<2021.03.12=00:20> 趣味の経済学 民主制度の限界
民主制度の限界
(10)市民運動への淡い期待
<ユートピアを持ちたい人たち> これまで見てきたように、民主制度と市場経済の組合せは多くの不具合を持つ制度だ。特に将来に対するバラ色のビジョンがない。 政治的には右と左の妥協点を探していくことになり、経済的には市場のメカニズムにその将来を委ねることになる。誰かが先頭に立って旗を振って「皆こちらへ進んでいこう」と号令をかけても、結局は市場での妥協点に進むことになる。どのような結論が出ても必ず右か左に不満を持つ人が出る。不満が出ないようにするには何もしないことだ。
 社会主義・共産主義・マルクス主義は労働者が権力を握ることによって、政治的・経済的平等が達せられると考え、それに向かって進む。一神教の宗教は、信者が同じ価値観を持っているので、目指す理想社会は全員同じになる。軍事独裁国家では非常事態宣言を出して、反政府的な発言を禁止するので外部には聞こえてこない。 新興宗教やそれに似た、文化的・宗教的価値観の同じ人たち少数グループの社会では、タカのいないハトだけの社会で外部からの攪乱に弱いので閉鎖的な社会になり、一般にはその存在は知られない。 ある個人がすばらしいビジョンだと思って発表しても、雑多な価値観が共存する民主制度では、本人が期待したほど歓迎されない。現在の社会に不満があったり、危機感を持つ者にしてみると「国民は危機意識がない」「太平の世に浮かれている」との意識から「自分は現状を正しく認識するが、一般人はそれがない」と思い上がったりする。 そうした人たちを含め、民主制度を変えようとか、修正しようとか、あるいはその中で違った道を模索しようとする。民主制度と市場経済の欠点は素人でも指摘できる。このため多くの人がこの制度を批判し、「制度を変えるべきだ」と主張したり、「デモクラシーを補う制度」を試みてきた。今週はこうした面に目を向けてみよう。
<「市民が主体になって政治・経済を改革することができる」と考える人たち> 民主制度とは「すべての人が不満を持ちつつ、「まぁしょうがないか」と我慢する妥協点を求める制度だ」と言うのが適当な表現と言える。そうなると、不満を持つ人たちは「政府の政策ではダメだ。自分たちで変えよう」と政府とは違った事を始める。 「市民が主体になって政治・経済を改革することができる」と考える人たちが出てくる。それにはコストがかかる。そのコストを負担できる豊かな人たちが「市民運動」を始める。こうした市民運動は豊かな社会で始まり、発展途上国では社会が大きく変化するのに対して、市民運動は起きにくい。そこで先進国の人の中から途上国で活動する人が出てくる。環境問題、男女差別問題、大東亜戦争の戦争責任問題などが取り上げられる。
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<フェア・トレード> 現在中国ではケ小平の方針通り「先に豊になれる者から豊になる」(先富論)が採用されている。これを批判する評論家もいるだろうが、世界経済は?と見ると「先に豊になれる国から豊になる」仕組みになっている。多くの国では「先に豊になれる企業から豊になる」制度になっている。これに批判的な人の中から「途上国、最貧国を支援しよう」との運動が起きてくる。その一つが「フェアトレード」だ。 発展途上国側からの主張としての「恵んでくれなくていい、トレードをしてほしい。自ら力をつけて立たなければ、この国は変わらない」を尊重しようとして、途上国からの第一次産物を安定価格で購入しようとの動きになる。例えばココア豆を市場価格以上で輸入し、「フェアトレード商品」として一般商品より高く消費者に買って貰ったりする。そうすることによりコートジボアール、ガーナなどの生産者を支援しようとの運動になる。 もっとも2003年3月31日に「フェアトレードは最貧国の自立を支援するか?」▲(1)ココア豆から民芸品まで」としてこのホームページで取り上げたとき、ココア豆の国際価格は高かった。またチョコレートの価格はココア豆よりもミルクや砂糖の価格に影響されるとの情報もあった。つまり、ココア豆を高く買ってもチョコレートの価格にはあまり影響はない、ということだ。 とすると「フェアトレードでココア豆を高く買っているので、このチョコレートは幾分高めです」とは言えなくなる。
 実際にどの程度最貧国の生産者を支援するかは疑問だが、その考え方「恵んでくれなくていい、トレードをしてほしい。自ら力をつけて立たなければ、この国は変わらない」はすばらしいし、最貧国支援に関心を持つのは良いことだし、もう少し考えれば「フェアトレードを進めるのは自由貿易が大切で、保護貿易は邪魔することになる」という事が分かってくるはずだ。 そうすれば「自由貿易は先進国の利益にはなるが、途上国には何も利益がない」とのWTO反対の根拠のなさが分かってくる。
<重債務国の債務帳消し> 先に豊になれる国から豊になり、その他の国は少し遅れて豊になるはずだった。しかしその他の国も外国からの資金導入がないと産業は発展しない。経済が発展するためには投資が必要だ。そこで豊かな国からの投資を仰いだが、思惑道理には経済が発展せず、借り入れ負債の返済が重荷になってきた。そこで「先進国からの債務を帳消しにすべきだ」との声があがった。ジュビリー2000がその代表格になる。重債務国の債務は公的資金はパリクラブで、民間資金はロンドンクラブで話し合われている。 重債務国の債務帳消しとは、「この国はもう主権国家として債務を返済する能力がなくなった。破産国家として、債務を帳消しにしよう」との主張であり、「この人は返済能力のないので、破産者として扱いましょう」と言うようなことだ。これでは重債務国のプライドが傷つけられることになる。 「恵んでくれなくていい、トレードをしてほしい。自ら力をつけて立たなければ、この国は変わらない」との方が賢い態度だと思う。
 このホームページでは「フェアトレードは最貧国の自立を支援するか?」の<債権放棄=破産宣告>▲で書いたように、 重債務最貧国(HIPCs=Heavily Indebted Poorest Countries)の債務を帳消しにすると、民間金融機関はモラトリアム、デフォルト、不良債権化を恐れて融資しなくなる。それでも融資すれば、株主訴訟を起こされるか、もしかすると特別背任容疑で起訴されるかも知れない。 そしてアマチュア歴史家は「歴史に学びなさい。松平定信の棄捐令▲(きえんれい)の結果がどうなったかを」と警告する。
[棄捐令(きえんれい)] 江戸時代、幕府や諸藩が家臣団の財政窮乏を救うため、高利貸商人の札差に一方的に命じた借金帳消し・軽減令。寛政改革の一環として1789(寛政1)年9月に発布された。(中略)松平定信ら当時の幕閣はこの改革で1784年以前の札差借財はすべて帳消し(棄捐)、89年夏までの残余は年6%の年賦返済とし、以後の新規借り入れは年利18%を12%と引き下げさした。棄捐となった札差債権は118万両余に達し、旗本らの債務は一挙に軽減されたが新規の金融を拒否され、かえって恐慌状態に陥るほどであった(平凡社 大百科事典から)。どなたか勇気ある人は日本の歴史を教えてあげてください。
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<地域通貨>これについては 「地域通貨は金融経済学の最適教材か? 」▲で書いた。「ポール・クルグマン=ベビーシッター券」でも分かるように、地域通貨を主催していれば金融経済学の勉強になる。少なくとも「地域通貨にはインフレはない」とは言わなくなる。 さらにハイエクの「貨幣発行自由化論」など読めば、さらに貨幣論に強くなる。ある程度の知識を蓄えて「ヴェルグルの労働証明書」を考えると、さらに金融経済学が面白くなる。国民経済に与える影響は考える必要はない。それよりも「金融経済学の最適教材」と考えて取り組む方が良いだろう。「貨幣発行自由化論」として捉えると「ハイエク」▲が参考になり、あるいはディビッド・フリードマンの「貨幣のための市場」も参考になると思われるので、その一部を引用しよう。
 代替的な貨幣制度についての議論は通常、いかなる種類の貨幣を我々は持つべきか──金貨か、金貨に兌換可能な紙幣か、あるいは他の紙幣に兌換可能な紙幣か──という問題に焦点を合わせる。しかしこれは誤りだと私は考える。最も重要な問題は、貨幣がどうやって作られるではなく、誰によって作られるかなのである。(中略)
