき、貨幣制度が変わったことに注意しなければならない。江戸時代は貴金属貨幣制度。金・銀に銭を加えての三貨制度。 もっと詳しく見れば「米」も加えて「四貨制度」というのが実態だった。維新政府が太政官札を発行したときは正貨の裏付けのない、いわば管理通貨制度であった。しかし、管理通貨制度は荻原重秀の言葉にもあるように、 「たとえ瓦礫のごときものなりとも、これに官府の捺印を施し民間に通用せしめなば、すなわち貨幣となるは当然なり。紙なおしかり。」 なのであって、官府の信用があってこそ制度が運用できるのであって、まだ維新政府が信用されていない段階では、太政官札は通用しなかった。それは「西郷札」も同じ。
 明治政府は一時、銀本位制を採用するが、すぐに金本位制に変える。当時の「グローバル・スタンダード」に従ったわけだ。大東亜戦争が激しくなってきて、金本位制が維持できなくなり、管理通貨に変える。 しかし、本位制の考え方は捨てきれない。戦後も本位制の考え方に縛られる。それは日本だけではなくて世界全体がそうだった。「金本位制が維持できない。しょうがないから通貨管理制度にしよう。だけども、できれば本位制に戻したい。戻れるような制度にしておこう」こうして「ブレトンウッズ体制」ができた。 だから「ニクソン・ショック」をどう受けとめたらいいのか、について「為替変動制が良い」と言っていたミルトン・フリードマンでさえ、ニクソン・ショックにハッキリした主張ができないでいた。これに関しては <ニクソン・ショックの意味>▲ を参照のこと。
 金融制度・銀行制度を理解するには、この「金属貨幣・金本位・管理通貨」の意味と実際を知っていないとピント外れの主張をすることになる。バーナンキもサムエルソンもその他の教科書も、この違いを指摘していない。 こうした貨幣制度の違いを解説した本に、このホーム・ページ「創刊号」▲で紹介した、M.スコーセン著『経済学改造講座 正当派への有罪宣言』がある。 「貯蓄のパラドックス」をはじめ、金融経済学では「常識」と思われているけれど、疑ってみる必要のある事柄が多いようだ。「神話」が紛れ込んでいるかも知れない。「常識」のように思われている「神話」が、そして「市場経済派」の顔をした「隠れコミュニスト」が。
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<明治時代の銀行制度をどのように見るか?> 日本の近代的な銀行制度は明治時代に確立した。そのことに関して異論はないはずだ。 ではその明治時代、銀行制度が確立した頃を短い文章でどのように表現するか?どのような特徴を指摘するか? サムエルソンの「銀行はどのようにして金細工業から発展したか」▲やバーナンキの「アグリコーラ」▲の例は余りにも単純すぎる。少なくとも日本の銀行制度確立史としては不適切だ。
 江戸時代の金融制度を廃止し、全く新しい金融制度を確立したかのように見える。しかし、江戸時代からの金融に対する考え方は引きずっていた。そして、試行錯誤の連続だった。 それだけに、この時代の特徴を短い言葉で表現するのは難しい。むしろ「あんな制度、こんな制度」「あんな見方、こんな見方」「百花繚乱百家争鳴」として、まとまりのない全体像として捉えるのが良いのだろう。 そのような考えで、いろんな「○○銀行史」からの引用を中心に、明治時代を振り返ってみた。
 いろんな銀行や銀行類似会社が混在し、時代の変化に順応しようと進化していた時代だった。ハッキリした目標が有るわけではなく、時代の変化に適応しようと自己変革を進める様は、動植物の進化とよく似たところがあった。 このように考えていくと、サムエルソンの「銀行はどのようにして金細工業から発展したか」やバーナンキの「アグリコーラ」の例はまるで「西洋のおとぎ話」のように思えてくる。 けれども日本ではこの程度のレベルの、優しいお話がない。外国のそれを、言葉だけ日本語に訳して、それを教科書に使っている。寂しいことだ。
 もう一つ、多くの「○○銀行史」を読んで気づいたのは、「貨幣乗数」「ハイパワード・マネー」「トランスミッションメカニズム」などの言葉が使われていないことだ。扱っている時代が明治時代でも、著者・編者は現代人だ。 多くの編者は大学で金融論を学んだはずだ。その人たちが教科書で使われている言葉を使っていない。このシリーズの……… は じ め に ………で『「貨幣乗数」「ハイパワード・マネー」「トランスミッションメカニズム」などの言葉は意味がないので使われなくなるだろう』と書いた、その言葉は現実に金融機関の現場では使われていない。 金融市場の現場では、「神話」は信じられていない。そして大学では「実社会では役に立たない事を教えている」のかも知れない。
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<主な参考文献・引用文献>
『秋田銀行百年史』         秋田銀行100年史編纂室 秋田銀行        1979.12. 1
『信用金庫50年の歴史』   全国信用金庫協会50年史編纂室 全国信用金庫協会    2002.12.20
『日本の銀行制度確立史』日本金融市場発達史U 金融経済研究所 東洋経済新報社     1966. 7.15
『八十二銀行50年史』              編纂・発行 八十二銀行       1983. 6.20
『創業百年史』              北越銀行行史編纂室 北越銀行        1980. 9.10
『伊予銀行五十年史』       伊予銀行五十年史編纂委員会 伊予銀行        1992. 6.25
『120年のあゆみ』北越銀行史      ホクギン経済研究所 北越銀行        1998. 6.30
『富士銀行百年史』       富士銀行調査部百年史編さん室 富士銀行        1982. 3. 1
『横浜正金銀行全史』第1巻            編集・発行 東京銀行        1980. 9.30
『十二銀行史』           編集・発行 元十二銀行内=奥野要吉郎・田中作太郎 1944. 7.10
『十七銀行六十年史』               編集・発行 十七銀行        1940.12.20
『第八十五銀行史』                編集・発行 第八十五銀行      1944. 6.20
『南都銀行小史』             南都銀行行史編纂室 南都銀行        1984. 6. 1
『本邦貯蓄銀行史』            協和銀行行史編集室 協和銀行        1969. 9.30
『駿河銀行80年史』               編集・発行 駿河銀行        1975.10
『するが90年の歩み』     駿河銀行90周年委員会事務局 駿河銀行        1985.10.19
『百年航路』スルガ銀行創立100周年記念誌 スルガ銀行総合企画部 スルガ銀行     1995.10.19
『大和銀行80年史』       大和銀行80年史編纂委員会 大和銀行        1999. 2. 1
『創業百年史』             荘内銀行百年史編集室 荘内銀行        1981.12. 1
『欧州中央銀行の金融政策』             羽森直子 中央経済社       2002. 4.20
『欧州中央銀行の金融政策』欧州中央銀行著 小谷野俊夫・立脇和夫訳 東洋経済新報社   2002. 7.11
『第三銀行80年史』       第三銀行80年史編纂委員会 第三銀行        2003. 6
『ふるさととともに』愛媛銀行の50年 愛媛銀行50年史編纂委員室 愛媛銀行      1993. 7.30
『高知銀行60年の歩み』         高知銀行調査情報部 高知銀行        1990.11.30
『豊和銀行史』             豊和銀行史編纂委員会 豊和銀行        1992.12.25
『徳島銀行80年史』           80年史編纂委員会 徳島銀行        1998.12.25
『「せとぎん」創立五十周年記念特集号』      編集・発行 せとうち銀行      1992. 5. 1
『創業百年史』            山梨中央銀行行史編纂室 山梨中央銀行      1981. 3
『静岡銀行史』            静岡銀行50年史編纂室 静岡銀行        1993. 3.31
( 2006年6月5日 TANAKA1942b )
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明治時代の銀行制度を総括する
信用創造プロセスは働いていたか?
 「ベースマネーの増加により(原因)、マネーサプライが増加する(結果)、は神話である」とTANAKAは主張する。そして「神話ではなく、その通りの時代もあったかも知れない」がTANAKAの考えだ。ではその時代とは?
