「なんか、思いのほか、早く着いちまった」

 日向宗家の嫡子として、彼女が客を迎え入れなければならない、午後二時まで、少し余裕がある。

 山中花で、いのから話を聞いたあと、日向家へ赴いたナルトは、その刻限には再び屋敷へ戻るという約束のもと、ヒナタを連れ出したのだ。

「あのね、ナルトくん」

 ここからなら、彼女の家も、そう遠くはない。ぼちぼちと民家が建ち並ぶ、林の小道で、ヒナタを地面へ下ろし、「ん? 何だ?」と、首を傾げた。

「今日の夜……行ってもいい?」
「どこへ?」
「え、えーと……ナルトくんの部屋」
「……?!」

 どくんと心臓が跳ね、思わずナルトは喉を鳴らす。

「ダメ、かな……」

 彼女は赤く染まった頬を両手で覆い、恥ずかしげに目を伏せた。

「本当なら、誕生日はずっと、好きな人と一緒に過ごしたいんだけど……今日のお祝いの席は、次の当主として成人を迎える、節目の儀式でもあるから、絶対に抜け出せないの」

 でも、と直ぐまた、大きな瞳にナルトをとらえ、身を乗り出す。

「夜になったら……片付けを終えて、少しだけ、外出も出来るから……」

 さらさらと、木立が風に揺れる、音がした。

 太陽の光が、生い茂る枝葉の間を通り、大小さまざまな模様となって、ナルトとヒナタのうえに、降り注ぐ。

 返事をためらい、ナルトは思い付いて、あっ、と声を発した。

「そーいや、聞きたかったんだ」
「なあに?」
「ミカンの木を欲しがった、理由だってばよ!」

 身近に置いて長く楽しめるから、という理由で、誕生日のプレゼントは鉢植えがいいと、訪ねて来たナルトに、ヒナタはいった。それならば、と彼女を連れて、山中花へ舞い戻り、店の隅に置かれていた、ミカンの木に目を留めたのだ。

「ホントは、わかってるんだよね?」と、口に指を当てて、くすくすと笑うヒナタへ、ナルトは右手を差し出した。

「決め手は色だな、きっと」

 ニッコリと、目を細めていったナルトの右手に、彼女は左手を添え、「うん」と、うなずいた。

「ミカンの木って、すごく元気で、葉っぱが一年中、鮮やかな緑色なの。それだけでも、すごくナルトくんっぽいのに、オレンジ色の実まで、なるんだよ」

 山中花にあったミカンの木は、注文に応じ、取り寄せたもので、すでに買い手が決まっていた。

 それを知り、肩を落とすヒナタを見て、どうあっても、ミカンの木を手に入れたいと、ナルトは考えた。いのに掛け合い、西の外れにある湖のほとりがミカンの名所だと、教えられた。

 山中花は問屋から仕入れるが、そこへ行けば、露天でミカンの木を売りさばく、一般客向けの店もあるという。

 そこでナルトは、有無をいわせずヒナタを抱きかかえ、ほとんど国境に近い、遠く西の湖まで、走ったのだ。

「オレだって、勘違いもすれば、自惚れもするってばよ! ミカンがオレンジ色っつうダケで、ヒナタはオレを想像して、ミカンの木が欲しいのかなァとか、思っちまうんだからな!」
「だから、それは……」