 最も単純な私的貨幣制度は、多くの民間企業によって作られる商品貨幣である。各企業は、標準的な重量の鋳貨を鋳造し、それらを売る。消費者は、重量不足の鋳貨を作り始めた企業から乗り換えることができるので、こういった詐欺の可能性はまれ──もしくは少なくとも政府が鋳造する場合よりもまれ──である。このような制度は、中世の競争的な国際通貨に非常によく似ている。それらは政府によって作られたが、そのほとんどは貨幣を作る政府のコントロールの及ばない消費者に売却された。貨幣を作る政府は、商人たちに自国の貨幣を利用させるため、民間企業のように競争した。そうするための明らかな方法は、貨幣の品質を維持することだった。 (「自由のためのメカニズム」から)
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<地産地消> 「自分の住む土地の四里(約16キロメートル)四方でとれた旬のものを正しく食べることを理想としよう」「なるべく地元で取れた農産物を食べましょう」という考えの「地産地消」はこのホームページでは 「身土不二」や「地産地消」について▲ で書いた。これを「反グローバル運動」と考え、勢い込んでいる人もいるかも知れない。しかし、農家が大きな市場を求めて事業拡大しようとすると、この運動は邪魔になる。結果的には、地産地消の運動は農業の活性化に水を差すことになる。「消費者は食品の安全性に無関心である」とか「味も栄養も変わらないのに、見かけの良い、形の整った野菜を買おうとする」「消費者教育が必要だ」と言う。 消費者=神様を教育しようと、仏に説法のようなことを考える思い上がった生産者ばかりになったら、農業は産業として衰退する。消費者を大切にしない産業(三菱自動車のように消費者を裏切ってヤバイことをする企業)は衰退する。 消費者の贅沢、グルメならば筋は通っている。豊になった消費者の贅沢と捉えておこう。
 地産地消に似た考え方として「株式会社の農業参入反対」がある。これに関して、次のような考えがあったので引用しよう。
 要するに株式会社(少なくとも、現行日本法上の)は、「魂も肉体もない」権利の主体としての存在の代表であり、自然人の魂と肉体が持つが故の「叫び」から、会社の意思決定・業務執行が完全に絶縁されている法人の典型である。このことは、ある株式会社の支配的株主(または株主群)は株式会社であり、そして、株主(群)たる株式会社についても同様であって、支配的株主の系統をどこまで辿っていっても自然人は見出せない、という巨大株式会社について、まさに典型的に当てはまる。
 以上に述べたとおり株式会社の基本的性格を踏まえて考えると、株式会社は、「生き物産業」の事業主体または農用地の所有者として最もふさわしくない法人であると思われる。 (「農業は「株式会社」に適するか」から)
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<ロッジデールの精神> 「市場経済は競争社会、弱肉強食の社会」と捉え、そうではない「もっと信頼関係を大切にした社会を」と考えて、「ロッジデールの精神を生かそう」との運動がある。生活協同組合運動や農業協同組合がそれだ。 1844年12月、マンチェスター郊外のロッジデールでロッジデール公正開拓者組合が創立された。それは「一人はみんなのために、みんなは一人のために」を合い言葉に公平な商売を行う小売店だった。組合員28人が金を出し合って小麦粉、バター、オートミール、蝋燭、砂糖の5品目ではあったが、公正な商売を始めた、当時は産業革命の真っ盛りのときで、現代では考えられない位でたらめな商売が行われていた。 ロバート・オーウェンの思想を実現しようとしたこの協同組合運動はその後、生活協同組合、農業共同組合へと発展していった。現在でもこの協同組合では「ロッジデールの精神を生かそう」がスローガンになっている。
 産業革命初期にはでたらめな商売が行われていた。つまり交換の正義が守られていなかった。そこでロッジデール公正開拓者組合は存在意義があった。現在ではその心配はなくなっている。また農協の購買部のように共同購入で安く買える、という特典もあまりメリットはなくなっている。民間企業であっても共同組合であっても、人件費をはじめとする取引費用はそれほど変わりはない。ということで農協・生協どちらもこれからはそれなりの特色を出して行かないと経営は難しくなる。 競争社会に批判的であっても、他の商売相手との競争は避けられない。それなりの経営努力は必要になる。そうでないと農協は経営不振になり、「農協はいずれ、単なる農家の親睦団体になるのか?」▲が現実味をおびてくる。
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<食糧自給率向上> 世界主要国の食糧自給率(1998年)%=フランス 139、アメリカ 132、ドイツ 97、イギリス 77、スイス 59、日本 41。
日本の食料自給率(2001年度)%=コメ95(うち主食用100)、小麦11、ばれいしょ80、大豆5(うち食用26)、野菜82、肉類53(牛肉36、豚肉55、鶏肉64)、砂糖類32、供給熱量総合食料自給率40.
 上記の数字から「自給率向上」が叫ばれる。海外から食料を輸入している、この農地面積は日本国内の農地面積の2.3倍になる。つまり、日本が食料自給率100%を達成するには、現状の2.3倍の農地が必要になる、つまり農地面積を3.3倍にしなければならない、となる。 日本列島では4,000万人弱の人口しか養えない、つまり鎖国をしていた江戸時代の人口しか養えない、ということになる。日本の食料自給率が低いのは、「食料生産が減ったからではなく、食糧生産が増えないのに、人口が増えたから」なのだ。食料生産よりも生産性の高い工業製品を輸出して、その代金で食料を買うことが出来たため、 日本列島で養いうる人口よりも多くの人々が生活出来るようになったのだ。100%を達成するには?@海外の農地1,200haを日本の領土とするか?A人口を4,000万人弱に減らすか、B一日三食ではなく一食で我慢するか?C農家が農業生産性を3.3倍にするか?だ。
 食糧自給率40%とは、計画経済でなった数字ではなく、市場のメカニズム、民主制度のもとでなったもので、国民が合理的な行動をとった結果なのだ。もっともだからこそ、これを「合成の誤謬」と表現する人もいるかも知れないが……
 食糧自給率に関しては「もう「尊農攘夷論」はやめにしましょうよ」▲および「自給自足の神話」▲で扱ったので、そちらを参照のこと。 食糧自給率の問題は食糧の安定供給とも関係があり、国際市場に委ねると価格が不安定になる、との考えがある。食糧価格は市場のメカニズムに委ねてはいけない、との考えだが、それは江戸時代の大坂商人よりも市場経済を理解していない。 江戸時代には「大坂堂島米会所」▲というコメの先物市場が機能していた。それを現代風にアレンジすれば 「キャベツ帳合取引所はいかがでしょうか?」▲となる。
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<反戦運動> 厭戦気分の高かったのは第1次大戦後のフランスだった。その厭戦気分がナチスの台頭を許してしまった。「フランス政治の混乱」▲および「フランスの厭戦感情」▲で書いたように、「とにかく戦争はイヤだ」がヒットラー、ムッソリーニ、フランコ、関東軍の暴走を助長した。 ゲーム理論的進化論の立場に立つと、「ハトばかりの国民がタカの進出を食い止められなかった」ということだった。場合によっては 「国家は人を殺さねばならぬ」▲ときがあるし、武力行使が有効な解決方法と考えられる場合もある。 イラク問題に関しては立場によって捉え方が違ってくる。「アメリカ軍とパパラッチのジレンマ」▲を参照のこと。外交問題としての瀬戸際外交については<補足>▲および<ゲームの理論━━瀬戸際戦略>▲および 「小泉首相と金正日のジレンマ」▲を参照のこと。 また「憲法9条を守れ」と主張するならば、自衛隊をなくした後の「日本の安全保障」▲をどうするのか?例えば「在日国連平和維持軍」▲のような答えを用意すべきだ。
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<主な参考文献・引用文献>
『農業は「株式会社」に適するか』                         宮崎俊行 慶応義塾大学出版 2001. 4.20
『自由のためのメカニズム』 アナルコ・キャピタリズムへの道案内 D.フリードマン 森村進他訳 勁草書房     2003.11.25