 それは、明治時代、貨幣を発行することができる「国立銀行」という名前の「民間銀行」が153もあった頃、日本で銀行制度ができ始めた頃だと思った。どの銀行も十分な資金がなく、預金が増えれば融資も増やせる時代だったに違いない。そうした考えで銀行制度が生まれた明治時代を少し振り返って見てきた。
 今週は、「明治時代の銀行制度を総括する」と題して明治時代とトランスミッションメカニズムとの関係を考えてみることにした。まずは「○○銀行史」から。
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<貸金会社のような銀行> 銀行条例の制定により、銀行の認可を受けなければ銀行類似の業務を行うことができなくなり、それとともに、同条例は最低資本金額の制限がなかったので、小資本でも銀行設立が可能となったため、明治20年代後半から30年代前半にかけて、銀行設立ブームとなった。 とくに、日清戦争勃発後は、広範な産業領域にわたる起業ブームの時期でもあり、銀行の設立は全国的に促進され、34年のピーク時には、銀行数は1890行にも達している。
 このように明治30年代前半までに、全国的に非常に多くの銀行が設立されたのであるが、当時の銀行の中には、銀行類似会社から転じた、いわば貸金会社とあまり違わないような銀行も多かった。当時の地方銀行の多くは、預金はきわめて少なく、おもに資本金を資金源として、狭い地域内の人たちに、主として不動産抵当あるいは信用貸などのよって貸付けるこということを主要業務としていた。 地方銀行で、預金が資本金を上回って増加してゆくのは明治30年以降であるが、しかし、それは地方銀行の中でも比較的大きな銀行であり、ずっと後まで貸金会社的銀行が残ってゆく。 これらの中小銀行は、不動産抵当貸付を主業務とすることによって土地兼併を促進するとともに、地方では、恐慌期に地価が暴落すると、銀行の経営危機にもつながってゆく。 (『東邦銀行小史』から)
<両替商の預金受け入れ> 両替商は三貨の鋳造・交換にとどまらず、預金・貸付・手形発行・為替取組なども営んでいる。銀行と同じような業務であるが、例えば預金に対する態度などは、銀行と大きく異なっていた。 両替商では、積極的に預金吸収をすることもなく、また一般的に無利子であったと言われているからである。
 すなわち、当時の江戸・大坂などの商人は、危険を避けるためでもあったであろうが、現金を余り手許に置かず、両替商に預け入れている。それは一種の当座預金として預け入れたものであり、したがって原則として利子は付かなかった。 それにもかかわらず、とくに大坂商人たちはできる限り多く預金をしている。その理由は、両替商の信用を高め、当座貸借の契約を結び、金融を受け入れるためであった。
 したがって、両替商は商人の預金に対して利子を付けるどころか、商人によっては預金を断ったりしている。また、盆暮れには預金者である商人の方から、両替商に付け届けをする場合もあった。 両替商で預金口座を開設する場合には、預金者である商人はまず証人(両替受け)を立て、証文を提出し、ようやく通帳を交付されたという。
 ただし、『町人考見禄』(三井高房)によれば、京都の両替商は、商人の資金ばかりでなく、「寺方の祠堂、後家の寺詣金、婆々の針箱の貯金、年々蟻の塔を積様に留置しへそくり銀」などまで利子を付けて受け入れ、これを主として大名に貸し付けていた、 とある。京都の両替商にとっては、その貸付額が大口であったため、営業資金として広く庶民層に零細資金まで利子を付けて受け入れ、利用する必要があったであろう。
 しかし、京都の両替商による「大名借の商売は、博奕のごとくにて始(はじめ)少(すこし)の間に損を見切らずば、それが種と成」る、といわれていた。貸付は信用貸であったため、大名の財政難にともなってつぎつぎと踏み倒され、江戸中期までにその営業を大坂の両替商に譲ったことは、さきに述べたところでもある。
商人貸 両替商は、自己資金と預金を資金として、商人や大名に貸し付けている。商人貸しには、無担保の信用貸(素銀=すがね)と、商品担保付き貸付(並合=なみあい)の2種類あったが、前者による場合が多かった。それは、両替商による商人貸が、日頃から取引があり、信用ある商家に限られていたからである。
 貸付利子については「両替商などにより日息を以て貸すには大概元銀1貫目に息5分、即ち月息の1分半に当たる也、日息俗に日分を云ひ、びぶと訓ず、或は日廻しと云う」(『守貞漫稿』)とある。つまり、両替商の貸付利子は月1.5%、年18%であった。
 貸付の形態はさまざまあり、
 @借り手の商人から、信用証書をとって貸し付ける証書貸し
 A預金口座を開設している商人が、両替商宛に振り出した振出手形(今日の小切手にあたる)による当座貸越
 Bとくに江戸──大坂の商人間で利用された為替手形などのよっても貸付が行われた。 (日本史小百科『金融』から)
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<西南戦争による多額の不換紙幣> 明治10年2月に勃発した西南戦争は、財政上に巨額の負担をもたらし、多額の不換紙幣が増発されることになった。通貨の流通量は、国立銀行条例改正による相次ぐ国立銀行設立とともに急激に膨張し、本格的なインフレーションを招来した。 そこで紙幣整理と兌換制度の確立を図り健全な通貨制度を育成するため、15年6月「日本銀行条例」が公布され、同10月、日本銀行が開業した。 さらに23年8月には「銀行条例」と「貯蓄銀行条例」が同時に公布され、26年7月から施行された。 (『山陰合同銀行五十年史』から)
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<松本清張『西郷札』> 明治10年2月15日、西郷隆盛は政府詰問の理由で寒風吹く鹿児島を精兵を率いて出発したが、これから先のことは普通の歴史にあるとおりで詳しく書くことはない。 『覚書』の筆者もその克明な筆で鹿児島城包囲から植木方面の戦闘を叙しているが、別段関係もないから略する。ただこの筆者のために彼が勇敢に闘ったことを記しておくことにする。
 3月19日、さしもの薩軍も田原坂(たばるざか)の険を背面攻撃で官軍に奪われことが大勢の決する岐(わか)れ日となった。 これより人吉に退きついに日向路に奔り、主力が宮崎一帯に結集したときは、もはや鹿児島との連絡は絶えていたのであった。
 薩軍が紙幣発行をやったのはそのころである。その製造所を宮崎郡広瀬に置き、造幣局総裁という格には桐野利秋がなったが、工事は昼夜兼行で行われ、監督は池上四郎が当たり、実際の仕事は左土原藩士の森半夢(通称喜助)が運んだ。 職人は30人ばかり使ったようである。兵站方に金が少しもないので、この造幣のことは大急ぎですすめられた。
 樋村雄吉はこの新設造幣局に所属となったが、それがどんな役目か、彼自身の語る『覚書』にははっきりしない。しかし森が佐土原藩士だから同藩の雄吉をひき抜いてきたであろうことは想像に難くない。おそらく森の助手のようなことをしたのであろう。
 この紙幣の体裁は前に記したから繰り返さないが、薩軍はこれを以て近在の商人や農家から必要な物資を得ようというのであった。十銭、二十銭札はともかく、五円、十円という高額札は発行のその日から頭から信用がなく、皆それを受け取ることを渋った。 だが薩軍が実際に使用を望んでいるのはこの高額薩のほうだから、半分は威嚇でこれがどんどん商人たちに押しつけられて食糧や弾薬と変わった。 ついには兵士たちは隊を組んで富裕な商家を訪れ、僅かな買物に十円薩を出し、太政官札の釣り銭を受け取るという手段をとった。
 この紙幣の性格を語るによい材料が明治10年10月の東京曙新聞に出ている。当時の賊軍に対する記事だから少し悪意のあるフザけた報道だが、薩軍紙幣の一端を説明している。
「桐野利秋が日向宮崎にて賊徒が濫製したる金札四百円を投出して歯を染めたる城ヶ崎の芸妓は兼て去る方より四百円の負債ありしかば右の金札を受け取るや(略)これでよろしく御勘定をと彼(か)の金札を差出したるにイヤ此札ではと貸主が額にしわを寄せしが、あなたそんなことが桐野さんに知れましたら人切り包丁の御馳走がまいりなせうぞと、おどしつけられ、不用の札と承知しながら、命惜しさに勘定をすましたりといふ(略)」
