A SPOOKY GHOST 第四十八話 明けない夜の迷子

 小学生の時は篤志の家に年中入り浸っていたが、それをのぞけば、友人の家に上がり、食事をご馳走になるなど初めてのことだった。
 緊張のあまり背中を丸め、黙ったままの奈緒を、ハルイチは気にする素振りも見せず、手際良く鍋の用意をする。テーブルの上にコンロをセットし、鍋を載せると、良い香りのする透明な液体を注ぎ入れた。
 さほど時を置かずして、白い蒸気が噴き出し始め、大雑把に切り分けられた野菜や、凍ったままの肉団子が、豪快に鍋の中へと入れられた。
「後は煮えるのを待つだけ」
 悪戯っぽく笑い、鍋のフタを閉じる彼の前で、思わず奈緒は喉を鳴らした。
 ジムワークはおろか、朝のロードワークさえしていないが、昼間に吐いたせいだろう。匂いに刺激され、空っぽの胃が盛大に食べ物を寄越せと騒ぎ出す。
(……恥ずかしい)
 ますます体を縮こませ、それでも、じっと鍋に見入る彼女へ、「ちょっと体重を量ってくる」とハルイチはいい残し、席を外した。
 ――タイトルマッチまで、あと六日なんだぞ。
 居間を出て行く彼の後ろ姿を見送り、背負われて神社から車へ向かう途中、一緒にいたスーツ姿のさほど年も違わないと思われる男性が、そうハルイチを諭(さと)していたのを、唐突に思い出した。
(試合を前にした、最終調整……)
 疲労を抜き、体調を万全にしなくてはならないが、階級をクリアした状態で動き、体に馴染ませることも必要な、過ごし方の難しい時期でもある。
(あっという間に、あたしにもその時が来る)
 こぽこぽと鍋のフタが小刻みに揺れ、奈緒はコンロの火を弱めた。
 テーブルを離れ、窓をわずかに開けると、春らしい夜気を含んだ風がすうっと入り込んできて、湿気や匂いが籠もる、部屋の温度を下げてゆく。
 夜空に浮かぶ、ぼんやりとしたオレンジ色の月を見上げ、次いで壁にかけられた、白地に黒の数字が並ぶ、シンプルな時計に視線をやった。
 針は八時二十八分を差していた。親戚も帰ってしまい、家では両親と妹の千登勢が、途中で勝手にいなくなってしまった奈緒に呆れ果てていることだろう。
(あそこには、二度と戻らない)
 どうせ家族と会っても、話がかみ合わず、疲れ果てるのがオチだ。
(これで、良かったんだ)
 嫌々ながら顔を出し、予想通り酷い結果に終わったが、もうあの家に未練は無かった。
(あたしは前へ、進むだけ)
 窓枠に手を添え、月を眺めながら、ドアの開く音を聞いた。奈緒は振り返り、ハルイチの姿を認めるとテーブルへ戻り、彼と向かい合って座った。
「お、良さそうな感じ」
 浮かない顔をしたハルイチだったが、鍋のフタを開け、わざとらしく明るい声を出した。
「葉っぱがもう煮えてんよ。奈緒、どんどん喰え」
 奈緒の前に置かれた小皿をポン酢醤油で満たし、そこに彼は遠慮無く野菜を取り分けた。美しい青色をした水菜で、すっかり火も通り、しんなりとしている。
「こんなにポン酢を入れたら、味が濃くて、ご飯が欲しくならない?」
「喰ってりゃ、すぐに薄まるよ。塩分だの糖分だの気にしたところで、食べ終わったら体重が八百グラム増えるだけだし」
 ハルイチにしては珍しく、投げやりな口調だった。
 試合前に、何度も繰り返される食事なのだろう。食べ終える度、体重計に乗るため、どれだけ嵩(かさ)が増すか、彼も覚えてしまっているらしい。
 奈緒は話すのを止め、小皿の水菜を箸でつまんだ。口に入れると昆布の香りがして、しょっぱいが、とても美味しい。
 レンコンや大根、にんじん、ゴボウといった根菜が大部分を占める、あまり見かけない鍋料理だったが、よく噛まないと呑み込めないため、食べるのに時間が掛かり、少ない量で空腹も満たされる。
(なるほどね……)
 感心しながら鶏肉で出来た団子を口に含み、最低限の脂肪分も摂れる、柔らかな食感に舌も満足した。
「……オレ、水分を削んなきゃなんねえかも」
 あらかた食べ終わり、一息ついた頃、いつになく切羽詰まった、ハルイチの声を聞いた。
「さっき、風呂場で体重計に乗ったら、体脂肪率九パーセント、リミット二千百オーバーだった」
 奈緒は素早く頭の中で計算をし、「ちょっと、キツイね」と、冷淡に答えた。
 ハルイチも分かっているのか、大きく首を縦に振る。このまま減量を続け、ライトフライのウエイトである、四十八・九七キロに合わせるのだとしたら、体脂肪率が六パーセントを切ってしまう。
「脂肪を減らして体を軽くすんのは、大事なコトなんだけど……」
「うん」
 奈緒は彼の言葉に、深くうなずいてみせた。低すぎる体脂肪率は生命を脅かす危険があり、並大抵の努力では、なかなかそこまで体重も落とせない。
「まあ、家庭用のヘルスメーターじゃ、正確な数字は見れないからさ。明日ジムへ行って、きちんと秤に乗るよ」
 そういって微笑むハルイチだったが、表情は硬かった。恐らく昨日もジムでウエイトを量り、似たような数字が出ていたのかもしれない。
「水分を抜くのは最後の手段だ。でも……」と彼はつぶやき、そのまま床で大の字になると、天井を見上げた。