( 2004年7月5日 TANAKA1942b )
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民主制度の限界
(11)リベラル、アナーキー、リバータリアン
<デモクラシーをどう評価するか?> このホームページでの「デモクラシー」の捉え方は、タイトルの下に引用した2人=チャーチルとハイエクの表現に代表されるように「不完全な制度だが、これに勝る制度はない」との考えで、こうした態度を「功利主義」と呼ぶ人もいるようだ。 世の中には本当に色々な考え方があって、こうした「功利主義」とは全く違った立場の人たちもいて、民主制度をどのように見ているのだろうか?が気になるところだ。そこで視野狭窄にならないようにと、いろんな意見を聞いてみることにした。リベラル、アナーキー、リバータリアン等という言葉から連想される考え方も取り上げてみることにした。
<チョムスキーのデモクラシー論> アメリカの言語学者ノーム・チョムスキーは「9・11 アメリカに報復する資格はない!」のような主張でブッシュ政権を批判している。その主張には、日本でも共鳴する人も多いようで、多くの著書が出版され売れている。 ここでは、チョムスキーがデモクラシーをどのように評価しているか?対談形式で書かれた著書から引用しよう。
 チョムスキーさん、「民主主義は、人間がこれまで見出した社会体制のなかでいちばん欠点の少ないものだ」という見方には賛成なさいますか。
 最良のシステムです。「いちばん欠点の少ない」ではなくて。あのマハートマ・ガンジーが言ったという、有名なセリフがあるでしょう。あるとき、西洋文明をどう思いますかと訊かれて、ガンディーがこう答えたというのです。「ああ、それはよい着想かもしれませんね、ひとつ、 ほんとうにそういうものを創りだしてみたらいかがですか……」。民主主義についてもこれと同じことが言えそうです。西洋文明と同じように、民主主義というものは一応は存在しているけれども、まだその公約した目標のすべてを実現してはいません。 民主主義を広めようとする民衆と、なんとかそれを抑えようとするエリートのあいだに戦いがくり広げられています。企業の力の増大と{最近の}通商条約は、民主主義を抑えようとする狙いをもっています。
 でも、民主主義が最良のシステムだとしますと……。
 民主主義ということばの意味次第です。すべては。いわば公式見解といってよい理論がありましてね。これはヨーロッパよりも米国で広まっていますが、それによると民主主義とは、ひとびとが役者でなくて観客として参加するシステムであるというんですね。ひとびとは定期的に投票箱に一票を投じて、指導者層のなかから、自分たちの導き手を選出する権利をもっている。 投票が終わると、ひとびとは自分の家に帰ってめいめいの仕事に戻り、ものを消費し、テレビを観て料理を作り、ひとつとくに大切なこととして、人に迷惑をかけないようにする。そういった存在とみなされているわけです。これが、民主主義なのです。
 それにひびが入るときの[権力側の]反応がおもしろいですね。たとえば、1975年に三極委員会が公刊した最初の研究書、『民主主義の危機』という本は、ヨーロッパで話題になりましたか。どうも、こういう調査研究が出ると、ヨーロッパよりも米国のほうがはるかに活発な反応を示すような気がします。
 そうしますと、チョムスキーさんは、ヨーロッパは無気力・無関心であるというふうにご覧になっているわけでしょうか。
 ヨーロッパのひとは、ヨーロッパに政治・社会問題に積極的に取り組む知識人がいると思っていらっしゃるようですが、何人かの例外を除くと、現実はかなり違います。 いままでの社会の進歩は、知識人のもたらしたものなどではなくて、なによりも民衆のパワーがもたらしたもの、多くの場合、労働者階級の組織がもたらしたものです。
 実際、60年代には、世界中ほとんどいたるところ──ヨーロッパ、米国、日本など──で、大きな反体制運動が起こりました。リベラルな(米語のリベラルです)エリートたち、そして社会民主党系のエリートたちは、この動静に不安を覚えました。三極委員会が生まれたのは、こういう情勢を背景としてのことだったのです。この委員会のメンバーは、いま言ったようなエリートで構成されているのです。 つまり、米、日、欧の企業の大物経営者、政策決定に参与する立場のひとたち、そして、知識人です。彼ら自身は国際協調主義のリベラリズムのなかで、「第三の道」の信奉者の立場を自認しています。(中略)
 ヨーロッパで「緑の党」のような政党が出現しているのを評価なさいますか。 
 評価すべきかもしれませんが、ことはそう単純ではありません。ナチスのことを考えてみてください。ナチスもやはり環境問題を気にかけていましたよ。国家社会主義のなかには、非常に顕著なエコロジー的思潮が存在していたのです。その結果はあまり幸福なものではなかったわけですが……
「緑の党」が今後どういう方向へ向かうかは、市民が監視の目を離さず見守り続けるかどうかにかかってくるでしょう。
 労働組合というものをいまでも信じていらっしゃいますか。
 原則的には、信じています。労働組合は、民主主義の発展にとって決定的な役割を演じましたし、貧しいひとたちが団結して集団として行動しうるまれな場所のひとつです。だいたい、それだからこそ、支配者層とメディアが狙いをつけているのです。
 米国の労働組合は活発なのでしょうか。
 ここ数年ずっと、組合は攻撃を浴び続けています。組合への加入者はぐっと落ち込み、賃金労働者全体の15パーセントにまで減少しました。しかしいまはすっかり安定をとり戻して、再出発の機運がみられるといったところです。
 社会階級の観念はいまでも妥当なものだとお考えでしょうか。
 社会は進歩しましたが、しかしそういう基本的概念は依然として有効です。たしかに社会構造や階級構造が変化したのは事実です。けれども、いくつかのグループが独占している利益とか、さまざまの支配の上下関係、社会的な階層構造や「政策」決定における上意下達の構造などは少しも変わらず、旧態依然たるものがあります。そうしたものが階級闘争を生むのです。 (「チョムスキー、世界を語る」から)
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<ジョン・ロールズの正義論> 功利主義を批判する代表格がこのジョン・ロールズだ。その考えに影響されて、アメリカではアファーマティブ・アクション(affirmative action )と言われる差別撤廃処置=弱者保護の法律がいくつか成立している。そのジョン・ロールズだが、民主制度についてどのように言っているのか?「正義論」からは適当な引用部分が見つからないので、他の人が書いたものから引用することにした。
 ロールズは2つの理由から。「公正としての正義」という彼の理論を提起している。第1に、それが意図しているのは、ジェレミー・ベンサム(1748-1832)の時代以来、政治的自由主義者の間では支配的な道徳哲学であり続けた功利主義とは別の選択肢となりうる体系的理論であることである。ロールズの考えでは、過去の自由主義者は、主として怠慢から功利主義へと向かった。なぜなら道徳に関するその他の体系的な説明は存在しなかったからである。 しかしロールズの考えでは、功利主義は、多くの理由から、自由主義の政治的見解とはうまく一致しない。
 (1)功利主義は、政治的自由に不安定な正当化を与えるものでしかない。なぜなら功利主義が、全体の福祉を最大化するために自由の削減を求めたり認めたりするような状況を、特に非常事態というわけでもなくても考えることができるからである。
 (2)われわれが社会正義という問題について考える場合に行う推論は、功利主義的な正義のものであるとは思われない。 たとえば、功利主義者は、奴隷制が不正義であるのは、奴隷所有者が得る利益が奴隷が被る不利益と釣り合わないからである、と論じる。しかしわれわれは、奴隷所有者が奴隷制から得る利益がいかなるものであっても、それはいわば道徳的に不適切であるのだと考える。つまり奴隷所有者が奴隷制が施行されていることから得る利益は、いかなる点でも、功利主義者がほのめかしているような奴隷制の不正義を軽減するものではないのである。