 向かい合うヒナタの、柔らかい手が、ぎゅっとナルトの手を、握り返してくる。

「勘違いでも、何でもないよ……」

 だったらさ、と空いた、もう一方の腕も伸ばし、ナルトは彼女と、両手を繋いだ。

「ヒナタもわかってるハズだろ。あの誕生日の夜、帰り道で部屋に誘ったのは、そーいうコトを期待したからだってばよ」

 こくりと素直にうなずくヒナタへ、「もちろん、体だけが目当てだったワケじゃねェ」と慌てて言葉を継ぎ足し、顔を近づけた。

「ただ、好きだと……たったひと言、ソレだけがいえなくて、ヒナタを傷付けちまったのは、謝る!」
「それは、お互いさまだよ」

 彼女は肩をすくめ、大人のように微笑んだ。

「今になって、ようやくわかったの。ナルトくんも実は、やきもきしてたんじゃないのかな……」

 へへへ、とナルトが照れ笑いを浮かべ、ばさばさと頭上で音がした。

 あ、と短く声を上げ、二人は同時に天を仰ぎ、真っ白な鳥が大きく羽根を広げ、青い空へ飛び立つのを見た。

「ハト……」

 ヒナタがぽつりとつぶやき、ナルトは視線を前へ戻した。

 顎から胸にかけてのぞく、彼女の無防備な白い肌へと目がいき、どくんと心臓が脈打つ。

 ヒナタを家へ送って行った、誕生日の夜、そうなることを期待して部屋に誘ったと、打ち明けたばかりだ。あの時の感覚が容易に甦り、否応なく、体が動いた。

「ナルトくん?」

 視線を感じたのか、ナルトへ振り向き、不思議そうな顔をする、彼女の腕を引き、一気に距離を縮める。そしてヒナタと、ほんの少し唇がぶつけるだけの、不器用な口付けを交わした。