 この紙幣はどのくらい刷られたか、ちょっとはっきりしたことはわからないが20数万円ぐらいではなかろうか。確かな文献を知らないからわからないが『覚書』ではそのくらいの数数字になっているし、明治10年8月24日の大阪日報は「賊は贋札紙幣を凡そ24万余円製造したる由なるが、その中、14万円を流通し、残り10万円はも早使ふ能はず、そのまま積重ねてあるといふ」 とのせているから、まず大差ないであろう。その「残り10万円はも早使ふ能はず」とあるのは、おそらく軍務所のある宮崎が危険となって立ち退かねばならなくなったからであろう。7月10日日向小林が敵の手に落ち、次いで20日、都城が陥落すると、宮崎は直接脅威を受けることになったので本営を延岡に移し造幣所も閉鎖となった。
 しかし官軍の追撃は急速で28日早くも大淀川南岸に到達し、翌日はこれを渡河して宮崎に入り旧県庁を占領した。薩軍は戦闘しつつ佐土原、高鍋、美々津と退却をつづけついに延岡の北郊長井村に本営をおいた。これが8月14日のことで、官軍も各道より集まった諸軍と合して延岡にことごとく入ったのであった。 (松本清張『西郷札』から)
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<西南戦役と西郷札> 西南戦役は明治10年2月から9月までわずか半年余の内戦であったが、人的・物的に多大な被害をもたらした。
 まず人的被害をみると、西郷軍の戦死、行方不明は士族平民合わせて5,217名で、うち士族4,919名、平民298名となっている。平民が含まれているのは、人夫雑役に志願もしくは徴用されたためと思われる。 一方、官軍側の死傷者は、官吏一般人民も含めて約1万6,000余名に達した。
 次に物的被害は、戦火が鹿児島、宮崎の全域に拡がったので、地方にも被害が出たことは容易に想像されるが、県下全域にわたる被害調査資料としては、わずかに戦災家屋のそれと西郷軍が人民から徴発した金穀類の被害調査の2種を利用しうるに過ぎない。(中略)
経済活動への影響 西南戦役がわが国経済に与えた影響の最たるものは、政府の戦費調達に起因する財政膨張であった。
 戦役勃発時、財政基盤脆弱な政府にとって、そうでなくとも殖産興業の資金捻出に腐心していた折柄、莫大な戦費調達は至難の業であった。
 戦費総額は、最終的には4,200万円の巨額に達したが、戦役勃発時大蔵省はわずかに20万円の予備費流用を決めたに過ぎなかった。 戦線拡大につれ、事の重大性の認識から物量にものいわせての短期決戦、賊徒平定を狙って兵力動員を急速に進めたので、戦費は急増した。 その調達のため第十五国立銀行の設立を急がせて、同行から1,500万円借入れし、損札交換予備として保留の政府紙幣2,700万円を急遽発行するなど彌縫策を採り、辛うじて難局を切り抜けた。
 しかし、戦費の常として大半が労賃、軍人給料、諸調達費など非生産部門に支出され、戦役後の物価騰貴は、わが国経済に大きな後遺症を残した。
 本県に限っていえば、戦火が県下各地に拡がったので、主産業の農業は農地の荒廃、農産物の減収に見舞われ、地方経済にも影響が出た。最も大きな影響を受けたのは、やはり城下町の鹿児島であった。
 当時の鹿児島の商工業等経済事情を知る手掛かりが皆無であるので、その面における戦役の影響を知る術はないが、5月の市街戦勃発と同時に大多数の住民は近在に避難し、商人もまた競って疎開したため、経済活動はまったく停滞したであろうことはほぼ推察できる。
軍票発行とその整理 戦役が地元に及ぼした影響として無視できないものに軍票発行がある。挙兵当時、西郷軍は大山県令提供の県公金15万円を始め、およそ25万円程度の軍資金を準備したが、1万人を超える将兵を擁しての戦費として、25万円は1ヶ月維持することすら覚束ない金額であった。
 そのために、公金(県内各郷、宮崎支庁分)の追加徴発、民間からの徴発等も重ねたが、なお軍資金の窮迫は覆うべくもなく、ついに軍票発行に踏み切らざるを得なくなった。これが西郷札と承恵社札である。 ただし、前者と後者では次のとおりその性格を異にしている。
 (1) 前者は西郷軍みずからの製造発行にかかるものであったが、後者は承恵社札という歴とした銀行類似会社の発行にかかるものであった。
 (2) 前者は「偽札」として通用を禁止され、戦役後、その所有者は丸損になったのに対し、後者は「紙幣類似品」として通用禁止になったあと償還された。
西郷札 西郷札発行の謀議は、西郷軍が熊本から日薩の地に退き、鹿児島県宮崎支庁を占拠して支庁に軍務所を開設した10年5月に端を発する。
 当初、支庁において発行させようと試みたが、支庁長から反対され結局西郷軍みずから発行せざるを得なくなり、総責任者に桐野利秋、現場監督に池上四郎を命じ、宮崎県広瀬(現在の佐土原町)に工場を設置し、職人25名程度で翌6月から製造を開始した。
 製造計画は100万円であったが、原料の入手難と製造期間が短かったため、実際の製造高は14万円余に過ぎなかった。 種類は10円、5円、1円、50銭、20銭、10銭の6種であった。
 西郷札の特徴の第1は、短期間に大量に製造しなければならなかったため、紙幣では乾きが悪く製造に手間取るとの理由で、布幣(寒冷紗の2枚張り合わせ)にしたことである。 そのため「フヘイ(不平)党がフヘイ(布幣)をつくった」という語呂合わせが当時流行った。
 第2は、西郷札は「管内通用」「此札ヲ偽造スル者ハ急度軍律ニ処スル者也」との条件を付し強制通用を図ったが、引換保証はなく、しかも西郷軍の敗退が明らかであったので信用皆無であり、薩軍の権力と西郷の信望で辛うじて20銭、10銭の少額幣が通用するに過ぎなかったという点である。 反面、なかには10円、5円の高額幣で数十銭の買い物をされ、釣り銭を正規通貨で支払わされた商人もあったという。
 岩村県令は、10年8月3日、下記のとおり通用禁止の布達を発したので、西郷軍の鹿児島撤退後は、西郷札は反古紙同然となった。
 「管下賊徒共宮崎ニ於テ偽札ヲ発行致趣右ハ通用厳禁申付候依テ所持之者ハ区戸長ヘ差出区戸長取纏メ本支庁并最寄出張所ヘ可差出此旨布達候事」
 したがって、西郷札の所有者、特に商人は大きな損害を蒙ったので、戦後県令は正規通貨との引換方を政府に申請したが認められず、結局は引き揚げのうえ裁断処理された。
承恵社札 明治10年4月、田畑常秋大書記官は淵辺群平、辺見十郎太、別所普介等西郷軍幹部からの督促で蓑田長僖、鎌田政直両県官に命じ、承恵社、撫育会社に対し社金の貸上を相談させたが、両社は現金に乏しかった。 そこで両社は協議のうえ、総額4万円、券面金額5万円乃至50円の証券を当局(県)の商人を得て発行し、これと引換に市内の富豪から現金を借入れて県庁に差し出した。この証券が承恵社札である。
 その後、額面額が1円と50銭の少額商じぇんも発行されたが、これらの証券はいずれも西郷軍の軍資にあてるということは表面に出さず、県下金融便宜のためという目的で発行された点が注目される。 発行総額は3万9,968円と記録されている。
 この措置は、西郷に共鳴していた大山県令と、県令の忠実な補佐役であった田畑大書記官を主軸に実効されたが、大山罷免、田畑自害のあとを受けて赴任した岩村県令は、5月10日次の布達を発し承恵社札の通用禁止措置をとった。
 「本年四月中當県下撫育承恵両社之名ヲ以発行致候金券之儀往々管内一般流通致居候趣ニ相聞候処右ハ其実紙幣類似之品ニテ甚不都合之至候條追テ何分之儀可相達候得共先以通用之儀ハ厳重ニ令禁止候條管内人民愆テ右之金券ヲ受授シ他日後悔無之様可致此旨布達候事」
 このため、承恵社札の所持者にとっては、同札裏面に約定の「此表借金返弁ニ付テハ撫育承恵両者合金三千七百五十円ヲ以テ月々返弁可申且亦大阪エ通商金融調ヒ候上ハ多少ヲ不問引換可申者也」 も空文に帰し、一片の反古と化したかに見えた。
 しかし、承恵社札は西郷札と異なり強迫されて発行された事情があったほか、岩村県令の戦後の施政方針でもあったのか、西郷札と同断扱いは余りに酷ということになって、翌11年2月13日、次の布達が発せられた。
 「県下撫育承恵両者ヨリ発行致候証券交換之儀ハ其持主該両社ト相対ヲ以処分可致尤該社ヘモ兼テ其の旨相達置候條此布達候事