 (3)功利主義は、論争の余地の多い哲学理論であるため、われわれが暮らしているような社会、つまりその成員の道徳的、哲学的、宗教的見解に大きな相違がある社会においては、実際問題として正義の問題を解決するための基礎となることはできない。端的に言えば、ロールズは自由主義者が抱いている政治的見解と彼らが伝統的に信奉してきた道徳的・哲学的見解のあいだには不一致があると考えているのである。彼が望んでいるのは、功利主義に頼ることは必要なことでも魅力的なことでもないと感じられるような理論を提供することである。
 ロールズが正義の理論を提起する第2の基本的な理由は、現代の立憲民主政体のなかで、哲学的であっても実践的な方法で、平和と友好を促進するためである。彼の理論は2つの方法でそのことを果たすよう意図されている。
 (A)それは、自由の要求と平等の要求を比較考量して処理しなければならない論争の余地ある問題について、市民相互の間に同意を作り出す助けとなることを期待されている。市民間の基本的なレベルの同意を発見することが目指されているのである。
 (B)それは、政治秩序がいかに市民の道徳的人格に完全に合致したものであるかを示すことによって、個々の市民にとってその秩序が合理的なものであるようにすることが期待されている。 市民の自分自身についての構想と彼らが参加する社会の構造との間に明確な関連性を作り出すことによって、そうした課題を果たすことが目指されているのである。ロールズは、こうした目的の両方を「調停」型と呼んでいる。平和と友好を達成することは、市民と市民との間の調停を成し遂げることであり、政治秩序を合理的なものにすることは、市民と国家の間の調停を成し遂げることなのである。 (「岐路に立つ自由主義」ジョン・ロールズの自由主義 マイケル・パカラック から)
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<ノージックの最小国家論> プルードン、バクーニン、クロポトキンと続き、マルクス、エンゲルスの共産主義と労働者階級の主導権を争っていたアナーキズム。しかし現代ではかつての勢いは感じられない。一部の人たちはロッジデールの現代版を目指して協同組合運動に走り、多くは運動からは遠ざかりアナーキスト、リバータリアンとして文章の中に生きている。 そうした状況で、「徹底的に個人の自由を尊重しよう」との考えでは、「アナーキー・国家・ユートピア( Anarchy,State,and Utopia)」を書いたロバート・ノージックがよく知られている。 そこで「アナーキー・国家・ユートピア」の「序」から一部引用しよう。
 諸個人は権利をもっており、個人に対してどのような人や集団も(個人の権利を侵害することなしには)行い得ないことがある。この権利は強力かつ広範なものであって、それは、国家とその官吏たちがなしうること──が仮にあるとすれば、それ──は何か、という問題を提起する。個人の権利は、国家にどの程度の活動領域を残すものであるか。本書の中心的関心は、国家の本質、適正な国家の機能、国家の正当性(それがあるなら)にあり、研究の過程で広い範囲の多様な主題が絡み合ってくることになる。
 国家についての本書の主な結論は次の諸点にある。暴力・盗み・詐欺からの保護、契約の執行などに限定される最小国家は正当とみなされる。それ以上の拡張国家はすべて、特定のことを行うよう強制されないという人々の権利を侵害し、不当であるとみなされる。最小国家は、正当であると同時に魅力的である。ここには、注目されてしかるべき2つの主張が含意されている。即ち、国家は、市民に他者を扶助させることを目的として、また人々の活動を彼ら自身の幸福(good)や保護のために禁止することを目的として、その強制装置をしようすることができない。 (「アナーキー・国家・ユートピア」から)
 このような考えで書かれた「アナーキー・国家・ユートピア」を、1991年に出版された「ノージック」と題された本で、ジョナサン・ウルフは次のように紹介している。
 最近20年間近く、分析的政治哲学の論争は2つの大いに対照的な著作によって支配されてきた。ジョン・ロールズの『正義論』とロバート・ノージックの『アナーキー・国家・ユートピア』がそれである。ロールズは1971年に、リベラルな平等主義の一形態の弁護を提出し、ノージックは1974年に、自由尊重主義[libertarianism.「自由市場主義」とも訳される]──自由市場、絶対的所有権、「最小国家」──を弁護して論じた。 ロールズとノージックの両方に応えて、膨大な量の批判的文献が生まれた。しかしロールズとは違って、ノージックはアカデミックな政治哲学者の中にほとんど追従者を得なかった。それにもかかわらず実際政治においては、この10年ばかり、ロールズが弁護した左翼福祉主義からの離脱の動きが見られた。ノージックの方が今日の政治的精神に近いように思われる。
 この2つの著書は、内容だけでなくスタイルにおいても著しく異なっている。ロールズが読みやすい著作家だと言う人はめったにいない。そして『正義論』は入念な、限定だらけの仕方で書かれ、おかげでロールズ自身認めているように「ページ数だけでなく内容も膨大な本」になっている。『アナーキー・国家・ユートピア』は、これに対して意図的に「けばけばしく」挑発的である。ノージックはいつも鮮やかな例や記憶に残る表現を発見するように思われる。 彼が宣言する目的の一部は読者を動揺させることにある。読者の気分に従って、『アナーキー・国家・ユートピア』はしばしば愉快にも不愉快にもなりうる。だがそれは読者を引きつけずにはおかない。 (「ノージック」から)
 ではそのノージックはデモクラシーをどのように評価しているのだろうか?その質問に対してピッタリの答えが見つからないが、ノージックの著作から、チャーチルやハイエクとは違った政治・経済観を引き出してみよう。
 ノージックは、いわゆる夜警国家を積極的に正当化して、現代の福祉国家や社会主義国家を批判する。ノージックは、道徳的に正当化できる国家は「暴力・盗み・詐欺からの保護や契約執行などに任務が限定された」国家だけであり、福祉国家や社会主義国家は「特定のことを行うように強制されない」という人々の権利を侵害していて、道徳的に正当化できない、とされる。 
 (1) ノージックはまず、「そもそも何らかの国家が存在しなければならないのか?」という問題を取り上げる。この問題は「国家はいかに組織されるべきか?」という問題に先行するものであり、この問題設定がノージックの議論の大きな特色の一つになっている。そしてそのノージックの考えは次のようなものだ。個人は「同意なくして生命・身体・財産を侵害されない権利」をもっている。この権利を守るために「私的な権利保護協会」を作り、これに費用を払って権利の保護・実行を委託する。この「私的な権利保護協会」が独占的な権利を持ったとき、これを「最小国家(minimal state)」と呼ぶ「夜警国家」となる。
 (2) 次にノージックは、正当化された最小国家以上のの機能持つ「拡大国家(extensive state)」が正当化されるかどうかを論ずる。ノージックは、この拡大国家が所得再分配する権限を否定する。ジョン・ロールズの格差原理による所得再分配は、国家が強制的に個人の財産を奪うもので「強制労働とかわるところがなく」、社会的弱者の救済は、「国家が強制的に行うべきではなく、個人の自発的な行為に委ねられるべきだ」と主張する。 (「現代の法哲学者たち」から)
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<ノージックとロールズ> ロールズは「正しい社会には2つの正義原理が適応される」と主張し、それを次のように定式化した。
第1原理 各人は、すべての人の同様な自由の体系と平等な基本的自由の全体系を最大限度までもつ平等な権利を有するべきである。
第2原理 社会的、経済的不平等は、それらが次の両者であるように取り決められるべきである。
 (a) 最も恵まれない人の便益を最大化すること。 
 (b) 公平な機会の均等という条件の下で、すべての人に解放されている職務や地位に付随していること。
 第1原理──自由原理──は第2原理に対して「辞書的優先性」をもつとされる。経済的正義の問題に目を向ける前に、この原理が満たされなければならない、という意味だ。言い替えれば、(深刻な欠乏という条件下に置かれているのではない限り)経済的満足の増大のために人々の基本的自由を削除することは正当化されない。 第2原理(b)は、「格差原理」として知られている。ロールズの中心的主張は、もし人々が直接的あるいは間接的に、自分に有利なような偏見を与えるような事柄──知的レベル、社会的地位、人種、性別、等々──について無知であったら、これらの2原理が自らの社会を規制することを選ぶだろう、というものだ。このようにして、この2原理は社会を組織するための不偏的な、そしてまた公正な基礎を提供することになる。