「今夜、オレの部屋へ来るのは、ヤメにしねーか?」

 面と向かって話すには、あまりにも勇気が要る。目を閉じるヒマもなかったせいか、ぽかんとしたままの彼女を、とっさに抱き締めた。

「オレが明日、ヒナタの家に行く」
「どうして……」

 腕の中で、きつく胸に顔を押し付けられた彼女が、くぐもった声を出し、ナルトは耳元に口を寄せた。

「ミカンの花言葉だってばよ」

 ぴくりと肩を震わせるヒナタへ、「さっきのキスもそうだけど……オレってば、上手くヤレそうにねェ」と、打ち明け、お腹に力を入れる。

「だからって、乱暴に済ましたくねーんだ。ヤルならヤルで、きっちり覚悟を決めて、きちんとしたい」

 いい終えて、腰が砕けそうになった。

 口説き文句にもホドがある、もっとマシな言い回しがあるだろうと、冷たい汗が伝う背中に、思いがけず、彼女の両腕が回され、ナルトはハッとした。

「心臓が破れそうだよ、ナルトくん」

 返事のしようがなく、ああ、うん、と曖昧に相槌を打ち、口ごもる。

「キスをして、会うのは明日……しかも、ウチに来るなんて、いうんだもの」

 人影もない、静かな昼下がりだった。緩やかな風に熱くなった頬を撫でられ、さわさわと梢の揺れる、音を聞いた。

「私、また、勘違いしてないよね?」

 消え入りそうな声でもって、ヒナタがたずね、「してねーっ!」と、焦りにかられたナルトは、固く目を閉じ、思ったとおりをいい放った。

「純潔と花嫁の喜びっつー花言葉に、従うってばよ! キレイなまんまっ、オレんトコへ来い!! ミカンの木を贈られたからには、そーしろっ!」

 ひと息に告げ、ぱちりと目を見開いた次の瞬間、変に勢い付いてしまった。

 熱に浮かされたまま、彼女の腰と頭の後ろに手を回し、強く引き寄せると、長い髪をかき上げて、耳の後ろへ口付ける。

 ヒナタは抵抗しなかった。額から頬へと、次々に滑り落ちてゆく唇を受け入れ、彼女の肌もまた、熱さを増していく。

 何も聞こえず、何も考えられなかった。風が吹くたびに降り注ぐ、光と影だけが、過ぎゆく時を知らせるように、ちかちかと目に突き刺さる。

 いったんナルトが顔を離し、彼女の瞳をのぞき込むと、彼の背中にすがりつく手も、覚悟を伝えるように、ぎゅっとオレンジ色の、上着をつかんだ。

 首を傾け、今度はゆっくりと、互いに顔を近づける。目を閉じながら、二人は隙間なく唇を重ね合わせ、ゆらゆらと動いた。

 覚束ない足下から、砂利を踏む、かすかな音が聞こえ、衣擦れの音や、息切れにも似た、荒く細い呼吸音までも、耳の奥で入り交じる。

「ヒナタ、そろそろ……」

 長い時間、木陰の下にいながら、体温は上昇するいっぽうだった。

 どこかで歯止めをかけなければいけないと、ナルトが切り出し、ヒナタは上がった息を整えるように、「うん……そうだね」と、小さく答えた。

「……少しだけ、待ってくれる?」
「ん? ああっ、もちろん!」

 乱れた着物の衿や裾を直す、彼女の上気した顔が、どこか後ろめたい行為の後を、物語っている。

 改めて周囲を見回し、通りすがる人が誰もいなかったことに、ナルトは胸を撫で下ろした。

「家まで送ってく」

 身なりを整え、歩き出したヒナタに並び、ナルトがそう声をかけると、彼女は首を左右に振った。

「人が集まり始める時間だから……一緒にいるところをジロジロ見られるのも気まずいし、ここでいいよ」

「そっか……」と返事をし、頭の後ろで腕を組むと、ナルトは何でもないように、告げた。

「オレは、ジロジロ見られても、平気だってばよ」
「ナルトくん……」
「でも、まあ、ヒナタを困らせたくねーし。今日のトコは大人しく部屋で、ミカンの木でも世話してるってばよ」
「ゴメンね」
「謝んなって! ソレよか明日のコト、忘れてねーよな?」
「わ、忘れてない!」

 林を抜けたところで、二人は立ち止まり、向き合った。

「ミカンの木を届けるってのは、口実だからな。ホントの目的は、ヒナタの両親に会って、ケジメをつけるコトだってばよ」
「う、うん! 待ってる!」

 つかえながらも、必死に答えるヒナタの頭に手を置き、ナルトはぐしゃぐしゃと髪を触った。

「大丈夫。オレは火影になる男だからな! 日向一族だけじゃねェ。里のみんなの命を預かる覚悟ぐれー出来てる」

 大船に乗った気でいろ! と笑うナルトへ、彼女はうなずいてみせると、髪を撫でながら屋敷へ向かって駆け出し、すぐに又、振り返った。

「私を選んでくれて、ありがとう! きっと、ナルトくんにふさわしい、立派な妻になるから!」

 ヒナタが手を振って、あっというまに向こうの路地を曲がり、姿を消したあとも、ナルトはぼうっと、その場に立ち尽くしていた。

「オレにふさわしい、立派な妻……」

 繰り返して、だらしなく口元が緩む。そんな、にやつく顔を両手でパンと叩き、地面を蹴った。視界が開け、里の街並だけでなく、火影の顔が彫られた岩山も、一望できる。

 ナルトは建物の屋根伝いに里の中を飛び回り、父親である、四代目の顔岩に眺め入った。

「父ちゃん。女のコって、あったけーな」

 ぽつりとこぼし、気恥ずかしさに、頭がクラクラする。

 最後の一線こそ越えなかったが、夢中になって人目もはばからず、ヒナタに触れたのだ。

(オレってば、そーいうコトに一生、縁がねーんじゃねえかなって、思ってたんだ)

 死んだ恋人が忘れられない綱手に寄り添い、見守り続けた師匠の自来也と同じく、サスケを想うサクラのそばで、ナルトは笑っていたかった。

 だからこそ、抑えねばならぬ衝動があり、諦めざるを得ない感情もあった。

(でも、ヒナタと一緒にいて、気付かされた。アイツの、オレを見る目は、いつだってあったけーんだ。オレもまた、守られてるんだって、心から安心できるんだ)

 その証拠に、たったひと言、好きだと告げただけで、彼女は何もかも、受け入れてみせた。

(母ちゃんが好きになった、父ちゃんなら、わかるだろ? オレを男にしてくれんのは、ヒナタだってばよ)

 電柱へ飛び移り、跳ねたのを最後に、自分の部屋へ帰り着いたナルトは、ドアに手を置き、振り返った。

(人柱力のオレを相手に、立派な妻になると、すぐさま返してくれる、アイツだからこそ、オレの一生のオンナにすると、決めたんだ)