 但通用禁止ノ儀ハ昨明治十年五月十日第二十一号布達ノ通可相心得候事」
 こうして両社と貸主の示談により円満に解決し、11年6月全額償還となった。したがって鹿児島の商人には宮崎のような実害はなかった。 (『鹿児島銀行百年史』から)
<藩札・西郷札・承恵社札・国立銀行券は借金の証文=発行機関の負債> 西郷札は結局紙くずになってしまった。承恵社札は日本銀行券に変えることができて、最終的には兌換された。 このような藩札・西郷札・承恵社札を見ていると、これらが「借金の証文」であることに気づく。そして国立銀行券も日本銀行券も結局は発行機関の「借金の証文」であることが理解できる。 「借金の証文」ということは発行機関の負債であるから、藩札・西郷札・承恵社札・国立銀行券・日本銀行券、すべてが発行機関の負債であり、つまりベースマネーとは日本銀行の負債であることが理解できる。 同じように、マネーサプライも金融機関の負債であることが分かれば、ベースマネーとマネーサプライとの関係が分かってくる。このようにベースマネーとマネーサプライとの関係が理解できることによって、 「ベースマネーの増減により(原因)、マネーサプライが増減する(結果)」が神話であるとの主張が理解しやすくなる。こうしたことがうまくイメージできないと「神話」を払拭することができにくくなる。
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<鹿児島銀行のあゆみ> 当行は、明治12年(1879)8月30日、第百四十七国立銀行として設立を認可され、同年10月6日営業を開始した。国立銀行といっても、国営ではなく、民間資本による株式会社であったが、銀行紙幣(国立銀行券)の発行が認められていた。
 鹿児島は、わが国近代化の幕開けとなった明治維新に大きな役割を果たした土地柄であったが、明治10年の西南戦争で人的・物的に多大な痛手を被った。 こうした状況下、茲立銀行の設立には戦災復興、産業振興などの一翼を担う目的があった。
 その後、銀行制度の改革により、国立銀行の存続期間が開業許可より20年と決められたため、明治30年1月、株式会社第百四十七銀行を設立して第百四十七国立銀行の利業を継承した。
 昭和に入り、全国的に地方の中小銀行の淘汰が進み、本県でも当行を中心とする銀行再編が加速した。この歴史を辿ると、口火をきったのは、昭和3年9月の鹿児島商業銀行との合併で、その後、5年2月薩摩銀行から営業譲受、7年2月海江田銀行から営業譲受、 8年1月西薩殖産銀行から営業基盤を継承、11年4月には鹿児島商弘銀行から営業譲受した。太平洋戦争下の昭和19年2月には、当時の1県1行の国策に沿って(旧)鹿児島銀行、鹿児島貯蓄銀行の地元2行と合併して、鹿児島工業銀行を設立した。
 太平洋戦争では、大阪支店、沖縄支店を焼失するなど、当行は大きな被害を受けた。昭和27年12月には、商号を現在の鹿児島銀行に変更した。 その後も幾多の経済変動を経ながら、当行は、本県におけるリーディングバンクとしての地位を固め、42年11月に預金1千億円の大台突破、52年3月には預金5千億円を突破し、54年10月6日に創業100周年を迎えた。 ( 鹿児島銀行『120年のあゆみ』から)
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<第十八国立銀行の創立> 明治10年2月、西南の役が勃発、官軍の兵站基地となった長崎は、騒然とした空気に包まれていたが、この年5月、「立誠会社」の社中5名による国立銀行発起人集会が開かれた。 集まったのは永見伝三郎、松田勝五郎、永見得十郎、永見寛三及び松田源五郎である。この会合で資本金を15万円とし、うち5万円は発起人で引受けることが決議されるとともに、大蔵卿あて創立願書が提出された。 この請願は、同年6月16日付で聞き届けられ、「名号之儀ハ第十八国立銀行ト可相唱事」とされた。この内認可を受けて、株主の募集がはじまり多少の曲折を経ながらも、同年8月満額を超え、16万円の入株報告が出状されるにいたった。 つづいて9月2日、株主首会と称する創立総会が開かれ、国立銀行条例にもとづく創立証書及び定款が審議決定され、大蔵省に提出された。 初代頭取には永見伝三郎、支配人には松田源五郎がそれぞれ互選され、開業に向けての準備が開始された。
 当時の長崎県の産業構成は、もとより農業の比重が重く、工業的諸産物は全国平均に比べなお低調であったが、長崎港の貿易・官営の造船所・全国出炭量の3割を占める高島炭鉱など、特色のある経済活動が行われており、将来に向けての繁栄の芽は。随処にこれを見ることができた。
 創立総会のあと、開業免状の下付、銀行紙幣の受領その他の諸手続きも終え、いよいよ同年12月20日、頭取以下全役職員21名の陣容を以て開業の運びとなった。 これより先、開業の諸手続のために上京していた支配人松田源五郎は、当行頭取・取締役に宛てた渋沢栄一(当時東京第一国立銀行頭取で、当行設立にあたっても尽力を惜しまなかった)の書簡を託された。 この中で渋沢栄一は、立誠会社以来の「御実歴之レ有ル処ニテ、即今流行ノ士族銀行者流トハ存ジ奉ラズ候」とはしながらも、「貴地ノ如キハ聊カ人情偸安ニシテ発達ノ気象ニ乏シキノ弊之レ無シトモ申シ難キヤニ存ジ奉リ候間」 と直言し、「新案創意ノ類ハ之ヲ擯斥」すべきでないことを忠告している。創立当時の世情の一端を映じたものとして興味深い。 (十八銀行『110年の歩み』 から)
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<維新革命のころの産業と金融> 維新革命のころの生産過程の状況についてみる。それは、僅かに商品生産が芽生えたという程度のものにすぎなかった。 維新の革命が行われたとき、西欧諸国はすでに独占段階に突入していた。英国では17世紀後半ブルジョワ革命を経て、産業革命を終わって植民地獲得に狂奔していたのであり、フランスは約1世紀前にブルジョワ革命を体験していた。 ひたひたと押し寄せてくる西欧勢力の富と力に直面して、日本は急いでこの遅れを取り戻さなければならなかった。富国強兵が維新政府のスローガンになる。西欧より近代的産業を移し植え、育て上げることが必要であった。 もちろんこれまでに資本主義の萌芽がなかったというのではない。徳川の中頃から商品流通は次第に盛んになり、それに伴い、ある程度の貨幣財産、商人資本ならびに高利貸し資本が発展してきているのは事実であるが、維新の革命を遂行するだけの力にまでは育っていなかったようである。 支配的勢力となって革命を準備する力に欠けていた。それが今や西欧資本主義勢力に接触するにおよび、自己に目覚め、一路資本主義に向かって力強い前進を開始するようになった、とみるべきであろう。
 この遅れを取り戻すために、まず政府は、幕府および各藩がそれぞれ直営していた造船所・紡績工場・兵器製作所などを吸収して、新に模範的な官営の工場を経営した。模範的な経営を試みて資本主義を育成しようとしたのである。 横須賀造船所・長崎造船所・富岡製糸所・札幌ビール醸造所などは、全部官営の模範的であって、政府のもとで直営された。 そして一応の自立的基礎ができあがると、そうした模範工場は、明・13年(1880)から後、続々と民間に払い下げられていった。経営を委ねられたものは、三井・三菱・住友・古河などの特殊な民間企業であった。 先進的な工業を民間に払い下げて産業を興したと言えようが、このことが反面、なぜにわが国では早々財閥が生じ、しかも国家権力と密接な結びつきを持つようになったか、ということの理由でもある。近代的産業の移植は政府の手によって行われ、財閥に委譲され、政府の保護のもとに、財閥産業として育っていった。(中略)
 そこで金融機関の発展が問題になる。生産過程で近代化が行動を起こせば、流通過程でもまた近代化は始まらなければならない。 商品生産が本格化して、商品流通も本格化する。これにつれて貨幣の流通も盛んになる。貨幣それ自身に対する需要が生じる。貨幣の流通を管理し媒介する行為が要望される。貸付取引を行い、貨幣取引を営む業者の出現が必然となる。