 ロールズにとって正義の問題は、社会を「相互利益のための協働事業」と見なすところから生じてくる。人々が協働するとき、彼らは新たな義務を引き受ける。同時に、協働なしには不可能だったものを作り出すことにより、新たな利益を生み出す。分配の正義とは、こうした社会的生産物とそれがもたらす負担の公正な分配の問題である、とロールズは指摘する。さらにロールズは言う。不平等は許容できる。しかしそれは全生産量を大きくするのにそれが役立つ場合だけに限られる。例えば、生産性向上が見込まれる場合だ。 不平等が存在してよいのは、それが全体の利益に照らして許される場合に限られる。したがって、最も暮らし向きの悪い人々の状況を、向上させる場合に限り、不平等は許される。これがロールズの主張だ。
 ノージックはどのように言っているか?@格差が社会制度から起こると考えるなら、「犯罪から起こるコストを、犯人に帰さずに社会全体に拡散させることになる」と批判する。つまり自己責任を強調するわけだ。 A人生のスタートにおいて資産は平等であるべきだ、とのロールズの主張を批判する。何かに対して権利をもつためには、それが功績に応じたものである必要はない。「社会的運の偶然性」を拭い去ろうとすべき根拠はない、と言い切る。Bロールズの格差原理は各個人の個性を侵害する、と主張する。恵まれない人のために、として他の人の資産を強制的に税金として集めるのは、個人の人格や個性を認めないことに等しい、と批判する。この批判は「ロールズは人格の別個性を重視しない点で、ロールズが批判する功利主義者と同じ過ちを犯している」という批判になる。 (「ノージック」から)
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<主な参考文献・引用文献>
『9.11 アメリカに報復する資格はない』          ノーム・チョムスキー 山崎淳訳 文芸春秋社   2002. 9.10
『チョムスキー、世界を語る』 ノーム・チョムスキー、D.ロベール、V.ザラコヴィッツ 田桐正彦訳 トランスビュー 2002.10. 5
『正義論』                          ジョン・ロールズ 矢島鈞次監訳 紀伊國屋書店  1979. 8.31
『ロールズ「正義論」とその批判者たち』    Ch・クカサス Ph・ペティット 山田八千代ほか訳 勁草書房    1996.10.14
『アナーキー・国家・ユートピア』               ロバート・ノージック 嶋津格訳 木鐸社     1992. 8. 6
『ノージック 所有・正義・最小国家』        ジョナサン・ウルフ 森村進・森村たまき訳 勁草書房    1994. 7. 8
『現代の法哲学者たち』                               長尾龍一 日本評論社   1987. 8.10
( 2004年7月12日 TANAKA1942b )
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民主制度の限界
(12)アナルコ・キャピタリズム、アナルコ・サンディカリズム
<アナルコ・キャピタリズム> リバータリアンとしてここではデイヴィッド・フリードマンを登場させよう。父ミルトン・フリードマン譲りの自由主義者が若いとき書いた著作からの引用だ。
 本書の大部分は1967年から初版刊行の1973年の間に書かれた。時々誰かが、通常はオンラインで、私にこう質問する。私は今でも本書の主張を信じているのか?それとも私は若いころの極端な見解を捨てたのか? それに対する答えは、「私はそれらの見解を捨ててはいない、もっともいくつかのケースについてはそれを深化させたと考えたいが」というものだ。
 私の政治的見解は自然で自明なものと思われる──私にとっては。私の見解を奇妙だと考える人々もいる。私の見解が奇妙である理由の大部分は、政治的弁論の中で十分におなじみのいくつかの言明を、その自然な結論にまでつきつめているという点にある。
 多くの人々が信じていると自称しているように、私も自分自身の行き方を決める権利──自分自身の仕方で地獄に行く権利──を持っていると信じている。左翼の多くの人々のように、私はすべての検閲は廃止されるべきだと結論する。またドラッグ──マリファナ、ヘロイン、あるいはいかさま医者のがん治療剤──を禁止するすべての法律は廃止されるべきである。 自動車にシートベルトを取り付けるよう要求する法律もそうである。
 私の生活をコントロールする権利は、私が欲しいものをすべてただで持てるという権利を含まない。私がそれをできるためには、私が手に入れるものの代金を誰か別の人に支払わせるしかない。良質の右翼人士と同様、私は納税者から強制的に取り上げた金銭を使って貧しい人々を支援する福祉プログラムに反対する。
 私はまた関税や補助金やローン保障や都市再開発や農産物価格補助──要するに、しばしば貧しい納税者から強制的に取り上げた金銭を使って、しばしば金持ちである貧しくない人々を支援する、はるかに一層多数のプログラムのすべて──にも反対する。
 私はアダム・スミス型のリベラルである。あるいは現代アメリカの用語法によれば、ゴールドウォーター型の保守派である。ただし私はレッセフェールへの傾倒をゴールドウォーターよりも徹底させている──それがどの程度かは、以下の本文で明らかになるだろう。私は時々自分をゴールドウォーター型アナキストと呼ぶ。
学校を売却する 
今年最も注目を集めたなぞなぞ──公立学校はどこがアメリカ郵政公社と似ているか?答え──両方とも非効率的で、年を追うごとに費用がかさむものであり、果てしなく続く不満のタネであるが、それについてはいまだ何もなされていない。要するに、それは典型的な政府独占である。郵政公社は法的独占である。つまり、第1種郵便物を営利目的で配達することは誰にもできない。公立学校は州や地方政府からの資金による独占である。 助成金を受けていない私立学校が公立学校と競うためには、単に優れているだけではなく、その顧客たちが自分たちの負担した金額をあきらめるほど優れていなければならない。
 簡単な解決方法が存在している。それは、政府が学校を助成する代わりに教育費を助成するというものである。これは、バウチャー・システムによって簡単に遂行することができるだろう。このシステムでは、各学校が州から授業料バウチャーを受け取る。そして、このバウチャーは公立であれ、私立であれ、宗教系学校であっても、基準を満たす、すべての学校で引き換えることができる。 バウチャーの値段は州が支出する一人当たりの教育費に相当する。公立学校システムは、生徒からバウチャー形式で得られる収入によって運営していかなければならない。私立学校や宗教系学校は、追加の授業料や慈善募金、教会の収入でバウチャーを補うこともできる。
 こうして、学校システムは本来の競争へと開かれることのなるだろう。より低いコストでよりよい教育を提供する方法を見出した教育企業家が金を稼ぎ事業を拡大する。他方、私立学校だけでなく公立学校もその競争相手となり、事業の改善を図るか廃校する必要も出てくるだろう。このような企業家は、優秀な教師を捜し出してそれに見合う報酬を支払う、最も高いインセンティブを有している。さまざまな教授法が試みられ、失敗したものは消滅し、成功したものは模倣されるだろう。 (「自由のためのメカニズム」から)
 教育バウチャーについては多くの経済学者が推奨している。その割に基本的な事柄ばかりで、具体的なものがあまりなかった、と思いつつ少し書いてみた。 新春初夢、30年後の日本経済の中で <教育予算の内容が変わり、学生・生徒獲得競争が始まった>及び<教育の民営化が進む>▲をお読み下さい。この教育バウチャーが取り上げられると、一緒に「負の取得税」が取り上げられる事が多い。これに関しては <新しい所得税法>▲を読んでみてください。