 玄関先から、木ノ葉隠れを見守り続ける父の顔へ、笑顔となり、うなずいてみせると、ナルトはドアを開け、中に入った。

「アレ?」

 静まり返った部屋の様子をいぶかしく思って、室内を見回し、すぐに合点がいった。

「そーいや、徹夜の任務明けだったもんな」

 床に置かれたミカンの木のかたわらで、もう一人のナルトが、すやすやと寝息をたてている。

「ヒナタとの間で何があったか、なんも知らねーで……」

 わかったら寝てらんねーぞ、と苦笑いしながら、印を結んだ。

『ヤダーッ、ナルト! アンタ、ホントに西の端にある、ミカン畑まで行ったんだ! スッゴイ遠かったでしょ?!』

 影分身の術を解いた途端、頭の中で、いのの声が鳴り響いた。

『オレの足なら、大したコトねーってばよ!』
『いうじゃないの、ナルト。それにしても、立派なミカンねー』
『へへっ、ヒナタが選んだんだ』
『で? ヒナタはどうしたの?』
『アイツは急いで、屋敷へ戻んなきゃなんねーから。とりあえず、この木だけ、預かってきた!』

 ミカンの木を持ち帰る途中、再び山中花の前を通りかかり、いのと会話した分身の記憶だった。

『ふうん……なんかさー、別人みたいね』
『ソレってば、オレのコトいってんのか?』
『ヒナタが喜ぶプレゼントなら、何でも買ってあげようとするなんてねェ。サクラとデートしたあと、全部おごらされて財布がスッカラカンだってばよォって、いっつもピーピー泣き言ばっかいってたのがウソみたい』
『サクラちゃんとヒナタじゃ、違うだろ』
『アンタの態度をいってるんでしょーが。よくヒナタと並んで歩いてんのを見かけるけど、彼女の前だと、ナルトは物静かよね。しゃべり方まで、なーんか、大人びてるしさー。実際、大人達が行くような、ずいぶんとお高い料亭へ、ヒナタを連れてってるそうじゃない』
『しょっちゅうじゃねーよ。任務金が入った時、ちょっと贅沢するぐれーで……つーかっ、何でそんなコト、いのが知ってんだよ!』
『アンタは何かと目立つのよ。女のコ連れ歩いてたら、なおさらじゃない。それよかさあ、相手が日向のお姫様だからと、無理して背伸びなんかしない方がいいわよ』
『そんなの……』

 わかってるってばよ、と鼻息荒く返し、『ちょっと、ナルト! アンタ、なに怒ってんのよ!』と叫ぶいのの声を背に、分身は山中花から逃げ帰って来た。

「ガキだよなァ」

 ぼそりとつぶやき、床へ腰を下ろすと、あぐらをかいて、深いため息を吐く。

「背伸びしてるとかいわれて、ふて寝かよ」

 そういった目で周囲から見られること自体、心外ではあった。しかし、ヒナタと付き合うことで、家柄や血筋といった、くくり方が、重要視されるというのであれば、千手一族と遠縁である、うずまき一族出身の母と、四代目火影である、父との間に生まれた自分は、決して彼女に負けていないと、断言もする。

「でも、そーいうのじゃ、ねえんだよな……忍としての、才能とか、力でもねェ」

 ぼんやりと考えながら、床に両手を突き、いかにも美味しそうなミカンが、視界に入った。

 一個もらうってばよ、と心の中で唱え、手刀を切ったナルトは、色濃い実を選んで、木からもぎ取った。そして、皮をむき、二つに割っただけの中身をひとつ、ぽいと口へ放り込む。

(うっめーな!)

 むしゃむしゃと数回噛んだだけで呑み込んでしまう、大雑把な味わい方であっても、十分に甘いとわかる、ミカンだった。

 ナルトは残りも口へ含み、あっという間に食べ終えてしまうと、手の平に残った皮を、しみじみと眺めた。

(確かに、オレっぽい……かもな)

 叶うことのない初恋をひきずったまま、ヒナタに惹かれてしまった自分は、どこか間が抜けていて、別の意味で甘いといえば、甘いのかもしれない。

 ヒナタを相手に背伸びをする理由も、これ以上ないほど、単純だった。

「結局は……カッコ良く見られてーダケだってばよ」

 手の平に乗る、ミカンの皮に顔を近付け、のぞき込む。

「ずっと、オレを追い続けてんだ。こたえてやんなきゃ……」

 男じゃねーだろ、とつぶやき、甘いだけでない、酸っぱい香りが、ツンとナルトの鼻の奥を突いた。