 銀行業の始まりは、明・2年(1869)、維新前まで幕府の御為替組をつとめた三井・小野・島田の各組が設立した為替会社である。預金を引き受けて貸し付けたが、民間の資金はまだ取るに足らなかったから、通商司の保護を受け、政府から貸下金をもらい、また金券・銀券・洋銀券・銭券などを発行して貸付金にあてていた。 しかしついに自立できないまま、通商司の廃止とともに自滅してしまった。これに代わって、明・5年(1872)に設立されたのが国立銀行である。国立銀行は、もちろん商工金融を主に営むことを建前とはしたが、政府はこれを通じて不換紙幣を消却させようとする考えを持っていた。 維新の革命に必要な莫大な資金は国債を発行し、紙幣を濫発して調達されてきたのである。かくしてインフレーションが起こり、その収束に政府は苦労していた。太政官札・銭券・銀券(この二者は民部省札に交換されたが)・大蔵省兌換証券・開拓使兌換証券などと、兌換とは名ばかりの不換紙幣が溢れていた。 インフレーションの悪化がもたらす破局を是が非でも食い止めねばならぬというので、国立銀行の設立を機会に、それを通じて解決しようとしたのである。 国立銀行設立の条件として、次の条項が持ち出された。国立銀行は資本金の6割に相当する政府紙幣を上納し、それと引換えに6分利付引換公債証書を下付する。 下付を受けた国立銀行は、この公債を再び抵当として政府に預け、同額の兌換銀行券をもらうという仕方である。要するに、不換銀行券を兌換銀行券という名の銀行紙幣に取り換えるだけのことである。 とうじ、正貨兌換に応じるだけに充分な準備金があったかどうかは疑わしい。だからこの方法によっては、インフレーションを収束せしめることはできなかった。 (『西日本相互銀行10年史』から)
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<明治時代後期の金融情勢> 明治時代後期における金融界の特徴的な動きを要約すると、次のようになろう。
@ 明治13年から、国立銀行の新設が許されなくなった結果、20年以降、私立銀行が急激に増加した。しかし、当時、これら私立銀行に対する規制がなされておらず、また、国立銀行も間もなく私立銀行へ転換することになっていたため、 銀行に対する総括的な規制の必要性が叫ばれ、23年に至って「銀行条令」が公布され、26年に施行された。ここに、わが国の近代的な銀行制度が一応その形を整えた。
A 日清戦争後から日露戦争の勃発までの数年間における金融界の特徴は、各種特殊銀行の設立であろう。農・工業の発達促進、植民地の開発などに資すべきこれらの特殊銀行な活動が1つの刺激剤となって、私立銀行は自主性を強化し、金財界の主導的立場を固めるとともに、経済界の一大勢力となってきたのである。
B 日露戦争から明治末期までの数年間における金融界の最も著しい特徴は、銀行預金量の増大であろう。また、預金量の増大に伴って、多くの銀行が抱えていたオーバーローン体質が漸次、改善されてきた。
C 日清戦争後にはまた、銀行の乱設と銀行集中傾向の胎動が見られた。この戦後好況時に設立された銀行の多くは、きわめて小規模なもの、不健全なものが多かった。こうした傾向はその後の不況時にも継続し、明治34年のピーク時には総銀行数は2,358行に達した。
 このような銀行の乱設は、不況の深刻化につれて、脆弱体質の銀行を破綻に追いやった。そこで、政府は明治34年8月、地方長官に通牒し、銀行設立の制限、特に小銀行の乱設防止を図るとともに、銀行合同を奨励する政策をさらに推進した。 このため同年をピークとして、銀行数は漸次減少傾向をたどるに至った。 
 こうして、明治6年の東京第1国立銀行の設立から明治の末期に至る40年の間に、およそ銀行と称する金融機関は全国を通じて2,100余行の達し、その預金額は総計19億円以上に及び、6大都市だけでも、年間の手形交換高が88億円近くにのぼった。これらの点からみても、我が国の金融界が明治維新以来、比較的短い期間にいかに著しい発展を遂げたかが分かるであろう。 (北陸銀行『創業百年史』から)
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<明治11年の予算と決算> 歳入出豫算決算ノ大計
明治11年度歳入出豫算決算ハ左ノ如シ
 経常    50,642,563.995 圓
 臨時     2,633,362.103 圓
  歳入總計 53,275,926.098 圓
 経常    49,584,498.191 圓
 臨時     3,691,427.907 圓
  歳出總計 53,275,926.098 圓
右歳入ノ總計ヲ以テ歳出ノ總計ニ比スレハ過不足無シ
明治11年度歳入出ノ決算ハ左ノ如シ
 経常    53,558,117.362 圓
 臨時     8,885,632.040 圓  
  歳入總計 62,443,749.402 圓
 経常    55,986,709.691 圓
 臨時     4,954,626.048 圓
  歳出總計 60,941,335.739 圓
右歳入ノ總計ヲ以テ歳出ノ總計ニ比スレハ則チ百五拾萬弐千四拾三圓六拾六銭三厘ノ余剰ヲ生ス此余剰金ハ明治七年十月十三日ニ於イテ裁定アリシ會計規程ニ遵ヒ之ヲ準備金ヘ挿入シ以テ該年度間會計ノ全局ヲ結了スルモノナリ (『明治後期産業発達史資料』第3巻から)
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<銀行体質の改善──オーバーローンの解消> わが国の経済界は日清戦争の勃発時から旺盛な企業勃興期に入り、銀行数も逐年増加の一途をたどった。この間、国立・私立銀行とも、業容は拡大し、資本金、積立金、預金、貸出金などの面において資力の充実したが、自己資本に対する預金の比率が低く、預金残高が自己資本の2倍以上に達したのは36年以降のことであった。 また、この時期においては、貸出金のうち商業金融とみられる商手割引は少なかったこと。不動産や株式が貸出担保の主要物件となっていたころ、これに関連してオーバーローンの傾向が顕著であったこと──などが大きな特徴であった。
 オーバーローンの原因としては、@国民所得水準が低位にあって急激な経済発展に対応する任意貯蓄が不足していたこと、したがって、A企業の資金調達は主として銀行に求められ、資金調達のために銀行を設立するという風潮すら生じたこと、 B手形交換制度などの近代的金融制度が十分整備されていなかったため、銀行貸出は勢い中央銀行の追加信用に依存せざるを得なかったこと、C長期設備資金専門の銀行が未整備であったこと──などが挙げられる。
 ところが、日清戦争後の金本位制採用を1つの契機として、経済・金融面における事情の変化、金融当局の各種措置によって、明治30年代以降、オーバーローンは次第に解消されてきた。 その背景は、@巨額な外資が流入してきたこと、A国民所得水準の上昇に伴って貯蓄が増大したこと、B30年以降各種長期資金専門の銀行が整備されたこと、C30年代に全国主要都市に手形交換所が設置され、市中銀行の預金創造能力が向上したこと── などが考えられる。また、金本位制の採用と供に、日本銀行が金融政策を転換したことも、オーバーローン解消に大きく寄与した。すなわち、30年、日本銀行はそれまでの各銀行との取引に加えて、個人との取引を開始し、従来のいわゆる鞘取銀行の弊害を除去するとともに、35年下期以降、公定歩合を市中貸出金利の最低を上回る水準に置き、市中銀行の過度な借入依存の姿勢是正を図ったのである。 (北陸銀行『創業百年史』から)
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<高利貸し的な貸付銀行> 国立銀行の有力な資金源は銀行紙幣の発行で、その流通高は預金高の2倍以上に達し、しかも、その少ない預金のなかで官公預金が大きな割合を占めていた。 一方貸出は主として長期の貸付で、割引手形や荷為替、当座繰越といった本来の商業金融は少なかった。したがって、資金の調達運用の両面からみて、政府の意図した近代的な商業銀行とはおよそほど遠いものとなり、どちらかと言えば、株式会社の形態をとった高利貸資本の観さえあった。