 減量には様々な形があり、脂肪を減らすだけでは足りず、絶食して水分を絶つ、無理な方法を採るボクサーも実は少なくない。しかし会長の中倉は、体力を極端に消耗する減量をする位なら、階級を上げた方が良いと考える人物だ。
「どうせなら、二階級制覇とか、格好イイ形で階級を上げようって高口さんとも約束してんだ」
 奈緒は立ち上がり、ハルイチを見下ろしながら、テーブルの上を片付け始めた。
「もう体重が落とせないとハッキリしたら……やるしかねえよな」
 悲壮感漂う彼の決心になど、構っていられない。体の不調は思ったほど深刻ではなく、回復も早かった。
「ハルイチ。お風呂、入ってきなよ」
 ここはやっとくから、と素っ気なく声をかけ、食器を流しへ運んだ。さっさと寝て明日の朝一番の電車に乗り、戻ったら、ただちに世界戦へ向けた練習スケジュールを立てなくてはならない。
「そうだな。落ち込んだって仕方ねえし!」
 一転して元気に振る舞う彼と目を合わせることなく、奈緒は黙々とキッチンで食器や鍋を洗い始める。
 ハルイチも一旦、引き戸を隔てて居間と続いている自分の部屋へ引っ込み、すぐまた現れると、浴室へ姿を消した。
 その間にも洗い物を片付け、テーブルも綺麗にした奈緒は、居間を出た。ハルイチの母が使っていたという部屋へ行き、壁際にある白いデスクに置かれていたままの、チャンピオンベルトを手にすると、何と無しに周囲を見回した。
 薄い花柄のカバーが掛けられた布団と枕が載る白いパイプベッドや、さっきハルイチと並んで映った大きい姿見、小さな木製のローテーブル、そしてベルトが置かれていたデスクなど、一通りの家具が揃っている。
 姿見の横には脱ぎ捨てられたままと思われる衣類の入ったランドリーバスケットがあり、ローテーブルの上にも数冊の女性誌や化粧品、コットンが詰まった開封済みの箱などが無造作に並んでいた。もちろんデスク上にもノートや便せん、ペンなどの文具が、申し訳程度に整理され、積み重なっている。
(あたしなら全部片付けて、こんな広い部屋、さっさと引き払うのに)
 同情のかけらも無い、冷めた考えしか浮かばず、足音がしたのを機に、彼女は部屋を後にした。
「おっ、奈緒」
 廊下でバスタオルを頭の上から被り、両手で押さえながら、ハルイチは呑気に振り返った。
「わりい。あっちの部屋に置きっぱなしだったな」と、奈緒が持つベルトに目を留めて済まなそうにいうと、奥のドアを開け、彼女を先に通した。
「謝んなくて、いい」
 すれ違いざま無愛想に告げて居間へ入り、自分のバックを見つけた奈緒は、床に両膝を突き、ファスナーを開けた。
「それ、家の人に見せたのか?」
 後ろから付いて来たハルイチが、ベルトをしまう彼女の手元を、眩しそうに上からのぞき込む。
 奈緒は少しだけ顔を傾けて彼を横目に見上げたが、何も返事をしないままバッグを閉じた。
「……どうやら、歓迎されなかったみたいだな」
 横で胡座(あぐら)を掻き、髪の毛をがしがしとタオルで拭きながら、ハルイチは勝手に喋り続けた。
「何か、あったんだろ。ボクシングをやることを、やっぱ反対されたのか?」
「別に……家族と仲が悪いのは、昔からだから」と答え、奈緒は足を崩すと、ハルイチへ向き直った。
「でも、すっげえ変だった。キャンプ場の神社でお前を見つけた時、オレ……」
 口をつぐみ、彼は頭に被っていたバスタオルを脇へ避けた。短く刈り上げた頭の、少し長めに残した上の髪だけが、たわしのように逆立っている。
(ハルイチは何でこう、高校の頃と変わんないんだろ)
 厳しいトレーニングの結果、彼の目はくぼみ、ふっくらとした丸顔も頬が痩け、険しい顔つきとなっていた。ところが、吊り上がった一重のまぶたからのぞく、奈緒に向ける眼差しは、通り一遍ではない優しさに満ちている。
 奈緒はため息を吐き、「親戚が大勢、家に集まって、あたしのお祝いをしてくれたの」と、ぞんざいにいい放った。
「そこで気に障ることをいわれて、勝手に腹を立てた挙げ句、気分が悪くなっただけ。人目に付く場所で倒れたら大騒ぎになるから、あの神社まで歩いて行って、恐らく一番近い場所にいるだろう知り合いの中から、やむなくハルイチを選んで電話をした」
 それだけ、と突き放すように話を打ち切り、無意識のうちに、奈緒は着ている浴衣の、合わせた衿の胸元をぎゅっと握り締めた。
「お前、よくそんな風になるのか? 気持ち悪くなったり、倒れたり……普通でない状態になることがさ」
 タイトルマッチを控え、ハルイチこそ普通の状態ではないはずだ。それでもなお、他人の心配をするのかと奈緒は苛立ち、顔が熱くなった。
「ハルイチには関係ない」
 うつむき、出した声が、わずかに上擦った。「あたし、もう寝る」と、そのまま立ち上がろうとして、彼に腕をつかまれた。
「ムカつくな。喧嘩売ってんのか?」
「放してよ」と、ハルイチの鋭い視線を、負けじと奈緒は撥ね返す。
「お前さ、コッチが真面目に訊いてんのに、その態度は何だよ。人として最低だぞ!」
 いいから放して、と彼の手を振り解こうとしたが、いっそう腕をつかむ指先に力を込められ、顔を歪めた。
「ハルイチ、お願い!」と声を荒げ、堪らず口を滑らせた。
「もう、これ以上、あたしを惨めにしないで」