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<アナルコ・サンディカリスム> 20世紀初頭にフランスからスペインに入ってきたアナルコ・サンディカリスムは、1911年に全国労働者連合(CNT)を結成した。紆余曲折はありながらもスペインでは根強い支持を得ていた。しかし1936年7月17日、モロッコでフランコが反乱を起こした事から始まったスペイン内戦(<フランコのスペイン>▲<スペイン戦争>を参照)で、一時的に共存していたアナーキストとコミュニストがその後離反し、モスクワ、コミンテルの支持を受けた共産党からも攻撃を受け、1937年8月頃から守勢に立たされ始めた。この反フランコ側の主導権争いは陣営内の結束を弱め、CNTにとっては戦争とともに革命をも失う原因となった。その後フランコ時代を通じてCNTは完全に力を失った。 両大戦間フランスではアナーキストよりも共産党の影響力があった。大きなゼネストを決行し1936年6月4日、社会党のレオン・ブルムを首相とする人民戦線内閣を誕生させた(共産党は閣外協力)<人民戦線内閣の誕生>▲。1934年10月からフランス共産党の機関誌、リュマニテが使い始めた「人民戦線=フロンポピュレール(Front populaire)」がこの時代のキーワードとなる。 このような赤く燃えた時代も、ナチズム▲、ファシズム、スターリニズムで冷やされソ連をはじめとする社会主義崩壊に伴って遠い昔の出来事のように思われてきた。
 アナルコ・サンディカリズムは昔からある土着の思想で、「放っておくと消え去るのでボランティアで保護しよう」との呼びかけがありそうな、ちょうど消え去りそうな古典芸能のように思われた。ところがどっこい、このアナルコ・サンディカリズムは現代でも生きている。 1977年10月、ペトリカメラが倒産した。ユニークな普及型一眼レフカメラはそれなりの評価を得ていたし、国内よりも海外でも好評を得ていた。しかしユニークなメカニズム故に無理も多く、故障も多かった。倒産後、労働組合は倒産を認めず、自主操業を開始した。経営者がいなくとも、労働者が自主的に運営すれば経営的にやっていけると考えた。 経営者性悪説をとって「経営者は不当な利益を得ている。そのムダをなくせばやっていける」と考えた。しかし経営破綻は「経営者性悪説」では説明がつかなかった。一時マスコミで好意的に取り上げられたが、時と共に忘れ去られていった。
 埼玉県大宮市でカメラの大西が倒産した。店の労働組合員が店を続けようとした。馴染みの客が応援して、テレビにも取り上げられ、うまくいくかのように思われた。しかし、ペトリカメラ同様長くは続かなかった。悪意もなく、人を差別したり、搾取しなければやっていけるだろう、との素人感覚もお遊び程度なら実害はない。しかし、その幻想も家族の生活に関係してくると全くの無害、とは言えなくなってくる。
 ハートが赤く燃える20代、リベラリストの中には「資本主義体制にあっても労働者が主体になって経済を動かすことができる」との幻想をを抱く者が出てくる。ところが30歳過ぎてからも幻想を抱く人が出てくる。30歳前にリベラリストであれば、リベラリズムの限界を知っていたはずだ。30歳前にリベラルでなかったために、リベラリズムの限界も民主制度の限界も分からずに過ごしてきて、30歳過ぎてから社会主義に憧れた人が間違えを起こす。頭がないことが問題だが、30歳前にリベラルでなかったことも原因だろう。 30歳前にリベラルでなかった者が、収入が多く豊になって、社会の矛盾にやっと気づき、市民運動を始める。ハートが熱く燃えたこともなければ、頭もない。同じ感覚、同じ価値観、同じ宗教観を持つ者が、「外部社会に影響を与えずに、自分たちだけで楽しむ運動」であれば、外部の人はこれを無視すればいい。しかし、「社会に貢献している」と思い上がって、外部社会に影響を与え始めると問題が起き始める。
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<宗教に救いを求める人たち> 一般人とは違った価値観で、閉鎖的な社会の中で生活する宗教が、豊かな先進国でも話題になることがある。特にカルト集団と言われる宗教団体の中には集団自殺をしたり、オウム真理教のような事件を起こしたり、民主制度の中にあって理解しにくい行動を起こすことがある。 そのいくつかをピックアップしてみた。
1978年11月18日、南米ガイアナでジム・ジョーンズ( Jim Jones)を教祖とするカルト集団、人民寺院(Peoples Temple)の信者914人が青酸カリを使って集団自殺をした。
1993年4月19日には、デビッド・コレシュ(本名バーノン・ハウエルVernon Wayne Howell)を教祖とする、カルト集団ブランチ・ダビディアンの信者ら77人(87人との説もあり)が、FBIとの銃撃戦の末、焼身自殺をした。
1997年にカリフォルニア州サンディエゴでは、カルト集団組織ヘブンズ・ゲートの信者ら39人が集団自殺している。この教団の教義は「ヘール・ボップ彗星とともに地球に接近する宇宙船に乗り込み、別世界で再生する」だった。
1994年(平成6年)6月27日松本サリン事件、1995年(平成7年)3月20日地下鉄サリン事件、1996年(平成8年)6月7日松本智津夫逮捕。オウム真理教については多くのホームページで扱っているので、ここではこれ以上詳しいことは扱わないことにしよう。
 上記の教団はマスコミでも取り上げられ、世間に知られているが、一般人の感覚とは違う価値観をもった宗教団体は多い。特別な価値観をもった少数者の集団の中に入ると、精神的に安心するのだろう。宗教団体だけでなく、産業界でも他の産業とは違った価値観があったり、閉鎖的な業界になったりすることがある。 談合が異常ではない土木・建築業界、外国の資本を拒否するマスコミ業界、土の匂いのしない人たちの意見は聞かない農業界、あるいは素人さんとはまるで違う価値観を持つ怖いお兄さんたちの集団、などなど……世間一般とは違った価値観の中で暮らしていると、なかなかそこから抜け出せない。そうした自分の態度を正当化するには「グローバリズム反対」とか「F1ハイブリッド、GMO反対。在来種を守ろう」を唱えることになる。 民主制度ではこうした団体が存在することも否定しないし、「少数者の権利を守れ」と擁護する人権派も出てくることがある。民主制度は、その制度を否定する発言の自由も保証し、実害が出ない限りそうした集団の活動も制限しない。先に挙げた「ハトとタカの社会」を例に取れば、構成員の多くはハトであっても、その社会の中にはタカもいるし、カラスもスズメもコンドルももしかしたら始祖鳥に似た鳥もいるかも知れない。 少なくとも「話せば分かる善意の人たちばかりの社会」ではない。このような雑多な価値観が混在している社会なので、「人々が心を一つにして」などとは望むべきではないし、「人々の価値観が変わらなければ解決しない」などとは言わないことだ。もしろ雑多な価値観が混在しているから、F1ハイブリッドや雑種強勢などが期待でき、自家不和合性の恐れもない、と喜ぶべきだろう。
 「いまや世界一の黒字国・債権大国にのし上がった日本。しかし、ここで暮らす私たちにとって、そのような生活感は乏しい。それどころか海外からは閉鎖的で黒字をかせぐ異質の国と映って、叩かれ続けている。どうしてこんなことになってしまったのだろうか?」このような感想がある。上記宗教団体の信者はこのような感想をどのように感じるのだろうか?そうして、このような信者を抱える社会では、こうした自虐的な感想はどのように受け取られるのだろうか? あるいは、イラクの人たちは?アフリカの最貧国の人たちは?あるいはアジアでアジアの兄貴分日本を見習って、高度成長へ向かっている人たちはどのような感想を持つのだろうか?このような自虐的な感想を書いて出版するということは、「日本は平和で、豊かな社会なのだ」と思う。
 このホームページでは以前、<百姓一揆は命がけの暴動なのか?>▲<ヨーロッパの一揆は命がけの暴動>と題して「百姓一揆は無責任な子供たちの散発的なかんしゃくのようなもの」とか「子供のいやいやとしか映らないような一揆があったらしい」と書いた。
 江戸時代百姓一揆が数多く起きている。このことから「幕府の悪政・圧政にたいして各地で農民が立ち上がった」「一揆を起こす百姓は常に正しく、かつ歴史の進歩を体現する。他方これを弾圧する封建的領主階級は歴史の大勢に逆らう反動勢力」と言う歴史の見方、いかにも尤もらしいのだが、それでいいのかな?
 同じ時代ヨーロッパ、イギリスでの農民反乱や大衆運動、1810年代イギリスのイングランド中部、北部の紡績・織布業地帯で起きた一連の工場打ち壊し運動、ラッダイト運動などに比べれば、「百姓一揆は無責任な子供たちの散発的なかんしゃくのようなもの」と感じたのはヨーロッパ人だけの感覚だろうか?
