夏草薫る 最終話 赤い櫛(くし)

 雨が上がったのを見てとり、良忠は馬のくつわを取ると、手綱を持った。
「加代、そろそろ参ろうか」
 懐かしい打ち解けた口調になって彼がいい、加代は首を縦に振る。体に手を添えられて、鞍の上へ上がり、横座りになった。
 彼女を抱きかかえるように、良忠も馬にまたがる。
 走り出す馬の背に揺られながら、加代は振り落とされないよう、彼の胸にすがった。
「加代は、良忠さまが好きです」
 地を駆けるひづめの音が、辺り一帯に響き渡っていた。何をいっても、決して彼の耳には届かないだろう。わかっていたからこそ、彼女は告げることができた。
 馬はたちまち坂を登り切り、寺町に入る。
 たくさんの葉が生い茂る、大きな木が道の両側をふさぐ、人気のない辻で、良忠は突如、手綱を絞り、馬を止めた。
「加代」
 名前を呼ばれ、彼の小袖から顔をはがした加代は、良忠を仰いだ。
「おまえのことを話したのが、私の迂闊であった。殿は悪知恵が働くうえ、目ざとく、大変に賢いお方だ」
 良忠は何かのきっかけで、彼女のことを、ふと重久に洩らしてしまったのだろう。
「加代のため、私はいっそう身を粉にして、殿にお仕えすることとなるだろう」
 加代の言葉に対する、偽らぬ返事だった。良忠の羽織を、知らず知らず彼女は、きつく握り締める。
 若くして藩主となった重久にとって、忠義に疑いのない側近を持つことは、重要な意味を持つ。古い藩政にしがみつく歴々の家臣達は、ことあるごとに改革を邪魔するからだ。
 疑念を抱くことなく使える者が必要な重久は、あらゆる手だてを用いて、自分の手足となる新しい家来を育てている。
 加代を側室にしようと決めたのは、良忠の気持ちを即座に見抜いたからだ。彼女を召し上げることで、自分を裏切ることのないよう、良忠に足かせをはめたのだ。
 加代は胸がいっぱいになった。
 中津村の大工事は、恐らく藩政改革への第一歩なのだろう。あまりにも難しいと反対してきた勢力を押し切って、断行することになるからだ。
(そして良忠さまが、きっと工事の指揮をとられる)
 家老の家柄に婿入りすることで、立場も揺るぎないものになるだろう。
 良忠ならきっと、加代が願う立派な藩の御重臣となり、領内の人々を幸せにできると、彼女は信じていた。
 良忠さま、と彼の瞳を真っ直ぐに見つめる。
「加代はきっと、立派な男子を産んでみせます」
 はっきりと口にして、体が震えた。
 江成家を出され、早苗の侍女となったのも、藩主大和守重久の側室となるのも、良忠と加代の間に芽生えた、ある想いがあってこそのことだ。
 良忠は合わせた襟の間から、赤い塗櫛を取り出すと、涙をこらえる加代の髪に差した。代わりに元から差してあった彼女の櫛を、襟裏に収め、手綱をつかむ。
 威勢良く馬が走り始め、二人は間もなく本多和正の屋敷に着いた。
 家士が良忠と加代を出迎え、
「主(あるじ)がお待ちです」
と、上がるよう勧めたが、彼は断った。
「急ぎ殿の元へ参らねばなりません」
 加代どのをよろしく頼みます、と頭を下げ、再び馬上の人となった良忠は、黙って加代にうなずいてみせた。そして深々とお辞儀をする彼女から顔を背け、前を向いたかと思うと、馬を走らせ、もう二度と振り返らなかった。
 家士は身分ある人物へするように、加代を案内した。
 大身の屋敷へ玄関から入ることに臆した彼女だったが、思い直し、背筋を伸ばす。
 式台には本多家の奥方である晴がいて、泥だらけの加代を認めると、下女にたらいを持ってこさせ、水を張らせた。
 玄関で足を洗いながら、加代は着物の裾についていた草を見つけ、指でつまみ上げる。
 雨に濡れ、青々とした葉からは、みずみずしい夏の香りがした。その匂いで胸を満たすと、草をたらいの水に浮かべた。
 下女によって足を綺麗に拭われ、屋敷へあがる。
 加代が歩く板敷きの間(ま)に差し込む、外からのまばゆい光が、彼女の髪に差さる赤い櫛を煌々(こうこう)と照らした。
 水の上を漂っていた草は、そっと底に沈んでゆく。振り返る者は、誰もいなかった。