 国立銀行は「西欧先進国に見られるように国民経済の発達に伴って自然発生的に発生したのではなく、近代的生産様式育成という基本的政策に奉仕するよう政府により人工的に整備された」のである。 すなわち、商業信用は「信用の本来の基礎、信用体系の根底であり、信用体系の自然発生的基礎」であるが、わが国においては商業信用が未発達のまま資本信用が創出、発展せしめられた。この「信用体系の根底の転倒特質」こそ「日本信用制度を貫く特質」である。 商業信用の未発達のもとにおいて、国立銀行の貸出が割引手形、荷為替、当座繰越等本来の商業金融がふるわず、株式担保貸出等を通じて会社の設立を扶助し、産業金融に進出せざるを得なかったのは当然である」。 (『日本の銀行制度確立史』から)
貸付資金の源泉は預金よりも払込資本にあった
 「銀行条例」(明治23年8月25日法律第52号)は明治26年7月から施行されたが、明治27年末の銀行数は628行で、そのうち株式会社が510行で圧倒的に多い。 この628行の普通銀行のうち未開業の銀行もあって大蔵省に営業報告書を提出した銀行数は545行である。このなかから三井・安田の両行を除いた543行の預金総額は、三井・安田の合計額を下回り、1行当たりの経営規模は払込資本金5万1,000円、預金3万5,000円、貸出6万6,000円で、三井・安田とは比べものにならないほど小規模であった。 しかも、預金は払込金に及ばず、預貸率は188.1%(三井85.2%、安田86.2%)と異常に高く、払込資本金と預金で貸出をまかなっていた。 したがって、「この時期の銀行の貸付資金の源泉は預金よりも払込資本にあったと言って良いであろう。また貸付も手形割引はほとんどないと考えられるから、これらの銀行は、本来他人資本である預金を基礎とする商業銀行とはおよそかけ離れた、いわば一部の地主、旧富商たちが資金をもちよった、高利貸的な貸付会社と見て良いであろう」 (『日本の銀行制度確立史』から)
五大銀行・地方銀行ともにオーバー・ローンであった
 預金高と貸出高の関係についていえば、預金は少なく、資金需要は優勢であったため、明治29年末の預貸率は五大銀行99.2%、地方銀行116.9%にのぼり、預借率は五大銀行26.0%、地方銀行30.5%で、五大銀行・地方銀行ともにオーバー・ローンであったが、とくに地方銀行がひどかった。 このため、明治30年ごろの「銀行の仕事というものはすべて日本銀行から金を借りてやる。手形はそれを取る時に手形のもののいい悪いよりは、この手形は日本銀行で再割引するしかないかということを標準に手形の選択をしたものです。取った手形は日銀へ以て行く。再割引ですね。その鞘を稼ぐ」さや取りあったし、「諸銀行ノ中ニハ日銀ヨリ引出シタル資金ヲ一個人ニ向ヒテ比較的高利ニ貸付ケ其差金ノ収益ノミヲ以テ目的トスルモノ」もあった。 (『日本の銀行制度確立史』から)
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<国立銀行のコルレスポンデンス契約状況> 『銀行通信録』第18号(1887年5月)に付けられた「付録」から、全国的な規模で、各地とコルレス契約を結ぶ国立銀行は、東京第1、東京第3、東京第100、新潟第4、富山第12、大阪第34、大阪第121の7国立銀行とみることができる。 この7国立銀行に対比される私立銀行は、三井、安田の両行であった。
 これら諸行のコルレス契約の状況は、第1、第3の両国立銀行が際立って多数のコルレス契約をしていた。第1国立銀行は1872年創立以来、わが国銀行制度の中心にあり、官公金取扱い等に大きな役割を果たしてきた。その創立期から、官公金取扱いとの関連で全国的な為替取組に従事していた。 『第一銀行史』上巻(1957年12月 第一銀行)によれば、同行が各地国立銀行と契約したコルレスは、1876年国立銀行条例改正以後、急速に増加した。すなわち1877年末、本支店合計16であったコルレス契約は、1879年末、本支店合計98と発展した。 そして1880年末には、本店および内外支店を合わせて、」125か所となったという。為替取組は、個人間の信用取引を介在させることによって社会的関係たらしめるものである。 そこで金融業者間の信用は、強い社会的責任となる。そこでその取引関係は、固い信頼関係をもとに結ばれるコルレス契約となる。したがってコルレス契約の増大は、為替業務の発展を示すのだが、それは経済発展と共に拡大し、金融業者の発展をこたらすものであった。 わが国においても、銀行制度の草創期以来、まず信用取引の奨励、為替取組の拡大を図ってきた。かかる市中銀行の信用取引の中心にあったのが、第一国立銀行であった。かくて条約改正後における国立銀行の発展は、同行の為替取組を飛躍させることとなった。その結果、コルレス契約は、全国的規模に広がったのである。 (『地方銀行史論』から)
 (T注)21世紀の現代、銀行のATMで振り込むと瞬時に相手銀行の取引先企業口座に入金される。このため普段からなるべく現金を持ち歩かず、必要な場合はATMから相手の口座に振り込む。 現代ではこうした事ができるが、明治時代はそうではなかった。従って普段から自分の預金口座に現金を入れておく、という習慣は少なかったと思う。銀行に預金せず手許に現金を置いておく。ということは信用創造プロセスが働いていなかったと考えられる。 銀行から融資を受けた企業が取引先に支払うと、支払を受けた企業はその資金を預金せずに手許に置いていた、と考えられる。ここで取り上げているのは外国とのコルレス契約ではなくて、国内銀行同士のコルレス契約だ。コンピュータ・システムはもちろんのこと、銀行同士のコルレス契約も十分でなかったのが、明治時代、日本の銀行の草創期であった。 「信用創造プロセス」は現代の預金感覚で銀行制度の草創期を判断している。時代錯誤があると思う。
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<西洋のおとぎ話> サムエルソンの 「銀行はどのようにして金細工業から発展したか」▲ やバーナンキの 「アグリコーラ」▲ の例は抽象的なモデルとしては否定するものではないが、日本の銀行制度確立期の例としてはまったくピント外れだ。 まるで「西洋のおとぎ話」のように思えてくる。けれども日本ではこの程度のレベルの分かりやすい話はない。外国のそれを、内容を日本の例に改めずただ単に言葉を日本語にしただけのものを、教科書に使用している。
 日本で銀行制度が確立する明治時代、江戸時代からの「金利を払って金を借りるが、利息を期待して預金する習慣はなかった」ため、銀行貸出は増えても、預金はなかなか増えなかった。日銀ネットワークもなかったし、日本国内のコルレス契約でさえ十分整ってはいなかった。 このため銀行間の資金のやり取りも、現代にくらべ非常に不便であったことも一因だろう。教科書で使われる例、「融資を受けた企業が取引先に支払い、それを銀行に預金し、それを原資に銀行が融資する」は現代のようにコンピュータ・ネットワークが整った時代のシステムだ。
 サムエルソンの「銀行はどのようにして金細工業から発展したか」は貴金属貨幣の時代の例として考えると良い。日本では江戸時代が貴金属貨幣の時代で、金・銀・銅がそれぞれ貨幣として使われていた。バーナンキの「アグリコーラ」の例は現代のような通貨管理制度の例。そして、日本で銀行制度が確立する明治時代は「金本位制」の時代。 そうしたこともあって、サムエルソンやバーナンキの教科書の例は日本の例として適切ではないと考えられる。
 貴金属貨幣の時代⇒金本位制⇒通貨管理制度、貨幣制度はこのように変わってきている。通貨流通量はどのようにして変わるのか?あるいは変えることができるのか?は制度の違いによって変わってくる。 江戸時代のような貴金属貨幣の時代には政府・幕府が金の含有量を変えることによって通貨流通量を変えた。しかしこれには「邪(よこしま)なるわざ」と反対する意見もある。従って通常では貿易黒字によって外国から、貨幣としての金が多く入ることによって通貨流通量が増える。
 管理通貨制度では民間銀行の貸し出しによって通貨流通量が増える。
 金本位制では、政府・中央銀行が正貨としての金をどれだけ保有するかによって変わってくる。原則は発行限度○○万円とする保証準備発行を定めるのだが、実際は政府の許可で制限外発行とする保証準備屈伸制度が布かれる。