 江戸の同時代人にも、子供のいやいやとしか映らないような一揆があったらしい。1812(文化9)年に近くで起きた一揆について、凶作とか困窮とかいった具体的な原因もなく起きたものだと、多少の不審と軽蔑の念をにじませた感想を残している。「コノ時格別ノ凶歳ト云フニモアラス、民ノ窮モ未ダ甚シカラス、只何トナク人気サワキタチタルナリ」(広瀬淡窓「懐旧楼筆記」)
<マインド・ウィルス=ミーム> 上記<宗教に救いを求める人たち>を普通とはちょっと違った立場からみると、こういう見方もある。リチャード・ドーキンスがその著書「利己的な遺伝子 (The Selfish Gene)1976 」で使い始めた「ミーム (meme)」という概念を使って、リチャード・ブロディがカルト集団について書いているので、その一部を引用しよう。
 1978年ガイアナの小さな村で、深い結びつきをもった人々の集団(訳注:カルト集団ピープルズ・テンプルの913人)が、ある目的でシアン化物と精神安定剤とフラボレイドの混合物を飲んで自殺した。彼らは少なくとも死ぬということは知っていた。そのほかに何を考えていたかということについては推測するしかない。
 彼らは来世でいまよりもはるかにすばらしい報いが待っていると分かっていたのだろうか。彼はリーダーであるジム・ジョーンズの命令に従うことが義務であると信じていたのだろうか。彼らは信仰を続ければすべてが良い方向に動くと信じていたのだろうか。少なくとも、彼らが信じていたことが彼らを傷つけたことは明らかである。彼らは本能から毒を飲んだのではない。彼らは死の結末へ導くミームのプログラムに従ったのである。
 なぜペプシは何百万ドルも使ってコマーシャルを流し、「アーハ?」と際限なくくり返しながら製品を飲む人たちを映しつづけるのだろうか。なぜ風変わりな話が「都会の伝説」として永遠に語りつがれるのだろうか。なぜチェーンレターが世界中を渡り歩き、およそ止まることのないように見えるのだろうか。
 これらの疑問に対する答えは、すべてマインド・ウィルスに関連している。心は細胞やコンピューターと同じように、ウィルスが生存できる条件をすべて備えている。実際、すばやいコミュニケーションと情報アクセスを持つ私たちの社会は、マインド・ウィルスによって魅力ある宿主として日々向上している。 (「ミーム 心を操るウィルス」から)
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<主な参考文献・引用文献>
『自由のためのメカニズム』 アナルコ・キャピタリズムへの道案内  D.フリードマン 森村進他訳 勁草書房    2003.11.25
『岐路に立つ自由主義』 C.ウルフ、J.ヒッティンガー編 菊池理夫、石川晃司、有賀誠、向山恭一訳 ナカニシヤ出版 1999. 4.20
『現代の法哲学者たち』                               長尾龍一 日本評論社   1987. 8.10
『ミーム 心を操るウィルス』                 リチャード・ブロディ 森弘之訳 講談社     1981. 1.20
『利己的な遺伝子』                   リチャード・ドーキンス 日高敏隆他訳 紀伊国屋    1991. 2.28
( 2004年7月19日 TANAKA1942b )
民主制度の限界
(13)利己的な遺伝子、ミーム
<ミームというウィルスは広まるか?> 先週カルト集団の関して「ミーム」という言葉を使ってみた。「ミームとは心のウィルスである」とは実に適切な表現ではある。しかし確かに当を得ているのだが、それだけでは十分な説明にはなっていない。 かつて物理学で「光は波か?粒子か?」が問題になった時期があった。19世紀初頭には「光が波であるらしい」と思われた。そして、その波を伝えるのに、地球上には光を媒体する物質があると考え、それを「エーテル」と名付けた。 実際にエーテルの存在を確かめた訳ではないが、エーテルがあるとして光の伝達を説明しようとした。これは19世紀後半にマイケルソン・モーレーの実験によってエーテルの存在は否定された。さらにアインシュタインの「光量子仮説」と「特殊相対性理論」によって新たな光の特性が説明されることになった。 さて、このエーテルはこうしてその存在が否定されるのだが、その存在が確かめられなくても、存在するとして仮説を立てることはある。この「ミーム」もそのように考えるといい。つまり、ミームが存在するとは証明できないが、存在すると仮定することによって推論が進めやすくなる。
 動物・植物が進化するのは個体の利己主義ではなくて種の利己主義だ、とは個の利己主義、種の利己主義▲で書いた。「種の利己主義」がすなわち「利己的な遺伝子」と表現される。 このミームという概念は今後、人間社会の学術・芸術・習慣・ファッション・消費行動・政治学・経済学など多くの研究分野で利用されるだろう。ちょうど少し前に扱った「ゲーム理論」のように、この「ミーム」も多方面で利用されるに違いない。TANAKAも政治・経済の分野で使っていこうと思う。
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<「利己的な遺伝子」から> 実際に存在するものを説明するには、実物を見せればいい。あるいは「◎◎へ行けば見ることが出来るよ」と言えばいい。しかしミームにはそうした説明は通用しない。そこでいくつかの説明の仕方を用意することになる。先ずはドーキンス。 その著書「利己的な遺伝子」で初めて「ミーム」という言葉が出て来たページから引用しよう。
 そもそも遺伝子の特性とは何なのだろうか。自己複製子だというのがその答えである。すべての生物は自己複製を行う実体の生存率の差に基づいて進化する、というのがその原理である。 自己複製を行う実体としてわれわれの惑星に勢力を張ったのが、たまたま、遺伝子、つまりDNA分子だったというわけだ。しかし、他の物がその実体となるこのもありえよう。かりにそのようなものが存在し、他のある種の諸条件が満たされれば、それがある種の進化過程の基礎になることはほとんど必然的であろう。
 別種の自己複製子と、その必然的産物である別種の進化を見つけるためには、はるか遠方の世界へ出かける必要があるのだろうか。私の考えるところでは、新種の自己複製子が最近まさにこの惑星上に登場しているのである。私たちはそれと現に鼻をつき合わせているので。それはまだ未発達な状態にあり、依然としてその原始スープの中に不器用に漂っている。 しかしそれはかなりの速度で進化的変化を達成しており、遺伝子という古参の自己複製子は、はるか後方に遅れてあえいでいるありさまである。
 新登場のスープは、人間の文化というスープである。新登場の自己複製子にも名前が必要だ。文化伝達の単位、あるいは模倣の単位という概念を伝える名詞である。模倣に相当するギリシャ語の語根をとれば<mimeme>ということになるが、私のほしいのは、<ジーン(遺伝子)>という言葉と発音の似ている単音節の単語だ。そこで、上記のギリシャ語を<ミーム(meme)>と縮めてしまうことにする。 私の友人の古典学者諸子にはご寛容を乞う次第だ。もし慰めがあるとすれば、ミームという単語は<記憶(memory)>、あるいはこれに相当するフランス語の<meme>という単語にかけることができるということだろう。なお、この単語は「クリーム」と同じ韻を踏ませて発音していただきたい。楽曲や、思想、標語、衣服の様式、壺の作り方、あるいはアーチの建造法などいずれもミームの例である。 (「利己的な遺伝子」から)
<リチャード・ドーキンスが書いた「序文」から> 次に引用するのは「ミーム・マシーンとしての私」にドーキンスが序文を書いているので、そこから引用しよう。
 われわれが無意識のうちに他人、とくに両親、両親に準じる役割を果たしている人間、あるいは崇拝している人物を真似するという事実は、誰でもよく知っている。しかし、模倣が、人間の心やヒトの脳の爆発的な膨張の進化、さらには意識的な自己とされているものの進化をさえ説明する重大な理論の基盤になりうるというのは、本当なのだろうか。 模倣がわれわれの祖先をほかのすべての生物から隔てる鍵だったということはありえるのだろうか。私は決してそう考えたことはなかったが、本書におけるスーザン・ブラックモアは、人をじりじりさせるほど強力な論証をおこなっている。
 模倣は、子供がほかのどこかの言語でもなく自分の国の言語を学ぶ手段である。それは、人々が他人の親よりも自分の親により似たしゃべり方をする理由であり、地方によって異なるアクセントがあり、長い時間のうちに異なる言語が存在するようになる理由である。それは、宗教が各世代ごとに新たに選ばれることなく家系を通じて持続する理由である。少なくともそこには、遺伝子の世代から世代への垂直的な伝達や、 ウィルスにおける遺伝子の水平的な伝達と表面的な相似(アイロニー)がある。この相似が実りあるものであるかどうかという問題に予断を下さずに、もし、言葉、思想、信仰、癖、ファッションの伝達において遺伝子に相当する役割を果たしているかもしれない実体について、いやしくも語ろうと望むのであれば、それに名前があった方がいいだろう。この言葉が造成された1976年以来、しだいに多くの人々がこの遺伝子の相似物に対して「ミーム」という名前を受け入れるようになってきた。 (「ミーム・マシーンとしての私」のリチャード・ドーキンスが書いた「序文」から)