 このように貨幣制度の違いによって通貨流通量の変化の仕組みは違ってくる。サムエルソンやバーナンキの例が日本の例として適切でないのは、このように金本位制度の例として適切でないこともある、と考えると貨幣制度を理解しやすい。 日本の教科書で、このような貨幣制度の違いを易しく説明したものは見当たらない。残念。
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<明治時代の銀行制度を「信用創造プロセス」で説明するには無理がある> このシリーズは、「ベースマネーの増減により、マネーサプライが増減する」というのは「神話」である、と主張するのが目的であった。21世紀の現代では、「銀行は十分な資金を持っていて、ベース・マネーが増えなくても、十分な信用創造はできる」がTANAKAが主張の趣旨だ。 けれども、もしかしたら「銀行に十分な資金がなくて、ベースマネーが増えることによって銀行貸出を増やすことができた時代があった」かも知れない。そのように考えて、日本で銀行制度ができ始めた明治時代を振り返って見た。
 「信用創造プロセスの反対のことが起きていた」とは言えない。けれども実際は、そんなことには関係なく進化していた。民間銀行では「ベースマネーの数字には関係なく」、預金量を超えないように貸出額をコントロールし、オーバーローンにならないように注意する。 日本銀行は正貨とのバランスに注意する。最高発行額屈伸制度が採用されていて、民間銀行の信用創造だけで勝手にマネーサプライが増えていってはいけない制度であった。
 貴金属貨幣制度では現金通貨の量は正貨の量に制限され、預金通貨の量は民間銀行の信用創造の額に影響される。サムエルソンの「銀行はどのようにして金細工業から発展したか」はこの時代の金融制度を解説したものてして理解できる。
 管理通貨制度では正貨の量は関係ない。「たとえ瓦礫のごときものなりとも、これに官府の捺印を施し民間に通用せしめなば、すなわち貨幣となるは当然なり。紙なおしかり。」 なのであって、バーナンキの「アグリコーラ」の例は管理通貨制度を説明したものとして理解できる。けれども日本の明治時代は、最高発行額屈伸制度が採用されていた「金本位制」であった。 この時代を分かりやすく説明した教科書は見当たらない。
 管理通貨制度では正貨の量は関係ないけれども、日本では昭和27年(1952)8月までは「通貨発行審議会」があって、ここが通貨流通量を監視していた。そして、審議会が廃止された後も、大蔵大臣が発行限度や補償充当限度などについて単独で決定できるようになってはいた。 それだけ「管理通貨制度」が理解されていなかった、ということであり、本位制度の考えを引きずっていたわけだ。
 日本で銀行制度が確立した明治時代、「信用創造プロセスが働いていた、とは言えない」がTANAKAの結論だ。幕末から明治初期の金融制度・銀行の動きを調べてみると、このような結論になってしまう。
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<銀行制度略年表>
西暦 明治 月日 出来事
1868 5.15 太政官札(金札)5種発行
1869 6. 1 東京為替会社開業
1870 7.10 大蔵省、民部省から分離
1871 5.10 新貨条例公布(金本位制を採用、1両を1円と改称)
    12.27 新紙幣を発行、旧紙幣(太政官札・民部省札・藩札)引替を公布(明治5年2月15日実施)
1872 11.15 国立銀行条例公布
1873 6.11 第一国立銀行設立(わが国最初の銀行)
1874 10.13 株式取引条例公布
1875 5. 2 駅逓寮および東京府下の郵便局で貯金の取扱開始
1876 3.31 三井銀行設立認可(わが国最初の私立銀行、7月1日営業開始)
    8. 1 国立条例改定(紙幣発行高と兌換準備の条件などを緩和、資本金を最低10万円以上に引上げ)
1877 10 12.12 国立銀行条例補正追加(国立銀行の乱立を抑制)
1878 11 3. 2 国立銀行条例改正(設立資本金・紙幣発行に関する大蔵卿の権限を強化)
    6. 1 東京株式取引所開業
1879 12 11.11 京都第153国立銀行開業免許(以降国立銀行の設立停止)
1880 13 1. 1 合本安田銀行開業
    2.28 横浜正金銀行開業
    4. 1 三菱為換店開業
    6.21 東京貯蔵銀行開業(日本最初の貯蓄専業銀行)
1881 14 10.21 松方正義、大蔵卿に就任(兌換紙幣整理に着手)
1882 15 5. 6 私立銀行・銀行類似会社創立出願方法制定
    6.27 日本銀行条例公布(10月10日開業)
1883 16 5. 5 国立銀行条例改正(営業期間を免許後20年とし、紙幣発行の特権を停止、既発行紙幣は営業満期前に消却)
1884 17 5.26 兌換銀行券条例公布
1885 18 5. 9 日本銀行、最初の兌換銀行券(10円券)発行
1886 19 1. 4 政府紙幣の銀貨兌換開始
1887 20 12. 1 東京手形交換所開設 
1888 21 4.25 市政・町村制公布
1889 22 2.11 大日本帝国憲法発布(明治23年11月29日施行)
1890 23 1.-- わが国最初の資本主義的恐慌発生
    8.13 郵便貯金条例公布(明治26年1月1日施行)
    8.25 銀行条例・貯蓄銀行条例公布(明治26年7月1日施行)
1891 24 1.12 東京・大阪に商業会議所設立
1892 25 9.25 全国商業会議所連合会結成
1893 26 7. 1 銀行条例・貯蓄銀行条例施行
     6.22 三井銀行、合名会社に改組
    7. 1 安田銀行、合資会社に改組
1894 27 8. 1 日清戦争勃発
1895 28 10.16 三菱合資会社銀行部開業
    11. 1 住友銀行開業
1896 29 3. 9 営業満期国立銀行処分法公布
    3.23 国立銀行営業満期前特別処分法公布
    4.20 銀行合併法・日本勧業銀行法・農工銀行法公布
1897 30 3.29 貨幣法公布(10月1日施行、金本位制採用)
    6. 7 日本勧業銀行設立(8月2日開業)
    11.27 静岡農工銀行設立免許(以後明治33年9月までに北海道を除く全国46府県に農工銀行が1行ずつ設立) 
1898 31 6.11 政府発行紙幣通用廃止法公布(通用を明治32年12月31日限りとする)
1899 32 2.-- 国立銀行は営業満期により2月までに消滅
    12. 9 国立銀行紙幣通用禁止
    12.31 政府紙幣通用禁止
1900 33 1.16 銀行条例改正、銀行合併法廃止
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<主な参考文献・引用文献> 明治時代の銀行制度に関する文献をまとめてみました。
『富士銀行百年史』       富士銀行調査部百年史編さん室 富士銀行        1982. 3. 1
『山口銀行史』                  編纂・発行 山口銀行        1968. 9.25
『創業百年史』             創業百年史編纂事務局 広島銀行        1979. 8. 6
『四国銀行百年史』           四国銀行百年史編纂室 四国銀行        1980. 7. 1
『京都銀行五十年史』               編集・発行 京都銀行        1992. 3.31
『第一銀行史』                  編纂・発行 第一銀行80年史編纂室 1957.12. 1
『第三銀行80年史』       第三銀行80年史編纂委員会 第三銀行        2003. 6
『山陰合同銀行五十年史』     山陰合同銀行五十年史編纂室 山陰合同銀行      1992. 6. 1
『山形銀行百年史』          山形銀行百年史編纂部会 山形銀行        1997. 9.30
『日本銀行百年史』         日本銀行百年史編纂委員会 日本銀行        1982.10.10
『物語三井両替店』三井銀行300年の原点   三井銀行調査部 東洋経済新報社     1984. 6.14
『埼玉銀行史』             埼玉銀行史編集委員室 埼玉銀行        1968.10. 1
『秋田銀行百年史』         秋田銀行100年史編纂室 秋田銀行        1979.12. 1
『百十四銀行百二十五年誌』            編纂・発行 百十四銀行       2005. 8.31
『創業百年史』          北陸銀行調査部百年史編纂室 北陸銀行        1978. 3.15
『福井銀行80年史』       福井銀行80年史編纂委員会 福井銀行        1981. 3. 5
『第一銀行小史』                 編纂・発行 第一勧業銀行資料展示室 1973. 6.11
『創業百年史』            山梨中央銀行行史編纂室 山梨中央銀行      1981. 3
『東邦銀行小史』                 宮島宏志郎 日本経済評論社     1979. 8.20
『八十二銀行50年史』              編纂・発行 八十二銀行       1983. 6.20
『七十七銀行120年史』             編纂・発行 七十七銀行       1999. 3
『創業百年史』              北越銀行行史編纂室 北越銀行        1980. 9.10
『第四銀行百年史』         第四銀行企画部行史編集室 第四銀行        1974. 5.20
『百五銀行百年のあゆみ』             編集・発行 百五銀行企画調査部   1978. 7.10
『佐賀銀行百年史』                総合企画部 佐賀銀行        1982.12.25
『百十四銀行百二十五年誌』            編纂・発行 百十四銀行       2005. 8.31
『埼玉銀行史』             埼玉銀行史編集委員室 埼玉銀行        1968.10. 1
『千葉銀行史』                  編集・発行 千葉銀行        1975. 3.31
『アメリカの金融制度』                高木仁 東洋経済新報社     1986. 5. 8
『明治前期の銀行制度』日本金融市場発達史T  金融経済研究所 東洋経済新報社     1960.12.25
『近代日本金融史序説』               石井寛治 東京大学出版会     1999. 6.24
『三井銀行八十年史』       三井銀行八十年史編纂委員会 三井銀行        1957.11.25
『三井銀行100年のあゆみ』        日本経営史研究所 三井銀行        1976. 7. 1
『安田保善社とその関係事業史』編修・発行 「安田保善社とその関係事業史」編修委員会  1974. 6.28
『住友銀行百年史』                編纂・発行 三菱銀行史編纂委員会  1954. 8.15
『三和銀行史』                  編集・発行 三和銀行史刊行委員会  1954. 3.20
『東海銀行史』                  編集・発行 東海銀行史編纂委員会  1962.10. 1
『滋賀銀行小史』                   傳田功 日本経済評論社文庫   1979. 4.25
『秋田銀行百年史』         秋田銀行100年史編纂室 秋田銀行        1979.12. 1
『信用金庫50年の歴史』   全国信用金庫協会50年史編纂室 全国信用金庫協会    2002.12.20
『日本の銀行制度確立史』日本金融市場発達史U 金融経済研究所 東洋経済新報社     1966. 7.15
『八十二銀行50年史』              編纂・発行 八十二銀行       1983. 6.20
『伊予銀行五十年史』       伊予銀行五十年史編纂委員会 伊予銀行        1992. 6.25
『横浜正金銀行全史』第1巻            編集・発行 東京銀行        1980. 9.30
『十二銀行史』           編集・発行 元十二銀行内=奥野要吉郎・田中作太郎 1944. 7.10
『十七銀行六十年史』               編集・発行 十七銀行        1940.12.20
『第八十五銀行史』                編集・発行 第八十五銀行      1944. 6.20
『南都銀行小史』             南都銀行行史編纂室 南都銀行        1984. 6. 1
『本邦貯蓄銀行史』            協和銀行行史編集室 協和銀行        1969. 9.30
『駿河銀行80年史』               編集・発行 駿河銀行        1975.10
『するが90年の歩み』     駿河銀行90周年委員会事務局 駿河銀行        1985.10.19
『百年航路』スルガ銀行創立100周年記念誌 スルガ銀行総合企画部 スルガ銀行     1995.10.19
『大和銀行80年史』       大和銀行80年史編纂委員会 大和銀行        1999. 2. 1
『創業百年史』             荘内銀行百年史編集室 荘内銀行        1981.12. 1
『本邦貯蓄銀行史』            協和銀行行史編集室 協和銀行        1969. 9.30
『駿河銀行80年史』               編集・発行 駿河銀行        1975.10
『欧州中央銀行の金融政策』             羽森直子 中央経済社       2002. 4.20
『欧州中央銀行の金融政策』欧州中央銀行著 小谷野俊夫・立脇和夫訳 東洋経済新報社   2002. 7.11
『第三銀行80年史』       第三銀行80年史編纂委員会 第三銀行        2003. 6
『ふるさととともに』愛媛銀行の50年 愛媛銀行50年史編纂委員室 愛媛銀行      1993. 7.30
『高知銀行60年の歩み』         高知銀行調査情報部 高知銀行        1990.11.30
『豊和銀行史』             豊和銀行史編纂委員会 豊和銀行        1992.12.25
『徳島銀行80年史』           80年史編纂委員会 徳島銀行        1998.12.25
『「せとぎん」創立五十周年記念特集号』      編集・発行 せとうち銀行      1992. 5. 1
『創業百年史』            山梨中央銀行行史編纂室 山梨中央銀行      1981. 3
『静岡銀行史』            静岡銀行50年史編纂室 静岡銀行        1993. 3.31
『金融』日本史小百科            加藤隆・秋谷紀夫 東京堂出版       2000. 7.31
『山陰合同銀行五十年史』     山陰合同銀行五十年史編纂室 山陰合同銀行      1992. 6. 1 
『西日本相互銀行10年史』       西日本相互銀行企画課 西日本相互銀行     1954.12. 1
『明治後期産業発達史資料』第3巻  明治11年度歳入出報告書 龍渓書舎        1988. 2
『日本の銀行制度確立史』日本金融市場発達史U 金融経済研究所 東洋経済新報社     1966. 7.15
『西郷札』                     松本清張 光文社         1963.12. 5
『鹿児島銀行百年史』          鹿児島銀行行史編纂室 鹿児島銀行       1980. 2.29
『120年のあゆみ』          鹿児島地域経済研究所 鹿児島銀行       2000. 1.
『110年の歩み』       十八銀行110年史編集委員会 十八銀行        1988. 6
『地方銀行史論』為替取組と支店銀行制度の展開    岡田和喜 日本経済評論社     2001. 3.10
( 2006年6月12日 TANAKA1942b )