<ネットで見つけた分かりやすい説明> ウィキペディア▲では次のように説明している。 ミーム(meme)とは、文化が「変異」「遺伝(伝達)」し「選択(淘汰)」される様子を進化になぞらえたとき、遺伝子に相当する仮想の主体である。例として災害時に飛び交うデマ、流行語、ファッション、言語など、すべてミームとして捉えることができる。 ミームは、「進化論というアルゴリズムに支配される遺伝子」というパラダイムの、文化への適用という形で提案された。「利己的な遺伝子」(リチャード・ドーキンス 1976)で始めてこの語が用いられ、定着した。ドーキンスは「ミーム」という語を文化伝達や模倣の単位という概念を意味する名詞として作り出した。模倣を意味するギリシャ語の語根 mimeme から遺伝子 gene に発音を似せてミーム meme としたという。以降、進化論・遺伝学で培われた手法を用いて文化をより客観的に分析するための手段として有用性が検討されている。
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<自己複製子としてのミーム> 何かが自己複製子とみなされるためには、それは変異、淘汰、および保持(すなわち遺伝)に基づく進化的アルゴリズムを維持しなければならない。ミームはまちがいなく異変を伴っており──物語が2度まったく正確に同じに語られることはまずないし、2つの建物が絶対的に同じということもないし、あらゆる会話は独特である──、ミームが伝えられていくとき、そのコピーがつねに完璧ということはない。心理学者として、フレデリック・バートレット卿は1930年代に、物語が伝えられるたびに少しずつ潤色され、あるいは細部が忘れられていくことを示している。 ミーム的な淘汰も存在する──ある種のミームは関心をとらえ、忠実に記憶されてほかの人間に伝えわたされるのに対して、まったくコピーされることのないミームもある。そして、ミームが伝えわたされていくとき、そのミームのなかの思想や行動の一部が保持されている──模倣あるいはコピーあるいはお手本による学習と呼ぶためには、もとのミームの何かが保持されていなければならない。したがってミームは、ドーキンスの自己複製子の概念およびデネットの進化的アルゴリズムに完璧に適合する。
 単純な物語を実例として考察してみよう。電子レンジのなかのプードルの話を耳にしたことがおありだろうか?その物語によれば、一人のアメリカ婦人はいつもプードルの体を洗ったあとそれをオーブンで乾かしていたという。彼女がブランドものの新しい電子レンジを手に入れたとき、同じことして、哀れにそのイヌに、痛ましい不慮の死をもたらすことになった。そこで彼女は「このオーブンでプードルを乾かしてはいけない」という警告をしていなかったという理由でメーカーを訴えた──そして勝訴したのだ!
 この話はあまりにも広く知れ渡っていて、何百万というイギリス人が耳にしている──しかし、「レンジのなかのネコ」や「レンジのなかのチワワ」といった別のバージョンを聞いているかも知れない。たぶんアメリカでも。この婦人がニューヨーク出身だったりカンザスシティ出身だったりする、同じようなバージョンがあるかも知れない。これは「都市伝説」の一例で、それが事実であるか否かにかかわりなく、独自の価値または重要性をそなえた生命を帯びるのである。この話はたぶん事実ではないだろうが、真実であることは必ずしも成功するミームの基準とはならない。ミームは拡まることができるのであれば、拡まっていくだろう。
 このたぐいの話は明らかに受け継がれたものである──何百万人が偶然に同じ物語をつくりあげるということはありえないし、話の筋書きが少しずつ変わっていくその変化の仕方を使って、どこでこの話が始まり、どのようにして拡まったかを示すこともできる。そこには明らかに変異がある──元の話がどれか認識できたとしても、誰もが同じバージョンを聞いたわけではない。最後に、そこには淘汰がある──何百万人という人間が何百万という物語を語っているが、その大部分は完全に忘れ去られ、ごくごく少数のものだけが都市伝説の地位を獲得する。 (「ミーム・マシーンとしての私」から)
 上記文章を読んで、いかがでしょうか?理解できますか?「ミーム」という概念を受け入れますか?リベラルとコンサパティブ、右翼と左翼、経済学でも多くの違った立場・主義主張がある。そしてその間に立つ壁はちょっとやそっとでは乗り越えられない事が多い。こうした場合「センスの違い」と片づけるのがいいようだ。人さまざま、説得したり、マインドコントロールしようとしても出来ない、結局「センスの違い」で片づけるしかない場合がある。 「ミーム」を理解できるかどうか?「ミーム」という概念を使いこなすかどうか?人さまざま、受け入れない人もいるかもしれない。「それはそれでしょうがない」と諦めて、それでも話は進めていくことにしよう。
<心のウィルス> ドーキンスは、宗教やカルト──コピーさせるためのあらゆる巧妙な手口を用いて膨大な数の人々のあいだに拡まり、それに感染した人々に悲惨な結果をもたらしうる──のようなミーム複合体に適用するために『心のウィルス』という言葉を造語した。子供たちのゲームや熱狂は伝染病のごとく拡まるが、ドーキンスは、世慣れた大人が簡単に拒絶できるような「心の伝染病」に子供は抵抗力がないのではないか、と述べている。彼は化学のような有益なミーム複合体をウィルス的なものから区別しようと試みた──この問題については、のちに立ち戻るつもりである。
 このテーマは、リチャード・ブロディの『心のウィルス』やアーロン・リンチの『思想の伝説』などのミーム学に関する一般向けの本で取り上げられてきた。この2書はいずれもミームが社会にどのようにして拡がっていくかについて多数の実例を提供しており、またより危険で有害な種類のミームを重視している。今や、ウィルスという概念が、生物学、コンピューター・プログラム、および人間の心という3つの世界すべてに適用できることがわかった。その理由は、これら3つのシステムがいずれも自己複製子を含んでおり、そのなかで役に立たず利己的な自己複製子を特別に「ウィルス」と呼んでいるということである。 (「ミーム・マシーンとしての私」から)
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<新しいパラダイムの誕生> 科学者にとって、自分の考えを一般の人に説明するのはいつも容易ではない。科学は色々な考えを人為的に選択したものである。その選択は科学の性質上、人間の根底にある感情によってではなく、その考えがいかに有用なものであるかを厳密にテストすることによって行われる。したがって新しい科学のアイデアは、はじめは人々に誤って捉えられる傾向があり、いつもおきまりの反応を受ける。1859年にチャールズ・ダーウィンが最初に自然淘汰に関する説を発表したとき、一般人からの反応にはいくつかの段階があった。これらの段階は、革新的なアイディアが人々に受け入れられるまでに、いつも通らなければならないもののようである。その段階とは、つぎのようなものである。
 1 無視と自己満足
 2 あざけり
 3 批判
 4 受け入れ
 私たちの心というものは、どうもそれ自身どのように働いているのかをよく理解できるようには作られていないようでたとえば、あなたが最初にこの本を読んだときに、頭が混乱したり悩んだり急につまらなくなったり、といった症状に陥るかもしれない。あるいは、怒りの感情がこみ上げて来るといったことさえあるかも知れない。 ばかばかしいと思うかもしれないが、こうした感情や症状は、マインド・ウィルスによる実際の防御機能なのである。ウィルスは私たちの心の中で盗みとった部分を守るように進化してきた。そして、その部分を洗い清めようとすると、すぐさま反撃して来るのである。 本書を読むうちにこうした心の反応を感じたとしても、心配はいらない。この本を読み終えれば、そうした反撃は消え去ってしまうだろう。そうなればあなたは自分の未来、さらには人類の未来に対して、強力な武器を持つことになるのだ。 (「ミーム 心を操るウィルス」から)
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<主な参考文献・引用文献>
『利己的な遺伝子』                 リチャード・ドーキンス 日高敏隆他訳 紀伊国屋   1991. 2.28
『ミーム 心を操るウィルス』               リチャード・ブロディ 森弘之訳 講談社    1981. 1.20
『ミーム・マシーンとしての私』   スーザン・ブラックモア R.ドーキンス序文 垂水雄二訳 草思社    2000. 7.18 
( 2004年7月26日 TANAKA1942b )
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